カメラ写真よりもリアルな絵を目指したセザンヌの挑戦―脳科学を先取りした画家たち


セザンヌは果物をあまりにリアルに描いたので、それが食べられるという意味などは消え失せ、なんとも物的でリアルになり、頑固に存在を主張し、けっして消し去ることのできないものになっている。(p177)

れは、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちという本で紹介されている詩人ライナー・マリア・リルケの言葉です。

この賞賛の言葉を読んだとき、画家ポール・セザンヌの絵を見たことのある人は首をかしげるかもしれません。なぜなら、ポール・セザンヌの絵というのは、わたしたち一般の感覚からすれば「リアル」とは程遠い絵だからです。写実ではなく、どちらかという大ざっぱに見えがちです。

それなのに、彼の絵がリアル、ことにタイトルに書いたように「写真よりもリアル」だとは、いったいどういうわけでしょうか。この問いには、科学技術としてのカメラが登場した時代に生きた画家たちの歴史が深く関係しています。

「印象派」また「ポスト印象派」と呼ばれるそれらの画家たちの物語は、わたしたちに、絵画において本当のリアルさとは何かという気づきを与えてくれます。さらに、芸術家とは科学者でもあるのだ、ということを教えてくれます。その興味深い物語をご紹介しましょう。

【じっくり絵心教室】リンゴ

本当にリアルな絵とは何か

「リアルな絵」。

わたしたちは「リアルな絵」といえば、写真のような写実画のことだと考えがちです。しかし、この言葉が意味する絵のスタイルは、実は時代ごとにいろいろ変化しています。

まず、人類最初の絵として知られる洞窟画から、ルネサンス前までの長きにわたって、リアルな絵とは、心象イメージを描いた絵でした。当時は正確な模写に必要な遠近法・透視図法などがまだ確立されておらず、画家たちは、自分の頭の中にあるイメージを基準に絵を描いていました。

たとえばラスコー洞窟の壁画の動物は、とても生き生きとした躍動感がありますが、実在の動物を正確に模写したものではありません。しかし普段見ている動物たちのイメージに忠実に描かれたため、それを見る人たちは、自分の記憶に照らして、リアルな迫力を感じたことでしょう。

しかしルネサンス以降は、レオナルド・ダ・ヴィンチらの登場、そして絵画技術の進歩により、写実的な絵画が流行します。線に頼らず、見たまま、ありのままの映像を描き、生き生きとした遠近感や立体感を伴った写実的な絵は、たちまち「リアルな絵」の代名詞になりました。画家たちにとって、正確な写実こそが自分の腕の見せ所となったのです。

カメラの登場による激動

ところが、写実画の黄金時代は、科学の進歩がもたらした衝撃的な出来事によって激動することになります。

ほかならぬカメラ写真の登場です。

皮肉なことに、写真の感光板を開発したのは、商業画家のルイ・ダゲールでした。それを見たイギリスの国民画家ジョゼフ・ターナーは、こう語ったと言われています。

早く生まれて良かった。これで絵画の時代も終わりだ。(p149)

当時、科学者たちは、眼はカメラと同じ原理で世界を見ている、と考えていました。つまり、カメラの写真こそは、わたしたちの見ているものを極めて正確に映しだした「リアル」な表現だと見なしたのです。

ルネサンス以降、着実に進歩してきた絵画の歴史は、ここに来て突然進路を失ったかのようでした。それはあたかも未踏の山頂を目指して一歩一歩登ってきた登山隊の目の前を、新参者が瞬く間に駆け抜けて、山頂を制覇してしまったようなものでした。

印象派たちの台頭

しかし、画家たちはみな、ターナーのように絵画の将来を悲観したわけではありませんでした。詩人シャルル・ボードレールや画家のエドゥワール・マネは、写真は実際にはリアルではないと考えました。現実は静止画像ではなく、もっとうつろいやすいものから成り立っていると考えたのです。

こうした考えをもった画家たちは、身の回りのものを写実するのではなく、変化しうつろう様子を捉えて描こうとし始めました。「印象派」の台頭です。

印象派の先陣を切って登場したのは、かの有名なクロード・モネです。モネは、外光派として、戸外で絵を描き、光の微妙な変化の印象を絵に描くことを追求しました。カメラが捉える断片的な情景ではなく、移り変わる光の変化を絵に表現したのです。(p151)

印象派たちの、薄い塗り重ねによる技法や、光の柔らかな表現は、確かにカメラが決して描けないものでした。印象派の絵はすぐに受け入れられたわけではありませんが、やがて、写実よりも感情に訴えるリアルさがあるという一定の評価を得るようになってきます。

▼クロード・モネの絵 (クリックで画像検索)

claude monet

ポスト印象派の画家セザンヌ

今回の主役であるポール・セザンヌは、そのような激動の時代に活躍した、意欲的な画家の一人でした。

セザンヌは、初期のころは空想で描く構想画、今で言うオリジナル絵のようなものを描いていたロマン主義の画家でした。その後、印象派に傾倒し、特にカミーユ・ピサロの絵を模写して、印象派の技巧を学びました。

しかし、印象派の技巧は、彼にとって満足のいく表現方法ではありませんでした。セザンヌは、光の変化を描き出そうとする印象派とは決別し、独自の道を歩み始めます。

後にセザンヌの絵の描き方を間近で見た画家のエミール・ベルナールはこう述べたそうです。

彼のやり方は印象派とはまったく違っていた。…セザンヌは、見えたものをただ模倣するのではなく、それを解釈するのだった。(p156)

セザンヌは、印象派の絵には足りないものがあると感じていました。印象派の絵は、彼にとって本当の「リアル」ではなかったのです。プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちの著者、ジョナ・レーラーはこう言います。

セザンヌは、印象だけでは不十分であり、脳が印象を完成させるのだということを知っていたので、印象主義より抽象的でもあり写実的でもある様式を作り出した。(p164)

印象主義より抽象的で、かつ写実的。まるで哲学問答のような言葉です。抽象的であり、なおかつ同時に写実的であることなどできるのでしょうか。

脳が解釈して埋める絵

ここで実際にセザンヌの絵を見てみましょう。以下のリンクは、Google画像検索結果につながっているので、セザンヌの絵を鑑賞してみてください。

▼セザンヌのさまざまな絵 (クリックで画像検索)

セザンヌ

これらの絵を見ると、たいていの人は写実とは程遠いもののように感じられるでしょう。輪郭もはっきりしておらず、悪く言えば雑な印象を受けるかもしれません。

しかしセザンヌは、これらの絵を、30分くらいで手早く仕上げていたわけではありませんでした。ひたすら、そうです、ひたすら何時間もりんごを見つめつづけ、眼に映った像が崩壊するまで凝視して、筆遣いを慎重に決めて描いたのだそうです。(P153)

▼セザンヌの「青りんご」 (クリックで画像検索)

青りんご

その結果、彼の絵は崩れているように見えて、どこかリアリティを感じさせる不思議なものとなっています。

彼の絵は、崩壊はしていないものの、解釈を必要とする破断や亀裂だらけで、ぎりぎりの存在状況にある。そのような絶妙なバランスを保つ仕業は容易ではない。(p164)

と書かれているとおりです。

セザンヌは、ある狙いをもって、このような崩れているように見える絵を描いたようです。ジョナ・レーラーはこう述べます。

彼は見ることの原理を明らかにするために、絵描きの慣例を破った。いくつか細部を描かずにおいたのは、私たちがそれを埋めるのだということを示すためだった。(p169)

セザンヌは、写真のように細部まで正確に描写した絵がリアルだとは思いませんでした。むしろそのような絵を描いたドミニク・アングルを批判しました。セザンヌはやがて「ポスト印象派」と呼ばれるようになり、ピカソのキュビズムなどに影響を与えました。(p169)

セザンヌにとって、リアルな絵とは、見る人の想像力をかきたてる絵でした。何もかも描写しつくして押し付ける写実ではなく、あえて想像力をかきたてる絵、見る人に解釈の余地を提供する絵こそ迫真のリアルさを感じさせる、と考えていたのです。

空白を残す「ノンフィニート」

彼が晩年取り入れたテクニックに「ノンフィニート」というものがあります。これは以下の絵のように、あえてキャンバスに空白を残す画法でした。(p170)

▼「レ・ローヴから見たサント=ヴィクトール山」(クリックで外部リンク先に飛びます)

Montagne Sainte-Victoire (1904-05)

当時としては、これは非常に掟破りな手法でした。何も描かない場所を残すなど、考えられなかったのです。しかしセザンヌは、見る人が残りの部分を想像で埋める余地を提供するために、あえて空白を残したのでした。

こうした技法は、写実画が主流だった西洋では掟破りだったかもしれません。しかし日本に生きるわたしたちは、それが古くから存在した馴染みある方法であることをよく知っています。

日本画では余白、つまり「間」が大きな意味を持っていますし、書道などの芸術も、筆を走らせた場所と何も描かない空白とのバランスがものを言います。いわゆるネガティブスペースもまた表現の一部です。日本画に見られるリアリティは、セザンヌの技法と相通ずるものがあるのではないでしょうか。

またセザンヌの絵は絵筆の跡を大切にしていて、構築的筆触と呼ばれる厚みのある線を重ねた表現が見られます。以前の記事で取り上げたように、線は、視覚が最初に捉えるもので、日本画でも線が大きな役割を果たしているというのは興味深いところです。

▼日本画における「間」(外部リンク)

日本画における空間的な「間(ま)」としての余白の存在とその背景|京都造形芸術大学 通信教育部 サイバーキャンパス はてなブックマーク - |京都造形芸術大学 通信教育部 サイバーキャンパス

▼セザンヌの「構築的筆触」 (外部リンク)

世界を創る構築的筆触 《プロヴァンスの風景》 | セザンヌ展 | ポーラ美術館 はてなブックマーク - 世界を創る構築的筆触 《プロヴァンスの風景》 | セザンヌ展 | ポーラ美術館

脳科学を先取りしていた

このようにして、独特の仕方でリアリティを追求したセザンヌですが、彼のとった手法は、脳科学的に大きな意味のある技法だったことが、後になって明らかにされたそうです。

すでに述べたように、セザンヌが生きた当時、科学者たちは、人間の眼とは、つまりカメラと同じ原理で働いていて、風景を写実していると思われていました。

しかし脳や眼の機能について研究が進むにつれ、じつは、わたしたちの視覚は、カメラよりもセザンヌの絵に近いことがわかったのです。

脳神経科医オリヴァー・サックスの著書妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)には、視覚は正常なのに、脳に障害がある、ある男性の話が登場します。彼は、しっかり眼は見えていたのに、妻の頭と帽子を見間違えてつかんでしまうような人でした。(P162)

彼の眼は、カメラのような正確な写実的表現をとらえていたわけではありませんでした。むしろ彼の見ている世界について尋ねると、それはセザンヌの絵のような、どこか崩れた形や光の線で構成されていることがわかったそうです。

どうやら、人間の眼は、脳と協力してはじめて、周囲の世界の映像が見えるらしいのです。眼はカメラとは違って、セザンヌの絵のようなおおまかな形や線の向きを捉えます。それに対し脳は、これまでの経験に基づき、眼から送られてきた映像を処理し、補正します。そうやって初めて「リアルな」映像が見えます。

わたしたちの見ている映像が補正されたものだ、というのは信じられないかもしれません。しかし、たとえば眼には本来「盲点」という見えない場所があるはずです。ところがわたしたちは盲点が存在することに気づきません。脳が視覚映像を補正し、つぎはぎや欠落のないものに処理しなおしているからです。(P174)

もしこの脳の補正機能が働かなければどうなるのでしょうか。それこそが、「妻を帽子と間違えた男」の見ている世界なのだと考えられています。

セザンヌの絵は、眼という器官が本当に捉えているもの、まだ脳の補正や処理が入っていない段階の映像に近いとされています。彼はいみじくもこう述べたそうです

絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない。

セザンヌの絵を見る人は、未処理の映像を前にして、必ず脳を働かせ、解釈を与えます。高精細な絵という画家の映像の一方的な押し付けではなく、見る人の想像力をかきたてて、画家と見る人との共同作業で絵を完成させることこそがセザンヌの狙いでした。

どの表現もある意味ではリアル

写真の登場によって興ったクロード・モネら印象派の画家たち、そしてポール・セザンヌらポスト印象派の画家たちの挑戦をひもとくとき、わたしたちは、絵におけるリアルさとは何か、という疑問が、とても奥深く難解なものであることに気づきます。

写実画が登場する前のルネサンス以前の絵画は、視覚心象を描くという意味で、わたしたちの記憶に対してリアルでした。

ルネサンス以降の写実画は、わたしたちの脳が普段構築している風景の奥行きや立体感に忠実なので、日常に溶け込むわかりやすいリアルさを表現していました。カメラ写真もまたそうでした。

モネら印象派が追求した光の移ろいの表現は、時間と空間の中で生きているわたしたちの情動に対してリアルであり、心を揺さぶる力がありました。

そしてセザンヌの手法は、眼のつくりと脳の視覚プロセスに対してリアルでした。彼らの絵を見る人は、ただ見るだけでなく、いわば絵を描くことに参加し、自分の想像力を働かせて映像を補正するので、はじめに引用した詩人ライナー・マリア・リルケのように、他にはないリアルさを感じるのです。

ここでは少し難しい表現を使ってきましたが、こうしたプロセスは、わたしたちが日常的に経験していることでもあります。映画のハリー・ポッターを見たときより、以前に小説のハリー・ポッターを読んだときのほうが、リアリティを感じたと記憶している人は少なくないかもしれません。昨今の高精細なムービーを多用するゲームより、昔のドット絵のゲームのほうがリアルに感じた人もいるでしょう。

わたしたちの見ている世界というのは、眼と脳の共同作業によって、はじめてリアルさを伴います。何もかも描写した映像がリアルとは限らず、むしろ脳を使って想像する余地のある映像、最小限の情報だけを与えて想像力のスイッチを入れてくれるものこそが、よりリアルに感じられることがあるのです。

線と余白で構成され、色彩が抑えられた日本画の多くが、多くの人の心に訴えかける力を秘めているのも、この種のリアルさを生み出すからだといえそうです。「リアル」にはさまざまな意味が含まれ、画家によってさまざまな表現があり、見る人にもさまざな受け止め方があり、そのどれもが、ある意味ではリアルなのです。

今回紹介したプルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちという本は、芸術を科学に照らして分析したとてもおもしろい本なのでおすすめです。

科学技術によるカメラの登場と、印象派・ポスト印象派の画家たちの表現の相乗効果を考えるとき、芸術家は科学者であり、科学者は芸術家でもある、ということがよくわかります。最後に著者の含蓄に富む次の言葉を引用して終わりたいと思います。

科学は芸術のレンズを通して理解され、芸術は科学の光に照らして解釈される。実験と詩が互いを補い合う。、心は両者を合わせた全体として作られているのだから。(P12)

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