◆登場人物紹介 
アドミラム・ポロット:不思議な外国人毒物学者で世界の名探偵。
明石 進:ポロットの助手で保護者のような存在。『私』。

        

◆物語中の人物
アマルテア:偉大なる傭兵。
ヴァランゲ:皆に愛される公爵。
マグダリーニ:その下女で親代わりのような存在。
ジェルラール:ヴァランゲの弟。
デコリー:父公爵時代の家臣。

 

私は、この蒸し返すような暑い空気に、もううんざりしていた。

別に蒸しパンを作るわけでもないのに、どこに居ても暑い、この空気に。

冷房をつけるにも、友人で、偉大なる名探偵と自惚れているポロット氏は、

「寒い!ここを北極にする気かい!」

などと叫んで、すぐスイッチを切ってしまう。

「そんな立派な口髭をつける前に、セーターでも着たらどうだい。」

と、私は皮肉を言いかけたが、すんでの所で止めてしまった。多分彼は、私に向かってこう言うからだ。「そんなことより、自分の着ている上着を脱いだらどうです!あなた」

 この、名古屋の一区画にある探偵事務所は、いま、ポロット氏の配下にあった。私のことなど、これっぽっちも考えず、コップや、その他の食器類は、左右非対称な形に割って、地下の実験室のガスバーナーで加工するし、装飾は、全て、いずこかの民族のものか、とも思われる奇妙なしろものだ。まして、それが左右非対称なところが、更に気味悪い。

 今も彼は、継ぎはぎだらけの、一体何枚の布を使ったかさえ分からない、カーテンを、ひくところだった。外は、紫の闇が広がり、いつのまにか、黄色の電灯が空にともっている。  

カーテンのそばから戻ってきて、コーヒーを飲み始めたポロット氏に、私はこう提案した。私としては、この上なく良い提案だと、感じた。

「どうです、ポロット。今度の休日に、海にでも、泳ぎに行きませんか?」

だが、背もたれの半分無い椅子に、背筋をピンと伸ばして座っている珍妙な小男は、

「ノンノン、誰がそんな所に……!!なぜ、そんなことを思い立ったのです!?」

「なぜって、暑いからですよ…。それに、たまには、気晴らしも良いでしょうし。そう思いませんか?ポロット。だってこの頃、私達が見ているものといったら、死体ばっかりじゃないですか。アトロピンで毒殺された、瞳孔を見開いた死体や、青酸カリで血を吐いて倒れた死体。どれもこれも、気持ち悪いったらありゃしない!」

「まあまあ、あなた。気を静めて……私は、海に、行きたくないんですよ。」

ポロット氏は、両手を、私を宥めるように、前後に軽く動かした。

「でも、あなたは、海の水は、『どんなに左右対称な物でも、左右非対称に見せる』と言って賞賛していたじゃありませんか?」

私は、少々口を尖らして、拗ねた子供のような声で、言った。

「いえ、しかし、海は危険なんですよ、あなた」

(「まさか!子供じゃあるまいし!」……私は、小声で言ったが、ポロット氏の地獄耳には、十分聞こえた様だった)

「しかし、海の水は危険なんですよ!!」

彼は、私を、下から見上げて、手を振り上げて、壮大なジェスチャーをしながら言った。

(海の水より、あなたのジェスチャーの方が危なっかしいですよ。私は、この前、それで殴られましたからね!)

 私は、ため息をついて、しばらく奇妙な友人の顔を見つめた。この顔を見て笑わなくなったのは、つい最近のことだ。卵型の頭に、少々はげてきた額、灰色のヘイゼルアイの下には、西洋人にしては低い鼻が有り、そのまた下には、右側がピンと跳ね上がり、左側が垂れている、『左右非対称』の髭…………途端ひらめいた。

「あ!なるほど、その髭の形が崩れるんで、海には行きたくないんですね。蝋で固めているから、水にぬらすと、しなだれるんでしょ、その口髭が」

我ながら、この答えには感服した。

我が輩も、きゃつに負けず劣らず、名探偵であることよ。

しかし、ポロット氏は、

「まあ、それも有りますが……他にも理由があるんです。これから、私が、話をしてあげましょう。どうやらあなたは、物分かりが悪いようなので。これを聞けば、あなたも、水が怖くなりますよ」

また、『ポロット氏の毒物学講座』が始まるのかとも思ったが、そうでもないようだった。ポロット氏は、自慢の口髭をひねり、目を瞑って、話し出した。