人類最古の画家が絵を描いた動機は「人に見せるため」ではなかった


なたは絵を描いて、人に見せるのは好きですか? 絵を描くだけでなく、友だちに見せたり、サイトやSNSで公開したり、果ては仕事として売り込んだりするのが、大きなウェイトを占めているでしょうか。

いずれにしても、絵を描くだけで、だれにも見せない、という人はごくわずかではないかと思います。せっかく描いた以上は、一人でも多くの人に絵を見てもらいたいと思って、いろいろなところで絵を公開しているアグレッシブな人も多いでしょう。

ところが、不思議なことに、人類最古の絵と言われている洞窟絵画は、人に見せるために描かれたのではなかった、というのです。

洞窟画は見にくい場所に描かれた

ヒトはなぜ絵を描くのかという本にはこんなことが書かれています。

洞窟画の描かれている場所が、たいへん奥まったところや、通り抜けるのも難しい細い隙間の真上、井戸のような深い穴の五メートルも下ったところといった、簡単にいえば行きにくい、描きにくいところであるのは何故だろうか。(p182)

ここで言われている洞窟画とは、フランスのラスコー洞窟の絵や、スペインのアルタミラ洞窟の絵など、いわゆる先史時代の絵、人類最古のものとされている絵のことです。

こうした絵の不思議なところは、入り口近くに描かれているのではない、ということです。

普通、わたしたちは、絵を飾るとき、リビングなどの見やすいところに掲げます。そして、照明がうまく当たるように工夫して、絵を目立たせます。

ところが人類最古の絵は、洞窟の奥まったところの、見るのも難しい場所に描かれています。夜どころか、昼間でさえ、何かの明かりがなければ真っ暗な場所にわざわざ描かれているというのです。

なぜこんな変な場所に、古代の人は絵を描いたのでしょうか。絵は描きたいけれど、人に見られたくない、と思うほどシャイだったのでしょうか。あるいは、絵は記憶の助けとして残したもので、人に消されにくい場所に描くのが大事だったのでしょうか。

洞窟画は、何も説明していません。この理由をめぐってさまざまな議論が行われていて、宗教的な意味合いで描かれたのだとか、なわばりを示すために描かれたのだとか、いろいろな説が展開されていますが、どれも妄想の域を出ていません。

ただひとつ言えるのは、人類最初期の画家にとって、絵は「見せること」ではなく、「描くこと」に意義があるものだった、ということです。

洞窟画を人類の絵の始まりというか、きわめて始まりに近い時期の絵であるとすると、あれを描いた先史時代の人は他者に見せようということではなく、洞窟の岩肌に、動物を「描く」ということそのものが大事であった。(p172)

絵は何のために描いているのか

こうした洞窟画の描かれ方を見て、現代の画家が感じるのは、絵を描く動機についてです。

わたしたちは、何を目的として絵を描いているでしょうか。

だれかに絵を見てもらいたい、評価されたいがために「見せること」を目的として描いているのでしょうか。

それとも、ただ描きたいがために、つまり描くことが楽しいという気持ちから「描くこと」を目的として描いているのでしょうか。

わたしたちは、だれでも最初は、「描くこと」を目的として描きはじめます。子どものとき、人に「見せること」は考えていません。

この本の対談で、造形作家のリー・ウーファンはこう述べています。

子どもは、初め、人に見せるためというのではなく、自分で楽しむというか、遊びといったようなことで絵を描き始める。その点では、子どもも先史時代の人たちも多分あまり変わりないと思うのです。(p168)

しかし、後にそうではなくなります。人間同士の交流を求めるようになり、絵をだれかに見てもらいたい、評価してもらいたいという欲求が生まれます。そうすると、矛盾が生じてきます。

すると矛盾するのですが、展覧会に出したい、美術館の壁にも掛けてもらいたい、人に認めてもらいたいと思いながらも、実際につくっているのは、人が見てもほとんどわからないような(笑)、自分の個人的な考えを表現したものになります。

それはかなり孤独な作業で、たとえその内容が普遍性を持っていても、あくまでも個人的なことであり、他者とのコミュニケーションを目的にしているわけではないのに、描いたものを人の前に晒すという、凄い矛盾が出てくる。(p169)

よく現代アートは理解できないなどと言われますが、それは、この矛盾が、表面に現れたものだと解釈できます。

つまり、自分の描きたいものを描いて、個人的な趣味嗜好を突き詰めているのに、人に評価してもらいたいという欲求もあるので、意味の分からない作品が美術館に飾られることになってしまうのです。

二兎を追う者は一兎をも得ず

個人の趣味を全開にした、わけの分からない作品を、周りの人がそれなりに評価してくれるのならいいのですが、中には、それが噛み合わなかった悲劇もあります。

たとえばリチャード・セラが、セントラルパークに大きな鉄板を立てたときに、市民はその鉄板を撤去してくれといった。

「これは鉄板ではなく芸術だ」「芸術かどうかは知らないが、日常空間を破壊している」「これは芸術である、生活に刺激を与えるものとして芸術は存在する」「そんな刺激は余計なお世話だ」という、どこまでいっても噛み合わない論議があったらしいが、そういう状況のまっただ中に我われはいる。(p178)

もちろん、理解されなくても、批判されても一向に意に介さない図太い神経の持ち主はそれでもいいのでしょう。しかし、この話を読むと、(わたしも含め)繊細な神経の作家にとっては、ある程度、絵を描く動機をはっきりさせておく必要があると思います。

つまり、「描くこと」を優先し、もし自分の趣味嗜好を散りばめた絵を描きたいのなら、多くの人に見てもらい、評価を期待することは二の次にしたほうがいいでしょう。

逆に、「見せること」を優先し、絵を売り込んで、多くの人の目に留まることを目的としているなら、自分の趣味は抑えて、人々が好むような絵を描くべきでしょう。

基本的に言って、二兎を追う者は一兎をも得ず、ということわざは真実なのです。自分の描きたい絵を自由に描いていながら、多くの人に見てもらってお金も稼げるというのは、そうそうありえないことなのです。それができる人はいわゆる天才と呼ばれる画家やイラストレーターでしょう。

「描くこと」を優先した人類最古の画家に学ぶ

わたしも、以前は、自分の描きたい絵を「描くこと」、そしてそれを評価してもらいたいと感じる「見せること」の両方を目的としていました。

むしろ、お絵かきSNSで「見せること」の楽しさを知ってしまったときは、「描くこと」よりも「見せること」が絵の第一目的となった時期もありました。

わたしの参加していたSNSでは、版権物の二次創作が人気だったので、自分の描きたかったオリジナル絵ではなく、点数稼ぎができる人気の高い版権絵を描くことに夢中になってしまったのでした。すると、フォロワーは1000人を超えましたが、絵を描く楽しさがなくなりました。

わたしは結局、SNSという何百人も見てくれる美術館に絵を飾ることをやめました。代わりに、自分のウェブサイト、つまりインターネットという洞窟の奥のほうに絵を飾ることにしました。

このサイトは、今でこそ、だいたい一日あたり100人くらいが訪問してくれていますが、当時は50人未満でした。今でも、文章を読んでくれる人は多いのですが、絵を見てくれる人はそんなに多くなく、SNSを使っていたころに比べると「見せること」は下火です。

それでは、多くの人に絵を見てもらえなくなって、絵を描く楽しみがなくなったかというと、そんなことはなく、むしろ、以前よりのびのびと絵を描けて楽しいのです。わたしは、絵は、自分のストレス解消であり、自己表現だと思っているので、「描くこと」を優先した環境で自由に描けることが、かえって心の平安につながりました。

人類最古の画家がどう思っていたかは知りませんが、少なくとも洞窟画に関しては、彼らは洞窟の奥まったところに描くだけで満足していたようです。見てくれたのは、少数の画家仲間だったのかもしれませんし、儀式の仲介者だったのかもしれません。

あるいは、神に見せるために描いたという説もありますが、いずれにしても多くの不特定多数の人に見てもらうことは大事ではなかったのです。もし個人の記憶の助けとして描いたのなら、自分で見るだけでもよかったでしょう。

もちろん、すでに述べたように、絵の楽しみ方は、人それぞれです。「見せること」が楽しい、あるいは仕事である人にとっては、「見せること」を意識した絵を描くことが必要でしょう。SNSや個展や美術館など、発表の場を意識して探し求めることも必要です。

しかし人類最古の絵からすると、目立つところに絵を飾らず、黙々と「描くこと」を追い求める、という生き方も、絵描きのありようの一つとして考えられる、ということなのです。

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