生まれつきモノクロしか見えない全色盲の人たちから学ぶ不思議な「色」の感覚世界

それまでは色であふれた世界に生きていたジョナサンは、色彩を失ったという事実だけは意識していて、今の世界が前よりも貧相で、グロテスクで、異常だと、ちょうど記憶喪失になった人がするように訴えるのだった。

自分の芸術も、食べ物も、妻でさえもが「モノトーン」に見えてしまう、と。(p26-27)

れは、脳神経科医オリヴァー・サックスの著書色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)に書かれている、ジョナサン・Iという画家の話です。

この画家のことは、サックスの別の著書火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中に、より詳しく書かれています。彼は、自動車事故の瞬間に起きた、おそらくは脳卒中の発作により、色を見分ける能力だけでなく、色をイメージしたり記憶したり、夢に見たりする能力まで失ってしまったのです。

自由自在にカラフルな色を使いこなしていた芸術家が、ある日突然、色がまったく見えないモノトーンの世界に放り込まれたショックを想像できるでしょうか。彼がモノトーンの世界を「グロテスク」とまで表現したことには、耐えがたいまでの苦痛が感じられます。

しかし、今回の記事で書きたいのは、全色盲の人が味わう苦痛についてではありません。この記事の趣旨は、「全色盲の人たちの豊かな感覚世界」から学ぶことです。

豊かな感覚世界だって? 何を言っているんだ? と思う人もいるでしょうか。色が見分けられない障害を負った人の世界を「豊か」だなんて表現するのは不謹慎だ、と腹を立てる人もいるかもしれません。

しかし、本当のところ、そうした見方には、何かの能力が欠けた人は「障害者」であって憐れむべきものである、という「健常者」視点の差別や偏見が表れているのかもしれません。わたしたちは本当にカラフルで豊かな世界に住んでいて、全色盲の人たちは本当に貧相なつまらない世界に住んでいるのでしょうか。

これからオリヴァー・サックスが色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)で綴る、生まれつきモノクロの世界に住む人たちの世界を覗いてみることにしましょう。

【じっくり絵心教室】古城

生まれつき色が見えない人たち

冒頭で紹介した画家ジョナサン・Iは、事故によって、後天的に色が見えなくなり、モノクロの世界に放り込まれた人でした。

しかし色が見えない全色盲の人たちの多くは、生まれつき色が見えない先天性全色盲を抱える人たちです。

後天的に全色盲になった人と、生まれつき全色盲の人たちは、どちらも同じモノクロの世界に住んでいますが、感じ方は大きく異なっているようです。

画家ジョナサン・Iの話を読んだ生まれつき全色盲のフランシス・フッターマンは、自分の感じ方が大きく異なっていることをサックスに書き送りました。

彼女自身はまったく色彩を知らないものの、何かを失ったという意識はなく、自分に色彩的欠陥があるとも思わないということだった。(p31)

全色盲ゆえの苦労はたくさんあるものの、彼女は、自分の視覚世界が、グロテスクだとか、貧相だとか思ってはいなかったのです。

やはり生まれつき全色盲である、ノルウェーの科学者クヌート・ノルドビーも、サックスに自分の感じ方についてこう説明しました。

「君たちは単に灰色と呼ぶけれど、僕にとっては『灰色』という言葉は何の意味も持たないんだ。

『青』や『赤』という言葉が意味をなさないのと同じだよ。

しかし、僕は自分の世界が無色彩だとは思わないし、もちろん不完全だなんて思っていない」(p38)

彼もまた、自分の視覚世界に何かが欠けているとか、不完全だとかは感じなかったのです。

ある意味で、これはアンカリング効果の一種といえます。アンカリング効果とは基準点からの落差が感情や意思決定に大きな影響を与えることを意味する心理学用語です。たとえば50000円のものが9000円に値下げされるのと、10000円のものが9000円になるのとでは、最終的な結果は同じなのに、もとの基準点が異なるので印象が大きく違います。

同様に、もともと色が見えていた状態から色が見えなくなると落差にショックを受けますが、最初から色が見えない人は、そうした認知の基準となるアンカーがないので、何かが足りないとは感じません。

とはいえ、ここには一種の錯覚が含まれています。もともとカラーの視覚世界を持っていたジョナサンは、モノクロの世界になったとき、50000円の株価が9000円に下落するようなショックを受けましたが、本当にモノトーンの視覚世界は、カラーの視覚世界より価値が劣るのでしょうか。

生まれつき色が見えず、不自由を感じていない先天性全色盲の人たちは、単に自分に欠けているものを意識していないだけで、本当は貧しい世界に生きているだけなのでしょうか。たとえは悪いですが、ちょうど裸の王様のように、自分に欠けているものを意識できていないだけなのでしょうか。

色のない島の「マスクン」

色の見えない人の感覚世界は本当のところどのようなものなのか。サックスとクヌートたちは、それを確かめるために、太平洋ミクロネシアのピンゲラップ島、ポーンペイ島に赴きます。

これらの島は、孤立した社会で近親婚が続いたため、特にピンゲラップ島では人口の12人に1人もが、先天性全色盲なのです。それに対し先天性全色盲は一般社会では、3万人に1人にすぎません。(p67)

それらの島では、先天性全色盲の人があまりに多いため、「マスクン」という呼び名を与えられています。マスクンは障害者のように蔑まれることはなく、一つの個性のように受け入れられ、尊重されています。

マスクンの人たちは、先天性全色盲のために様々な苦労を抱えています。最も問題となるのは、意外にも、目が見えないことではなく、光に過敏なことからくる痛みや視力の弱さだといいます。特に昼間の明るい光がさす屋外に出ると、強い刺激で目が痛んだり、けいれんしたりします。また視力が極端に弱く、通常の10分の1程度しか見えません。

そのため、クヌートは常に拡大鏡、望遠鏡、サングラスなどを常備しています。島の子供たちにも、そうしたアイテムをプレゼントして喜ばれました。

全色盲の人の豊かな感覚世界

では、色が見えないことは、大きな問題とはならないのでしょうか。サックスに同行したボブは、全色盲のジェイムズにそのことを尋ねてみました。

「じゃあ、どうやって、バナナが熟しているか分かるんだい?」

ジェイムズは答える代わりにバナナの木に近寄り、慎重に明るい緑色のバナナを選んでボブに渡した。

ボブは皮をむこうとして、それが簡単にむけたので驚いた顔をした。それから用心深くほんの一口食べ、あっという間に全部平らげてしまった。

「ね、お分かりでしょう。私たちは色だけで判断するわけではないのです。

目で見て、触って、匂いを嗅いで、それで分かるのです。

全感覚を使って考えるんです。あなたたちは色でしか判断しませんけれど」(p61)

全色盲の人たちは、色が見えない代わりに、他のさまざまな感覚をフルに働かせて、色が見えるわたしたちよりも優れた観察力を発揮していたのです。

全色盲の人たちが味わうバナナは、わたしたちが手にとってみることさえ考えもせず、その美味しさに決して気づかないだろうものです。

さらに、全色盲の人たちが用いる優れた感覚は、これだけではありません。意外に思えるかもしれませんが、全色盲の人たちは、わたしたちよりも優れた色認識能力を持っています。

わたしたちより優れた色認識能力? どういう意味でしょうか。これまでわたしたちは、色を見分ける能力のない人たちについて考えてきたのではなかったでしょうか。色のない世界に住む人が優れた色認識能力を持っているだなんて、矛盾していないでしょうか。

しかしそう思ってしまうのは、実のところ、わたしたちが「色」について、思っているよりわずかしか知らないからなのです。

サックスが紹介するマスクンのある女性が作ったすばらしい作品についてのくだりは、全色盲の人がいかに豊かな色認識能力を持っているかを雄弁に物語っています。

目が暗さに慣れてくるにつれ、薄暗い中に輝くような素晴らしい作品が見えてきた。

そこにはとても繊細な模様がわずかな輝きの違いで織り分けられているのだが、外の日差しの下に持って出ると、模様はたちまち消え失せてしまうのだった。(p75)

…クヌートによれば、ノルウェーの昔話を題材にした模様やイメージが複雑に編み込まれているのだそうだが、薄い茶色や紫の毛糸が使われているだけで色合いのコントラストはほとんどないため、通常の視覚の人には色の違いが分からない。(p76)

「色」というと、わたしたちはカラフルな有彩色を想像しますが、あらゆる色の中には、無数のグレースケール、つまり無彩色も含まれています。

この女性が作った織物は、とても繊細なグレースケールの色で編まれた作品でした。明度の微妙なコントラストの違いで模様を表現していたため、普通の人の色覚では、色の境目がわからないほどだったのです。

「私の特別な作品よ」と彼女は言っているそうだ。「このジャケットの模様を見て楽しむには完全な色盲でなければならないの」(p76)

通常の視覚の持ち主では見分けられなく全色盲の人だけが見分けられるもの、つまり色合いは同じでも明度が多少違うものもある。(p78)

この言葉から分かるとおり、先天性全色盲の人は、色が見えないわけではありません。

色の3つの構成要素のうち、見えないのは「色相」と「彩度」であって、そのぶん「明度」の認識は非常に優れているのです。彼らは、わたしたちが想像もつかないほど多く灰色を見分け、楽しむことができます。

このような明るさの違いを見分けるのに長けた先天性全色盲の人たちは、光にとても敏感なため、昼間は強い刺激に苦痛を感じますが、暗くなるにつれ動きやすくなります。

この島では、みんなそのことをよく知っていて、マスクンの個性、そして能力の一つとして認められています。そのおかけで、彼らには彼らなりの居場所と役割があります。

マスクンの人たちにとっては目が暗順応する日没、日の出、そして月明りの夜のほうが行動しやすいことはこの島では誰もが知っていて、彼らの多くは夜釣りの漁師として働いている。

そして夜釣りにかけては全色盲の人たちは極めて優れていて、水の中の魚の動きや、魚が跳ねるときにひれに反射するわずかな月の光まで、たぶん誰よりもよく見えているようだった。(p88)

明るさの微妙な違いを見分けられる全色盲の人たちの能力は、暗がりの中で遺憾なく発揮されます。彼らにしか見えない世界がそこにはあります。サックスは、こう感想をつづっています。

彼の視覚世界はある面では私たちのものより劣っていても、他の面では私たちの世界と同じくらい、あるいはそれ以上に豊かなものに違いないと思えるのだった。(p95)

少数派が経験する普通を超えた苦労

もちろん、生まれつき全色盲の人たちは、色が見えないことにさほど劣等感は抱いていないとしても、さまざまなところで苦労します。

すでに触れたとおり、目への強い刺激や痛みがありますし、それ以上に、周囲の人とは異なる感覚を持つゆえの苦労が絶えません。

ミクロネシアの島々のマスクンたちは、島の人たちからかなり理解が得られ、尊重されていますが、一般社会の先天性全色盲の人たちはそうではありません。

3万人に1人しかいない少数者なので、家庭で、学校で、社会で、さまざまな壁にぶつかったり、誤解されたりします。

たとえば最も一般的で、男性の20人に1人が持っていると言われる赤緑色盲の場合でさえ、さまざまな困難に直面します。

常識とは異なる色使いをするため、絵を描くときに先生から怒られたり、特定の色による手がかりを誤って受け取ってしまうため、反抗的な児童、ないしは学習障害児とみなされてしまったりすることもあります。

クラスに1人いるかもしれない赤緑色盲でさえそうなのであれば、3万人に1人しかいない全色盲の人たちの苦労ははかりしれません。わたしたちの社会では、思う以上に、色による情報が重要な要素を占めているものです。

ノルウェーで育った全色盲の科学者クヌートは、弟と妹が全色盲だったのでたった一人ではありませんでしたが、それでも様々な苦労を味わいました。

子どもの頃から大きくなるまでずっと続いた苦労は、物の色を言わなければならないことだった。

…からかわれないように色の「ルール」や「正しい色使い」、それに身の回りの物の名前を片っ端から覚えてしまったんだ。(p107)

自分では理解することも認識することもできない多種多様な「色」を覚え、使い分ける努力を想像してみてください。感じることさえできないものの知識を蓄えるのは、並大抵のことではありません。世界各地に散らばる先天性全色盲の人たちは、これと同じような経験をしているようです。

耳の聞こえないろう者として生まれた子どもが聞こえない声を読み取る力を発達させたり、感情が読めないアスペルガー症候群の人が社会的ルールに関する知識を蓄えてコミュニケーションに対応したりするのもこれと似ています。

そうした少数者は、多数派が手がかりとして用いている情報を自然には解釈できないため、普通を超えた努力と適応能力を発揮して、この世界で生活しているのです。

彼らは、その独特な感覚世界と生き抜くための努力によって、大多数の人には想像もできないような独自の文化を作り上げています。

全色盲の少数民族から学ぶ「色」の深み

こうした点を考えると、先天性全色盲の人たちをはじめ、これら独自の感覚を持つ人たちは、何かが欠けている「障害者」とみなすよりも、異なる文化を持つ「少数民族」とみなすほうがふさわしいでしょう。

大半の人より劣っている「障害者」ではなく、独自のユニークな文化を持つ「少数民族」なのですから、わたしたちは互いの文化から学び合えるところがあります。

最初に出てきた生まれつき色が見えないフランシス・フッターマンは、世界中の先天性全色盲の人たちがつながれるようネットワークコミュニティを作り上げました。そして、その離散した「少数民族」の特徴についてこう述べています。

「全色盲」という言葉は、私たちの視覚の欠点についてしか説明していません。

つまり私たちに備わっている能力や、私たちが見たり作りだしたりする世界については何も語っていないのです。(p268)

先ほど考えたように先天性全色盲の人たちは、たとえ彩度と色相はわからなくても、明度の点では、わたしたちよりはるかに多くの色を見ています。考えようによっては、わたしたちのほうが色弱者なのだともいえます。

このような見方はとても大切です。もし全色盲の人が多数派で、そうでない人が少数派である島でわたしたちが暮らすことになったら、苦労するのはきっとわたしたちのほうだからです。

道程:オリヴァー・サックス自伝によると、オリヴァー・サックスは、ろう者について研究していたとき、こんな体験をしました。

ワシントンDCのガロデト大学(世界で唯一の聴覚障害の学生のための大学)を訪ねて、「聴覚障害」について話したとき、聾の学生のひとりから手話で、「ご自分が手話障害だと思ったらどうですか?」と言われた。

それはとてもおもしろい形勢逆転だった。というのも、何百人という学生がみんな手話で会話をしていて、私は通訳をとおしてしか何も理解できず、何も意思を伝えられない、言葉の不自由な人だったのだ。(p318)

「健常者」か「障害者」という認識は、おおもとをたどると「多数派」か「少数派」かという違いによって作り出されるものなのです。

実際に、わたしたちは、感覚認識の点で、全色盲の人より不自由です。

先天性全色盲の人たちは、先ほどのバナナの話にあったように、身の回りのものを見るとき、視覚で色だけを見るのでなく、もっとさまざまな感覚を総動員して味わいます。

新しい物に出会うと、私はその触感、匂いなど色彩以外のすべての属性を徹底的に感じとるようにします。叩いたり軽くこつこつとうってみて、その音を調べたりもします。

すべての物には特有の性質があり、それを感じとるのです。様々な明るさや暗さの中で見ることもします。

…もし私が色を見ることができたら印象はどう変わるでしょうか。物の持つ色に圧倒されて、その他の性質を認識できなくなるかもしれません。(p274)

わたしたちは、自分はカラフルな美しい世界が見えるので恵まれている、と思うかもしれませんが、実際には、表面の色だけしか味わっていなくて、周囲の世界の本当の美しさに気づいていないのではないでしょうか。

日常的に「色」を扱っているクリエイターやデザイナーは、自分は「色」についてとても詳しく知っていると思う前に、少し立ち止まって考えてみるべきです。

あなたは、「色」を全身で味わっていますか?

「色」は単なる鮮やかさによってのみ決まるものではく、微妙な明るさの違いもまた、深みのある味わいを作りだします。

「色」は視覚以外の感覚とも結び合わさっています。

近年の研究によると、わたしたちの五感は、それぞれ別個の感覚として存在しているわけではなく、それぞれが互いに影響していることがわかっています。

たとえば、同じ味のものを食べる場合でも、料理の見た目が美しい場合、見た目が気持ち悪い場合、そして目隠ししている場合では感じ方が異なることがわかっています。目で見て美しいなら、同じ味でもよりおいしくなります。

同じ色を見ていても、そのときの感情によって、鮮やかさの印象が異なることもわかっています。複数の感覚を協働させて体感するなら、わたしたちの経験する感覚世界はより豊かなものとなります。

最新脳科学でわかった 五感の驚異には、近年の研究の知見についてこう書かれていました。

知覚脳は個々の感覚の領域から構成されている、という長年の考えは、覆されつつある。

どうやらわたしたちの脳は多感覚情報を中心にできていて、脳の大半は、どの感覚を通じて来た情報かは関知しないらしい。

脳が知りたがっているのはこの世界のことであり、光や音そのものではないのだ。(p396)

ですから、先天性全色盲の人のように、身の回りのものを視覚だけでなく、聴覚や嗅覚、触覚も使って味わうなら、わたしたちが感じる色の印象は、より豊かで味わい深いものとなるはずです。

「色」は、単に視覚だけで味わうものではなく、五感すべてを使って、体全体で味わうものなのです。

ところで、冒頭で登場した、突然、色が見えなくなった画家のジョナサンはどうなったのでしょうか。グロテスクなモノトーンの世界に絶望して、芸術家をやてしまったのでしょうか。

いいえ、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)によると、彼は事故の5週間後、非常に美しい夕焼け空を見て心を揺さぶられ、芸術家としての魂を呼び覚まされます。そして、次第に、色の無い世界の美しい味わいに心を奪われるようになり、再びキャンバスに向かい、新しい芸術を創造しはじめたのです。

もちろん、全色盲の人たちが、わたしたちの見る色彩豊かな世界を十分理解できないように、色の見える人が、全色盲の人の豊かな感覚世界をそっくりそのまま味わうことはできません。

それでも、クリエイターやデザイナーとして、絵を描くなど何かの作品を創るときには、あるいは、鑑賞者として美術作品や自然界を味わうときには、先天性全色盲の人たちの味わい方を思い出してみるとよいかもしれません。

わたしは、「色」を体全体で感じているだろうか? 単に鮮やかさだけを味わっているのだろうか? それとも、わずかな明るさの違いを楽しみ、音に耳を澄まし、手で触れ、香りをかぎ、全感覚でイメージしているだろうか?

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