創作活動が好きだけど将来に不安しかない不登校,引きこもり,発達障害の人に伝えたいこと


なたは、絵やマンガを描くことや、小説を描くこと、作曲することなどが好きですか? 

わたしもそうです。

でも、もしかしたら、この記事のタイトルにあるように、不登校や引きこもりという悩ましい状況に陥ってしまい、悶々とした日々を送っている人でしょうか。

わたしも実はそうでした。だから、そのような立場にある人の悩ましい気持ちはわかります。決して好きで不登校になったわけではないでしょう。学校が嫌いなわけでもなく、むしろ好きなのに体調不良や不適応で行けなくなってしまった…という人もいるかもしれません。

絵や音楽、文章で自分を表現するのが好き。でも、みんなと同じように学校には行けないし、日常生活で家事や責任を果たすスキルもない、体調が悪くて何をする元気もない…。もしそうなら、将来の仕事や生活はどうなるんだろう…という不安に苛まれる日々だと思います。

残念ながら、不登校や引きこもりの人にとって、こうすれば問題が解決する、という確実な処方箋はありません。こうすれば成功するという必勝パターンもありません。世の中には色々な専門家のアドバイスがありますが、結局のところ必要な答えは一人ひとり違っていて、絶対はありません。

でもそれには十分な理由があります。むしろ、必要な答えが一人ひとり違う、というのは、あなたが不登校になった原因と大きな関係があり、見方を変えれば、それを強みとして活かしていくことだってできるのです。

この記事では、わたし自身の経験も交えながら、芸術や創作活動が好きな不登校・引きこもりの人が知っておくとよい点を幾つか紹介したいと思います。それは、「発達でこぼこ」「好きなことと向いていることを区別する」「道なき道を行ってもいい」といった3つのポイントと関係しています。

闇路の明かり

不登校になってしまった人が感じる不安

はじめに…不登校の人がどんな言いようのない不安や苦しみを感じるか、ということを少し考えてみましょう。

自分では決して望んだことではないのに、不幸にして不登校になってしまった人は、元気に学校に行っている子たちが決して経験しないような、色々な苦悩に直面します。

学校から離れて不登校になり、家で引きこもっている期間が長くなると社会から孤立していきます。はじめは気にかけてくれていた友だちも、1年、2年と経ち、進学していくと、いつのまにか話題も合わなくなり、メールもくれなくなって、もう住んでいる世界が違うんだ…と孤独感を感じるかもしれません。

不登校の子どもの毎日は、淡々と過ぎていきます。昼過ぎになってようやく起きてきて、ゲームで遊んだり、音楽を聞いたり、寝転がってマンガを読んだりして、ときどき自分の好きな創作活動をして…といったように、ほとんど家の中だけで時間が過ぎていきます。

SNSを除けば、家族としか顔を合わせず、会話も少ないかもしれません。はじめは少し休めばいいよ、と優しかった親や周りの人から、時経つうちに、冷たい視線を感じるようになることもあります。

そうしてどんどん月日が経つうちに、焦りを感じるようになります。自分はこのままでいいんだろうか、将来どうなってしまうのだろう、という不安です。社会に出る用意もできず、何の経験もなく、つながりもない。一人で生きていくスキルもない。このまま引きこもりになって成人し、30歳、40歳を迎えてしまうのだろうか…。

わたしもそう感じていた時期がありました。そのころの気持ちは、以前にこちらの記事で詳しく書いています。

不登校だったわたしの人生が絵を描くことで変わった話―手に入れた5つのもの

学校に行けなくても絵の才能が光る子どもたち

それから10年が過ぎ、今、わたしは自立して生活しています。でも、万事順調に進んだわけではありません。むしろ、これ以上ないくらい、何度も追い詰められながら、ここまで来ました。

20歳を過ぎても、掃除や洗濯、料理といった当たり前の家事さえできず、当然仕事なんてなく、毎日家でゴロゴロしてゲームばかりしている毎日が続き、もう一生このままか、さらに悪くなるだけだろうと思っていました。将来について考えて、家族が死んだらどうなるのか、といった不安も感じましたが、もうあまりに絶望的だったので、現実逃避して将来のことを考えるのはやめていました。

でも、だからといって、毎日何もしないで過ごしていたわけではありません。確かに家事や仕事といった、成人した人が当たり前にやっていることは何もできていませんでしたが、自分の得意なことや、興味のあることはずっと続けていました。

きっと、今 不登校になっている人たちも、何か興味のあること、好きなことを持っていると思います。そうしたものが何ひとつない、ということはないでしょう。確かに収入や周りからの評価にはつながっていないかもしれませんが、何かしら続けていることはあるはずです。

わたしの場合、それは主に、「絵を描くこと」と「文章を書くこと」でした。

つい先日の話ですが、わたしのかかりつけの病院の先生の診察のときに絵の話になりました。わたしは先生によく自分の描いた絵を差し上げるのですが、とても気に入ってくださったようでした。

わたしがかかっている病院は、発達障害が専門のところです。わたしは10代のときからかかっていて、今は成人しているある意味OB?ですが、ほとんどの患者は、10代の学生、特に不登校になってしまったような子たちだと思います。

先生は「うちにかかる子たちは絵がうまい子が多いからよくもらうんだよー」と嬉しそうに話してくれて、これまでにもらったたくさんの絵を見せてくれました。たぶんコピックで描いたと思われる虹色のドラゴンとか、詳細に描き込んだハロウィンアートとか、アナログ水彩のキャラクター絵とか、もうどれも個性的ですばらしい絵ばかりで、感動しました。10代の時点で、これだけ個性的な絵を描けるのはすごいなーと見惚れました。

単なる模写でなくて、色彩センスや独自の感性がにじみ出ている絵ばかりでした。どれもほとんど自己流っぽくて、まだバランスが微妙だったり、空白が多かったりと荒削りな部分も多い絵でしたが、キラリと光る感性は間違いなく秘められていました。わたしも10代後半で色鉛筆で絵を描いていて、それらはこのサイトにもこっそり載せていますが、オリジナリティと荒さが同居してる様子はよく似ているように思いました。

今では、わたしのほうが、これを描いてる子たちより10歳以上年上です。でも単に同じ病院の同じ科にかかっているというだけでなく、こうした芸術的な部分からしても、きっと種類の人間なんだろうなと、しみじみ温かい気持ちになって、過去の自分を見ているかのような懐かしさを感じたのでした。

谷があるなら必ず山もある発達でこぼこ

わたしの先生のところは発達障害が専門なので、いわゆるアスペルガーなどの自閉スペクトラム症(ASD)や、注意欠如多動症(ADHD)、そして限局性学習症(SLD)の子たちが集まっています。きっと不登校になったり、日常がうまく生活できなかったりする子どもばかりなのでしょうが、みんなと同じようにできないだけで、むしろ創造性とかの才能は豊かなんだろう、と改めて思いました。

つまり、才能はトレードオフ。能力の谷があればきっと山もある、ということです。

発達障害というと、「障害」という言葉が暗に示すように、「劣っている」とか「欠けている」ダメな子のように思われがちです。でも、決してそうではありません。長年発達障害を診てきた専門医の杉山登志郎先生は、「発達凸凹(でこぼこ)」という呼び名を好んで使っているそうです。

「発達でこぼこ」という名前が意味するのは、能力に凹(へこ)んだ部分があって、確かにある面では「ダメな子」であっても、同時にどこか別の能力は凸になっている、つまり飛び出していることも多い、ということです。谷の部分が目立ってしまい、そのせいで不登校にもなってしまうわけですが、じつは山の部分もあって、それをうまく活かせたら才能にだってなるのです。

今回わたしが見せてもらった絵を描いた子たちは、特に絵に現われるような芸術的感性が優れていました。ほかにも、音楽的センスがある子や、文学的才能がある子、はたまた数学とか、コンピューターとか、演劇とか、動物や子供の世話とか、人によって色々な才能があると思います。

不登校のまっただ中にあると、自分には才能なんてないと思ってしまうかもしれませんが、じつはまだ気づけていないだけで、必ず何かの才能はあるはずです。「谷」と「山」はセットなので、あなたが今まさに不登校で「谷」に苦しめられているということ自体が、どこかにまだ見ぬ「山」が存在している証拠となっています。

アスペルガーは「欠けている」のではなく「視点の違い」

たとえば、アスペルガー症候群などの自閉症について考えてみましょう。アスペルガーの人は空気が読めないKYだとか、コミュ症だとかバカにされて、いじめられたり仲間はずれにされたりすることもあります。

でも、発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)という本にはアスペルガー症候群の特徴は「視点のずれ」であって「何かが欠けている」というわけではない、と書かれています。(p28)

これはどういう意味でしょうか。

一般に「空気が読めない」問題は、実はコミュニケーション力が「欠けている」のではなく「視点のずれ」が生じているだけだということが近年わかってきています。

その「視点のずれ」とは、たとえば、まず全体を見るか、それともまず細部を見るか、という視点の違いです。そのことを示す有名な実験にネイボン課題というものがあります。(p144)

以下の図を見てください。

ネイボン課題

あなたは最初、ぱっと見たとき、どこに注目したでしょうか。まず大きな「SH」が見えて、その後小さな文字が集まっていることに気づいたなら、あなたはまず全体を見る人であり、世の中の多くの人と同じタイプです。逆にまず小さな文字、無数のHとSが見えて、しばらくたってから大きな全体の形に気づいたとしたら、あなたはまず細部に注目する特殊な認知パターンを持った人です。

アスペルガー症候群の人は後者、つまりまず細部を見る傾向が強いと言われています。

このような図を見せられると、健常者は通常大きな文字の方を答える。全体を概観した後、改めて眺めなおしてようやく小さな文字に気づくこともある。

一方自閉症者は、部分にこだわりまっさきに小さな文字の方を答える。顔認知能力を調べるテストにもこの課題が取り入れられている。(p144-145)

ちなみにわたしはというと、まったく逆に全体しか見えず、細部になかなか気づきませんでした。全体を最初に見るという意味では世の中の多くの人と同じですが、たぶん全体を見る傾向が強すぎるという逆の極端に位置するのがわたしだと思います。それはそれでまた特殊な視点です。

インターネット上でいえば、ちょうどアスキーアートという文字の集合で絵を作る文化がありますが、アスキーアートを見て、全体としての絵ではなく、個々の文字に気を取られてしまうような人はアスペルガーの傾向が強いかもしれません。

こうしたアスペルガー症候群の人の、まず細部を見て、全体像になかなか気づけないという認知パターンは、長所にもなれば短所にもなります。特に短所として現れた場合の例が「空気が読めない」「KY」といわれる状態だと言われています。つまり、相手の言葉一つ一つの意味という細部にとらわれてしまい、話の流れや場の空気という全体への注意がおろそかになるため、空気が読めないと言われてしまうのです。

この点について詳しくは以前こちらの記事で書きました。

絵の細部にこだわりすぎて全体のバランスが見えなくなる「順応」の4つの対処法
絵を描くときに細部ばかりが気になる問題の4つの対処法

けれども、細部に注目するという観点、つまり「視点のずれ」は、決して悪いことばかりではなく、時と場合によっては才能になります。たとえばこんなことが書かれています。

大多数の取るトップダウン処理は、社会の維持にとっては便利な反面、先入観が強くて独断的な判断に陥る可能性もある。

逆にいえば、自閉症者は、先入観なしに物事を判断する資質をもっているともいえるのだ。絶対的な物差しに則る、フェアな判断というわけだ。

自閉症者は理系向きであるとか、数字に強いとか数学ができるという評価をよく聞く。絶対的な物差しで見ることは、物事をフェアに見ることにつながり、それはシステムを理解する性質につながる大きな特性となる。(p81)

アスペルガーの人たちは、数学やコンピューターに向いているといわれますが、そうした作業には細部に注目することが不可欠です。全体としては問題なく見えても、証明に一箇所でも飛躍があったり、プログラムに一箇所でもミスがあったりしたら、成り立たなくなってしまいます。

世の中のたいていの人は、そんな細かいところを探すような作業を考えただけで頭が痛くなりますが、アスペルガー症候群の人たちは、逆にそうした作業にこそ自分の強みをいかんなく発揮して活躍することができるのです。

ちなみにこうした視点の違いは、絵を描くときにも、やっぱり反映されるようです。先生は絵を見せてくれたとき、ASD系、つまりアスペルガーの子は暗い絵が多いと言っていました。その点は杉山登志郎先生の本にも書いてあり、ASDの子は無機質で細かく、雰囲気としては暗めの絵を描く傾向が多いとのことでした。これはあくまで傾向なので、人によって様々な例外はあると思いますが、以下の記事でまとめているとおりです。

でも、わたしとしては、見せてもらった絵の感じでは、暗いと言われる絵も相当表現力豊かでよかったです。絵の表現はさまざまですから、暗い落ち着いた雰囲気の絵や、心の中の葛藤が写し取られたような絵に共感する人もいるでしょうし、それは一つの突出した個性といえるでしょう。

逆に明るい虹色の絵もありましたが、もしかするとわたしと同じADHD系の子の絵なのでしょうか(笑) 妙に余白が多い絵でしたが、ADHD系の子は描いてるうちに飽きるから完成しないんですよね…(笑) わたしもそうでしたが、描き続けていたらスキルアップして完成度が高まっていくはずなので、あきらめずに続けてほしいです。ADHD系の絵についても、人それぞれでしょうが、傾向としてはこちらにまとめてあります。

「好きなこと」と「向いていること」を区別する

さて、ここまでのところで、不登校になるような人は、能力にでこぼこがあり、ダメなところがあっても、別のところは才能として活かすこともできる、ということを考えてきました。

でも、自分には、才能なんておろか、長所だと思えるようなところもない、と感じてしまっている人は少なくないと思います。確かに絵や音楽など、好きで続けている趣味はあるけれど、なかなか周りの人に喜んでもらえないし、仕事にするなんてとても無理だと感じる人もいるかもしれません。

そんな人は、去年残念ながら亡くなった任天堂の岩田社長のアドバイスをよく考えてみると、自分が陥っているドツボに気づきやすいと思います。

岩田さんは、任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」 – 4Gamer.net という記事でこんなことを言っていました。

要するに,「自分の好きなことと嫌いなこと――もっと言えば,自分がやりたいこととやりたくないこと――を,自分が得意なことと得意じゃないこととイコールだ」と思い込んでる人が多いです。本当は,それってかなりズレてるのに。

ここで岩田さんは、「自分の好きなこと・やりたいこと」と「得意なこと」はイコールじゃない、と述べています。

どういうことなのか、さらにこう説明してくれています。

好きじゃないけど得意なこともありますし,好きだけど,実はあんまり得意じゃないよっていうことも結構あって。

だから,仕事というのは「得意なこと」をやった方がいいんです。好きだけど得意じゃないことに溺れると,仕事っておかしくなることが多いんです。

「好きなこと」は「得意なこと」とは限らないのです。岩田さんは、「好きなこと」よりも「得意なこと」を仕事にしたほうがいい、とアドバイスしています。

自分が「好きなこと」というのは、みんなわりとよくわかっています。ここまで考えてきたように、不登校になってしまった子の中には、絵やマンガを描いたり、ボカロで作曲したり、小説を書いたりするのが好きだ、と感じている人は少なくないでしょう。でも、だからといって、それを仕事にして食べていこう、と安易に考えるのは尚早です。なぜなら「好きなこと」イコール「得意なこと」だとは限らないからです。

では「得意なこと」は何なのか。わたしには「得意なこと」なんてどこにもない!

そう感じる人は、実際に「得意なこと」が何もないのではなくて、自分の「得意なこと」が何なのか、まだ気づけていないだけです。

自分の「得意なこと」に気づくのはなかなか難しく、だからこそ岩田さんもその話題をわざわざ持ちだしているわけです。岩田社長は、幸いにも「得意なこと」を見つける簡単な方法をアドバイスしてくれています。

 自分の労力の割に周りの人がすごくありがたがってくれたり,喜んでくれたりすることってあるじゃないですか。要するにね,「それがその人の得意な仕事なんだ」って話で。

逆に,自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われることもあって。それはね,本人が好きだったとしても,実は不得意なことかもしれないんですよ。

ここがポイントです。

 だから,「“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」って,いつも学生さんに喋ってるんですね。「さっさと得意なことが分かった方が,人生はいいぞ!」って話なんですが(笑)

大事なことなのでもう一度繰り返しましょう。

「“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」

この一言こそが、発達障害などで不登校になってしまった、能力にでこぼこがある人がじっくり考えてみるべきことなのです。

たとえば、あなたは絵を描くことが好きかもしれません。自分の描いた絵を家族や友だちに見せたり、Pixivなどにアップしたりするかもしれない。そのとき、絵を見た人がすごく喜んでくれて、次々にシェアしてくれるなら、それは「得意なこと」「向いていること」です。ぜひイラストレーターになって生活していく道を目指してください。

でも、岩田さんが述べるように、『自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われる』なら、それは「本人が好きだったとしても,実は不得意なことかもしれない」のです。

「好きなこと」は趣味に、「向いていること」を仕事に

じつは、たまにこのサイトの記事にメッセージなどで感想をくれる方々がちらほらいるのですが、なかには絵描き志望で悩んでる人からの感想も多く、絵で食べていきたいけど、売れるレベルまでいかず、ストレスで苦しんでいる方々がけっこういるのです。

絵でなくても、クリエイターとして好きなものを創って仕事しよう、と思っている人は割りと多いと思います。しかし「好きなこと」を仕事にしようとするのはもの凄くハードルが高いのです。まれにPixivとか、小説家になろうとか、ニコ動のボカロとかで大ヒットしてプロのお誘いがかかる人もいますが、宝くじレベルではないかと思います。

それにもし幸運にもプロになれたとしても、消費者の求めるものをチームとして作らなければいけないので、「好きなこと」を本当に続けられるかはわかりません。プロは決して自分の好きなものを創ってお金を得られるわけではありません。

たとえばニンテンドーに入社したからといって、自分の創りたいゲームを創れるわけではなくて、組織の一員として大作ゲームを作る分担作業をすることになるのと同じです。本当の意味で自分の好きなものを創ってそれで生活していけるのは、宮本さんみたいな超一流クリエイターだけです。

そうすると、「好きなこと」を仕事にできた場合でも、自分の創りたいものを創れないストレスで「好きなこと」が嫌いになってしまうかもしれません。プロの作家の中には、スランプに陥ったり、自由に創作できないストレスを抱えたりして、苦しんでいる人が少なくないのです。

それで、わたしがおすすめしたいのは、「好きなこと」は趣味にして、「得意なこと」を仕事にする、ということです。

岩田さんは、さっき、「労力の割に周りが認めてくれることが,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」とアドバイスしていました。

自分の経験を振り返ってみると、自分ではたいして頑張ったわけではないことで、ものすごく周りがほめてくれたり、ありがたがってくれたりした経験が必ずどこかあるはずです。思いつかない人は、じっくり自分の生活史をふりかえって、小一時間考えてみてください。

たとえば、絵を描くのが大好きで、Pixivなどに絵をアップしてイラストレーターを目指しているけれど、反応はかんばしくなく、評価が得られずに落ち込んでいるアスペルガー傾向のある人がいるとしましょう。その場合、少なくとも現時点では、絵を描くことは、その人の「好きなこと」ではあっても「向いていること」ではありません。

でも、あるとき、たとえば家族や友だちがスマホの操作やパソコンの設定などで頭がこんがらがっているところで、ちょちょいと教えて設定してあげたら、とても感謝されたという経験があるかもしれません、自分では普段から使いまくっているパソコンの当たり前の操作を教えただけで、何も特別なことはしていないのに、なんでこんなに喜ばれるのだろう、と大げさに感じたかもしれません。

でも、それこそが、岩田さんが言う「自分の労力の割に周りの人がすごくありがたがってくれたり,喜んでくれたりすること」「労力の割に周りが認めてくれること」なのです。自分ではあまり気にとめてないでしょうが、それこそが「向いていること」です。

それでこのアスペルガー傾向のある人は、パソコン講習などの仕事について生計を立てつつ、趣味として絵を描くことを続けていけば、どちらもうまく運びます。「向いていること」を仕事にして、「好きなこと」は趣味にするのです。

さっき考えたとおり、アスペルガーやADHDの人は何かが欠けているのではなくて、視点が違うだけなので、大多数の人が知らないような知識に詳し かったり、他の人が苦手で続けられないことを延々と集中して楽しめたり、独特な感性を持っていて違った視点からモノづくりができたりします。

ほぼ日の岩田社長の記事の中で、岩田社長がこんなことを言っていました。

わたしが見つけた「天才の定義」があります。

「人がいやがるかもしれないことや、人が疲れて続けられないようなことを、延々と続けられる人」、それが「天才」だとわたしは思うんです。

視点が違う、興味が違う、という発達でこぼこの特徴を活かせば、周りのほとんどの人が苦手だったり、めんどくさくてできなかったりするようなことに才能を発揮できるかもしれません。

それでも「そんなやり方は嫌だ、わたしはどうしても絵を仕事にしたいんだ」と言い張る人もいるかもしれません。もしそう思っているなら、なおさら、今は「向いていること」を仕事にして、「好きなこと」は趣味にするということをおすすめします。それはなぜか。

「好きなこと」が「向いていること」ではないのに、それを仕事にすることを目指していると、ここまで考えてきたとおり、自分ですごく頑張ったのに周りから評価が得られず、仕事のお誘いもかからず、ストレスが積み重なります。仕事が得られないので、生活も苦しくなっていく。そうすると、「好きなこと」がストレスになり、重荷になり、続けられなくなって、いつのまにか「好きなこと」が「嫌いなこと」になってしまうかもしれません。

反対に、当面の間、「向いていること」を仕事にして生活を安定させ、周りの評価など関係なくのびのびと「好きなこと」を趣味として続けていれば、「好きなこと」は「好きなこと」のままずっと長年続けていくことができます。するとどうなるか。

アンダース・エリクソンの熟達化研究では、プロになるような人はだいたい「1万時間の法則」といって、5-10年近く継続的に訓練を続けた結果開花することが知られています。長い期間にわたって投げ出さずに創作活動を続けた結果、仕事にもできるようなスキルが身につくのです。

創造的な作品を描きたいなら少なくとも10年は続けよう
どんなに有名な作家でも「10年の沈黙」がある

要点はこういうことです。

「向いていること」を仕事にして、「好きなこと」を趣味にしてれば、「好きなこと」を嫌いにならずにずっと続けられる。やめないで続けていたら、いつか、「好きなこと」が「向いていること」に成長することもあるかもしれない。

つまり、絵や音楽など、「好きなこと」を仕事にしてお金を稼ぎたい場合でも、当面の間「向いていること」のほうを仕事にして、その間に「好きなこと」を趣味として地道に続けるということは、遠回りに見えて最善の道かもしれないということです。

わたしの「労力の割に周りが認めてくれること」

わたしの場合、「労力の割に周りが認めてくれること」は子どものころから明らかに文章を書くことでした。わたしは何の苦労もせずバババッと長文書くのに、まわりはすごく努力したかのように褒めてくれて、いつも非常に違和感がありました。

いまだに文章を書くと「よく調べたね」とか「すごく時間かけてるでしょ」と言われますが、わたしは何の苦労もせず思いついたままに書いているだけなので、子どものころから、いつも不思議に、というより大げさに思っていました。

今思うと、明らかにそれが、岩田さんの言う「労力の割に周りが認めてくれること」つまり「向いていること」でした。この記事を見て、わたしがすごく苦労して書いたと思いますか? いいえ、昨日ふと思いついたことを数時間かけて、ババっと打ち込んだだけです(笑)

わたしは同じ「もの書き」でも、本来好きなのは小説を書くことでした。だから、小学校のころから自作小説を書いていて、周りの人に見せていました。確かに喜んで読んでくれる人もいましたが、身近な人以外には興味を示してもらえず、めんどくさがられることもしばしばでした。小説を書くことや絵を描くことは、すごく好きで労力をかけているのに、あまり喜ばれず、岩田さんの言う、『自分的にはすごい努力して,達成感もたっぷりあるのに,周りからは「はあ?」みたいに思われること』でした。「好きなこと」イコール「向いていること」ではなかったわけです。

だから、わたしは絵を描くことや小説を書くことで生計を立てるのはあきらめて、労力のわりに周りが認めてくれる実用的な文章を書くことにしました。小説を書くことは犠牲にして、絵を描くことは趣味にしました。そうすることで、少ない労力で人に喜んでもらいつつ、自分の好きな絵もじっくり続けることができるようになりました。

わたしの場合、絵を描くのは間違いなく「好きなこと」ですが、絵を描くことで収入を得るのを目指そうとは今のところ思っていません。それは向いていることではないですし、たとえ絵が上達して売れるレベルになったとしても、仕事にしてしまったら、自分の描きたいものを好きなときに描くという楽しい時間、自分の本当に好きなことが失われてしまうのではないかと思っています。

たまたま自分の「好きなこと」が「労力の割に周りが認めてくれること」だったらいいですが、そうでない場合は、「好きなこと」と「向いていること」をきっちり分けて考えたほうがいいのでは?と思います。

道なき道を突き進んでもいい

わたしは自分の経験から、不登校になって、普通の生活もできていないような子に、今は将来どうなるか相当不安で、自分は一生引きこもりになるしかないダメ人間だと感じているとしても、地道に自分の道を探していれば、思わぬ方面に才能が開花して自立できるようになることもあるんだよ、ということを知ってほしいと思っています。

上から目線で偉そうに聞こえたらすみません。わたしは自立しているとはいえ、社会的に大成功したような華々しい経歴は何ひとつ持っていないので、決して偉そうなことを言える立場にはありません。

わたしはどちらかという、生真面目にアスファルトの道路を歩かなくても、獣道を探検してもいいじゃない、と学校帰りの子どもが友だちを誘うような、そんなニュアンスで言っています。

普通の人、つまりたぶん定型発達の、学校に馴染める子たちにも、さまざまな悩みや苦労はあると思います。でも、だいたいの場合は、そのまま学校に通って進学していけば、普通に就職して会社のサラリーマンとか公務員になれるわけなので、道は見えています。ある意味、きっちり舗装されたアスファルトの道路があるので、渋滞して不平を言いつつも、その道にそって進んで行けばいいわけです。

それなりに苦労はあるとしても、若さと体力さえあれば、適当な仕事につけるでしょう。望んだ仕事かどうかはともかく、会社の歯車として作業していけば、才能なんて特に求められず、収入も得られます。楽しいかどうかは別として、みんなと同じレールに乗っていれば、自然に仕事につけるし、お金も入ってきます。

でも、不登校になるような人は、普通の会社なんて無理だと感じる場合も少なくありません。もう舗装された国道がどこにあるのかもわからないほど社会から外れてしまっている人もいます。たとえみんながやっているように仕事を探したとしても、すぐ不適応を起こして、転々と仕事を変えながらストレスを貯めこむこともあるでしょう。

不登校になるような人は、たいていは発達でこぼこで、能力に「谷」があります。学校という集団社会でうまくいかなかったのなら、みんなが走っているアスファルトの大通りに出たって事故を起こしてばかりでしょう。自分にとって苦手な分野でみんなに足並みをそろえようとしたら、失敗を繰り返して自尊心がガンガン削られて、それこそ本当の「ダメ人間」になってしまいます。さらにはストレスからさまざまな二次疾患を抱えることだって避けられません。

もう不登校になった時点で、みんなと同じ表通りの道路を走れないことは実証されたので、自分の能力の「谷」が表面化するような、みんなと同じ道を歩むのは潔く諦めるべきです。

その代わりに、学校生活などの集団社会では目立たなかった、気づかれなかった、自分の能力の隠れた「山」を探し、自分の「向いていること」を見つけるところからはじめるのが、最善の道です。

それはとりもなおさず、表通りの国道からそれて、舗装もされていないような道なき道を走りだすということです。敷かれたレールから脱線したなら、元のレールに戻ろうとするのではなく、道なき荒野を走りだせばいいのです。

自分の道は自分で切り開いて、自分の才能で勝負するしかない。

自分で自分の道を切り開くのは不安です。敷かれたレールを走るのは安心安全ですが、我が道を行く場合は、だれかが前を進んでくれるわけでもなく、道案内の表示さえない。自分ですべて判断していかなければいけない。

もちろん、受けられるサポートはすべて積極的に活用しましょう。医療の助けはもちろん、発達障害やそれに伴う二次障害の場合でも、受けられる社会福祉制度などのサポートは、けっこういろ色々あるので、しっかり調べて、使えるものはなんでも使って自立の助けにできます。

不登校になったら、病院に連れて行かれて、いろいろな診断名をつけられて、自分は「病人」や「障害者」なんだ…とショックを受けたかもしれません。でも、それはあなたを貶めるレッテルではありません。

診断名はあなたの欠点を表すようなものではなくて、病気呼ばわりするためのものでもありません。それは医療や福祉を最大限に活用するためのパスポートなのです。せっかく診断名がついているのなら、堂々と活用すればいいのです。

そうした様々なサポートを活用したとしても不安はたくさん残ると思います。でも、岩田さんの話のとおり、「向いていること」に気づけたら必ず自分だけの道が見えてくるはず。

不登校になったという事実そのものが、あなたは集団生活で紛れてしまうようなみんなと同じ没個性の人間ではなく、唯一無二の尖った個性を秘めたユニークな人材であることを証明しているのですから。

一人ひとり違う道でいい

不登校の子の才能は一人ひとり違います。だから、わたしは「先輩」にはなれません。わたしと同じことしようたって誰もできないでしょう。そこが普通の人たちと違うところです。

社会の大多数を占める定型発達の普通の人はみんなだいたい同じなので、「後輩」は「先輩」の後ろをついていくだけでいい。若さと体力さえあれば、個性なんてなくても、ひたすら敷かれたレールの上をついていけばいい。

でも不登校になって集団から浮いてしまったり、馴染めなかったりするような強烈な個性を持つ人は、同じ鋳型にはめることなんてできません。一人ひとり大きく違うから、集団になじめないのです。一人ひとり才能が全然違うからこそ、自分の道は自分で切り開くしかないのです。

だからわたしはだれかの「先輩」にはなれません。わたしの人生だって、かなり道なき道を突き進んできて、今はそれなりに自活できているけれど、一寸先は闇かもしれません。それはわかりません。でも、わたしは自分の才能を活かせるこの人生がすごく楽しいですし、むしろ普通の仕事をして「社畜」などと自虐して、日夜仕事のために生きているような同年代の友人たちの様子を見たら、わりと自分のほうが恵まれてると思うことも多いのです。不登校になって挫折も多い人生ですが、悪いことばかりじゃないと思っています。

わたしができるのは、だれかの「先輩」になることではなく、こんな生き方もあるんだよ、社会の常識や大人が決めたレールなんて気にしなくて、道なき道を突き進んでもいいんだよ! というメッセージを伝えることくらいです。

そして、「向いていること」を仕事にして、「好きなこと」を趣味にしていれば、不登校で悶々として引きこもっていたようなわたしのような人でも、10年後くらいには、こんな記事を書いて多くの人に読んでもらえたり、決して褒められるレベルでなかった絵が、この程度まで上達できたりするんだよ、という生きた実例を見せることくらいでしょう。

このサイトに乗せている文章や絵は、じつは10年前は不登校で自分には何の才能もないと思って引きこもっていた人が創っているんだ、という目で見てもらえたら、今まさに不登校や引きこもり状態にある発達でこぼこの人たちの励みになるかな、というちょっと偉そうなことを思って、この記事を書いてみたのでした。

▼わたしの絵の変化
わたしの絵も、最初はなかなか苦労して描いても微妙な反応しか返ってこないレベルでしたが、ようやくちょっと喜ばれるようになってきました。そのあたりの変化はこちらの記事で。

1年間絵をあきらめずに描き続けた感想(ⅰ)アイデア編
ほぼ毎日あきらめずに絵を描き続けて思ったことその1
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