夜のとばりの鏡像世界―光が眩しすぎるから創られた もうひとつの物語(終)


わたしの光の感受性障害であるアーレンシンドローム、そして、その根底にあるとおぼしき、さまざまな感覚への感受性の強さであるHSP。

この一連の記事では、わたしが、そうした感受性の強さから逃れ、心身を休めるために、無意識のうちに自分だけの鏡像世界を創ってきたことについて書いてきました。それは、光のまぶしさから逃れるための陰のような夜の世界であったり、刺激の多さから心を休めるための安心できる空想世界だったりしました。

また、さまざまな感覚の感受性の強さが疲れやすい体質とも関わっていることに気づいたので、明るさや色を調光できる照明器具や、特定の波長の光をカットできるアーレンシンドロームの色つきメガネ、特定の波長の音を軽減できるカスタムイヤープラグなどを注文したことも書いてきました。

イヤープラグとアーレンメガネを作りに行った話と最近の考察

今回は、その一連のシリーズ記事の最終回。ついにアーレンメガネが届いて、実際に使ってみた感想を書きます。わたしのためにフィッティングされた、わたしだけの色のメガネを通して見たのは、わたしの知らない異世界の風景だったのでした。

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アーレンメガネが届いた日、世界が変わった

アーレンメガネが届いたのは、土曜日のお昼すぎでした。本当は午前中に配達指定していたのですが、昼を回ってしまって、配達のお姉さんが恐縮してましたっけ。

早速包みを開けてメガネケースの梱包を解き、その中に入っていたアーレンメガネを取り出しました。

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メガネは、思っていたよりも軽く華奢な作り、そして、どこからどう見ても真っ黒なサングラスでした。かなりインパクトのある見た目でしたが、恐る恐る、メガネをかけてみました。

最初、部屋の中でかけたときは、部屋の照明を調光して暗くしていることもあって、さすがに暗すぎる感じ。屋内で使う場合は、照明を通常のレベルに戻さないといけないなと思いました。

洗面所の鏡で確認してみると、うっすらとギリギリ目は透けて見えるかどうか、というところでした。完全に真っ黒ではないようです。一見茶色のレンズにも見えますが、第四回に書いたとおり黄色い光はしっかりカットしてくれるので、茶色ではなく、深い赤紫でしょう。洗面所などのオレンジ色の電球は赤っぽく見えます。

家の中でサングラスをかけてウロウロするのも不思議ですが、調光できるシーリングライトを設置した以外の炊事場やトイレは、白熱電球でありながら、ずっとまぶしさを感じていたので、アーレンメガネが黄色をカットしてくれて楽になったことがすぐにわかりました。

それから、ふと、窓の外を見ました。

……!?

今までに見たことのない景色が見えた気がしました。

いえ、もっと正確に言えば、今までで一番、普通の景色が見えました。

わたしは、サングラスみたいなアーレンメガネをかけていたのではなかったでしょうか? ところが、窓の外に見えたのは、まったく「自然」な色の、「普通」の風景でした。

わたしは試しにメガネを外してみました。すると見えたのはまったく「自然」でない光り輝く風景、でも今までずっと見てきた世界でした。

わたしはわななく気持ちを抑えて、落ち着いて考えようとしました。いったい何が起きているのだろう。メガネをかけると「自然」で「普通」の景色が現れるというのは、何かの錯覚だろうか。はじめて色つきメガネをかけたことによる錯視現象が生じているのだろうか。

ところで、ちょうどこの日は、ゴミ出しの日でした。ゴミの回収は午後なので、昼過ぎにゆっくり出せば間に合います。

わたしは、いったい何が起こっているのか、本当のことを知るためには、メガネをかけたまま外に出なければ、と思いました。言葉にならない感情が渦巻く胸を鎮めて、恐る恐るゴミを片手に、家の外に出てみました。

そのとき…

わたしは言葉を失いました。玄関のドアを開けて、最初に飛び込んできたもの、それは息を呑むほど鮮烈なスカイブルー。吸い込まれるような色鮮やかな、信じられないほど透き通る水晶のような空が見えたのでした。

わたしは幻覚でも見ているのかと思って目を疑いました。一瞬頭をよぎったのは、オリヴァー・サックスが見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で書いていた若気の至り、アンフェタミンとLSDと大麻を調合して飲んだときに見えたという「真の藍色」の幻覚についての話でした。それは存在しないはずの色。

夢の中で見る鮮やかすぎる色―現実にはありえないカラーの神経科学
夢の中で見る現実にはないほど鮮やかな色の考察

わたしは我に返って、手でメガネをずらして、いつものように裸眼で見てみました。わたしはまぶしさで目をしかめましたが、そこには、よく見慣れた薄い水色の冬空が広がっていました。そう、空とはかくも明るく輝いているものです。これがわたしの見てきた空色。枯れ葉の舞う冷え込んだ冬の池に映える薄く明るい水色です。

わたしは改めてメガネを通して空を見てみました。そこにはやはり、濃厚なスカイブルーがありました。こんな都会に存在するはずのない、成層圏に広がっているような、あの地球そのものの青さのような色です。

わたしはあたりを見回しました。すると、すべてが今までと違って見えていることに気づきました。いつも見慣れている家の前の道路。並木や灌木、アスファルトの道。

でも、わたしが見ていたのは、いつも見慣れていた風景ではありませんでした。そこにあったのはまったく別の世界。今まで見たこともない異世界の景色でした…。

わたしはいつもなら、屋外に出ただけで、降りそそぐまぶしい光に目を細め、地面を見て顔を伏せたものでした。わたしは学生のころ猫背だと言われましたが、今から思えばあれはまぶしさのせいで目を伏せて地面を見ていたのでしょう。

わたしはゴミを出しに外へ出るようなときも、あたりを見回したりすることなく、ただ一目散に目的地を目指して、やることが終わればさっさと帰っていました。それはどこへ行くときも同じで、どうやらわたしは、無意識のうちに目を細めて、必要なもの以外は見ないようにしていたようです。それがADHDの注意散漫の原因でもあるのでしょう。

でも、このときは、初めて周りをじっくり見回しました。なぜそうできたのか。

それは、まばたきをしていなかったからです。する必要がありませんでした。まぶしくなかったからです。目が刺されるようなチリチリする痛みも、反射的に目を背けたくなるような刺激もなく、わたしは目をパッチリ開けて、まわりをじっくり見ることができました。

何もかもが、とても「自然」に見えました。初めての景色を見ていたはずなのに、わたしは違和感を感じるどころか、これこそがまったく「普通」の景色なのだと、何の疑問もなく受け入れていました。それくらい、あらゆるものが、「普通」に見えたのです。

その上には、大海原のような深い空が広がっていました。そして、道路の交通標識の看板もまた、負けず劣らず深い青でした。オリヴァー・サックスが見たに違いない、「真の藍色」でした。

リアルタイムの感動を振り返る

わたしは動揺しながら、そしてあふれる感動の波に圧倒されながら、家に戻りました。そのときのわたしの心境は、部屋に戻ってすぐ、冷めやらぬ興奮の渦の中で書いたTwitterの鍵付きアカウントのツイートをそのまま載せたほうがいいでしょう。

わたしはリアルタイムでこう綴っています。自分の文章を引用するというのは何とも滑稽ですが…(笑)

メガネ届きました。 メガネかけて外に出たら、息を呑むほど驚きました。 空が青かったです。スカイブルーでした。あらゆる景色が自然な色になってました。 言葉では伝えられないけど、今までの人生で一番驚いたかもしれないです。

自分の見ている色が普通と違うなんて思ったことなかったし、アーレンのフィッティングしているときに普通より鮮やかだと気づいても、ここまでのものとは想像していませんでした。 メガネをかけると、視界が暗くなったりするどころか、普通の、本当に普通の色になりました。

あんなに暗い色のサングラスなのに、普通の色になるなんて、意味不明だし、もし自分が誰かかから聞いても信じられないですが、マジックとしか思えません…。夢でも見てるんでしょうか。

家の外に出て、空を見たり、看板を見たり、草を見たり…そんな何気ないことだけで信じられないほど嬉しいです。すべてが今までと違って見える。初めて本当の色、いや、本当の物を見たような感じ。今まで何も見えていなかったです。

これなら、本当にサイクリングデビューとかあるかもしれませんね。ただ外にいて、世界を見ているだけで、こんなに楽しいなんて。初めて歩き出した赤ちゃんってこんな気持ちなんでしょうか。

乱反射光カットのモアイレンズというのも気になったけど、やっぱりわたしはアーレンだったみたいです。これだけのものを見せられたら、もう何も言えません。 どうにかして、この奇跡みたいな感覚を言葉に残せたらいいんですが。体験記にどうやって書けばいいのかわからないくらい、常識を超えてます

家に戻ってきても、何度でもカーテンを開けて、外の景色を眺めたくなります。ただの車が走ってる道路にすぎないのに、わたしにとっては初めて見る景色なので。

なんで空がこんなに青いのか、不思議なんですが…わたしにとっては黄色や橙色が感受性の強すぎる色だったせいで、白色光に含まれる黄色が、補色である青を打ち消していたのかもしれません。 ADHDに関わるドーパミンは青の感受性に関係しているらしい。

わたしのリアルタイムの驚きが、このツイートから少しは伝わるでしょうか。

思い返してみれば、これは、初めてのことではなかったのです。筑波大学でレンズのフィッティングをしているとき、一度不思議なできごとがあって、言葉を失った、ということを前シリーズの4回目の記事で書きました。

明るさ過敏,目の疲れ,読書の苦労の正体を探りに筑波大学に行ってきた話(4)
感覚過敏から気づいたことと2回目のレンズのフィッティング

それは、初めてほぼ完成形の、今のレンズとだいたい同色のレンズを目に当てて、廊下に出たときのことでした。廊下の先にある、階段の踊り場の窓の外にわずかに見える外の景色が、あまりにも立体的にくっきりと見えて言葉を失い、何かの錯覚かと思ったのでした。

そのときは、ただ一瞥しただけで、それ以上のことはなく、屋外に出て試すこともありませんでした。でも、そのときの奇妙な驚きは、まさに今感じている衝撃そのものだった、ということに気づきました。今ならはっきりとわかりますが、わたしはそのとき、実はアーレンメガネを通して見る異世界の景色を、ほんのちょっと先取りしていたのでした。錯覚ではなかったのです。

空がスカイブルーに見えたことについてはどう解釈すればいいのでしょうか。以前にTwitterで、アーレンメガネをかけたら、いつもは白く見えていた空が青くなったとおっしゃっていた方のことを思い出しました。この話は前回のシリーズの第五回で触れています。

わたしとその方とで、同じことが起きているのでしょうか。それとも似ているようでまた違うのでしょうか。わたしはその方について詳しく知っているわけではないのでわかりません。

おそらくその方の場合、視界が明るすぎて色が飛んでいたのではないかと思ったのですが、わたしは普段視界がとても明るいとはいえ、色が飛んでしまうことはありませんでした。現に、メガネをかけなくても、空はある程度青く見えていますし、黄色や緑色などは本当に鮮やかで色とりどりです。

それで、おそらくは上のツイートの最後に書いているように、わたしのアーレンメガネに黄色い光をカットする強力な効果があるせいだと思います。わたしのレンズは、先ほども書いたとおり、黄色をしっかりカットするせいで、オレンジ色の電球色が深い赤になるほどです。

光の三原色では、黄色は青色と補色関係にあり、黄と青の光が混ざると白になります。そうすると、黄色い光をカットすれば、白っぽさが薄まり、相対的に青みが鮮やかになるのは当然のことでしょう。

ちなみに、さきほど出てきたオリヴァー・サックスの「真の藍色」についての話を書いた以前の記事で触れたとおり、ドーパミンは空の青色の鮮やかさの感受性に関係しています。サックスが調合した幻覚剤の成分の一つであるアンフェタミンは、ドーパミンを増加させることで、真の藍色を見るのに一役買ったのかもしれません。

わたしの場合も、アンフェタミンの近縁の保険適応薬であるメチルフェニデートを服用していますが、メガネで黄色の感受性を抑えることで、本来のドーパミンの青色の感受性が強く働いたのだとしたら、わたしがあのスカイブルーを初めてみたときの驚きは、サックスが「真の藍色」を見たときの驚きと、いくらか近いものだったのかもしれません。

「ステレオ・スー」

それにしても、この夢ともうつつともつかない、あたかも幻覚か奇跡のような異世界へ足を踏み入れていたとき、わたしは、自分が体験していることが、かつて読んだ本に書かれていたエピソードと極めて似ていることに気づいていました。

わたしは、自分の素直な感動をそのまま先ほどのツイートに書き表したのですが、そのわたしとまったく同じようなことを、5年前に読んだオリヴァー・サックスの著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界に出てきたスーという女性が述べていたのを思い出したのです。

サックスが綴るところによると、スーは、生まれつき斜視のため、立体視ができませんでした。けれども、平面的な視界にうまく適応していて、車の運転もソフトボールもできました。

彼女は神経生物学の専門家で、立体視についての論文をたくさん読んでいたので、「立体視を経験したことはないけれど、それがどんな感じに違いないかはわかっている」と確信していました。(p145)

あるとき彼女は特別な偏光メガネを手に入れました。両目の視線の角度をそろえることができる装置です。彼女は医師の指示のもと、右目と左目の映像を重ねる訓練をはじめました。最初彼女は見ているものの意味がわかりませんでした。

三日後、奇妙なことが起こりました。キッチンの天井からぶらさがっている照明器具が、いつもより丸みを帯びて、飛び出して見えたのです。

最初は錯覚だと思い、混乱しました。しかし次第にそれが立体感なのだということに気づきました。彼女はこう述べています。

両目で見たら世界がどんなふうに見えるか想像できるかと訊かれて、できると思うと私は答えました。……でも私は間違っていました。(p145)

自分に何が欠けているのか、私にはわかっていなかったのです。(p151)

普通のものが普通でなくなりました。照明器具は浮かんでいるし、水道の蛇口は空中に突き出ているのです。(p151)

少し混乱もしました。二つの物のあいだに一定の距離があるとして、片方がもう片方の前にどれくらい『飛び出す』はずなのか、私にはわかりません。……びっくりハウスにいるか、ドラッグでハイになっているか、ちょっとそんな感じです。

物をじっと見つめてしまいます。世界は本当に違うふうに見えるんです。(p152)

これは、だれの感想でしょうか? 今こうして本から引用してみても、あまりにもわたしが感じたことと似通っていて気味が悪いほどです。

わたしはスーのように立体知覚が変わったわけではありません。アーレンの人は立体感覚が損なわれているせいで不器用なことがあると言われていたので、少し期待はしていたのですが、物の立体感が劇的に変わるようなことはありませんでした。メガネのフレームで視野が狭いせいもありますが、わたしは相変わらず手足を物に時々引っ掛けます。

しかし、改善された感覚は異なるのに、そのときの感動はあまりに似通っています。

スーは、最初、新しい視覚世界にちょっと混乱しました。びっくりハウスにいるか、ドラッグでハイになっているかのような感じを味わいました。また最初に立体的に見えたとき、「沈んでいく太陽の光のせいで錯覚しているのだと思い込」んだとも書かれています。(p151)

わたしも、空の青を最初に見たとき、夢でも見ているのだろうか、あるいは錯覚やマジックではなかろうかと思い、サックスが別の著書で述べた幻覚の話を思い出しました。

スーは、見えるものに本当に驚き、物をじっと見つめてしまう、世界が本当に違うふうに見えると書きましたが、わたしはまさにそれと同じように、初めて見る異世界の風景を物珍しげに見回していました。

わたしはスーと同じく、自分に何が欠けているのかさえ、まったくわかっていませんでした。わたしはずっと、まったく普通の、だれもが見ているのと同じ風景を見ていると思っていました。

まさか、自分がこれまでの人生でずっと目にしてきた世界が、本来のものではないなんて、思ってもみませんでした。アーレンのスクリーニングをして、レンズが届いてもなお、この目で見るまで、欠けているものに気づいていませんでした。

さらにサックスは、スーが感じたことをこう描写しています。

まったく新しい性質の感覚や知覚が突然出現したら、混乱したり恐怖を覚えたりするのではないかと思われるが、スーは新しい世界にごくすんなりと順応しているようだった。

最初はびっくりしてまごつき、新たな奥行きと距離の知覚を自分の動作や動きに照らして確かめなくてはならなかった。

しかしだいたいのところ、立体視にだんだん慣れて、まったく苦労を感じなかった。ずっと立体視の新しさを意識し、心から喜んでいるが、今ではそれが「自然」だとも感じている―世界を本当の姿で、あるべき姿で見ていると感じているのだ。(p153)

スーは、自分が見えるようになった立体感のある世界は「自然」「あるべき姿」だと感じました。今まで慣れ親しんだ世界ではなく、新しい見え方こそが本物だとすんなり受け入れたのです。

わたしも、アーレンメガネを通して見た異世界の風景が、まったく「自然」で「普通」なのだ、とすぐに気づきました。

あれほど色の濃いサングラスをかけてそんなことを言うなんて不思議に思えるでしょうが、実際には、かけた状態だと、色が普通に見えるのです。暗かったり、見分けにくかったりもせず、わたしの苦手な黄色が抑えられていることを除けば、いたって普通の色合いに見えます。

わたしは、メガネを外せばすぐに以前の見え方と比較できるので、どちらが「自然」で「普通」か、その場で見比べることができます。「普通」の景色を見た後でメガネを外してみると、あまりにまぶしくて、明るくて、光り輝いている世界に圧倒されます。

わたしは、中学生のころ、美術の本を見ていて、なぜかモネやルノワールといった印象派の絵に惹かれました。自分で絵を描くようになってからは、光を散らした明るい絵柄は、印象派に似ていると思うようにもなりました。

その理由がやっとわかりました。

わたしが普段見ている世界は、印象派が描いていた光に満ちあふれた、まぶしく鮮やかな世界そのものだったのです。わたしにとってはそれは当たり前のもので、だからこそ印象派の絵に親近感を覚えたのでしょうが、本当の世界は違うものだったのです。

スーはさらにこう書いています。

セミナーでは、……空いている椅子が空間のなかでどう見えるかに完全に気を取られ、一列すべて空いている椅子には何分間も注意を奪われてしまいます。

ただそこらを歩きまわって『見る』ことに、まる一日かけたいところです。今日は一時間ほどこっそり大学の温室に行って、植物や花をあらゆる角度からひたすら見ていました。(p154)

これはわたしが、新しく見える世界を何度でも見たくて、家に入ってからも、カーテンの外に何度も目をやったのによく似ています。

別の日に、アーレンメガネをかけて買い物に行ったとき、スーがセミナーで椅子に気を取られたのと似たような経験をしました。

今までわたしはスーパーで余計なものをほとんど買いませんでした。スーパーは明るくて、じっくり見る気になれないので、目当てのものだけをパッと買って帰ってしまうからです。

しかしアーレンメガネをかけてスーパーにいくと、あろうことか、何が売られているかよく見えてしまいます。わたしは今までにないほど、観光でもしているかのようにうろうろ見て回ってしまい、自制心を働かせながらも、初めて見つけたお菓子をいくつか買ってしまいました。

アーレンメガネをかけるようになって一週間が経ちますが、いまだに、外出するときには、そこかしこで、こうした新鮮な驚きを感じます。初めて旅行する国に来たような、何もかもが物珍しい印象です。

そんな気持ちを抱くたびに、わたしは、これが一過性のものにすぎないのか、それとも長く続くものなのか、疑問に思います。慣れてしまえば、この新しい世界も、見慣れた家の中のように無味乾燥になってしまうのでしょうか。

将来のことはまったくわかりません。何せ今まで感じたことのない、経験したこともない世界に足を踏み入れているのですから、常識なんてものはこれっぽっちも通用しません。

しかし、もしわたしの身に生じていることが、スーに生じたことと同じたぐいのものであるのなら、彼女がたどった経緯は参考になることでしょう。彼女はのちにこう書きました。

ほぼ三年たってもなお、新たな視覚のおかげで私は驚きと喜びを感じます。

冬のある日、急いで昼食をすませようと教室からデリに向かっていました。ところが校舎から出てたった数歩で、ぴたりと立ち止まってしまいました。

大きな湿った雪片が私の周囲にゆっくり落ちてきたのです。ひと片ひと片のあいだの空間が見えて、すべての雪片が一緒になって美しい三次元のダンスを繰り広げています。

以前の雪は自分の やや前方を平板に落ちているように見えていました。雪が降るのをちょっとのぞいて見るという感じてした。でも今は、自分が降る雪のなかに、雪片のまっただなかにいると感じます。

昼食のことなど忘れて、私はしばらく降る雪を眺めていました。そして眺めながら、深い喜びに酔いしれました。降る雪はとても美しく見えるものです―とくに、初めて目にするときは。(p164)

スーの新鮮な喜びや驚きは、3年経っても変わりませんでした。わたしもそうなるのでしょうか。

スーは立体視を得たのに対し、わたしは本当の色と明るさを得ました。それぞれ得たものが違うのですから、一概に同じようにはみなせません。

でも、わたしとスーの経験がとてもよく似ているのは、二人とも、人の感覚器官のうち、最も大きな役割を果たしている視覚において大きな変化を経験したからでしょう。どちらも見る世界が変わってしまいました。

そして、スーもわたしも、目の機能が変わったのではなく、メガネをかけたことで正常に見えるようになりました。わたしはメガネを外せば、いつでも印象派の絵の中に入れるのです。いつだって見え方を比較できるのなら、驚きはずっと続くかもしれません。

わたしが、スーのエピソードを読んだのは5年前。そのときは、こんな経験をする人が世の中にいるものなのか、とたいそう不思議に思い、深く印象に刻みこまれました。いわゆるフォン・レストルフ効果によって、わたしの記憶にずっと残っていたわけです。

でも、まさか5年後に、ほかならぬわたし自身が、それと同じようなことを体験するなどと、いったいどうして想像だにできたでしょうか。

実はわたしが初めて読んだサックスの本が、この「ステレオ・スー」のエピソードが載せられた心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界でした。その話に心を奪われてサックスの著書を読みあさり、様々な神経認知への理解を広げてここまでたどり着いたことを思うと、あまりにもよくできすぎた、奇跡のようなめぐり合わせに思われてなりません。

アーレンレンズの真価は夜に発揮された

アーレンメガネが届いた日、メガネをかけてゴミ出しに出て、息を呑むほど驚いて、ステレオ・スーの記憶が思いをよぎった後、わたしは続くツイートでこう書いています。

しかし、このメガネ、色は正しいようですが、まだ幾つか問題点があります。そのあたりは、筑波大学やメガネ屋さんなどと相談して、煮詰めていかないといけませんね。 具体的には、もう少し暗いほうがいいかも、少し映り込みがある。顔にぴったりフィットしていない、フレーム下部の光反射の四点。

メガネをかけてみると、やはり前回メガネの加工を注文したときから気になっていた、フレームの隙間や映り込みなどの問題が気になって、改善の余地を感じました。

色がもう少し暗いほうがいいかも、とも書いていますが、これは、後々使っていく中で、現状がベストだと思うようになりました。どうやら、明るいこととまぶしいことの区別がついていなかったようです。

それとは別に、思い当たったことがもう一つ。次のツイートでこう書いています。

これってもしかすると、夜かけても暗くなるどころか普通に見えるんじゃないか? 今夜試してみよう。

さすがに、こんなに暗いサングラスのようなアーレンメガネを夜道でかける、という発想はそれまでありませんでした。

前回の記事のときに行ったメガネ屋さんで、夜のヘッドライトのまぶしさなどへの対策を尋ねたところ、メガネ屋さんは笑って、「この色では夜は無理ですから…」と短波長レンズなどを紹介してくれたものでした。

わたしも、夜はアーレンレンズは使えないので、その短波長レンズやモアイレンズのような、まぶしさだけをカットする色の薄い メガネを別に買わなければ、と思っていたくらいです。

しかし、今まさに、屋外で見た景色に度肝を抜かれたせいで、考えが変わりました。もはや自分は常識の通用しない異世界にいる。そうであれば、ぜったいありえないと思っていた夜にメガネをかけても、実は普通に見えるのではないか、と。

それから日が暮れて、夜になってから、わたしのツイートはこう続きました。

今、サングラスかけたまま自転車でフツーに帰ってきました。 夜道もサングラスかけてるほうがよく見えました。多分まぶしくないぶん、かけてないときより安全運転かと。 もう常識を超えてる…。

あと体がすごい楽です。今まで普通の光のせいで、無意識のうちに神経が興奮して、身体が疲れたりこわばったりしていたのだと思います…。なんとまあ…。

そう、本当に大丈夫だったのです。

暗い夜道に出るとき、恐る恐るアーレンメガネを取り出してかけてみると、これがもう、普通に見えるのです。そしてそのまま自転車に乗ってあちこち走っても、問題なくスイスイ乗り回せたのでした。

何より意外だったのは、アーレンメガネをかけたほうが、安全運転できることでした。メガネをかけているとヘッドライトや街路灯がまったくまぶしくないので、夜道で自転車に乗りながら、目を細めたりまばたきしたりしないでよくなりました。

はっきりと目を見開いたまま運転できるので、通行人がかえってよく見えて、まわりをはっきり把握しながら自転車に乗れるようになりました。

不思議なのは、視界にまったく違和感がないことです。

昼間に外に出たときも、視界があまりに自然に見えて、まるで透明のメガネをかけているかのような感じでした。色など入っていないかのようで、ましてやサングラスのように黒いメガネをかけているなんて、自分ではまったく意識しませんでした。

それが夜道だと、よりいっそう顕著なのです。夜道では、透明のメガネどころか、メガネをかけていることさえ忘れてしまうほどでした。夜道で真っ黒のサングラスをかけているのに、何もかけていないかのような普通の視界になるとは、これやいかに。

アーレンレンズを通して見る夜道は、あまりにも落ち着いていて、静かで、素敵な世界でした。

その日以来、わたしは何度もアーレンメガネをかけて昼も夜も外出しています。昼間に、メガネを通して見る世界は、とてもクリアで新鮮です。今も、世界が違うふうに見えます。

でも、アーレンメガネをかけて夜道を自転車で走るたびに思うのは、アーレンメガネの真価は、この夜道でこそ発揮されている、ということです。

そこは、わたしがまぶしさから逃れて空想の中に創り上げた、夜のとばりの鏡像世界と同じ安心感の感じられる空間です。

わたしが求めてやまなかった、安心感のある世界。あまりに刺激の多い色と光にあふれる世界から逃れて行き着いた場所。それは夢の中にしかないと思っていましたが、それがまさに目の前に広がっているのです。

わたしはずっと夜のとばりに包まれたいと思っていました。母親の腕の中で、子どもが安心して眠るかのように。

わたしは夜道でアーレンメガネをかけたとき、まさしく夜のとばりの腕に抱かれて安心している自分がいることに気づきます。ほかのどこにも得られなかったこの深い安堵、安らぎ、充足。わたしはそれらすべてのただ中にいるのです。

夜道でアーレンメガネをかけたときの視界は、まるで閑静でロマンティックなコテージのまわりを散歩しているかのように自然でリラックスできます。光は決してまぶしくなく、街路灯も、ヘッドライトも、窓からこぼれる光も、柔らかいランタンのように、ほんのりと夜道を照らしています。

そういえば、アーレンのことがわかってから、主治医の先生に、不思議な質問をされました。わたしが描く絵を見ると、夜のシーンでも、光源以外のものが光っているような描かれ方をしているのは、実際にそう見えているからなのか、という質問でした。

わたしは質問の意図がよくわかりませんでした。それで、おそらくは自分が見ているとおりに描いているのだろうけれど、ほかの人の目に夜の風景がどう見えているのかわからないので、なんとも言えない、と答えました。

でも今は、その質問の意味がよくわかります。わたしが見ている夜の風景は、昼間の風景の場合と同じように、まったく普通のものではなかったようです。

メガネを外せば、以前の視界を見ることができます。それは慣れ親しんだ夜の景色ですが、あちこちがまばゆく光り輝いていて、ネオンや電飾が張り巡らされているかのような、キラキラと落ち着きのないイルミネーションです。

街路灯やヘッドライトのような光源のまわりには光輪ができますが、おそらく主治医の先生が思い浮かべていた光輪と、わたしが見ている光輪は全然違うのでしょう。

メガネをかけてみて、やっと夜のライトの光輪がほんのりと輝く様子を目にできました。それまでのわたしの目にはまぶしい閃光のように見えていたのですが。

こうして、アーレンメガネをかけたことで、気持ちが安らぐ本物の夜を体験できたのですが、メガネ単独の効果ではないようです。

別の夜、メガネはかけたものの耳栓を忘れて外出すると、騒々しく落ち着かない夜に逆戻りしてしまいました。メガネと耳栓、そしてメガネのフレームの隙間へ街灯の光が入り込むのを防ぐつば広帽子の三点セットが不可欠なようです。耳栓も重要な役割を果たしているのだとすれば、こんどカスタムイヤープラグが届くのが楽しみです。

周りの人に理解してもらう

アーレンレンズをかければ夜道がよく見えるようになる、という発見は、この一連の物語の中でも特に意義あるものだと思います。

すでに書いたとおり、わたしはこれによってついに求めてやまなかった空間にたどりつけたわけですが、それだけではありません。

わたしは、このアーレンメガネを使うにあたり、普段会う大勢の人たちに、事情を説明し、理解してもらうというハードルがありました。突然こんなサングラスをかけて現れるのですから、だれもが驚くこと間違いありません。どうすれば、理解を得られるでしょうか。

わたしはもともと人への基本的信頼感の欠如もあるので、周りの反応がどうなるかは、非常に不安でした。

しかし、基本的信頼感が弱いといっても、わたしはコミュニケーションが苦手ということはなく、どちらかというと、人を心から信頼しにくいせいで、相手の心に同調するのは得意です。

それで、アーレンのことを相手が受け入れやすいように段階的に情報を提供し、配慮が得られるよう説明する計画を立てて、実行しました。

特に詳しく説明するべき相手には、フィッティングのときの写真や、アーレンの資料なども見せつつ、目の前で照明器具の調光や、パソコンやスマホの暗いディスプレイを見てもらうなど、様々な実演も交えました。

そうでない場合でも、自分から人に話しかけて、メガネのことを簡潔に説明するのは大切だと感じました。会話になっても自分からは尋ねにくく感じる人が多くいるようで、そんなときは「なんか圧迫感与えるメガネですみません。ちょっと目の障害がわかってしまって…光にすごく弱いみたいで」と自分から話し始めると、話題にしてもよいのだとわかるのか緊張を解いてもらえます。

しかしその中で、他のどんなことよりも説得力があり、だれもが驚いたのは、わたしがアーレンメガネをかけて夜道を普通に歩き、自転車も自然に乗りこなしていることでした。

その様子を見た人は、目の前にいるわたしが通常と違う目の障害を抱えていて、アーレンメガネは必需品であり、配慮が必要なのだということを瞬時に受け入れてくれました。

単に明るさ過敏である、というだけなら、だれもがまぶしさを経験したことがあるので、常にサングラスをかけるなどというのは大げさではないか、と心のどこかで感じてしまうのでしょう。

しかし、夜道の暗がりを、あの真っ黒なサングラスをかけて普通に歩き、しかもスイスイ自転車に乗っている様子を見れば、もはや自分の普段の経験の延長線上で考えることができなくなり、おおげさだとかやりすぎだとかいった懸念は払拭されてしまうのだと思います。

わたしにとって、夜道でアーレンメガネをかけたときの驚きは他の何よりもインパクトがあり、これこそアーレンメガネの真価だと感じたわけですが、周りの人にとっても同じほどのインパクトがあったということでしょう。

気づいたこといろいろ

そのほかに気づいた色々なことを箇条書きにしておきます。

■人の顔の見え方
こうしてアーレンメガネをかけて大勢の人と接するようになると、人の顔もまた今までと違ったふうに見えることに気づきました。

以前のフィッティングのときの記事で、人の顔がまぶしすぎてよく見えていないために、わたしは顔が見分けにくい相貌失認になってしまったのではないか、という推測をしてしました。

では、メガネをかけるようになってどうなったのかというと、苦手な黄色の光がカットされたことで、人の顔は少し赤黒くなり、確かに以前よりも見えるようになりました。顔の染みまで見えるようになって驚いたほどです。

しかし、顔の印象が残るようになったかというと、少なくとも現時点では改善は感じていません。

自身も相貌失認だったオリヴァー・サックスが先ほどの心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界で書いているとおり、相貌失認は発達性のものであり、子どものころに顔を見分けるスキルを習得できなければ、大人になってから獲得するのは難しい、ということなのでしょう。(わたしが相貌失認について初めて知ったのもこの本だというのは因縁めいたものを感じます)

言語や免疫寛容の場合と同じく、顔認識もある程度、幼いころに学習の臨界期、そして感受性期があるので、その時期に顔が見えていなかったわたしは、今さら見えるようになっても、顔認識のスキルは、やすやすとは獲得できないようです。

■疲労感の軽減
メガネをかけることで、光による疲労はかなり和らいだ自覚があります。しかし人の多いところにいくと、やはりある程度疲れます。

わたしの問題は光過敏だけでなく、あらゆることに過敏なHSPであり、騒音や基本的信頼感の不足からくる緊張も疲労につながっているようです。

また、それ以外にも、胃腸の不調などは残っており、さまざまな過敏性の中には、何らかの食物不耐症も含まれているのではないかと疑っています。

■照明器具の色
メガネが届くまでの間、調光できる照明器具で、部屋の中を疲れない明るさと色合いに調節していました。明るさは通常の半分。色は暖色と白の中間です。

メガネをかけるようになってから、デパートや人の大勢いる場所に行ってみて気づいたのは、調光していた自宅の照明と、メガネを通して見る外部施設の照明とが見事に同じ色になっていたことです。明るさは場所によって少し異なりますが、色合いについてはほとんど一致しています。

筑波大学の一室でフィッティングした色と、自宅で適当に調整した照明器具の色が一致しているという事実は、メガネの色が正しくフィッティングされていて、わたしのアーレンシンドロームには確かに固有の色があることの証拠とみなせるでしょう。

■休薬日の光過敏
わたしは普段、ADHD対策にコンサータを服用していますが、休薬日には、いっそうまぶしさに弱くなって、ひたすら家に閉じこもって寝ていました。

しかし、休薬日にメガネをかけてみたところ、なんとコンサータを飲んでいないのに買い物に行くことができました。

薬を飲んでいないのに過剰なまぶしさを感じず外に出歩くことができ、しかもある程度の活動が可能なほど疲労感が軽減されているのは驚くべきことです。もしかすると、さらに薬を減薬できるかもしれません。

■メガネをかけて絵を描いてみた
この記事の冒頭に載せた絵は、メガネをかけて描いてみたものです。初めてメガネを通して見た、異世界ともいえる風景の驚きのイメージを形にしてみました。

この絵を描くとき、工程の大部分は、メガネをかけたまま描きました。部屋の照明器具は全光状態にして、パソコンの輝度も通常レベルに上げ、メガネで明るさをカットするようにしました。

部屋の照明器具とパソコンの輝度を下げる方法だと、コントラストまで失われて色が判別しにくくなりますが、メガネを使って明るさをカットすれば、色はある程度自然に見えるので、絵を描くのに支障はありません。しかし、手前の最も暗い場所を描き込むときと、最終的な色のチェックのときは、メガネを外して、裸眼で確認して仕上げました。

ところで、完成した絵を見た複数の人から、絵のカラーが赤っぽくなったのでは?と指摘されました。

わたしのアーレンメガネは、黄色をカットする関係上、赤みが強くなります。ですから、メガネをかけて描いているときは、結果的に絵の色はその逆、つまり赤みが弱い色あいで塗っているはずです。

しかし、絵の色は、仕上げる前にメガネを外して再調整しています。普段少し赤っぽく見えるアーレンメガネをかけていて、その視界に慣れたことで、絵の色合いを調整する際にも赤みがかった色を選んだ、というのはありえるかもしれません。

■ディスプレイの文字が少し見にくい
理由はよくわかりませんが、アーレンメガネをかけると、本など印刷された活字は読みやすくなるのに、パソコンのディスプレイの文字はコントラストが弱くなり、細部がつぶれて読みにくくなります。

わたしのパソコンのディスプレイはマット加工がされているので、部屋の照明器具を全光にすると光が反射してテカリが生じてしまうのかもしれません。

今のところは、パソコンの文字を見る場合は、これまでのように部屋の照明を落としてディスプレイも暗くしてメガネなしで作業するのがやりやすいようです。メガネを使うか、照明器具で調光するか、場面によって使い分けると良さそうです。

犯人であり探偵でもあった「差次感受性」

その後、メガネを使ってみて感じた幾つかの問題点を改善してもらうべく、メガネ屋さんに再び行きました。道中感じたのは、電車に乗ったり、夜の街を歩いたりするのが劇的に楽になったということです。身の回りの世界が、ようやく普通の明るさに落ち着いたように感じます。

特に夜道を歩くのは、何度経験しても、そのたびに、なんて素敵なのだろう…とうっとりして ため息が出るほどです。漆黒の空を見上げるたびに、これこそがわたしの求めていた黒なのだ、と満ち足りた気持ちになります。

メガネ屋さんに着いて気になったことを相談すると、まず、光がプラスチック製のフレームを透過してしまう問題については、樹脂を塗って加工することができるが、隙間を油性マジックで塗る手軽な方法でも可能だとのことでした。レンズの外し方、はめ方を教えてもらったので、帰ってからさっそく塗ることにしました。

フレームの隙間から光が入ってくる問題については、フレームを少し熱で曲げてもらうことで、問題が軽減されました。しかし、さらなる改善の余地がありそうです。

その加工をしてもらっている間、アーレンメガネの代わりに、ということで、売り物のサングラスをかけさせてもらったのですが、少しまぶしさは軽減されるとはいえ、明るすぎて微妙な印象。

それで、もっと濃いのはないかと尋ねたら、なんと市販されている中で一番それが暗く、透過率が10%だと言われて仰天しました。わたしのアーレンメガネは10%以下の暗さなのだそうです…。10%以下の明るさのメガネで夜道を自転車に乗ってスイスイ走っているわたしっていったい…(^_^;)

前回書いたTALEXの偏光レンズも試させてもらいましたが、やはり明るすぎてほとんど役に立ちませんでした。前回試したときは少し効果があるかなと思ったのですが、アーレンメガネが届いて衝撃を味わった後の今では、比べ物になりませんでした。

それにしても、わたしは、ただすべてが明るく鮮やかに見えるだけでなく、明るさを非常にしぼった暗がりでも色や形がよく見えるようです。繊細だからといって、高照度の光にさらされたときにパニックになったりするわけでもなく、不快感は感じるものの、それを十分処理できます。

これはつまり、非常に感度に幅がある、分解能のこまやかな感覚をもっているということであり、やはりHSPの「差次感受性」として説明するのが妥当でしょう。前に説明したとおり、「差次感受性」とは細かい違いを区別できることであり、物事を細切れにする能力の高さでもあります。

「差次感受性」を持つHSPの人は、光や音のみならず、概念なども含めた あらゆる感覚を、普通の人よりも深く繊細に感知できるため、細かい違いによく気がつきます。物事を細かく分解できるというのは、料理にたとえると、素材を細かくきざめるということなので、それらを混ぜ合わせてスープにするという創造性の高さと結びつきます。

前回のときも触れた脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、ものごとを細切れにして繊細に認識できる能力は、「神経差異化」と呼ばれ、脳の可塑性、つまり柔軟さと深く関わっています。(p182)

脳の中で、なにかの仕組み(ネットワーク)がうまく働かなることが、さまざまな脳の機能障害の一因ですが、うまく働かなくなった機能を、細かく分析し、細分化できる人は、機能異常が生じているネットワークの中で、どの部品が壊れているのかを特定し、それに代わる部品をあてがうことができます。

たとえば、「注意力が散漫」だ、という脳の機能異常があるとして、普通の人は、それを「集中できない」、という一言だけで済ませてしまい、問題点を見つけられません。自分の体験を落ち着いて冷静に分析できないのです。

しかし、「差次感受性」のある人は自己省察に優れているので、どんなときに集中できないか、何がそれを引き起こしているのか、逆に集中できる場合があれば、それには何が関与しているのか、といったことを、日々客観的に観察しながら気づきます。そうして体験を細分化すると、違いに気づけるので、対策も考えだすことができます。

このとき、脳のネットワークのうちの失われた部分が、別の方法で補われて新たなネットワークが作られます。失われた部分は回復しませんが、脳の別の機能を用いて柔軟に対応できるのです。この柔軟な対応力、ネットワークの組み換え力こそが脳の可塑性であり、以前の記事のHSPと自閉症の違いのところで説明した、HSPの人特有の、脳の粘土のような柔らかさなのです。

思い返せば、アーレンシンドロームについての最初の記事で、「わたしは不思議なことに、逆境になるたびに打開策を粘り強く探して、意外な方法で克服していく人みたい」だと書きました。

そのことと、わたしの感覚過敏とは、まったく別のものであるかのように最初は思っていました。かたややっかいな症状、かたや優れた問題解決力であり、推理小説でいえば、犯人と探偵のような、決して相容れない関係にあります。

しかしそれらは別のものではなかったようです。わたしの感覚の分解能が高く、10%の明るさでも夜道を歩けることと、わたしがとても深く考え、難題に直面するたびに解決策を見つけ出すこととは、同じ「差次感受性」を土台にしたHSPの性質の表と裏だったのです。

結局、推理小説の犯人も探偵も、一人の作家の手によって生み出された兄弟のようなもの、ということでしょうか。その作家こそが創造性に優れたHSPなのは言うまでもありません。

「内因性の明るさ」という新たな観点

最後に、最近もう一つ気づいたことがあります。アーレンシンドロームという光の感受性障害は、基本的に外から入ってくる光に起因するものだとされています。わたしはさらに、光を受け取る脳の感受性に関わる部分や、刺激を増幅する介在ニューロンの働きが関係していると考えていますが、それでも外からの光があって初めて症状が生じるとみなしていました。

しかし、そうした外因性の明るさ過敏ではなく、もしかすると内因性のまぶしさがあるのではないか、と思うようになりました。

たとえばわたしは、夜寝る前に部屋を真っ暗にしますが、その後しばらく、目を開けているときより、閉じているときのほうがまぶしく感じることがあります。これは暗い部屋の中の話なので、外からの光ではなく、何らかの神経の興奮による内因性のまぶしさです。

おそらく、こうした経験は多かれ少なかれだれにでもあるものだと思います。脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、神経可塑性を用いた治療に携わる科学者モーシェ・フェルデンクライスのこんな説明が載せられています。

手で目を覆っても、万華鏡を覗き込むようにさまざまな色や形が見えるはずです。この現象は、興奮した視神経が、色や形以外のものをとらえられなくなるために生じるのです。そして、あなたの全視覚系が静穏ではないことを示しています。(p326)

これについて著者のノーマン・ドイジは、「ニューロンの興奮と抑制のバランスを回復するために沈静化する必要のある、ノイズに満ちてうまく調整できていない脳の現れ」であると補足しています。(p326)

目を閉じても色や明るさが再生される、というのはまったくおかしなことではありません。わたしたちは夢の中で色を見ますし、時にはまぶしい光も見ることがあるでしょう。

まぶたを閉じ、レム睡眠に入って骨格筋を脱力させることで、わたしたちは外からの視覚を遮断しますが、そのとき脳は、記憶の中から感覚を再生し始めます。そうすると、実際には明るくなく、色も見えていないのに、夢という形で、色や明るさを認知します。そのときに脳の視覚野で生じている反応は、起きて目を開けているときと変わらないと言われています。(p333)

しかし、本来は寝ているときに生じるはずの夢の映像が、起きているときに現実世界に重なることがあり、それが幻視と呼ばれるものです。幻視には様々なタイプがあり、たとえば視力が衰えた年配の人に生じるシャルル・ボネ症候群は、欠けた視野を補うかのように幻視が現実に割り込みます。一部分だけ感覚が遮断されているので、それを補うために脳が架空のイメージを再生して補完するのでしょう。

さらに、より幻視が特徴的な病気のなかに、解離性障害があります。解離とは、起きていながらにして感覚遮断が生じるの現象であり、何かしらの強い刺激から脳を守るために現実の感覚が遮断された結果、現実感の薄れた離人症が生じたり、感覚遮断によって減った感覚を補うために幻聴や幻視といった架空の感覚が再生されるようになります。

強い解離が生じている人は、現実の視界に、内因性の色や映像という幻視が重なって見えるわけですが、そうであれば、現実の視界に、架空の明るさ、つまり内因性の明るさが、幻視のようにして重なって見える人もいるのではないでしょうか。

本来は夢の中でしか見えないような映像を起きながら見てしまう人がいるのなら、夢の中でしか見ない明るさを起きていながらにして自覚する人がいても、何ら不思議ではないように思えます。その場合、現実の明るさを認識する脳のニューロンが何らかの理由でいくらか感覚遮断されているために、代わりに内因性の明るさが割り込んでいる、ということになるのかもしれません。

その場合のまぶしさは、現実世界の光によって引き起こされているわけではないので、アーレンシンドロームに用いられるメガネや、前回の記事で紹介したような偏光レンズを用いても、まぶしい感覚が十分にはなくならない可能性があります。ちょうど真っ暗な部屋でまぶたを閉じても、色や明るさが見える現象が、目を開けている間もずっと続いているようなものです。

青みがかった黒をイメージする

そうした現象が生じている場合、必要なのは、現実の刺激によるのではない感覚を再生しつづける脳の神経系の興奮を鎮めるトレーニングなのかもしれません。脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線には、そのような訓練の一つについて説明されています。

目を閉じて青みがかった黒を視覚化するという手法は、視覚系を光がまったく当たらない状況に置いて休ませ、エネルギーを回復させる。

だが、単にまぶたを閉じたり、眠ったりするだけで同じ効果が得られるのではないのか? その答えは「ノー」だ。まぶたを閉じてもある程度の光は目に入ってくる。

さらに重要なことに、視覚系は、まぶたを閉じて特定のシーンを想像したり夢を見たりしても活性化する。

したがって、閉じた目をさらにてのひらで覆うことは、眠っているときよりも目をリラックスさせるのだろう。だからウェバーの視覚系と目の治癒には、パーミングと、青みがかった黒を視覚化する黙想テクニックが必須だったのである。(p334)

まぶしさや明るさが、メガネや照明器具の調光といった物理的手段で十分に解決しない場合は、こうした脳の可塑性を用いた対策を考える必要があるでしょう。その人に必要なのは、青みがかった黒をイメージするような手法によって、脳の明るさを認識する神経を鎮める訓練なのかもしれません。

興味深いことに、明るさに過敏になりすぎて興奮している神経をこうした方法で鎮めるというのは、以前の記事で紹介した、印象派の画家たちが、しばらく屋外の光の下で絵を描いたあと、黒曜石の鏡をじっと見つめて視覚を沈静化させてリラックスしたことに似ています。

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この本で紹介されている手法の場合は、手元にある黒曜石ではなく、想像上のビロードのような青みがかった黒をイメージするわけですが、脳の中で生じているプロセスは同じようなことでしょう。

わたしの場合、黄色い光をカットする黒っぽいアーレンメガネをかけることになりましたが、光の三原色において黄色は青色の補色なので、この青みがかった黒によって神経を鎮める方法とよく似ています。

また、この脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、視覚系が緊張しやすく、興奮しつづけるタイプの人は、サッケード(サッカード)またマイクロサッケードと呼ばれる目の運動に問題があり、周辺視野が弱いということも触れられています。(p328-329)

前シリーズの第五回で取り上げたとおり、ADHDの子どもは目のサッケード運動に問題があることが知られており、わたしのアーレンのスクリーニングを通して判明した問題は、周辺視野の弱さでした。

そもそも、ADHDの人の脳の切り替えの悪さは、視覚野も含めたニューロンが、外からの刺激がなくなってもなお興奮しつづけることによるのではないかと思います。

以前にちょっだけ触れた、暗い場所で視界にRGBノイズのようなものが混ざる現象は、先ほど引用した文中にあった、目を閉じたときに見える万華鏡のような色、興奮した視神経が作りだす内因性の色だと思います。本来目を閉じたにときに見えるそれが、目を開けた状態でも割り込んできているのではないでしょうか。もしかすると、これが普通以上に色が鮮やかに見える原因なのかもしれません。

これら数多くの接点があることからすると、わたしの場合も、明るさや色を受け取るニューロンの興奮が静まりにくいという内因性のまぶしさが絡んでいる可能性が高いでしょう。

それは夜のとばりの色

そして、この一連の記事を書いてきた最後に思うのは、わたしはすでに、「青みがかった黒」をイメージし、脳のニューロンを鎮める手法をとおの昔に身につけていたのではないか、ということです。

そう、この記事のタイトルである、「夜のとばりの鏡像世界」は、わたしが安心感を得るために、ビロードのような夜のとばりを背景にイメージし紡ぎあげてきた空想世界のことですが、それこそが、わたしが視神経も含めた脳の興奮を鎮めるために、子供のころから自然な適応によって思い浮かべるようになった壮大な「青みがかった黒」なのではないでしょうか。

現にわたしは、夜、頭が興奮して眠れないようなとき、疲れている場合にも強いて空想世界をイメージすると、不思議なほど寝入ることができます。

わたしの場合、過敏で静まりにくいのは視覚だけではありません。HSPとしてさまざまな感覚への過敏性を持っているので、頭のなかが、興奮した多様なニューロンによる、さまざまなノイズで満たされることがあります。

そうした、さまざまな感覚の興奮すべてを鎮めるために創られたものこそが、単なる青みがかった黒という色だけではなく、音も言葉も手触りも温かみもある、何もかもがそろった空想世界とそこにいる人物たち、つまり夜のとばりの鏡像世界全体だったのではないでしょうか。

芸術が得意な人の持続的空想―独自の世界観とオリジナリティの源
国語や美術が得意な人は子ども時代から空想傾向を持っている

印象派が用いた文字通りの黒曜石の鏡も、頭のなかでイメージした青みがかった黒も、どちらも視覚の興奮を鎮めてリラックスさせる効果を持っているように、わたしが構築した空想世界全体も、わたしがメガネと耳栓を駆使してやっと見つけた現実の本物の夜の安らぎと変わらないほど、わたしの神経を鎮め、安らぎをもたらす力を秘めているのではないでしょうか。

わたしは、持って生まれた感覚過敏のせいで、現実の世界が安らげる「普通の世界」でないから、自分がありのままの姿でいられるよう、別の「普通の世界」を心の中にイメージして創り出す必要があったのではないか。

だからこそ、わたしにとって夜のとばりの鏡像世界は、わたしの昼の感覚過敏とは切っても切り離せない非常に大きな意味を持っていて、人生に安らぎをもたらし、芸術的な創造性を支える土台ともなっているのではないか。

この5つの記事にわたる夜の世界の考察の終わりに、ふとそう思ったのでした。

夜のとばりの鏡像世界はそこにあった

この記事をもって、わたしのアーレンシンドロームやHSPをめぐる第二シリーズの記事はおしまいです。

第一シリーズでは、筑波大学でレンズのフィッティングが終わるまでを書いて、第二シリーズではレンズが届くまでを書いて、どちらも全5回というキリのいいところで締めくくることができました。振り返ってみれば総文字数は20万文字に迫り、全部合わせれば300ページほどの本になるくらいの分量です。

この第二シリーズのテーマは、光がまぶしすぎるからこそ創られた鏡像世界でした。明るさの刺激が強ければ強いほど、夜の暗がりを求める気持ちも強くなり、光に対する陰としての世界が創られていく、ということに焦点を当てました。思いついたことを取り留めなく書いてきましたが、最後の最後に核心に迫れたように思います。

わたしはその鏡像世界を、夢の中とか、芸術的創造性の中に求めてきたわけですが、はからずもこの最終回、アーレンメガネを夜道でかけたとき、求めていた安心感がすぐそこにあるように感じるという不思議な体験ができました。

おそらく、普通の人は、その安心感をメガネなしで、普段の生活の中で自然に感じることができるのでしょう。ところがHSPまたアーレンであるわたしは、日常の中でそれを感じられないせいで、心の中に安心できる世界を一から創り出すしかなく、それが、大半の人が持っていない芸術的創造性につながったのでしょう。

では、今まで心の中にしかなかった安心できる世界が、夜道でメガネをかければすぐそこにある、ということに気づいたせいで、以前懸念したように、一時的にわたしの創造性に影響が及んだり、わたしが大切にしてきた世界観の枠組みが変わっていったりしてしまうのでしょうか。正直なところ、今はまったくわかりません。

わたし自身、この道がいったいどこへ続いているのか、まったく見当がつきません。わたしが足を踏み入れた不思議な異世界は、これまでの人生で培った常識がまったく通用しない未知なる領域なのですから。

アーレンメガネが届いて、ずっと求めてきた夜の世界の安らぎを見いだせたこと、そして青みがかった黒が持つ意味を解きほぐせたことは、この第二シリーズの締めくくりとしてふさわしい結末でしたが、アーレンメガネによって紡がれる新たな物語はまだこれからです。

第四回で出てきたカスタムイヤープラグはまだ届いていませんし、アーレンメガネも、さらなる利便性を目指してフィット感などを改善していく予定です。

そのあたりの進展、そして、アーレンメガネを使い続けるうちに感じるであろう次なる心境の変化は、第三シリーズの記事を通して、改めて書いていくことになるでしょう。第三シリーズの記事を書き始めたら、またここにリンクを追加しますし、カテゴリ「自分語り」に引き続き登録していきます。

ここまで、夜のとばりの散歩道に付き合ってくださった方に心から感謝します。もしもさらにご興味があれば、これからもさらに続くであろう当てどもない旅に、またいつかお付き合いいただければ幸いです。

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