「神さまが降りてくる」現象の正体―芸術は本当に「わたし」が作るのか


術は「わたし」が作るのでしょうか。それとも「神さま」が作るのでしょうか。

多くの人はそんなの、「わたし」にきまっているじゃないか、と言いそうですが、じつはこれはそう単純な問題ではないのです。

それは、音楽家のロベルト・シューマンの例を考えるとわかります。シューマンは、自分、つまり「わたし」が音楽を作曲しているとは思っていませんでした。彼は、自分の楽曲はベートーベンなどの著名人が墓の中から送ってくれると信じていたのです。

これはつまり、シューマンにとって芸術は、「神さま」のような、何らかの超自然的な存在が創るものだったということです。芸術とは能動的なものではなく受動的なものだと考えていたのです。

これは何もシューマンに限られたことではありません。クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学にはこんなエピソードが書かれています。

詩人のゲオルク・ファルディは、しばしば真夜中に聞こえてくる「ゲオルク、書きはじめる時間だよ」という「声」が聞こえてくるまで、執筆を始めない。

彼は悲しそうにこう付け加える。「その声は私の連絡先を知っていますが、私は彼の連絡先を知りません」(p129)

詩人の中には、「詩神」(ミューズ)が降りてくるのを待っている人が大勢いますし、サルバドール・ダリのように、夢の中でのインスピレーションを頼りに創作する画家もいます。マンガ家だって、マンガの神さまが降りてこないと筆が動かないのです。

天才の脳科学―創造性はいかに創られるかという本によれば、クブラ・カーンを作詞したサミュエル・テイラー・コールリッジはこう述べたといいます。

筆者は少なくとも外感覚に関しては三時間ほど眠っていたが、その間に二百行から三百行以下では書けないほどののを鮮やかに自信をもって作詩することができた。

これを作詩と呼べるものならばということだが。

というのは目の前にすべての光景がそのものとして表れ、それに伴う表現を努力して感じたり、意識したりということは何もなかったのだから。(p112)

わたしとしては、さすがに亡くなった作家の霊だとか、神さまが降りてくる、といったことは、オカルトではなく、あくまで無意識の脳の働きと考えています。

果たして、絵を描くといった芸術は、意識的に作るものなのでしょうか。それとも無意識のうちに造られているものなのでしょうか。

 

(この絵は、わたしが夢の中で見た光景です)

意識と無意識、どちらが先か

芸術は、本当にわたしたちが意識して能動的に創っているのか―そのヒントを与えてくれるのが、神経科学者ベンジャミン・リベットの2つの研究です。脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学という本から紹介してみたいと思います。(p20-32)

実験1.意識の0.5秒前に脳は行動を開始する

リベットは、実験の参加者に好きな時に指を動かしてもらう、という簡単な実験をしました。そして、「指を動かそうと思った瞬間」の時間と、その時の脳波を厳密に記録しました。

すると、「よし指を動かすぞ」と思った時間は、実際に指を動かす0.2秒前でした。ここまではわかります。しかしさらに脳波を見てみると、指を動かす0.55秒前からすでに脳波が変化していたのです。つまり、意識より先に脳が先行していたのです。

この実験は、わたしたちの自由意志に大きな疑問を投げかけた研究として知られています。わたしたちが意識的にした決定というのは、実はそれより前に脳が勝手に決めていたことかもしれない、ということを示唆しているからです。

実験2.刺激は0.5秒後に感じ取る

もう一つの実験では、手術のために頭を開いている患者に協力してもらい、脳を直接刺激したという生々しいものです。

わたしたちは、手を触られると、脳に刺激が行くので、手を触られたことがわかります。では脳を直接刺激するとどうなるでしょうか。

リベットは、手を触られた時に反応する脳の領域(感覚野)に弱い電流を流してみました。するとその0.5秒後に、患者は「腕を触られた」と感じました。しかし興味深いことに、患者は「0.5秒の遅延などなかった」と錯覚していたのです。

これは、こんな大仰な実験をしなくても再現できることがわかっています。たとえば誰かに目をつぶってもらい、鉛筆でつついて刺激を感じたら、「痛い」と言ってもらうようにします。するとつついた側は、つついた瞬間と、痛いと言われる瞬間に0.5秒のずれがあることがわかるのだそうです。

さらにいえば、意識が0.5秒遅れで反応するために、わたしたちは眠った瞬間に気づきませんし、死ぬ瞬間もわからないのだそうです。

脳の無意識の活発な働き「デフォルト・モード・ネットワーク」

これらの実験からわかるのは、わたしたちは大きな錯覚をしている、ということです。

わたしたちが意識して考えたつもりの物事は、脳が0.5秒以上先取りしてすでに考えていたことなのです。わたしたちが創作するものは、あらかじめ脳が組み立てておいたものなのです。芸術のみならず、人間の作品はみな、「わたし」の作品ではなく、「脳」の作品であるということになります。つまり「脳」が無意識で作り上げているものを、「わたし」が努力して作ったと錯覚していることになります。

一般の多くの人は、「脳」の働きを「わたし」の働きと同一視していますが、一部の天才的な芸術家などの創作者は、その違いに敏感であるために、作品は自分で作ったのではない、と感じられるのでしょう。

作曲家や小説家などの多くが同様の体験を持つために、おそらく彼らは自分たちが主体的に作品を作る、という意識が希薄なのではないだろうか?

むしろ作品は神から授かる、という意識のほうが強いはずだ。特殊な才能のことを「天賦の才」と呼ぶが、これも同様のニュアンスをもつ。(p25)

モーツァルトが「フィガロの結婚」のメロディーが頭から流れ出るままに大急ぎで楽譜に書き写した時、彼は無意識の生み出したものをそのまま意識的に承認し、それを譜面に表したことになる。(p27)

このことを、わたし自身の創作活動に当てはめて考えてみたいと思います。わたしは普段、一つひとつの作品を、自分の意識で考えて創っている気になっています。しかし実際には、作品のアイデアや構図や色使いなどは、わたしが考えだす前から、わたしの無意識に存在しているのです。

無意識に存在している無数の記憶のプリセットを材料にして、わたしが寝ているときや散歩しているときなどに、知らないうちに活発な創作が行われており、それがたまたま表面に現れたときに、わたしは今、自分でこれを創りあげた、と思い込むにすぎないのです。

もちろん、これは創作には意識的な努力がまったく関係していないという意味ではありません。続く記述にはこうあります。

創作活動のプロセスを見ればわかる通り、私たちが創り出している作品の主要部分は、実は脳によって自動的に作られているのである。それはネットワークの自律性の一つの典型例なのである。

もちろんそこに意識の関与がまったくないというわけではない。村上春樹氏だって、頭の中の登場人物がまったく勝手に動くに任せているわけではないだろう。その流れを整理し、順序を整えて、人に受け入れやすくしているのは意識の働きであろう。その章立てを考えたり、漢字を一生懸命思い出そうとしているときは、前頭葉が活発に働いているはずだ。

ただそのもとになる素材はすでに自律的に脳で作り上げられているのである。(p59)

天才の脳科学―創造性はいかに創られるかによると、休息時(軽い運動や休憩、お風呂に入っているときなど)に、脳の無意識の部分が活発に働いており、それがアイデアに結びついていることが実験で照明されています。この本ではその状態は「任意エピソード無言思考(REST)」と呼ばれ、脳のほとんどの連合皮質が活性状態にありました。(p108)

 こうした休息時の無意識の状態の脳の活発な活動は、今ではデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれています。なんと意識的な活動の20倍ものエネルギーを無意識の活動に使っているそうです。

浮かび上がる脳の陰の活動 | 日経サイエンス はてなブックマーク - 浮かび上がる脳の陰の活動 | 日経サイエンス

以前の記事でも取り上げたように、脳の休息状態というのは、クリエイティブな活動にとって重要な意味を持っていて、その期間中にいろいろなアイデアが独りでに練り上げられ、創作作品の大部分が造られます。クリエイティブな人の多くはその時間をうまく用いることに長けています。

脳がデフォルト・モード・ネットワークの状態にあるときには、脳の抑制フィルターが弱まっていて、アイデアが自由に飛び交い、化学反応を起こす状態になっているそうです。

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つまり、芸術の「神さまが降りてくる」現象は、こうした無意識の休息状態に起こることが多いので、「神さま待ち」をするには、散歩に出たり、お風呂に入ったり、ロッキングチェアでゆっくりと目を閉じたりするのが良いのです。

ピンチのときに降りてくる「神さま」の正体

この意識・無意識の問題は、わたしたちの「自己」というものが、トップダウンかボトムアップか、という問題と直結しています。

わたしたちは普通、まず自分という「自己」があって、意識的に生活のいろいろなことを決め、主体的に活動し、その結果として身体の各部分が動いて、さまざまな体験ができる、と考えています。これがトップダウン(上から下へ)の考え方です。

ところが実際にはそうではなくて、まず末端の各細胞の精力的な働きがあり、無数の神経細胞(ニューロン)のさまざまなやりとりがあって、そこでなされたさまざまな決断を最後に意識として感じ取り、「自己」が生じているのです。これがボトムアップ(下から上へ)の考え方です。

これと同様の考え方として、粘菌 その驚くべき知性 (PHPサイエンス・ワールド新書)という本によると、単純に思える粘菌など、小さな生物が寄り集まって自動的に行動すると、一見、優れた知能や知性があるように見えるのだそうです。これを「群知能」といいます。

たとえばイワシの群れは、決まったリーダーがいないのに整然とと泳ぎます。アリの群れもリーダーがいないのに、せっせと計画的に働きます。光はそもそも生き物ですらないのに、常に最短経路を移動します。(p39,86,128)

さらに粘菌が作ったネットワークは、人間が作った首都圏ネットワークと酷似しているそうです。

つまり、わたしたちが意識的に作った、と思い込んでいるものは、多数の脳の神経細胞(ニューロン)や、体の各種細胞が自律的に動いた結果、見かけ上知性の働きとして見えているにすぎないのかもしれない、ということです。無数のニューロンが大挙して創りあげた無意識のうちの一部を、わたしたちは「自己」の意識として感じているにすぎないのです。

では、わたしたちの行動は、考える前からすでに無意識のうちに決まっているので、自分の行動に責任を持たなくてもいいのでしょうか。それはさすがに言い過ぎでしょう。わたしは人間には自由意志がない、という主張は極端すぎるように思っています。芸術を創るという意志なくしては、芸術が無意識のうちに創られることもありません。

しかしわたしたちの思っている以上に、わたしたちの行動や趣味嗜好は、受け継いだ遺伝的要素や、子どものときの体験という無意識の中の要素に左右されている、というのは事実です。同時にそれが、個性と言われるものの実体でもあります。(だからこそ、以前に取り上げたアスペルガー症候群など、脳の生来の構造が創作に大きく関係していたりします)

芸術、つまり絵や音楽などの創作作品に表れるわたしたちの個性は、わたしたちが意識して創り上げるものではなく、(たとえ意識して創ったと思い込んでいたとしても)その正体は、無意識のうちに織り上げられた、その人の伝記的なタペストリーなのです。

だからこそ、わたしたちは、自分の創った作品を非常に愛おしく思いますし、愛着が湧きますし、自分の子どものようにも思います。自分の創る作品は、自分以外には創れないほど、その人の全生活史が関わっているからです。

このようにして、わたしたちの作品を無意識のうちに創り上げている脳のデフォルト・モード・ネットワーク、そしてそれをつかさどる神経細胞こそ、ピンチのときに降りてくる「神さま」の正体だと言って差し支えないでしょう。この無意識はわたしたち自身のすべての情報を知り、さらに知り得ない情報までも整理し、すべてを織り合わせているのですから、「神さま」という表現はあながち間違っていないかもしれません。

偉大な芸術家たちの言葉どおり、芸術は「神さま」が創るのであって「わたし」が創るわけではない、という意見にも一理あるのです。

▼わたし自身が夢の中で絵を創った話

▼芸術と夢の関係について

幻想的な夢をアイデアの源にしたアーティストたち―なぜ明晰夢やリアルな夢を見るのか
夢を創作に活用したクリエイターたちのエピソードと幻想的な夢のメカニズム

 

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