絵の上達には競争主義が本当に必要? スポーツが苦手な子の支援から学べること

「絵は上手ければ上手いほどいい」。「スポーツは勝つことに意義がある」。

この二つの考え方はよく似ていると思いませんか。どちらも、よりうまく、より上手に、より高度にやってのけること、つまり競争主義に重きを置く価値観です。

こうした考え方は当然だと感じる人もいます。絵はうまく描けなければ、プロのイラストレーターやマンガ家として稼ぐことはできません。スポーツもアスリートとしてやっていくには、他の誰よりも速く、高くを目指す必要があります。

一方で、以前の記事で取り上げたように、そうした教育のせいで心に傷が残り、絵を描けなくなってしまう人もいます。

NHKハートネットTVの発達性協調運動障害の子どもたち【前編】によると、じつはスポーツの分野でも、同じような問題が生じているそうです。

「スポーツの理想モデルがトップアスリートに偏り、より速く、より高く、より強くという競争原理だけが称揚されると、運動が苦手な子どもにとってスポーツが無縁なものになってしまう」

競争主義によって、絵やスポーツが嫌いになってしまう。それは、ある人たちが言うように、当人たちに努力が足りないせいなのでしょうか。それとも、競争主義のほうに問題があり、だれもが楽しめる別の道があるのでしょうか。

この記事では、スポーツが苦手な子どもに対する支援から、絵描きであるわたしたちが学べる、新しい価値観について考えたいと思います。

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「下手」な人は努力が足りないのか

上手さよりも楽しむことのほうが大事。

冒頭で挙げた考え方とは逆に、近年、競争社会の窮屈さがクローズアップされるにつれ、競争よりも、楽しむことに重きを置く価値観を大切にする人が出てきました。

このサイトの過去の記事では、そうした価値観を絵の分野に当てはめました。

「上手」「下手」という考え方が、絵を描くことのハードルを上げてしまい、他の人との比較で傷ついたり、絵を描くのが嫌になったりする一因になっているということを書きました。

絵を描くことを楽しみたいなら「上手い」という褒め言葉を捨てよう
絵を「上手い」と褒めると、絵が嫌いになる人が現れるという話

しかし、上手であることより楽しむことに重きを置くこのような考え方は、おためごかしにすぎない、と厳しく批判する人もいます。

上手さよりも楽しむことのほうが大事というのは、当たり障りのない方便にすぎない、実際には上手になるよう努力することこそ絵を楽しむための唯一の道であり、上手になるためには競争原理によって切磋琢磨することが不可欠だ、と言います。

そのような人たちは、結局のところ、絵であれスポーツであれ、悪いのはうまくなろうと努力しない人のほうであり、みんな違ってみんないい、などというキレイ事は、負け犬が傷を舐めあっているだけにすぎないとみなします。

そうした主張の根底にあるのは、努力すれば誰でも上手になれる、という考え方です。おそらくは、自分自身がコツコツと努力して上達してきたという自負から、そうしないように思える人たちに厳しい目を向けるのでしょう。

確かに、競争社会で勝ち抜いてきた人が、努力を重ねて上達してきたのは事実であるに違いありません。努力なしで上手くなることはできないからです。

しかし同時に、その人が大きな考え違いをしていることを見逃すわけにはいきません。

ひといちばい努力しても上手くなるとは限らない

「上手にならないのは努力しないほうが悪い」、そんな考え方をしている人が思い違いをしているのは、すべての人が一様に同じ特性を持って生まれてくる、という点です。

自分が努力して上達できたから、別の人も同じようにすれば上達できる、という前提そのものが間違っているのです。

楽しさを重視するスポーツ価値の意識改革 では、スポーツの場合を例に、他の子どもたちと同じように努力して、ときには他の子どもたち以上に努力しているにもかかわらず、運動がうまくできない子がいることが説明されています。

学校の教師によるていねいなサポートが望まれますが、実は、自閉症やADHDの子どもたちの中には、「発達性協調運動障害(DCD)」という障害を合併している子どもも多く、その子どもたちに従来の指導法でアプローチするとかえって動きが悪化していくケースが見られます。

“子どもは指導してほしいと願うが、教えるとよけいに変になっていく”。現場の指導者は頭を抱えることになり、指導をあきらめて無視するような態度を取ってしまいがちだと言います。

ここで紹介されているのは、発達性協調運動障害(DCD)という問題です。これは、俗に言う不器用さのことですが、生まれつきの神経発達の問題であり、本人や家族の努力によって変化するものではありません。

意外に思えるかもしれませんが、「不器用な子どもたち」に理解と支援をによると、映画ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフも、DCDを抱えていたそうです。

中井さんは、映画「ハリー・ポッター」シリーズで主役を演じたダニエル・ラドクリフさんを、発達性協調運動障害のある著名人として例に挙げています。

ラドクリフさんの症状は軽度でしたが、それでも、本人は「学校時代はすべてがダメでした」と嘆くほど影響は大きく、大人になってからも、悪筆が悩みの種で、靴ひもを結ぶなどの作業も苦手だと言います。

もともとラドクリフさんが俳優の道をめざしたのも、発達性協調運動障害が原因で学校に居場所がなかったからだと告白しています。

ダニエル・ラドクリフのエピソードが示すとおり、生まれつき不器用な子どもたちにとっては、他の子どもたちが当たり前にできるようなことが、大きな挑戦になりがちです。

たとえば、発達性協調運動障害の子どもたち【前編】には、このように書かれています。

不器用さや運動ができないことを大人は軽く見ているかもしれませんが、本人にとっては大変きついプレッシャーになります。

運動の優劣や不器用さはいわゆる教科と違って、子どもが見ても明らかです。体育で悪い見本として他の子どもの前にさらされ、自尊心を深く傷つけられる子どももいます。

本人は精いっぱい頑張っている、人一倍努力して体を動かしている。それなのに、努力せずに怠けている悪い見本として、他の子どもたちの前にさらされてしまう。そんな経験をしたら、どれほど心が傷つくか想像に難くないでしょう。

わたしたち人間は、同じ脳を持っているように見えて、一人ひとり生まれつきの認知特性は異なっており、その極端な例が発達性協調運動障害です。

では、だれが、そのような ひといちばい頑張っている不器用な子どもを、悪い見本として晒し者にするようなひどい目に遭わせるのでしょうか。

それは「上手にならないのは努力しないほうが悪い」、そんなおごった考え違いをしている、努力至上主義者ではないでしょうか。

自分自身が努力して成功してきたという経験から、だれでも努力すれば上手になれるという早まった結論を導き出し、上手にできない子は努力不足、悪いのはその子自身だと一方的に決めつける、競争原理の狂信者たちです。

このような狭量な見方をする人は、スポーツの世界だけでなく、絵の世界にも大勢います。自分はたゆまぬ努力によって絵が上手になってきたという自負心から、絵が下手な人を見下し、絵は楽しむものだ、という価値観を努力不足の言い訳だと切り捨てます。

しかし、実際には、その人が絵が上手くなれたのは、努力だけでなく才能や環境にも恵まれたからであり、同じ努力を傾けても同じ結果を得られない人は大勢いるのです。

では、ひといちばい努力しても上手くならない人は、絵のスキルを上達させるのを諦めるしかないのでしょうか。それもまた違います。

楽しむことが上達する近道

さきほどの、不器用な子どもたちは、確かにひといちばい努力してもスポーツがうまくなりませんでした。しかしそれは、指導の方法が間違っていたせいでした。

「不器用な子どもたち」に理解と支援をでは、こう説明されています。

例えば、「縄跳びが飛べない」「縦笛が吹けない」「字をマス目に収められない」、そのような子どもに対して、教師も保護者も「練習が足りない」「怠けている」「何度も繰り返せば、必ずできるようになる」として、反復練習を強いる指導をしがちです。

本来はていねいな説明と適切なサポートや合理的配慮を行うべきなのに、挫折感や屈辱感を与えるような訓練が繰り返され、結果として本人の自尊感情が大きく損なわれるという問題が発生します。

最悪の場合、虐待、いじめ、体罰などのターゲットになり、感覚や運動レベルの障害にとどまらず、二次的な精神的な障害まで負うことになります。

問題となっていたのは、その子が抱える生まれつきの不器用さそのものではありません。

そうではなく、自分がやってきた方法がだれにでも当てはまると信じ込み、すべての子どもに同じやり方を当てはめて、できないことを繰り返しさせようとする、競争主義の指導者が問題なのです。

発達性協調運動障害の子どもたち【後編】によると、先ほどの発達性協調運動障害(DCD)の子どもの場合、どうあがいてもスポーツが上達しないというわけではなく、その子の特性にあったサポートをすれば上達できるといいます。

「ひとつひとつ教えられなくても何となく自然にできるようになっていく定型発達の子どもとは違っていますが、やったことは、徐々に、確実に上達していきます。ある日、何かが劇的に上手になることだってあります。

きちんとした評価に基づき、その子に合わせた療育や支援の方法を見つけ、一緒に取り組んであげることが大切です」

…中略…

「学校の体育は集団でやるものですから、個人をサポートするのはどうしても難しい。できない子どもがいても、練習の質を変えるのではなく、量を増やすことで、乗り越えさせようとしがちです。

でも、それでは発達に課題のある子どもの能力は向上していきません。

私たちは、できない行為をできるだけ緻密に分析して、何ができて、何ができないかを明らかにしながら、練習のメニューを段階づけて考えていきます」

この説明からわかるのは、生まれ持った神経の特性ゆえに運動が苦手な子どもたちは、不器用でどうしようもない子だというわけではなく、実は他の子どもとは異なるニーズを持っている子とみなせるということです。

他の子どもたちと同じように、同じ型、同じパターンにはめて努力させても徒労に終わるだけですが、その子どもに合った方法で教えてあげると、「劇的に上手になる」ことだってあるのです。

「不器用な子どもたち」に理解と支援を では、その点がこう要約されています。

また、私たちの社会に期待されるのは、子どもに同質であることを求め、弱点の克服を強いるのではなく、それぞれの長所に目を向け適切な支援で伸ばしていくこと、多様な子どもがいることを前提とした「共生社会」を作っていくことだと言います。

ある子どもを他の子どもと比較するのではなく、一人ひとりに適した方法を考えてサポートしてあげる、これは言い方を変えれば、その子が楽しめる方法で教えてあげる、ということではないでしょうか。

これは絵の場合でもまったく同じです。以前の記事で書いたとおり、絵に関わる認知特性もまた、一人ひとり異なっています。

絵に表れる視覚優位と聴覚優位の特徴―色と線の見え方
生まれつきの脳の認知特性が絵の描き方にも関わっているという話

みんな同じ方法で指導して、他の人と比べて「上手」か「下手」か評価し、競争させるようなやり方では、その方法が適している一部の人だけしか上達しないでしょう。

すべての人の絵を同じ物差しで測り、評価し、優劣を決めるようなやり方から生まれるのは、大衆受けする同じような絵柄ばかりです。

それに対し、競争原理よりも、一人ひとりが絵を描くことを楽しめる環境を作ることを優先すれば、楽しんで描いているうちに、それぞれが自然な形で切磋琢磨でき、おのずと一人ひとり異なる個性が伸びてくるものです。

そうして成長した一人ひとりの絵の個性は、一律な方法で努力を強いる狭いやり方では決して育たないような、多様な芸術的創造性に満ちているでしょう。

つまり、「上手さより楽しむことのほうが大事」や「みんな違ってみんないい」は、おためごかしの方便でも、キレイ事でもないのです。

むしろ「競争させれば絵がうまくなる」とか「上手くならないのは努力不足」といった考え方のほうが、自分の成功体験にしがみついて、多様な才能を犠牲にして同じようなコピーばかりを生み出し続ける勝者の自己満足なのではないでしょうか。

子どもの努力不足を批判しておきながら、本当に努力が不足しているのは、子ども一人ひとりのニーズを考慮するのを怠っている自分のほうだというのは何とも皮肉なことです。

だれでも絵を楽しむことができる

子どもはみんな、はじめは体を動かすことが好きです。幼いころからスポーツが嫌いな人は、ほとんどいないはずです。

発達性協調運動障害の子どもたち【後編】 に書かれているとおり、上手か下手かに関わらず、だれでもはじめは走り回るのが好きなものです。

M君に好きな学科を聞くと、「理科、図工、体育」という答えが返ってきました。「体を動かすのは好き?」と聞くと、「好き!」という返事。

不器用だからと言って、ものを作ったり、体を動かしたり、遊んだりするのが嫌いというわけではないようです。

絵の場合もそうです。はじめはみんな絵を描くことが大好きです。「上手」か「下手」かは関係ありません。

スポーツの場合も、絵の場合も、嫌いになってしまうのは、もともとの好みではなく、他の子どもと比べられる学校の環境や、先生の独りよがりな指導が原因です。

だれかと比べて「下手」だと言われたり、頑張って努力したのに低い点数をつけられたり、けなされたり、修正されたり、ダメ出しされたりしていくうちに、徐々に嫌になってしまいます。

子どもは誰でも、スポーツにしても絵にしても、一人一人違った個性を持っているところから始まります。

それなのに、学校という競争社会に投げ込まれ、みんな同じように努力すれば上達すると考える浅はかな大人が作った鋳型にはめこまれることで、型に合わない子どもが脱落していくだけなのです。

裏を返せば、それは、一人一人に合った適切な指導をすれば、だれでもずっと絵やスポーツを楽しみ続ける可能性がある、ということです。才能のあるなしに関わらず、ずっと絵やスポーツが好きであり続け、自分なりの上達を遂げていくことはだれにだって可能です。

楽しさを重視するスポーツ価値の意識改革 ではこう説明されています。

「どんなに運動が下手でも、体を動かすことが嫌いな子どもはいません。比較されることがなく、“ここでは下手でもいいのだ”とわかれば、子どもたちは安心して運動にチャレンジします。

そして、小さな目標であっても、それを達成した喜びは子どもを前向きな気持ちにさせていきます」

絵が好きであり続けること、楽しく絵を描き続けることは、多くの人が感じているほど難しいものではありません。

世の中で褒めはやされているようなタイプの絵だけが上手な絵でもなければ、だれもがみんな同じような絵ばかりを求めているわけでもありません。

楽しさを重視するスポーツ価値の意識改革が示すとおり、スポーツの世界では、競争主義の上に建てられた「理想モデル」のようなテンプレートがはびこっているせいで、本来は誰でも楽しめるはずの門戸が狭められてしまっています。

「従来のオリンピックと同じように金メダルの数やアスリートの卓越した技能だけではなく、選手たちがどんなふうにスポーツと出会ったのか、スポーツをすることでどれほど人生が豊かになったのかという観点からも報道を見てほしいと思います。

スポーツは卓越した身体能力をもつ人たちのためだけにあるのではなく、障害のある人、スポーツが苦手な人、高齢者など、万人に夢を与えるものなのです。

同様に、自分は絵が下手で才能がない、と落ち込んでしまう人は、競争原理の信奉者たちが勝手に作り出した、テンプレートのような絵の世界に惑わされているだけです。

スポーツの世界における「理想モデル」のアスリートのように、絵の世界でも特定の絵柄だけがもてはやされ、「上手な」絵、人気のある絵だとみなされます。

もちろん、自分の個性を捨ててでも人気のある絵柄を真似て、他の人よりも高い評価を得ようとするのは、それはそれで、一つのやり方だとは思います。

しかし自分が競争主義のただ中に身を投じることを選んだからといって、同じやり方を他の人にも押し付けるのは間違っています。

本来は、絵の世界とはもっと間口の広いものであり、一人ひとり異なる絵柄、異なる多様性を発揮できる豊かな世界です。おのおのの違いを認めた上で、切磋琢磨していくことが可能です。

人気のある絵柄だけでなく、それぞれの個性が生きた多様な絵のすべてが共存できる。そして、だれもが絵を描く楽しさを味わいながら、自分の特性を伸ばすことができる。

そんな多様性が根底に根づいているからこそ、絵という文化は、はるか昔から今に至るまで、世界中の至るところで愛され続けているのではないでしょうか。

絵は決して、競争で生き残った勝者だけの特権ではないのです。

▼この記事で引用した発達性協調運動障害の記事へのリンク

「不器用な子どもたち」に理解と支援を | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK

発達性協調運動障害の子どもたち【前編】 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK

発達性協調運動障害の子どもたち【後編】 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK

楽しさを重視するスポーツ価値の意識改革 | Connect-“多様性”の現場から | ハートネットTVブログ:NHK 

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