芸術に必要なのは評価ではなく共感、そうすれば「絵が人を描き変える」


〈造形教室〉に通っていると、「人が絵を描く」だけでなく、逆に「絵が人を描き変えていく」ような場面にしばしば遭遇します。(p71)

「絵が人を描き変えていく」。

これはなかなか衝撃的な言葉です。

わたしたちは、普段、絵は、「人が描くもの」、すなわち、単なる創作物にすぎない、と考えています。だからこそ、自分の能力以上の絵は描けないと思い込み、自分は絵が下手だ、と落ち込んでしまう人もいます。

しかし、長年、絵を描き続けてきた人の中には、そのまったく逆、すなわち、「絵が人を描き変える」ことを経験している人も少なくありません。ときに自分の想像を超えた作品が生み出され、絵によって自分自身が成長し、絵が自分を変えていくさまを、身を持って実感しているのです。

「絵が人を描き変えていく」とは、どんなときに生じる現象なのでしょうか。本当のアーティストとは、どんな人たちなのでしょうか。絵を描くことによって、人はどのように成長するのでしょうか。 生きていく絵という本から考えてみたいと思います。

 飛び出す絵本の物語

評価ではなく共感

はじめに引用した言葉は、生きていく絵の著者 荒井裕樹さんの言葉です。荒井さんは、文学や障害者文化に詳しい人文学の博士です。荒井さんが言及している〈造形教室〉とは東京都八王子市の平川病院にある、アートを通して心の癒やしや気づきを得る教室だそうです。(p22)

荒井さんは、その〈造形教室〉で出会った一人の男性についてこう述べています。

そんな作者と約1年間ほど話を重ねた頃、彼にとって、どうやら前者のような絵を描くときの方が心の調子がよく、むしろ後者のような絵を描くときの方が不調であるらしいことに気がついた。

私は漠然と、調子の悪いときは怪物を描き、よいときはカジュアルな絵を描くのだろうとばかり考えていたのだが、どうやら事態はそれほど単純ではなかった。

それまで私は、何とか彼の絵にこめられた意味を「解釈」しようと躍起になっていた。しかし彼と話を重ね、彼の人生や絵に対する思い入れに「共感」する気持ちが芽生えだした頃、劇的に絵の観え方が変わってきたのである。(p163)

この男性は、〈造形教室〉で絵を描き続けることによって心を整理していました。あるときはカジュアルな女の子の絵を描き、あるときはモンスターのような激しい絵を描きました。

普通のアートセラピーなら、それぞれの絵にもとづいて心理分析が始まり、このモンスターは抑圧された怒りを表す、といった解釈や評価が行われたりするでしょう。しかし〈造形教室〉では、一人ひとりの感情のおもむくままに絵を描くことができ、「干渉せず、ひたすら気づきを待っていてくれる空気」があるのだそうです。(p109)

その結果、自由な絵が心のおもむくままに生み出され、ときには絵が描いた人を動かして、気づきを与えたり、成長するきっかけをもたらしたりするのだといいます。

絵を評価するのがなぜ愚かなのか

それにしても、この「干渉せず、ひたすら気づきを待っていてくれる空気」というのは、絵を描く多くの人が、求めつつも手に入れられない環境です。

なぜなら、わたしたちの身の回りでは「絵は評価するもの」という考えが、あまりに大手を振ってまかりとおっているからです。

わたしたちは子どものころから、「上手な絵」「下手な絵」という考えを叩きこまれてきました。学校の図工や美術の授業では、描いた絵のうまさで点数がつけられました。「上手な絵」はコンクールに出され、賞をもらった絵が誇らしげに廊下に貼りだされました。

子どもたちが直面するのは、「上手な絵」だけが褒められ、そうでない絵は無言のうちに無視されるか、ほとんど興味を示してもらえないという過酷な成果主義なのです。

そのような、「上手」か「下手」かで評価される絵は、人の心を癒やしたり、成長させたりするものではなく、むしろ対抗心やねたみを生み、一握りの成功者の陰で多くの落伍者を生じさせる、心の傷の温床になってきました。絵を描くのが嫌いという大人が、これほど多くなっているのも当然ではないでしょうか。

しかし、〈造形教室〉を開設した安彦講平さんは、こう述べます。

私たちがめざし、試行してきたものは、いわゆる「教育」や「治療」のための、上から与えられ、外から解釈・評価されるような道具・手段としての描画ではなく、それぞれが自由に描き、身をもった自己表現の体験を通して、自らを癒し、支えていく。そのような「営みの場」である。(p64)

外からの解釈や評価がいっさい必要ないというつもりはありません。特に基礎のテクニックや技法を学ぶ場合には正確な指導やアドバイスは重要です。

しかし、個々の表現にまで評価や解釈が踏み込んでしまうなら、やがて必ず、自分の望むものではなく、人が望むものを描かなければならなくなります。自分の感情は抑圧しつつ、人に気に入られるものだけを目指した上辺だけの創作になりがちです。

しかし、絵を評価するのではなく、絵に共感してくれる環境があれば、自由にのびのびと創作できる安心感が生じます。

絵を評価するというのは、自分のほうが高い立場に立って、上から目線で、一方的に相手を分析する行為です。しかし絵に共感するというのは、描き手と同じ立場に立って、相手の心を自分の心で感じることです。そうした対等なやりとりができる環境があれば、絵は単なる「上手」「下手」以上の意味を帯びてきます。

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絵は他人が評価できるほど浅いものではない

そもそも、絵を他人が評価し、解釈するというのは、妥当性のあるものなのでしょうか?

すでに述べたある男性のエピソードでは、体調が悪いときにモンスターのような絵を描くのだろう、という「解釈」はまったく間違っていました。バウムテストをはじめ、絵を通して人の心を品定めしようとする分析方法はたくさんありますが、それらは信憑性に欠けるとする意見もあります。

荒井さんは、絵の魅力は、むしろ解釈を超えるところにあると言います。

優れた芸術表現は、人々の安易な想像力やお節介な意味づけを超えてみせるところにその魅力があるだろう。(p166)

ちまたにあふれる様々な美術の本や、テレビ番組では、有名画家たちの絵を取り上げて、それぞれにはこんな意味や感情がこめられているのだろうと、想像力たくましく解説しています。しかし特に当人がはっきりそう述べているのでない限り、そうした解釈は、妄想やゴシップの域を出ないものです。

それで、わたしたちの場合も、他の人の絵を見るときには、自分は上から目線で「解釈」や「評価」をしているだろうか、それとも対等な人間として、相手のありのままの感情を感じ取ろうとしているだろうか、と考えてみるとよいかもしれません。

荒井さんはこう言います。

表現の意味や意図を一方的に「解釈」するのではなく、その表現が醸しだす存在感や雰囲気に「共感」することからはじめていただきたい。(p167)

そのように「解釈」ではなく「共感」を目的にして絵を鑑賞するなら、今まで「上手」か「下手」かでしか評価できなかった絵が、もっと深く豊かで生き生きとしたものであることに気づくでしょう。

そうすると、自分が絵を品定めするのではなく、むしろ絵が自分を描き変える、ということを経験できるかもしれません。

絵が人を描き変える

「絵が人を描き変える」。最初に引用したこの言葉は、絵は「評価」するものではなく「共感」するものだ、という前提があってはじめて、現実性を帯びてきます。

絵に共感する感受性を育てるようになれば、他人が描いた絵や、自分の描いた絵によって、「自分が描き変えられる」ようになります。つまり、他人や自分の絵を通して、心が豊かにされ、成長していけるようになるのです。

荒井さんはこう述べます。

絵画は気づかずに埋もれていた自らの内面に気づかせてくれ、その発見が絵筆の動力となってキャンバスを駆け回り、再び新たな内面の境地を切り拓いていく―。(p71)

優れた絵画との出会いによって、心が揺さぶられ、自分の内面が描き変えられ、新たな気づきを得たり、自分も絵の道を志したりする人は少なくありません。

しかし、より大きな影響を及ぼすのは、自分の描いた絵によって、自分の内面が描き変えられていく体験です。荒井さんはこう述べています。

もしかしたら、「絵が自分の意図を超えていく」という点にこそ、アートを通じた自己表現の可能性があるのかもしれません。

「アーティスト」というのは、「自分の気持ちや考えたことを正確に表現できる技術を持った人」のことではなく、むしろ「自分が生みだした表現に、自分自身が驚くことのできる感受性を持った人」のことなのかもしれません。(p251)

自分の描いた絵に自分自身が驚くという考えは、何十枚、何百枚と絵を描き続けてきた人でなければ、意味を理解することができないものかもしれません。

絵を描いたことのない人、あるいは、絵をたまにしか描かない人は、絵というのは、自分の心の中にすでにあるものを表現し、形にする創作だと考えています。だから、絵に描かれているものは、絵を描いた人の内面を映し出していると考えます。絵を分析すれば、描いた人の心の中がわかるというわけです。

しかし、長年絵を描いてきた人は、絵にはそれ以上のものが反映されていると考えます。自分の思ってもみなかったような作品が生まれたり、想像を超えた絵が仕上がったりする場合があることをよく知っているからです。自分で自分の作品に驚くことがあるのです。

それは何も絵に限ったことではなく、小説家や漫画家の中には、登場人物が勝手に動き出したという人がよくいます。音楽家も含め、芸術家たちの中には、自分の創作作品は、もともと自分の中に存在したものではなく、神様から降りてきたインスピレーションだ、と表現する人さえいます。

優れた芸術家は、プラモデルを作るように作品を丁寧に組み立てて、完成図どおりに仕上げて納得するような人ではありません。むしろ、さまざまな技法を凝らしつつも、感性の赴くままに筆をとり、自分の想定外の作品ができあがったときに、新鮮な驚きをもって迎えられる人こそがアーティストなのです。

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アイデンティティを描き変える

当然の話ですが、「人が絵を描き変える」とき、絵の主題や印象は大きく変化します。同様に、「絵が人を描き変える」ときも、その人の生きざまやアイデンティが大きく変化する場合があります。

ここまで取り上げてきた〈造形教室〉の生徒たちのように、絵を描く人の中には、さまざまな病気を抱えた、世の中では「障害者」とみなされている人たちもいます。しかし、絵を描くうちに、自分は何者なのか、というイメージが大きく変化し、気づきや洞察を得ることがあります。

どのような変化を感じるかは人それぞれですが、一例として、次のような変化があるでしょう。

絵を描き始めたときは、わたしは「絵を描く『障害者』」だった。しかし絵を描き続けるうちに、わたしは「障害を持ちながら絵を描く『アーティスト』」になった。

この変化は、とても大きいものです。はじめは、自分は「障害者」だったのです。人生の中心に障害がありました。障害者というアイデンティティは、それほど大きなものでした。

ところが絵を描くうちに、自分は「アーティスト」になって、障害があるかどうかは、単なる付属物にすぎなくなりました。確かに病気や障害があることは変わらなくても、それは人生の中心ではなくなってしまったのです。

病気が絵を描くのではない

このサイトの記事でも、何度か取り上げてきたように、芸術家の中には、何らかの心身の障害・病気を抱えていて、それが創作に影響していたと考えられる人が多くいます。そうした、病気や障害が芸術家の能力と関係していた可能性を探る学問は、病跡学(パトグラフィー)と呼ばれています。

一つ目は「病跡学(パトグラフィー)」という立場です。これは優れた芸術家の創造性について、当人の出自や生活史などの伝記的事実をもとに、「精神病理学」の知見から解明しようとする試みです。(p24)

わたしも、創造性と狂気は紙一重である、という分析は的を射ていると思っています。

しかし極めて重要な点として、たとえ何らかの病気が創造性に影響を与えていたとしても、病気が絵を創作していたのではありません。むしろ、芸術家本人が、不屈の意志で病気をコントロールし、それを創造性として昇華させていたことにこそ、意義があるのです。

わたしたちはゴッホの絵を見るとき、それがアブサン中毒者の障害者アートだとは思いません。コナン・ドイルの小説を読むとき、うつ病患者の創作物だとみなす人はいません。ベートーヴェンの音楽を聞くとき、躁うつ病患者の音楽セラピーの産物だとも考えません。

いずれの場合も、わたしたちは彼らを「画家フィンセント・ファン・ゴッホ」「小説家アーサー・コナン・ドイル」「音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」とみなしています。それは、彼らのアートが、単なる障害や病気の産物ではないことをよく知っているからです。

何らかの病気や障害を持つ人が絵を描く場合でも、それと同様の考えの変化が生じます。最初、彼らは「アートセラピー」のような自己治癒のために描くのかもしれません。しかし、無心に描き続け、「絵が人を描き変える」経験を通して、彼らの絵は単なるセラピーの産物ではなくなります。

むしろそれは「アール・ブリュット」と呼ばれるにふさわしいものでしょう。近年は誤った意味が付されることがありますが、本来の意味でのアール・ブリュットとは、正規の芸術教育を受けず、既存の概念には染まらない人たちが生み出した、「一般的」「常識的」な価値観に収まらない新たなアートのことを言うそうです。(p25)

▼芸術家と病気や障害の関係についてはこちら

脳の病気や障害がきっかけで芸術家として開花したアーティストたち―幻覚からサヴァン,発達障害まで

わたしの場合

わたしの場合も、自分の絵は、わたし自身を描き変えてきたと感じています。今回の本を読んでいて思い出したのは、何ヶ月も前の記事で、こう描いていたことです。(自分で自分の文章を引用するというのも何だか恥ずかしいですが…笑)

不登校だったわたしの人生が絵を描くことで変わった話―手に入れた5つのもの

でも正直いって、自分でも驚いています。わたしがメルヘン・ファンタジーな絵を描くなんて、昔は想像もできませんでした。…人間というのは本当に複雑で、磨けばさまざまな色合いが映るダイヤモンドみたいに、いろいろな可能性を秘めているのだなあ…と自分でもあっけに取られているところがあります。

上の記事に書いたとおり、わたしはある神経系の病気を持っているので、障害者手帳の認定も受けています。当初はその病名がアイデンティティだった時期もありました。でも、今では、もはやそれは日常生活において重要ではありません。そうなったのは、「絵がわたしを描き変えた」おかげです。

絵を「評価」するという考えのもとでは、一人ひとりを上から見下ろし、独りよがりな分析をしたり、レッテル付けをしたりするのが普通です。そうした人からすれば、病気や障害を持っている人が描いた絵は、「障害者アート」にすぎないのかもしれません。

しかし、絵に「共感」するという考えのもとでは、どんな立場の人の絵に対しても、同じ感情を持つ一人の人間が描いた作品として接することになります。そこには病気や障害があるかないかという壁はありません。わたし自身、人の絵に共感するようになって、自分自身に対しても、そんな見方ができるようになりました。

この本は、「アーティスト」というのは、「自分の気持ちや考えたことを正確に表現できる技術を持った人」のことではなく、むしろ「自分が生みだした表現に、自分自身が驚くことのできる感受性を持った人」だと定義していました。

その定義に基づけば、今や、わたしは一人のアーティストだと思います。上の記事で述べたように、わたしは自分で描く絵にわくわくして未知との出会いを楽しんでいます。

今回読んだ本は、共感できる部分もあれば、納得のいかない点もありました。しかしこの記事に書いたような点を発見し、気づけたのは大きな収穫でした。

一人の人間として、自由に自分の心を表現し、自分が描き上げた絵を新鮮な驚きを持って迎える。そのような「絵が人を描き変える」体験を、これからも繰り返し経験し、未知の自分と出会っていきたい。わたしは今、心からそう思います。

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