芸術の解釈に「正解」はない。目の見えない人が絵をもっと楽しむ方法を教えてくれた

作品を鑑賞するとは自分で作品を作り直すことである、と書きました。あまり一般的ではない意見かもしれません。ここで少し説明を加えておきたいと思います。

鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります。

多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。もちろん、好き勝手に解釈していいというものではないですが、だからといって自分なりの見方で見てはいけないと構えてしまっては意味がありません。(p178)

なたは絵を見るのが好きですか?  もしかすると、SNSでクリエイターの絵を楽しんだり、美術館に行って有名な絵画を楽しんだりするのが好きかもしれません。あるいは、子どもの絵の展覧会や、地元のサークルの作品発表など、有名ではないけれど、自由にのびのびと描かれた絵を見に行くのが好きかもしれません。

一方で、「美術や芸術は、難しくてわたしにはわからない」という人もいます。美術館に行くと、格調高い絵画の下に、絵の歴史や画家の半生、そしてその絵にはどういう意味があるのか、といった解説が細かい文字でびっしり書かれていて、見るだけで疲れると感じる人もいます。学校の美術や音楽の授業でも、ペーパーテストのために知識を丸暗記して、芸術とは難しい、わかりにくいものだ、と苦手意識を持ってしまった人もいるかもしれません。

わたしたちは、絵を見るのが好きな人も、芸術は難しすぎて肌に合わないと思っている人も、多かれ少なかれ、ひとつの根強い誤解に縛られていることがあります。それは冒頭で引用した文にあるとおり、「解釈には正解がある」という誤解です。

芸術に苦手意識を持つ人は、自分には芸術的作品に込められた正確な意味や作者の意図を理解する感性がない、と感じるかもしれません。絵を描くのが好きな人でも、絵の描き方には正解があって、「上手な」絵と「下手な」絵があるという思い込みにとらわれてしまうことがあります。

そんなとき助けになるのは、意外にも「目の見えない人」がどうやって絵を楽しむかを知ることだ、と述べるのは、冒頭で引用した目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)という本です。

目の見えない人から絵の楽しみ方を学ぶ? 果たしてどういう意味なのでしょうか。目の見えない人が、どうやって絵を楽しむことなどできるのでしょうか。ましてやどうして目の見える人がそこから学べることがあるというのでしょうか。

サンシャインビーチ1.1

目の見えない人はどうやって絵を見るのか

まずだれもが気になるだろう疑問は、目の見えない人が絵を楽しむとはどういうことなのか、ということでしょう。

絵という芸術は、音楽や文学、彫刻などと比較しても、最も、「目」に、つまり視覚に依存している芸術だといえます。 絵を音楽のように耳で聞くことはできません。文章のようにだれかに読み上げてもらうわけにもいきません。彫刻のように手で触れて形を確かめることもできません。

でも、目の見えない人には、目が見えないなりの絵の楽しみ方があるのです。

この本によると、1990年代半ば、全盲の大学生だった白鳥健二さんは、目が見える親しい友人に付き合って、美術館へ行きました。それまでは美術館には縁遠かった白鳥さんですが、なんと目が見える友人と会話しながら美術館を回ることで、自分も美術を楽しめることに気づいたそうです。

それから、盲目でも美術を楽しむという活動を始め、目の見える人と目の見えない人がグループになって、絵の自由な感想を述べ合いながら楽しむという新しい美術鑑賞のかたち「ソーシャル・ビュー」が生まれました。

たとえば、首都圏の美術館では定期的に「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」というイベントが企画されているそうです。(p163)

この「ソーシャル・ビュー」が興味深いのは、目の見える人が見えない人のために音声ガイドのように解説してあげる、というスタイルではないことです。

そうでなくて、見える人が絵を見ながら口々に自由な感想を述べ、それを聞いた目の見えない人が頭の中でイメージを膨らませて感想を言い、そらにそれを聞いた目の見える人が想像を膨らませ…というお互いの視点を重ねることで考えを発展させていくというのが、「ソーシャル・ビュー」のユニークなところです。

その結果、どうなるのでしょうか。

紹介されているあるエピソードでは、美術館員と白鳥さんが会話しながら印象派の絵を見て回っていたところ、それがヒントになって、美術館員のほうが、毎日のように見ている絵から新たな発見が得られた、ということでした。(p166)

美術館員は、今まで「湖」だと思っていた絵が、じつは「野原」だということに、「ソーシャル・ビュー」のやりとりを通して気づいたのです。

教科書には、絶対にそうは書いてありません。「この絵には野原が描かれています」という「情報」の説明があるだけ。

それに対して、「湖っぽい野原」というのは、見た人の経験に根ざした「意味」です。

…情報としては抽象されてしまうこの遠回りこそ、実は印象派の本質を明かすものであったのです。(p168-169)

なぜ、目の見えない人が、目の見える人に新しい気づきを与えることなどできたのでしょうか。

それは、目の見えない人が目の見える人に劣っているのではなく、むしろそれぞれが違う視点から物事を見ている、という点と関係しています。

「情報」ではなく「意味」を大事にする

さきほど引用した文では、「情報」「意味」という単語が対比されていました。

教科書では絵の説明、つまり「情報」が書かれています。でもソーシャル・ビューの自由なやりとりから生まれたのは絵の「意味」でした。そして「情報」より「意味」のほうが、じつは本質を突いていることがある。そんなふうに説明されていました。

ではこの「情報」と「意味」とはなんでしょうか。

少し絵から離れて、福祉の話になりますが、すぐにまた絵の話に戻ってきて発展していきますので、焦らずにお付き合いください。

芸術の「情報」を重視するとどうなるか

まず情報についてはこう説明されています。

「情報」ベースの関わりとは何か。乱暴に図式化してしまえば、それは福祉的な関係です。

見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。見える人が見えない人を助けるという関係がこの福祉的な発想の根本にはあります。(p35)

ここで「情報」は「福祉的な関係」と結びつけられています。つまり、なんでもよく知っている目の見える人(健常者)が、何も知識がない目の見えない人(障害者)に社会の「情報」を与えてサポートしてやらなければならない。そんな姿勢です。

確かに「情報」は必要かもしれません。でも、それだけでは、大事なものを見落としてしまう、と著者は続けます。

もちろんサポートの関係は必要ですが、福祉的な態度だけでは、「与える側」と「受けとる側」という固定された上下関係から出ることができない。それではあまりにもったいないです。(p30)

著者はこのあと、福祉に関わる人たちが必ずしもそうした上下関係だけで仕事をしているわけではないと丁寧にフォローを入れていますが、問題となっている論点は明らかです。

「情報」を絶対視する社会では、必ず「情報強者」「情報弱者」が存在します。

「情報強者」である健常者が、「情報弱者」である障害者をサポートしなければならない

「情報強者」である専門家が、「情報弱者」である一般人を教えなければならない。

「情報強者」である学校の先生が、「情報弱者」である子どもを指導しなければならない。

これは美術の世界でも同じです。

より知識のある専門家、批評家が、何も知らない一般人に美術の「正解」を教えなければならない。

「情報」を重視しすぎると、世の中のあらゆる物事に、正しいものと間違っているものが生まれてしまい、正解か間違いか、白か黒か、与える側と受けとる側か、といった上下関係につながってしまうのです。

これが芸術の世界に入り込むと、以前書いたような「上手」か「下手」かという上下関係が生まれてしまい、絵を描くのが窮屈になったり、ねたみや劣等感が生じたりしてしまう場合があるのでしょう。

絵を描くことを楽しみたいなら「上手い」という褒め言葉を捨てよう
絵を「上手い」と褒めると、絵が嫌いになる人が現れるという話

芸術の「意味」を重視するとどうなるか

この本の著者は、そうした「情報」重視とは別の視点、つまり「意味」を重んじる考え方に発想を転換してみるのはどうだろう、とアドバイスしています。

ここに「意味」ベースの関わりの重要性があります。意味のレベルでつきあえば、見える人と見えない人の関係は変わってきます。

意味に関して、見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。…見えないからこその意味の生まれ方があるし、ときには見えないという不自由さを逆手にとるような痛快な意味に出会うこともあります。

その意味は、見える/見えないに関係なく、言葉でシェアすることができます。そこに生まれるのは、対等で、かつ差異を面白がる関係です。(p40)

「意味」を重んじる視点の場合、絶対的な意味で「正しい意味」とか、「間違っている意味」は存在しません。

一人ひとり、どんな意味を受け取るか、という違いはあっても、どちらが優れているという優劣はありません。

たとえば、だれもが人生の経験からいろいろな意味を感じ取ります。でも、“健常者”が人生から学んだ意味、“障害者”が人生から学んだ意味、それぞれにどちらが正しいというような優劣はありません。

たとえ同じような出来事を経験するにしても、それぞれが異なった立場、異なった視点から、意味を感じ取るので、豊かな多面性が生まれます。同じ出来事を違うように解釈するとしても、どちらも正しく価値があります。

芸術についてはどうでしょうか。

たとえばモネの印象派の絵を見たとき、専門家と一般人とでは、感じ取るものが違うでしょう。

確かに専門家のほうが、画家や時代背景、美術の様式といった知識、つまり「情報」は豊かです。でもそれだけがすべてではありません。

同じ絵を見ても、一人ひとり感じるものは異なります。それぞれが自分の人生経験や、今置かれている状況に照らして絵を眺めると、さまざまな思いが渦巻くことでしょう。

ある人はモネの優しく柔らかい絵を見て、ストレスの多い毎日からの癒やしのを感じるかもしれない。別の人は降り注ぐ明るい光のタッチから、子どものころの思い出を懐かしく思い出すかもしれない。

絵の解釈に「正解」があるという狭い見方を捨てるとき、鑑賞者一人ひとりに異なる「意味」が生まれます。そして絵の持つ価値は、単なる「情報」を超えて、もっと豊かで多様なものになるのです。

前に、芸術に必要なのは、評価ではなく共感ではないだろうか、という話を書きました。

芸術に必要なのは評価ではなく共感、そうすれば「絵が人を描き変える」
アーティストとは自分の枠を超えた創作を楽しめる感受性を持った人

上手か下手かという評価、この絵はこういう意味であるという決めつけ、作者はこういう意図で描いたという解説。

確かに背景となる「情報」は有用です。「情報」があるからこそ、それを手がかりにさまざまな想像をふくらませることができます。しかし、ある解釈が唯一の正しい答えであるというのは狭い見方であり、正しくもありません。

批評家や専門家は、これこれの美術にはこんな意味があると決めつけたがりますが、自分で毎日絵を描いているような人は、創作の動機はもっと複雑でとらえどころのないものだということをよく知っています。

絵を描く人は、自分でも、絵のアイデアがどこから出てきたかを知らないこともあります。なぜ自分がその絵を描いたのかさえわかっていないこともあります。絵を見てくれた人からの感想を聞いて初めて、自分の絵の豊かな「意味」に触れ、発想が広がることもあります。

作者ですらはっきりわかっていないことを、自分で絵を描くわけでもない批評家が唯一正しい解釈であるかのように述べ立てるとしたら、それは思い上がり以外の何物でもありません。

なぜ目の見えない人は多様な見方に慣れているのか

ここまで考えてきたように、わたしたち目の見える人は、絵の解釈の仕方や描き方には正解がある、という「情報」重視の誤った考え方に陥りやすいという弱点があります。

それに対し、「ソーシャル・ビュー」のエピソードからもわかるとおり、目の見えない人は、一人ひとり異なる「意味」を感じて構わない、そのどれもが正解なのだ、というもっと多様で柔軟な考え方に慣れています。

それはどうしてなのでしょうか。

「自分の見たものがすべて」

興味深いことに、ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という本によると、心理学では、「情報」を重視するあまり思い上がってしまい、唯一正しい解釈や正解があると思い込んでしまう現象が、視覚と結び付けられています。

この傾向は、自分の見たものがすべてだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうとしないことに由来する。

…この「自分の見たものがすべて(what you see is all there is)」は、英語の頭文字をとって、WYSIATIという長たらしい略語が作られている。(p129)

わたしたちは、この記事を書いているわたしも含めて、だれもがWYSIATIの傾向を持っています。

わたしたちは、おもに、視覚を通して、自分の身の回りの情報を集めています。耳で聞いたり手で触れたりして学ぶ情報もありますが、わたしたちの知識は、あくまで目を通して得る情報が大半を占めるでしょう。

目で見ることは、情報を集めるのにとても役立つ優れた手段ですが、同時に落とし穴もあります。

わたしたち人間は、自分の見聞きした情報だけがすべてだと思い込んでしまい、狭い見方に凝り固まってしまう傾向があり、それこそがWISIATIなのです。

この本には、WYISIATIがいかに根深いものかを示す、とある実験が載せられています。

それは、ある裁判を想定した場面で、実験に参加する人たちは、原告か被告どちらか一方からだけ話を聞くグループと、原告と被告の両方から話を聞くグループとに分けられます。

するとどんな違いがみられたでしょうか。

一方の側からだけ説明を受けたグループは、両方から説明を聞いたグループより、自分の判断に自信を持っていた。

そう、まさに読者もお気づきのとおり、手持ちの情報だけでこしらえ上げたストーリーのつじつまが合っているものだから、この人たちは自信を持ったのである。(p130)

なんと、どちらか一方からだけ情報を聞いたグループは、ほかの可能性を検討することもなく、自分の見聞きした情報がすべてだと考えてしまい、一方的に相手が間違っていると決めつけてしまったのです。

本当は、原告側、被告側にそれぞれの言い分があり、どちらにも耳を傾けてはじめて、問題の本質が明らかになるのに、「自分の見たものがすべて」に陥っていた人たちは、自分の側が正しいと思い上がってしまいました。

教訓はなんでしょうか。

なまじ目が見えていて、自分で情報を収集できると、自分の見聞きした情報だけがすべてだ、自分は真実を知っているという独善的な見方に凝り固まってしまいやすい、ということです。

見えないからこそ聞く耳がある

では、そもそも目が見えない人の場合はどうなのでしょう。自分の情報だけが正しいという思い上がりは、「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)と呼ばれていたわけですが、見ることができない、目の見えない人の場合にこれは当てはまるのでしょうか。

もちろん、目の見えない人も、WYSIATIに陥ることはあるでしょう。目が見えないからといって、情報がまったく入ってこないわけではなく、少ない手持ち情報にもとづいて偏った判断をしてしまうことはあります。

でも、目の見えない人は、目の見えるわたしたちに比べて、自分たちには圧倒的に「情報」が少ないことをしっかり自覚しています

すると、当然、自分の知っている「情報」だけがすべてで、十分なものだ、という思い上がりにとらわれにくくなります。

常に、「自分には情報が不足しているのだから、もしかすると別の可能性があるのではないか」、と考えることに慣れているのです。

さきほどの「ソーシャル・ビュー」の話を思い出してみてください。目の見えない人たちは、自分の目で絵を見ることができませんでした。「情報」が圧倒的に不足しているのをよく知っていました。

それで目の見えない人は、目の見える人たちの意見に耳を傾けます。自分の考えに固執するどころか、他の人の考えを真剣に聞きます。

それもだれか一人だけの意見を聞くのではなく、その場にいるすべての人の意見に公平に耳を傾けます。少しでも多面的な情報がほしいと思っているからです。

もう一度、目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)に戻って、説明を見てみましょう。

つまり、ソーシャル・ビューは、見えない人にとって新しいだけでなく、見える人にとっても新しい美術館賞なのです。

いったいどんな意味に、どんな解釈に到達することができるのか。解釈には正解はありません。

目的地を「目指す」のではなく「探し求める」この道行きは、筋書き無用のライブ感に満ちています。(p170)

目が見えている人は、見えるがゆえに、“正しい”目的地がわかるので、そこを一直線に目指してしまいます。ほかのルートがある可能性に気づきません。ましてやそれが間違っているかもしれないとは思いません。目の前に見える「情報」こそすべてだと考えて、自分の出した答えが、正しい唯一の答えだと錯覚しがちです。

でも、目が見えない人は、目的地の場所は見えません。手探りでさまざまな情報をたぐりよせ、多面的な意見を聞いて、自分で推理しながら、目的地がどこかを探し求めるのです。

それはちょうど、手に入る限られた情報から事件の全貌を推理する探偵のような仕事です。

パーツがそろってくるとだんだん全貌がつかめてくるし、そうなると、足りないパーツや整合性のとれない箇所も見えてくる。

すると質問をしたくなります。全体がつかめ始めたころに見えない人が投げかける質問は、驚くほど的確です。

「情報」がないので、かえって、さまざまな人の多様な意見を聞き、それぞれの「意味」を考えて、じっくり推理しながら、さまざまな可能性を比較検討することに慣れているのだとわかります。

このような考え方の違いは、目の見える人、目の見えない人お互いの習慣の違いです。

見える人は視覚が全体像を与えてくれることに慣れてしまっているので、それがないとお手上げになってしまうのでしょう。「推理しながら見る」ことに慣れていないのです。

それに対して、見えない人は常にこうした推理を行っています。つまり美術鑑賞にかぎらず、ふだんから断片をつなぎあわせて全体を演繹する習慣がついているのです。(p175)

こうしたことが、美術鑑賞のような、芸術を楽しむときにも、重要な意味を持ちます。

専門家や批評家は、自分が見聞きしてきた「情報」にとらわれるあまり、「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)に陥って、視野が狭くなり、独断的な解釈を唯一正しいものとして押しつけがちです。

しかし実際には、さきほどの裁判の実験のように、自分の視点だけにとらわれた専門家の意見は、一見正しいように思えても、じつは全体像を見誤っていて、「手持ちの情報だけでこしらえ上げたストーリーのつじつまが合っている」だけにすぎないことも多いのです。

見えないからこそ視点がない

この「自分の見たものがすべて」による判断の誤りは、言い換えると、「視点」の問題であるともいえます。わたしたちは、自分の視点から得られる情報がすべてだ、と考えやすく、自分とは違う場所に立っている他の人の視点から考えるのは苦手なのです。

この一つの視点にとらわれるかどうか、というのもやはり、目の見える人と見えない人の違いだといいます。

決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。

視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。(p79)

この本によると、目の見えない人は、見えないがゆえに「視点」のない考え方をしていることが多いようです。

たとえば月の表と裏という概念がなく、月を球体としてイメージしていたり、大阪万博の太陽の塔をイメージしてもらうと、どちらが前でどちらが後ろといった視点にとらわれなかったりする例が紹介されています。

目の見えない人すべてがそうなのかどうかはわかりませんが、傾向として、自分の目で見るという固定された視点がないために、前と後ろ、表と裏、といった視点からくる区別がないといえるのでしょう。

これは、先ほどからずっと考えている「情報」にとらわれて独断的になってしまう人たちの場合とは正反対です。

自分のほうが情報を持っていると思い上がる人たちは、自分の視点にとらわれて、別の視点があるということさえ考えません

「健常者」という視点から「障害者」を見て、さまざまなサポートを制定する人たちの多くは、「障害者」の視点になって世の中を見たり、こうしたサポートを受けるときどう感じるだろうなどと考えたりすることはほとんどありません。

「批評家」という視点からこの絵にはこういう意味があると独断的に解釈する人たちは、「絵を描く人」の立場からすると、まったく別の意味があるかもしれないとか、そもそも意味などなく描いているのかもしれない、といった可能性には気づきません。

「医者」は「患者」の病気を診察し治療しますが、「患者」の立場から問題を見て、どんなことが辛いのか、どういう気持ちなのか、ということを考える人はほとんどいないでしょう。ましてや、「医者」である自分が、「患者」の方から逆に病気について重要な点を教えてもらえるかもしれない、といった柔軟な見方のできる医師がどれほどいるでしょう。

こうした視点の狭さからくる独断的な決めつけは、わたしたちの日常のいたるところに、よく見られるものなのです。

私的なことですが、先日、どういうわけかネット上で、実名や顔も明らかにしている美術の専門家の方たちが、わたしが書いたとある記事について、美術史や様式美を無視したひどい内容だと批判しておられるのを見かけてしまいました。

その記事は主に絵描きとしての気持ちを書いていたものであり、記事の主旨とかけ離れたところを非難されていたので不思議に思ったのですが、この記事を書いていて、おそらくこういうことなのだろうと気づきました。

つまり、その専門家の方々は、自分が集めた知識によってWYSIATIに陥っていて、自分は美術の「正確な解釈」を知っていると思い上がっていたので、専門知識と異なる「不正確」な部分が少しでもあれば、声高に非難せずにはいられなかったのでしょう。

もし違う視点、つまり、サイトのプロフィールに書いているとおり、記事を書いているわたしは美術史の専門家ではなく、単なる一個人の絵描きであり、その立場から自分の感じた「意味」をつづっているにすぎない、という視点に気づくことができれば、そんな醜態をさらさずにすんだはずです。

けれども、ここまで考えてきたように、自分は専門家であり情報を持っている、と感じている人ほど、自信過剰かつ上から目線になりやすく、インターネット上で実名も顔写真も所属学部も公開していながら、単なる一般人の記事を声高に批判したりしたら、自分がどんな人間だと見られるか、という視点に立つことさえできなくなる、ということを物語っているように思えました。

自分の見方が唯一正しいという思い上がりを捨てる

このように、目が見えることで得られる自分の手持ち情報にとらわれ、独断的になってしまうこともあれば、目が見えないことでかえってさまざまな意見に聞く耳を持ち、視野が広くなることもあります。

絵を楽しむ場合でも、どれか唯一の正しい解釈や、上手な描き方がある、とかたくなになるよりは、意味や感じ方は人それぞれで、多様な受け取り方、一人ひとり違う感動があってもいいんだ、と考えるほうがより楽しさが増し加わるでしょう。

ではそうした見方を身につけるには、目の見えない人にならなければならないのでしょうか。

そうではありません。

ここで考えてきたのは、確かに「目の見える人」と「目の見えない人」の考え方の違いです。

しかしお気づきのように、これは、自分がすべての情報を知っていると思い上がっているか、自分の限界を常に自覚している謙虚さがあるかの違いでもあるのです。

目の見えない人は置かれた状況のせいで、自分には得られる情報が少ないということを自覚します。その結果として、自分の意見に固執するよりも、さまざまな意見に耳を傾けて推理する「習慣」が身につくということでした。

目の見える人は、どうしても多くの情報が入ってくるので、WYSIAYIに陥りやすいのは事実ですが、その傾向を自覚していれば、次のように意識的に考える「習慣」を持てるかもしれません。

■自分の知っている情報がすべてだと思いあがっていないだろうか

■自分とは違う立場にいる人の視点から物事を考えるために、他の人の意見に耳を傾けてみただろうか

■ひとつの解釈が正しいと決めつけて独善的になっていないだろうか

■唯一正しいとみなされている「情報」より、一人ひとりの感じる「意味」のほうが真実に近い場合があることを思いに留めているだろうか

このように考える「習慣」を持つなら、生活のさまざまな部分で役立ちます。

白か黒か、与える側と受け取る側か、教える側と学ぶ側か、という窮屈な見方ではなく、世の中にはさまざまな考えの人がいて、さまざまな物の見方があることに気づけます。

そして、ときには自分が教える側にもなれば、ときには相手から学ぶ側にもなる。たとえいわゆる「健常者」であっても、「障害者」から逆に教えられることもある。「目の見える人」が「目の見えない人」からたくさんのことを教えてもらえることもある。むしろ何かが欠けていると思える相手のほうが、じつは自分よりも豊かな世界を持っている。そんな楽しい気づきがたくさん見つかることでしょう。

つまるところ、この世界は、先生と生徒、健常者と障害者、専門家と一般人、与える側と受け取る側、そんな白黒つけられるような窮屈な上下関係で成り立っているわけではありません。

一人ひとりが特別な個性を持つ人、すなわち長所もあれば短所もあり、教える側にも教えられる側にもなれ、与える側にも受け取る側にもなれる、唯一無二の個人個人による共生関係から成り立っているのです。

わたしの経験から

この記事を書いているわたし自身も、当然WYSIATIに陥りやすい傾向を持っていて、世の中の大勢の人たちと大差ありません。

この記事に書いた内容もまた、わたしが見聞きした「情報」に基づいて書いているわけですから、特定の視点に縛られていることでしょう。実際のところ、わたしたちはだれひとりとして、まったく特定の視点に縛られずに公平でバランスのとれた見方ができる人はいません。

むしろ一人ひとり独自の視点があるからこそ、自分とは異なる相手の話に耳を傾ける楽しみが生まれるのであって、その多様性こそが豊かな味わいを生みだします。

問題なのは、自分の視点に縛られることではなく、自分の視点が唯一絶対の正しいものだと考えて、他人の意見に耳を閉ざしてしまったり、独断的になったりしてしまうことでしょう。

残念ながら、今の世の中では、何でもただ一つの正解がある、という見方にとらわれやすい基盤があると思います。

というのは、だれもが学校の勉強の中で、正しいか間違っているか、テストでマルバツをつけられて育ってきているからです。

冒頭に引用した文章では、芸術の分野でさえ、多くの人が「解釈には正解がある」「正解は作者が知っている」「批評家が正解を教えてくれる」と考えてしまっていると書かれていました。

わたしは学生のころ、国語の授業の成績がよかったのですが、国語では、名作と呼ばれる文学を読んで、このとき作者や登場人物はどんな気持ちだったのか、という答えを書くよう求められます。

わたしはいつも成績はよかったのですが、この種の問題は好きではありませんでした。わたしはいつも、そうした質問に答える際には、背景となる知識を参考にしつつ、先生や文学評論家ならこういう答えを望むだろう、と考えて答えを書き、良い点数をつけられていました。

でも、内心、それはあくまで「先生や評論家が望む答え」にすぎず、おそらく文学作品の著者が実際に感じていたこととはかけ離れているだろう、ということを自覚していました。

だれも著者本人にインタビューしたわけではありません。著者が自分の作品を分析した丁寧な解説を残してくれているわけでもありません。

名作文学の解釈というのは、いくらさまざまな情報に基づいているにしても、結局は著者とは面識さえもない他人が、独断と憶測で練り上げたものに過ぎないのです。

ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法の中でピクサーの映画監督ブラッド・バードがこんなことを言っていました。

評論家というのは気楽な稼業だ。危険を冒すこともなく、料理人たちの努力の結晶に審判を下すだけでいい。辛辣な評論は書くのも読むのも楽しいし、商売になる。

だが、評論家には苦々しい真実がつきまとう。たとえ評論家にこき下ろされ三流品と呼ばれたとしても、料理自体のほうが評論より意味があるのだ。(p198)

後世の人がそのようにして意味を解釈するのは何も悪いことではありません。むしろそれは文学に限らず、芸術を楽しむ方法の一つです。ブラッド・バードも続く部分で、優れた評論家は、新しい才能を見つけ、守ることもあると述べています。

しかし、だれか個人の解釈にすぎないものを、唯一正しい答えとして定めてテストで採点するのは、あまりにも視野の狭い教育だとわたしは感じていました。

たとえば、今の子どもなら、「ハリー・ポッター」のようなファンタジーな冒険小説を読むのかもしれません。

もし事細かに、ここでハリーはこう感じて、この記述にはこんな意味があって、ここに著者の人生観が表れていて、ヴォルデモートとの対決にはこんな教訓が込められている、と逐一解説されながら読んだとしたら、果たして楽しいでしょうか?

国語の授業で「坊っちゃん」とか「雪国」とかの名作文学に対してなされているのはそういうことです。批評家の手によって考えだされた唯一正しい解釈が押し付けられて、テストで採点されるので、読み手が自由な感想を持つことができなくなっています。

「正しい」解釈はひとつしかなく、ほかの感じ方でテストに答えを書いたらバツ印で減点を食らうのであれば、文学をはじめ、芸術とは難しく堅苦しいものだ、という認識が育つのも当然ではないでしょうか。

わたしは、当時から趣味で小説を書いていて、今も絵を描いていますが、自分で創作しているからこそ、たとえ何らかのメッセージを込めて作品を創っていようと、見る人にはさまざまな解釈があるべきで、一人ひとり違う意味を感じてほしい、ということをよくわきまえています。

コナン・ドイルの「失われた世界」であれ、ジュール・ベルヌの「海底2万マイル」であれ、トールキンの「指輪物語」であれ、作家は、読む人みんなに型にはまった一つのメッセージを伝えようと思って書いたわけではないでしょう。もしそうなら、小説なんて書かずに、自己啓発書や論文を書けばいいだけです。

むしろ、作家たちは、いつか作品を読んでくれる子どもたち一人ひとりに、自分だけの冒険を楽しんで、その子だけの感想をもってほしい、そう願って物語を書いたのではないでしょうか。

創作において、「情報」は同じでも、そこから得られる「意味」は一人ひとり異なっているのがあたりまえで、そこには唯一の「正しい解釈」は存在しません。見る人それぞれに、自由で多様で豊かな感動があるからこそ、芸術の世界はこんなにも味わい深く、奥深い、ずっとずっと楽しめるものなのだとわたしは思っています。

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