2020年12月の道北暮らし自然観察日記

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もくじ

2020/12/01火

住宅街にキタキツネ、ライラックの冬芽

町中の住宅街に何かいる!

キタキツネでした。夏でも冬でも、町の中をときどき歩いているのを見かけます。住民にとっては野良犬みたいなものですね。冬はもこもこの毛ですし、足跡も残っているので、ひときわ存在感が増します。

公園のライラックの乾燥して弾けた実と、

対生でニワトコにも似た形のふっくらとした冬芽。

本当なら冬芽は接写したいところですが、スマホが修理中なので仕方ありません。修理完了して発送されたとメールが入っていたので、数日で手元に届きそうです。北の果てなので、1日では届きません。

今日は、今シーズン初めて、町の中まで圧雪路面でした。しかも、国道は吹雪いていて、かなりの白さ。ホワイトアウトほどの視界の悪さはありませんが、いよいよ冬が来たな、という印象です。

夜は、早速サイクリングでも圧雪路面を楽しみました。まだいつもより寒い感じがするのは、身体が慣れていないからか、断熱材としての雪が少ないからか。運動不足にならないよう、できるだけ積極的に外出することを心がけたいです。

「植物が出現し、気候を変えた」再読メモ(2)終

第五章

■イギリスの南極調査隊の悲しい結末の話。調査のためとはいえ、三ヶ月半で約2000キロも歩いた末に力尽きるというのは、なんと辛いものだろう。身体的負担としては強制収容所並みか、それ以上だったかもしれない。それでも、目的があるかどうか、自分の意志かどうかで、苦痛は変わってくるから、冒険家たちは恐れずに挑み続けたのだろうか。そのような人たちの苦闘の果てに、今の研究が築かれている。(p58-162)

■その調査で発見された化石からわかったとおり、南極にはかつてグロッソプテリスなどの木が繁茂していた。グロッソプテリスの分布域は、大陸移動説の裏付けに一役買った。

パーミネラリゼーション(permineralization 鉱化作用)によって結晶化した化石の森もやがて発見された。(珪化木などもその一つだろうか?) (p164-169)

「axel heiberg fossil forest」「Spitsbergen fossil forest」などで検索すれば画像が出てくる。一見したところでは本文を読んでイメージしたほど荘厳な景色には見えず、専門家でないと価値がわからないだろう。

■「私たちにとって、極地に森があるというのは異常な状況に思える。しかし実際には、森があるほうが地球にとってはふつうだったらしい。…過去5億年のうち80%近い期間は、極圏ので森が広がっていたらしい」(p169-170)

今では永久凍土で木が育たないような場所にも、森があったのだ。(現在では夏の平均気温が10℃になる北緯69度付近が森林限界らしい)。なんと白亜紀には北極付近でさえ亜熱帯の気候で、パンノキやワニが分布していた。もちろん恐竜も生きていた。現在の札幌並みには暖かかった。(ただ当然ながら自転は変わっていないので、白夜と極夜はあった)(p171,xliv)

かつては地球全土が緑に覆われていて、水蒸気のバリアで包まれた温室地球だったのを思い描くのは楽しい。それはまさに生物にとってのパラダイスだった。

■北極の森はメタセコイアのような落葉樹が多かった。当初は、スワードによって、常緑樹も落葉樹も北極圏に適応できたという説が唱えられた。しかし後に、温かい極地では落葉樹のほうが冬に冬眠できるので適しているという説が現れた。一見もっともらしかく流布したが、直感や常識に基づいた「頭のなかで創り出された説」であり、検証されなかった。(p179,187)

後に、反証となる実験や観察事実が報告され、常緑樹も落葉樹も異なる適応の多様性にすぎないことが明らかになった。それにもかかわらず、一部の研究者はかつての直感による説に固執しており、それが広まってもしまっているという。(p180,186-187)

科学的に検証されたわけではないのに、直感や常識に訴えるから、というだけで広がる誤った理解は多い。今日でもさまざまな分野で数え切れないほどそのような例はあるだろう。

メタセコイアとイチョウがいかにして生きた化石として絶滅を生き残ったかという話。現在もまだそのような未発見の動植物がどこかに残されているのだろうか? サックスはそれも夢物語ではないとオアハカ日誌で書いていた気がする。1994年にはウォレミマツ(ジュラシックツリー)の集団も見つかったのだ。(p181,287)

■落葉樹は地面が凍結して水を吸えない凍結干魃にも強く、肥沃で水はけの悪い土壌で速く成長する。一方、常緑樹は成長は遅いが、水はけのよい痩せた土地でも育ちやすいというメリットがある。火事からの回復にも強い。

常緑樹と落葉樹は土によって住み分けをしており、異なる環境に適応しているらしい。言われてみれば、針葉樹林は痩せていてもよく育っていることが多い。

雪が降る地方の落葉樹は、冬に地面に雪が積もって太陽光を跳ね返すのに対し、常緑樹は太陽エネルギーを吸収する。温暖化が進むと雪が減って凍結干魃の可能性が増え、微生物の活動も増加するため、白亜紀と同じく落葉樹が増える可能性が高いらしい。

最終的には、それが一種のサーモスタットとして働くのだろうか。しかし現時点では、北極圏にも針葉樹が進出し、雪が溶けて、温暖化が加速している段階らしい。(p188-192)

第六章

■始新世のイギリス近海は温かい熱帯の海で、ヤシやマングローブが茂り、サメやエイが泳いでいたという。同様の化石は他の北極圏や世界中から発掘された。その楽園からすれば、今の地球は「氷室地球」と呼べる。(p200)

■二酸化炭素濃度を増やしても、当時のような温室にはならず、寒暖の大きな偏りができてしまう。ほかの温室効果ガス御三家、二酸化炭素と比較して、メタン25倍、亜酸化窒素200倍、オゾン2000倍の温室効果をもつだという。興味深いのは水蒸気が毛布のような役割を果たすことだ。(p205-208,222)

これらがどのように排出され振る舞うのかについては、植物や微生物の働きも含め非常に複雑で、この本の博物学的知識をもってしてもまだ追いつかない分野のようだ。(p210-211)

これらのガスによって超温暖な地球が作られたことは確かなようだが、産業革命以降の今の地球も、人間の活動によって似たような傾向をたどっているらしい。(p225-228)

この章からわかるのは、やはり現在の地球温暖化は、過去の地球の歴史からすれば、それほど驚くようなことではない、ということだ。過去の地球にはもっと驚くような時代がたくさんあった。ただしそこに人類の文明はなく、人間が適応していける保証もないわけだが。少なくとも、生物種にこだわらなければ、地球がこの程度の危機を乗り越えて回復することはたやすい。

第七章

■光子は1億5000キロを旅して地球にたどり着くのに8分かかるが、植物がそれで光合成するのは数秒。まれにみる複雑な反応経路で奇跡的なものだという。(p233)

粒子加速器サイクロトロンの発明と、数千年経っても半減しない炭素14同位体の発見を経て、さまざまな人物が研究を繰り返したのち、初めて解明された。物理学や医学も結ぶ発見だった。(p236)

■しかも30年後、光合成はC3だけではなくイネ科のC4があることも発見された。他の植物では考えられない効率のよさで二酸化炭素を変換する。(だがイネ/コメはC3らしいので、イネ科すべてがC4というわけではないらしい。またC4はイネ科、カヤツリグサ科だけでなく、アカザ科、アブラナ科、トウダイグサ科などの様々な植物でも見られるとのこと)。(p240,260,lxiv)

C3光合成のルビスコは大量の二酸化炭素を変換するのに適しているのに対し、C4光合成のクランツ構造は、二酸化炭素濃度が低くても、ルビスコに効率よく仕事をさせることができる。だから二酸化炭素濃度が減って以降、C4タイプが繁栄するようになった。(p242-243,248)

C3は暗く冷涼な森でも機能するのに対し、C4は多くの日光が当たる乾いた土地に向いている。それぞれ得意分野に違いがあるので、この場合もC4はC3のアップグレードというわけではなく、住み分けて多様性を作り出している。セロリやタバコは両者の中間らしい。(p249,258,lxiv)

外来のC4植物は火事の火種となりやすく、火事の煙は雲ができにくくしてしまい、既存のC3植物を駆逐して、日当たりのよい環境を作り出し、占領してしまうというフィードバックループがある。(p252)

C4はある時点で現れたわけではなく、もっと過去から存在していて、適した環境におかれた時に表面化するにすぎないのかもしれない。C4の化石はめったに見つからないので、確かなことはわからない。(p259)

この章から感じるのは、これまでの章で最も近代に近い(それでも数百万年前だが)のに、証拠が最も少なく、仮説の域を出ていないということだった。

思えば、考古学はほんの100年前のことでさえ十分に理解できないのに、気が遠くなるような年月をさかのぼったころを推理する科学を本当に信用できるるのだろうか。部分的には正しいかもしれないが、推理は推理にすぎないことを覚えておかなければならない。

著者も「まだごく表面をかすった程度」だと述べているので、もっともらしく書かれているとしても、大部分が推測で埋められていることを意識して読まなければならない。現代の実験は正しいとしても、はるか遠い過去についての記述においては。(p277)

ダーウィンの本は当時は非常に科学的に見えたかもしれないが、現在では多くのとんでもない誤りが含まれていることがわかっている。今日の研究はどうなのだろう?

科学測定技術がはるかに進歩していて、一つの学説も複数の異なるアプローチに支えられているので、より信憑性が深まっているのだろうか。それとも、ビッグデータだからこそ読み解く方法が複雑化して、誤りが入り込みやすいのだろうか。

人間が断片的な証拠からもっともらしい話を作り出しやすいこと、どれだけもっともらしく思えても、事実はより奇なり、というのは、脳科学が明らかにしてくれている重要な教訓かつ警告なのだ。

第8章

■「よく誤解されるが、化石は「沈黙した過去の証人」ではなく、地球の歴史上に起こったことをずっと記録した、精密なタコメーターなのだ」。本書のロマンあふれる考察の多くは、この言葉から説明できるだろう。(p265)

■葉の鋸歯(ぎざぎざ)の話。とても単純かつ身近なものだが、なぜ鋸歯があるのか長年わからなかったという。

熱帯の葉はふちがなめらかで、寒いところの葉は鋸歯が多いという明白なパターンが存在する。実験よると、鋸歯には弁があり、水が漏れ出すことで、凍結を防いでいるのではないか、という。同様に、二酸化炭素濃度が上がると、葉は気孔を閉じてしまい、凍結に弱くなる。(p267-270)

現代の実験結果と、化石植物を照らし合わせることにより、はるか古代の気候の特徴がわかる、というのがこの本で繰り返し扱われたテーマだ。植物は変化に敏感に反応するバイオセンサーまたタコメーターであり、必要なのはそれを読み解くための知識だからだ。(p257,272)

第二のテーマは、植物そのものがプレートテクトニクスなどと同様に、地球環境を形作り、方向性を決める力のひとつだったということだ。興味深いのは、植物の存在が、さまざまなフィードバックループを作り出し、サーモスタットのような役割を果たし、地球が極端な死の惑星になるのを防いでいることだ。地質学だけで気候が決まるのなら、地球には生物は生きられない。(p274-275)

あまりにうまく安定化作用が働くので、これが「仕組まれた」ものなのかとフレッド・ボイルが考えたのも当然だろう。すべての部品がそろっている今、こうして巧妙なフィードバックが働くのであれば、限られた部品しかなかった時代など想定しうるのだろうか。(p243,257)

そのひとつが「淡く若い太陽のパラドックス」であり、地球ができたとき、太陽の光は今より30%も弱かった。この時代に地球が氷の惑星にならなかった理由は、メタンが多かったから、とする説もあるが、いまだ解明には遠いようだ。(p lxix)

■ニールス・ボーア「矛盾に出会うとは、なんとすばらしいことだろう。これでやっと、進展する兆しがみえてきた」。矛盾が生じるときは、何か重大な胸の踊る発見が隠れている兆しだとわたしは思ってきたが、この言葉は実にいい。(p279)

科学の進歩は「ユリイカ!」ではなく「ちょっと待てよ……」から始まる。(p283)

■地球薄暮化の話。曇った空が水の蒸発を抑え、気温の日較差を縮めている。太陽光をさえぎり、温暖化を抑えている。(そう考えると、道北の放射冷却は曇りのない空がもたらしているので、かなり本来に近い環境に住んでいるといえるのだろう)。(p280-283)

■いままで存在した生物種の99%がすでに絶滅している。だとすれば、あらゆる生物種の保護のために労力をかける活動は釣り合わない。人間が自然保護するとしたら、それはあくまで、自分および同時代の種の延命にすぎないということを覚えておく必要がある。(p xxxvi)

「植物が出現し、気候を変えた」の再読メモ終わり。かなり充実した読書だったと思う。また記事にまとめることで整理したい。

読み始めは、はるか昔のことまで正確にわかってすごい、となるのだが、最後まで来ると、この探偵がどの程度的を射ているのか疑問もわいてくる。それでも正しいかどうかより、一見無関係のところから出てきた謎の手がかりが組み合わさって全貌が浮きらかになっていく胸躍る発見にこそ本書の真髄があるのだろう。

また、はるか過去のことはともかくとして、現代で再現されている実験の数々は正しいものなので、原生の植物を理解するのにはとても役立つ。なぜ葉があるのか、なぜ鋸歯があるのか、常緑樹と落葉樹、C3光合成とC4光合成にはそれぞれどんな長所と短所があるのか、といったことを知れば自然観察は豊かになる。

地球全体が博物学的につながってフィードバックループを作っていること、はるか古代にわたり、地球の気候は生物が住めるという意味では安定し、極端にならないようストッパーが備わっていることも、地球の偉大さを理解するのに役立つ。地球と生命はすばらしい強さを持っているが、ただひとつの種となるとそれはもろいもので、人間もまた同じなのだ。

植物が「葉」という革命を起こしたことで地球が寒冷化し、当時の生態系が滅びそうになったように、人間が産業革命を起こしたことで地球は温暖化し、今また人間を含む生態系が脅かされている。植物が人間のようだ、と感じる前に、人間は本当に知能があるのか、と問わねばならない。

個人としては知能があるかのように振る舞うが、集団としては、他の本能的な生物と変わらないのだ。それはコロナの危機に面しても、世界が団結できず、むしろ分裂していることから明らかではないだろうか。いや、おそらく集団としては本能的な動物よりもずっと愚かで、破滅に向かうしかないのだろうか。

2020/12/02水

ニオイヒバとヒヨクヒバ

この時期は日が短いので、日中用事があると、森に出かけるほど時間が取れません。仕方がないので、今日も家のそばの公園を歩いただけです。それでも、一面の銀世界、雪の毛布に覆われた丘を歩くだけでとても楽しくなります。

公園には防風林として植えられたニオイヒバの並木があります。近づくと、レモンティーのような甘い香りが漂います。今年も実が木工芸品のバラの花のような形に割れて、種が飛散していました。

地面に積もった雪の上には、ニオイヒバの小さな種がパラパラと落ちていました。

公園にはもう一つ、名前の知らないヒバがありました。ヒノキの葉に似ているニオイヒバより、もっと葉が細長く、蛇腹のベルトのようです。調べてみると、イトヒバの近縁のオウゴンヒヨクヒバという園芸種のようでした。(葉色が黄みがかっている種に「オウゴン」とつくらしい) 植物の多彩な形には驚かされます。

大きなつららがあちこちで氷結しています。太陽の光にかざすと、透き通ったクリスタルのようにキラキラと輝いていました。

2020/12/03木

体調が悪かったが吹雪の中歩いたら回復してきた謎

昨日からどうも体調が悪く、ここ数日間、雪が降って外ではしゃぎすぎたから冷えたのかな、と考えていました。

サックスが「意識の川」で書いていた「なにかが変だ」状態で、熱は36.9℃、PCの画面がいつもより眩しく感じる、軽い頭痛がする、寒気がするなど、少し自律神経が不安定になっている状態に思えました。

今朝起きてもやはり体調が悪いままでしたが、今日は友人とビデオ通話をする約束が入っていたので、外の景色を見せてあげようと、少々吹雪いている公園まで自転車で雪道サイクリングして出かけました。もし体調が悪くなったら通話を打ち切って帰ってくればいいや、と。

ところが、そのまま吹雪の中で1時間も公園の雪原を歩き続け、通話を終えて帰路についても、全然悪くなった感覚はなく、かえって体が温まって元気になっていました。

今までも外出したほうが元気になることはよくあったけれど、真冬でもそれが当てはまるんですね。

サックスの言う「なにかが変だ」タイプの不調は、わたしの場合は発熱型偏頭痛の前触れみたいなものだから、屋外でエネルギーを発散したほうが回復するということなのか。

体調が悪くなっていたのは、ここ数日雪で遊んでいたらせいではなく、読書や運転で頭を使っていたためだったのかもしれません。

ところで、修理に出していたスマホのカメラはようやく戻ってきました。しかし、iCloudバックアップから設定を復元すると、まさかの同じ症状が再現されてしまい、何も変わっていないことが明らかになりました。

再度修理に出そうかと考えましたが、これはもしかすると、ハード側ではなくシステム側の問題ではないか、と考えなおしました。一度全消去して、バックアップから復元せずにIDだけ紐つけてみると、ものの見事にカメラが回復。

もともと故障していたのはハードではなく、何かしらのバグが発生していて、バックアップにもバグごと保存されていたようです。修理担当はどこが壊れているのかわからないまま部品交換して動作確認したんだろうな。

面倒だけど、バックアップに頼らずアプリをインストールし直すことで、カメラが復活しました。回り道したけれど、これでようやく、また冬の風景を勢力的な観察できそうです。

2020/12/04金

今シーズン初スノーシューで森の中へ

雪の勢いも弱く、晴れ間がのぞいていたので、久々に森の奥まで出かけました。

入り口の時点で雪がそこそこ深く感じましたが、これくらいなら大丈夫だろう、と踏んで5分ほど歩く。しかし、斜面を登るとき、雪で滑って体力の消耗が激しかったので、これはダメだ、と思い直して、スノーシューを取りに戻りました。

杖で測ってみると、積雪の深さは平均で30cmくらい。無理やり進めないこともない深さですが、場所によっては吹き溜まりになっているので、スノーシューのほうが賢明でしょう。

改めて今シーズン初スノーシューを履いて森へ突入。スノーシューならほとんど埋もれているササを踏んでショートカットも何のその。まだ雪が柔らかく、スノーシューでも深々と沈みますが、自由に歩ける分、楽に感じました。

それでも、初スノーシューでの森歩きはこたえる。斜面を10分くらい上がったところで、汗がにじみ、息が上がり、風も寒い。目的地のクマゲラの食痕がある森までは、まだ20分くらい歩かないとたどり着かない。このままでは汗が冷えて風邪を引くかも知れない。

どうしようか、と悩みましたが、自然観察をはさみながらゆっくり歩いているうちに、身体が温まってきて、あるきやすくなってきました。汗で奪われる熱より、内部からの生産される熱が上回ります。人間の身体ってよくできているものです。故障さえしなければ。

森の地面の雪上にパラパラと落ちている茶色い粉のようなもの。身をかがめてじっくり見てみると、粉ではなく木の種です。先日はシラカバの種を見つけましたが、今日のはまた違う種。

大きさの違う大小2つ、どちらも片翼がついた翼果です。大きいほうはイタヤカエデの種の片割れでしょうか? 小さいほうはカラマツかな?

森の奥まで来ると、キツネ、シカ、タヌキのような足跡が縦横無尽に駆け回っています。ミニチュア鉄道の線路のように2本のレールが茂みの中へ続いています。キツネなら一本になるのでエゾタヌキでしょうか。

さすがにもう、ヒグマは冬眠していて足跡はないようだ、と思っていたら…。

横に置いているのはわたしの手袋です。これはヒグマの足跡でしょうか? それとも、単なる大きな窪みでしょうか? 近くにあった別の窪みは、手袋がすっぽり入る大きさでした。

爪痕など鮮明な痕跡は残っていないので判断できません。ただ、なんとなく茂みから茂みに横切って点々と続いているようにも見えました。もし足跡だとしたら、大きさとしてはヒグマ? 少し小さい気もするけれど、他の候補がない。

秋にフンが連日落ちていたあたりなので、気がかりです。でも、足跡だとしても、直近のものではなく、昨晩かそれ以前のものに思えました。

もし、さらに歩いてみて、また足跡らしき痕跡があるなら引き返そうかと考えましたが、この後は特に何もありませんでした。しっかり冬眠してくれていたらいいのですが。

(追記 : 別の日の森でも、似たような雪の穴を見つけましたが、やはり足跡というには不明瞭でつながりもありませんでした。たぶん森の中では何らかの衝撃でこんな形の穴ができるんでしょう)

ササが雪の重みで潰れてくれたので、今まで行けなかった場所でもスノーシューで入っていくことができます。たとえば、遠くのカラマツにクマゲラの大規模な食痕があるのが見えていましたが、今日やっと近くまで行けました。

近くで見ると、大迫力。こんな巨大な穴を開けるのなら、音も相当響きそうです。

しかし、穴の下に木くずは散らばっていなかったので、現在は使われていない過去の食痕のようです。この森にはクマゲラの食痕は多数ありますが、今でも食べに来ているのかは不明。少なくとも2年前には目撃者がいるのですが…。

やっとクマゲラの森まで到達しましたが、鳥の気配がほとんどありません。わたしがジャラジャラと音を鳴らしてやってきたので、みんな逃げてしまったようです。まだクマがいるんじゃないかと疑心暗鬼だから仕方ない。

少し怖い気もしますが、ここで少し足を停めて、身じろぎせずに耳を澄まします。幸い身体は温まっているので、10分くらいなら立ち止まっていても凍えないでしょう。

気味が悪いほど静かな森をにそよぐ風の音に耳を澄ますこと数分。カリカリと何かを食べるような音が何箇所からか聞こえてきます。この大きさなら、小型のキツツキかリスでしょう。

あまり音を立てないよう気をつけて手近な音の方角に近づくと、木の幹を駆け上がりながらカリカリ音を立てている小鳥がいました。エゾコゲラ。先日見た場所に近いので、同じコゲラなのかもしれません。

やっと直ったスマホと望遠レンズを向けて動画を撮りましたが、小さい上に保護色で見つけにくい。幹から飛び立つと見失ってしまいました。(どうせ質は悪いのだから、動画を上げるくらいならGifでいいかも)

ほかにも、かなり上空でパリパリという音が。少し大きめの鳥が20mくらいの高さのカラマツの幹にいるのがみえます。かろうじて背中の模様が判別でき、これも先日見たエゾアカゲラだとわかりました。

そして、じっと息を潜めていたとき、一度だけ、まるで工事現場の釘を打ち付けるかのような音が、森の中に響きました。まさかこんな場所に工事の作業員がいるわけないので、もしかして?

少し近づいて、さらに耳を澄ましましたが、その音は二度と聞こえませんでした。どこかの枝が折れて落ちたりした音だったのかもしれません。もっと粘りたかったですが、帰り道も遠いので、無理しないように帰路につきました。

こんなペースでいつかクマゲラに会えるのだろうか。何度も通ううちに体力がつくのか。それとももっと寒くなってきてそれどころではなくなるのか。ほかにこれといって次善策もないので、今冬は定期的に森の中を歩くしかありません。

この森は、さらに深くまで続いていて、冬ならスノーシューで入れないこともありません。そこならクマゲラだって普通にいそうですが、今日の行程だけで2時間。行って帰ってこれる体力の保証がないことには冒険はできません。

森を出たところの牧草地はすっかり大雪原と化していました。見事な冬景色です。

今日の冬芽。ミヤマガマズミ、メグスリノキ、ヤマボウシ等11種

帰りはかなり疲れて坐骨神経痛の兆候もありましたが、行きよりは気が楽です。道中の冬芽を観察しながら帰ることにしました。やっとスマホが直ったので冬芽の接写もできます。

まず気になったのはこの冬芽。最初、対生で赤いのでイタヤカエデかと思いましたが、形が全然違う。カラマツ林に巻き付くツルアジサイに似てなくもないですが、ツルではない。

帰宅後調べてみたら、ミヤマガマズミのようです。だけど、この場所にミヤマガマズミがあった記憶がない。というか、今年は一度もミヤマガマズミらしい花も実も見かけませんでした。あんなに森に入り浸っていたのに。

しかし、去年、まだ自然観察を初めて間もない時期に、ミヤマガマズミを見たという記述が、日記に残っていました。ちゃんと一年目にしてオオカメノキと区別してあるので、間違いないでしょう。

そういえば、一年目は、何度かミヤマガマズミを見て、そんなに珍しくない植物だと感じていたような…? むしろ今年見かけなかったことのほうが不思議です。ヤマブドウの不作と同じく、今年はガマズミの実がなりにくく、目立たなかったのかもしれません。

もうひとつ、去年調べたクロミサンザシの冬芽。こちらは、枝のトゲのおかげで今では楽に判別できます。冬芽の形も赤い団子鼻のような、ちょっともっさりした形で見分けやすい。初夏に花を探しに行って見事発見できたので印象に残っています。

行きた化石のような扱いのクロミサンザシですが、嬉しいことに、この近所では森の奥深くではそんなに珍しい木ではありません。たまに公園に植栽されていたりもするので、昔から人々にとって身近な木だったのでしょう。来年も花の季節に来たいものです。

その後、帰宅する道中に近くの公園にも寄って、気になっていた冬芽を撮ってきました。スマホが故障していた間、撮りたくても撮れなかった冬芽いろいろです。

メグスリノキ。公園で植栽されているのを発見したので、何度も観察してみたものの、スマホが壊れていて撮れなかった冬芽。

メグスリノキはカエデの仲間なので、サトウカエデみたいな冬芽ですが、毛むくじゃらなのが新鮮。カエデなのにカエデっぽくない三出複葉の葉っぱは、同じく植栽されているネグンドカエデとも似ています。

セイヨウナシ。かなり太くて大きめの冬芽。ボリューム感はエゾヤマザクラに近いけれど、色が焦げ茶色。

スモモ。セイヨウナシとは同じバラ科で花もよく似ていますが(というかこの近縁種はどれもそっくり)、冬芽ははるかに小さく、大量にボコボコと出ているのがユニークです。春には枝いっぱいに花を咲かせるので確かにスモモらしい。

ハルニレ。ズミの冬芽かと思うほど小さくて黒ずんでいましたが、肉眼ではわからないレベルの葉痕をルーペで確認したら、どうもハルニレっぽい。このハニワのような顔に見える3つの維管束痕が目印。

イヌエンジュ。二枚が組み合わされた芽鱗に、半円形の葉痕。色も茶色ということで比較的見分けやすい。たまに同じく芽鱗二枚のシナノキに似ていることもありますが、シナノキのほうが先が長細いので区別がつくか。

そのシナノキ(オオバボダイジュ?)。シナノキの冬芽は色に個体差があって、イヌエンジュみたいに茶色っぽいのから、ミズキのように赤いのまであります。これは赤いタイプ。かなり毛深いのでシナノキではなくオオバボダイジュだと思うのですが、木にかかっている名札はシナノキとなっていました。

ナナカマド。唐辛子みたいな冬芽。でも、近縁種のアズキナシと冬芽が類似していて、葉痕にある維管束痕(点々)の数を数えるまではわからないそうです。5つならナナカマド、3つならアズキナシ。

肉眼では葉痕は見えても、維管束痕の数まではわからず、3つのようにも見えておおっ?と思ったのですが、ルーペで拡大したら5つでした。普通によくあるナナカマドだった。

謎の冬芽1。たぶん近隣に自生している木ではなく、メグスリノキやセイヨウナシのように植栽されたものと思われる低木(成長途中?)の冬芽。毛深い。

葉っぱがまだちょっとだけ残っていたので、手がかりになりそうですが、現時点では同定できていません。

たぶんバラ科の実がなる木ではないかと踏んでいるのですが、葉のふちにある鋸歯が手がかりになるか? 可能性が高そうなのはセイヨウリンゴかヒメリンゴで、葉のふちもギザギザだし、冬芽は毛深いようです。

謎の冬芽2。そこそこの大きさの低木。なんか見たことがある気がするのだけど、何だったっけ? 冬芽は二種類あるように見えます。花芽と葉芽なのでしょうか。

(追記 : ヤマボウシと判明しました。Google Lensではハナミズキ=アメリカヤマボウシと出ましたが、確かにその近縁でしたね)

冬芽のつき方はこんな感じ。枝の先端からまとまって分岐していて、あまり互生とか対生とかはわからない。

でも、森の深くまでスノーシューで行って帰ってきて、さらにだだっ広い公園を歩き回って冬芽を撮ったせいで、とても疲れました。一週間分の運動をした気分。明日筋肉痛になっていなければいいのですが…。

2020/12/05土

今日の冬芽。ノリウツギ、キハダ

残念ながら、予報通り、気温がプラスになってしまったので、せっかくの圧雪路面が溶けてしまいました。森の中も雪が多少溶けたのか、昨日より嵩が減って雪が硬めになっていて、歩くと足首や膝に負担がかかりそうでした。

出かけるときは太陽が見えて晴れていたのに、森に入ってしばらく歩くと激しく吹雪いてきて、森の中まで吹き込んできたので、仕方なく中間ポイントで引き返すことにしました。

何も観察しないで帰るのももったいないので、道中にあった冬芽を二種類。まずは去年も何度も撮ったノリウツギ。

触覚の飛び出た昆虫の顔にも見えます。冬芽らしい部分があまり目立たず、葉痕ばかり際立つという異質さのため見分けやすいです。改めて写真で見ると、同じく葉痕が目立つオニグルミにも似ていますね。

一方、次の冬芽は、森のふちに立ち並ぶキハダの若木のもの。これを去年見つけていたので、地元のガイドさんが言う、このあたりにキハダの木はあまりない、という見解に同意せず、今年いくつかキハダの親木を発見できたのでした。

キハダの若木だけなら、この道沿いだけでも10本はあると思いますが、確かに大人のキハダはあまり見かけません。実を食材に使うので、収穫できる手頃な高さの木を、今知っているほかにも何箇所かは見つけておきたいところです。

「植物が現れ、気候を変えた」の感想を記事にしました。

植物の化石が太古の大量絶滅の記憶を語るーそんな科学推理物語が面白かった
危機を生き延びた人の体にトラウマが記録されるように、大量絶滅を生き延びた植物も当時の出来事を記録している。植物の化石の目撃証言を読み解く方法がわかったことで、太古の地球の気候変動が

半年前にも書こうとして、どう書いたものか迷って、結局書けなかったことが、しばらく読書をやめてしまったきっかけなので、やっと前に進めた感があります。

いい文章を書こうと気取ったりせず、なんでも書きなぐればいいと割り切りました。絵の場合はそれが通用せず、いつまでも完成しなくて泥沼化しますが、文章なら適当に書いても形にはなります。

次は何を読もうかな。レイチェル・カーソンの「海辺」も読みたくて手元に置いているが、とりあえず前から予定に入れていた「心の視力」か。

2020/12/06日

初めてクマゲラの声を聞いた

森の入り口の雪に、よく目立つエゾシカの群れの足跡。シカの群れはまっすぐ歩かないのか、左右に蛇行しながら足跡が伸びています。おしゃべりしながら帰る学校帰りの子どもたちの足跡のよう。

蹄の跡がくっきり。雪の量が少ないせいで、黒い地面の底が見えてしまっています。

ネズミらしき小さな足跡も混じっていました。両足跳びで駆け抜けて、しっぽの跡がかすかに残っています。

木の枝にびっしりついていたキノコ。キウロコタケ? 朽ちる一歩手前の老菌のようで、典型的な形からは崩れてしまっています。それでも幹を彩る橙色の鮮やかさな斑点は遠くからでも目を惹きます。

特に珍しくもなさそうですが、きれいだったので写真に撮ったコケ。まだまったく見分け方を知らないので、名前がわかりません。後で調べて要追記。

ドライフラワーと化したエゾスズランの実。楕円形の中身がぎゅっと詰まったような形の実ですが、今では中の種はすべて放出されて、琥珀色に透き通る殻だけが残っていました。

雪の中に埋もれていたシダ。このタイプのシダを以前ヘビノネゴザと勘違いしていましたが、これはきっとミヤマベニシダでしょうね。来年またシダを観察できるシーズンが今から楽しみです。きっと忙しくなるんだろうな。

先月見つけた、アジサイと思しき冬芽も、再度確認してきました。赤茶色の皮が剥けて、黄緑色の芽が現れていることから、間違いなくアジサイです。図鑑だと、エゾアジサイではなく園芸種のアジサイのほうにそっくり。

ヤマアジサイもこんな緑色の裸芽らしいので、やはりヤマアジサイ系の自生種であるエゾアジサイでしょうか。夏の花が咲いている時期に見に来たら同定できますが、やぶになっていて、そう簡単には入れない場所なのです。気合を入れて藪こぎすれば何とかなりそうですが、クマがいそうで怖い。

ホオノキのペーパーナイフのような冬芽。丸い塊のようなものはもしかすると虫こぶでしょうか? 軽く調べた限りではわからず。

エゾイチゴ?の冬芽。ネットで調べてみたら、自分で撮った過去の写真しか出てこなくて苦笑しました。わたしの見立てなんか非常に怪しいのに、信用できるはずがない。単に茎がエゾイチゴっぽいというだけで同定しています。

地面からぽつりと顔を出していた小さなナニワズの苗木。冬越しする緑の葉がよく映えます。手の平に収まるほど小さな苗木ながら、雪の中で力強く成長しそうな瑞々しさにあふれています。

今年もやはり雪が少なく、森の中はまだササが見えています。地面の土がはっきり見えている場所もあり、まるで雪解け間近な春の景色のよう。これから積もるのは間違いないですが、温暖化の進行を身をもって感じさせられます。

かなり歩き疲れて、森から出て帰ろうというとき、トドマツ林の奥のほうから、聞き慣れない声が響き渡りました。

キョ↑ーン、キョ↑ーン、キョキョキョキョキョ⤵……という甲高い声で、キツツキの仲間らしい響きでした。しかし、今までに聞いたどのキツツキの声とも違っていたので、もしかしたらクマゲラかもしれない、と咄嗟に思いました。

しかし、次に聞こえた声は遠ざかり、かなり奥のほうに感じられました。これからもう一度森の中まで探索しに行く元気はもう残っていませんでした。時刻は15時半ごろで、すでに森の中は暗くなりかけていました。

帰ってから「クマゲラ 鳴き声」で検索すると、やはりあの声でした。クマゲラの姿は見えずとも、ついに声を聞けました。今後は声が聞こえたらすぐ判別できるでしょうから、着実な一歩です。

しかし困ったことに、今日行った森は、昨日まで定期的に通っているクマゲラの食痕がある森とは別なのです。今日の森は家から5分と近所ですが、冬は近隣の道が除雪されないため、森に入ろうとしたら、スノーシューでかなり歩かなければなりません。

クマゲラの食痕があるほうの森も、スノーシューでかなり斜面を登る必要があるので、大変さの度合いでいえば同じなのですが、どちらをターゲットにするべきか悩みます。食痕はあれど鳴き声を聞いたことのない森か、食痕は見ていないが鳴き声がした森か…。

でも、確かに家の近所にいることはわかったのですから、どちらの森にせよ、何度も足を運んでいれば、きっと会えるに違いないという希望が見えました。

「北の健康野菜」読書メモ(1)終

なぜかギョウジャニンニクその他の野菜の研究が載っている「北の健康野菜」を先に読むことにしました。カーソンの「海辺」は、自分が海辺を歩いたことがほとんどないせいで、読んでいてもSF小説を読んでいるのような覚束なさが辛い。

「北の健康野菜」の著者は東海大教授の西村弘行氏。北大農学部で「ギョウジャニンニク研究会」をしていたことがあり、寒冷地の野菜について研究されたそうです。

■北海道の野菜や山菜が美味しいのは、(1)寒冷地なので農薬や病害虫が少ない、(2)半年近く積もる雪が断熱材になって微生物が有機物を分解する、(3)たっぷりの栄養と雪解け水で土がふかふかになる、といった理由があるらしい。(p7-10)

確かに雪で畑作ができない休耕期があるからこそ、土が休まり豊かになっていると感じる。森の中も土はふんわりとしているが、友人の畑はなおのことふかふかの土だ。

■北海道の食べられる野草はなんと600種もあるらしい。今年キノコを含めて50種強を食べて、かなり知っている気になっていたが、井の中の蛙だった。とはいえ、この本に列挙されている山菜(外来種も含まれている)はどれも知っている名ばかりで、600種の内訳が気になるところである。(p12)

■アサツキ(チャイブ)、オオウバユリ、セイヨウワサビ(ホースラディッシュ)などは、冬を除く年中、葉や茎や根など何かしらの部分を食べることができるらしい。一種類の食べ方しか知らない種も多い。(p13)

■ギョウジャニンニクの学名はアリウム・ヴィクトリアリス。ネギの仲間とのことで、園芸用の花にも多い「アリウム」の名が入っている。後半はイギリスの植物学者ヴィクトリアの名にちなんでいるとのこと。(p15)

■分布地域は、日本の東北以北、朝鮮、シベリア、カナダなどで、意外と局地的に分布している亜寒帯あたりを好む植物なのだとわかる。ロシア語では「チェレムシャ」。エゾノウワミズザクラと似ていないか?と思ったがあちらは「チェリョームハ」だった。ややこしい。(p15)

■特有の辛味と薬効を楽しみたいなら、アリシンの含有量が多い葉の出る前のものがよい。野菜として味わいたいなら、葉が出た後でよい。葉が出る前というのがほとんど想像つかない。(p19)

ギョウジャニンニクの匂いは4つの成分からなっていて、メチルアリルジスルフィドがニラ臭で55%、ジアリルジスルフィドがニンニク臭で40%、ほか2種がつけもの臭で5%らしい。(p24)

それぞれ多彩な薬効作用もあるとのことで、詳しく解説されているが、そこまで知っておく必要があるかどうか。ギョウジャニンニクばかり大量に食べるわけでもあるまいし。確かに行者が滋養強壮に用いるだけのことはあった、と知るにとどめる程度で良いか。

■同じネギ属のニンニクが一年生植物であるのに対し、ギョウジャニンニクは多年生。成長が遅く、発芽して5-10年でやっと食べれるようになる。根を残して葉だけ採った場合、再生するのは3-4年後。樹木並みに遅い。(p20,31)

発芽1年目は単子葉(はかま部分)、2年目はわずか1-2cmの普通葉なので、ギョウジャニンニクの存在に気づかず、踏みつけてしまっていそうである。あまり自生地を踏み荒らさないように気をつけたほうがいい。(p38)

■葉の根元にある紫色の筒状の部分(一般的にはかまと呼ばれる)は正式には「萌芽葉」というらしい。ネギやニラなど他のネギ属でも見られるとのこと。あの根元の白い部分がそうなのか。これは単子葉らしい。(p31,38)

根は紫色の鱗茎と白い根からなり、鱗茎は繊維状の皮?で包まれている。そういえば、この鱗茎の網目を確認すれば、視覚的にも猛毒のスズランと区別できると読んだ。通常は匂いで区別するほうが簡単。(p33)

普通葉は伸び始めてから1ヶ月で伸び切るらしい。もっと時間かかかっていると思っていた。まわりの風景の変化からして数ヶ月の印象があるが、あの時期の森の変化はすさまじいので、そう錯覚してしまうのだろう。(p33)

■ギョウジャニンニクは、種子でも株分けでも増える。(ニンニクは花ができないと書かれているが、友人宅のニンニクは原種のため実でも鱗茎でも増える) さらに、根から不定芽が伸びるというイチゴのランナー的な増え方もまれにあるらしい。(p35-36)

■ホワイトアスパラガスや白いネギの栽培方法である「軟白」がギョウジャニンニクにも応用できる。土で覆うことで萌芽葉が長く伸び、食用部分が増えるという。生育に適しているのは酸性土壌とのこと。(p37,43)

■ギョウジャニンニクは食べた後の口臭が強いが、クロロフィルを含む植物の葉で消すことができる。ニンジン、パセリ、ヨモギなどの葉がよいとのこと。セリ科とかハーブ類だろうか。ニンジンの葉の乾燥粉末を作っておくと、他の悪臭取りにも使えて大変便利そうだ。小さじ1で足りるらしい。(p60-62)

またギョウジャニンニクをそのまま冷凍して、冷たいうちにみじん切りし、ビタミンB1と反応させる(豚肉や鶏卵などと混ぜる)と匂いが少なくなるという。(p59)

ギョウジャニンニク編は以上。山菜を採るときに、もう少し植物の生態について知りたいと思うことが多いので、ギョウジャニンニクだけでも勉強できてよかった。実践スキルとしては消臭できる料理法とTIPSが役立ちそう。

■ハスカップは、クロミノウグイスカグラおよび小型の樹体で毛が多いケヨノミの2つの総称らしい。ケヨノミは、その特長から察せるとおり、より高地に適応した種とのこと。耐寒性に優れ悪地でも育つが、競争には弱い。

ハスカップはアイヌ語「ハシカプ」(枝の上にたくさんなるもの)から。また、コケモモ、クロウスゴなどと共に、つぶすと赤い実が出るので「フレップ」とも。道北での自生はピヤシリと天塩岳だけらしい。というか自生しているのか。(p70)

■ハスカップのジュース、ジャム、塩漬け(梅干しっぽいらしい)などのレシピ。そもそも新鮮なハスカップが手に入ることがあるかどうかわからないがメモ。(p86-87)

■アロニア(クロミノナナカマド)、シーベリー、チコリーなどの話は、縁のない食材だけに面白かった。栽培法もあったが育てるのも無理そう。軟白チコリーの作り方は面倒だが、古代エジプトから知られていたというので驚き。チコリーコーヒーは飲んでみたい。

■ヤーコンの話が面白い。過去に収穫して食べたこともあるが、ほぼ原種そのままで、病害虫にも強く、痩せた土地でも育つ。果物っぽい甘い野菜で、傷みやすいという問題点はあるが、貯蔵方法や調理法を工夫すればいい。葉っぱはヤーコン茶にできる。切ったときの変色を防ぐ調理法は覚えておきたい。(p147)

■日本の玉ねぎ栽培発祥の地は札幌で、世界にはさまざまな色の玉ねぎがあり、玉ではなくタケノコのような形のものもあるという。想像もつかない。黄色い色素のケルセチンが様々な薬効をもつという。(p150,153)

玉ねぎをそのまま植えても花が咲くというのに一瞬戸惑う。しかし、地上に出ているから忘れていたが、そういえばあれは球根だったか。

カット後一時間置くと、防御物質が生成され、薬効が増加するという。また、ヤーコンの変色を防ぐ方法と同様、切る前にまるごと電子レンジにかけると酵素が破壊され、涙がでなくなり、サラダにしても辛味がなくなるという。(p176,178)

■アスパラガスの章。身近な野菜なので理解しやすい。根元が一番甘い(ルチンは先端に多い)というのは意外だった。固くなってしまうので敬遠しがちだが、この本にあるようなバターソテーにしてからさらに落とし蓋で蒸し焼きにするといった調理法なら食べやすいのだろうか。(p184,194)

最近は立茎栽培、伏せ込み栽培などの手法で北海道以外、またシーズン外でも生産されるようになってきたとのことだが、商業的理由がなければ、旬のものを採ってすぐ食べるのに勝る味わいはないだろう。

葉っぱにルチンがそばの100倍含まれており粉末にして利用されているというが、個人レベルではせっかく生い茂った葉があっても使いようがないのが悲しい。お茶にでもできれば使い道もあるが…。(p197)

■ソバの章は、生産地的には道北がご当地なのだが、自分が関わったことがないので、あまりピンとこなかった。ダッタンそばも見たことがないし。

■そして最後のハマボウフウ。海岸に生えるセリ科なので見たことはないが、名前だけはよく知っており、とても気になっている野草。まるでオオハナウドが砂に埋まって頭だけ出しているような見た目だ。画像検索で栽培品を見ると、豆苗のような見た目。香りを活かしてお茶で飲むのも良さそう。

読書メモ終わり。一日で読み終わる分量でした。それぞれの植物の化学成分の研究、および栽培法の記述がほとんどなので、感想記事を書くような本ではないですね。でも、身近な野菜や山菜について、知識が増し加わったので読む価値のある本でした。一番の実用的知識は消臭に使えるニンジンの葉の粉末かも(笑)。

2020/12/07月

いろいろ用事が入っていて忙しかったのだけど、正午ごろ時間が空いたので、昨日の場所に行ってみました。もしかしたらクマゲラの手がかりくらいないかな?と思って。

森の入り口にはやはり大量のシカの足跡。人間たちのいない秘密の時間にダンスパーティーでも開かれたかのよう。いや、そもそもこんなところに来てる人間はわたししかいなかったか。

少々雪が吹雪いているなか、しばらく立ち止まって粘ってみましたが、かすかにカケスやカラ類の声がする程度。クマゲラの気配などどこにもありません。

今までニ度クマゲラに接近したときは、どちらも日暮れ前の15時くらい。一方、正午から13時過ぎに森に行ったときは、必ずといっていいほど、何もいなかった。クマゲラはそんなに時間は関係ないと読んだことがあるけれど、やはり定石通り朝か夕方がいいのかな。

仕方がないので、道ばたの木々でも観察しながら帰ることに。

カバノキ科の木々には来年の雄花がぶら下がっています。ハンノキにはまだコロンコロンと飾り付けられた今年の実も残っていました。種の形も確認できればよかったんですが、もう時期が遅いか。

途中で見かけた黒い実はもしかするとキハダ? ナナカマドならまだ赤いでしょうし、果柄が短いからズミやクロミサンザシではなさそう。ほかにこんな色の実がなる木は、このあたりに何かあっただろうか。

残念ながら、実は枝の高いところにまばらに残っているだけで、望遠レンズで撮ることしかできませんでした。樹皮を見ても、若木だからか、特にコルク質には見えず。

もしキハダなら、見つけたのは3箇所目になります。高枝切り鋏があれば実の収穫もできそうな場所なので、記憶にとどめておいて、葉っぱがある季節に何の木か検証してみたいですね。

(追記 : 改めて別の日に、スノーシューを履いていたので、奥のほうの低い枝に引っかかっていたこの樹木の実を取りに行ってみました。すると…

かすかに赤みを帯びた実があるので、キハダではなかったですね。上空に残っている実も含めて、どれも黒いのでナナカマドではないと思うのですが…。楕円形という感じでもないので、アズキナシでもなさげ。

そもそもの話、樹木によって実のつき方に違いがあるはずだから、詳しい人は果柄だけでもわかりそうなものなのですが。

樹皮は比較的なめらかな若木でした。冬芽は高い位置にあってよく見えず。強いて言うなら、ナナカマドのように尖っている気もしましたがもう少し小さめに感じました。来春見に来るしかありません)。

(さらに追記 : 12月末にふと街路樹のナナカマドの実を見たら、もう赤くなくなっていて黒くしぼんでいました。もっと長く赤いままだと思っていたので意外でした。ということは、この時に見た黒いしなびた実もナナカマドなのかもしれません。実のつき方は似ているように思います)

「海辺」読書メモ(1)

完走できる自信はまったくないが…

序章

■「海辺を知るためには、生物の目録だけでは不十分である。海辺に立つことによってのみ、ほんとうに理解することができる。…海辺の生物を理解するためには、空になった貝殻を拾い上げて「これはホネガイだ」とか、「あれはテンシノツバサガイだ」と言うだけでは十分ではない。真の知識は、空の貝殻にすんでいた生物のすべてに対して直感的な理解力を求めるものなのだ。すなわち、波や嵐の中で、かれらはどのようにして生き残ってきたのか、どんな敵がいたのだろうか、どうやって餌を探し、種を繁殖させてきたのか、かれらがすんでいる特定の海の世界との関係は何であったのかというようなことである」(p12)

これはとてもよくわかる。でも並大抵のことではない。わたしも森の中に立っている時点で、単に目録を見る以上のことはしている。しかし、名前を知る以上のことを感じ取れているとはいいがたい。

生物の立場に身を置いて思考できるというのは、D.H.ロレンスが持っていたような生物的知能なのだろうか? オリヴァー・サックスはそれは遺伝的な才能ではないか、と書いていた。カーソンの本にあふれる詩的で繊細な描写はそれなのだろうか?

■海辺は常に変動している動的な世界であり、最もたくましく、適応性に富む生物しか生き残れない。にもかかわらず多様性に富んでいるという話。(p15-16)

森の中には、それほど変化の激しい「町」のような場所は見られないように思う。そこはひっそりと生き物たちが身を寄せ合って住む隠者の世界で、絶えず波に洗われながら生存競争している海辺とはイメージがまったく違う。わたしに見えていないだけかもしれないが。

■「妖精の洞穴」に隠れている潮溜まりについての話。最初読んだときも、ここのカーソンの繊細で幻想的な描写に感動した。本書の冒頭にして白眉であるといってもいい。(p17-19)

この記述は、中秋の名月の次の満月の大潮のときに、一年で最も潮位の変化が激しくなる、という第二章の記述と同じエピソードだと思う。そちらでも、小さなイソギンチャクの花が咲いている洞窟のことが書かれていて、同じ場所のことかもしれない。(p148,164-172)

同時にこの記述は、ロビン・ウォール・キマラーが森の洞穴に潜り込んでコケを観察していた記述と重なる。海辺と森は違うように見えて、実は似通ったところがあるのかもしれない。しかしそれ以上に驚くのは、彼女たちのアグレッシブさである。

鼻うがいやってみた

ハウスダストが原因なのか、冬になると毎年鼻詰まりがひどい。鼻の手術をしたほうがいいのでは?と思い悩んだこともありましたが、今まで放置していました。

しかし最近、北見から引っ越してきた人が、鼻うがいしたらいいよ、と事も無げに言っているのを聞いて、そうか、そういう方法があったな、と思い出しました。これまで興味はあったけど、怖い気がしていたんですよね。でも考えてみたら手術よりよほどマシだ。

道北に引っ越してきてから、身体的経験を積むうちに、色々なことのハードルが下がりました。引きこもりのころは何をするにも怖かったけれど、毒草と見分けて山菜も食べたし、キノコも食べた。雪道サイクリングもしたし、スキーもした。鼻うがいごとき全然大丈夫そう。

インターネットでやり方を調べてみたら、お医者さんは、サイナスリンスという製品を推奨していることが多いように感じました。説明を読んでみたところ簡単そう。でも耳鼻科で買うか、Amazonで買うかしかない。届くまで待つのもいいけれど、今やってみたい。

それで、コップで鼻うがいする方法を検索して、生理食塩水から作って試してみました。

とりあえず水は煮沸したほうがいいとあったので、電気ケトルで500ml沸騰させて、食塩4.5gを計測して混ぜてみました。初めて作る料理のように慎重に。

問題はそれを人肌程度に覚ますところ。時間がかかりそう…、そうだ、外は氷点下だった! ということで、風除室に30分くらいおいて冷ましました。

さて、いよいよ鼻うがい。怖いというより、気持ちよさそう、とりあえずやってみたい、という思いのほうが強かったので、お湯を冷ましている時間がじれったかったです。我ながら人生経験を積んだものだ…。

やっと指に注いでもぬるいくらいに冷めたので、注ぎ口があるような形にコップに入れて、一応濡れることを想定して風呂場に入りました。さすがに緊張する。

心持ち斜め上を向いて、片方の鼻にコップから水を注ぎ入れる。上を向きすぎると中耳炎になる恐れがあるとのことだったので、コップからギリギリ水が流れ落ちる角度で。

いよいよ鼻に水が入ってくると、痛みがあって、反射的にすぐ飲み込んでしまった! 呑み込むと耳に水が入って中耳炎になることがあると書いてあったので、ヤバい、と思いましたが、幸い耳に入った感覚はありませんでした。

ちょっと痛かったのは、お湯の溶けた塩が混ざっていないからだと直感しました。そういや、沸騰したお湯に塩を放り込んだけれど、勝手に溶けると思ってかき混ぜるのを忘れていた。改めてお湯をかき混ぜてからトライ。

今度はまったく痛くありませんでした。鼻に入れる前に「飲み込まない」を強く意識しました。歯医者さんとかでも、歯を削られている間「飲み込まない」よう注意したりするのと同じ。

初心者は生理食塩水を口から出すのではなく、同じ側の鼻から出したり、もう片側の鼻から出すとよい、とのことでしたが、その方法がわからない。

意識していたので飲み込むことはありませんでしたが、生理食塩水は普通に口から出ました。でも、少し口に流れただけで変な感じがするので、ほんのちょっとの生理食塩水しか流せませんでした。

同じ側の鼻から出す、という方法は、サイナスリンスみたいに、うつむき加減で鼻うがいするタイプの方法なら可能なのかもしれません。

「あー」とか「えー」と言いながら(発声する必要はなく、息を吐くということ)鼻うがいすると口から出しやすい、という説明も見かけたので、試してみました。

そうすると、耳鼻科でのどの検査をするときと同じく、嚥下反射が起こりません。「飲み込まない」とわざわざ意識しなくても大丈夫ということですね。

しかし、口から息を吐き続けることになるので、すぐに液を流し込まないと、息が続かなくて仕切り直しになります。コップから鼻に生理食塩水を注ぐのを慎重にやりすぎて、なかなか液が流れ込まないときとか。

相変わらず、ほんのちょっとしか生理食塩水を流せませんが、何度か成功?することはできました。終わったら軽く鼻をかみます。強くかむとこれまた中耳炎になるおそれがあるというので。

500mlも作ったのに、490mlくらいは余ったかと思います。翌朝の2回目は100ml(食塩1g)で作りましたが、それでもほとんど余りました。まだ鼻から口に流れる感触が苦手で大量に流せません。そのうち慣れるんでしょうか? (重曹も入れるといいらしいので次は試してみたい)

終わった後の感触は、なかなか爽快でした。鼻の中の今まで手が届かなかったところを洗えて、すっきりした気分でした。この調子で眼球も取り出して丸洗いできればと思ってしまうんですが…。人間もパーツバラバラに分解して洗浄できたらいいのになぁ。

わたしはずっとデンタルフロスを愛用していますが、歯の隙間を掃除できると気持ちよくて、フロスをかけないまま寝るのは気持ち悪く感じてしまいます。鼻うがいもそれと似た気持ちよさだなと思いました。「めんどくさい」より「気持ちいい」が勝ると続きそうですね。

とりあえず、サイナスリンスの一番安いパッケージも注文してみました。重曹入り生理食塩水は自分で作れるので、リフィルなしでボトルだけのものを書いたかったですが、そういうのはなさそう。最低限のリフィルが入っているものにしました。

うつむきながら容器の圧力で鼻を洗えるタイプのようなので、もっと大量の生理食塩水を流せるらしい? 使ってみなければなんとも言えません。無駄な買い物になるかもしれないけれど、わからないので大量のレビューを信用するしかない。

今まで知らなかったんですが、今の時代は色々な鼻うがい用の容器や液体が売られているんですね。そういうのから始めるのもいいのかもしれませんが、自分で生理食塩水から作って普通のコップでやる、という一番ハードルが高そうなのを最初にできたので自信になりました。口から出したし(笑)

追記1 : 改めて調べたところ、水道水の場合、細菌やアメーバ感染の危険があるとのこと。塩素消毒されていたり、浄水器を通したりしていても安心できるわけではなさそうです。水道水から作る場合、10分間の煮沸消毒が望ましいようです。(しかし医師によるものも含めほとんどの記事では沸騰させるだけで十分と書かれています。殺菌しなければいけない対象が耐熱菌ではないからでしょう)

また、やはり医師によると、専用機器を使って、うつむき加減で鼻の片側から入れてもう片側から出して洗浄する方法が推奨されており、コップで斜め上を向いて鼻に入れ口から出す方法は民間療法的で望ましくないのかもしれません。むしろ口から出さないほうがいいという話も。

鼻というものは目と同様、洗浄するようにはできていないので、人体が本来の機能を果たしていれば、鼻うがいなど必要ないのでしょう。

しかし現代人は子どものころから清潔な環境で暮らしすぎて十分な免疫応答が育まれていないので、アレルギーなど問題を抱えます。その症状を緩和するためには本来必要ないはずの鼻うがいも有用だとされていますが、細菌に感染しないよう、また常在菌を不必要に洗い流さないように注意は必要だと感じました。

追記2 : 数日後、サイナスリンスが届いたので、さっそく使ってみました。

まず、中に入れる水は、できれば薬局で精製水を買ってくるのが良いようです。2回分100円程度の価格です。水道水の場合は、非結核性抗酸菌が怖いので、煮沸してから使うべきです。その場合、容器も煮沸した熱湯で消毒する必要があります。

しかし、殺菌には煮沸のほかに、電子レンジを使う方法もあり、哺乳瓶や自家製ヨーグルトの容器の殺菌でも使われているそうです。サイナスリンスの場合も、公式サイトで、「乾かした状態のボトルとキャップを、500〜600wの電子レンジで60秒加熱してください」と指示されています。

こちらのサイトによると、水道水をサイナスリンスに入れた状態で、500w50秒くらい加熱すれば、両方一緒に殺菌でき、水の温度も人肌程度になる、と書かれていました。ただ電子レンジの場合の殺菌も、電磁波ではなく熱が作用しているようなので、熱が伝わりにくい水道水を常温から人肌程度に加熱するだけで十分なのか疑問です。

ですから、一番いいのは、容器は乾燥させた状態で電子レンジで殺菌、水道水は沸騰させて放置し、冷ましてから容器に入れて使う。あるいは常温まで冷めてしまったら容器ごと温める、という手順かと思います。

とはいえ、そんな手間のかかることをやっている人は、サイナスリンス使用者の1割もいないと思うので、浄水器の水をそのままボトルに入れて電子レンジで1分加熱するだけでも違うのかもしれません。とりあえず初回はそうしました。2回目からは浄水器の水を電気ケトルで沸騰させて体温程度まで冷ましてから使っています。

細菌がわずかでもいたら、必ず感染するというわけではなく、人間の免疫力も考慮に入れると、減菌でも効果があるでしょう。かなりの人が無対策の水道水で鼻うがいをしているのに健康被害がめったに出ていない以上、ある程度対策すれば十分なようにも思われます。

さて、肝心の鼻うがいですが、専用ボトルのおかげで驚くほど簡単です。ボトルを少しずつ握るだけで、うつむき加減でも鼻に生理食塩水を送り込めます。そのまま口で呼吸していれば、反対の鼻から勝手に出てきます。

しかし、この方法だと、後鼻漏が気になる上咽頭までは水が届きません。説明動画にあるように、ボトルを真上に向けて鼻にしっかり押し当てるといいのかもしれません。個人的にはやはり口から出したほうが、喉の裏側をすっきり洗えているような感覚もあります。

現時点でいえるのは、鼻うがいをするなら、容器は買ったほうがいい、ということですね。コップよりはるかに便利し安全そうです。容器を使った場合でも、反対側の鼻から出すこともできるし、口から出すこともできるので、あとは試行錯誤しながら、各々工夫して、自分の気持ちいいやり方を見つければ良さそうです。

追記3 : 鼻うがいをすると、副鼻腔の中に水が残ってしまうことがあります。放置しても蒸発するそうですが、上の歯茎の裏側に軽い鈍痛があるような気持ち悪い状態になるので、水抜きをすることにしました。

サーファーの人が水を吸い込んでしまった時に同じ現象(海水ドリップ)になるらしく、そこで紹介されているのと同じ方法で水を抜くことができます。考えてみれば、海で泳いでいる人なんて、雑菌だらけの水が鼻に入っても、ほとんどの場合は平気なんですね。

2020/12/08水

冬しか登れない斜面に挑戦

そこそこ雪が積もってきたので、スノーシューで森へ。この森は小さな山のふもとですが、普段はササが生い茂っていて、山に登るのは簡単ではありません。初夏ごろ一度挑戦しましたが、生い茂る草と虫のため、半ばで断念しました。

でも雪が積もっている時期なら大丈夫。スノーシューを履けば、斜面も何のその、と登ることができます。

写真に撮ると角度がわかりませんが、肉眼ではそこそこの坂に見えます。途中で疲れたら引き返せばいいや、というくらいの気持ちで登り始める。スノーシューの爪が引っかかるので、つま先に重心を置くことを意識してさえいれば難しくありません。

気温はマイナスですが、雪の断熱効果で暖かく、運動負荷も高いので暑いくらいです。なるだけ汗をかかないように、ゆっくりと登ることを心がけます。

斜面に生えている木は、ほとんど植林された若いカラマツやトドマツ。雪に埋もれたシダがちょくちょく見えます。裂片の形からしてベニシダでしょうか。初夏に登ったときもそうでしたが、特に面白い植生ではありません。登ることに専念。

途中、スノーシューでも厳しい坂があったので。斜めに迂回しつつ、木の幹をつかみながら登って、意外と楽に頂上に。人工林ながら倒木がたくさんあって、風が厳しいこと、長いあいだ人の手が入っていないことを感じさせます。

こういった未知の場所を歩く時は、雪に埋まった倒木はもちろん、雪の下に大穴が空いている可能性もあるので、一歩一歩慎重に。さすがにヒグマの寝ぐらはないと思いますが…。

野生動物の足跡は特に見当たりませんでしたが、不意に奥のほうから、変な鳴き声が聞こえました。ブタのような? いや、単にマツの木が風にきしむ音だったのか?

気味が悪いので、あまり長居はせず、頂上の森を突っ切ります。いま来たルートで降りなくても、まっすぐ歩いていけば、普段歩いている道に出られるはずです。

頂上の人口マツ林を抜けると、マツと広葉樹が立ち並ぶ混交林に出ました。

立ち枯れたトドマツには、見事なほどツリガネタケがたくさんくっついているのが目に止まります。近づこうとしましたが、足元に倒木が埋まっていて、実際の地形がわからず、かなり深い裂け目があるようだったので、遠くから撮るにとどめました。

いかにもキハダでは?と思わせるコルク質の幹の木もありましたが、樹皮の見立ては苦手なので間違っているかも。見上げても実らしきものは残っていません。

地面から突き出ている小さな苗木の芽が、オレンジ色だったので、もしかしたらウルシだろうか?と気になり、写真に撮ってみました。小さすぎて肉眼ではわかりませんでした。

どうでしょうか? オニグルミにも見えますが、個人的にはヤマウルシではないかと感じました。オニグルミだと葉痕(顔のように見える部分)がT字型ですが、ヤマウルシならハート型のはず。この写真は後者に見えます。

ヤマウルシはこの付近に普通に生えているはずですが、今まで一度も同定して観察できたことがないので、そうだったら嬉しい。

(追記 : 改めてオニグルミのそばに生えている幼木を観察したところ、幼木の段階では、葉痕の「T」字型がはっきりせず、ハート型に近いことがわかりました。下の写真はオニグルミの幼木の冬芽です。

葉痕は、かろうじて凹みが入ってT字型っぽさもありますが、ハート型に近いです。ある程度まで成長していないと葉痕での見分けは難しいのかもしれません)

眼前にはなだらかな雪の丘が2つ。それを超えた先にいつもの道。出口が見えたので、一歩一歩慎重に足場を確かめながら歩きます。そしてようやっと、普段の遊歩道に帰ってくることができました。楽しい冒険だった!

出かけた時点では太陽が見えていたのに、帰りは森の中まで吹き込んでくる雪が顔に当たって冷たい。ひどくならないうちに、家に帰ることにしました。

でも帰り道でカラハナソウのドライフラワーを見つけたので寄り道。松かさのような形にも見えますが、手で触れるとクシャッとつぶれてしまうほど柔らかい和紙のよう。

 

もうひとつ帰り道でのこと。何度も見ているガマの穂のあたりを通りかかったら、穂が弾けて、中の綿毛が飛び出ていました。これくらいの時期になると、手で少しつかんだだけで爆発するかも。

実験してみようと思い、穂をひとつ拝借。手で握ってみると…、

見事な綿菓子の出来上がり! そのまま風に吹かれてたくさんの種が飛散し、まるでカルメラ色素で色づけしたような茶色い綿毛が、真っ白な雪の上に散らばりました。

ひとつのガマの穂からこんなに種ができるなんて。旺盛な繁殖力にびっくりです。

冬の自然は近寄りがたく感じますが、1年目にはスノーシューを手に入れて、2年めには氷爆を見に行って、徐々に行動範囲が広がっています。

今年は夏に森をたくさん歩いたので、今日のように夏は行けなかった場所に入ってみるのが楽しみです。もちろん慎重さを忘れずに。

2020/12/09水

2本目のツリバナの木を見つけた

森の入り口付近のトドマツ林を見回していたら、あちこちに凍裂。ある程度の大きさになると、割れ目が入っている確率が急に上がっているような気がしました。あたかも木にとって大人になるための成人の儀であるかのように。

調べてみたら、そういうことを調べた研究がすでにありました。高齢(樹齢50年以上など)のトドマツが凍裂しやすく、地域によっては40%もの凍裂が見られるそうで、大きなトドマツが割れやすいという印象のとおりでした。

この地がとても寒いことを物語っているともいえます。凍裂した木々は痛ましくも見えますし、はたまた通過儀礼を乗り越えて誇らしそうにも感じられます。

森の入り口付近で、面白い実がなっている樹木を発見。遠目にはカエデの実がぶら下がっているようにも見えましたが…、

雪に埋まったササの上をスノーシューで踏んで、崖のそばまで近づいてみると、なんとツリバナでした。家の近辺で見つけたツリバナはこれで2本目です。前に見たのより大きく立派。これはぜひ覚えておいて、花の季節に見に来たい。

特徴的な5枚の殻が割れた実のおかげで、すぐにそれと見分けられます。雪の中に残っているのは殻だけですが、花そのもののような気品が漂っていて、名前どおり「吊り花」でした。

ツリバナの冬芽。以前に見た連装ドリルのような冬芽とは、かなり雰囲気が違います。対生になっている側芽が2本並んだドリルのように見えていたわけですが、それがすっかり伸びています。観察する時期によって印象が違うのですね。

頂芽だけ見ると、同じく鋭く尖っているドロノキの冬芽と勘違いしてしまいそう。でも、同じ仲間のマユミにも似た半円形の葉痕があること、そして側芽が対生していることから、ツリバナだと判別できます。(ドロノキは互生)

森の入り口のすぐ前というわかりやすい場所なので、これからも経過を観察できそうです。楽しみ。

森に入って少し歩いていくと、雪から突き出た胞子葉を発見。クサソテツ(ガンソク)かイヌガンソクのどちらかです。高さ10cmほどと小さかったので、おそらくイヌガンソクか。

湖に潜るガンの足のように見えるでしょうか? 昔の人のハイセンスな名付けが光ります。

ヤチダモの種。たくさん散らばっていました。道理であちこちからヤチダモの苗木が突き出しているわけです。地面から突き出た無数の槍のように、道を塞いでいます。

森の奥のほうにひっそりとある、氷の精が現れそうな池。まだ渓流の水が流れているので、完全に凍ってはいませんでした。少し近づいてみようとしたら、足元のササやぶがいきなり沈みこんだので、危険は冒さないことにしました。

この池を越えて、もっと森の奥にほうを探検してみたい、と思っていたのだけど、ここに来るまでに体力を消耗していました。午後から用事も入っていたので、しばし沈思黙考して、あきらめることに決めました。

普通の健康な若い人と比べたら、おそらく60代くらいの体力しかないので、思うように探索範囲を広げることができません。この前まで20代なのに80代というような状態だったことを思うと十分に改善しているのですが。

かなりボロボロになったウロコタケ? のようなキノコ。落ち着いた渋い色合いと、触れると朽ち果ててしまいそうな繊細さに、つい目を惹かれました。

森のあちこちに突っ立っている棒。黒い葉が垂れ下がっていて、ヨブスマソウかと思いましたが、もっと背が低い。

近づいてみると、茎にはふさふさの毛が生えています。枯れた葉を広げてみると、大きな手の平のような形。そして、茎の節々に輪っかのような小さな葉。

たぶんオニシモツケですね。輪っかのようなのは托葉でしょう。植物は季節ごとに姿を変えますが、花のない目立たない季節にも見分けられると嬉しい。

少し気になったので、立ち止まって近くまで見に行った木。下の写真の奥のボコボコした樹皮が、キハダではないかと思ったので。

触ってみると、コルク質な気もするし、そうじゃない気もする。横に回り込んでみると、樹皮の一部がえぐれて中が見えていました。キハダなら中が黄色いはずですが、そんなに目立つ黄色ではないので違うか? それともえぐれてから月日が経って色がわかりにくくなった?

枝ははるか上空20mくらいだったので、冬芽の確認もできませんでした。

なら、周りに若木でもないかと思って、さっきの写真の手前にある細い木を観察してみる。

少なくともキハダではないが、何の冬芽かまったくわからない。さっきの木とはたぶん種類が違う。

葉痕の形が独特のハート型なので、冬芽図鑑を借りてきたらわかるかもしれないので保留しておきます。

(追記 : 後日冬芽図鑑で調べたところ、ミズキかアズキナシではないか、と考えました。どちらも赤い芽が特徴です。

先が丸みを帯びている形はミズキのほうに近いですが、普段見るミズキの冬芽よりはるかに小さいので違うようです。それに、上で載せた樹皮の写真は、ミズキの若木の樹皮とはまるで違います。ミズキの若木の樹皮は別の時に観察しましたが、もっと皮目が目立ちます。

図鑑で調べたところ、樹皮はアズキナシの若木に似ています。また、アズキナシの冬芽を後日別の場所で観察したところ、とても小さいサイズで、この冬芽に似ていると感じました。アズキナシの冬芽はもう少し先がとがる傾向があると思うのですが、この写真のように丸みを帯びることもあるのかもしれません)

ものすごい立派な樹皮の木。斜めに螺旋状の溝が入っているので、たぶんハリギリ? そこそこの年数を経た大木のようで、もしかすると樹齢100年くらいいっているかも。これも枝ははるか上空なので、樹種の特定はできませんでした。

最後に、帰り道で見つけた木の冬芽。ちょうど手に届く高さにあったので、すぐ名前がわかるだろうと見てみました。

なんかヒゲみたいなのがついてる…?

ルーペで見ると、特徴的な維管束痕3つの顔のような葉痕があったので、ハルニレだと思うのですが、このヒゲみたいなのは何? これまで見たことがないものなので謎です。

3度目の冬が来ても、名前のわからないものばかり。自信をもって、そうだ、といえるものは、ほとんどない。

着実に自然界との距離が縮まっているのは確かだけど、その速度たるや遅々としてもどかしい。自分一人で歩いているだけだと新しく気づけることもわずかで、効率が悪い気もしてしまう。大切なのは効率ではない、と思いつつも、同じところで足踏みしている感じがする。

漫然と自然観察を繰り返すのではなく、もっと系統立てて学ばないといけないのだろうか。たとえばまとめノートを作ったりして。10代のころならそうしていたかもしれない。でも今のわたしは、そこまでの体力や気力が伴わない。「継続」はできるが、それ以上できる気がしない。

「海辺」読書メモ(2)

第一章

■「海辺のあらゆる生物は、過去、現在のいずれを問わず、そこに生きているという事実によって、海の激しい力や、他の生物との微妙なつながりをうまく処理してきたことを証明している」。(p30)

「ある生物とそれをとりまく条件との関係が、一つの因果律で結ばれるような海辺は存在しない。それぞれの生物は、生命という織物の複雑なデザインを織り上げている無数の糸によって、その世界につながれているのである」(p33)

海辺は適応が難しい環境だからこそ(津波も押し寄せる人間も住まないようなところだ)、そこら住む生き物は巧妙につくりをしている。しかし、適応が難しい環境なのに、みなが同じ方法で適応するのではなく、信じがたいレベルの多様性がみられる、ということに驚きを感じてしまう。

フジツボやヨメガカサの貝殻のあの螺旋状の円錐形が、押し寄せてくる波の圧力をそらすためのものだなんて、これまで思いもしなかったが、言われてみるとかぐ合理的だとわかる。しかし、波に対処する方法もまた生物によって多様性があるのだ。(p36-38)

この章に出てくる挿絵の生物、ワタトリカイメン、フサゴカイ、タコノマクラ、ウスイタボヤ、なども画像を調べてみたが、とても不思議な形で興味をそそられる。北方特有のミドリウニなんて、日本語で画像検索しても出てこないので、Lytechinus variegatusで調べてやっと姿を拝見できた。

この本の読者はインターネットのない時代の人々だから、想像を刺激されて楽しめたのかもしれない。しかし今読むと、事実の羅列で論文っぽさがあり、少し辛い。

■「少し経験をつめば、動物相と植物相を観察するだけで、その海岸がどのように波にさらされているか判定できるようになる」(p34)

海のそばに住んでいないと、まず潮の満ち引きによる変化に疎い。観光でただ一瞬訪れるだけだと、特定の潮位の砂浜しか見れないからだ。近くに住んで毎日見れて初めて、干潮と満潮、大潮と小潮の様子の違いが、「日々、刻々、認識される」のだと思う。(p51)

トリスタン・グーリーがどこかで書いていたように、海を知らない単なる旅行者は、砂浜に寝そべって時間を忘れ、満ちてきた潮で水浸しになってしまうのだ。

フジツボひとつとってみても、幼生と成体の違いがあるなんて、考えもしなかった。また、干潮時にどのようにな身を守るのかも。観察に時間軸が伴うかどうかは、そこに住んでいるかどうかで変わるのだ。(p36,53)

フジツボがびっしり張り付くのは、満潮線のすぐ下だという豆知識をぜひ覚えておきたい。そりより上にはラン藻(藍藻)が残した黒い帯と螺旋状の殻のタマキビ地帯がある。大潮のときだけ水がかかる場所に住むフジツボやタマキビもおり、そのときに卵を海にさらわせる。反対にゆるやかな小潮のときに産卵するものもいる。

一方フジツボより下の干潮線のあたりには海藻のツノマタが生えている。そして干潮線の下にはコンブなどの海藻地帯があり、大潮の引き潮の時だけ見ることができるという。一度見に行ってみたいものだが、慣れないと危険かもしれない。(p56,58,60)

これについて調べていて、初めて海草と海藻の違いを知った(笑)。この本でも、海草は顕花植物だとはっきり書かれている。(p201)

「このような海草はみな高等植物―種子植物―で、いわゆる海藻とは異なるものである。藻類は、地球上で最も古い植物で、海水にも淡水にも生えている。しかし、種子植物は、わずか六億年ほど前に地上に現れたもので、現在、海で生活しているものの祖先は、陸地から海へ帰っていったのである」(p304)

■「このような新しい分布は、今世紀の初頭から始まったかに見えるー今でははっきりと確認されているがー広範な気候の変化に関係があることはいうまでもない」(p45)

カーソンの時代に、すでに温暖化が認識されていたのが驚き。確かに二酸化炭素濃度は産業革命をきっかけに変化しているので、生物相に変化が出始めたのが「今世紀初頭」というのは正しい。彼女がもし沈黙の春以降のこの嘆かわしい時代を目にしたら、どう感じたことだろう。

■海辺の生き物からわかるのは、生物は同じ過酷な環境であっても、非常に多彩な適応を見せるということだ。それぞれの種にそれぞれの生存戦略があり、同じ問題を違った答えで乗り越える。その独創性は個性を生み出す。

わたしは発達障害やHSPといった概念は否定はしないものの、あまり重要だとは思えなくなってしまった。それらは、ある人々をある程度のステレオタイプまグループにまとめようとする。表面的にはそのとおりであるかに思える。しかし、一人ひとりの個人をみて、じっくり向き合うと、全然違うことがわかる。理解しあえる、わかりあえると感じていた共通点は泡のように消える。

ステレオタイプで判断しようとすれば、必ず「わたしはある診断基準ではADHDだが、別の診断基準では自閉症に近いところもあり、別の点ではHSPで……」といった終わりのない螺旋に迷い込みかねない。ある部分において、誰かと似ていると感じるのは普通だ。だが、すべての点で他人と同じだったり、すべてがステレオタイプに当てはまる人はいない。平均的人間という概念が幻想であるのと同じように。

誰かがステレオタイプに当てはまると感じてしまうのは往々にして、相手のことをよく知らないか(特にネット上のやりとりだけだとそう感じやすい)、特定の環境下での相手しか見ていないか(たとえばその人は自然の中で暮らしても同じだろうか)、なのかもしれない。さまざまな状況下で相手と付き合っていると、第一印象ははかなくも崩れ去ることが多い。

オリヴァー・サックスが「心の視力」で書いていたように、失明という体験に際してさえ、一人ひとりの脳の変化はまったく異なる。視覚心象を失う人もいれば、保持する人もかえって協力になる人もいる。そこにあるのは通り一遍なステレオタイプではなく、複雑かつ多様な個性の物語なのだ。

サックスがしたように、一人ひとりの物語を語ることはできる。しかし、みなをひっくるめて、このような人はこうだ、と紋切り型を作ることはできない。海辺の多様な生物を語るには、膨大なページが必要で、一つ一つの生き物の個性を見て回らなければならないように。

今回はここまで。今まで知らなかった海の生き物たちの暮らしをイメージできるので楽しいが、知らない固有名詞だらけで読むのに時間がかかり疲れる。しかも次章からは、非常に長いので、完読できるのか不安だ。ゆっくり読み進めるしかない。

2020/12/10木

「北の薬用植物」という本を見つけた

今日はあまり体調の良くない日。少し寒気がするのと、眩しさに敏感になっていて頭痛がします。一週間前にもこんな体調の日がありましたが、次の日には回復していました。定期的に訪れる自律神経の失調でしょう。

都会に住んでいたら、こんな体調不良の時期が来るたびに「もしかしてコロナに感染した?」などと不安になるのでしょうか。ぞっとしますね。わたしの場合は、過去数週間、コロナに感染するような場面がまったくないので、その可能性を否定できます。

北の薬用植物 (名寄叢書8巻)という本を見つけたので、読んでみました。30年前に市立名寄図書館によって編纂された250ページほどの本。1000円。

カラー写真は一枚もありませんが、全94種の植物の精巧なモノクロのイラストと、各1ページほどの豆知識の解説が載せられていて、なかなか読みごたえのある良書。植物にまつわる文化的なこぼれ話は、話のネタに使えるかもしれません。

しかし、なぜか掲載されている植物の半分近くが、道北に自生していない品種で占められているので、あまり身近な植物を学んでいるという手応えがありません。名寄市内?の薬用植物園などで栽培されている、ということなのかもしれませんが、まえがきで書かれている「身近に見ることのできる植物に詳しくなってほしい」との願いにもとるように感じられました。

また、それぞれの植物がどんな症状に対して薬効がある、と書かれていても、実際にどのように食べればいいのか、といった具体的情報に欠けるため、実用的ではありません。この本で情報を知って、それを手がかりにネットで調べる、などひと手間必要です。

植物研究家の井波一雄氏の「薬草を知ることは自然を知ることであり、自然を知れば採集のマナーも身につくというもの。薬草を求めて野山に出かけることは薬草を必要としない健康を身につけることである」という言葉がなかなかいい。彼の略歴にあるほどの健脚や行動力は、今のわたしには、たとえ野山に森林浴に通ったとて望むべくもないものだけれど。(p ix)

【気になったニュース】

軽症者も苦しむ「すごくきつい」コロナ後遺症の実態 実録・新型コロナウイルス集中治療の現場から(第29回)(1/4) | JBpress(Japan Business Press)

新型コロナの後遺症で、感染後CFSが多数確認されているようですね。このニュースメディアは信頼性の怪しい情報が多い気がしているので身構えましたが、まっとうな医療機関の話のようです。

世界的に感染後CFSの症例が急増するでしょうから、停滞していた研究が進むかもしれません。うちのサイトは感染後CFSにほとんど注目してこなかったので、どういう機序が明らかにされるか興味はあります。

でも、なんとなく、これまで通り、全然解明されないまま、10年20年と苦しむ患者が増えるだけで、医師に理解されない不定愁訴を抱える人が医療難民になって泥沼化しそうな予感もします…。

2020/12/11金

森の中のエゾヤマザクラの黒い包帯のような樹皮

エゾヤマザクラというと、公園で見かけることの多い木ですが、ヤマザクラなので、当然、森の中にも生えているはずです。

過去の日記でも、森の中に黒光りする包帯ぐるぐる巻きのような樹皮の木があると書きましたが、それがエゾヤマザクラだと、やっと気づけました。非常に特徴的な樹皮なのて、見通しのよい冬になると、混交林にエゾヤマザクラが点在していることがわかってきました。夏に思っていたより、ずっと多く生えています。

背が非常に高いので、見上げても、望遠レンズで見ても、冬芽はわかりません。

しかしその代わりに、根元からひこばえのような若枝が出ている木がいくつかあったので、若枝の冬芽を観察することで判別を試みました。若枝の冬芽なので非常に小さかったですが、ルーペを使えば、色や形状がはっきりわかります。すると…、

赤茶色の芽鱗で覆われている冬芽で、葉痕は半円形、維管束痕は3つ。ひこばえの冬芽なので極小ですが、おそらく公園で見るようなエゾヤマザクラの冬芽と同じものなのでしょう。

今日、森に出かけたのは、またクマゲラがいないかと思ってのことでした。キツツキらしい声はすれど、かすかに見えた姿は白い羽根だったので、クマゲラではありませんでした。色鮮やかなカケスが何羽かエゾマツの青々した葉の中を飛び回っていましたが、うまく写真には映らず。野鳥観察も根気が必要です。

【気になったニュース】

北見枝幸でクラスター発生。枝幸出身の友人がいるので、詳しい内容も伝わってきているが、人口7800人ほどの町でも大規模クラスターが起こりうることに驚き。でも経路がわかっているし、そもそも人と対面をほぼ完全に避けているわたしの生活だと感染はしないでしょう。

問題は何か他の急性の病気になっても病院に行けないこと。しかし東京から引っ越してきた時点でそのリスクは承知の上だったし、今さら慌てることではありません。

「色のない島へ」再読メモ(4)

「海辺」を読んでいる途中ではあるが、第一部だけ読んでほったらかしていた「色のない島へ」の続きを。シダやソテツの話が無性に読みたくなったので。

■1993年、グアム島のジョン・スティールからサックスに電話がかかってきた。彼は難病中の難病であるリティコ・ボディグの患者を数百人も診療していて、その病態がかつてサックスが報告した嗜眠性脳炎に似ていると感じたのだ。特にボディグ(パーキンソン病様症状)のほうがL-DOPAで一瞬だけ改善することも含め類似していた。(p140,198,200)

嗜眠性脳炎はウイルスによるものだったが、ほかにも遺伝的なもの、重金属中毒によるものなど、多彩な原因でこの重篤な症状が起こりうるという。(p141,202)

リティコ-ボディグの原因も様々な説が唱えられた。カルシウムとマグネシウムの不足によるアルミニウムの蓄積説(p216-219,224)、ソテツのBMAA説(p220-)、サイカシン説(p225-227)、スローウイルス説(p227,231)、遺伝説(p228)、さらには寄生生物説(p322)、一種の世代間トラウマが関係している説(p325)。

「それぞれが支持を集めていはいるが、どれもが決定的な証拠を欠いている。…多くの病気と同様に、さまざまな遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合って作用しているに違いない」。しかし「予想外に単純なものを見逃しているのかも」しれない。(p230-231)

そういう意味では、慢性疲労症候群とも似ているかもしれない。これもおそらく遺伝的なもの、小児期逆境によるもの、腸内細菌叢の変化によるもの、重金属や化学物質によるもの、そして今年注目されてるウイルス感染後に現れるものなど、おそらくは多様な原因で同じ神経経路が障害される「縮退」が起こっている。

幸いにも1952年生まれ以降の若い世代は罹患していない。家族性があったが、移住者も発症したため、環境や習慣が関係していると考えられた。あたかも「導火線」があり「突然何かが爆発する」かのようだ。もしソテツが原因であるとしても遅発性すぎて前例がないという。(p156-158,172,187,196-197,225)

交通手段の死者の解剖によって、1940年以前生まれの人々の70%に、病変が発見された。つまりリティコ-ボディグの原因は、かつての時代にはありふれたもので、ほとんど全員が曝露していたことがわかった。(p215)

■サックスは、神経科学者としてリティコ・ボディグに関心は持っていたが、それよりも原始的な裸子植物の一種であるソテツが原因ではないかと取り沙汰されていることに興味があった。彼の診察室にはソテツの鉢植えが3つあり、病気とソテツ両方を調べるためにグアムに旅立った。(p141)

このリティコとボディグに関する章は非常に閉塞的かつ重苦しい内容だが、合間に挟まれるソテツに関する話が気分を変えてくれる。

「君は神経学に造詣の深いソテツ学者だと名乗ってもいいし、ソテツ学に造詣の深い神経学者だと名乗ってもいいよ。どちらにしても、グアムは最高だよ」(p142)

しかし、そのソテツも、病気の根源かもしれないと思いながら読むと、どこか薄気味悪いホラーのようなきな臭さを感じてしまう。

恐ろしい難病の原因がわからないという記述の直後に、絶妙のタイミングで「見てごらん、ほら、ソテツだよ!」という植物パートが挟まれるのだ。物言わぬ人ならざる者の不気味さが入り交じる。少なくとも「オアハカ日誌」のような陽気な明るさは微塵もない。

スペインによる強制的な改宗、虐殺、日本軍の占領と虐待、美しい自然と故郷を封鎖する米軍基地建設と続くチャモロ人の受難の歴史も果てなく重い。その上にリティコとボディグが続くのだから。さらに無頓着に医療関係者により、非人間的な扱いも受けてきた。これらすべてが淡路島より小さな島で起こったのだ。(p179,184,191)

「みんなリティコ-ボディグで死んだんだ。…私も眠るんだ、家族やウマタックの人々に囲まれ、リティコ-ボディグで死んだ人々共に、海の見えるこの墓地に」(p235)

現実の話だとわかって読んでいるのに、一見明るい呪われた島を舞台にした猟奇的推理小説を読んでいるような心地になってしまう章だ。むしろこれがフィクションであれば、どんなにかよかったことだろう。

■ジョンは、アーサー・グリンブルの「島のパターン」という本を読んで、自分は太平洋の島に住まなければ絶対に幸せになれないと感じて、グアムで働くことにしたという。養蜂やゴーギャンの絵やヤムイモのウベを愛する面白い医師だ。彼はリティコ・ボディグを解き明かせるのは自分だと考えた。そのためには島に住み、その文化や習慣と共に暮らす必要があるのだ。(p145-147)

Amazonで調べてみたら「島での日々」という邦訳が出ていたが在庫切れだった。人の生き方を変えた本なのだから、図書館で探して読む価値があるかもしれない。なんと翻訳した人もこの本に動かされて田舎生活を始めていた。北海道内では札幌学院大学図書館にのみ存在するようだが借りれるのか? (追記 : 北海道の僻地では無理だった。東京に住んでいたら取り寄せして借りれると思う)

患者のことを知ろうとせず、ただ検査したり書類を作ったりする無思慮な医師が多い中、ジョンは患者の生活に関心を持っている温かい医師だ。現地に住み、10年以上をかけて信頼を勝ち取った。(p172,185)

しかし感情移入するからこそ、リティコの無慈悲さと残酷さには胸を締め付けられ、一人涙することもある。一日だけリティコの患者を見て回ったサックスでさえ、ひどい疲労感に襲われた。(p186,195)

■リティコ(ALS様症状)は1945年、海軍の軍医ジマーマンにより発見された。(だがさかのぼれば、1900年には報告があったようだ) のちに疫学者のカーランドもこの病気に取り憑かれ、40年間も研究し続けることになった。チャモロ人の成人の1割がこの病気で死に、特にウマタック周辺に異常に多く、家族性も見られた。(p149-151,157,182)

一方、ボディグ(パーキンソン病様症状)は当初見逃されていた。しかしその発生率も異常に高く、むしろ脳炎後遺症のようだった。チャモロ人はそれをボディグと呼んでいて、1970年代以降増加した。やがて平野朝雄が解剖して、リティコとボディグは同じ病気の異なる側面である可能性が出てきた。(p152,162,185,203,215,304)

さまざまな症状が共通の病因で起こる、というのは発達性トラウマ障害を思わせるところもある。「激しい筋肉の抵抗」と「完全な無抵抗」は、PTSDと解離のような関係性ともいえる。(p155)

「標準的な症状というものはないんだ。10人以上の患者を診察すると、同じ症状を示す人は二人といないことが分かる」(p153)

■ボディグは嗜眠性脳炎後の後遺症と似ている。能動的な行動の開始ができなくなり「誰かがきっかけを与えてくれさえすれば」思考や会話ができる。自分からはボールを投げれないが、ボールが飛んできたら受け取ることはできる。

「最初のカードがテーブルに置かれた瞬間、彼は突然生気を取り戻して自分もカードを切り、新しいカードを引き、ゲームを続けることができる」。(p153,212-214)

もちろんこれほど重篤ではないが、わたし自身も似た傾向があるので、ドーパミン系に異常に共通する症状ではないかと過去に考察したことがあった。

「暴発-妨害的」な症状。筋肉を動かそうとするが、意志とは逆に緊張また弛緩してしまい、がんじがらめになる。「体が意のままにならなくなり、まるで自分の意思と切り離されてしまったかのように」。(p155,160)

この状況に陥った人について読むといたたまれないし、普段のわたしたちの体が、無意識化しでいかに複雑に処理をしてくれているかわかる。ちょうど睡眠麻痺に陥った時の状況とよく似ているので、その苦しさは想像がつく。

これはまた神経が「病的に過敏な状態」なのだろうか。オンかオフの二択しかないのは、閾値が非常に狭くなっているから、といえる。容易に神経が興奮し、すぐには元に戻らない。ハンドルを少し傾けただけで、右か左に最大限タイヤが回ってしまうようなものだ。(p226)

爆発的な動きと、無動を行ったり来たりするすることが、ある種「爬虫類」的だとされているのは興味深い。不動系はいわゆる爬虫類脳のシステムだからだ。(p320)

音楽をかけると驚くほど落ち着き、きちんとした会話ができるようになる。内部のリズム調節能力が失われていることがわかる。「世界が階段でできてさえいれば」自由に動くことができる。

「凍り付いたような不動の患者を動かすには、誰かが患者と一緒に歩くか、リズミカルで音楽的な拍子が必要である」。「平らな地面の上はほとんど歩けない患者が、複雑な障害物があったり凹凸のある地面は簡単に歩ける」。そして「音楽、歌、踊り」に反応する。(p156,199,214)

これは過去に扱ったようにトラウマ由来の不動にもいえることだし、わたしが森の中だと生気を取り戻すのとも関係しているような気がする。

■「病気に対するこの島の人たちの反応は、僕たちのものとは違うんだよ。病気、特にリティコ-ボディグに対して、チャモロ人はある種の冷静さと運命論的なところがあるんだ」。病の中でも病気の人は尊厳を保ち、家族もまた不平を言わずに介護するという。必ずしも治療を求めるわけではなく、運命として静かに受け入れている。(p154,157,161,163,186-188)

それは都会の病院とは多くの点で正反対だ。最高の(とされる)医療のサポートを受けている孤独な患者と、自分の家で家族に囲まれて衰弱していく患者とではどちらが自尊心を保てるのだろう。(p188-189,194)

「こんな状態になっても、客をもてなす心を失って」いない人、イプセンがそうだったように、「すべてを失ってもなお、世の中を観察するる情熱は衰えない」人もいる。「病気にもかかわらず礼儀正しい人柄は完全に保たれ、鋭い洞察力やユーモアもそのままだ。」(p187,212,234)

■ソテツの話。ソテツは種子植物のヤシに似ているがまったく別の原始的な裸子植物だ。古生代にはベネティタレス(bennettitales)やコルダイテス(cordaites)が現れ、中生代には一面に広がり、恐竜たちがソテツの実をむさぼり食っていた。すべてにおいて植物界で最大級のサイズを誇る。(p159,241,242,254)

ナンヨウソテツから取られた独特の味のするでんぷん質であるファダンやソテツチップスは、グアム島の救荒食糧であり、伝統食品であり、民間療法薬でもあり、「神の恵み」だった。しかし解毒にかなりの労力を要するので、健康に悪いという懸念は昔からあった。(無毒化に手間がかかるという意味ではワラビやトチにも似ている) (p162-165,170,253)

栄養学者のマージョリー・ホワイティングは、世界中のソテツと文化を調べ、多くの国で食用にされていることを報告した。その中には日本の琉球諸島も含まれている。炒ったクリのような風味と歯ごたえがあるらしい。(p165-167)

ソテツの種子に含まれている毒のひとつはサイカシンで、肝機能障害を起こす発がん性物質だ。しかしほかにBMAAという神経毒も含まれていた。(p204,225)

八瀬善朗が調査した日本の紀伊半島など世界の他の場所でもリティコ-ボディグに似た風土病が見つかり、ソテツを食用にはしていなかったが、薬用で利用していることが確かめられた。(p205,216,222)

またソテツの毒抜きでは、BMAAは大幅に減らされるが、サイカシンは多量に含んだままだということがわかった。(p227)

グアム島やロタ島のソテツはのちにミクロネシカ種に分類され、毒性物質が他の地域のソテツより多いことも明らかにされた。(p258)

グアムで最も多い中毒はシガテラ中毒で、食物連鎖で渦鞭毛藻に含まれるシガトキシンが濃縮された魚を食べることで起こる。ソテツの実を食べるオオコウモリが外来種の木登り蛇で絶滅しかかっている。

…という幕間の余談に思えた話が、追記部分で明かされた真犯人の伏線となるあたり、リアル推理小説みが強い。(p206,255)

■「孤立した環境でのこのような遺伝病は六世代から八世代、およそ200年ほど続いて消滅し、その記憶や痕跡も、未来へ向かって進む時間の流れの中にやがて消えていくのである」(p236)

今や現代人のほとんどが癌が心疾患や何らかの慢性病を抱える時代であり、グアム島よりもっと複雑になった病的習慣の濃縮が見られる気がしてならない。

たとえば、若くして子宮筋腫になるとか、癌になるとかいう話をよく耳にするけれど、その原因が何かまで探られることはないのだ。現代人の何かの習慣が関わっている可能性はあれど。みんながソテツを食べていたグアム島のケースより、現代社会ははるかに生活が複雑になってしまっているからだ。ひとつの原因はマイクロバイオータだろうが、ほかにも色々あるのだろう。

慢性疲労症候群や発達障害のような現代病は、隔離された島に生じる独特な病気と性質が似ているのではないだろうか。同時代の人々が共有する独特な環境と習慣が、特定の遺伝子をもつ人に異変を引き起こすのだ。少なくとも、境界性パーソナリティ障害、新型うつ、睡眠相後退症候群などは時代を取り巻く環境によって一時的に著しく増加したことがはっきりしている。

現代は多様な文化が見られると思われているけれど、大量生産によって、驚くほど多くの人が、遠く離れているのに同じ習慣を共有している。都市での生活、加工食品やファストフード、自動車の公害やLEDの光害など。それはわたしたちの時代特有の環境と文化であり、同時期に違う場所で、この時代特有の謎の疾患を引き起こしうるのだ。

そのような「現代病」も、流行しているのは今だけであり、数世代経ってみればほとんど消滅し、まったく別の何か違う病気に取って代わられているのかもしれない。

2020/12/12土

色鮮やかな地衣類いろいろ

気温プラスの日が2日も続いて雪解けしてしまったけれど、まとまった雪が降ってまた白銀の景色に。森に出かけてみたら、場所によっては膝丈まで積もっていました。40-50cmくらいか。まだ雪の重みが足りず、スノーシューでも深々と沈んでしまう。

夏場はあまりに草が生い茂っていて行けなかった森の谷底あたりを歩くことにしてみました。冬は沢沿いを歩いても、ヒグマに出くわす危険が(たぶん)ないから、探検に丁度いいかもしれない。

道なき道の樹木を飾るさまざまな地衣類。

地衣類は海のサンゴ礁のよう。水中メガネを通して熱帯の海を覗き込んでいるかのように、ズームで見ると樹皮に広がるサンゴの世界が現れます。

名前を調べてみて思いましたが、これは無理ですね。大まかに葉状地衣、樹状地衣、イボ状地衣と区別して、代表的な種を覚えることはできるでしょうが、呈色反応を見なければいけないような細かい区別は素人には不可能です。そのユニークな形を見て感嘆するくらいが関の山。

でも、その幾何学模様の造詣の美しさには目を見はるものがあります。風景がシンプルになっている冬には、次々に樹木のおしゃれなコーディネートが目に飛び込んできます。こんなにも種類があるのか、と驚くほどに。

カラクサゴケの仲間でしょうか? トナカイの角のようなフラクタルな分岐を繰り返す地衣類。

チャシブゴケの仲間か。茶色いお椀状の部分は胞子をつくる子器です。

ダイダイゴケの仲間。この橙色のつぶつぶが子器のようですね。20倍ルーペで接写しているのですが、焦点がはっきり合わず、子器の正確な形を観察するのは難しい。

カラタチゴケの仲間? このようなとろろ昆布のようなフサフサした地衣もよく見かけますが、正式名称がわかりません。

ゲジゲジゴケ? 形はカラクサゴケにも似ていますが、黒い毛がびっしり縁取っています。いかにもムカデゴケ属ゲジゲジゴケといった見た目。

どれがありふれた地衣類で、どれが森や山の地衣類なのかもまったくわからない。たぶんチャシブゴケのようなレカノラ系は都会でも見られる汚染に強い種類なのかな? 図書館に唯一あった地衣類関係の図鑑を借りてみましたが、情報量が少なすぎました。

九州大学の北大演習林の地衣類というPDFは数種類が写真入りだし、北海道に分布している地衣類がリストアップされているので役立つかもしれません。(時々見つける鮮やかなキャベツみたいな地衣類はナメラカブトゴケ?なのかもしれない)

立派なブドウの木を見つけ、倒木だらけの谷を歩く

深々とした雪をラッセルしながら、今まで通ったことのない谷に足を踏み入れると、入り口にとても立派なヤマブドウの木を見つけました。何本もの太いつるが乱立して、頭上にを網目のように覆っていました。

今年はヤマブドウがひどく不作だったと感じていますが、ここのツルには、そこそこ大きいしっかりしたブドウがなっているのを見つけました。高い場所だったので、味見はできませんでしたが、今年全然見なかったいかにもブドウらしいブドウです。

葉っぱもない真冬ではなく、もっと青々としている夏や秋にこのブドウの木の下に来てみたいと思いましたが、その時期は背丈ほどもあるイタドリやクマイザサが生い茂っているでしょう。とても踏み込めないし、やぶ漕ぎして木の下まで来たところで落ち着けそうもありません。

そこからしばらく谷を歩きましたが、驚くほどあちこち倒木だらけ。ひたすら足元に何かが埋まっているので、歩くのが大変。太い幹が埋まっていることもあれば、ササの茎にスノーシューが引っかかることもある。そしてこける。穴にはまって、抜けなくなり、手でスノーシューのかかとをつかんで引き抜く。

トラップだらけの倒木地帯を歩くのに必死で、その風景を写真に撮り忘れたのが残念です。また日を改めて挑戦した時にでも。(追記 : 別の日に再び訪れて写真を撮ってきたので貼っておきます)

谷底があまりに歩きにくかったので、匙を投げて側面の雪壁を登って脱出することに。幸いスノーシューなら、つま先の爪のおかげで、かなり急な坂でも安全に登れます。和かんじきのほうが、より上りに適しているとは言われますが。

坂を登った先も、今まで歩いたことのない未知の森で、谷底ほどではないにせよ、雪に埋もれた倒木が散乱していました。

せっかくだから樹木を観察したいとも思いましたが、雪が強くなって吹き込んできて、頭上を見上げようものなら顔に降り掛かって冷たい。それでも、雪の森を歩きながら、いろいろ見つけました。

まず今年も見つけた恒例のミズナラメウロコタマフシの虫こぶ。ちょうど降りしきっていた雪の結晶がはっきり確認できますね。

クロミサンザシの実。まだかなりたくさん残っていました。名前のとおり黒い実ですが、ほのかに赤みがかって見えるような気もしました。もしや先日見かけた謎の実はクロミサンザシだったのだろうか?

独特の冬芽と、枝にところどころ突き出ているトゲのおかげで、確実にクロミサンザシだと区別できます。いびつでどこか不格好な赤い芽です。

やっとのことで森を出て、雪原にたどり着くと、はるか向こうまで、一直線に何かが歩いていった足跡が残っていました。キツネでしょうか。

雪の森を歩いていると、ちょうど通りやすい場所にシカなど動物の足跡が残っているので、ついついその足跡を踏みながら、後を追うようにして歩きがちです。かとおもえば、先日わたしがラッセルして歩いた足跡に重なって、シカが歩いた跡を見かけることもありました。

人間がシカの足跡をたどり、シカが人間の足跡をたどる。お互いに見ず知らずなのに、どこかでつながっている関係性。人と動物のあいだの思わぬつながりに嬉しくなります。

突然、騒がしいカラスの声がして見上げると、銀色の翼のワシのような鳥が滑空していました。ノスリです! その後を二羽のカラスがしつように追い立てていました。カラスがノスリに嫌がらせをしているのか、ノスリがカラスの縄張りに侵入したのか。森の生き物たちもそれぞれの生活を営んでいるんだな、と感じました。

ノスリを見たのは2回目ですが、残念ながら今回も撮れず。先日のイヌワシもそうですが、滑空して飛んでいく鳥は、見えるのがほんの数秒なので、カメラを構えるひまがありません。

帰り道では、キツツキのドラミングが聞こえましたが、クマゲラではなく小型のキツツキのてようでした。はるか高いカラマツの幹にいて、見上げると降りしきる雪が冷たいので、じっくり観察することはできませんでした。

「色のない島へ」再読メモ(5)終

■サックスの子供のころの回想。5歳のころ住んでいたロンドンの家の庭にシダがたくさん植えられていたのが原風景だった。マリー・ストープスの「古代の植物」のうち、イチョウ、ソテツ、シダ、ヒカゲノカズラ、トクサなど太古の植物の話が好きだった。(p237-238,326)

「私の子ども時代は戦争によって失われ、想像の中にしか存在しないので、私は無意識のうちに、古生代という遠い過去のエデンの園を私自身の魔法の「過去」、決して変わることのない全き存在としていたのだろう」。(p239)

サックスにとっての空想世界(パラコズム)は古生代だったのだ。現代の子どもがゲームやファンタジーの世界を取り込むように、それらが存在しない時代の子どもだったサックスは図鑑の古生代を空想世界にしてしまった。

■サックスは「グロテスクな」サバクオモトに興味を惹かれたと述べているが、わたしはウェルウィッチア・ミラビリスをグロテスクだと感じたことはない。日本語名が「奇想天外」とポジティブなのも関係しているのだろうか。植物園の中で丁重に育てられている様は、異国の王族の貴賓のようにも思えたものだ。(p242)

わたしも植物園に通い、多肉植物を育てていた時期があるので、サックスと性根が似ているのだろうな、とやはり感じた。そしてやがて植物園では物足りなくなるこの言葉の心底同意するのである。

「それでも、いかに大きくても庭は庭であり、生命の複雑さと雄大さ、進化や絶滅を推し進める力を感じることができるのは自然の中でのみだ。私が見たいと願っていたソテツは植えられてラベルを付けられ、自然から隔離されたものではなく、自然のままに生え、バニヤンと隣りあい、パンダナスやシダに囲まれていなければならなかった」。パンダナスはタコノキ、バニヤンはインドボダイジュというガジュマルに近い木である。(p244)

■グアム島のジャングルにシダを見に行った話。「私はあらゆる形や大きさのシダを見ることができて嬉しくなった」。羨ましい。

葉が3mにもなるタマシダの海。着生植物に覆われた樹皮、「鳥の巣」のようなシダ(オオタニワタリとか?)、レースのようなシノブ、単葉のヒトツバ、スゲのようなシシラン、コケシノブ科のトリコマネス、珍しいハナヤスリのophioglossum pendulum。調べてみるとコンブのようだがハナヤスリの「花」がつくリボンシダ。栄養葉と胞子葉の違いがはっきりしているグアムを代表するシダhumata heterophylla。美しい巨大なタッセルシダ(tassel fern)が盗掘されていることを読むと心が痛む。(p208-209)

■ロタ島のジャングル。ソテツの葉痕を数えれば、樹齢どころか、過去の大型台風の痕跡までわかるというのは面白い。1000年以上も生きているものもある。花粉まみれのソテツの球果を抱きしめそうになる。その森が日本人用のゴルフ場で破壊されたというのはなんとも嘆かわしい。(p246,252,340)

島の植物について誰よりもよく知っていて、キノコも見分けられるまじない師の親子。息子は母から「たとえ後ろ向きに歩いても森のものを何一つ壊さないで歩けるように教えられてきた」。わたしも教えてもらいたいものだ。なんと夜光性のキノコだけでなく夜光性のシダもあるという! (p245,247,258)

マツバランを見つけて興奮するサックス。そういえば彼はプシロツムが大好きだとオアハカ日誌に書いていた。導管システムを備え、地上の生活に適応した最初の植物だという。(p249)

「確かに森には圧倒的に美しさがあるが、それを表現するためには、「美」という言葉では単純すぎる。なぜなら、森の中にいることは単に美しいものを鑑賞することではなく、神秘を感じ、畏怖の念を覚えることでもあるのだから」。

「ロタ島のソテツの森をさまよい歩きながら、私は自分の感覚が拡大し、まるで新しい感覚、時間の感覚が私の内部で生まれ、秒や分という短い時間を理解するのと同じくらい簡単に、1000年や10億年といった途方もなく長い時間を理解できるようになる気がしたのだった」

「こうして森の中に立つと、自分が大きな、そして静かな存在の一部だと感じることができる。それはまるで我が家にいるような感覚、地球と自分が仲間であるという感覚なのである」。

なんとすばらしい言葉。いつか使おう。(p258-259)

■ダーウィンの学説の根本には、悠久の時を解き明かした地質学があるという話。確かに「ビーグル号航海記」を読むと、進化論はもともと動物の進化ではなく、何百万年もかけておこる隆起や侵食による地形の変化から発想されていることがわかる。(p328)

ジョン・マクフィーによると、「常に深遠な時間について考えている地質学者は、その時間の感覚を自らの内面に吸収している」。(p353)

■1858年、ダーウィンが自然選択の理論を発表しようとしていたとき、アルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じような内容の論文を受け取り、自分のほうが明らかに先んじていたにも関わらず、譲ろうとしたという話には、ダーウィンの人柄の良さがにじみ出ている。

学問上の偉大な進展が、同時期の別の場所で起こるのは科学の歴史で珍しくないが、ライバルに譲ろうとした科学者はそうそういない。しかも、結果的に同時発表に至ったというのは、彼の日頃からの評判のなせるところだろう。(p334)

■ネへミア・グルー「植物について熟考すれば、数学の問題に到達する」。4世紀にネイピアはトクサの成長を観察していて対数を発見し、7世紀にフィボナッチは黄金分割を発見し、近年はカオス、複雑系、そしてフラクタルが見いだされた。(p343)

■「自然を特徴づけるのは進化ではなく、むしろ環境への無限の適応や多様な形態などであり、そのいずれが「高等」あるいは「下等」と分類することはできない」。人間もまた進化の「最高到達点」である最高の生物というわけではないのだ。(p348-349)

以上で、ロタ島のソテツの観察記、そして「色のない島へ」の全体を読み終えたことになる。グアム島の部分については、近いうちに記事にまとめようと思う。

わたしの祖父の家の庭には、ソテツのような大木があった。見上げるほどの高さで、南国じみた奇妙な外見だった。今となってはそれがヤシの仲間のシュロやフェニックスだったのか、それともソテツだったのかは知るよしもない。

祖父は珍しい植物を植えていただけでなく、サボテンを収集し専用温室まで作っていた。思えば、わたしの植物への愛着は、そこから遺伝していたのだ。今となってはもう確かめようもないことだが。

しかし、サックスがそうだったように、その愛着を大切にして、植物を知り、調べることには遅きはあるまい。かつては難解で読むに耐えないと思っていた「色のない島へ」のソテツの部分も、今回はこれほど楽しく読めたのだから。

2020/12/13日

さっそく「色のない島へ」のリティコ-ボディグの話を記事にまとめました。一度目に読んだときは、読み飛ばした部分も多かったですが、今回はじっくり考えながら、よい読書ができました。読書メモをとりながら本を読む、という最近の方法がわたしに合っているのかもしれません。

リティコ-ボディグー苦しみと死を運命づけられた人々は尊厳を失わず生き抜いた
「リティコとボディグ」それは、グアム島のチャモロ人を襲った難病でした。オリヴァー・サックスは現地を訪れ、呪われた運命のもとで懸命に生き抜く人々の様子を記録しています。どうして彼らは

今日の気温はマイナス10℃まで冷え込みました。サイクリングに出かけたら、路面はとても走りやすく快適でした。バニラアイスクリームみたいな地面がとても美味しそうでお腹が空きました。

思いのほか寒い気がして、そういえば去年はヤッケの内側にフリースを着込んでいたかもしれないと思い当たりました。一年前の自分の服装をよく覚えていません。

2020/12/14月

窓霜ができる季節。トドマツの樹脂が香る

朝起きたら芸術的な窓霜。夜明け方にはマイナス10℃を大きく下回ったようです。週間天気を見ると、これからしばらく冷え込みが続きそう。ようやく道路も圧雪になるでしょう。

森の入り口。枝に積もった雪が風にあおられて、あちこちでパラパラと崩れていました。突然茂みが雪をかぶって音を立てるので驚きます。見通しのいい冬だから危険は感じませんが、夏だったら絶対に野生動物が潜んでそうな音です。

トドマツの幹から薄い琥珀色の樹脂が流れ出しているのを何度も見かけました。指ですくい取ると、固いジェル状で、すばらしい香りが漂います。ハーブティーか何かに使えないかと思って採取しましたが、特にそういうレシピは見当たりませんでした。

今日の冬芽。オヒョウニレ、ケヤマハンノキ等

オヒョウニレの冬芽。夏に葉を観察して確かにオヒョウニレだと確定済の木を見てみると、下のほうに枝を見つけたので、初めて冬芽の写真を撮ってみました。

同じニレ科のハルニレにそっくりで、維管束管3本の葉痕がくっきり目立ちます。ハルニレの冬芽に比べると、葉痕からやや離れて付くことが特徴と図鑑には書かれていましたが、冬芽だけで区別するのは難しそうです。

森の入り口付近にあった木のひこばえの冬芽。何の冬芽かわからない。色みからすると、消去法でシナノキでしょうか。維管束痕の数は3つでシナノキと一致していますが、葉痕の形が微妙に違うような…。個体差の範疇でしょうか。

背の高い木をひこばえの冬芽だけから判別しようとすると、幼木だからか典型的な形から少し外れているように見えて混乱することが多いです。

樹皮はこんな感じ。まあシナノキといえばシナノキかな。サクラではない。(追記 : 後から考えるとミズキかアズキナシだったのかもしれません)

ケヤマハンノキの冬芽。タコの頭みたいな形で茶色っぽい。ポケモンのソーナンスの頭っぽいともいう。他の冬芽とかなり形が違うので、まあまあ見分けやすく感じます。

葉痕のほうに焦点を合わせてもう一枚。図鑑によると葉痕は半円形なので合ってそうです。

意外だったのは、このケヤマハンノキは若木で、樹皮がこんな模様だったこと。ケヤマハンノキはシラカバやサクラのような横向きの皮目があるのが特徴だそうです。

大人になっても滑らかで、横線が入る樹皮なのは同じ。一方、無印ハンノキは、はっきり縦にひび割れるとのこと。葉っぱは逆に無印ハンノキはギザギザが少なく、ケヤマハンノキははっきりしたギザギザがある。同じ科のごく近い親戚のような木でも、特徴が大きく違うなんて不思議ですね。

地衣類。黒いつぶつぶしたのは、イボゴケの仲間。オーソドックスなのはクロイボゴケ。

次のものは、前回は撮らなかった別の種類だと思いますが、名前がわかりません。Google Lensの関連画像では、フルラニア(Frullania)、ヒメトサカゴケ(Scytinium massiliense)といったゼニゴケの仲間が引っかかりました。ということは乾燥したゼニコケなのでしょうか? 

フルラニアを載せていた「New Hampshire Garden Solutions」というサイトの自然観察がGoogle翻訳で読むだけでも非常に面白いです。ヒカゲノカズラの胞子の粉末がカメラのフラッシュとして使われていたとか、日本語のサイトをどれだけあさっても出てこない。こんな内容を書きたい。

「海辺」読書メモ(3)

■この本が「読みにくい」と感じるのはやはり、経験がないからだろう。2章が始まってすぐ、カーソンが「常緑樹林を通り抜ける小道」を歩くシーンは、容易に想像でき、美しさや鮮やかさ、霧がかった雰囲気までもが目に浮かぶからだ。(p69)

今のわたしは森はイメージできるが、海辺は異世界の風景のようでとっつきにくい。もし海辺を実際に歩いてよく知っている人なら、その見慣れた情景を詩人のように繊細かつ美しく、そして科学者として専門知識も交えて奥深く描写してくれるこの本はすばらしいと感じるのだろう。

■とりあえず、海辺の生物について初歩的なこともわからないので、巻末の付録「海辺の生物の分類」から読むべきだと気づいた。扁形動物とか、棘皮(きょくひ)動物といった単語が出てきた時に、せめて代表的な種でもイメージできないことにはテンポよく読むことができない。(p332-)

1.原生生物
いわゆる単細胞生物。プランクトンのたぐい。渦鞭毛藻類のその仲間のミドリムシやヤコウチュウみたいに、動物か植物か区別しにくいものもいる。赤潮の原因になる。(そういえば、シガテラ中毒の原因になる渦鞭毛藻とはこれのことだったのか)

ほかに放散虫類(美しい石英ガラスの殻をもつ)、有孔虫類(石灰質の殻をもち、この死骸が隆起してチョーク岩になる)、珪藻類(珪酸ガラスの弁当箱のような殻をもつ藻類)、藍藻類(最古の植物。富栄養化によるアオコの原因。また高潮線の上の「黒い帯」p55,78,274)

赤潮やアオコの原因がわかりすっきりしたし、放散虫、有孔虫、珪藻の繊細で美しい模様には感心させられる。これほど小さく、目に見えない生物に複雑なデザインが彫り込まれている。

2.葉状植物
高等な海藻。緑藻類にはクロレラ、ミカヅキモ、アオミドロなどどこかで聞いたものから、まるでキノコのようなカサノリ、そしてアオサ、アオノリなど大型の海藻まで含まれる。強い太陽光線に耐えられるので熱帯の海に多い。

褐藻類はコンブ、ワカメ、ヒジキ、ケルプ、ヒバマタなど。葉緑素以外の色素も含んでいて、強い太陽光線には耐えられないので深い海中や北方に住んでいる。ヨウ素を蓄積する。

紅藻類は最も光に敏感でツノマタやダルスなど一部を除き、低潮線より下の深い海に住んでいる。ノリやテングサが含まれる。(ヒバマタとツノマタはややこしいが、ヒバマタはそこそこ大きくなる褐藻で、ツノマタは小型の紅藻である)

普段食べている海藻も、海の中で生きている実物を見たこともなければ、分類も知らないものである。

3.海綿動物
多細胞生物だが、あまり機能分化していない。海水を濾過する水路システムのつくりをしている。他のどの生物よりも柔軟に環境に適応し、筒状になったり平らなパンのようになったり姿かたちを変える。それで形は種の同定に役立たないので石灰質やケイ素の骨格を調べる必要がある。昔のスポンジの材料。

天然スポンジを見ると、どうしてこんなものが「生きて」いるのか不思議になる。見るからにスポンジだが、かつては命を持っていた生物なのだ。しかし今さら水に漬けたところで命は蘇らない。いったい生命力とは何なのだろうか、どうしてこれほど不可逆的なのかと考えさせられてしまう。

4.腔腸動物(※現在は「刺胞動物」)
イソギンチャク、サンゴ、クラゲ、ヒドロ虫。基本的に中空の管状。壁が二重になっている。どれもが極小の刺胞と呼ばれるワイヤー付き銛(もり)のようなものを持っていて毒を注入したり餌を絡め取ったりする。この機能は腔腸動物にしかない。

ヒドロ虫類は、植物のような定着生活をするポリプの世代と、クラゲのように移動する世代の交代によって知られる。個虫のポリプが集まって群体になり合体生物を作る。ギンカクラゲやカツオノエボシのように浮きを持った群体で移動するものもある。

ハチクラゲ類や真正クラゲ類(※「鉢虫綱」とも)は、植物のような世代は目立たず、クラゲ世代が発達している。というよりクラゲそのもののこと。

サンゴ虫類(花虫類)は、クラゲ世代が完全に失われていて、植物のようなポリプの群体を作る生物。サンゴ、イソギンチャク、ヤギ(Gorgonacea)など。(「ヤギ」の由来は調べてみたが不明。「木」のような見た目からか?)

これまでも合体生物とかポリプとかヒドロ虫といった単語はしばしば聞いていたが、やっと頭の中で整理された感じ。ちゃんと調べてみてよかった。

5.有櫛(ゆうしつ)動物
クシクラゲ。上記の刺胞動物のクラゲとはかなり構造に違いがある。櫛版(しつばん)という8列の構造をもっていて回転しながらキラキラ光る。英国の作家バーベリオンはかつて太陽光線の中のクシクラゲが世界で最も美しいと述べた。クラゲらしい触手はあるが、ワイヤー付き銛の刺胞は持っていない。

6.扁形動物
ヒラムシ類。非常に平たく生きたフィルムのよう。循環系がなく、身体の表面から酸素や二酸化炭素を交換できる。サナダムシやプラナリアも扁形動物。

7.紐形動物
ヒモムシ類。あるときは丸くあるときは扁平になる。最大27mに達するものもいる。触られるとバラバラになるが、プラナリアなどと同じく再生する。長い口吻を体内に収納していて、獲物をとらえる。

8.環形動物
環状の体節構造をもつ生き物で種類が多い。環体類はミミズなど。多毛類はゴカイ、イソメなど釣り餌で有名。海洋性で活発に泳ぐ。ギリシャの女神の名をつけられたアンフィトリテという種や、虹色に輝く種もいて、「海の妖精」というラテン名で呼ばれる。(p120)

9.節足動物
他のすべての動物門をすべて合わせた生き物の種類の5倍の種類を含む。昆虫類、甲殻類(エビ、カニ、フジツボなど)、多足類(ムカデなど)、クモ類(クモ、カブトガニなど)、軟脚類(カギムシなど)。(※現在では少し分類が異なるもよう) 定期的に殻を脱ぎ捨てて脱皮する。

海洋性のものはほとんど甲殻類。貝殻のような殻をもち生物発光するウミホタル類、橈(かい)のような脚で全身する小さな橈脚(かいあし/ジョウキャク)類(ケンミジンコなど)、泳ぎにも歩きにも両方使える脚をもつ端脚類(ハマトビムシ、ヨコエビなど)、同じ長さの脚しか持っていない等脚類(フナムシ、ワラジムシ、ダンゴムシ、グソクムシなど)、蔓脚類(フジツボ)などを含む。

10.触手動物(触手冠動物)
口のまわりを触手が囲む触手冠という特殊な構造をもつ生き物。コケムシ。シャミセンガイ、ホウキムシなど。虫や貝ではない。(※現在では分類が変わり、コケムシの仲間だけで苔虫動物門という独立したカテゴリーになっているらしい)

コケムシとはなんぞやと調べてみたら、想像以上に摩訶不思議だった。多くのポリプが群体で生活して、苔玉や海藻、サンゴのような形になる。ヒドロ虫類のポリプに似ているが、完全な消化系統や神経系統などを有している。また、ヒドロ虫のように役割分担した合体生物ではなく、それぞれが同じ機能を持って共同生活している。

サンゴが生息できないような場所で海底にコケムシ礁を作り、他の生き物が生活する場を作っているらしい。

11.棘皮動物
もともとはウニを指す名前。その他にヒトデ、カシパン、クモヒトデ、ナマコ、そして太古の昔から存在するウミユリ、ウミシダなど。あらゆる動物門のうち、最も純粋な海産生物。体の多くの部分が5の倍数なのも特徴。

海水を取り込んで血液のような役割をさせる水管系というシステムをもつ。それを利用した細長い毛のような管足や腕の捻じ曲げ運動で移動できる。またウニやヒトデは、はさみとげ(叉棘)というピンセットのような小さなとげでゴミを取り除く。

ウニの歯はその形と発見のエピソードから「アリストテレスのちょうちん」として知られている。

12.軟体動物
二枚貝、巻き貝、イカ、ヒザラガイ、アメフラシ、ウミウシ、ヒザラガイ、ツノガイなど。体は柔らかく体節がなく、殻で保護されていることが多い。ミノウミウシのように幼生の時だけ殻があるもの、アメフラシのように体内に名残りを残すものもある。

巻き貝はほぼ全部右巻き。(開口部が見えるように持ったとき、開口部が右側にくるのが右巻き/Z巻き)。最近巻き方向を決めている遺伝子が発見された

ネイティブ・アメリカンはヒザラガイを「海の牛肉」と呼んで食べていた。日本でも食される。

13.脊索動物
脊索動物はヒトや魚のような背骨(脊髄)をもつ脊椎動物をすべて含む分類だが、その他にナメクジウオ(頭索類)、ホヤ(尾索類)を含む。ナメクジウオとホヤは、脊椎動物と無脊椎動物の中間のような特徴がある。

ナメクジウオは脊椎(背骨)ではないが脊索(柔らかい背骨みたいなもの)があり、ホヤは幼生のときだけ脊索がある。ホヤは成体になると軟体動物のようになり、サイフォンから水を出し入れし、ヒドロ虫やコケムシのように個虫が群体を作る群体ホヤもある。

海の世界を知らなければ、「虫」と「動物」はまったく別物だと思い込んでしまう。しかし、世界には虫に似ているが虫ではなく、なんとも表現しようにない生き物がたくさんいて、動物と虫の隙間を埋めているのだ。それはヒドロ虫だったり、コケムシだったり、扁形動物だったりで、簡単にはカテゴライズできないほどの多様性である。

以上で「海辺」の付録部分を読み終えました。p332-361のわずか30ページにも関わらず、知らないことだらけで、用語の定義を調べたり、画像検索したりしながらだったので骨が折れました。

無脊椎動物といえばタコとかイカとかナマコとか軟体動物だろう、という程度の認識しかなかったので、次から次にへんてこりんな生き物のことを調べることになって、楽しかったです。今までネットなどで「不思議生物」として断片的に見かけていたものが頭の中でかなり整理されたので、調べてよかったですね。

これで心置きなく、本文のほうを読めるというもの。しかし本文も手強いので、まだかなりの回数の読書メモが必要でしょう。勉強になります。

2020/12/15水

冬の森は覗き込むと輝く宝石箱のよう

日中もマイナス5℃以下まで冷え込み、雪道もとても歩きやすくなってきました。森の中は膝丈くらいまで積もり、スノーシューなしでは歩けません。木々も枝に雪をこんもりと載せて白く着飾っています。

風が吹くと、樹上の雪がさらさらと舞い散って、太陽の光の中でキラキラとダイヤモンドダストのように輝くのがとても神秘的です。

風に舞う雪が輝いて降り注ぐ様子の動画も撮れました。吹雪のように打ち寄せる細かい雪の結晶が顔に当たって冷たかったですが、辛抱してカメラを向け続けただけのことはあったと思います。冬の森の中ではこのような光景が頻繁に見れますが、写真や動画に収めることができるのはまれです。

日に日に冬の森らしさが増してきましたが、まだ頭だけ見せているトクサやササが、夏の名残りを伝えています。去年は雪不足によってついぞ埋まることのなかったササ。今年は果たして、森全体が覆われるほど見事に積もってくれるのでしょうか。

森の入り口付近に細長い滴型の種が散らばっていたので拾い上げてみました。

一見平たく感じますが、垂直方向から見ると、3つの羽からなっている立体構造で、空気の抵抗を受けてくるくる舞いながら落ちる形になっていることがわかります。

てっきり何かの木の種かと思いましたが、近くにあるイタドリの種でした。冬はさまざまな樹木の種が目立ちますが、イタドリのような草本の種も散らばっているものなんですね。

枯れ枝にくっついていた地衣類。

ハナゴケか?と思う見た目ですが、ハナゴケは地上から生えるらしいから違う? 木から垂れ下がるサルオガセの仲間のうち、ヨコワサルオガセなどの見た目も似ていますが、節のような輪はないので違うでしょう。

香料にもなるツノマタゴケ(オークモス)は、トナカイの角のような形で基部が太くなっているはずだから違う…? でも他に候補がない。香りまでは調べませんでした。地衣類の見分けのポイントがまだ全然わかっていません。

(追記 : 後日、少しだけちぎって揉んでみましたが、特にそれといって香りはなかったので、ツノマタゴケではなさそうです。もし香らせるのに特殊な手順が必要なのだとしたらわかりませんが、素の状態でまったく香りがしないものを香料に使うだろうか。ネットで調べても香水の宣伝やコピペ情報ばかりで参考になりません。

たぶんツノマタゴケより広範囲に北海道から本州にかけて分布しているとされるヤマヒコノリなのではないかと思います)

幹にくっついていたマンジュウのようなコケ。

過去に何度も見たことがありますが、名前がわかりませんでした。今回、Google Lensの関連画像で正体が判明し、タチヒダゴケ科のカラフトキンモウゴケのようです。オレンジ色の筒状の部分は、蓋が取れて胞子が出た後の朔です。

あまり倍率が変わらないようですが、ルーペで撮った写真。朔の帽(カリプトラ)に金色の毛があるからキンモウゴケというそうですが、この段階の写真ではわかりません。

謎のツル植物の冬芽。見たことのない形でした。マタタビでも、サルナシでも、ヤマブドウでもないという消去法で考えると、チョウセンゴミシの冬芽ではないか?となります。

冬芽部分のアップ。図鑑で確認したところ、こんなに密集してはいませんでしたが、ひとつひとつの冬芽の形や色(細長くてオレンジ色)は一致していました。たぶんチョウセンゴミシなのかな。

(追記 : 後日チョウセンゴミシの実がついているツルの冬芽を撮りましたが、もっと芽鱗が多いサクラのような冬芽でした。オレンジ色でふさふさした毛で覆われているのは、ヤマブドウの冬芽に近いですが、ヤマブドウの冬芽は通常こんなに細長くありません。葉痕も似ているような似てないような…)

奇妙な形の見慣れない冬芽があるな、と思ってよく見たら、どうやら、冬芽ではなかったもよう。何かの虫こぶでしょうか? ミズナラの冬芽を変形させて棲む虫と雰囲気が似ています。

冬芽のほうは、普通にイタヤカエデのようです。色合いはイタヤカエデの冬芽によくある赤っぽい色ですが、この特徴は近縁種のベニイタヤのものなのかもしれません。

一方で、下の冬芽も、冬の森ではときどき見かけます。姿かたちはイタヤカエデなのですが、色が黄色っぽいため、1年前に見つけたときもどうしてだろう、と悩んでいました。しかし、イタヤカエデは変種が多いと知ったので、たぶん近縁種なのだろうと考えました。

このあたりには、イタヤカエデの変種のうち、大きくわけてエゾイタヤとベニイタヤが分布しているそうです。ということは、黄色っぽいのがエゾイタヤ、赤っぽいのがベニイタヤなのかもしれません。北海道森林管理局のサイトに載っているエゾイタヤ(無印イタヤカエデ)の冬芽も黄色みがかっている感じでした。

エゾイタヤとベニイタヤは、葉の形や色で見分けられます。エゾイタヤは葉の基部の切れ込みが深い(ハの字型になっている)のに対し、ベニイタヤはほとんど一直線で、葉柄が赤みを帯びていることがあるようです。

森林管理局のサイトの樹木図鑑は樹木の見分けを勉強するのに時々役立つので、もっと積極的に利用したいけど、すぐ存在を忘れてしまうのが困る。

今日はいつもに増して鳥が多く、シマエナガのジュルジュルという鳴き声もしました。でも、高すぎる場所にいて逆光だったので姿は確認できませんでした。クマゲラがいるあたりも歩きましたが、木の軋む音が響くだけで、今回も遭遇できませんでした。

鳥を探して森の中で見上げていると、トドマツのような幹の木の樹冠に、謎の黒い塊が。二度目しましたが、ホオノキの実に見える。でも幹はトドマツ?…と思ったものの、そういえば葉が全部落ちているからトドマツなわけない。

やっぱりホオノキだったわけです。あんなに幹がそっくりに見えるとは思わず意外でした。このあたりに木は地衣類で装っているから、樹皮の表面が似てなめらかであれば、同じような地衣類をまとうせいで、色や質感が似て見えるのかもしれません。

冬の森を探検していると、副見出しにした「冬の森は覗き込むと輝く宝石箱のよう」という言葉が思い浮かんできました。どこを見ても美しいし、細かいところまで覗き込むと、なおのこと繊細な宝物が見つかる。でもほとんどの人は宝石箱を開けようとしないのです。

純白の背景に囲まれて、他の季節よりはるかに鮮やかに見える地衣類やコケ。山のサンゴ礁とも呼べる不思議な生態系。ひとつひとつ個性があって、顔のようにも見えるユニークな形の冬芽。葉っぱを落とした冬の森だからこそ姿をみせる鳥たち。スノーシューで歩く他の季節て゛は味わえない贅沢な感触。凍ったクリスタルのような滝とコハクのような樹液。

これらすべては、宝箱を開けて、中を覗き込んだ人にだけ、その輝きを解き放ってくれます。

2020/12/16水

「海辺」読書メモ(4)

■隆起や侵食により岩礁海岸が作られた歴史。「地球の年代記では、ニ、三千年という時間はないようなもの」だ。イワタケのような地衣類は「何百万年もかけて岩を粉々に崩して」土を作る。(p73,77)

■潮間帯の境目(高潮線)の上には藍藻の黒い帯があり、「世界中どこでも、海と陸が出会うときのこのしるしは同じ」だという。(p55,78,334)

■タマキビについて。歯舌というベルトコンベアのような葉のついた舌を持っていて、岩を粉々に砕いて微小な植物を食べてしまう。これほど小さな生き物で、子どもの巻き貝はルーペを使わなければならないほど小さいのに、ベルトコンベアの歯は3500も並んでいるという! タマキビは何十年で1cmという速度で岩を侵食し、地形を変える。(p81)

潮間帯に住むイワタマキビは、潮のリズムをしっかり記憶していて、研究室に持ち込んだ場合でも、自分が生まれた海岸の潮の干満にそって行動し続ける。(p83)

■フジツボは、円錐形の殻の中に住む甲殻類。熊手のような附属器官で餌をかき集める。幼生のときの姿「ノープリウス幼生」は他の甲殻類と区別できない。少し成長するとカイムシに似た「キプリス幼生」になり、海底に沈んで成体になる準備をする。海底を1時間も歩き回ることを繰り返し、理想の土地を探す。

そしてチョウの変態よりも「完全に徹底的に再構成され」12時間で殻ができ、一生の定住生活を始める。そこに定住しながら、脱皮を繰り返して大きくなることさえできる。そして、3年から5年生きるという。そして空き家になった殻は他の生き物(タマキビの子どもなど)に利用される。(p84-89)

■そのフジツボを食べる肉食巻き貝イボニシ。岩の上に卵のカプセルをびっしり産み付ける。(p89-91)

■平たい殻なのに巻き貝の仲間のヨメガカサ。波の水がその緩やかな輪郭の上をうまくすり抜ける。かのアリストテレスが、ヨメガカサが殻のぴったりはまる家をもち、餌を食べに出かけることを報告した。ヨメガカサは家の場所を覚えていて、何時間も外出した後で、正確にそこへ帰る。(p93-96)

貝類がどのような暮らしをしているか、などと考えてみたこともなかったが、それぞれのライフスタイルがあり、家があり、暮らしがあるのだと思うと不思議な気持ちになる。たとえが適切かはわからないが、ただのモブキャラだと思っていたRPGの街の住人に、それぞれのストーリーがあることを知ったときのような気持ちだ。

■海藻。褐藻のヒバマタは海岸では20cmほどだが、内湾では2mにもなる。紅藻のアマノリは「紫色の染料」という意味の属名をもち、「へその緒」という器官で岩やフジツボにくっつく。シーポテトと呼ばれる褐藻ネバリモは、他の海藻にくっついて成長し、じゃがいものような塊になる。

最も低い潮溜まりには褐藻のコンブやケルプが生えている。アナメという数え切れないほどの小さな穴が空いた褐藻や、「翼のようなケルプ」と呼ばれるチガイソ、10メートルにもなるコンブの一種などもある。

岩礁海岸の潮間帯の下にあるケルプ地帯にどんな生き物がいるのか調べるのは難しい。深い海は海底から水面まで50mものケルプ(オオウキモ/ジャイアントケルプ)が伸びる海底ジャングルの森林地帯になっている。(ダイビングゲームをやっていたおかげで想像できる)

紅藻類は、昔から人や家畜の食物として利用されてきた歴史があり、羊が自分から浅瀬の海に食べに行くほどだという。

「付着根の上をつかんでケルプを引き上げてみると、その根に握られた一つの小宇宙を見ることができるだろう」。ケルプは生きた大樹であって、そこに住む多くの生き物たちの生活を支えている。(p96-100,105-109)

■ケルプの付着根に住んでいる生き物。クモヒトデ。「ブリトル・スター」(砕けやすい星)の名のとおり、そっと触れただけで手を切り離す。

フサツキウロコムシ。画像検索してみると、黒いゴム片のような地味な生き物だが、ゴカイの仲間らしい。黒い背中は身を守る鱗の鎧だという。常に何らかの生き物とルームシェアして共生する。(p101-102)

■ウスイタボヤ。たくさんの個虫が集まった群体ホヤ。金色の星を散りばめた体をしている。まるで海に咲く花の茂みのようだ。ひとつの星型だけで3~12の個虫からなっているらしい。(p103-105)

ここまで読んで、やっと第二章の3分の1くらいだ。(そしてこの本全体の3分の1くらいでもある)。レイチェル・カーソンの知識の奥深さには驚かされるし、これまで森の生き物を解説する本は読んだことはあれど、海についてはなかったので、初めてのタイプの本という気がする。今までそういう本に触れたことがないだけかもしれないが、陸上に比べて海は観察しにくいだけに、これほど詳細に描写できる専門家も少ないのではないだろうか。

2020/12/17木

スノーシューを忘れて森を探検する

用事があって忙しい日でしたが、スキマ時間を見つけて森に出かけました。世間の人々が、コロナで運動不足だというこの時期に、わたしは足繁く森に通い続けています。社会人になって以降の人生でいえば、今年は一番運動している年だと思います。昼は森を歩いて、夜もサイクリングしていますから。

今日も雪がこんもり積もっているので、さあスノーシューで歩こう、と思ってトランクを見たら、なんと家に忘れてきていました。家まで5分だから取りに戻ってもいいのですが、車嫌いなわたしは、極力運転したくない。そんなに時間もないし、歩ける範囲でいいや、とスノーシューなしで突入。

意外にも、雪がそこそこ締まっていたので、スノーシューを履かなくても、膝くらいまで沈む程度。谷間や斜面を通らなければ、そんなに不自由なく歩くことができます。これなら大丈夫そうだ、と意気揚々と森に奥まで入っていきました。

気温はもうマイナス10℃近いので歩き始めは寒い。体が温まってくることを加味して、厚着しすぎないように心がけています。鳥の声に耳を傾けたり、じっくり地衣類を観察したりすることを目的にするなら、もっと厚着のほうがいいのかもしれません。

森の入り口付近に落ちていた2種類の種。こちらは前にも見たことのあるカラマツの種か。図鑑によると、トドマツ、カラマツ、エゾマツなどは皆、このような片翼のような形の種です。トドマツならもっと色が黒く、エゾマツは近くになかったので、カラマツだと考えました。

こちらは初めて見る種。図鑑を調べてもわかりませんでした。ケヤマハンノキ…ではないよな。いや、種ではないのかもしれない。調べてみると、同じカラマツの実の、種を覆っている種鱗という部分なのかもしれません、カラマツの実を分解してみたらわかりそうです。

その近くで見つけた、謎のツル植物の黒い実。葉は落ちてしまって見分けがつきませんが、分岐点の脇から巻きひげが伸びている点がアマチャヅルらしい気がします。実はすっかりしなびてしまっています。

スノーシューなしでもかなり歩きやすいことに気を良くして、いつも通っているクマゲラ地帯まで行ってしまおうか、と無謀にも考え始めます。今の自分の体力をモニタリングして、帰りの体力があるかどうか、慎重に頭の中で計算します。迷いに迷った結果、今回はやめておくことに、さすがわたしは慎重な性格です。

それでも、クマゲラ地帯に行く代わりに、帰り道は最近通っていなかった地帯を探検しながら帰ることにしました。今までに一度だけ、初めて秋に奥まで来た2年前に、道に迷いかけて通ったショートカットルートのような谷間の道。谷間…?

スノーシューでないのをすっかり忘れていました。はじめは調子よく歩いていたのが、谷間に差し掛かったときの雪の深いこと深いこと。膝上あたりまで沈み込みながら、倒木地帯を頑張って乗り越える。わたしは慎重な性格であると同時に、新奇追求型だから、こんな失敗も 仕出かすのです。

その道で見かけた地衣類で覆われたトドマツ。あまりにびっしり覆われすぎていて、もとの木肌がわからないほどです。でも多様な地衣類ではなく、ほとんど一種類で覆われているようですね。珍しい種類ではなく、よく見るタイプですが、何の地衣類だろうか。

地味な地衣類なので、外見だけで調べようとしたら候補が多すぎてわかりません。せめてもっと拡大すべきですが、手持ちの安物のルーペではうまく焦点が合いませんでした。本気で同定するなら呈色反応を見なければいけないのでしょう。そこまでする気力はありません。

そこで見かけた謎の種。冬の森で見かけるドライフラワーの中でも特に奇妙な形。形からするとヤブニンジンでしょうか。比較的早くに花を咲かせて実をつける植物なので、この時期まで実が残っているのは意外ですが…。

実はすでにさやが割れていて、中の種が飛び散った後なのがわかります。さやにはノギがついていて、手袋で触ると引っ付き虫のようにまとわりつきます。本来なら動物の体にくっついて旅をするはずなのに、今まで取り残されていたのでしょうか。

めったに通らないとはいえ、迷うこともない勝手知ったる森ですから深々と積もった雪に足を取られながらも、前進してさえいれば、帰ることは容易でした。頭の中の計算より体力消費が激しかったですが、クマゲラ地帯まで行くよりかは賢明だったでしょう。

帰り道も余力があったので、色々と観察。

これは何かのヤナギの冬芽。ヤナギだということはわかりますが、種類まではわかりません。よくあるバッコヤナギ、ネコヤナギ、オノエヤナギなどは色や形とは違うと思う。ヤナギは葉で見分けたほうがいいのかもしれない。

樹皮に顔を近づけて地衣類を観察していたら、目の前にセミの死骸があってびっくり! 思わず飛び退きました。セミが幹にくっついたまま死んでいるのはよくあることなので、いつかはやらかすだろうな、と思っていました。

幹に掴まって死んでいるセミ

セミにとっても命の最期は美しい森の幹で迎えたかったのだろうか、などと思いを馳せてしまいます。都会のアスファルトやコンクリートの上でのたうち回って死ぬセミをたくさん見かけてきたので、それに比べると、きっと穏やかで満ち足りたセミ生だったのだろうと。すべては人間の勝手な空想にすぎず、生き物は今をただ生きているだけなのですが。

2020/12/18金

凍った川のほとりで冬芽を調べる

家の近くの小川。ちょろちょろと流れていますが、表面は薄ら凍りついています。川岸はどのあたりだっただろう? 薄氷を踏んでは危ないので、あまり近づくことはできません。

川岸にはヤナギの木がたくさん生えています。種類もさまざまですが、ほとんどはネコヤナギとオノエヤナギではないかと思います。こちらが多分ネコヤナギの冬芽。他のヤナギよりふっくらして、先っちょが書道の太筆ののように跳ねています。

こうして見ると、すべてがふっくらした冬芽ではないんですね。枝の先のほうの小さな芽は葉芽で、ふっくらした芽だけが花芽のようです。

ねずみ色の花芽はもしかすると覆いが外れてしまったのかな? 冬の終わりごろに、他の植物に先駆けて、ねずみ色の花を咲かせます。

そしてこちらがオノエヤナギかなと思います。ネコヤナギに比べるとかなり小さいですがこれでも花芽なのでしょう。ネコヤナギが大筆なら、こちらは小筆のような花を咲かせます。

こちらのサイトによると、エゾノカワヤナギと非常に似ている冬芽ですが、オノエヤナギの花芽はやや枝に巻き付くようにねじれるとのこと。この写真でもそんな雰囲気があるようなないような…(笑)

川沿いの林で見つけたチョウセンゴミシの実と冬芽。ここにチョウセンゴミシがあるとは思いもよらず、初めて発見しました。どこにでもあるものですね。冬は周囲の草が枯れて見通しがよい上、真っ赤な実が目立ちます。

ピンぼけてしまっていますが、冬芽はサクラの芽を思わせるような、多数の芽鱗で包まれているんですね。葉痕は半円形で、維管束痕は3本でしょうか。

先日写真に撮って、チョウセンゴミシかもしれないと書いていたオレンジ色の毛で覆われた冬芽は別の植物だったようです。図鑑の写真だけだとわからないものです。

一番混乱したのはシラカバとヤマザクラ。成木なら樹皮でわかりますが、若木だと本当に紛らわしい。このいかにもサクラのような横目に入った茶色い樹皮で…、

冬芽はこんな形。サクラのようなタケノコっぽい芽鱗ではないこと、色が少し黄色がかっていること、形が少々いびつで先端が曲がっていることから、シラカバではないかと思う。

(別の場所で見かけた、明らかにシラカバだと断定できる大人の木から出ていた枝の冬芽と比較。やはり芽鱗がタケノコ状に整然と並んでいるのではないこととや、冬芽全体の形がいびつなことから区別できるか。この枝のつぶつぶは何なのだろう? シラカバとかシデとかの特徴? 調べてみたものの、まったくわからなかった)

頭上の枝ぶりを眺めてみても、冬芽が三本ひと組みで鳥の足のような形になっているもの(頂生側芽)がない。だから、ヤマザクラではなくシラカバな気がする。しかし、シラカバなら、雄花がついているはずなのに、それが見当たらないのは、まだ若い木だからだろうか…?

一方、別のもう少し成長した木の場合。これくらい大きくなれば、シラカバなら樹皮がもっと白くなるはずなので、ヤマザクラと思われる。写真だとグレーぽいけれど、肉眼だともう少し茶色っぽい。

冬芽の芽鱗はタケノコのようにくっきり配列されていて、冬芽の形もゆがみなく均整のとれた形で、先がまっすぐ。色も赤みがかっている。(葉痕でシラカバとヤマザクラの冬芽は見分けられたらいいのだが、どちらも半円形か三日月型、維管束痕3つということでさほど違いはなく、同じ種内での変異のほうが大きそう)

頭上の枝ぶりを見てみると冬芽が三本セットで鳥の足っぽい形なので、やはりヤマザクラだろうとわかる。

こうして、後から写真で整理してみると、まあまあわかるような気がするのですが、現地だと観察しても、よくわからないことが多いです。

シラカバとヤマザクラの二択で考えていますが、本当にそれで合っているのかもよくわかりません。シラカバと同じハンノキ科としてはサワシバとヒメヤシャブシも自生するようですが、同定できた試しがありません。

せめてもっと樹木は自信をもって識別できるようになりたいですが、去年と比較してあまり進歩がみられません。ある程度の見当はつけられるようになってきたので、もう一段観察の精度を高めるためには、真面目にスケッチでもしないとダメなのかなぁと思っています。

「北海道寒冷地(北・東部)のシダ植物:分布と多様性」を読む

「北海道寒冷地(北・東部)のシダ植物:分布と多様性」という本を借りてきました。

幌加内町母子里(名寄のすぐ近く)と、知床半島のウトロを中心に、道北・道東でシダ植物の分布の調査がなされた資料です。その2箇所だけでなく北海道全域のシダの分布がかなり詳しく載っています。掲載されている種の数はちょうど100です。

基本的に内容は、シダの名称と簡単な写真、そして日本全国・北海道の分布マップだけなので、先日の「北海道シダ植物誌」と重複しています。それぞれのシダの特徴が一言ずつ書かれてはいますが、見分けの参考にするのは難しいでしょう。あくまですでに見分けられる人向け。

1ページずつパラパラと眺めてみましたが、前の本のときも思ったとおり、道北のこの地域で見られるシダは、ほぼ全種、今年網羅していますね。

またヘビノネゴザはやっぱり分布していないようです。この前書いたように、ミヤマベニシダ、ホソイノデ、ヤマイヌワラビなどの見間違えだったいう結論が正しかったのですね。

わたしが住んでいる地域に分布している可能性があるものの、まだ見ていないシダは、ホソゲトウゲシバ、ミゾシダ、シノブカグマ、ミズドクサ、イワデンダ、オシャグジデンダです。しかし、発見できる可能性はかなり低そうなものばかり。

隣接する地域に、非常にまれに発見例があるシダを含めると、チャセンシダ、エゾヒメノクラノゴケ、ヒメスギラン、ヒメシダ、ニッコウシダ、オウレンシダ、イヌシダ、ウサギシダ、イワウサギシダ、カラクサシダ、コシノサトメシダ、コウヤワラビ、ミヤマノキシノブ、オクキヌイノデ、タニヘゴ、ハクモウイノデ、ツルデンダ、ホテイシダ、フクロシダ、コケシノブも含めることができますが、専門家でさえ未発見のものを山奥で探すことになってしまいます。

ただし、このうちオウレンシダ、コウヤワラビ、ツルデンダ、フクロシダは、1975年の調査ではうちの近所で記載されていたので、存在している可能性は高そうです。

気になったのは、ホソバシケシダについて。

以前ホソバシケシダと思われるシダを見つけましたが、この本ではこの付近に分布していないとされていました。他の図鑑も調べてみたら同様でした。この前のヘビノネゴザ同様、別のシダを勘違いしている可能性が浮上しました。

改めて写真を見てみます。

羽片も裂片も丸い独特なシダです。図鑑を調べた限り、このような丸みを帯びたシダは、ホソバシケシダ、イワイヌワラビくらいしかありませんでした。いずれもわたしの居住地域では記録がなく、イワイヌワラビに至っては今日読んだ本に収録さえされていません。

改めて両者の特徴を調べてみると、イワイヌワラビは最下の羽片が短いのに対し、ホソバシケシダは長いとありました。この写真では短いので、ホソバシケシダよりイワイヌワラビの可能性のほうが高くなりました。

また、図鑑の写真によれば、ホソバシケシダはすべての羽片に柄がないのに対し、イワイヌワラビは、下のほうの羽片にはごく短い柄があるようです。わたしの撮ったシダも、下のほうの羽片にごく短い柄があるので、やはりイワイヌワラビに似ています。

うちの近所で過去に記載例があるシダの中では、フクロシダに似ているかもしれませんが、裂片の形が違うようには見えます。フクロシダの説明では、たいてい岩壁に垂れ下がるとあるので、こんなに普通に地面から生えるものなのだろうか。

何かもっとありふれた別のシダと勘違いしているのではないかと思うのですが、今回の再検討でもわかりませんでした。

この地域にあるとされるほとんどのシダを見つけられたとはいえ、まだまだ一年目の駆け出しにすぎません。観察眼が甘いので来年も経験を積みたいです。

(追記1 : 翌々日12/20に観察したシダがかなり似ているので、超小型のホソイノデなのかもしれません。しかし、裂片に柄がなく、軸に鱗片がないということから、ホソイノデらしくないようにも見えます。

追記2 : 翌年6/2にまたこのシダを見つけましたが、裂片にノギがなかったのでホソイノデではありません。イワイヌワラビの可能性が高そうに思います)

2020/12/19土

わたしの「疲労」は、やはり耐性領域のコントロールと関係があるようだ

夜サイクリングに出かけたとき、気温はマイナス12.6でした。路面はきっちり除雪されている場所は、圧雪になっていてとても走りやすく、あまり除雪されていない歩道も走ろうと思えば走れるくらい雪が固まっていました。

しばらくサイクリングして帰ってきましたが、引っ越してきた1年目と、体力が変わっていないような気がします。筋肉がついたはずなのに、楽になったという感じがしません。

ということは、わたしが感じる「疲労感」「しんどさ」「不快感」のようなものは、廃用性筋萎縮によるものではなかったということです。それは耐性領域の問題と関係がありました。

(なんか前にもまったく同じことを感じて日記にメモした記憶があるが、「耐性領域」や「廃用性筋萎縮」で検索しても出てこなかった。オリヴァー・サックスも、何かを発見してメモしたら、前にも同じ発見をして忘れていた、ということが多いと書いていた。人は繰り返し同じ真理を発見しては、徐々に理解を深めていき、実体化にこぎつけるものなのだ)

自分をモニタリングしてみると、たとえば、自転車を漕ぎ出してすぐ、急な運動負荷に交感神経が興奮すると、すぐに耐性領域の外に飛び出してしまい、そのときに「しんどい」という感覚を覚えてしまいます。

しかし、そこでできるだけ平静を保てるように意識して、(わたしの場合は、呼吸を落ち着けて、汗をかかないようにコントロールすることが多い)、しばらくすると、神経系の興奮が耐性領域の範囲内に戻ってきて、楽になります。その後は、長時間運動していても、耐性領域内にいるうちは、そんなに疲れたとかしんどいとか感じません。

これは森を歩いたり、山登りしたりするときもまったく同様で、最初の5分くらいのあいだに自律神経系の変動が起こって、「しんどさ」がピークに達します。しかし、心拍のリズムを安定させるように努めて、そのうちに神経系の興奮が静まってくると、普通に何時間も持続して探索できるようになり、かえって心地よいくらいです。

結局、わたしの問題は、「体力がない」ではないわけです。「耐性領域の範囲内に自分の神経系をコントロールするのが苦手」というのが、わたしの慢性疲労や倦怠感の正体だと考えて間違いないでしょう。以前よりも、コントロールはうまくなりましたが、一度体に染み付いた癖はなかなか抜けません。

「疲労」とか「倦怠感」とか「しんどさ」というのは、そもそもみんな同じ定義なのかすらも怪しいわけです。自分の身体機能が制限を超過したとき、何かおかしい、効率が落ちていたり、不快感があったりする、といった状態のことを、ほかに表現する語彙がないから「しんどい」と表現するだけなのです。もし生理的にふさわしい語彙(この場合は耐性領域)があれば、それを使うべきです。

しかし、多くの人は、それ以上深く考えようとせず、定義のあいまいな言葉を使って、自分の不調を表現するだけです。自分を客観的にモニタリングしたり、生理学の知識を取り入れたりして、自分の感覚をさらに微分して細分化してみない限り、症状の実態はあいまいな言葉に覆い隠されてしまい、解決策にたどりつかないのです。

以前にも耐性領域の話はまとめましたが、こうした個人的な経験や実感を交えて、いつかもう一度記事にしたいものですね。

「海辺」読書メモ(5)

■「幻想的な海のジャングル」に住む生き物たち。木々はヒバマタやコンブのような褐藻類で、その間を鳥ではなく小さな魚が飛び回る。虫たちの代わりに巻き貝やカニが葉の間を歩き回る。着生ランのような紅藻イトグサの房もある。森の花はヒドロ虫だ。さまざまな色のヒトデの花畑もある。陸と海両方の森を知っているからこその描写は臨場感がある。(p110,119,126,142)

しかし干潮がくると、海のジャングルの木々は倒れてしまう。「こんなジャングルがあるだろうか?」。中には波打ち際のかなり上のほうで生活するエゾイシゲのような褐藻もあり、乾燥しては蘇ることを繰り返す。倒れた海藻の下で生き物たちは潮が戻るまで保護される。(p110,115)

海藻は、根、茎、葉に分かれていない。陸上の植物と違って、根から養分をとる必要はなく、硬く支える茎もいらない。ただ岩や他の海藻に付着して、海水に身を委ねればいい。(前に調べたとおり、根、茎、葉をもつ種子植物で、海中に生えるものは海草である)。(p118,201)

代わりに水に浮くための気泡をもっていて、その中に卵を生んで保護を求める貝もいる。(p125)

岩には極小の藻類も何千と集まって付着していて、鮮やかな色彩の深紅やエメラルドの宝石のように見えるという。(p119)

■ウズマキゴカイ。ゴカイの仲間なのにカタツムリのような貝殻を持っている。画像検索してみると、とてもゴカイとは思えない姿だ。(フサゴカイも同様だ) ウズマキゴカイはその殻の奥で卵を孵し、ある程度育ってから送り出す。その全ては月の満ち欠けとタイミングを合わせて行われる。子どもは大きな目で定住場所を探し、定着すると目は退化するという。(p29,121-123)

■ヒドロ虫の暮らし。ヒドロ虫は無性生殖によって増えるが、植物体からクラゲ体の芽が出る。クラゲ体にはオスとメスがあり、親から落ちて泳ぎ回り、受精卵をつくる。それが幼生になり、どこか未知の場所まで泳いでいき、新しい植物体になる。(p127)

動物と植物の概念の境目がひどくあやふやに感じられる。いろいろな生物について知るにつれ、自分が普段感じている自然界の区分は、思っているほど明確ではないことがわかる。ヒドロ虫などの刺胞動物は脳を持たないが、その散在神経系は、中枢神経系と同じような機能を備えているとされている。

それは動物なのか、植物なのか。動物だから意識があり、植物はないのか、そんな表面的議論は意味がないように思う。

■クラゲはまるで種によって越冬する一年生植物のようだ。夏の終わりまでに幼生という種を海底にまき、成体は嵐によってつぶされてしまう。そのトゲはイラクサにも似ている。(p129-130)

海の生物について読んでいると本当にSFの世界のようだ。動く植物。浮遊する植物、合体生物。SF作家はこうした知識を持っていて、海の生物について知らない一般読者を手玉に取っているのだと思う。ファンタジーは現実世界の知識によって作られる。

■海の木々つまり海藻の根元にもコケが生えるが、コケはコケでもコケムシだ。生きた群体生物で、顕微鏡でなければ見えないモザイク状の個室に、3000から4000もの生物が住んでいる集合住宅だ。

花のような触手冠を広げるが、上をはう小さな甲殻類、ゴカイ、幼生などを引きずり込んで食べてしまう。コケムシの仲間にはサンゴや海藻にしか見えない種類もいる。ここでも動物と植物の境目がひどくあいまいだと思い知らされる。(p135,138-140)

■海藻の枝には、トビムシなどの端脚類が鳥のような巣を作っている。巣の中で子どもを育て、まるで鳥が巣立ち雛をせっつくようにして、子どもが独り立ちするように促す。(p136)

■カーソンが観察に使ったヒトデを夜中に海に戻しに行った話。この本は読みにくく感じるが、このような一人称視点で体験が語られている部分(ナラティブや叙述)は、とても読みやすく、面白く、入り込みやすい。動物の視点にたった描写、学者として詳しく知識を説明されている部分が、感情移入しにくく難解に思えてしまうのだろう。(p144)

夜の砂浜では「岩の形のグロテスクさは強調され、あるときは親しみやすかった場所を妖魔の世界に変えてしまった」。わたしはこれをよく経験する。夜、真っ白な雪の地面の照り返しくらいしか明るさがない真っ暗な道を、自転車のライトを頼りにサイクリングしていると、存在しないものをよく見つける。

先日は、ひと気のない夜道を向こうから重装備の人間か歩いてきているように見えて驚いたが、道路標識だった。わたしの自転車が揺れているので、相手も歩いているかに見えたのだった。もっと奇怪なものが見えることもあるが、陰を誤認しているにすぎない。

■イガイは非常に柔軟で強靭な金色の足糸を作り出し、岩にくっついている。大量のイガイが住む場所は、他の生き物たちの子どもにとっても波から身を隠せる街のような役割を果たしている。(p145-147)

■大潮の引き潮のときには、海の生き物たちの姿はすっかり変わってしまう。ナマコは小さなフットボールのような形まで萎縮し、イソギンチャクは触手をひっこめてまきこんでしまう。潮が満ちてくると、元通りの美しい姿を現す。(p146-149)

■年に一度の最大の引き潮の時くらいしか現れないような場所に、サンゴやヒドロ虫が住んでいる。造礁サンゴではなくソフトコーラルのウミトサカ、ウミイチゴなどもいる。そしてツノマタの群生地が終わる境目(最も低い大潮の干潮線)から向こうは、突然ごつごつした石だらけの海底に変わる。それはサンゴモと呼ばれる紅藻類だという。

サンゴモは特殊な紅藻(石灰藻)で、藻類であるにも関わらず、石灰質を同化して硬くなることができる。各地のサンゴ礁でもサンゴモは重要な役割を果たしていて、インド洋のように、ほとんどサンゴモからなっている「サンゴ礁」まであるという。熱帯から極海まで全地域に分布する。

サンゴモ地帯では、大型海藻は生育しないが、代わりにウニが大量に住んでいる。これほどの水深になると、ウニを食べるカモメに狙われることもないので、隠れる必要がない。(p152-154)

■潮溜まりの生き物。そもそも潮溜まりとは何か見たことがない気がするので画像検索。イメージ通りのもので安心した。干潮時に水が残る凹みのこと。

でもカーソンが言うような「神秘的な世界」「海のあらゆる美しさが微妙に示唆され、縮図を描いている」「夜には星をたたえ、潮溜りの上空を流れる天の川の光を映す」「巧みな芸術家の絵筆」という視点では考えたことがなかった。現実にそれを見ている人と、ただ聞き知っている人の違いである。(p156-158)

■潮溜まりにも、陸の地衣類にそっくりな藻類が現れる。褐藻のイソガワラの仲間で、画像検索してみたら、キンイロハンモンというのが出てきた。地衣類のチャシブゴケやイボゴケにそっくりで、そういえばどちらも藻類だと思い起こされる。(p161)

ウミシバ(Sertulariidae)類という陸地の雑草にそっくりな生物もいるが、これは植物ではなくてヒドロ虫の群体だという。海の中にいる植物っぽい形ものは刺胞動物のポリプのことが多い。(とはいえ、ダーウィンは「ビーグル号航海記」で陸地の樹木もある意味で合体生物だと言っていたので、自分の固定観念のほうを変える必要があるかもしれない)。(p163)

■「かれらがすんでいる水はとても澄んでいて、何もないように見える。私はただ指先に伝わる冷たさだけで、水と空気の境を知った」。潮溜まりのエピソードに入ってから、突如、詩人レイチェル・カーソンの本領が発揮されている。やはりカーソンとて、自分が歩きまわって体験したところの描写と、学者として専門的知識を持っているだけのところの描写とでは、奥行きが変わってくるということだろうか。(p162)

■海岸の洞窟の中にある最も美しい潮溜まりについて。序章p17や第二章p148に書かれていたのと同じ場所だろうか。

カーソンはもちろん、個々の生き物について呆れるほど詳しく、洞窟の中の微細な生き物の名前を挙げていくのだが、特定の類の細かな種まで知っているわけではない。イソギンチャク、コケムシ類、カイメン類といった具合だ。だから、カーソンと同じ観察をしようと思えば、知識としては先日まとめた付録部分のおおまかな種別を判別できるようになれば十分かもしれない。

だがカーソンの潮溜まりのエピソードで輝いているのは知識ではなく、多面的な角度からその場の生態系を感じ取る感性なのだ。ヒトデやカイメンやイソギンチャクの繊細な色合いを描写し、それぞれの生き様に思いを馳せ、潮溜まりの水のゆらめきを見て、外海の雄大なリズムを感じ取り、さらには姿を変えぬカイメンから悠久の時を想像する。

自然界の観察にとって、ある程度の知識は大事だが、その先は知識よりも感性であり、いかに自分をその場に置いて生態系の営みを感じ取れるかが、豊かな体験につながる、ということを教えてくれる。(p164-172)

ここまででやっと、第二章「岩礁海岸」終わり。残りは第三章「砂浜」と第四章「サンゴ礁海岸」で、やっと半分まできた感がある。非常に読み応えのある本で知的興奮を誘うが、情報密度が非常に高く、読み進めるのは楽ではない。

2020/12/20日

氷爆を見に行った

気温はマイナス10℃。今年もそろそろ凍っているかもしれないと思い、近所の氷爆をスノーシューで見に行きました。思えば、初めて見に行ったのも、去年の年末だったなぁ。あれから一年が経ってしまったのだけど、今年は激動すぎて実感がわきません。

道中は、広葉樹林。ふだんは針葉樹林を歩くことのほうが多いので新鮮です。冬芽など観察しながら歩きましたが、シラカバ、ケヤマハンノキ、オオバボタイジュ、ミズキ、イタヤカエデが主要な樹種でした。ほかにヤマザクラ、オオカメノキ、ノリウツギなどがちらほら。

滝に辿りつくまでは、雪の森の斜面を登ったり降りたりを繰り返し、20分か30分ほど歩き続ける必要があります。

写真だと歩きやすそうに見えますし、肉眼でもそう見えます。しかし実際に歩いてみると、雪がとても柔らかいので、スノーシューでも膝丈くらいの深さまで沈み込みます。

去年より体力が落ちているはずはないと思うのですが、すぐに息が上がって立ちくらみが起こりそうになって、しばし立ち止まって休みます。記録的な雪不足だった去年と比べたら、まだ雪が積もっているほうだということなのかもしれません。

斜面を登るのは至難の業です。スノーシューのつま先に付いている爪に重心をかけて、雪に引っかけて登りますが、雪が崩れてずるずる落ちることもしばしばです。逆に下りは、かかとに重心をかけて、天然の雪の階段を作りながら降ります。下りのほうがはるかに安定します。

油断すると、雪の下に突然深い穴があって、ずぼっと片足が付け根まで入ってしまうこともありました。埋もれた倒木にスノーシューが引っかかって抜けなくなって焦りました。一歩一歩確かめながら慎重に歩かないといけません。

滝に続く小川は、表面が部分的に凍っています。薄い氷が冬の淡い陽光を反射してキラキラと輝いています。薄い氷の下をチョロチョロと流れるせせらぎの音が、とても心地よく耳に響きます。それ以外に聞こえる音といえば、小鳥のさえずりくらいです。

氷と雪が溶けて、せせらぎが見えているところでは、水は驚くほど澄み切っています。川底の色とりどりの石が、そのまま透けて見えています。触れてみたい気もしますが、マイナス10℃なのでやめておきます。この透き通る色と音色を楽しむだけにしましょう。

わたしは、子どものころから、謎の耳鳴りのようなキーンと響く音が常に聞こえていました。意識すると気が狂いそうになるので、意識の外に締め出して気にしないようにしてきました。

しかし、後に知り合った慢性疲労症候群の主治医がわたしと同じ悩みをずっと抱えている人でした。聴覚検査で原因を検査した結果、普通の人なら聞き取れない高周波(電波などに分類される)が聞こえてしまっているのだと判明した、と話してくれました。

ではわたしもそうなのでしょうか。家の中では常に高周波音がキーンと鳴り響いています。公園に行っても変わりません。山に行っても変わりません。じゃあ耳鳴りなのでは? そう思いました。

ところが、道北に引っ越してきて、携帯電話が圏外になるような人里離れた森の中に行くようになると、「聞こえない」ことに気づきました。今日歩いた森もそうです。わたしのような高周波音に敏感すぎる人が、静寂を感じることができる場所は、これほど山奥にしか残っていなかったのです。

静寂に包まれた森の中を、キツネやシカとおぼしき足跡を追うようにして歩き続けた果てに、お目当ての氷爆が見えてきました。

白い雪をかぶった滝は見事に凍りついていて、太陽光の青色成分が散乱してクリスタルのような水色にきらめいていました。その美しさはいつだって期待を裏切りません。真冬に雪の森の丘を幾つも越えて歩いてくる価値があるというもの。

つららが垂れ下がっているのは滝の表面だけで、氷の柱の裏側を勢いよく水が流れ落ちているのが透けて見えています。見事な静と動が混在する芸術作品。もっと近づきたい気持ちはありましたが、極寒の川にはまって濡れるのは困るので、遠くから眺めるだけでした。

こういう滝のそばの岩肌には、まだ見ぬシダ、たとえばイワデンダなどが生えているのだろうか、と想像が膨らみます。近くに露出しているシダがあったので調べてみましたが、後で書くように、ただのホソイノデとミヤマシケシダのようでした。

夏に来れたらもっと面白いものがたくさん見れそうだけど、どう考えてもヒグマのテリトリーだろうし、笹やぶで歩きにくいだろうし、探索できる気がしません。ここまで来るのを許されるのは、白銀の世界に様変わりした今だけです。

氷爆を越えて、さらに奥地へと川は続いています。地図で確認すると、何キロも奥まで延々と続いていることが確認できます。護岸工事もされておらず、橋もかけられていない川。もし奥までたどりつきたかったら、探検家のように遡上するしかない原始の川です。

さらなる奥地へと続く入り口には、サルノコシカケがたくさんついた枯れ株が、門番のように立っていました。その先には倒れた木々が多数アーチのように川にかぶさり、未知の領域へといざなっています。探検してみたい気持ちはありますが、自分にそこまでの体力はないことをわきまえています。

はるか昔、アイヌ民族はきっとここを旅しただろうし、開拓民の時代の人たちも、深くまで探検し、木を伐り出したたことでしょう。今はどの程度人の手が入っているのでしょうか。野生動物に残された、数少ない楽園になっていたら良いのですが。

地衣類と苔類?

謎の極小オレンジ色の塊。Google Lensで調べた限り、コブリマメザヤタケなどのキノコのアナモルフ(無性世代)か、粘菌の一種かな?

雪の下に見えたコケ。

雪が禿げた岩の下から生えていた、おそらくホソイノデと思われるシダ。長さはほんの10cmほどなので、ホソイノデとは思えないほど小型です。あまりに小さいので羽片だけちぎってしまったかと慌てましたが、羽片だったらこんなに長い葉柄がついているはずがありません。

葉もおおよそ見たことがないような形をしています。しかし、裂片の白いノギや、軸の鱗片はホソイノデっぽい……?

普通ホソイノデは50cmほどになりますが、超小型で、裂片にしっかり切れ込みが入らなかった場合、こんな形になるのではないだろうか、というようなシダでした。

一昨日載せた謎のシダの写真とも似通っていて、同じシダかもしれません。現状では、超小型ホソイノデ、と考えるしかありませんが、あまりにサイズが違いすぎるので、別の候補を見逃しているかもしれません。

道中の冬芽。アズキナシ?、オオカメノキ、ハシドイ

道中で見かけた冬芽など。まず、森の入り口付近に多かったこの赤い冬芽の木。おそらく12/9と同じ種類の木でしょうが、今回も困惑させられました。前回と同じだとしたらアズキナシなのか…?

前回も今回も、短枝がかなり長く成長していることが、この木の特徴かもしれません。別の日に撮ったアズキナシの枝はこれとよく似ていますが、写真の撮り方によって印象は変わるからなんともいえません

樹皮の様子。地衣類に覆われているため、あまり参考になりませんが、かなり滑らかで縦に浅く裂ける程度の樹皮だということがわかります。これまたアズキナシの特徴に近いようです。

いつものオオカメノキの冬芽。初めてオオカメノキの冬芽を発見したのがここでした。滝の近くがオオカメノキの群生地になっていて、冬でも橙色の裸芽なので、とてもよく目立ちます。

ここのオオカメノキの冬芽は、葉芽ばかりで、中心に球体がある花芽が少ないイメージで、今日見つけたひとつ目の株も、ほとんど花芽がありませんでした。ところが、すぐ横にある株を見ると、花芽しかないんじゃないかと思うほど花芽だらけで、個性があるものだなと感じました。

花芽の付け根にある葉痕。冬芽の葉痕はまじまじと見ると、たくさんの顔が集まっているかに見えてくるシミュラクラ現象に襲われます。

ハシドイと思われる冬芽。これもオオカメノキの冬芽みたいな橙色でした。自生している樹木のうち、対生の冬芽はそんなに種類が多くないので判別しやすいです。公園で見つけた対生の冬芽は候補が多くて悩みますが。

切り株の断面のようなくっきりとした半円形の葉痕が目立ちます。同じ対生の芽だと、マユミやツリバナもこんな葉痕を持っています。一方、今日もたくさん見たイタヤカエデは、対生でも、こんなにはっきりした葉痕は持っていないので容易に区別できます。

枝の途中にある側芽。上の2枚の写真だと、2つの芽の間に針のような突起がありますが、そこから枝がさらに伸びて、下の写真のように太く貫いていくということなんですね。

森の出口付近に立っていた謎の木の冬芽。互生で赤っぽいありふれた形の冬芽、という印象で、はじめは何の木かまったくわかりませんでした。

盛り上がった半円形の葉痕が特徴的な気もしますが…

改めて木の全体の形を見てみる。シラカバやドロノキのように、すくっと真っ直ぐに一本立ちする樹形だとわかります。

そして樹皮。真っ黒ですが、どこかで見たことがあるような、白いひし形の模様が散りばめられている…。

現地では結局わからなかったのですが、帰宅後に冬芽の写真を見てみたら、色や葉痕が何か見覚えのある雰囲気。樹形や樹皮の模様も見返してみて、ああヤマナラシか、と気づきました。

実物は冬芽が小さかったり、客観視点で見れなかったりするので、後で写真を整理しているときになってようやく分かる、というのが時々あります。三次元の実物にはもちろん代えがたい魅力があるけれど、二次元で切り取った写真にもそれなりのメリットがあると感じます。

ヤマナラシはドロノキの親戚で、まっすぐに立った樹形と、白い樹皮が特徴ですが、年齢によって、色が変化します。図鑑によると、若木は白く、成木は白黒のまだらで、老木は黒い、とのこと。今日の木は老木というほど大きくはなかったのですが、なぜか黒でした。

どのみち、ヤマナラシは、白と黒のツートンカラーで、白地に黒のひし形か、黒地に白のひし形が入っている樹皮だと覚えておくとよさそうです。冬芽は赤く、親類のドロノキが尖っているのに対し、ヤマナラシは丸みを帯びた卵型になるのが特徴。

(追記 : 別の機会に改めて実地で観察しましたが、この木も上述と同じアズキナシではないか、と感じました。アズキナシも若木のころは、ひし形の皮目が出ます。ヤマナラシの若木と違って黒っぽい樹皮だったことも説明がつきます。また、枝に白い点々があることもアズキナシの特徴です)

最後に道中での痛恨のミスについて。初めてコシアブラの冬芽を見つけたのに、写真に撮らないままスルーしてしまいました。

滝からの帰り道、さまざまな冬芽を見ながら歩いていた時、わたしの胸ほどの高さの若木を見かけました。冬芽は珍しい形をしていました。シワシワのチューブの先から爪が出ているような形で、まるで深海のチューブワームのような。

しかし、そういった冬芽は見覚えがあり、これはよく見るハリギリだ、と即断してしてしまいました。若木なのに、なぜか枝にまったくトゲが見当たらないのが不可解でしたが、帰りで疲れていたこともあって、深く考えずにスルーしてしまいました。

帰ってから、別の冬芽を調べるために図鑑をパラパラとめくっていたら、まったく同じ外見の冬芽を発見。名前を確認したら「コシアブラ」。一瞬で全部つながりました。なぜハリギリっぽいのにトゲがなかったのか。初めて見るコシアブラの冬芽だったのか!

再びあの若木を発見できるでしょうか。冬の森はどこもかしこも同じように見えるので、全然自信がない。道なき道を歩いているから、まったく同じルートを歩けるとは思えないし。

それでも、近所の森にコシアブラがある、と分かったことが収穫でした。山菜の時期に採れるとは思えない場所だけど、探せば群生地も見つかるかもしれません。

(追記 : 後で知りましたが「チューブワームのような」と感じた形状は、コシアブラとハリギリ両方の短枝の冬芽で見られるようです。実地で観察したことがないので、両者を見分けるポイントはよくわかりません。

ハリギリは鋭いトゲがあり、コシアブラはトゲがありませんが、ハリギリもある程度成長するとトゲがなくなります。わたしがこの日見たのは、成長してトゲがなくなったハリギリの短枝だった可能性が出てきました。

この地方にも一応コシアブラがあるらしきことは夏に一度観察できたことからわかっていますが、数が少ないか分布が限られているようなので、単にハリギリだった可能性のほうが高いかもしれません。せめて写真でも撮っていればと悔やまれます。

さらに追記 : 2月末に、この森でハリギリの冬芽を見つけました。場所的に以前見たものと同一の木ではないですが、少し成長してトゲが目立たなくなった木でした。コシアブラと思ったのはやはりただのハリギリだったらしいという結論になりました)

2020/12/21月

森を滑空する黒い影。ハイタカだろうか?

今日は一年で最も日が短い冬至。北緯45度あたりの道北では、なんと3時台(15:54)に日が沈んでしまいます。

2時頃のようやく時間ができたので森に出かけましたが、木々が開けて雪原が見える地帯に差し掛かったときには、すでに日が雪の丘かすれすれの高度まで落ちていました。

森の中は今日も動物の足跡だらけ、わたしが歩くルート上には、入り口から森の奥までずっとエゾシカのひづめの跡が続いていました。雪が深くて歩きにくいのも困るので、エゾシカの足跡をたどるようにして森の奥へ。時々人間が歩かなさそうな森の斜面も通りますが、スノーシューなら通れます。

たくさんの動物の足跡が交差する森の交差点。体重が軽い動物は足跡だけを残し、重い動物はヘビのごとくおなかをこすった跡が残っています。

時々雪の塊が落ちてくるので、ふと頭上を見上げるとそびえ立つ立派なカラマツの樹冠。葉がある季節にはあまり意識しませんが、冬に見上げると、なんて高いのだろう、なんて美しい幾何学的デザインなのだろう、と感動します。

上の写真の中心に映っている、カラマツの枝にくっついた黒い塊。寄生しているヤドリギかとも思いましたが、ズームで撮ってみると、何か違うようでした。今は使われていない鳥の巣でしょうか。夏だけ北海道に渡ってくる鳥が作ったのかもしれません。

ようやくいつも通っている森の奥にたどりついた時には、もう森の中は薄暗くなっていました。せっかくだから、クマゲラでもいないだろうか、と耳を澄ましてみましたが、カラ類とコゲラの鳴き声くらいしか聞こえません。もうちょっと進むべきか、それとも引き換えべきか。

そのとき、ハトくらいのサイズの鳥が、カラマツの隙間を滑空して枝にとまるのが見えました。背中の色がオリーブグリーンっぽく見えたので、きっとヤマゲラだと思いました。クマゲラじゃないのが残念だけど、今シーズン初のヤマゲラ。今日はこの鳥を映して帰ろう、と思いました。

いつもならスマホに望遠レンズをとりつけて、鳥を探してピントを合わせて、ともたついているうちに鳥は飛び去ってしまうのですが、今日はたまたま、さっき鳥の巣のようなものを撮っていたので、スマホにレンズが装着されていました。

もたつきましたが、10秒以内には、カメラを向けることができたと思います。幸いにも、その鳥は辛抱強い鳥で、わたしがもたもたしている間、同じ枝に静止してくれていました。カメラを向けてピントを合わせて、やっと視認したその姿は…、

あれ? ヤマゲラではない。背中がオリーブグリーンに見えたのは錯覚でした。黒ではなくグレーっぽい明度なのがわかっただけで、色相は勝手に脳内補正してしまったようです。確かに黒ではありませんが、緑というよりはロマンスグレーのような色調。

そして、首もとにオレンジ色のマフラーがちらりと見え、おなかは白です。どことなくコウテイペンギンを思わせる配色。解像度が悪くて判別しにくいですが、白っぽいくちばしも映っているのかもしれません。もしかするとツミだろうか…?と、とっさに思いました。

もう少し違う角度から撮ろうかと動いたとたん、この謎の鳥は枝から飛び立ち、今わたしがやってきたほうの林に滑空していきました。別の枝にとまったのが見えたので、引き返して後を追いましたが、次から次へ違う枝に飛び移り、森のどこかへ消えてしまいました。

見失ってしまったのは残念でしたが、そろそろ日が暮れかけていることだし、そのまま帰途につくことにしました。

帰宅後調べてみたら、わたしが想定していたツミは、北海道ではかなり珍しい鳥で、しかも夏鳥のようです。しかし、姿かたちが類似しているハイタカのほうは、普通に冬も生息していて、オスは首元にオレンジ色の模様が目立つとのことでした。

ハイタカは、この付近にも生息しているという情報を見たことがあるので、たぶん今日写真に撮れた後ろ姿はハイタカだったのでしょう。(色合いもネット上の資料とそっくりです)。思いがけぬ遭遇、はじめて写真に撮って認識できた喜びはいつも得難いものです。

しかし、今日はたまたま運が良かったとはいえ、写真を撮るのにあれほどもたもたしていたら、撮れるものも撮れないまま終わりそう。これまで何度も悩んできたことですが、やはりいいカメラを買うべきか。だとしたら、どんな機種がいいのだろう。一度調べてみようと思いました。

(追記 : 調べてみたところ、野鳥観察のカメラの異様な高価さにびっくり。ちょっとかじったくらいの趣味で一眼レフカメラ30万とか望遠レンズ5万とかは無理。しかもどれも初心者には使いにくそう。

使いやすそう、と思ったのはカメラにもなる単眼鏡のPowerShot Zoomでしたが、評判は散々。Zoomという名前なのに倍率が最大で、光学4デジタル2しかなく、使い物になりそうもない。今使っているスマホの望遠レンズは、光学18倍でも倍率が足りないと感じるのに…。

125倍も光学ズームできるデジカメCOOLPIX P1000はとても気になるけれど、気軽に持ち歩くには辛そう。その下位機種の光学60倍くらいのカメラは値段も手頃でいいかも?)

2020/12/22火

越冬野菜を掘り出す

友達の農家さんの畑に行って、秋に埋めた越冬野菜の一部を掘り出してきました。冬でも新鮮な無農薬野菜を食べれるのは嬉しいです。

畑は見事に大雪原と化していました。ビニールハウスの枠組みだけが、在りし夏の姿を物語っています。

今日掘り出したのはキャベツと白菜。白菜は深いところに雪室を作って埋め、その上に寒さに強いキャベツで蓋をして、雪の下に保存してありました。雪が断熱材になって程よく温かいので、凍らず冷蔵保存されていました。

表面の葉っぱは少々傷んでいるのもありましたが、取り除くと中身は新鮮でした。なめくじが一緒に冷凍されていたりもしましたが、無農薬野菜の証拠です。

北海道では農業に縁のない暮らしをしていると冬に野菜が不足しがちですが、農家さんはこうやって冬の食料を確保していたのですね。昔ながらの知恵の恩恵はすばらしい。どんな味わいなのか楽しみです。

【気になったニュース】

マイケル・J・フォックス「車イスの僕はただの荷物だ。荷物の話は誰も聞いてくれない」 | クーリエ・ジャポン

マイケル・J・フォックスの新刊についてのニュース続報。友人に若年性パーキンソン持ちがいることから、彼の本は全て読んで親しみを感じていましたが、あれから、脊髄腫瘍や大怪我を負って、かなり人生観が変わったようですね。

思えば、最初の2冊「ラッキーマン」と「贈る言葉」はかなり良い内容だったのに、「いつも上を向いて」は幹細胞治療に期待をかけるあまり政治色が濃くて、バランスが失われていた感じがありました。

「自分は人々に何を伝えてきたのかと考えました。すべてうまくいくなんて言っているんです。それって最悪でしょう!」なんて言葉を彼の口から聞くことになるとは。悲しい気もしますが、それが真実だとも思います。

人生は希望を捨てるところから始まる、とわたしは思います。誰もが苦しみ、老化、死からは逃れられない。いずれボロボロになって苦痛にうめきながら、真綿で首を絞められるかのように死んでいく時が来る。その現実と向き合って、受け入れた上で、残された時間をどう生きるのか。

慢性病と付き合っていても、その境地には至れないものです。たとえ行動の自由がかなり制限されるとしても、もしかしたら改善する見込みがどこかにあるかもしれない、と思えているうちは、絶望などしないものです。

日に日に衰弱して、いずれ死ぬ。しかしすぐ死ねるわけではなく、死ぬまでどんどん苦しみが増していくのがわかっている、という状況でなければ。人はいずれ、遅かれ早かれそのような局面を迎えるものです。そのとき、全ての希望は塗り消され、現実を受け入れるしかなくなります。

彼は今、それと向き合っているのだから、そこで語る言葉には価値があるし、どんな内容なのか気になります。

「海辺」読書メモ(6)

今日から砂浜の章。

■砂は10種類以上の鉱物からなっている。原生生物である有孔虫が作る石灰の殻のかけらなどが堆積して、隆起したり風化したり長い年月をかけて砂が作られる。氷河によって砕かれた溶岩の玄武岩のかけらや、重い鉱物のかけらなど、さまざまな砂が含まれる。(p178)

海緑石、橄欖石、煙水晶、金紅石、柘榴石、緑柱石、トルマリンなど様々な岩石の名称が出てくる。こうした石の成り立ちについて勉強してみたい気もする。

調べたら、パワーストーンや誕生石のようなバカバカしい情報が多いことに悲しくなる。植物の花言葉と同じだ。芸術的感性は大切。しかし根拠のないオカルトではなく科学と一致しているときにこそ、詩的な表現は真に美しいと思う。

「岩は、私たちにとって永続性の象徴のようなものだが、どんなに硬い岩でも、雨や氷や波に打たれて粉々になっていく。しかし、砂粒はほとんど壊れることがない。砂粒は波の細工の最後の作品である」(p181)

たとえば、誰かに花を贈るとしたら、花言葉ではなく、その植物の本当の生態に沿ったメタファーをこめて贈りたいと思う。たとえば厳しい冬の雪解けと共に咲き始めるスプリング・エフェメラルは、その生態を知ってこそ美しさが際立つ。

宝石を贈るときも、その石がどんなところで生み出され、どのような旅を経て、どれほどの悠久の歳月をかけて手元にやってきたか、という事実に意味を見いだせたら、きっと感動は深まることだろう。

■「生命の活動―食物を探し、外敵から隠れ、餌を捕らえ、そして子孫を残すというたゆまず続けられる砂浜の生物の生と死の営み―は、砂の表面だけをながめて、そこに生きものは何もいないと思う人の目には触れることがない」

砂浜のフィールドサインの痕跡(這い跡や穴や砂山)の読み取り方。実際に観察できるところに住んでいたら面白いと思う。雪山で動物の足跡を読み解くのが面白いのと同じ。でも観察できる環境がなければ抽象的に思えてしまって面白さがわからない。(p183)

■カーソンがある島の海岸で刺胞動物シーパンジー(sea pansy/Renilla reniformis)の花畑を見て感動した話。英名では海のパンジーでカーソンも「花そっくり」と書いているのだが、なんと和名ではウミシイタケであり、画像検索してみても、確かにシイタケにしか見えない。文化間ギャップを感じる。

ウミシイタケは多数の個虫のポリプからなる合体生物で、それぞれ異なる役割を果たしてひとつの群体をなしている。人間の各器官(目や手や足)が、それぞれ別個の命を持っていて、合体してひとつの体として機能しているような不思議な生き物だ。(p188)

■タコノマクラ、スカシカシパン、ブンブクチャガマ。日本人のネーミングセンスが光る各種棘皮動物。到底生き物とは思えないのになぜか動く、という驚きがこめられた名前だ。(p191)

「ジョージア州の海岸の干潟を歩いていると、私は地下の大都市を覆う薄い屋根の上を歩いているのだ、ということに気づかされる。街の住人はほとんど姿を見せることはないが、そこには地下の住居の煙突や換気口、また暗闇の中へと続くさまざまな出入り口が開いている」。

たとえが秀逸で、知らない世界もイメージしやすい。(大雪が降ったときのうちの町にも似ているかもしれない。人の気配はほとんどないが、煙突から煙が出て明りが見える)(p192)

■ウミイサゴムシが棲管を作る様子の観察。まず膜状の管をつくり、触手で砂粒の品質を検査して、適当なものをセメント腺の分泌液で貼り付けていったという。ビーバーのダムや鳥の巣でも感じることだが、モノ作りをする生き物の本能的な知恵には感嘆させられる。

A・T・ワトソン「一つ一つの棲管はその持ち主のライフワークであり、砂粒でつくられた最も美しい建造物である。一つ一つの粒は、人間が技術の粋をつくして正確に組み立てたように配置されている」。(p196-197)

ツバサゴカイは、U字型の管を増改築し、海の底の砂に埋まって生活する。なかなか本格的な引きこもりライフだ。なぜかその管の中には小さなカニが同居するようになるが、お互い外には出られない。ペットを飼う人間のようでもある。(p202)

スゴカイイソメのように、管を海藻で飾り付けてカモフラージュする種もいる。(p204)

■生き物の食物連鎖は、人間の視点から捉えると「残酷」に見えるものも多い。獲物にした生き物の残骸のただ中に住んでいるイソオウギガニ、カニを岩に空中から落として殺し、飛散した中身を食べるカモメ。このような食物連鎖を野蛮とみるか、全体につながりを見てよくできていると思うかによって、自然界を見る目が変わってくる。わたしは感情移入せずシステムとして感嘆する。(p206)

続きは後日。ここまでで砂浜の章の5分の2くらいである。今年中に読み終わるのは無理そう。

次から次に知らない生物が出てきて、とことん詳しく解説されるため、数ページ読むたびにお腹いっぱいになるありさまだ。これまで読んだどんな本よりも苦戦していると断言できる。あまりに読みにくくて読むのをやめた本はこれに含まれない。「海辺」は読むのに骨が折れるが、決して退屈な本でも読みにくい本でもない。

2020/12/23水

久しぶりにオオアカゲラを見た

今日はとても体調が悪い…。神経痛が全身あちこち出てるし、光はまぶしいし、冷えのぼせて頭痛い。12月に入ってからこのような体調は3回目だったでしょうか。いずれも一日寝たら治ったので、そういうものなのでしょう。前の時にも書きましたが、環境がらコロナではないと断言できるのは、今の時期としては安心できる点です。

体調が悪いので、森には出かけず、近くの公園を短時間散歩するだけにしました。気温は季節外れの暖気で0℃なのに、なぜかすごく寒い。やはり体調が悪いせいなのか。

カツラの実。何も知らなければ枯れ葉のように見えてスルーしてしまうかもしれませんが、先日カツラの実を図鑑で見て覚えていたので、すぐそれとわかりました。

一つ一つの実を拡大すると、枝豆に似ています。

内部を分解。枝豆が入っているわけではなく、薄く平たい種がたくさん入っていて、ミルフィーユのようになっています。

トチノキの冬芽と葉痕。接写レンズなんていらないよと言わんばかりの大きさ。

冬芽のすぐ下に見えている葉痕は細い三日月型。一方、豆粒のような側芽の下に見えている葉痕ははるかによく目立ち、イチゴ型のワッペンが縫い付けてあるかのように巨大です。もともとはもっと細い三日月型なのが、枝の成長とともに引き伸ばされるのでしょうか。

エゾユキウサギの足跡

オオアカゲラのメス。キツツキ系はある程度まで接近しても逃げないので、スマホ+望遠レンズでも、そこそこきれいに撮れます。背中の模様からアカゲラではなくオオアカゲラだとわかって色めき立ちました。そんなに頻繁に見かける鳥ではないので。

体調が悪い日は、キーボード操作に打ち間違えが尋常でないほど多くなるので、打っていてイライラしますね。

体調がおかしいときには、脳内に描かれる身体マップにゆがみが生じ、体の位置情報の信号に、わずかなズレが発生しているのでしょうか。

詳しく書くのは明日以降にして、今日はもう休むに限ります…。

2020/12/24木

野鳥ボードゲームのウイングスパンSwitch版を買った

まだ体調が悪いし、外はプラス2℃で道路が溶けまくりなので、あきらめて家で用事をしていました。それと、前々から気になっていたボードゲームのウイングスパン(Wigspan)のSwitch版が発売日だったので買ってみました。

ウイングスパンは、実在の野鳥がキャラクターのカードゲーム。架空のキャラクターをモチーフにしたゲームばかりが増えている中、実在の動物について学びながら遊べるゲームは貴重です。懐かしのフォーエバーブルーも海の生物を知るきっかけになったし。

チュートリアルをプレイしたところ、ルールが難しくてちんぷんかんぷん。本当にプレイできるのか不安になりましたが、チュートリアル終了後にCPU戦を何回かプレイしたら意外とシンプルでわかりやすいゲームだとわかり、楽しくなりました。

日本語訳は硬い直訳ですが、意味の通じない変な翻訳はありません。(Steam版ではあったけれど修正されたもよう)。UIは癖があるけれど理不尽ではなく、慣れると気にならなくなります。タッチ操作にも対応しています。

シンプルであるがゆえに、実学に役立つ部分は少なく、実在の野鳥の名前、姿、鳴き声、ニ行ほどの豆知識くらいしか学べる部分はありません。このゲームをきっかけに、特定の鳥について調べることがあればいいのだけど…。

現在収録されている鳥の種類は北米に棲息しているものばかりで、馴染みがない鳥すぎるのも残念。〇〇カケスとか、〇〇サギとか、日本にいる野鳥の近縁種だということは名前から推測できるんですけどね。

アナログ版のほうは、追加パック「欧州の翼」で日本で馴染みのある鳥も追加されているとのこと。さらにオセアニアの鳥を収録した「大洋の翼」も製作中だとありました。

一度プレイ中に使った鳥は、図鑑に収録されますが、そこで世界地図で生息地が表示されるので、今後北米以外の鳥も追加コンテンツで販売されるんじゃないかと思っています。

フレンド戦では、なぜかよく回線落ちしますが、ゲームを再起動して、普通に再開できます。全員落ちても、単に一時離席扱いになるだけで、中断中のゲームに入れるので、回線が弱くても問題なくプレイできます。

待ち時間が長いゲームなので、家族や友達と雑談しながら息抜きにプレイするくらいがちょうどいいですね。癒やされる音楽と鳥の鳴き声でリラックスして眠くなってきます。

アナログ版と違って、難しいルールの整合性や得点の計算などは全部ソフトがやってくれるので、慣れてしまえば片手間で楽しめるゲームだと思いました。

2020/12/25金

森の中の笹が埋もれてきた

昨日の暖気で雪が溶けるかと思っていたら、降る量のほうが多くて、道路はもう圧雪に回復していました。それどころか、森じゅうの木々の枝が樹霜で覆われていて、とても冬らしいクリスタルな世界が広がっていました。思わず見とれてしまう透明感です。

森の中もかなり雪が積もっていて、スノーシューで歩く時の感触が得も言われぬ心地よさ。言葉で表現するのが非常に難しいのですが、程よい硬さの引き締まったアイスクリームを食べるときのような、ギュッギュッという感触。よい雪というのは「美味しそう」なものなのです。

去年の冬は、雪不足のせいで、山肌の笹やぶがほとんど覆われないという異常事態でしたが、今年はご覧のとおり。まだ完全に笹が隠れるには至っていませんが、この調子だと週末の雪で笹が覆われてしまいそう。いよいよ道北の豪雪地帯らしい真っ白な雪の森になりそうです。

雪で斜面がかなり覆われたので、笹を気にせずに、森の中を歩き回ることができます。今まで一度も通ったことのないマツ林の中を通り抜ける楽しみを満喫しました。初めて見るトドマツの樹皮には、とても色鮮やかな地衣類のミクロの森が繁茂していました。

何種類もの地衣類とコケが共存しています。名前を調べたいと思うものの、大まかな属くらいしか調べる方法がありません。

このツノマタゴケみたいなのは、やはり前に調べたヤマヒコノリのほうなのかなぁ…。香りがすればツノマタゴケ(オークモス)、しなければヤマヒコノリだと思うんですが、非常に小さかったので、むしりとるには忍びなく、どちらなのかわかりませんでした。

もっと森の奥まで探検に行きたい心づもりでしたが、すぐに吹雪が激しくなってきたので引き返しました。帰り道はホワイトアウトしそうなほど真っ白でした。こんな日に国道を走っていたら肝を冷やしそうです。

年末年始は、各地で大寒波と大雪の予報ですが、道北はどうなのでしょうね。日本列島のはずれすぎて、一般的な予報は当てにならないことが多いですが、雪が降ってくれるのなら歓迎です。

2020/12/26土

今日の冬芽。ハリエンジュ、アズキナシ、ウワミズザクラ等

かなり吹雪いていて、森を歩くのは危険かもしれないと判断したので、家の近所で冬芽の観察をすることに。

周囲の景色が真っ白になると、公園のシラカバ並木の樹皮が、より一層白く感じられます。森の中だと、樹皮が赤みがかったダケカンバや、黒みががったウダイカンバを見ることのほうが多いからでしょうか。町のなかにあるシラカバは驚きの白さです。

ハリエンジュの冬芽。逆三角形。コウモリの顔のような形。冬芽そのものは葉痕の中に隠れて見えない隠芽で、耳のように見える部分はハリエンジュ特有の針(トゲ)、顔に見える部分は葉痕。

イタヤカエデかその近縁の冬芽。

冬芽の形はイタヤカエデなのですが、通常のイタヤカエデよりかなり芽のサイズが小さい。色もベニイタヤより黒みが強い気がする。でも、これくらいなら普通のベニイタヤなのかもしれないとも感じる。

そして樹皮が大胆に縦にひび割れていて、あまりイタヤカエデらしくない。…と現地では思ったものの、もともとイタヤカエデは縦にひび割れる樹皮で、シナノキに似ているので、かなり樹齢を重ねた木なら、こんな見た目なのかもしれません。

今日ぜひとも確認しておきたかったのは、アズキナシの木の冬芽。町なかにあるこの木は、夏に花や葉も確認済みなので、アズキナシで間違いありません。森の中にもあるはずですが、一度はっきり冬芽を確認して経験を積んでおかなければ、森で見分けることはできません。

まだサクランボのような実(小さな小豆大の梨にも例えられる)が残っていました。色がうまく写真に映っていませんが、まだ赤い実と、紺色に変色している実がありました。

アズキナシの別名はハカリノメ。わたしが最初参考にしていたサイトでは葉っぱの側脈が規則正しく並んでいることに由来する、と書いてあり、夏の自然観察ではアズキナシを見分ける時、その特徴がとても役立ちました。

しかし、別のサイトでは、ハカリノメの由来は上の写真のような枝にできる白い点々とした皮目を、秤の目盛りに例えたとされています。手持ちの図鑑でもこちらの説が採用されていました。どちらもそれっぽいので、両方の特徴を覚えておくと判別に役立ちそうです。

樹皮は薄茶色の裂け目が縦にたくさん走っています。もう少し若い木だったら、ひし形模様に裂けているらしいですが、ひし形に裂ける木は他にもイヌエンジュなどがあります。やはり樹皮は樹齢によって変化するので、確実に見分ける手がかりにはなりません。

肝心のアズキナシの冬芽。最初に読んだ図鑑でナナカマドに似ていて見分けにくいとあったのですが、実物はそんなに似ているとは思いませんでした。確かにナナカマドに似た赤い尖った冬芽ですが、ナナカマドのほうが大きくて先がより尖っている気がします。

アズキナシは単葉、ナナカマドは複葉なので、より大きく複雑な葉っぱをしまいこんでいるぶん、ナナカマドのほうが冬芽が大きくなるのかもしれません。

接写で撮ってみると、ナナカマドと似ていなくもありません。でも、ナナカマドは深紅に近く、いかにもトウガラシっぽい形なのに対し、アズキナシはむしろヤマザクラと似ている、あまり特徴のない中途半端な形の冬芽に思いました。

図鑑によると、ナナカマドの冬芽は維管束痕(葉痕にある点々)が5つなのに対し、アズキナシは3つ、というのが区別するポイントになります。確かに下の写真では維管束痕は3つです。

しかし、維管束痕が3つの樹木は、ヤマザクラはじめ近縁種に多いので、やはりナナカマドよりもサクラ類との見分けのほうが混同しそうだと感じました。た

ぶん、今までも森の中で自生のアズキナシを見たことがありますが、「サクラっぽい冬芽の樹木」とみなししまい、アズキナシだと気づけなかったのではないかと思います。

最後に、ウワミズザクラ。前にも冬芽を写真に撮ったことがありますが、そのときは一本だけ単独で生えているものでした。今回は大量にウワミズザクラが植栽されている場所で観察したので、普遍的な特徴を調べることができました。

まず冬芽。前にも観察したとおり、冬芽を包み込むような大きな三日月型の葉痕が特徴的。冬芽そのものはエゾヤマザクラの冬芽と色が似ていますが、ウワミズザクラのほうが全体的に丸くずんぐりむっくりしています。

ヤマザクラのほうは、枝先に頂芽と頂性側芽が固まって、鳥の足のような形になっているので、すぐ見分けがつきます。(同じような付き方をするのはこの近辺ではミズナラのみ)

しかし、ウワミズザクラのほうは、枝先に冬芽が固まってつくようなことはなく、まっすぐの枝に規則正しくひとつずつ、間隔を開けて左右交互に並んでいました。こんなにきれいにつく冬芽も珍しい。人間に例えれば、とても几帳面できっちりした性格かもしれない。

面白かったのは、この変な形の大きな葉痕?がついている冬芽。なんだろう?と思って写真を撮りましたが、どうせ特に意味もなかろう、と思ってしまったので、ピンぼけした適当な写真になりました。でも驚いたことに、帰って図鑑を見たら、正体が判明してしまった。

これは、葉痕ではなく、「落枝痕」つまり枝を落とした痕なのだそうです。ウワミズザクラは、側枝が秋にほぼ脱落してしまうため、ニ年目以降の枝には、この落枝痕が目立ち、そのすぐ横から冬芽が出るそうです。

なんと自分で脇から出た枝を落として整理整頓してしまう。ムダ毛処理ならぬムダ枝処理。ウワミズザクラは几帳面できれい好きの木だと覚えておくことにします。

樹皮の様子は、サクラの仲間らしく、横向きに皮目が入っていました。しかし、図鑑によると、老木になるともっと縦にひび割れて別人?のような見た目になるそうなので、やはり樹皮は参考程度にとどめるのが無難。

枝には、実のついていた跡の果柄が少しだけ残っていました。黒く熟した実が甘くて美味しかったのを思い出しましす。秋に見たときはもっと実っていたはずなので、すでにほとんどの果柄は落として整理済みなのでしょうね。

スノーシューを履いて、吹雪の中いろいろ写真に撮っていると、スマホのバッテリーがなくなってしまいました。吹雪もひどく視界不良になってきたので今日は引き上げることに。

そんな中でも、全身フル装備でウォーキングしている人(男性か女性かもわからない)を見かけ、驚きました。向こうもきっと、吹雪の中、フル装備でスノーシューを履いて木の写真を撮りまくっている変な人を見て驚いたことでしょう。意外とこの町はそんな人が多いので、いつものことだと思って特に気に留めなかったかもしれませんが。

2020/12/27日

腰まで埋もれるサラサラの新雪に寝転ぶ

昨夜からしんしんと雪が降り続け、見事のつもりました。庭のコンポストに生ゴミを捨てようにも、太ももくらいまである雪の中を歩いていきました。幸い、こうなることを見越して、通路とコンポストが埋まっている場所には目印の棒を立ててあります。

気象庁の積雪ランキングにも入りましたが、過去のこの地域の最高記録に比べたら、今日降った量は1/4にも満たない量でした。引っ越してからの2年でも、もっと大量に降った日がありました。古くから住んでいる地元の人は、一階の玄関が埋まって、二階の窓から外に出たなんて話もしてくれます。

地元の人たちはこれくらいの積雪など慣れたもので、道路はあっという間に除雪されてしまいます。それこそ1日で100cmでも積もる勢いでもなければ、大丈夫そうです。

わたしも、これくらいの積雪ならすっかり慣れてしまって、スノーシューも持たずに公園を散歩してきました。吹き溜まりになっている場所は腰まで埋もれますが、いい腿上げ運動になります。

積雪の中を歩く時は、下に何が埋まっているか(大穴や谷のこともある)わからないのが危険ですが、家の近所の歩き慣れて地形を知っている公園くらいなら、まったく問題ありません。スノーシューを履けば森も歩けるでしょうが、今日は東京の友人とビデオ会議など忙しかったもので。

橋もほとんど埋もれています。まだ概形が見えているからいいものの、全部埋まってしまったら、地形を知らずに歩けば足を捻挫してしまいそうです。

もう少し降り積もればスノーモンスター化しそうな樹木も。

降ったばかりのさらさらの雪を踏みしめて歩くと、ギュッギュッと心地よい音がして、まるで水気を含んでいない小麦粉のような感触です。

腰くらいまで埋まって歩いているので、そのまま後ろに倒れ込んで寝転んでしまうこともできます。そうすれば、どんな低反発マットレスにも勝るふっかふかの寝心地が味わえます。倒れ込むと同時に、体の曲線にそってぴったりフィットしてくれます。

そのまま極上の雪に寝転んで、たくさん実が残っているシラカバの樹冠をぼーっと眺めていました。完全防備なので、マイナス10℃の屋外でも、さほど寒いとは感じないものです。爽やかな涼気がとても心地よく、寝心地も抜群なので、ずっと寝転がっていたいほど。

だけど、さすがにこのまま寝てしまっては凍死してしまう。いくら完全防備とはいえ、1分も寝転がっていると、少しずつ雪の冷たさが伝わってくるのを感じます。ふかふかの雪ベッドは腰や関節によさそうだけど、あまりに寝転がっていると冷えて神経痛になるでしょう。

人をダメにする極上の雪クッションの誘惑を退けて、やっとこさ起き上がることに決めましたが、あまりにふかふかすぎて起き上がれない。手をついても、ずぼすぼっと沈み込んでしまう。雪の海におぼれてあたふた。ゴロゴロと横に転がりながら、全身粉雪まみれになって、なんとか立ち上がりました。

地元の人たちは、もう雪にすっかり慣れきってしまって、誰も真冬の公園に踏み入れている人は見かけません。子どものころに十分堪能したのかもしれません。あるいはみんなスキー場に行っているのかも。真っ白な雪野原は、わたしと動物たちの貸し切りでした。

「海辺」読書メモ(7)

■スナホリガニの生活。英名はmole vrabでモグラに似ている。群れで一斉に穴に潜ったり、地中から現れたりするという。この儚い生き物は、毎年冬になる前にすべてが死に絶え、海に放出された幼生だけが生き延びて春に戻ってくるという一年生植物のようなライフサイクルを送る。

「カニが大群をつくっている砂浜に偶然足を踏み入れても、砂浜にかれらがいるところを見ることは難しいるそこは一見、何もいないように見えるからだ。しかし、寄せてきた波が薄いガラスの膜のようになって海へ返っていくその瞬間に、砂の中から何百という大地の精(ノーム)のような顔が現れてくる」。(p207-210)

この本の挿絵で見ると、そこそこ大きなカニに思えるのだが、ネットで画像検索してみると、虫サイズの小さなカニで、ゲンゴロウ的な見た目だった。これがスナホリガニだと知らなければ、たとえ姿を目撃したところで、ただの虫だとしか思わないだろう。(自然界に「ただの虫」なんていないのだけど)

■スナガニもまた、幼生はプランクトンの形をしていて海に放出される。海の中で数回脱皮を行い、少しずつ形を変え、メガローパという着陸形態になる。脚はきちんと折りたたまれるような構造をしていて、波にもまれ、砂にこすられても保護される。

まるで、月に着陸しようとする探査船のようだと感じる。何度も燃料タンクを切り離しながら、海流の軌道に乗って、一度も見たことのない砂浜を目指すのだ。カニにとっての海は人類にとっての宇宙ほど広いが、「本能に導かれて海岸に向かい、上陸を果た」すのは驚きだ。(p214-215)

■ハマトビムシも、挿絵だけ見ると、小さなエビをイメージするが、調べてみたら、もっと小さく1.5cm程度しかない。道理でハマトビエビではなくハマトビムシと名づけられているはずだ。肉眼では虫としか思えないだろう。

それが海や砂浜の掃除屋として活躍し、人間で例えれば20mもの深さになる穴を、わずか10分で掘ってしまうのだ。そして、「誰も知らない神秘的な方法」で、引き潮と夜を検知し、穴の上に出てくる。(p217-220)

■「海岸の漂着物の中には、生きているものはほとんどいないかもしれない。しかし、砂の中やはるか彼方の沖合には、数限りない生物が生きていることを物語ってくれるのである」(p220)

■海岸には未知の謎の生物も流れ着く。トグロコウイカ。1912年まで、漂着物として流れ着くアンモナイトを思わせる白い殻しか知られていなかった深海生物。(p221)

■アオイガイ。殻だけみるとアンモナイトじみた螺旋の貝にしか思えない。しかしこの殻はメスが卵を守るために作り上げたゆりかごで、持ち主はなんとタコだった。カイダコ、タコブネと呼ばれる仲間。(p222-223)

■アサガオガイ。泡でいかだを作る紫色の巻き貝。画像検索してみると、いかだの画像も出てくる、じつに不思議だが、粘液で作られた浮き袋らしい。上空からみればただの泡にみえ、下から見れば紫の保護色によって守られながら、優雅に海を漂う。(p224)

■刺胞動物の生きた帆船の船団であるクダクラゲ、カツオノエボシ、カツオノカンムリなどが座礁することもある。いずれも個虫の群体生物。

カツオノエボシは浮き袋という帆を立てた帆船であるだけでなく毒のある触手を伸ばす引き網漁業船でもある。しかしエボシダイは触手の中に住んでいる。

浮き袋の空気圧を調整することができ、帆の位置と形を変えて、望む方向に進めるという。その様子を岸から見守ったカーソンの体験談は面白い。「かれは大いなる幻を抱いて、決してあきらめることなく、自分の運命を切り拓くためにあらゆる努力をしていた」。(p226-230)

■ウグイスガイ。ヤギ(サンゴの仲間)の枝をくっつけていると書かれている。調べてみると、ヤギなどの刺胞動物の枝にくっついて共生関係を結んでいる貝らしく、形も鳥のウグイスのようで独特だった。オカリナのような形ともいえるかも。何にせよ情報が少ない。(p233)

■カンザシゴカイ。個虫が集まって群体で生活し、自分のまわりに石灰質を分泌して、まるで鉱物のような岩を作ってしまうという。ハニカムタフィーのような形とのこと。「私たちの知識が、限りなく広がる未知の大海をのぞく窓のついた、小さな囲いの中に閉じ込められていることを示す、ほんの小さな一例」。(p234)

■ナミマガシワ。うろこのような貝殻をしているとある。調べてみるとバラの花のようで美しい。(p236)

■シマメノウフネガイ。幾つもの貝が連なって鎖のような形になる。その後、下のほうの貝がメスになる。検索してもそんな画像が見つからなかったが、属名のCrepidula(エゾフネガイ)で検索すると、積み重なって合体している貝殻の画像が出てきた。(p236)

■タイラギ。平ら貝が訛った名前。検索すると料理しか出てこない貝だが、カクレガニと共生していて、金色の足糸で岩にくっついているという。タイラギの足糸は地中海世界ではSea Silkと呼ばれる金色の布の材料にされていたらしい。手袋を編むと、指輪の中を通すことができるほど薄くしなやかだという。検索すればそんな画像も出てくる。(p238)

■テンシノツバサガイ。非常に繊細で壊れやすい貝殻なのに、生きているときは穴を掘る技術が一級品だというのが面白い。とても美しいが生きているうちは砂の下にいるので、死んで初めて人目に触れる。「なぜ、何のために? そして、誰に見せるために?」。写真でも美しいのだから、実物を砂浜で見れたらさぞや美しいだろう。(p239)

■ほかに砂浜で発見できるものには、巻き貝の蓋(「キャッツアイ」と呼ばれるものもある。瑪瑙色の宝玉のようだ)、サメやエイなどの卵鞘の抜け殻(「人魚の財布」と呼ばれている。クワガタムシのようだ。親が卵を海藻に結びつけるときに使うゆりかごだという)、貝の卵塊(「スナヂャワン」と呼ばれる。粘液の膜で作られているらしい)。

昔、海岸に漂着したエイの歯の写真を見たことがあるが、知識がなければ何物なのか見当もつかない。そんな摩訶不思議な漂着物だらけなのだと思う。コレクションするのは非常に楽しそうだ。

■エボシガイ。幼体のときは海を漂い、定着場所を見つけて成体になるというフジツボのようなライフサイクル。しかしフジツボと違って、茎のような柄がついている。フジツボの熊手のような蔓脚と同様の手で食物を集める。これが羽に見えたために、イギリスの植物学者ジョン・ジェラルドは、エボシガイが鳥の卵だと思い込んだという。(わたしも観察が適当なので、同じ轍を踏みそうである)(p243)

■フナクイムシ。どう見てもゴカイやミミズのようだが貝殻がついている二枚貝。最初は二枚貝として海を漂い、運良く流木にたどり着くと、脚を成長させて穴を掘り始める。その二枚貝を使って穴を掘り、船や桟橋を傷めてしまうことから研究が進み、トンネル掘削のシールド工法の技術が開発されたという。なんと木のセルロースを消化できる。(p246)

■海岸の点在する岩にぱ、必ず岩場の生態系が構築されている。海流は無数の幼生を絶え間なく運び、ほとんどが無駄に終わって死んでいっても、一匹だけでもチャンスをとらえ、繁栄することができる。「何百億という失敗の上に、ほんのわずかでも成功したものが現れたとき、まちがいなくすべての失敗は贖われ、成功に転じるのである」(p249-250)

以上でやっと、第三章 砂浜の終わり。たいへん面白くはありましたが、例のごとく次々に知らない生き物の話題に飛ぶものだから、調べながら読む必要があり、時間と気力がかかってしまいました。でも読んでよかったと感じます。

特に印象深かったのは、今まで考えたこともないような不思議な形態や能力をもつ生物が多かったこと。頭の中にあるテンプレやステレオタイプを取っ払う必要がありました。

それぞれの生き物は一芸に秀でていて、小さな生物としては信じられないような機能(穴掘りだったり。記憶力だったり、岩や糸を作る能力だったり…)を持っていて驚かされるのですが、考えてみたら、それらの集大成が人間なのだなと。それまでの独立した技術の粋を数多く複合的に組み合わせ、合成して造られたものなんだな、という感動がありました。

それはそうと、オリヴァー・サックスの本の再読に比べて、「海辺」が全然読み進まないのは、もしかしたら紙媒体だからなのだろうか、と思いました。

ずっと紙の本のほうが読みやすいと思っていましたが、こうしてPCで読書メモを取るのであれば、電子書籍のほうが便利だと感じつつあります。

電子書籍は光源から出る透過光を見ていて、紙媒体だと反射光を見ることになります。脳内での処理の違いについては、こんな研究がありましたが、たった6人の反応で決定的なことが言えるとは思えないし、実験の手法にもいろいろ粗があって普遍化はできなさそうです。

「紙媒体の方がディスプレーより理解できる」 ダイレクトメールに関する脳科学実験で確認|ニュースリリース:2013年|トッパン・フォームズ株式会社

自然界でのあり方を考えた場合、透過光は空を眺める時のように遠くをぼんやり見ることに適していて、反射光は近くの物体に注目するのに適している、という仮説を立てることはできます。

しかし、自然界には、反射光にせよ透過光にせよ、文字を読み解くような体験は存在しないので、適切な比較はできません。紙媒体で文字を読むのも、スマホで文字を読むのも、どちらも比較的最近、人類が編み出した特殊な習慣にすぎません。

液晶だと目が疲れる、という点については、明るさやコントラストを適度に調節するとか、解像度を高くするといった、もっと初歩的な要素に左右されるのかもしれません。

紙媒体かデジタルか、あまり気にすることなく、自分にとって使いやすいほうを選んで、視認しやすいよう工夫してみるのがいいように思います。とりあえず、「海辺」を電子化してみて、読みやすいかどうか比べれたらと思います。

2020/12/28月

シイタケ栽培の原木を探すために駆り出される

友人が、自分が所有している山からナラの木を切り出して、シイタケを栽培するというので、樹木の見分けに同伴してきました。冬芽やら樹皮やらで樹木の判別にいそしんでいたことが、こんな形で役に立つ日が来るとは。

かなり深々と雪が積もっていて、雪不足だった去年の今頃とは比較になりません。去年はこの時期でもスノーシューなしで山に入れるくらい少なかったですが、今年はスノーシューなしだと身動きとれないでしょう。

友人所有の山は、ほとんど管理されておらず、長年人の手が入っていないので、自然林に近い雑木林になっていました。積雪の深さを手に持ったストックを地面に挿し込んで測ってみたところ、1m近い深さがあり、ササやぶは完全に埋もれていました。

シイタケの栽培に適した太さのミズナラはすぐ見つかりました。大木はほとんどありませんでしたが、若木レベルのミズナラはかなり豊富にあり、いくらでもシイタケ栽培に使えそうでした。雪が溶ける前の歩きやすい季節に細かく分けて伐りだすとよさそうです。

ほかに冬芽を頼りにハリエンジュ、ヤマグワ、ケヤマハンノキ、ハルニレ、ヤチダモ、シナノキ、オオバボダイジュ、シラカバ、ダケカンバ、オノエヤナギ(別のヤナギ類かも)、イタヤカエデ、ハシドイ、タラノキ、トドマツ、カラマツ、エゾマツ、ヤマブドウ、サルナシと、この地域に多い木は一通り発見できました。また木は特定できなかったものの、ハリギリの葉っぱも落ちていました。(我ながらよくこんなに見分けがつくものだ)

個人的に嬉しかったのはハリエンジュ、オオバボダイジュ、エゾマツでした。それぞれコーディアルやハーブティーにして味わうことができますが、これまで自由に採取できる場所では、採取できる程度の丈の低い木をあまり発見できていませんでした。来年はこの森から採らせてもらえることになりました。

たくさん並んでいるシラカバ ・ダケカンバ林で、樹液を採るのもいいかもしれない、という話になったので、来年以降の楽しみが増えました。

ひとつだけ、冬芽を観察しても、何の木か判別できなかった若木があったので写真を撮ってきました。ヤマナラシかアズキナシのどちらかだと思うのですが…。

あとで図鑑を調べてみましたが、たぶん、一昨日はじめて冬芽を見たばかりのアズキナシのほうでしょうね。

ヤマナラシの冬芽も形や色は似ていますが、もう少し丸みを帯びて光沢があると思います。また若木なので参考になるとは限りませんが、樹皮はヤマナラシのような特徴的な白黒模様ではありませんでした。

先日書いたように、アズキナシは別名ハカリノメといって、若枝に点々と白い皮目がつくのも目盛に見立てた、とのことでしたが、上の写真の枝には確かにそのような点々があります。

カラマツ林では、シマエナガやゴジュウカラの鳴き声が聞こえて、運良く友人にもゴジュウカラを見せることができました。カラマツの非常に高い幹をすばしっこく走っていたので、写真を撮ることはできませんでしたが、肉眼でははっきり見えてよかったです。

帰りに、ヤチダモ、ハンノキ、ハルニレの並木を歩いていると、キツツキが幹をつつく、かなり大きな音が響いてきました。

音の大きさから、はじめは、もしかしてクマゲラ?とも思ったのですが、ここの森ではクマゲラの食痕は見当たりませんでした。音もかなり高い位置から響いていたので、低い場所でアリを食べるクマゲラではないと予想。

頑張って色んな角度から見上げて探してみると…、

二又の木のあいだにアカゲラ

いました! アカゲラかオオアカゲラのオスのようです。足元に蛇行した大きな谷があって、これ以上接近したり、角度を変えて見ることができなかったので、激しくハンマーのように動く頭だけしか見えず、どちらなのかまではわかりませんでした。

雪の森で持ってきた甘いチャイを飲みながら、しばし鳥の声に耳を澄ます一時は贅沢です。完全に自分だけの森があるなんて羨ましい。うちの自宅からは少々遠いですが、来年はもう少し頻繁に通わせてもらって、一緒に山菜採りなど楽しめたらいいなと思いました。

帰りに、秋にわたしが採取を勧めたホオノキの実のお茶もいただきました。ミントの混ぜてあったので、ホオノキの実そのものの味はよくわかりませんでしたが、とても味わい深かったです。人に勧めておきながら、うちのホオノキの実はまだ干し器の中なので、そろそろ切り分けてお茶にして飲んでみようと思います。

2020/12/29火

ホオノキのお茶を試す。チョウセンゴミシ、キハダの実も乾燥させた

昨日ホオノキの実のお茶を飲ませてもらったので、うちで干してあった実も細かくちぎって保存容器に移しました。

まずホオノキの実。トゲトゲの茶色い木質の実の中に、赤い種が入っていますが、お茶に使うのは種を取り除いた茶色い木質の部分です。うろこ状に殻が重なり合っているので、下のほうからちぎって分解してみました。種は友達の家のバードフィーダーにでも寄付しましょうか。

ホオノキの実は、手でちぎっているだけでもよい香りがただよってきます。ちぎった断片は幾つかお湯に入れて5分ほど煮出し、5分おいてからお茶に淹れます。味は少し苦いですが、香りがとてもエキゾチックで、アイヌの人々が気に入ったのがよくわかります。

わたしは漢方薬みたいな苦味のあるお茶が好きなので非常に好みですね。実だからかどことなくフルーティーさもあって、とても味わい深く、飲後感もすっきりします。同じくアイヌがお茶にしたヒトリシズカも気に入っていましたが、それよりさらに美味しいかも。

こうなってくると、アイヌが飲用した他のお茶、ナギナタコウジュやエゾイソツツジも飲んでみたいですが、まだ発見できていません。

乾燥させたチョウセンゴミシの実。かなりしわしわになってしまいました。こちらもお茶にすると酸味が強く、アスコルビン酸の塊みたいな味です。500mlに10粒くらい入れるのがいいかも。

そしてアイヌ料理に欠かせない香辛料キハダの実。これは乾燥させて料理に使います。ネットで調べたら、味が濃くてまずい、といった感想が出てきましたが、香辛料なので単独で食べるものではありません。カボチャの煮物などにアクセントで入れると美味しいです。

生でも料理に使えますが、しっかり乾燥させたほうが、独特のカリコリした梅干しのような食感になるのでおすすめ。

都会に住んでいると、空気が汚いこともあってか、食糧の保存方法といえば冷蔵・冷凍でしたが、こっちに来てからはいろんなものを乾燥させています。冷凍庫を圧迫しないので便利です。冬だったら雪の下保存もできますし、昔の人の知恵から学ぶことがたくさんありますね。

2020/12/30水

明日朝の気温マイナス20℃

昼間はお仕事で忙しすぎて缶詰状態でした。夜になってやっと時間ができたのでサイクリング。今季もっとも寒い気温で、家から10分ほどの気温計までたどり着いたらマイナス17.9℃でした。(一瞬18℃になったけど撮りそびれた)

路面は引き締まった圧雪になっていて、とても走りやすく、まさしくサイクリング日和。今シーズン初めて鼻を覆うフェイスマスクも引っ張り出してきて、万全の装備で走りましたが、万全すぎて、かなり汗をかいてしまい、冷えないうちに戻ってきました。調整が難しいです。

空はとてもよく晴れていて、今年最後の満月が、天空の鏡のごとく太陽の光を反射して、まばゆいばかりに輝いていました。このまま放射冷却で気温が下がり、明日、大晦日の朝にはマイナス20℃を下回る予報です。

もし日の出の時間帯に晴れていれば、サンピラーやダイヤモンドダストが見られるかもしれませんが、果たして起きれるかどうか。朝が弱いわたしは自信がまったくありません。

2020/12/31木

大晦日の朝、極寒の芸術的風景

なんとか頑張って早起きしましたが、サンピラーもダイヤモンドダストも発生しませんでした。残念。

明日は早起きしようと決意して寝床に入ったものの、1時くらいまで寝れず。次に目が覚めたのは5時。まだ早いし、どうせ中途覚醒するだろうともう一度寝る。6時半ごろ、非常に眠いなか半覚醒状態で起きるか起きまいか葛藤して、なんとか目を覚ますことに成功。

日の出は7時くらいらしい。あまり早く出かけても、山で太陽が見えないし、極寒のマイナス20℃の中、車をアイドリングさせるのは環境にも家計にも良くないので、もう少し待つ。

日の出の10分前くらいになって意を決して出発。

わたしにとって、朝の空気、というのはまったくいい思い出がありません。根が夜型なのに、とても無理をして学校に行っていたころの強制労働のような記憶や、家族による虐待的な扱いの感覚が条件反射で呼び覚まされ、いつも嫌な気分になってしまいます。

わたしにとって、幸せの感覚とは朝ぐっすり寝られること。それでも、こっちに引っ越してきて少しましになったと思います。一歩外に出て、おとぎ話の世界より美しい極寒の世界に目を向ければ、過去の辛い手続き記憶の想起を、ある程度まで上書きできるのを感じました。

体に保存された過去の辛い身体記憶を修正するには、新しい楽しい身体記憶で上書きするしかない。あまり無理しないよう気をつけながら、こうした経験を何度も繰り返せば、朝早く起きることの嫌な気分も、改善されていくのでしょうか。

気温計のある場所を通りかかると、表示はマイナス22.9℃でした。

この近くでは朱鞠内でマイナス31.5、幌加内で32.6を記録したそうです。非公式記録ながら日本最寒の地の面目躍如ですね。最寒記録はこれよりさらに10℃寒いのですが。

サンピラーやダイヤモンドダストが現れるにはぴったりの条件ですが、唯一、空が曇っていることが悔やまれます。それでも、南西の空に月が見えていたので、もしかして太陽も見えるかも、と期待しました。

朝が苦手なので、運転していても、なんとなくふわふわした感じがして気持ち悪い。半分夢見心地で運転するほど危険なことはないので、無理にでも注意を集中するよう、気力を奮い立たせます。幸い、他の車は全然走っていませんし、路面は引き締まった圧雪で滑りもしません。

ここでなら朝日が見えるだろう、と考えていた山道の見晴らしのよい駐車場に行きましたが、予想に反してまったく見えません。

まだ太陽が山に隠れているほど低いこともありますが、それより方角が問題でした。ここは東の方角は見えるものの、冬至に近い時期の南東から登る太陽は見えない場所だったのです。日の出を見に来たことなんてないから、今まで気づかなかった。

仕方なく、別のポイントを探して、さらに山奥へ車を走らせます。真冬は車が少ないし、晴れる日が多くて吹雪きにくいし、(サングラスをかけている限り)路面が見やすいし、道端の余計なものが全部雪で覆われて視覚情報がシンプルになるので運転しやすいです。

家から10分ほどの、いつも星空を見に来るポイントに行ってみたら、意外なことに、南東の方角の見晴らしがいいことに気づきました。星空を見るのに適したスポットだと思っていたら、日の出を見るにも適しているとは。

地平線から顔を出したばかりの太陽は、残念ながら分厚い雲に覆われていました。雲の隙間から漏れ出た鮮やかなオレンジ色の後光だけが、太陽が登り始めたことを物語っていました。

この雲がもしなかったら、今ごろサンピラーが見れていたのでしょうか。でも日の出が見れる場所をリサーチできたので、次回につながるでしょう。

このまま帰るのももったいないので、帰り道では、道端の樹霜や、凍てついた川の風景を楽しみました。木の枝や実は、見事な芸術品のようにびっしりと霜で覆われていて、氷が浮かぶ川面にはも湯気のような川霧(「けあらし」とも呼ばれる)が漂っていました。

道端のイネ科の草?についた樹霜。

ケヤマハンノキの枝と実を覆う樹霜。

薄氷が張る極寒の川から立ち上る気嵐(けあらし)。

サンピラーやダイヤモンドダストは見れませんでしたが、川辺の樹霜や川霧は、これほど冷え込んだ朝にしか見られない、ファンタジックな光景でした。

川霧が悠然と漂い、氷の下を轟々と川が流れている様子は迫力がありました。ずっと眺めていたいとも思いましたが、マイナス20℃の日の橋の上はあまりに寒い。後ろ髪引かれて何枚も写真を撮った後、これ以上体力を消耗して運転ができなくなる前に帰ることにしました。

家の近くまで戻ってくると、日の出の時刻から40分が過ぎて、平地でも朝日が稜線からこぼれ始めていました。分厚い雲の切れ間から、ついに太陽の姿が見えて、明るい光線が差し込みました。まだ気温はマイナス19℃。サンピラーが現れるでしょうか。

車を置いて、自転車に乗り換えて、家の近くの見晴らしのよい場所へ急ぎます。しかし想像以上に寒い!

昨晩、マイナス18℃の夜に自転車で走った際は重装備でしたが、今日はそこまで着込んでいませんでした。橋のところで川を眺めたりできたから大丈夫かと思っていたら、自転車だとスピードを出さなくても体感温度が5℃は違いますね。ほんの一分走っただけなのに鼻が凍りそう。

見晴らしのいい場所につくと、ちょうど太陽が顔を出した瞬間でした。サンピラーは現れませんでしたが、氷雪の世界を照らし出す力強い太陽は、宝石のような輝きを放っていました。

折返し自転車で帰りましたが、めまいや息切れはなかったものの、これ以上自転車で寄り道したら、心肺機能に負担がかかりすぎて、何か危険なことになりそう、という予感がしたので、まっすぐ帰りました。マイナス20℃を甘く見てはいけません。

帰宅後は、疲れてしまって昼ごろまで寝ました。それでも、かなり心地よい満足感のある疲れでした。こういう経験を繰り返せば、ちょっとは朝に対する苦手意識も変わるのかもしれません。

ここからは午後、夕方の風景の写真。

山間の大雪原。

雪原を見下ろすマツの木。

日中も最高気温がマイナス10℃以下という真冬日(真夏日の上の猛暑日にあたる冬の語彙はないのだろうか? 厳寒日?)でしたが、朝に見れたクリスタルのような樹叢は魔法のようにかき消えていました。

2020年のまとめ

■世界情勢について
ついに激動の2020年も今日で最終日ですね。わたし個人の生活は、頻繁に森に出かけたことを除けばほとんど変わっていないし、いまだにコロナ感染者0人の秘境に住んでいるので、あくまで当事者ではなく傍観者として、世界の大混乱を見守ってきたような感じです。

だからなのか、目まぐるしい一年という感覚はまったくなく、時間の経つのが遅い、もどかしい一年でした。

はじめの頃は、世界がきっとこんなふうに変化していくんじゃないか、と予想していましたが、何一つ当たらず、膠着状態が思っていたよりはるかに長引いている印象です。

未来は予測できないものだと知っていながら、浅はかな予想をしたものだ、と思いますが、それを差し引いても、じれったいくらい長いですね。もともと人類や政府に期待したことはありませんが、まさか危機的状況でここまで分裂したり、国連が何の舵取りもできなかったりするとは思ってもみませんでした。

昨今の気候危機やこの感染症も人類の将来にとっては大きな不安要素ですが、人間の質や倫理観の堕落のほうが、それらよりもはるかに終末的であると感じます。たとえ科学が進歩しても、個々の人間や社会は何も進歩せず、むしろ人類全体として非合理的な道を選ぶ、というのが証明されてしまったのですから。

来年はいったいどんな年になるのでしょうね。スペイン風邪のときは足かけ3年くらい猛威をふるいましたが、今回はワクチンが奏効すれば、来年中には終息するのでしょうか。貧しい国はどうするのか。いよいよ国連が動くのか。平和な時期が来るのか、終わりの始まりなのか。先の展開は予測できません。

じれったく思わなくても、いずれなるようになるのだから、気にしないのが一番かもしれません。ニュースをほとんど見なくなってから、気を揉むことがなくなりました。自分のやりたいことに意識を向けて楽しく暮らしていれば、いつの間にか事態は進展しているでしょう。

■自分の活動について
・自然観察
コロナ禍も後押しになり、今まで以上に自然観察、山菜採り、キノコ狩りなどたくさん取り組むことができた。名前を覚える、大まかに見分ける、ということだけであれば、かなり進歩できたと思う。

しかし独学なので、その一歩先に進むことが難しく感じ、後述するように、再び読書を始めよう、という動機づけを得ることになった。

・読書
かつては自分の体調の謎を解くために読書する必要があったが、もうその必要がなくなったので、意欲もなくなってしまっていた。

しかし、自然観察をするにも、リアルの経験だけでなく読書が不可欠だと思うようになったので、博物学的な興味のもとに読書を再開することにした。読書と同時にメモを取るという新たなスタイルで継続できそうな手応えがあった。

しかし、今は「海辺」で一ヶ月程度、苦闘中。やはり体力はないので、忙しくて疲れた日などは積極的に読書する気になれず、一週間に一度くらいのペースで継続することになりそう。

・絵
何のやる気も出ない。

作品を作ることで味わえる満足感が、生活に必要でなくなってしまった。今までは空想世界を維持するために必要だったけれど、もう現実に生きるようになったから描く意義がない。

描くことには友だちにプレゼントするという副次的な目的もあったが、すでに描いた何百もの絵の使いまわしで十分だと思えてしまった。

いずれ朽ちてしまう作品にエネルギーをかけるより、これからもずっと役立つリアルな経験に投資するほうがいいと感じるようになった。しかし、もしかすると読書と同じく、いつかやる気が戻ってくるかも。

・総括
もともとわたしの病気はドーパミン系の問題で、内発的に意欲を出したり、行動を開始したりが難しいのですが、今年もそれが顕著でした。

無活動状態だったころは低空で安定していたのに、ここ数年はムラや波が激しい。次に何に夢中になるかはコントロールできない。でも、そのとき夢中になっていることであれば毎日継続できる。今はこの自然観察日記でしょうかね。

だから、本があまり読めないとか、絵を描けなくなったとかは気にしないことにします。本当に自分に必要なことだったら、回り回って、いつかまた再開したいと思える日が来るから。最後の日が来るまで、その時その時の今を生きる以上に充実した生活はないと思うのです。

12月の終わり。2021年1月はこちら。

2021年1月の道北暮らし自然観察日記
2021年1月の自然観察を中心とした記録

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投稿日2020.12.02