2020年11月の道北暮らし自然観察日記

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2020年10月の道北暮らし自然観察日記
2020年10月の自然観察を中心とした日記帳

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もくじ

2020/11/01日

地元で採れたもち米で自家製大福餅を作った

友だちの農家さんが、名寄で穫れた餅米をもらったというので、みんなで大福餅を作ることにしました。コロナ禍なので、屋外&フェイスガード装備です。

餅米をうるかして

せいろにかけます。今の時代は、せいろもIHなのか…。

そして、この前の味噌作りにも活躍した豆すり機(ミンサー)にかける。ミンサーが細かくつぶして餅状にしてくれるので、杵臼で餅つきは必要ありません。

でも過程が楽しいから物足りないことはない。ヨモギ餅も作りましたが、その場合はヨモギごとミンサーにかければきれいに混ざりました。

できあがったもちを平たくして、もち包丁で切るなりして、大福の分ずつ小さくちぎります。そして各自持ち寄った豆、こしあん、チーズ、などを包みます。これがまた楽しい。

チーズは溶けてしまうので、最初に包んで練り込み、さらにもう一度こしあんや豆を包むことができる。豆大福を作る場合は、餅の中心を薄く伸ばして、あえて表面に豆の形が浮き出るようにすると見栄えがいい、といった小技が光る。

こうして大量の大福餅を作ることができました。一日限定、和菓子屋さんの職場体験みたいで面白かったです。自分のところで作った餅米ではないにせよ、現地で作った材料から食品を作り上げるという、現代社会では稀有な体験ができました。本当はこれが当たり前のはずなのだけど。

道中で見かけたキタキツネ。もう冬毛になってフワフワでした。

夢中で写真を撮っていたら、手袋を片方落としてきてしまいましたが、後で見に行ったら回収できました。

道北に引っ越してきてから、相変わらずのADHDで、財布、手袋、メガネのレンズなど、あれこれ落とし物をしていますが、9割方発見できているのがすごいところ。わたしの場所記憶が良いこともあるでしょうが、それ以上に、めったに車も通らず、人通りもない地域ならではです。

2020/11/02月

とても体調の悪い日

連日遊び歩いているツケが回ってきたのか、少し体調不良。大雨だったし、ほとんど家でゆっくりしていました。

家のシャッターの前に、先日、名寄の市街地で見つけた謎の葉っぱを発見。こんな身近にもあったなんて! 改めて調べてみたら、シラカバの苗木のようです。

名寄市街のはGoogle Lensではポプラではないかと出ましたが、これほど身近にある以上、自生種のシラカバのほうが可能性が高い。葉っぱの形は両者ともに三角形でよく似ていますが、羽状脈が目立っているのでシラカバで合っているでしょう。

昨日お邪魔した農家の友だちは、大雨の中、自家製の籾殻薫炭をいぶしていたそうです。畑の土壌の酸性化を和らげる、アルカリ性の土壌改良材になります。

調べてみたら、燃やしすぎると灰になってしまうので、適度に水をまく必要があるらしく、火が消えないなら多少、雨が降っているくらいがいいのかな。都会に住んでいたら、一生知らないような知識です。

2020/11/03火

公園で野鳥や冬芽の観察

昨日ぐっすり寝たおかげで、朝8時に起きました。まだ睡眠の質があまりよくありませんが、今まで枕なしで寝ていたのを枕ありに変えてみたり、試行錯誤中。

朝から、リスがいるかもしれないと思い、近くの公園のヨーロッパトウヒの林に出かけてみました。すると、真新しい松ぼっくりのエビフライが点々と落ちていたので、確かにいることはいるらしい。姿は見えなかったけれど。

ヨーロッパトウヒの根もとに生えていたキノコ。いかにもなんとかシメジって生がついてそうな形と色。でも、図鑑をパラパラめくっただけではわからず。改めて後日調べてみるつもり。(後日改めて調べたがシモフリシメジかも?)

エゾヤマザクラは、葉がすっかり落ちて冬芽だけの姿に。去年なんども見た懐かしい姿。わたしの樹木の観察の知識は、冬にスノーシューで歩いて冬芽を見るところから始まったので原点に帰ってきた感じ。

こちらは、エゾノウワミズザクラの冬芽。去年はまったくわからなかったけれど、今は花の時期に観察したから、どれがエゾノウワミズザクラかわかる。ということで、冬芽と半円形の葉痕を初めて同定できました。あまり図鑑の写真は参考にならなかったことに気づく(笑)。

ケヤマハンノキはまだ葉っぱがちらほらと残っている。今年の雌花の実もまだ残っているのに、来年の雄花がすでに準備を整えている。

イタヤカエデ?の実。下から見ると、ちぢれた枯れ葉がたくさんついているようにも見えるのだけど、望遠レンズで拡大してみたら、すさまじい数の実が密集していました。子沢山。

シナノキの実。素朴な色合いのチョコボールみたいな丸い実が美味しそうに見えてしまう。

まだ飛んでいた赤とんぼ。後で赤とんぼ見分けのサイトで種類を調べてみなければ。

カメラを近づけてもこれといって逃げる素振りはなく、動物と虫は違うんだな、と改めて感じる。

動物は喜びや慈しみ、死への恐怖などの情動が見られますが、虫には情動がない。感情をもつ生物と違って、より機械に近い作りなのだろう。

でも、だからこそ見ている側の人間としては感動するところもある。エゾノウワミズザクラの冬芽を撮っているときに枝の上を歩いていた、冬芽よりも小さな羽虫。こんなに小さいのに、触覚を可愛らしく動かしながら、這って歩いていた。

この極小の虫の精密な動きを見たとき、ミクロの世界の複雑さに引き込まれた気がした。この世界はなんと巧妙に作り込まれているのだろう。人間の見えないところで、これほど小さな虫や、ナノマシンである細菌たちがそれぞれの役割を果たしているからこそ、世界の循環や秩序が保たれているのだ。

公園には鳥も飛び回っていました。写真に撮るのは難しいけれど、少しは姿をとらえることができました。

ヒバ林から出てきて、わたしのすぐそばを旋回して、マツのてっぺんにとまったミヤマカケス。

葉っぱが落ちた木の枝の上で、かまびすしく鳴き声をあげ、ヤドリギの実をついばんでいたと思しきヒヨドリの群れ。

どちらもごく普通に見られる鳥ですが、はっきり姿を写真に撮れると嬉しいものです。肉眼ではっきり種類を見分けるのは難しいだけに、望遠レンズがあると、発見が広がります。

もっといい野鳥撮影用のカメラを買うべきか…、とはずっと悩んでいることですが、なまじスマホでも、それなりに撮れてしまうし、高価すぎる買い物に思えるし、ふんきりがつきません。

イチイの実を食べる&河川敷でアキグミの実を発見

公園に行く途中の道ばたに植えられていたイチイの実。ごく普通の街路樹ですが、赤い実が豊かに実っていました。

そうだ、一度イチイの実を食べてみたかったのだ、と思い出し、一粒味見する。もちろん毒のある種は食べないよう注意。街路樹だけど、これだけなっているなら構わないでしょう。

少しねばねばしていましたが、味は甘くてなかなか美味。一度は体験しておくのは大事ですね。野生のものは鳥の体に触れたりしている可能性もあるので、洗わずに食べるのはよくない気がするので、次食べるとしたら持って帰ろう。

その後、通りかかった河川敷。夏場は背の高い草木に覆われて、とても入っていけないような場所に、見慣れない赤い実が枝いっぱいに実った低木が多数生えていることに気づきます。

記憶をたどっても、このような実をつける木に覚えはありません。葉っぱはツツジのような形で小型。しかし、枝にところどころにトゲがある。

冬芽もまた見慣れない形。

赤い実は球形で、白いつぶつぶ模様があります。

いったいこれは何だろう? と帰ってGoogle Lensで調べてみたら、アキグミだとわかりました。一般的によく知られているナツグミは、夏に楕円形の実がなる低木なのに対し、アキグミは秋に球形の実がなる低木。どちらも食用になるとのこと。

ナツグミにしてもアキグミにしても、もともと道北には自生していませんが、ナツグミは公園樹として、アキグミは砂防用として河川のふちに植えられることがあるらしい。このアキグミもそれでしょう。

明らかに誰も気にしないような河川敷のやぶの中に生えているし、公園樹ではなく砂防用だし、大量の実がついているので、別に採っても問題なさそう、ということで、試しに収穫してみました。

生で食べると味は甘いですが、多量のタンニンを含むということで、渋みがありました。ホワイトリカーで渋抜きして、ジャムや果実酒にできるようなので、試してみようかと思います。果たして食べれるレベルのものになるのかどうか。

今年もイケマの実の綿毛を飛ばす

帰りに、去年、イケマの実がたくさんなっていた畦道へ。今年も枯れたイタドリの茎に、たくさんイケマのつるが巻き付いて、もう実が割れて綿毛が飛んでいました。イタドリの茎にふわふわの白い毛が引っかかって、雪のかけらのようにキラキラしています。

まだ種が内部に残っている実もたくさんあったので、手で取り出して飛ばしてみました。種は工業製品のように丁寧に折りたたまれて殻の中につまっています。かなり大きな綿毛がついていて、飛んでいく様子も見事です。

オオウバユリの種も飛ばしてみようかと探してみましたが、遠くのやぶの中には見つけられたものの、気軽に手の届く場所には見つかりませんでした。森に行けば、たくさん生えているのでしょうけれど。

もう植物たちは今年の活動を終え、すっかり冬支度。明日は全道が雪予報。いよいよ白銀の季節が目の前まで迫っている気配がします。

2020/11/04水

また少し雪が降った。アメリカ大統領選の雑感。

雪予報でしたが、それほど降らず。降っては溶けるを繰り返して、根雪になりそうな気配はありません。「北海道で大雪」=「道北で大雪」ではないし、「北海道でコロナ拡大」=「道北で拡大」でもない。北海道は広すぎて、道北は遠い。

アメリカの大統領選挙は、トランプがすんなり勝つのかと思ったら、例の郵便投票の追い上げがあったので、泥沼化しそうな雰囲気ですね。わたし自身は、どちらも応援していませんが、どちらが勝つにしても、アメリカ国内は大混乱して、その余波が世界にも及びそうです。

アメリカの社会は明らかに分裂していますが、アメリカだけでなく、日本含む世界各国でも同じです。SNSが一般的になってから、社会の分断が加速しました。(SNSは多様性ではなく二極分化を加速させているという話は以前に書いた)

極端な主義主張がぶつかりあって、白か黒か、どちらかを選ぶように迫る圧力が激化しています。どちらも自分の側に正義があると信じて譲りません。

この時代に、どちらにも肩入れしない、という選択肢を選ぶのは簡単ではありません。でも、どちらが正しいという波に呑まれてしまえば、バランスのとれた判断を保つことはできなくなります。

結局のところ、どんな指導者であっても、現代社会の問題を解決することはでききません。期待を置くなら、失望することになります。歴史家の認識と違って、一人の権力者が歴史を左右するということはありません。

ロシアの作家トルストイが「戦争と平和」でつむいだ歴史観を思い出します。彼は、歴史は皇帝ではなく民衆によって作られると考えました。どれほど大きな海の波でも、微分すれば小さな水のうねりから作られているように。

いつの時代も、力を持っているのは、たった一人の人間ではなく、民衆という複合的な大波なのだから。もし民衆という波が破滅へ突き進んでいるのであれば、どんな指導者が選ばれようと、行き着く先は荒廃です。誰もそれをとめることはできない。

人々は世界の混乱を、指導者のせいにしようとするかもしれない。でも、指導者個人にそんな力はありません。世界が混乱しているのは、人間一人ひとりが総じて狂い始めているからにほかならない。

今世紀の倫理観や価値観は、過去何十世紀とは比べ物にならないくらい逸脱しています。現代の社会環境によって、人間の生物としての身体機能は支障をきたしています。思考は体から生まれるのだから、身体機能が狂えば思考も歪んできます。

一人の人間の逸脱はわずかでも、集団になれば社会を動かすうねりになります。そうして作り出された異常な大波のてっぺんに、たまたま奇異な指導者が乗っていて目立つだけにすぎない。指導者が分断を煽っているのではなく、まず人々の内部で分裂が進み、指導者はその旗印として選ばれたにすぎない。

この逸脱や分裂が、どこまで進行するのかどうかは今は誰にもわかりません。確かなことがあるとすれば、食い止めようと努力しても無駄だということだけ。一人の人間が津波を止めることはできないように、現代社会の何十億人ものうねりから作られた大波も、今更変えることなどできません。

このような考え方は厭世的すぎるでしょうか? しかし、わたしには、誰か個人が努力したところで、社会を変えられるなどと思えません。人は自分自身をさえ変えることができないのに、どうして他人を、さらには社会を変革できるというのか。

一人の人間がどれほど大義を叫んだとしても、世界が動くことはない。たまたま世界が動いているときに、その旗印として担ぎ出された人がいた場合、あたかもその人物が歴史を変えているかのような「錯覚」が起きているにすぎない。実際には世界を変えるのは、予測できない不規則な動きをみせる人間社会の波なのです。

(たとえば、トランプ大統領やグレタさんが、世界的な影響力を持つように見えるのはどうしてか。たまたま時代の波がこの人たちを求めていて、たまたま都合のいい場所にいたから重用されているにすぎない。もし違う時代、違う社会にいれば、どれだけ主張しても見向きもされなかったかもしれない)

一人の人間にできるのは、社会を変えようだのと大それた願いを抱くことではなく、身の丈にあった方法で、今この時代に価値ある人生を送るにはどうすればいいか、身近なところで満足を見いだすことだけです。

2020/11/05木

山はすっかり冬景色

平野部では雪は溶けましたが、山間部は積もったままでした。峠道は除雪こそされていましたが、両脇に雪が溶け残っていて根雪になりそうです。

道路脇の森も、雪でササが覆われていました。まだてっぺんが見えていますが、じきに見えなくなって白一色になるでしょう。この前まで紅葉していた木々は、すでに葉を落として丸裸です。

道中に通りかかった湖。まだ青々と揺れる水をたたえていますが、山々は雪で覆われていて、いかにも寒そうな景色です。実感としては、この時期が一番寒い。写真を撮っていたら木枯らしが寒くてすぐ車内に戻りました。

道には、ナナカマドの赤い実や、ホオノキのトゲトゲした実が点々と落ちていました。ホオノキの実は、落ちてすぐのものだったら拾って帰ってお茶にしようかとも思いましたが、もう腐り始めていたので断念。

その近くで見かけたハリギリの冬芽。こちらも大きなカエデのような葉をすっかりすべて落としてしまって、口紅のような形の赤紫色の冬芽だけが目立っていました。

少し冷えてしまったのか、帰宅後は、頭痛がひどくなり、暖かくして寝ました。幸い、朝になると治っていましたが、しばらくは体調管理の難しい季節の変わり目に悩まされそうです。

2020/11/06金

世の中には喧騒、森の中には静寂

ここしばらく体調があまり良くなく、昨日は特に頭痛がひどくなって、かなり気落ちしていました。しかし、今日は、少し無理をおして森へ出かけてみたら、やっぱり元気になれました。帰ってきたらまた微妙ですが、森の中にいる時間はとても元気だった。

一週間ほど出向かなかった間に、森はすっかり景色が変わり、広葉樹はほぼ全て葉を落とし、地面は山吹色の落ち葉の絨毯で覆われていました。

わずかに葉が残っている木のひとつに、ケヤマハンノキがあります。夏季は見分けにくい木ですが、今の時期には、丸みを帯びた特徴的な形の葉がまばらに残る上に、雌花が変化した実と、来春に向けた雄花がよく目立つので、すぐそれと見分けられます。

ふと立ち止まって、頭上をまっすぐに見上げると、周囲の大木が、風に吹かれてざわざわと揺らめいていました。

まるで巨人の賢者たちが、わたしを見下ろして、あれこれと協議しているかのよう。その瞬間、自分はこの世界では本当にちっぽけな小人のようなものだ、と実感しました。

何の変哲もない、ごく普通の光景なのだけど、とても心揺さぶられたので、動画を貼り付けておきます。動画で見ると、やはり普通の景色にすぎませんが、木の枝のフラクタルと、風のゆらぎが相まって、吸い込まれるような心地よさがありました。しんどくなった時は、森の中で天を仰げばいいんだ。

大自然の中を歩くようになってから不思議に思うことがあります。それは、どうして、かつてのわたしは、あれほど自分に注意が向いていたのだろう、どうして自分のことばかり考えて生きていたのだろう、ということです。

わたしだけでなく、都会に住んでいる現代人の大半がそうです。現代人は「ミーイズム」と呼ばれるように、非常に自己中心的な傾向があります。各国の自己愛性パーソナリティ障害を思わせる指導者などは、その極致と思えます。

わたしが関わってきた、発達障害やHSPや、他の様々な病気に関する概念や、それを広めようとする運動も、突き詰めれば自己中心主義の影響を色濃く受けていると感じるようになりました。

人々は、いかに自分が他者と異なっている存在かを主張せずにはいられないようです。どれほど自分が人と違っているか、そのせいでこれまでどんなに苦労してきたか、認めてほしい、わかってほしい、理解してほしい。

マイノリティの権利を主張する活動は、一見すると、社会に多様な価値観を浸透させる良い動きにも思えます。少なくとも以前のわたしはそう思っていました。でも、結局それは、自分の権利を主張して、相手にわかってもらいたいという自己中心主義から来ています。わたしもかつて、いかに自分が慢性疲労症候群になって苦しんでいるか、発達性トラウマ障害という難しい問題と闘っているか。身近な人にもわかってほしいと思って何度も説明しようとしました。

その都度、友人は、辛抱強く聞いてくれたと記憶しています。今でもそのことを感謝しています。でも今では、かつての自分のその行いをとても恥ずかしく思っています。

わたしは自分のことばかりに目を向け、ひたすら自分のことをわかってほしいと主張していました。自分のことで頭がいっぱいでした。自分の問題は、相手にも、世間にも、知ってもらわねばならない大きな問題だと思いこんでいました。

大自然の中に引っ越してきてから、そんな自分がすべて馬鹿らしくなりました。わたしが大きな問題だと思っていた自分自身のことは、すべてちっぽけなことでした。

わたしが何者であろうと、そんなことはどうでもいいことです。発達障害であろうが、慢性疲労症候群であろうが、HSPであろうが、発達性トラウマ障害であろうが。わたしはわたしであり、別に何かのレッテルを貼ったり、細かく定義したりする必要はありません。

自分にばかり目を向け、自分がどんな特性を持つ人間かということにこだわり、自分の権利ばかり主張する、現代社会の強迫観念から解放されたような気持ちです。別にどうでもいい権利、どうでもいい概念にこだわって、今まで自己主張を繰り返していたのです。

どうして、現代社会に住んでいると、あれほどまでに、自己中心的になって、自己が肥大化してしまうのでしょう? どうして、承認欲求が高まって、「わたしを見て!」「わたしのことを知って!」と叫び続けてしまうのでしょう?

現代社会の何が、人をそう駆り立て、際限なきミーイズムに由来する、権利の主張へと追い立てていくのでしょう?

皆に同じ働きを求める学校や社会のせい? でもミーイズムは日本だけでなく世界的な問題です。わたしには何が原因なのか、よくわかりません。

ただ一つ言えるのは、森の長老のような大樹から見下ろされていると、そんなことはどうだってよくなるほど、ちっぽけな悩みにすぎなかった、ということだけです。

人は、自分よりはるかに大きな存在の前に立たされなければ、自分の小ささを自覚できないのかもしれません。

現代社会には、人より大きな何か、あるいは誰かがどこにも存在しないのです。自分を見下ろす木々も、広大な大空も、星々の瞬きすらも見えない世界では、人はどこまでも思い上がって、神の座につこうとさえするのかもしれません。

森の中で冬芽を観察。オオバボダイジュ、キハダ、ヤチダモ等

森の入り口で見つけた大木の冬芽。大樹ながら、ひこばえのようにして若枝が出ていたので、地上からでも冬芽を確認できました。

芽鱗2枚が組み合わさったシンプルな形。毛がなければシナノキかイヌエンジュか、といったところですが、毛深いのでオオバボダイジュですね。力強いがっしりした木です。

次の写真は、倒木から生えていた若木。倒木がいわゆる乳母の木になる倒木更新という現象の最中です。

この若木の冬芽を見てみたら、

見覚えのある馬のひづめのような形の冬芽。キハダの若木です。

この森ではこれまでキハダの木を確認していませんでしたが、ここにも若木があるということは、自然林であれば、キハダのは幅広く分布しているものだ、ということなのでしょう。

周囲を見回しても、相変わらず親木は見つかりませんでしたが、あまりに背が高くてキハダの特徴を視認できないか、もしくは鳥が種を近場から運んできたかのどちらかです。キハダが思っているよりたくさん存在しているのは確かなようです。

こちらはおなじみヤチダモの冬芽。ヤチダモは芽の部分だけで見分けがつくので、今まであまりじっくり観察していませんでしたが、よく見ると葉痕の形も面白いですね。図鑑で見たことのあるクサギの葉痕にそっくり。

改めて調べてみると、ヤチダモの葉痕は個体差が大きく、この写真のような形をしているのはまれです。なぜか今回見たものに限っては驚くほどクサギに似ています。科も見た目も全然違う木なのに。

クサギは個性的な木なので、一度見たいと思ってはいますが、北海道での分布は中部までで、道北には存在しないようです。

その後、今まで行ったことのない道が、草木が枯れて入れるようになっていたのでクマに気をつけながら探索してみました。長年だれも足を踏み入れていないようで、少々危険な香りがします。

途中で、ヤチダモの若木に混じって、なぜかもう芽を出してしまっている低木を発見。対生の芽の形からするとアジサイの仲間? このあたりだとノリウツギくらいしか思いつかないが…?

赤紫色の冬芽がめくれて、中の新芽がむき出しになってしまっています。なぜ春が来たと勘違いしてしまったのだろうか? 今年の秋の気温は植物でも勘違いするほど暖かかったということ?

すべての冬芽が芽吹いてしまっているので、もともとの冬芽がどんな形や色だったのかは確認できませんでした。

維管束痕が3つで顔のようになっているこの葉痕もアジサイの仲間らしい形。

わずかに残っていた散り際の葉っぱ。丸みを帯びた楕円形で、ふちがギザギザしていて、やはりアジサイに似ています。ノリウツギとは違う気もしますが、こんな場所にエゾアジサイやミヤマガマズミがあるだろうか? 来年確かめたいけれど、花の時期には草が生い茂っていて入れないから無理でしょう。

コタニワタリのソーラス。ニンテンドーラボでダンボールを組み立てるときに貼るスポンジ状の細長いシールを思わせるような不思議なソーラス。とても整然と並んでいます。

マムシグサの死体。植物なのだけど、この見た目は死体。なんてグロテスクなんだろう。

先日、チョウセンゴミシの実をたくさん採らせてもらった群生地を通りかかったら、なんとこれまで葉っぱに隠れて見えなかった場所に、大量の実がついたツルがあるのを見つけました。こんなに近くにあったのに見えなかったのか。

もう十分に採ったので、これ以上採取するつもりはありませんでしたが、せっかくだから近くから写真を撮っておきたいと思って、やぶの中に入りました。

もう生い茂っている草はないから大丈夫と思っていましたが、足元には枝が堆積していて、天然の落とし穴のようになっているので不安定。しかも、エゾイチゴなど、トゲのあるツルが衣服に引っかかって行く手を阻む。

それでも、なんとかチョウセンゴミシの下までたどり着いて、不安定な枝と倒木の足場の上から撮った写真。今年見たチョウセンゴミシの中では、群を抜いて実が多くなっているツルです。

写真も撮ったし、やぶから出ようと思って、あたりを見回すと、恐ろしく鋭いトゲが突き出た木々がたくさん並んでいることに気づく。ハリギリの若木です。タラノキよりトゲの数は少ないものの、一本一本がはるかに鋭利です。

あっちにも、こっちにも杖状のハリギリが、地面から突き出しています。無策で通り抜けるべきではない、と感じたので、まず立ち止まってよく観察。ハリギリが少ないか、確実に避けることができるルートを見定めます。

ここなら行ける! と思っても、歩いている途中で枝やツルに足を取られてバランスを崩してしまったら、勢い余ってハリギリの枝をつかんでしまうかもしれません。そうなったら大惨事。慎重に少しずつ前進します。

やっとのことで、やぶの中から脱出に成功。ササやシダのやぶはよく歩きますが、こんなにハリギリが林立しているところは初めて。ほんの数メートルの距離を歩くだけなのに、大冒険した気分になりました。

今日のキノコ。ニオイアシナガタケ? シモフリシメジ? ツバフウセンタケ?等

キノコが少なくなった今の時期でもちらほらと見かける、一本だけすくっと伸びているキノコ。柄が長いからアシナガタケ?

しかし以前見たアシナガタケと違い、柄に線がないので、ニオイアシナガタケか? 色が違う気もするけれど、ネット情報だと似ている画像もある。クヌギタケ科の何かだとは思う。

先日見つけた天然エノキタケっぽいキノコの老菌。しばらく見ない間に数が増えていました。傘は波打たずどら焼きのような形。柄は黒い。柄の下だけでなく上のほうまで黒いのが図鑑と違っているが、そういう写真もネット上にはある。

まだ生えていたホコリタケ。しかも触ってみたら弾力性があって幼菌だったので、食べることができる状態。でも、一足飛びに食べてみるのははばかられたので、今回は失礼して内部の状態だけ見せてもらうことに。

まだ幼菌のキノコを割ってしまうのは少々申し訳ないのだけど、たくさんボコボコと生えているから構わないでしょう。内部は少し粉っぽい白い肉で、市販のキノコのような雰囲気です。これなら食べれる…のか? 来年は頑張ろう(笑)

先日見つけたヨーロッパトウヒ林のなんとかシメジっぽいキノコ。

色が近く感じるのはネズミシメジだが、中心が盛り上がっていない。前回の写真を見ると、少したけ盛り上がっているようにも見えるけれど。それにネズミシメジはトドマツ、エゾマツ、ミズナラ林らしいので、少し環境が違う。

ネズミシメジとよく似ているが、中心が盛り上がらないとされるシモフリシメジは、主にトドマツ、ヨーロッパトウヒ林に生えるということなので、こちらの可能性が高いか? 霜が降る時期に生えるという特徴も一致している。

近くにあった、大きめのフウセンタケ科っぽいキノコの残骸。柄の朱色の環の模様があるので、ツバフウセンタケか?

2020/11/07土

冬鳥のツグミが来ていました

公園で見かけたツグミ。遠くから見た限りでは、たぶんムクドリだろう、と思って望遠レンズで撮影したらツグミでした。白い眉が凛々しい。

いつものヒヨドリもいました。鳴き声でわかるようになってきたかも。

まだ実っていたハマナスの実。

ニシキギの実。双子の実もちらほら。

確かここにあったのはカエデだった気がする、という先入観で調べた木の冬芽。色と形から、ああ、やっぱりイタヤカエデか、と即断しかけましたが…

イタヤカエデにしては、はっきり犬の足のような形をしていないし、何よりもこの半円形の葉痕が明らかに違う。これは多分マユミでは? と去年学んだ記憶を掘り返す。

周囲を見回してみると、隣にわずかながらピンク色の実が残っている木があって、マユミだと断定できました。去年、イタヤカエデの冬芽をマユミと勘違いする逆バージョンの間違いから学んだ教訓が役立ちました。

2020/11/08

雪の前の森歩き

明日から雪が降り積もるとの予報。すがすがしい晴れ間が広がる今日は、秋の森の歩き収めにぴったりです。理由はわからないのですが、いささか気分が沈んで孤独な気持ちに苛まれていたので、気分転換に何時間も歩きました。

今日の森の中は無風で、薄ら怖くなるほど静か。

何かが草むらで身を潜めてこちらをうかがっているような、あるいはまったく誰もいなくて、森の中を一人ぼっちで歩いているような。木々も草もキノコも虫もみんな生きているはずなのだけど、生気が感じられないほど静寂に包まれていました。

森の入り口の地面を這っていたゲンノショウコの紅葉。もう実もすっかり弾けてしまい、1年のライフサイクルの有終の美を飾っているかのようです。

ツルニンジンの実。先日、友人相手に森をガイドしたときに、ぜひ見せてあげたいと思って探したのに見つかりませんでした。今日改めてツルを頼りにゆっくり探してみたら、もうすっかりしなびていてしわくちゃに。見つからないはずです。

謎の手のひら状の葉。茎に小さな葉がついていることから、オニシモツケの葉かな。オニシモツケにしては小さすぎる葉(背後に写っている手と比較)ですが、きっとまだ花をつけない若い株なのでしょう。

タラノキの冬芽。春に山菜で芽をいただきましたが、食べたのは一番芽だけなので、まったく問題なく成長してくれました。

ハリギリの冬芽。トゲトゲしい。こちらも春に山菜で食べた木かも。

ニワトコの冬芽。これも春に(ry

サルナシとマタタビの冬芽。葉痕は同じですが芽が違う。でっぱりが見えてるほう(半隠芽)がサルナシで、芽が完全に覆われていて膨らみしか見えていないほう(隠芽)がマタタビです。

森の中に足元にぐちゃっと落ちていたもの。かなり大きかったので、もしかするとヒグマのフンか?と思って、帰宅後、あまり気が進まないけれど、画像検索してみたら、多分合っているみたい。緑っぽいのはコクワの実でも食べているからか?

それよりも、普段気ままに歩いていた家の近所の森にヒグマのフンがあったのが衝撃的。もちろん熊鈴をジャラジャラぶら下げて注意深く歩いてはいたけれど、さすがにこのあたりにヒグマは来ていないのではないか、と思うようになっていました。

でも、家のすぐ近所でも目撃証言は多いし、間違いなくこの山にもいるんだな、と気が引き締まりました。たまに見る坂道のコケが体重でえぐれたような大きな足跡もやはりヒグマだったのかもしれない。

道北の森なんて、やはり家のすぐ裏でさえ、どこにヒグマがいても不思議ではないものなんですね。しっかり音を鳴らす、雨が強い日や夕暮れ以降は森に入らない、といった対策を守るのは大切です。

それから、カラマツ林を歩いていると、高い場所の枝の上に、黒っぽい生き物が見えました。そこそこ体が大きめだったので、もしかしてクマゲラか?と思って注視したら、枝の上を走り回り出したのでリスだ!とわかりました。

すぐ近くでヒグマのフンを見つけたところだったので、立ち止まって熊鈴を鳴らすのをやめて、スマホを構えても大丈夫だろうか…?と心配になりましたが、この機会を逃すわけにもいかないので、じっとカメラを向けました。

このカラマツ林の…

地上20mはあるか、と思われる高所の枝を、リスが駆け回っていました。スマホに20倍望遠レンズをつけてやっと、エゾリスだとわかりました。

目もくらむような高さの枝を勢いよく駆け回り、恐れもなく隣の木の枝へ身軽にジャンプする様子は、まるでサーカスの曲芸師のよう。

ファンタジーなRPGで、たまに巨大な樹木の枝の上にある村が出てきますが、そんな場所で暮らす住人の姿がありありと目に浮かぶようでもありました。

2分間の動画も撮りましたが、手ブレがひどくて、ここに掲載するほどでもなかったので、静止画だけ。高所の野鳥、哺乳類、冬芽、葉っぱ、実などを観察するために性能のいいカメラを買うべきかどうか…。悩みます。

今日のキノコ。サカズキキクラゲ、ハナビラダクリオキン等

木の枝にくっついていた黒い茶碗型のキノコ。下から見ると、太陽の光が透けて、コーヒー色に染まります。

なんとかチャワンタケという名前かな、と思って調べていたら、おそらくサカズキキクラゲ。本家キクラゲは中華料理などに使われますが、このサカズキキクラゲも食べることができるようです。試すのは確実に同定できるレベルになってからだけど。

ハナビラダクリオキン。

シロススホコリ?

いつものノボリリュウタケ

ニオイアシナガタケ?

今日のシダやコケ。ツルチョウチンゴケ? ヒメレンゲゴケ?等

最近よく見かけるシダ。全体の形は最下部の羽片が一番大きい三角形。最下部の左右の小羽片が長いのも目立ちます。リョウメンシダに似ていますが、はるかに小さい。

手の大きさとの比較。10cmもないかもしれません。

茎の鱗片はわずか。

葉全体の形は、リョウメンシダの親戚のシノブカグマにも似ています。でもシノブカグマは茎に黒い毛が密生しているらしいから違う。それにシノブカグマにしてもここまで小さくはないはず。

最下部の左右の小羽片が長い点は、シラネワラビやホソバナライシダにも似ていますが、全体の形が五角形に見えないし、そもそも裂片の形が異なっています。現時点では、小型のリョウメンシダっぽいとしかいえない。

次のシダ。

裏側。ソーラスはなし。

茎は根もとのほうにだけ鱗片がたくさんついている。

葉全体の形は流線型で、ミヤマシケシダがかなり近いかもしれない。サイズが小さすぎるようにも思うけれど、全体の形や下のほうだけ毛や鱗片が見られるという特徴は合っている。でもあまり自信はない。

次は簡単。トラノオシダ。ソーラスがびっちりついている。すでに枯れているシダも多い晩秋なのに元気。

オウレンシダ?と思ったがソーラスは普通にトラノオシダだった。葉の間隔がかなり広くて、同じシダとは思えません。

湿地帯のコケのズーム。ツルチョウチンゴケ属の何か。遠目にはコケだけど、近くで接写すると、普通のツル植物の葉っぱのようにも見える。

ジャゴケ。いかにもヘビ革のようなものすごいウロコ模様。

ハナゴケの仲間。ヒメレンゲゴケか? 地衣類の細かい同定は難しい。インターネットしか情報源がないと、コピペ拡散のせいで誤りやすいので、せめて図鑑でも買わないと始まらない。

この前のツメゴケと同様、子器の先っぽが小豆色を帯びていて、地衣類にとっての花が咲いていることがわかる。

シダ、コケ、地衣類は本当に難しい。頑張って観察してきたけれど、全然進歩を実感できません。いまだ五里霧中。それぞれの生き物について親しい友人であるかのごとく語れるようになるのは、いったいいつになるのやら。

少なくとも、まずは種類を識別して名前を言えるようにならなければスタートラインにも立てませんが、今年はコツさえもつかめないままシーズンが終わりそうです。でも楽しいから、来年も継続はできそう。

2020/11/09月

今シーズン初めての積雪!

夜になって雪がまとまって降ってきました! 毎年はじめてしっかり雪が積もる日はテンションが上がりますね! 夜中なのに雪の中、公園まで出かけて写真を撮る不審者ムーブをかましてしまった(笑)

何枚か写真を撮ったけれど、町並みとか車が写ってしまっているものばかりだったので、この雪をかぶった何でもない木の写真だけ貼っておきます。

夜なのに、道路が非常に明るくて別世界でした。毎年のことなので、重々わかっているつもりでも、急に地面が真っ白になると、真夜中の明るさのギャップに驚きます。

雪のない時期は、満月の日であっても、森の近くは真っ暗すぎて野生動物が怖いので、夜道サイクリングでも最近は避けるようにしていました。でも圧雪で真っ白になると、真夜中でもかなり明るいから、全然問題ない。

まだ12月になるまでは積もったり溶けたりを繰り返しそうですが、そろそろ自転車をスパイクタイヤに換装したほうがいいかも。

明日の朝は、きっと銀世界でしょう。

2020/11/10火

雪の森を歩く

朝起きると予想どおりの銀世界…、というほどではなく、昨夜と違って道路のアスファルトは普通に露出しているし、芝生もところどころ見えていました。

それでも、今シーズン一番の積雪で、8ヶ月ぶりくらいに、しっかりした雪の感触を楽しむことができました。気温も0℃を下回っていて、呼吸がとても楽。冬らしい清々しい朝です。

まだカラマツの黄金色の葉っぱが落葉しきらず残っているので、雪の白銀とのコントラストが映えました。写真には映らないけれど、肉眼では、陽光を浴びて金銀にきらめていました。

公園のメギとツルウメモドキの実も、白い雪をかぶって、より鮮やかに見えました。去年も今ごろ、これらの実や紅葉とのコントラストの写真を撮ったことをよく覚えています。秋と冬の境目の時期だけの芸術です。

ひとしきり公園を歩きましたが、物足りなかったので、近くの森にまで出かけました。森も一面に雪をかぶっていましたが、その荒々しい迫力は公園とは桁違い。白と黒の有機的なモザイクが風にあおられて呼吸している。

雪が完全に積もりきって、白一色となった森も幻想的で美しいですが、今の時期の、まだササやマツの葉が見えているまだらな森も、白黒のコントラストが強烈で、立体感が増して感じられます。

一見すると、誰も寄せつけないかに思える冬の森。そこへ足を踏み入れることで掻き立てられる冒険心と好奇心。雪と泥に足を取られながらも、一歩一歩気をつけながら、森の奥へと歩いていく。木の枝から、パラパラと雪が舞い落ちる。

雪が積もった森の中には、早速、キツネやシカや、ほかの何かの動物と思われる足跡もありました。大きめの足跡は一瞬クマか?と思ったのですが、形からして人間のようにも見えました。わたしのような、冬の森を歩きたくてたまらない誰かが一足早く、ここを訪れたのかもしれません。

倒木とツルで作られたアーチの下をくぐると、白と黒の世界に鮮やかな色彩を見つけます。

ツルアジサイのドライフラワー。橙色の萼片が、光を透かして立体的に浮かび上がっています。

足元には、まだ緑色をたたえたウマノミツバの実の引っ付き虫。細かい雪の結晶をまとってキラキラしていました。

先日見つけた、よく実ったチョウセンゴミシも、まだたわわに実をぶら下げたまま、雪を浴びていました。前と同じく、トゲがびっしりついたエゾイチゴやハリギリに気をつけながら、やぶの中まで入って写真を撮りました。前に増して足場が不安定なので慎重に。

動物や鳥たちは、この実をまだ食べにこないのだろうか。ナナカマドみたいに、保存料のソルビン酸が含まれているわけではないと思うのだけど。

ゆっくり森を歩いて見て回っているうちに、吹雪がひどくなってきて、森の中まで吹き込んできました。全身を覆って暖かくしているとはいえ、冬の森で油断するのはよくありません、きびすを返して、帰路につく。

何度も冬の森を歩いているにもかかわらず、シーズンの始めに歩くたびに、その厳粛かつ雄大な雰囲気に圧倒されます。そして、この瞬間を味わえるなんて、わたしはなんて幸せなんだろうと喜びに満たされます。

春の新緑萌え出る森もいいし、夏の密林と化した森も(虫の猛攻を除けば)楽しい。秋の色とりどりのキノコの森も。でもやっぱり、わたしは冬の森が何よりも大好きです。

2020/11/11水

自転車を冬タイヤに換装

昨日に続き、雪の森を少し歩きました。街路の雪は溶けてきていますが、森の中はこのまま根雪になるかもしれません。

トドマツの枝を揺らすと、降り積もった雪がばさりと落ちて、枝が跳ね上がりました。一見軽そうでも、木の枝はしなやかに雪の重みを受け止めていることがわかりました。豪雪地帯の木々は重みを逃しやすい形状に適応しているとかありそう。

その後、自転車のタイヤをスパイクに換装。まだ少し気が早いかもしれませんが、寒くなってから外でタイヤの交換をするのは大変そうなので、このタイミングで換えてしまうことにしました。今年も冬道サイクリングが楽しみです。

2020/11/13金

越冬野菜を埋める。士別市でコロナ発生

そろそろ雪が積もりそうなので、冬季の保存食として越冬野菜を埋めました。雪国の知恵によれば、いろいろな野菜を雪の下で越冬させることができるそうですが、今回選んだのは白菜とキャベツです。

詳しい友人にやり方を教えてもらって、まずスコップで深い穴(簡易的な雪室)を掘りました。

大きさは縦がスコップの刃の大きさで2個半、横が1個半、深さが1個半くらい。小さな穴ですが、いくつも掘るのでそこそこ疲れる。

その穴に、収穫した白菜を入れる、高さはちょうど白菜がすっぽり入るくらい。すし詰めにすれば3個か4個は入れることができます。

すっぽりと入った白菜のてっぺんを紙などで覆って蓋をして、最後に上にキャベツを重しのようにして載せます。キャベツは寒さに強い品種なので、穴に埋めなくても大丈夫だそうです。

これであとは、雪が降るのを待つばかり。目印に棒を立ててあるので、雪が積もったあとに、それを頼りに掘り出して食べます。1月、2月など野菜が少ない時期でも十分に保つとのことでした。

そうやって教えてもらった後、いつもの田園地帯を通っていたら、あっちにもこっちにも畑に雪室が作られていることに気づきました。地元の人たちは、昔ながらの知恵を今でも活用しているんですね。

ほかにも、甜菜を掘り出して積んでいる農家や、籾殻薫炭をいぶしている農家も。初めて見たときは、何もしらないものだから、「?」でしかなかったけれど、いったい何をしているのかがわかってくると面白い。

都会で土にも触らない暮らしをしていると一生学べないような生活の知恵がいろいろあります。一つ一つ体験して覚えていくうちに、生きる力が身について、たくましくなっているような気がします。

【気になったニュース】

11月13日(金) 新型コロナウイルス感染情報 | 士別市

本日13日、士別市でコロナ感染者が確認されたと発表されました。これまで、稚内より下から士別以北にかけての道北の一帯では感染者がいませんでしたが、ついに士別が陥落し、じりじりと北上しています。

士別で感染者が出たということは、名寄病院に搬送されるということなので、名寄にも感染が広がったも同然です。もともと道北の大都市である名寄に出かけるのは極力控えていましたが、今後は、さらに慎重さが求められそうです。

2020/11/15日

樹木観察。ズミ、ツチマメの実。ツリバナ、ハンノキの冬芽

ここのところ雨ばかりだったのですが、やっと曇りの日が来たので、森に行くことができました。ときどき小雨は降っていましたが、この際、贅沢は言ってられません。

森の入り口付近を少し歩いて、いろいろな樹木を観察。まずズミ?と思われる木。エゾノコリンゴかもしれないけれど、細かい違いは葉がない時期にはわかりません。

先日、名寄市の町中に行ったとき、公園や街路樹のズミには、驚くほどたわわに実がなっていました。ズミってそういうものなのか、と思っていましたが、森の入り口で見つけたこのズミは実が数えるほどしか残っておらず、一見すると同じ樹木とは思えませんでした。

どうしてこんなに実の数が違うのだろう? 都市の町中の樹木は虫対策の消毒されていると聞いたので、鳥たちも実を食べたがらないのかもしれません。

人間は、赤い実が鈴なりについた木を見て、「きれいだ」と感じますが、鳥の目にはまったく違って映っているのかも。

人間は外見だけ取り繕った着色料添加物まみれの食品にころりとだまされますが、動物は何が本当に自然で健康的な食物なのか見分けているのかもしれないと感じました。

その近くに何本もあったケヤマハンノキの冬芽。タコの頭のような形と形容されます。葉の形、冬芽、花、実のすべてがよく目立つので、よほど背が高くて枝が見えない大きさでもなければ判別しやすい木のひとつ。

ツリバナの冬芽。先月やっと、ツリバナの実を見つけたので、念願だった冬芽の観察もすることができました。ドロノキやナナカマドを思わせる鋭いドリルのような形状ですが、ツリバナはさらに先端が鋭く、対生で左右2本ずつ連装されたドリルなのが特徴。

そのツリバナの枝には、ツチマメ(ヤブマメ)のつるが巻き付いていて、まだ実も残っていました。ここにツチマメがあるとは思っていなかったので意外。探せばけっこうあちこちにあるものなのかもしれない。

ツチマメといえば地中花に実る豆が食用になるので、一度食べてみたく思っていましたが、ここも掘り返すには適していなさそうに見えました。もっと大量のツチマメがイタドリなどに巻き付いている群生地があれば遠慮なく掘れるのだけど。

コケ観察のプロに教えてもらう

それから、別の森の入り口まで行くと、珍しく、別の誰かの車が、後からやってきました。なんと1年ぶり?くらいにお会いした地元の自然観察ガイドの方。

ここに引っ越してきてから、いろいろな人に自然を案内してもらいましたが、本当に知識があると感じたのはほんの一握り。この方はその中でも、とても好印象で、森の歩き方や観察の仕方の初歩を教わりました。

今年に入ってからは、コロナ禍でお会いするチャンスもありませんでしたが、まさかここで鉢合わせるとは。ありがたいことに、一緒に森に入って、面白い話をいろいろお聞きすることができました。

その方が言うには、ほかに定期的にこの森に入っている人は知らない、ということなので、こんなニッチな会話ができるのは、この地域では私達2人だけなのかもしれない…。

その方は、自然界全般に幅広い知見があり、特にコケや地衣類など、細々とした世界への造詣が深いので、一緒に歩いていて勉強になりました。わたしが普段あまり意識して見ていない世界の扉を開いてもらった。

まずこれが、シダ植物の前葉体というものらしい。写真に撮ると大きく見えますが、ルーペで拡大してこれです。実際のサイズは小指の爪ほどもありません。こんなの教えてもらわないと気づかない。

前葉体(または配偶体)というのは、シダ植物の生殖サイクルに特有のものです。シダは葉から胞子が飛んで地面に落ちると、まずこの前葉体を形成します。前葉体には造精器と造卵器があり、ここで受粉して、やっと次の世代が生まれます。

花で受精までこなしてしまう種子植物と違って、地面に飛んでから受精するという生殖サイクルだから、前葉体という段階が必要なんですね。

図鑑に書いてあったし、大昔に理科で習った気もするから、それとなく頭にありましたが、詳しく考えるのは後回しにしていました。こうして教えてもらえてよかった。

ほかに教えてもらったコケ。まず鳥の羽のような形をしたホウオウゴケ。特徴的な形だから、一度覚えたら見分けられるかも。

この近隣では珍しいらしい、フジノマンネングサ。茎の下のほうには葉がついておらず(コケなので葉や茎ではないのだがまだ用語を知らない)、さながら超ミニチュアの木のようにも見える美しいコケでした。少量採取して持って帰るらしいのを撮影させてもらいました。

こうして側面から見ると、とても珍しい形! と感じるのだけど、上から見ると、カモジゴケあたりの普通のコケと何が違うのかまったくわからない。詳しい人が紹介してくれるのでなければ気づけなかったでしょう。

シノブゴケ。シノブとはシダのことで、小さなシダのようなコケということ。とてもわかりやすいし覚えやすい。シダというより、なんとかニンジンなどと名前のついたセリ科植物の葉のほうが近いかもしれませんが。

スギゴケのような形ながら、波打つ葉がユニークな、ナミガタタチゴケ(だったと思うけれど、メモをとっていたわけではないので怪しい)。シダでいうと、コタニワタリの葉みたいな質感だから、これも紐つけて覚えやすい。

なんのコケだったか、忘れてしまったコケの朔。図鑑は持ってないし、ネットにはまともなコケ情報がないし、今日のところは調べようがない。やはり図鑑を一冊買わなければならないか…。

その他、いろいろ教えてもらいましたが、記憶しているのはネズミノオゴケ、エゾハイゴケくらいだけ。一朝一夕では見分けもつきませんし、解説されてもほとんど違いがわかりませんでした。

一方、シダ植物では、わたしに一日の長があったようで、幾つかのシダを解説できました。

でも、最後に暗くなってから見つけた、トラノオシダについて正しく答えられなかったのが悔しい。(暗かったせいで、写真はピンぼけでしまいました)

見た感じはトラノオシダとしか思えなかったのですが、ソーラスがトラノオシダよりも派手で、まるでニオイシダのように葉裏のびっしりとついた形状でした。

また、その方が、このシダは茎の裏側だけが黒いとおっしゃったので、そんなシダあったっけ?状態に。

帰って調べてみたら、トラノオシダは「中軸の裏側が紫色をしている」という特徴があるんですね。まだまだ観察が甘いのを思い知らされました。

ソーラスが大きく見えたのは、膜が破れて中身が盛大に飛び出している時期だったのでしょう。暗かったから原型がトラノオシダのような三日月型なのか判別しようもなかった。トラノオシダのような基本的なシダでさえわからないなんて、もっと精進が必要です。

コケの森を観察していたら通りすがりのかっこいいヤスデを見つけました。実物は光沢があって、鈍く光る鎧のようでした。虫苦手と言いながら、森の中にいる虫に限っては気持ち悪さより美しさが勝るので平気です。

先日写真を撮ったチョウチンゴケ地帯を観察していたら見つけたもの。枝についた半透明の結晶みたいに見える。ダメ元でGoogle Lensにかけたら、シロキクラゲというキノコだった可能性が。

恥ずかしながら、今まで存在に気づいていなかったトドマツの松ぼっくり。教えてもらったところによれば、空中分解することが多いせいで、他の松ぼっくりと比べてあまり目につかないらしいです。

ほかに教えてもらった耳寄り情報。

前に見つけたエノキタケ?と思っていたキノコが間違いなくエノキタケだということ。この時期はエノキタケが普通に見られると教えてもらったので、来年から疑念を払拭して味見できるかも?

また、この森はヒグマのテリトリーで、わたしが先日見つけたクマのふんらしき代物はやっぱりそうだったということ。

わたしがいつか行こうと思っていた行き止まり地帯の先も探索された経験があるそうですが、獣臭がすごくて引き返してきたそうです。恐ろしや。

ほかに、この森はクマゲラの生息地だという興味深い情報も。クマゲラの食痕は縦長の穴だと教えてもらいましたが、いったんわかるようになるとあっちにもこっちにも見つかる。

妙に低い位置に食痕があって不思議に思いましたが、帰ってから調べてみたら、エサにしているムネアカオオアリのコロニーが地上4mくらいまでだからのようです。ちょうど積雪期に雪の上に出る高さなので、クマゲラも食べやすいですね。

下の写真のように木くずが残っているものは新しい食痕なので、まだこの付近に生息しているということらしいです。勉強になる!

クマゲラの穴については、ちょうど最近購入した地元の野鳥観察ガイドでも読んだことがありました。クマゲラは縦長の大きな穴を開けるので、アイヌから「チップ タッチ カップ カムイ」=「丸木舟を作る鳥の神」と呼ばれていたらしい。

でも、本で読んだ知識と、実物とが頭の中で結びついていなかったので、教えてもらえて助かりました。これで、頻繁にこの森に通っていれば、今年の冬は一度くらいはクマゲラに遭遇できるかもしれない。

帰り道では、シマエナガ特有の、ジュルジュルという鳴き声がしたので、望遠レンズ付きスマホを向けてみたら…

いました! 今シーズン初シマエナガ。手前にいるのはハシブトガラ(またはコガラ)です。動画で撮って、ピントがあったところだけ切り出してみましたが、正面からのシマエナガらしいショットも撮れました。

今日は思わぬ形で、ガイドつきで森を案内してもらえたのでラッキーでした。ただ教えてもらうだけでなく、わたしのほうも、幾つか提供できた情報もあったので、お互いに得るところがあったと思います。

自然観察は、地道に自分の足で歩いて、自分で発見して、自分で調べることの繰り返しですが、たまにこうして詳しい人に教えてもらえると、レベルアップできる気がします。

詳しい人に教えてもらって、それが理解できるのは、日々の積み重ねのおかげだから、こういう機会は「いつも」ではなく「たまに」だからこそですね。

次にお会いできるのはいつになるかわかりませんし、たぶんまたこうやって森でランデブーするんだろうと思いますが、その時までにわたしも一回り成長しておきたいと気持ちを新たにされました。

2020/11/16月

ナニワズの新葉 & シダ観察

今の時期にも葉っぱが青々とした元気そうな植物を発見。きっと冬越しできる植物だけど、このあたりでよく見るツルシキミのようなテカテカした葉っぱではないよなー、と考えたところで、ナニワズだと思い当たりました。

林内に点々と生えているのもナニワズらしい。夏場に葉を落として、秋に新葉が出て冬越しするという不思議な植物。他の種とタイミングをずらすことで、最大効率ではなくても、競争を避けることで、うまく共生できるのでしょう。

さて、ここからはシダ観察。隣り合わせに並んでいる2本の葉。大きさは小型から中型くらい。形も流線型でよく似ていますが…、

拡大すると、裂片の形が違う。かたや先がギサギザで、根元は完全に軸にくっついていますが、

もう一方は、ふちがもっと激しくギザギザしていて、根元は深く切れ込みが入って、普通の葉っぱと同じように、細い柄で軸にくっついています。また羽片にも短い柄があります。

どちらも軸の下部には鱗片がついていました。前者の軸の根元は褐色がかっていましたが、全体を見ると、どちらも、ほとんど緑色の普通の軸です。

では、これらのシダは何か?ということになると、全然わからない。上は裂片のふちがギザギザしていて、メシダの仲間かとも思ったが、なんか違う。もしかするとオシダの仲間のミヤマベニシダか? ソーラスがあればわかったのだけど。

下はホソイノデ? にしては全体に毛が少なすぎるのだが…。

次のシダは単純にホソバナライシダか。全体の形が五角形、最下部の左右の小羽片が長くてハの字、軸が葉身と同じくらい長い。

サイズは葉身と葉柄合わせて50cmほど、葉身だけならその半分。

裂片の形。ホソバナライシダは、全体が五角形に見えて、ソーラスも粒状であるなど、様々な特徴がオクヤマシダやシラネワラビに似ているのだけど、最近やっと見分け方に気づいた。

オクヤマシダやシラネワラビは、裂片の先がトゲトゲしてのぎ状になっているのに対し、ホソバナライシダの裂片は裂けてはいてもとがらず、丸みを帯びている。

これは先がトゲトゲしていないのでホソバナライシダで合っているはず。

ホソバナライシダとオクヤマシダは、小羽片の軸に白い袋状の鱗片があるとされるが、これはどうだろう? よく見ると2、3個ついている気も…。写真がピンぼけしててダメですね。

でも、おおよその特徴はすべてホソバナライシダだと示しているので正しいでしょう。やっと類似種との見分け方もわかったので、今後はもう少し自信をもって判別できそう。

シダのメモ

試しに図鑑を頼りに書き出してみたもの。複雑すぎて把握するまで時間かかりそう。いつかわかりやすいフローチャートにまとめたいが…何年後?

■地面から生えているシダ
・葉の全体の形(葉身)
紡錘形…ほとんどの大型のシダ、中型のミヤマヘビノネゴザ
末広がりの二等辺三角形…ミヤマワラビ、イワハリガネワラビ、サトメシダ、コシノサトメシダ、イワカゲワラビ
五角形…ウサギシダ、イワウサギシダ、イタチシダ、ホソバナライシダ、シラネワラビ、オクヤマシダなど
細くて長い…コタニワタリ、トラノオシダ、イヌシダ、ナヨシダ、ホソバシケシダ、イワイヌワラビ、フクロシダ、ニオイシダ、デンダ類など
普通の植物っぽい…ゼンマイ、イワガネゼンマイ、イワガネソウ
柄のある剣のような形…ジュウモンジシダ
鳥足状複葉に似た二股分岐を繰り返す…クジャクシダ

・葉身の大きさ
大型(腕より長い)
中型(二の腕の長さくらい)
小型(手尺くらい)

・葉身の先端
先が急に細くなっている…イヌワラビ、ミヤマイヌワラビ、ヤマイヌワラビ、カラクサイヌワラビ、オクヤマワラビ、クマワラビ(ソーラスがつく場合)

・最下部の羽片
一番下の羽片だけ長い…ミゾシダ
一番下の羽片が長く、やや下を向く…イワハリガネワラビ、ミヤマワラビ
一番下よりひとつ上の羽片が最も長い…ヤマイヌワラビ、ヘビノネゴザなど
一番下の左右の小羽片が長くハの字…ホソバナライシダ、シラネワラビ、オクヤマシダ、リョウメンシダ
一番下の左右の小羽片が短い…イッポンワラビ、キタノミヤマシダ、ミヤマシダ、イワカゲワラビ
下のほうの羽片の間隔が開いている…ナヨシダ

・羽片の先端
とがっている
とがっていない

・羽片の軸(葉柄)
軸がある
軸がない

・羽状複葉の程度
0回…コタニワタリ
1回…シシガシラ、ヤマソテツ、コウヤワラビ、ヤマヤブソテツ
2回…最も多いタイプ
3回…オウレンシダ、ワラビ、リョウメンシダ、シノブカグマ、サトメシダ、ヤマヒメワラビ、オクヤマワラビ、イッポンワラビ、ミヤマシダ、キタノミヤマシダ、ホソバナライシダなど

・羽片同士の間隔

・軸の色
緑…多数
わら色…多数
紫…ミヤマヘビノネゴザほか
裏側だけ黒…トラノオシダ

・軸の鱗片と毛
全体に多い…オシダ、イノデ類
根もとに多い…多くの種
白い袋状の鱗片がある…シラネワラビ、ホソバナライシダ

・鱗片と毛の色
茶色…多数
黒色…ミヤマメシダ、ミヤマシダ、キヨタキシダ、シノブカグマ
白色…オオバショリマ、ハクモウイノデ、
こすると落ちる毛…ゼンマイ、ヤマドリゼンマイ

・葉柄の長さ
葉身より長い…ワラビ、ウサギシダ

・裂片の形
丸い…オシダ、クサソテツ、ミゾシダなど多数
とがっている…ヒメシダ、ミヤマシケシダ
少しギザギザがある…エゾメシダ、ミヤマメシダなど
鋭いギザギザがある…ヘビノネゴザなど
のぎがある…ミヤマベニシダ、シラネワラビ、オクヤマシダ、イノデ類
深い切れこみがあってレース状…オウレンシダ、サトメシダ、ホソバナライシダ、リョウメンシダなど多数
軸の付け根に近い裂片に耳たぶ状の翼がある…イノデ類
軸の付け根に近い裂片が少し大きい…エゾメシダ、ミヤマメシダ、オオメシダ?

・ソーラスの形
粒型
三日月型
皿型

・胞子葉がある
特有の形状…ゼンマイ、ヤマドリゼンマイ、ヤシャゼンマイ、クサソテツ、イヌガンソク、シシガシラ、ヤマソテツ、コウヤワラビ
間延びした葉…ミヤマシケシダ、リシリシノブなど

■その他のシダ(◯マークは、植生調査によりうちの自治体で確認されているもの)
・コケに類似
ヒメハイホラゴケ
◯コケシノブ
ウチワゴケ
カラクサシダ

・岩場
リシリシノブ
チャセンシダ
アオチャセンシダ
イワトラノオ
ヒメイワトラノオ
イチョウシダ
クモノスシダ
オニヤブソテツ
ニオイシダ
ミツデウラボシ
ミヤマウラボシ

・木
シノブ
◯ホテイシダ
◯ミヤマノキシノブ
ヒメノキシノブ
イワオモダカ
ビロードシダ

・デンダ系
イワデンダ
ヒメデンダ
◯フクロシダ
ミヤマイワデンダ
カラフトイワデンダ
◯ツルデンダ
◯オシャグジデンダ
◯エゾデンダ
オオエゾデンダ

・ヒカゲノカズラ系
◯ヒメスギラン
◯コスギラン
スギラン
◯トウゲシバ
ヤチスギラン
ミズスギ
◯ヒカゲノカズラ
アスヒカズラ
タカネヒカゲノカズラ
◯スギカズラ
◯マンネンスギ

・イワヒバ系
エゾノヒメクラマゴケ
コケスギラン
◯ヒモカズラ
イワヒバ

・ハナヤスリ
ヒロハハナヤスリ
ハマハナヤスリ

・ハナワラビ
ヒメハナワラビ
フユノハナワラビ
◯エゾフユノハナワラビ
イブリハナワラビ
ナツノハナワラビ
ナガホナツノハナワラビ

・トクサ
◯トクサ
ヒメドクサ
ミズドクサ

・ツクシ(スギナ)
イヌスギナ
◯スギナ
ヤチスギナ
フサスギナ

・その他
ヒメミズニラ

■うちの自治体で過去に記載されている種(◯は確認済み)
ヒカゲノカズラ科
ホソバトウゲシバ
◯ヒカゲノカズラ
コスギラン
ヒメスギラン
◯スギカズラ
◯マンネンスギ

イワヒバ科
ヒモカズラ

トクサ科
◯スギナ
◯トクサ

ハナワラビ科
◯エゾフユノハナワラビ

ゼンマイ科
◯ゼンマイ
◯ヤマドリゼンマイ

コケシノブ科
コケシノブ

コバノイシカグマ科
オウレンシダ
◯ワラビ

キジノオシダ科
◯ヤマソテツ

イノモトソウ科
◯イワガネゼンマイ
◯クジャクシダ

オシダ科
◯オシダ
◯オクヤマシダ
◯シラネワラビ
シノブカグマ
◯リョウメンシダ
ツルデンダ
◯ジュウモンジシダ
◯サカゲイノデ
◯ミヤマベニシダ

メシダ科
◯エゾメシダ
◯オオメシダ
◯ヤマイヌワラビ
◯ミヤマシケシダ

ヒメシダ科
◯ミヤマワラビ
◯オオバショリマ

イワデンダ科
イワデンダ
フクロシダ

コウヤワラビ科
◯クサソテツ
◯イヌガンソク
コウヤワラビ

シシガシラ科
◯シシガシラ

チャセンシダ科
◯トラノオシダ
◯コタニワタリ

ウラボシ科
エゾデンダ
オシャグジデンダ
ホテイシダ
(ミヤマ)ノキシノブ

植生調査に記載されているのが全てではなく、わたしが間違っていなければだが、サトメシダ、ミヤマシケシダ、ホソバナライシダ、ホソイノデなどがあるはずなのに、記載されていなかった。ほかにも、エゾノヒモカズラ、ウサギシダ、ミゾシダなど、様々なシダも探せばあるかも。

2020/11/17火

イワトラノオなのか、別のシダなのか→小型のリョウメンシダ?

今日も少し森の散歩。いよいよ明日あたりからまた雪になりそうなので、今度こそ見納めになるやもしれぬ。

よく見かけるけれど、正体不明のこの小さなシダ。サイズは手尺で10cmくらい。2回羽状複葉ではっきり裂けていて、トラノオシダやオウレンシダに似て細長い。

しかし、羽片の先が尖らない点でその2種と異なる。また、一昨日教えてもらった、トラノオシダの手っ取り早い見分け方である、軸の裏側だけが紫色、という特徴もありませんでした。

トラノオシダは栄養葉と胞子葉で形が違うけれど、どちらにも当てはまらないと思う。

前にこれと同じようなシダを見つけたときは、羽片の先がとがらず、アヒルの足のようになっていることから、近縁のイワトラノオではないか?としたはず。

図鑑などの典型的な写真だと、イワトラノオはもっと羽片の隙間が開いていて、イチョウの葉が連なったような可愛らしいシダなのだけど、違うような似ていなくもないような…。

ネットで調べてみると、同じような見た目のシダで、イワトラノオかどうかと悩んでいる人がいたので、やっぱりわかりにくいタイプのようです。

追記 : 改めて観察してみて、もしかしたら、最近よく見かける超小型のリョウメンシダではないか、と思いました。とても小さいものから巨大なものまで、さまざまなサイズのこのタイプのシダが連続して分布しているように見えました。

そもそも、イワトラノオがこんなに多量に生えているはずはないし、普通に地面から出ている点も違う。

他のシダの場合、大きさは重要な手がかりになるはずなのに、なぜリョウメンシダだけ、こんなにも大きさにバラツキがあるのか? それともリョウメンシダに見えてやはり違うシダなのか…?

エゾアカゲラを見つけて、クマゲラのドラミングらしき音も聞く

クマゲラの食痕がたくさんあるカラマツ林まで行って、少し立ち止まっていると、あちこちからたくさんの鳥が集まってきました。

高い位置に小さなガラ類の鳥たちがかまびすしくさえずり、やや大きめで鮮やかな色のミヤマカケスが枝を揺らし、美しい翼を広げて真上を滑空しました。遠くにはヒヨドリなのかカケスなのかわからないつがいのシルエットも。

その中で、ひときわよく響くアカゲラが木をつつく音。つついては樹皮?をむしり取り、ぺっと横に捨てています。よく見れば、あっちにもこっちにもアカゲラ。背中の白い逆ハの字から、オオアカゲラではなくエゾアカゲラのほうだとわかります。

木くずをつついて飛ばす音が、いかにも動物が何かをむしゃくしゃと食べているような音なので、アカゲラだとわかっていなければ怖くなってしまいそう。

しばらくその様子をカメラで撮っていたら、不意に、謎の大きな音が響き渡りました。

カン、カン、カン。ドラミング音ではありませんが、キツツキがくちばしで木をつつく音に似ている。でもアカゲラの音よりはるかに大きい。木のうろの中に反響するような、重みのある鈍い音。しかもかなり低い位置から聞こえる。

これこそクマゲラでは?と思ったものの、姿は見えません。音の大きさからして、すぐそば10m圏内にいるのではないかと思えましたが、ササやぶのせいで全然見えません。

近づこうかと思いましたが、あまりに音が大きく、よく響くので、はっきり言って怖い。リズム感のある音からして、十中八九クマゲラではないかと思うものの、実際にクマゲラの食餌音を聞いたことがないから、確証は持てない。

もしも別の動物だったら? 音の大きさからすると、絶対に小動物ではない。少なくともキツネかタヌキ、下手するとシカかヒグマかもしれない。

ここの森にクマゲラがいるのは確かだし、雪が積もってササが押しつぶされれば、見通しもよくなるはず。今見れなくても、これからもっとチャンスがある。そう考えて深追いはせずに帰ることにしました。

帰り道、行きと違うルートを歩いていると、またしてもヒグマのふん。来る途中でも一箇所ふんを見つけましたが、それよりも新しいような気がする。

もう少し進んでみると、今まで見たことがないほど、はっきりくっきりとした足跡。その向こうにあるのは、先日、コクワの実がたくさん落ちていた場所です。

ということはもしかして、この前やたらと大量にコクワの実が落ちていたのは、風で落ちたのではなく、ヒグマが落としたからでは?

おそらく、ヒグマがそこに通っているとしても、昼間ではなく、夜中でしょう。でも、確証は持てないから、危険は犯さないほうがいい。いつも歩いている場所だからといって、油断するのはよくない。

そう思って、来た道を引き返し、最初に通った道から帰りました。春から夏にかけては、この森でそんなにヒグマの気配や痕跡は感じなかったのだけど、晩秋になってから毎日のように痕跡があります。冬眠前に木の実をたくさん食べているのでしょう。気をつけないと。

2020/11/18水

ついに名寄市でコロナ感染者

自治体からの発表はまだありませんが、名寄市でコロナの感染者が確認されたそうです。噂レベルで人数や発生場所なども口伝えやSNSですでに飛びかっています。(正式発表はない可能性もありそう。わたしはあまり名寄という自治体にいい印象を持っていません)

田舎だから特定されるというより、今はSNSがあるので、どんな地域でも、近所のどこで感染者が出たのか、調べようと思えばすぐわかってしまいますね。以前住んでいた東京の地区でも、発生直後に施設名まで拡散されていましたし。

わたしが住んでいる自治体では、幸いまだ感染者は出ていません。しかし、大勢の人が名寄や士別といった地方中核都市を利用しているので、感染が広がっているも同然だとみなして用心深くあったほうがいいでしょうね。

2020/11/19木

外出できないと体調が悪い

本来なら、雪が積もってもおかしくない時期なのに、季節外れの暖気のため、大雨が降っています。そのせいで、森にも出かけられないし、自転車もすでにタイヤを替えてしまったので、気軽に外出できません。

ずっと家にこもっていると、どんどん体調が悪くなります。意を決して、雨が降りしきる中、近くの公園まで散歩に出かけると、少し気力が湧いてきて、体も楽になりました。

改めて感じたのは、わたしの体調がよくなるのは、あくまで、自然の中での刺激がもたらす疑似リタリン(コンサータ)効果によるものにすぎない、ということです。

以前は、コンサータを飲んでいたので、ものすごい負担がかかっていた反面、家の中にいても、そこそこ活動的でした。ブログを書いたり、本を読んだり、絵を描いたりできたのはコンサータのおかげでした。

今は、薬をやめたぶん、体の負担は減っていますが、効果も限定的です。一日中どこにいても薬が効いていたときと違い、自然の中、森の中限定で薬が効いているようなものです。

自然の中を歩いているときはとても元気ですが、家で座っていると眠い。やる気が出ない。特に今日みたいに具合が良くないときは、かけらだけでもコンサータがほしくなってしまうような眠だるさです。

元より体への負担を考えると、今後、薬を再開することは絶対にありませんし、どのみちコロナのせいで薬をもらいに都会まで行くことさえできないでしょう。

今の体調の傾向と、うまく付き合って、これまで通りフィールドワークを中心に据えて、できることを取捨選択するべきですね。

今年見れなかった植物メモ

近隣のローカル植物図鑑を手に入れたので、そこに掲載されていた今年見れなかった植物をリストアップしておきます。かなり掲載種がしぼられている=身近に見られるはずの種、なので、来シーズン意識的に探せば見つかるはず。

ヤマハナソウ 5-6月 岩場
エゾオオサクラソウ 5-6月 林内
アツモリソウ 5-6月 深山
ササバギンラン 5-6月 林内
ハクサンチドリ 6-7月 草原
サルメンエビネ 6-7月 林内
キヨスミウツボ 6-7月 林内
ヤナギトラノオ 6-7月 水辺
コウホネ 6-8月 池
ミクリ 7-8月 池
カワラハハコ 8-9月 河原
サワギキョウ 8-9月 湿地

以上。簡単にまとめると、今年行かなかった、水辺や高山・深山に咲く花と、所在がわかりにくいランおよび菌従属栄養植物といったところか。ほかに載せられている大部分の種は観察済みだったので、我ながらよく頑張りました。来年はもう少し行動範囲を広げて、新たな出会いがあればいいな。

また、今年は全然手を出せなかった、イネ科、カヤツリグサ科、蘚苔類、地衣類も、図鑑などを買って調べたい。今日見たこのローカル図鑑にも、イネ科のうち、オオアワガエリやカモガヤが出ていましたが、全然見分け方がわかりません。

シダ植物は、現在参考にしている「北海道のシダ入門図鑑」一冊では限界を感じるので、絶版になって購入するすべがない何冊かの北海道のシダ図鑑を、道立図書館から取り寄せてみるつもりです。複数の書籍の解説をみれば、もう少し識別しやすくなるかもしれない。

先日リストアップしたシダのうち、デンダ、ハナヤスリ、イワヒバなどは、まだ全然発見すらできていないので来年の課題です。キノコにしてもシダにしても、特に岩や木に付着しているものは、ほぼスルーしてきたので、改めて意識的に目を向けなければなりません。

やるべきこと、やりたいことは果てしなくありますが、ひとまず今冬の目標は、樹木観察、野鳥観察、シダとキノコの復習に的をしぼりましょう。

「オアハカ日誌」再読メモ(1)―テリドマニア(シダ熱)

シダについて、ちょっとはわかるようになったので、オリヴァー・サックスの オアハカ日誌 を時々読み直しています。「ぼくと数字に不思議な世界」に引用されていたナボコフの言葉のように。「よい読み手、一流の読み手、積極的で創造的な読み手とは、再読する読み手である」(p197)

オアハカ日誌の再読メモ。

■サックスが挙げる好きなシダ植物、ヒカゲノカズラ属、トクサ属、イワヒバ属がイメージできるようになっている。唯一マツバラン属なるものがわからないが、それもそのはず、日本には一種のみしかなく、しかも本州中部以南らしい。しかしオアハカでさえたった二種類しかないそうだ。(p19)

調べてみると、マツバランはまさに地面から生えたマツの葉っぱのようだ。地面から生えるスギの葉たるマンネンスギや、地面から生えるヒノキの葉たるイワヒバなどが存在しているシダは本当に不思議だと感じる。原生植物が現れる前にテストされたβバージョンのようだ。シダの葉をつける木である木生シダはその逆バージョンともいえる。

■オアハカは世界で最もシダの多い場所でなんと700種もある、と読みながら、たった130種しかない北海道で音を上げているようではまだまだだと感じる。でも、その130種に精通すれば、他の場所に行ってもそこそこ通用するのかも。少なくとも桁数は同じだから。

■シダを知るには、ほかの動植物や生息地についても詳しくならなければならないので、結局はオールラウンダーの植物学者また生態学者になる、という話も今ならうなずける。すべては紐ついてるので、どこから掘ってもいつかは全体を掘るはめになる。(p28)

■シダの集いのために「およそ100キロも車を走らせてくるメンバーもいた」。かつてなら信じがたい話だったが、今なら全然不思議に思わない。だって、わたしの住んでいるところから一番近い大都市旭川まで100キロなのだから。飛行機に乗りたいなら100キロ出かける必要がある。(p29)

■「渦巻き状若葉(フィドルヘッド)を食べる習慣があちこちにある」。日本ならごく当たり前の話です。でもハナヤスリ属のお茶を飲む文化があるとは初めて知った。前もこの本を読んだけれど、知識にフックがある今なら受け取る印象がまったく違う。(p31)

■「観察し、細かなところまで忘れない特殊な才能と、場所に関するずばぬけた記憶力は、……博物学者に共通する資質である」。前半は自信がないが、後半の自信があるので、わたしは半分は資質がありそうだ。(p32)

■読んでいるとふと、カカオと並んでコーラとガラナの名が登場し、北海道の住民として微笑ましい気持ちになる。知識が増えるというのは、こういったさりげない記述すらも目が留まるようになるということだ。(p47)

■パッションフルーツの中身が、カエルかサンショウウオの卵のようだ、と書かれている。パッションフルーツを食べた経験はないが、サンショウウオの卵は何度も見ているので、なんとなくイメージがわいてしまう。

■市場にあると書かれている、ヒシの実や食用ホオズキ(トマティーヨ)も、今となってはずっと身近に感じられる。(p49)

■乾燥したトクサが血液の病気の治療薬や利尿薬にされるとあるが、日常で利用することはできるのだろうか? トクサであれば、うちの近所にも無限に生えているのだが…。(p50)

調べてみると、茎を乾燥させて生薬にできるらしい。そしてなんと、トクサ茶なるものがあるではないか! これは明日にでも試すことができる。同じトクサ属のスギナ茶のほうがよほど有名ですけどね。

■コケシノブ、ビカクシダ、オオタニワタリ。どれも見たことはないが、聞いたことはあるので、イメージできるようになってきた。いや、ビカクシダは植物園で見たことがあったか。(p61)

■シダの生殖方法はずっと謎のままで、あのリンネでさえからくりに気づかず、シダを隠花植物と呼ぶことにしたと書かれている。しかしようやく極小の配偶体が発見され、ミステリーが解かれた。先日配偶体について教えてもらって初観察したので感慨深いものがある。(p64)

■地質学に詳しいシダ学者の目には、風景がまるで違って見えるという話も出てきた。地質学もいずれ手を出さねばなるまい。今知っていることといえば、ヘビノネゴザの下にカドミウムなど金属鉱脈があることが多いということくらいだ。(p68)

■ややこしい黄色いキク科植物がDYC(damned yellow composite :どうでもいい黄色いキク科植物 )と総称されているのは面白い。このあたりだとタンポポ、ブタナ、ニガナ、ハナニガナ、ジシバリ、オニタビラコなどだろうか。

そして、鳥の場合も、LGB(little gray birds)が雑多な灰色の小さな鳥を指す表現として使われるらしい。このあたりだとカラ類やヒワ類になるのだろうか。しかしコケやシダのほうがよほど地味で区別しにくいと思うのは気のせいか? (p68)

■高山性の聞き慣れないシダの話題に混じって、話題にのぼるクサソテツやベニシダの名前にホッとさせられる。でもこの登場人物たちが語るほど、これらのシダに詳しくないことでまた不安にもなってしまう。(p69)

そしてサックスでもシダに疲れるときがあるのを知って安心する。(p71)

■ニューイングランドのシダは100種類ほどらしく、意外にも、北海道と同規模だ。イギリス出身のサックスと同じくらいなら、頑張って観察れば到達できる日も来るかもしれない。グリーンランドでは30種ほどで網羅が比較的楽そうに感じる。コスタリカは1200と気が遠くなってしまう。(p74)

■ツノゴケの話題が出てきて嬉しく感じる。先日近所で見つけて、今年唯一まともに名前を調べた地衣類だからだ。もっと真面目に調べたい気はするけれど、後まわしになってしまっている。…と思ったらツノゴケか! ツメゴケではなかった。

■クローバーやルピナスなどのマメ科はバクテリアによって窒素を固定するが、ハンノキやシダの一種のアカウキクサの根にも同様のバクテリアがいて、土壌を肥沃にするという話は興味深い。(p75)

■イノデ、オニヤブソテツ、メシダ、ナヨシダ、ワラビと聞き覚えのある名前が並ぶところで、高さ4.5mもあるという記述が出てきて仰天する。熱帯に近いと、そんなに大きくなるものなのか。そういえば日本でも、小笠原諸島では巨大になる木生シダのヘゴが、紀伊半島では普通のシダサイズだとかいう例がある。(p81)

■ワラビ(ブラッケン)の毒性について細々と語られていて、しかも強力な発がん性物質まで含まれているとある。調べてみたら、なんとアク抜きしても少量残るらしい。ノボリリュウタケを食べても大丈夫かなどとぐるぐる考えていたが、ワラビのほうがよほど危険な山菜だったようだ…。それでも食べるべきか否か。(p83)

一般的にシダ植物には毒はないとされていて、山菜採りで多少間違えても安全な部類だと思う。(リティコトとボディグに関係していると思われる猛毒ソテツの実などは除く) それなのに、日本で山菜として最もよく採取されているだろうワラビが、一番の毒シダなのだという不思議。

なぜか猛毒のシャグマアミガサタケを下処理して食べる文化が根付いているフィンランドを思わせる。シャグマアミガサタケにしてもワラビにしても、徹底的な下処理がされるものの、十分に毒抜きされているかは疑問が残るにもかかわらず。

サックスによると、ワラビは何段階もの毒ガードをもっているため、シダ界の毒婦ルクレツィア・ボルジアの異名をとる。まず、酵素チアミナーゼによる神経毒で誤食した家畜を痙攣や死に至らせる。次にシアン化水素で昆虫に抵抗する。のみならずエクジソンというホルモンで昆虫を強制的に脱皮させて殺す。さらに強力な発がん性物質プタキロサイドが含まれていて、アク抜きしても完全に失われることはない。

もっとも、比較的安全なはずのクサソテツ/コゴミでもしっかり茹でて蒸す下処理が必要だとカナダ政府が助言しているらしいので、あらゆる山菜はしっかりアク抜きすべき。どんな食品にも微量の毒素は含まれているだろうから、あまり神経質になるのはよくない。

たぶん、ワラビやコゴミより、マクドのフライドポテトやハンバーガーや、スーパーの冷凍食品を常食しているほうがよっぽど危険であろうし。

今日はここまで、半分くらい読み直せただろうか。もともとが短い日記なので、もう一回読めば終わりそうだ。とりあえず、山菜を食べるときはきちんとアク抜きしないと危ないことが最後にわかった。

2020/11/20金

「オアハカ日誌」の再読メモ(2)

オアハカ日誌の再読メモの続き。

■乾生シダや復活シダについての話はまったく馴染みがない。なんと落葉するエビガラシダもあるらしい。木になるシダもあるし、コケや地衣類みたいなシダもあるわけで、シダはなんでもありだと思う。言ってみれば一世代前のレトロな自動車のようなもので、システムが違うことを除けば、あらゆる形態がすでに世に出ている。(p99,117)

日本には砂漠のような湿度カラカラになる環境がそうそうない。身近で目にするもので、復活シダに似ているとすれば、カラカラになった灰色の苔や地衣類くらいだろうか。水気を含むと、色鮮やかさを取り戻して、にこやかに葉を広げる。だからこそ雨の日の森は普段より色鮮やかで美しい。

とか言っていたら、なんと復活シダの一種(テマリカタヒバ selaginella lepidophylla)は日本にもあるイワヒバの仲間らしく、ドライフラワーなどで輸入もされているという。別に自生地以外で見たいとは思わないが、画像で見るとたいへん美しい。

■カシューナッツがウルシ科だと読んで驚く。そして画像検索してみてさらにびっくりする。カシューアップルなんて初めて見た。世の中には未知の面白いものが多すぎる。(p118)

pteris podophyllaのソーラスのインダストリアルデザイン感がものすごい。明らかにデザイナーが考案したものだ。(p125)

■エゾデンダの仲間が通称「多足シダ」と呼ばれているとあるが、理由がわからない。種類によっては多足類みたいな外見なのだろうか? (p128)

■「トウダイグサ科のヒマの種子で、膨れたダニのように見えるキャスター“ビーン”」。こっちに来てからヒマ、すなわちトウゴマをよく見るので、イメージできるのが嬉しい。キャスタービーン・オイル、つまりひまし油の原料だ。種子は猛毒で、それが殺人に使われたという例が書かれている。(p128)

■「もっと“進んだ”わたしたちの文化、自分のちからだけではなにもつくれない文化とは大違いだ。たとえばペンや鉛筆―どうやってつくればいい? 必要に迫られたらひとりでつくれるだろうか?」。(p150)

果たして、自分たちですべてのものを作る小さな社会と、各自分業して高性能の魔法のような機械を作り出す文化、そのどちらが幸せなのだろう? かつてはよりよい製品を消費できる現代文化のほうがよっぽど幸せだと思っていた。しかし人は享楽を味わうことではなく、作り出すことに満足感を感じる生き物なのではないだろうか。たとえ拙い出来でも、何かを作り出す喜びは与えられたものを消費する喜びに勝るからだ。

自然観察も同様だ。実際に自然の中に足を踏み入れ、写真を撮ったり調べたりしたところで、インターネット上にひしめきあっているプロの写真家や専門家の知見にはまったく及びもつかない。しかし、ただ完成品としての知識をネットや教科書で提供されるより、ごくわずかな発見であったとしても自分で見つけたほうが喜びが深いのだ。

これらに共通しているのは、人は経験に喜びを見いだすということだ。結果ではなく過程に充実感を覚えると言ってもよい。過程を排して、結果だけ詰め込み教育されても、何の面白みもない。そこには自分が主体的に関わって作り上げたという経験が伴っていないからだ。

だが、人間にとって時間は限られている。より多くのものを得たいと思えば、分業するしかない。こうして寿命の短さを補う効率化を求めた結果、今の形骸化した社会が出来上がってしまった。豊かでなんでも手に入り、なんでも知ることができるが、本当に肝心な経験は伴わない世界である。

■「フィボナッチ数列を知らなかったら、松かさのほんとうのすばらしさはわからないでしょうね」。先日コケ好きの人に語ったことが思い出される。シダは芽のときには黄金角の螺旋、葉を開くとフラクタルが現れ、最高のデザインだとわたしは熱っぽく語ったのだった。(p177)

■4.5mにもなるトクサequisetum myriochaetumの話。巨大トクサであり、巨大スギナでもある。あれ?画像検索してみたら、どこかで実物を見た記憶がある。4.5mはなかったが、1mくらいのものを昔どこかで見たぞ…植物園通いか多肉植物に凝っていた時期に。かつての地球には人間より太いトクサの木々が乱立していたのだ。(p185)

■「ベルナール・ディーアスの本や、1843年に出版されたブレスコットの『メキシコ征服』を、もう一度読んでみよう。自分の目で見るまえとは、ちがう読み方ができるはずだ。ここで経験したことを深く静かに考え、もっと本を読み、そしてかならずまた来ようと思う」。 まさに、今わたしがオアハカ日誌についてしていることだ。(p195)

■ラウェア(llavea)はどこにでもありそうなシダに見えてしまうと言ったサックスに、ロビンは憤慨してこうまくし立てた。「ラウェアは、生殖器官つまり胞子嚢をつける羽片が、つけない羽片とおなじ葉にあり、しかもふたつはまったくべつの形をしている特別なシダなんです。じつに不思議じゃありませんか! 」。(p195)

この説明だけで、確かに不思議でおもしろい、見てみたいと思ってしまうわたしは、少しばかり、すでにシダ熱の森に足を踏み入れているようだ。早速llavea cordifoliaの画像を調べてみたら、ゼンマイのような葉のシダだった。しかし上のほうには細く巻いた胞子葉が連続してついている。これは面白い。日本にあるハゼンマイというシダに似ているかも。

■「動物としての純粋な生きる喜び」あるいは植物としての。シダが群生する森で感じられるのはまさしくこれなのだ。(p202)

以上。短い本だったので、数日で再読できたのがよかった。一度目に比べて、かなりじっくり文字を追えたと思う。かつては理解できず読み飛ばしていた箇所が、今やイメージできるようになった自信があった。それでもまた、鉱石や化学元素に関する部分は理解できないのだけど。サックス確かに博物学者だ。

改めて読んでみて、自然観察の喜びを共有できたのがよかった。かつて読んだときは観察する自然が身近になかったので、垂涎のまなざしで見るしかなかった。しかし今ではわたしも経験者なのだ。オアハカほどのジャングルではないが、探求しがいのある豊かな自然が身近にある。

サックスも本文中で書いていたように、ただ知識として読むのと、実際に経験した上で読むのとでは大きな違いがある。ここ最近、目の調子が悪く、読書に対してひどくおっくうになっていたが、今回の読書で、読む喜びをいくぶん取り戻せた気がする。うまく対策を講じて、また定期的に読書できるようになればいいのだが。

2020/11/22日

小型リョウメンシダの謎

先日から気になっている小さなレース状のシダは、やはり極小のリョウメンシダのような気がします。そして、以前からイワトラノオではないか、と考えていたシダも、この極小リョウメンシダの一部だったのでしょう。

というのは、よく観察すれば、大きさが連続していることに気づいたからです。

超小型の2cmサイズ。

もう少し大きな6cmサイズ。

同様の形をした10cmくらいのシダの葉柄を見てみたら、かつお節状の鱗片がついていました。もしイワトラノオだったら鱗片も毛もないはずなので、イワトラノオではない、と判断する決め手になります。

そして、このイワトラノオではない大きさ10cm未満のシダのすぐ近くに、20cmくらいの同じ形をしたシダ、さらには40cmくらいの同様のシダもあって、どれも同じシダの異なるサイズであるかに見えます。

これまで、オシダにしては妙に小さいけれど、どう見てもオシダでしかないシダなども見つけました。しかし、このリョウメンシダ?らしきシダほど極端なサイズのバラつきはありませんでした。

実はリョウメンシダではなく、別の何かのシダを勘違いしているのでしょうか?いま図書館で取り寄せてもらっている絶版のシダ図鑑に、何か手がかりがあればいいのですが…。

今日のシダ。クジャクシダ、ホソイノデ、ミヤマベニシダ?

明らかにクジャクシダ。わかりやすくてホッとします。クジャクシダは芽生えのころに赤みを帯びるそうですが、今回はもうすぐ枯れるから黄みがかっているのでしょうか。黒い軸が目立つ美しい黄葉です。

先日、コケ好きの人と森で語りあった際、この近所でクジャクシダを見たことがないと言うので、わたしが以前見つけたポイントに案内してあげました。しかし、すでに落ち葉が堆積していて、発見できませんでした。

しかし今日、そのポイントからほんの数メートルのところで、このクジャクシダを発見できました。前回見つけたのは10cmくらいのミニチュアでしたが、今回のはそれより心持ち大きめに感じました。きっと探せばもっとあるのでしょう。

次のシダは紡錘形で30cm弱とやや小型。

軸の根元には、黒っぽい大きな鱗片があります。

裂片の表側には光沢があり、先が尖っていて、白いノギがあります。

裏側から見てみると茎の付け根に近い裂片は、大きく膨らんで茎にかぶさっていることがわかります。

葉の先端は、しっぽのように鋭く尖っています。

サイズやノギや耳状の膨らみからして、普通にホソイノデかな? なんとなく違和感もありますが、今のところはこれ以上わかりません。

次は、羽片の先が尖って、ひと目見て美しく感じたこのシダ。もう弱ってしなびていますが、気品あるこの姿はヘビノネゴザか?

と思ったが、どうも違う気が…。

裂片はふちがギザギザですが、先が少しばかりノギ状になっているような気も。また裂片の根元が、切れ込みがなしに軸にくっついているのがヘビノネゴザらしくない。ここのサイトを参考にするならば、ミヤマベニシダに近い。

長さは20cm未満で、だいたい20cm前後になるヘビノネゴザの大きさと一致。ミヤマベニシダは60cmくらいになるので大きさは違いますが、典型的なサイズでない場合もあるのでなんともいえない。

軸は根元が少し赤みがかっていますが、ミヤマヘビノネゴザを思わせるほど紫色ではありません。鱗片がありませんが、もっと下のほうについていたのかも? 日が暮れそうだったので時間がなく、観察不足。

帰りに、森の入り口付近に生えていたトクサを2本ほど引き抜いていただいてきました。目的はもちろん、サックスの本で知ったトクサ茶にするため。乾燥させてから刻めばいいらしい。さてどんな味なのだろう?

家に帰る道では、もこもこのキタキツネと遭遇しました。かなり小さい気がしたので、今年生まれの若ギツネだったのかもしれません。

何人かに見せたら、みんなネズミなどのを捕まえているところでは?という感想でした。本当に? 単にわたしの目の前で好奇心から行ったり来たりしているだけかと思っていたんですが。

夜は自転車で走りに出たら、とても濃い霧でした。家のすぐ前ですら、街灯の光がぼんやりとぼやけて、ほんの10m先もくすんでいます。

気温は0℃でしたが、霧の水蒸気バリアのせいか、全然寒く感じません。

自転車でしばらく走っていると、車道を奇妙なほど低速で走っている車を見つけました。気味が悪かったので、距離を取って遠くから見ていたら、ウインカーも出さずに曲がって、その後また出てきて、別の角で曲がり直しました。どうやら霧が濃くて、自分の家を見失っていたようです。

わたしも、視界が怪しくならないうちに帰宅しました。大自然のそばに住んでいると、都会では経験できないような自然現象に出くわすことがよくあります。自然の力を侮ってはいけないことはを思い知らされます。

2020/11/23月

雪が舞う森の中でゆったりと時間を過ごす

今日は雨ではなく雪だったので、久々に森を歩きに行けました。雨は濡れますが、雪になると振り払えば落ちるので問題なくなります。

山肌を覆うササは、粉雪をかぶってほのかに白く化粧していました。

シダはというと、すっかりしなびて地面を這うようにぺしゃんこになり、雪に半ば埋もれています。今年のシダ観察シーズンも終わりだと感じさせられます。

木々のまとった地衣類が、いつもに増して鮮やかに映ります。ここ連日の雨のために生気を取り戻して生き生きとしているのか、あるいは周りの植物が枯れて森の中に色が少なくなったので、相対的に目立つようになったのか。今年の冬は地衣類の図鑑も買って観察を始めてみましょうか。

森の中の獣道に、くっきりとシカの足跡が残っています。足跡の新しさからして、昨晩か今朝方にここを通ったのでしょうか。

しばらく歩いて、クマゲラの食痕が残っているあたりまでたどり着きましたが、全然鳥の気配がせありません。時間帯が悪かったのでしょうか。今は昼の1時過ぎです。

歩くのをやめて、熊鈴も鳴らないようにして、しばしじっと佇んでみます。森の中は静まり返っていて、厳かな雰囲気です。やっぱりヒグマは怖いので、時たま熊鈴はシャランと鳴らします。

カラマツ林のフラクタルな枝の隙間から、遠くの空を舞っているトビの姿が見えます。なんて優雅に、気持ちよさそうに飛んでいることか。地面を歩き回っているわたしとは大違いです。

冬至に向かって高度が下がっている、夕陽のような太陽の光が、ほぼ正面から差し込んでいます。うっすらと粉雪をかぶった森がキラキラと輝きます。

気温は0℃ちょうどくらい。しっかり服を着込んできたし、ここまで歩いて身体が温まっているので、まったく寒くありません。暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい。とても気持ちいいので、まだしばらくじっと森の音を聞きます。

突然、ガサガサっとササのやぶが揺れます。少し驚きますが、森に吹き込んだ一陣の風が揺らしただけです。じっと息をひそめて鳥がやって来るのを待ちたいのに、音がすると野生動物かと思って怖い。ジレンマです。

熊鈴を鳴らす代わりに、試しに口笛を吹いてみます。すると意外なほどはっきりと響き渡り、山の谷間にこだまして聞こえます。鳥の鳴き声と遜色ありません。遠くで聞いている人は、変な聞き慣れない鳥が鳴いているのかと錯覚するかも。

しばらく待っても、小さなカラ類以外、鳥の気配がしないので、あきらめて引き返すことにしました。帰り道を歩いていると、先日エゾアカゲラがいたあたりで、ようやく鳥の気配が強まります。

頭上から、何かがポリポリと木を削るような音がします。目を凝らしてみると、かなり高い場所に、小さな灰色の鳥がいるのが見えます。自由に幹を走り回って裏側に隠れたように見えます。たぶんゴジュウカラでしょう。

さらにじっくりと頭上の森を見渡していると、不自然な黒い毛玉のようなものが、地上20mはあろうかという木の枝にくっついているのが見えます。少し移動しながら、角度を変えて見ると、どうやらエゾリスのようです。

望遠レンズを向けてみます。あれほど高い枝の端っこで、全然動く気配がありませんが、どう見てもリスです。まさか眠っているか死んでいるのでしょうか。不安になった矢先、顔だけちょこんと動きます。

こうなったらリスが動くまでの根比べです。じっとスマホと望遠レンズを向け続けます。1分待っても2分待っても動きません。ずっと上を見上げていて、首が痛くなってきました。

そろそろ帰ろうか…。あきらめかけたころに、やっとリスが身体を伸ばして、近くのカラマツの実を一粒採ります。それからまた枝の上でうずくまってカリカリと食べ始めます。リスの食事の音が、静かな森の中に響きます。

でも、カメラを下ろした隙に木の幹を器用に走って、どこかに消えてしまいました。引き続きポリポリ食べる音は聞こえるけれど、もう姿は見えず。

時間はもう2時半を過ぎていました。空は雲が陰ってきて、森の中が暗くなります。じっと立ったままあたりを観察していたせいで、身体が冷えてきて、ぎこちなく固まっています。そろそろ身体を動かして帰らないと。

空が暗くなるとともに、突如、森の中が騒がしくなり始めました。先ほどまであんなに静かだったのに、やにわに何種類もの鳥のさえずりが響きます。わたしの後ろの至近距離でバサバサっと羽音がして、思わずぎょっとします。

羽音の正体はわかりませんてしたが、たぶん小柄なカラ類がすぐそばまで来ていただけでしょう。

耳を澄ましてみますが、残念ながら、クマゲラなどの大型の鳥の気配はありません。それよりも、ササやぶの中で鳥が動いているのか、ガサゴソという音が響いて気味が悪い。あれほど静かだった森が、生き物の気配で満ちています。

森の中が暗くなってきて、身体もとても冷えているので、今日はこれで帰ることに決めました。無理をして粘らなくても、きっと何度も通っているうちに、見たい生き物に出会えるでしょうから。

森を出ての帰り道で、先日と同じようなもこもこのキツネが道路を横切るのを見かけます。とてもよく似ているけれど同じキツネでしょうか。それともこの時期のキツネはみんなあんな姿なだけでしょうか。

久々に森の中でゆったりと時間を過ごせたので、とても心地よい満足感があります。感覚をオープンにして、五感に身を委ねる体験ができました。後から思い返すと、ほんの一瞬だった気もするけれど、動物や植物の気持ちになって、森の生態系の一部になりきれた、そんな充実した時間でした。

オアハカ日誌とシダについてまとめた&アルバム更新

ここ数日間にわたり、日記に書いていた、シダの見分け方のメモや、オアハカ日誌の再読メモについて、いつも空が見えるからのほうに記事としてまとめました。

オリヴァー・サックスの「オアハカ日誌」を読んでシダ植物の魅力に引きずり込まれた
脳神経科学者オリヴァー・サックスがシダ観察のためメキシコに旅行した日記「オアハカ日誌」。わたしもシダ観察を始めた今になって再読すると、発見が色々ありました。シダはなぜ魅力的なのか、

本当は、シダの見分け方はフローチャートにでもしたかったのですが、今のわたしではまだ力不足で、その域に達していないことに気づきました。もっと本を読んで、観察の経験も深めないと、知識を形にする段階には至れませんね。

そろそろ冬らしくなってきたので、秋のアルバムは更新完了し、冬のアルバムを作りました。今年もどんな景色に出会えるのか楽しみです。

秋のアルバム(2020年9月~11月前半)
2020年の秋に撮った、道北の身近な自然の写真アルバムです。
冬のアルバム(2020年11月後半~)
2020年から2021年の冬に撮った、道北の身近な自然の写真アルバムです。

2020/11/24火

突然の雪景色の森でコゲラを見つける

昨晩、ブログを書いた後に家の外をのぞいて見たら、雪がしんしんと降り積もっていました。もう0時をまわっていたけれど、どうしても走ってみたい新雪だったので、服を着込んでひとっ走り。やっと今冬初の雪道サイクリングができました。

そのせいで今朝は寝坊しましたが、起きてみると一面真っ白の銀世界。このくらいだったら、また溶けてしまうかもしれないので、溶ける前に楽しみ尽くそうと、時間を見つけてあちこち歩きまわってきました。

ようやくまともに氷点下の気温になってきたので、池もすっかり凍っています。明日は3℃まで上がる予報なので、昼過ぎに見に行ってみれば、氷が割れて美しいステンドグラスのような模様ができているかもしれません。

はらはらと舞い落ちてくる雪が、肉眼でも雪の結晶を確認できるほど形が整っていたので、ルーペで拡大してスマホで写真を撮ってみました。

二枚目ははっきりと雪印のマークの樹枝状結晶が撮れました。

それから森の中も少し散歩。まだスノーシューはいらないので楽です。寒さもさほどでなく、歩いている最中は、少し暑いくらい。

茂みの向こうで、立派な角を持った大きな雄のエゾシカが驚いて逃げていきました。黒光りするような毛皮と、白いお尻が絵になります。

あちこちの雪の中から突き出ているからからに枯れたウツボグサ。

クモキリソウの実も。白い雪の中に包まれて、ドライフラワーになっているだけで、どれもこれも芸術的に見えます。

今日はクマゲラが見れるだろうか、とまた同じポイントにやってきて耳を澄まします。すると、かすかながら、ポリポリとなにかを食べているような音がする。

もしやエゾリス?と思って見回しますが、らしき姿は見当たらない。かなり近くで音がするけれど小さい。よく見れば、幹を走り回る小さな灰色の鳥がいる。ゴジュウカラか?

でも聞いているうちに、キツツキのようなドラミング音に変わる。こんなに小さなドラミング音ということはコゲラか? そう思って目を凝らすと、背中にしましま模様があるような気がする。

さらにスマホの望遠レンズを向けると…、

確かにコゲラでした! いることはわかっていたけれど、見つけたのは初めてです。どこにでもいるような鳥らしいですが、今まで脳が認識していませんでした。スズメサイズなので、双眼鏡や望遠レンズがないと見過ごしてしまいがちですね。

帰ってから調べてみると、「ギィー」と鳴くとのこと。そういえば、先日から森の中でそんな声がして、カワラヒワみたいな声だけど、あれは春の鳥だしなぁ、と思っていたところでした。なるほどこれがコゲラか。一度脳の中に探索像ができれば、今後は簡単に発見できそう。

寒くなってきたのでぐるりと一周して引き返します。クマゲラはいなかったけれど、コゲラとエゾシカを見れたので満足。

森の端のほうで、近くの牧草地を眺めると、すばらしい雪原になっていました。遠くの雪をかぶった山々も実に美しい。

ここで困ったことに気づきます。なぜか、iPhoneのカメラが故障してしまったようで、画面真っ黒で何も映らなくなりました。さっきまで動いていたのに突然なぜ…? 再起動や強制再起動を試してみてもうんともすんとも。修理に出さねばならないようです。

もし野鳥観察を楽しみたいなら、この機会に、もう少しちゃんとしたズーム性能のあるカメラを買ったほうがいいのかなぁ…。スマホ+望遠レンズでは、映ることには映っても、限界を感じてしまいます。

でも高価なカメラを買ったところで使いこなせそうな気はしないし、主たる用途である植物観察やマクロレンズでの撮影には不自由していないし…。とりあえずスマホは修理に出して、その間に考えようと思います。

「色のない島へ」再読メモ(1)

できることなら、また毎日少しずつ読書の習慣を取り戻せたらと思っている。過ごしやすい冬はそれにうってつけの季節だ。本当に継続できるかはわからないが、そのテストとして、またリハビリとして、次は「色のない島へ」を読んでみたい。

読書メモのとり方についても試行錯誤だ。

以前はすべて読んでから、付箋をつけた部分を索引風に整理していた。そしてブログにまとめる段になってやっと個人的な感想を含めていた。

だが、先日のオアハカ日誌の読書では、リアルタイムで思いついた感想を書くという方法を試した。

前者は一気に読んで概観できるという利点が、後者は中断しながらだが考えながら読書ができるという利点がある。

文章を一気に読む根気に乏しい今のわたしには、後者が向いているのではないかとオアハカ日誌のときに思った。だがそれは、オアハカ日誌が短い本だったおかげかもしれない。だから、もう少し長い本でも機能するのかどうか試してみたい。

以下読書メモ

■ジェラルド・エーデルマン「記憶とは事象の単なる記録や再生ではなく、個人の価値観や視点による再編、再建の作業なのである」。

つまり記憶とは記録映像のようなものではなく、主観が入り込んだ唯一無二の叙述だということだ。裁判のような場ではこれが虚偽記憶を生むが、それぞれの人がそれぞれの世界を生きているからこそ、つまり無限の真実があるからこそ、人間にはアイデンティティがある。(p14)

■サックスが幼い頃から動植物が好きだったという話。ヴィクトリア朝の博物学者への憧れ。はっきり言って、こんな楽しそうな子ども時代を送りたかったという羨望を感じる。

だが、これは良い点だけを抜き出して再構築された記憶なのだろうか。誰の人生でも再構築の仕方によっては、過去は美化されることもあるし疎まれることもあるのだろうか。(p14)

■「私はイギリスの神経学の父と呼ばれているW・R・ゴワーズが苔に関する植物学の研究論文を書いていたことを最近知って、とても嬉しく感じた。ゴワーズの伝記を書いたマクドナルド・クリッチリーはこう書いている。ゴワーズは「自然史家として持てる知識をすべて患者の枕元に運び込んだ。彼にとって神経的な疾患とは熱帯のジャングルに生える植物のようなものだった……」

とても興味深いエピソード。コケについての記事を書くことがあればぜひ引用したいものだ。わたしは医師でもなんでもないが、今の自然界に対する関心と、人間の脳や神経科学に対する関心は相反するものではなく、地続きなのだと思わされる。(p15-16)

■記憶が思い出せなくなると、トバイアス・ピッカー(Tobias Picker)の「魔の群島」(調べたがわからなかった)を聞くと、プルーストの「失われた時を求めて」さながらに、島の出来事を思い出せた、という記述はとても興味深い。やはり作品づくりをするときは、それに適したBGMをかけるべきかもしれないと思う。(p18)

■「私は常に島に魅せられてきた」。わたし自身はそう感じたことはなく、かえって島というと何か怖いイメージがある。狭い社会、閉ざされた文明、血の濃縮、海に阻まれる願い。住んでみれば違うのかもしれないが、なぜか内陸のほうが安心感がある。

サックスは、島に憧れていたと同時に「恐ろしい存在」でもあったと書いている。「科学的な見地から見れば、島は自然の実験場であり、地理的な特異性の恩恵、あるいは呪いを受けて地球の他の場所とは比べようもない生物を育んでいる」。

島は特異で魅力的であると同時に、常識が通じない恐ろしい場所なのだ。生物に関してもそうだし、生物の一種である人間に関してもそうである。(p23-25)

■「私は感受性が強く、他の人の想像の産物を苦もなく自分のものにすることができた」。サックスのついての記事に追加しておきたい一節。(p24)

■色を失ったジョナサン・Iの話。火星の人類学者にも書いてあったんだっけか? 過去記事でまとめたはず。(p26)

■ウェルズ「盲人国」の話。障害者が多数派の社会では、正常と障害の概念は逆転する。ろう者が多数派をしめる島でも、そしてこの本の題材である色のない島でも。(p28)

■先天性全色盲のフランシス・フッターマンの体験談。「何かを失ったという意識はない」(これはクヌートも言っている p38)「苦しいのは、光に過敏なことからくる痛みと、視力が鈍いこと」。わたし個人の目の問題にも関連して、何度か読み直した記述だ。相変わらず光に弱いし疲れやすい。対策してなお、十分とは感じられない。(p31)

■同じく全色盲の当事者であり、研究者でもあるクヌート・ノルドビー。彼はこの本のもう一人の主人公だが、彼が書いたという「ナイト・ヴィジョン」はぜひ読んでみたいものだった。残念ながら、邦訳は出ていない、彼の名で検索してトップに出てくるのはなんとわたしの記事だ。(p32)

■クヌートは、ハワイに集合した時には、サングラスを何重にもかけていた。わたしのメガネに通じるものがある。だが、わたしの場合、サングラスで暗くすれば、いいというものでもないのだ。プリズム入りメガネも作ったが、疲れやすいことには第三の理由もあるように思えてならない。(だがクヌートは、「それだけの重装備でもなお、常にまばたきしたり目を細めたりしていた」らしいので、わたしと同じともいえる)。

■クヌートは、錐体視細胞に欠陥があるので、明るい場所でも杆体視細胞を使っている。わたしの場合も、なぜか普段から杆体を使っているのか? それとも全然違う理由なのか? これも数多くの切り替え不全(スイッチング)の問題のひとつとみなすことはできないだろうか。

クヌートはそれだけでなく、通常の1/10の視力しかなく、拡大鏡や望遠レンズなしでは文字を読めない。眼振もひどい。それでも学者として日々文章を読めているというのは驚きだ。わたしの目の疲れやすさや、それに伴う全身の緊張はまったく違う理由のような気がする。

それに、クヌートや他の全色盲の人のように欠陥を補うために発達した別のすばらしい視覚的能力があるとも思えない。興味深いことに、彼は「物の形、質感、輪郭、境界線、釣り合い、奥行き、そしてほんのわずかな動き」に鋭く、灰色の豊かな色の世界に生きていて、なんと眼振のおかげで、その視力では見えないはずの星座をはっきり見ることができる。天文学のちょっとした権威でもある。(p35-39,44,89,95,100)

文字に頼れなかったせいで記憶力も優れている。普通の人たちよりも「色のルール」に詳しいのも、からかわれないようにするためだった。これは、わたしのようなマイノリティが、健常な人よりも脳の働きに詳しいこととも似ているかもしれない。普通の人たちが疑問に思わないようなことまで調べて知る必要があるのだ。(p106-107)

自分生まれ持った障害を嘆くのではなく、「どんな雲にも銀の裏地がある」を地でいっている話に思える。そうできるのは、障害が生まれたときからのもので、自分は何かを失った、とは感じていないからでもある。しかし、それでも、他の人と違う不自由を嘆くのではなく、自分の問題を研究して科学者にもなり、自分が知らない「色」の世界にも積極的な興味を向けているクヌートの姿は見倣うに値する。

■色のない人が1割も占めるマスクンの島でならともかく、社会に3万人から4万人に一人とされる全色盲(p27)のクヌートやフランシス・フッターマンの場合、それを受け入れるのは難しかったことだろう。クヌートの場合は兄妹3人がそうだったのは利点だった。(p109) フッターマンの場合はもっと厳しい幼少期を送った。

しかし、徹底的に調査し、自分は何者かをしっかり認識していることがアイデンティティを生み、たとえ他の人たちとは違うとしても、自分には自分なりの長所がある、と確信できているのではないだろうか。(p290)

フッターマンはいう。「「全色盲」という言葉は、私たちの視覚の欠如についてしか説明していません。つまり私たちに備わっている能力や、私たちが見たり作り出したりする世界については何も語っていないのです」。(p268)

これは、トラウマを負った人たちについての、ヴァン・デア・コークの言葉を思い出させるものだ。病名は彼らの創造性について何も語ってはいない。

■「適応と補償」。三色型色覚に対して、二色型色覚は認識できる色が少ない。だが、線やコントラストに強いというメリットがある。全色盲にもまた異なるメリットがあるとフッターマンは語る。(p274)

サックスが「心の視力」だったかで書いていた、脳の再配線の記述とリンクする。人は視力を奪われると視覚野の一部が触覚にあてがわれるのだ。

要するに、回り道をしたことで、思いがけない景色に出会うこともある、ということだ。自分は回り道だけしたと思って境遇を嘆く人もいれば、自分だけが見た景色に喜ぶ人もいる。それを認識できるかどうかを分けるのは、自分と周りの人の経験について、よく知って理解しているかどうかではないだろうか。

自然豊かな場所に住んでいるのに、その価値について全く理解していない人々にも同じことを思う。彼らは毎日見ている風景の価値を理解していないのだ。大都会に一度も住んだことがなく、人工物に囲まれた暮らしが便利である反面、窒息しそうになることを知らない。同様に、ずっと障害を持っている人は普通の人の暮らしを知らない。普通の人が持っていないものを、自分が持っていることに気づけない。よく調査し、本を読んで、別の人生を疑似体験してみない限りは。

■旅路の記述を読んでいると、あまりに理不尽で、耐久レースさながらだ。わたしだと島につく前に人生を呪って死にたくなるだろう。今だって、ちょっと遠出するだけで疲れてしまうので、家の近所だけをひたすら歩き回ることにして、北海道の数ある観光地には決して行かないことを心に決めているというのに。

■本来は美しい自然なのに、恐ろしい放射能や排水でひどく汚染されて地獄のようなところになっているという記述にとても心が痛む。(p40-50)

やっとのことで地獄のような旅路から解放され、目的地であるポーンベイ島、「博物学者にとっては天国のような」魅力的な島にたどりついたところで今日は終わり。

この方法の読書は楽しいですが、索引式の読書メモのような利便性がなく、一長一短だと感じます。両方を同時並行で作りながらじっくり読めばいいのだろうか…? 「色のない島へ」の場合は過去に索引式を作っているので、今回はやりませんが。

サックスが「知の逆転」で書いていたことを思い出します

ただEメールについては、人と人とのコミュニケーションをはたして高くしているのかどうか疑問です。

手軽なので当然高くしていると思いがちですが、その実、ナンセンスや思慮の浅い単なる思いつきを書きがちになる。

私はいつも実際にペンでゆっくりと手紙を書くようにしています。この「ゆっくりさ」というのが重要で、よく考えますし、考えを洗練させることができるからです。(p165)

これは現代のSNSにはさらに当てはまるでしょう。人々は何も考えず、どうでもいいことを発信しては対立や争論に巻き込まれています。もっと「ゆっくり」考えてから行動することが必要です。

わたしはこれまで、できるだけ多くの本を急いで読もうとしてきました。わたしの目の問題のせいで、ななめ読みのほうが向いていたというのもありました。でも急いで情報収集しなければならない状況は終わりました。もっとゆっくり、じっくり一つの本を時間をかけて読み、考えを洗練させていくことも必要なのかもしれません。

2020/11/25水

「色のない島へ」再読メモ(2)

「色のない島へ」を再読するよりも、最も初期に読んだ「心の視力」を読むべきだという思いに駆られた。しかし途中で放り出すと内容を忘れそうだし、とりあえず第一部のピンゲラップ島の部分だけは読んでおこうと思う。本当に読み返したかったのは第二部のソテツについての記述だったのだが…。

■小型飛行機がピンゲラップ島に不時着するとき、突風にあおられて、滑走路をはみ出し、すんでのところでラグーンに突っ込みそうになったときのサックスの反応が面白い。同乗者もパイロットも顔が真っ青になっていたところ、彼だけ反応が違った。

■「私はというと奇妙に落ち着いていて、リーフで死ぬのもロマンティックでいいものだろうな、などと考えていたとき、突然猛烈な吐き気が込み上げてきたのだった。あの恐怖の中でさえ、不思議と私の耳には笑いさざめく声が聞こえ、ブレーキのすさまじい音がまるで違う世界のことのように遠く感じられていた」(p57)

何気ない記述だが、危機に直面したとき、闘争・逃走反応を起こす人と解離を起こす人の明確な違いが現れている。ほかの本の記述からもわかっていたことだが、サックスは明らかに解離によって対処する人だった。

■クヌート、地球の反対側で、自分と同じ全色盲の子供たちに囲まれ、その瞬間に強い親しみを感じた。脚注によると、ろう者やトゥレットでも同じような場面がある。自分と同じ同朋に出会えた嬉しさ。しかも一人だけでなく大勢がそうであるコミュニティを見つけたという喜び。「この大きな世界のどこかに兄弟がいる」。(p58,108,271)

想像はできるが、わたしはそんな経験をしたことがない。かろうじてあるといえば、イマジナリーコンパニオンをもつ人たちをネット上で発見したときだろうか。だが、わたしは、表面上似ていても人は分かりあえないというスタンスなので、この手の話にはどうも疎外感を感じるのだ。

■クヌートは、全色盲のおかげで緑一色の植物をよりはっきり見ることができた。色覚をもつ人は緑一色に混乱するが、クヌートは「その明るさ、像、形、質感などの重なり合いを、しごくかんたんに見分けることができる」。(p60)

ということは、種子植物の可憐な花が現れる前の太古のシダの世界ではどうだったのだろう?ある意味、今の世界というのは都市だけでなく自然界も含めて、三色型色覚の生き物のために自然選択された環境なのだ。

しかしかつての太古の世界はそうではない。当時の動物は2色型色覚だった。そして当時の植物は複雑なフラクタル構造だった。いまシダやコケの世界に惹かれる人がいるのは、「色」ではなく「線」に魅力を感じるからではないだろうか? わたしは自分がそうだとわかっている。(p273-274)

■「ね、お分かりでしょう。私たちは色だけで判断するわけではないのです。目で見て、触って、匂いを嗅いで、それで分かるのです。全感覚を使って考えるんです。あなたたちは色でしか判断しませんけれど」。(p61)

自然観察をしているとその豊かな感覚世界がよくわかる。色だけ見ていたら騙されてしまう。じっと耳を澄まし、匂いも、触覚も、味も確かめなければわからない。フッターマンも言うように、そうするなら「物事についてより多くの情報を知ることができ」る。(p274)

■ダーウィンの最初の仕事であるサンゴ礁の研究について。残念なことに環礁を見に行ったことがないので実感がわかない。(p63)

■ピンゲラップ島の遺伝子濃縮によって、いかに全色盲が広がり、マスクンと呼ばれるようになったかの話。外の世界では3万人に1人なのに、ピンゲラップ島では12人に1人。それくらい多くなれば少数派も市民権を得るのだろう。

現代社会の発達障害も、(統計上はともかく体感上は)そろそろそのレベルまで増えてきたから、これほど騒がれているのかもしれない。だが、症状が複雑で千差万別なので、マスクンほど理解が得られるとは思えない。(p65-67)

■サックスが地衣類を見つけるなり「かじってみた」という話が面白い。地衣類の中には食べられる種類のものもあると言うが、種類も多いしどれがどれだがかわからないので食べようとは思えない。だがキャベツみたいで美味しそうには見える。日本で食べられているのはイワノリだったか? 調べたらイワタケとバンダイキノリだった。(p70)

■全色盲の人でなければ見えない明度の違いを編み込んだ織り物。一度見てみたい気がする。わたしのように、光過敏で、夜の世界を愛してきた人にも見えないのだろうか。それとも、ほんの少しそのすばらしさの片鱗を味わうことができるだろうか。(p75-76,78)

■障害を持っていることは、決して短所ばかりではない。しかし、だからといって、何もせずに長所になるわけでもない。

マスクンの人たちは、夜目が利くといった利点を自分でもよくわかっているし、周知もされている。(p86,89) 基本的には社会の成員として受け入れられ、理解もされ、神話まで作られている。そこそこ多数派であるがためだ。(p134)

しかし、島では数多くの迷信や噂による差別もあり、社会的な不自由はたくさんあるようだ。(p72-74,86-87)

島の医者には全色盲の人たちの暮らしを向上させるためにサングラスを与えるといった程度の知識すらなかった。遺伝の仕組みを教えて、罪悪感を取り除かせることもできなかった。子どもたちはサンバイザーを与えられて初めて世界が広がった。(p79,104,111,113)

自分で「行動の意味を考え、類別する作業をする」か、さもなければたまたま詳しい専門家が通りかかるかしなければ、運命の牢獄から出ることはできないのだ。わたしが今、雪原の美しさを堪能できるのも、自分でアーレンシンドロームにたどりついたからにほかならない。(p113)

「どんな雲にも銀の裏地がある」は、ある程度逆境を乗り越えた後の、ある種のPTGのようなものであって、病気や障害の負の影響を綺麗事にすることはできない。

■持ってきたサングラスを全色盲の赤ん坊にかけると、ずっと目を細めて声を挙げていたのが途端に落ち着いて、周囲の世界に関心を向け始めた、という話は興味深い。ADHDや自閉症の子どもが問題児になるのも、同様の感覚過敏による不快感が関係していることを思わせるからだ。(p80)

■サックスが、自分はウィトゲンシュタインのように変化を好まないから、毎日同じ食事でも大丈夫だった、と書いていることに違和感がある。変化を好まない人が、こんな場所まで来るだろうか? それよりも、確か別の著書で書いていた偏食のせいで、同じ食事が続いても苦にならなかっただけでは? わたしも食にあまり関心がないせいで、毎日同じ食事でも飽きないのでわかる。(p80)

今日はここまで。次回はポーンベイ島に帰ってからの記述で、第一部の最後の章です。

サックスは「心の視力」の中で寝る前の読書の習慣について書いている。わたしもできればそうした決まったルーティンを作りたい。不眠症ではないが、なかなか寝付けない(寝るモードにスイッチが切り替わりにくい)ので、何らかの条件付けを作り出すのが一番好ましいと思う。

2020/11/26木

「北海道シダ植物誌」を読む。ヘビノネゴザなどなかったと判明

図書館に依頼していた「北海道シダ植物誌」が届きました。自費出版の本らしく、買おうとしても絶版で中古本もないので助かりました。

内容は、北海道のシダの種類ごとの分布調査図が主なコンテンツのようです。気になったのは、ヘビノネゴザの分布で、この地域には存在しないとのことでした。これまで参考にしてきた分布図のうち3冊中2冊がそうなので、もし自生しているとしても数が少ないだろうことが読み取れます。

ということは、これまで何度も見つけてきたヘビノネゴザと思っていたシダは、じつは別のシダではないか、という疑いが出てきました。

ヘビノネゴザを同定するときに、見分けるポイントと考えていたのは以下の4点でした。

・裂片の先がかなりギザギザして尖っていること
・葉身の形が紡錘形(楕円形)になること。つまり、中ほどの羽片が一番長く、下のほうの羽片は短い。
・ソーラスが三日月型であること
・羽片に柄がないこと

特に一番目の裂片が尖ってギザギザしていることを重点的に見ていましたが、この特徴をもつシダは複数あります。特にミヤマベニシダ、ヤマイヌワラビを考慮に入れていませんてした。

改めて写真を見てみたところ、これまで5回ほど、ヘビノネゴザらしきシダを見ていました。ところが、今の知識で再検討したところ、5つともヘビノネゴザではなさそうだ、ということがわかりました。

(1)9月に見たシダ。
改めて今の知識で見ると、これはヘビノネゴザではありません

・下のほうの羽片に柄がある。
・また、最下部の羽片の、一番下側の小羽片が小さい
・一番下の羽片は短いが、葉身全体の形が三角形に近い。

ということで、これはヤマイヌワラビです。ヤマイヌワラビの軸はふつう赤紫なのに、このシダは黄緑なので、無印イヌワラビかもしれませんが、一応、このあたりには無印のほうは分布していないことになっています。

(2)10月初頭に見たシダ。
ヘビノネゴザというかミヤマヘビノネゴザのように思われたもの。

・裂片の形は確かにヘビノネゴザに似ているが、よく見ると、軸に一番近い裂片が大きく膨らんでいるし、裂片に少しだけ柄があるので、イノデの仲間と思われる。
・羽片の先が細長く尖っていないのがヘビノネゴザらしくない。
・下のほうの羽片は小さくなっていて、ヘビノネゴザらしくない。

下2つの点がヘビノネゴザらしくなく、ミヤマヘビノネゴザのほうに似ていたのですが、たぶんホソイノデでしょう。後にホソイノデと同定した(4)の右側のシダとも似ています。もっと拡大写真を撮っておけばよかったと悔やまれます。

(3)10月上旬に見たシダ。
一番ヘビノネゴザらしいと思っていたもの。

・上のヤマイヌワラビのような三角形の葉身ではない。
・全体の形は紡錘形(楕円形)だが、下のほうの羽片が極端に短くなることはない。ここまでの2つの特徴は、ヘビノネゴザにも当てはまる。しかし以下の特徴が異なっている。
・裂片の形をよく見ると、ほぼ3回羽状複葉のように切れ込んでいる。2回羽状複葉のヘビノネゴザよりも切れ込みが激しいため、3回に見えるということ。これはエゾメシダの特徴に近い。
・葉柄がかなり短く、黒い鱗片がついている

ということで、このシダはミヤマメシダです。わかってみれば、春にミヤマメシダの芽を見た場所だったので間違いありません。

こんな勘違いをしたのは、今までヘビノネゴザの裂片のほうが、エゾメシダの裂片より葉の切れ込みが激しい、と思い込んでいたことにあります。

しかし、ヘビノネゴザは2回羽状複葉なのに対し、エゾメシダはさらに切れこみが激しく、ほぼ3回羽状複葉のようになっています。

フラクタルに惑わされ、2回羽状複葉の裂片と、3回羽状複葉の裂片を同列に置いて比較してしまっていました。音楽でいうと、音の高さを1オクターブ勘違いして比較していたようなもの。

(4)11月、つい先日に見たシダ(左側)。

・全体の形はヘビノネゴザとみなしても意外ではない
・裂片が軸にぴったりくっついて生えていることに違和感がある。ヘビノネゴザは裂片の付け根の上側に、イノデ類ほどではないが小さく切れ込みが入る。
・裂片のギザギザの先が、少し白いノギ状になっているように感じる

おそらく、ミヤマベニシダではないかと思います。

問題は、ミヤマベニシダをまだしっかり同定したことがなく、典型的な形がわからないこと。しかしミヤマベニシダは、このあたりにも広く分布しているので、これまで見ていないこと自体がおかしい。おそらく、すでに見ていたにもかかわらず、別のシダだと勘違いしていた可能性が高い。それがこれではないだろうか。

(5)11月、つい先日見たシダ。
上と同じシダに見えるので、ミヤマベニシダかもしれない。

一方、以下は7月に撮った謎のシダ。たくさん生えていて、赤みを帯びていたので気になりましたが、友人の道案内をしていたので、じっくり観察できませんでした。

裂片の形などを撮った写真はありませんが、若葉が赤みを帯びているらしいミヤマベニシダではないかと推測しました。来年以降、再び目撃するチャンスがあれば、観察のポイントもわかっているので正体がわかるでしょう。

というわけで、なんと、これまでヘビノネゴザだと思い込んでいたシダは、全部別物だったことが明らかになってしまいました!

最後のミヤマベニシダ?は自信がないので、今後また知識が増えたら修正する可能性がありますが、勘違いも甚だしいですね。

独学で学んでいると、こうしたミスはよくあります。しかし、誰かに指摘してもらわなくても、勉強を続ければいずれ自分で気づけるので、これからも勤勉でありたいです。とりあえず、過去日記のキノコとシダはたまに見返したほうがよさげ。

さて「北海道シダ植物誌」の分布調査を見る限り、すでにこの地域にあるシダのほとんどは発見し終えたかに見えます。以前にメモしたうちの自治体の植生調査(1975年)で確認されているシダのリストと比較しても、着生シダを除けば、ほとんど発見し終えたといってもいいでしょう。

残っているのは亜高山帯など、観察に行くのが困難な場所のシダかもしれません。今後は、すでに見つけたシダを確実に見分けられるようになるまで、地元で繰り返し経験を積むことにします。そうすれば、いずれ別の場所で、もっとややこしい多種多様なシダの大群に出会っても観察する準備ができているでしょう。

「北海道シダ植物誌」は作成に相当な労力が払われたようですが、近年の本とは思えないほど体裁が悪く、参考にするのは難しそうです。巻末の文章は読んでいて面白く、役に立ちますが、文体が安定せず、量も少ないです。

メインで使っている「北海道のシダ入門図鑑」がとてもすばらしいだけに、もう一冊役立つ資料があればと思っていましたが、ふさわしいものが見つからず残念です。全国版の評価の高いシダ図鑑を探したほうがいいかもしれません。

2020/11/27金

「色のない島へ」再読メモ(3)

■ナン・マドール(ナンマトル)遺跡の旅。気になって画像検索してみたが、入り組んだダンジョンのようで、旅の記述もまたさながらインディー・ジョーンズの冒険記のようである。サックスも書いているように、古代の亡霊がまだ潜んでいるかのような気味悪さもまた、ただの観光地ではなく迷宮を思わせる。(p95-100)

■なんとスティーブン・ウィルシャーが描いたナンマトル遺跡の絵がある。実際に訪れたとは思えないので、サックスの撮った写真を模写してもらったのだろうか?(p98-99)

■シャカオ(コショウ科の植物ヤンゴーナの根を砕いた飲み物)を飲んだ体験。Wikipediaにはカヴァとして載せられている。一度は飲んでみたいものだ。それは「世界で最も性質の良い麻薬」でもあるという。(p101,128,300)

シャカオによってサックスが酔っ払ったときの描写は、いわゆる薬物による解離現象とよく似ている。幻覚が見えたり身体の感覚がなくなったりしただけでなく、ペンが勝手に動いて文字を書くという自動症のような現象まで起こっている。(p131)

■ポーンベイ島側のマスクンの村。こちらのほうが人口が多くて2000人規模らしい。道北の村や町と同規模なのでイメージしやすい。(p103)

■「先天的で進行しない種類の遺伝病で、しかも日常生活に極度に不自由は生じない疾病」は医療分野で後回しにされがちだという話は興味深い。盲目、ろう、全色盲などの人の生活のクオリティを上げるより前に、もっと致死的な伝染病などに対処させられるのだ。日本ではもっと医療に余裕があるようにも見えるが、研究費用の多くはがんや心疾患にまわされているのだろう。(p114)

また、研究が進まないのは、同じような境遇の人が寄り集まって暮らし、マイノリティ集団を形成していることもあるという。患者会のようなものもそうなのではないだろうか。同じ境遇の人はそこに慰めや援助を求め、外部の人たちは患者会の内部に関心を持たない。(p115)

■イエズス会の伝道師が、島のシャーマンと出会って、その豊富な自然や生態系への知識に感動し、傲慢な態度を捨てて、共に研究仲間として信頼関係を築いた話が興味深い。紙の書物からだけでなく、自然からは大いに学ぶべき「具体の科学」がある。だが、そのような知識も絶滅しかかっている。たとえ太平洋の島であっても。(p121-122)

■ついに出てきた木生シダの話。今回はクロヘゴ(cyathea nigricans)、ポーンベイヘゴ(cyathea ponapeana)、リュウビンタイ(angiopteris evecta)が登場。「毛深い若葉がくるくると渦巻き状になっている」のをぜひ自分の目で見てみたい。リュウビンタイは写真を検索するとめちゃくちゃでかい。恐竜時代のシダがそのまま現れたかのようだ。(p124)

■「たぶん、彼のいろいろな能力と素晴らしい方向感覚はこれらの障害と引き換えに養われたものだろう」。サックスがクヌートの多種多様の能力を見てこう評したことは意義深い。(p132)

もしわたしがサックスと1週間旅行に行ったなら、どうだろう。わたしが気づいていない自分の長所も、優れた神経科学者の臨床の目によって明らかにされるのだろうか。

ある意味で、障害をもつ人、ずっと檻の中に捕らわれてきた人に必要なのは、客観的な神経科学者の目なのだ。自分では欠点ばかりだと感じるとしても、人が適応する生き物である以上、引き換えに作り出される能力は必ずある。しかし、それは当人の目からは隠されているのだ。

■「きっと僕も生まれながらの夜の漁師なんだよ」。わたしの明るさ過敏が、森の中の明るさに「ちょうどいい」ことには考えさせられる。さすがに雪が降る森の中ではサングラスは必須だが、もしかしたら雪のない地方の森の中で生活していた人々が祖先だったのだろうか、などと考えてしまう。(p133)

■モンテーニュの言葉。「病気を治療したり、事故や状況を分析しようとする人は、それらを実際に経験すべきであり、私は経験に基づいた人しか信用しない。その他の人は、自分の家で机に向かって海や岩、港などの絵を描き、まったく危険とは無縁な環境で船の模型を走らせているようなものである。こういった人は、いざ現実に放り込まれてみれば、何から手を付けていいのかも分からないのだ」(p290)

以前に別訳をブログに引用したことがある。別訳のほうがインパクトがあって好きだが、意味をよく考えるためには複数の訳があったほうがいい。どちらにせよ、経験に基づかない医者や教師の資質を痛烈に糾弾する名言だ。

■フランシス・フッターマンについての驚くべきエピソード。当事者にして最高の研究者。わたしは自分もその系統であるとは考えていたが、世の中には比較にならないくらい有能で忍耐強い人がいるのである。

わたしの場合は、自分の起源を明らかにした時点で満足してしまい、自らの疾患をアイデンティティの一部に組み入れて、人生をかけて研究したりしよう、とまでは思えなかった。(p135,290-291)

■サックスがウィルソンのバイオフィリア仮説について書いている貴重な一節。バイオフィリアはガードナーのいう生物的知能であり、遺伝によって受け継がれるかもしれない、としている。(p295)

サックスはこれを後天的な訓練が必要な音楽などの才能と対比しているが、わたしはどちらも同じだと思う。

確かに自然界への感受性は遺伝すると思われるが、幼少期の経験または大人になってからの訓練なしでは、自然界に対する鋭敏な感覚も開花せずに埋もれてしまい、本人でさえそれに気づかなくなってしまう例を知っている。

以上で、「色のない島へ」の第一部ピンゲラップ島編は終わり。2度ほどブログの題材にしただけあって、そこそこ内容は覚えていました。

しかし、一度目は読み飛ばしていた部分、旅行中の日本軍の島のエピソードや、ナン・マドール遺跡の探検、そしてもちろん植物に関する記述などを新鮮な気持ちで楽しめました。とても楽しい旅の記録で、わくわくさせられました。わたしは旅の小説を読むのが好きらしい。

また、クヌート、フッターマン、マスクンたち、という三者三様の全色盲の人たちの生活史に注目することで、障害を持っていてもそれを強みに変える方法を考えさせられました。

この中で最も過酷な人生を送ったフッターマンが、最も熱心な全色盲の研究者になったのは興味深い点です。逆に、比較的差別もないマスクンたちは、自分たちの障害を突き詰めて考えるまでには至っていませんでした。

「たぶん、彼のいろいろな能力と素晴らしい方向感覚はこれらの障害と引き換えに養われたものだろう」とのサックスの言葉どおり、最も苦悩した人ほど、引き換えとして他の人たちが到達できない高みまで登れるのかもしれません。(ヴァン・デア・コークが自身について書いていたエピソードを思い出させる)

さて、この希望のある話から一転して、続きの第二部「ソテツの島」では、リティコとボディグに関する非常に重苦しい話が展開されます。この部分のソテツに関するエピソードを読み返したい、と思って再読を始めたのですが、このまま読むか、「心の視力」に浮気するかは考え中です。

雪の森でシラカバの種やクロサイワイタケを見つける

ここ数日、断続的に雪が降っているので、道路以外はほぼ真っ白の素敵な景色が続いています。週間天気予報を見ても、向こう一週間は最高気温も氷点下の日が続くので、これで根雪になってくれるかもしれません。

森に行こうと家を出たら、家の真上を、トビが上昇気流に乗って螺旋状に旋回していました。スマホを修理に出しているので望遠レンズが使えませんが、前に使っていたデジタルカメラでもズームで映るくらいの距離を飛んでいました。

そういえば、昨日、町の上空をイヌワシのような鳥が飛んでいったのを目撃しました。トビよりも一回り大きい体格で、下から見上げた全身は黒く、羽の白い模様はなく、尾も尖っていました。

イヌワシはそうそう見れる鳥ではありませんが、サケのいる河の近くを飛んでいることが多いとのこと。条件には当てはまります。とっさに写真を撮れなかったのが残念です。

森の地面は、そこそこ雪が積もっていましたが、まだ普通の靴で問題なく歩ける程度です。ウツボグサやウマノミツバなどの枯れ草が、雪から突き出ています。池も氷が張った様子はなく、静かに雪に覆われた森の風景を映し出していました。

森の近くのアスファルトの道路は、除雪されていないため、雪で覆われていました。自動車のわだちの代わりに、シカの群れらしき足跡が遠くまで続いています。4頭くらいの群れだったのでしょうか。

森の中の雪上には、見慣れない小さな破片が散らばっていました。サイズは0.5ミリくらいでしょうか。飛んでいる鳥を切り抜いたかのような面白い形をしています。

周囲の木を見てトドマツの種だろうかと思いましたが、トドマツだったら松ぼっくりの破片も落ちていそうですし、サイズも全然違います。帰ってから調べてみるとシラカバだとわかりました。植物は種の形もひとつひとつ違って個性的です。

雪で覆われた白黒の冬の森では、鮮やかな色彩を保っている地衣類やコケがとても目立ちます。

樹皮を覆っていた虹色のグラデーションのコケ。スマホがないと接写レンズは使えないので、細かな形状まではわかりません。いったい何という名のコケだろうか。

コケに混じってふさふさと目立つ地衣類。ハナゴケの仲間の裸子器でしょうか?

枯れ木の切り株に生えていた、2cmほどの謎の黒い細長いもの。地衣類かと思いましたが、Google Lens先生の助けでキノコだと判明。枯木に生えるクロサイワイタケ(別名カノツノタケ)というキノコらしい。

不完全世代(無性)は白色、完全世代(有性)は黒色になるそうです。先端部の細くて色が変わっているところから胞子を飛ばすのだろうか。接写レンズで撮りたかった。

チャワンタケの仲間? 正式な名称はわからない。サイズも相当小さい。

雪の中のジュウモンジシダ。ジュウモンジシダ特有の十字形の左右の羽片がなくなっていたので、はじめは何のシダかわからりませんでした。裂片にトゲと耳状の膨らみがあることから、イノデの仲間かもしれない、と考えました。

でも帰ってから調べてみても、〇〇イノデとつくシダに1回羽状複葉のものはない。もしかするとイワデンダやツルデンダではないか、とも思いましたが、それらとは裂片の形が違っている。結局、ごく普通のジュウモンジシダだったと気づきました。

今まで、ジュウモンジシダは十字形の見た目に頼って判別していて、じっくり裂片を見たことがありませんでした。

改めて調べてみると、ジュウモンジシダ(オシダ科イノデ属)もイノデの仲間でした。だから裂片に、細い柄がある、耳状のふくらみがある、ノギ状のトゲがある、というイノデの3つの特徴が表れていたのだとわかりました。

デンダの仲間と似ているように感じたのも、やはりツルデンダ(オシダ科イノデ属)がイノデの仲間だということを考えれば当然でした。ツルデンダは、ジュウモンジシダの十字の羽片がなく、裂片がもう少し丸いシダ、と覚えておけばよさそうです。

科や属は違いますが、イワデンダ(イワデンダ科イワデンダ属)も十字形の羽片がないジュウモンジシダによく似ていて、裂片もイノデの仲間みたいな形をしています。でも、今回見た裂片ほど、トゲトゲしていません。

ほかにエゾデンダやオシャグジデンダもありますが、これらはウラボシ科で、裂片も柄やトゲがなく、イノデに似ているところはありません。一回羽状複葉のふちが丸みを帯びた葉っぱなので、小型シシガシラみたいな形だと覚えておこうと思います。

やはり〇〇デンダのシダは、もっと山奥の樹齢の長い森や亜高山帯に行かないと見れないのかもしれませんね。

2020/11/29日

キハダの実添えカボチャの煮付けと、冷凍イラクサのカレー

結晶の形が見えるほどの雪が舞い散る中、近所で用事をすませるついでに、公園などを歩いてきました。公園の植栽樹には、これまでスルーしていた見慣れない木が幾つかあり、今年はぜひ冬芽を覚えたいなと感じました。

しかし、手持ちのデジカメでは接写ができないので、せっかくの外出でも写真は撮りませんでした。そもそもデジカメという時点で、取り回しにくさを感じてしまい、気軽に写真を撮る気になれません。早くスマホが修理から帰ってきたらいいのですが。

今日のご飯は、先日採ったキハダの実がすっかり乾燥できたので、カボチャの煮付けにトッピングして食べてみました。

乾燥させたキハダの実は、カリカリした食感と独特な香辛料らしい味が絶品です。ネットでは生で食べている人がいたけれど非常にもったいない。乾燥させたらひんなに美味しいのに!

カボチャの煮付けだけでは甘ったるくて食べにくいですが、乾燥させたキハダの実を載せることで味にアクセントができて、深みのある料理になります。さすがアイヌ文化伝統の付け合わせですね。

もう一つは春に採って冷凍保存してあったイラクサで作ったカレー。赤いのは無農薬の紫キャベツのザワークラフトです。

通常はホウレンソウを入れるところをイラクサに変えてみたものですが、何の違和感もありません。もともとイラクサはホウレンソウっぽいと言われますが、本当に似ている。来春はもっとたくさん採って保存しておいてもいいかも。

夜は、「色のない島へ」を記事にまとめてみました。こういった適当な記事を毎回まとめることに意味はあるのか? それとも、普段は読書メモだけ作るようにして、どうしてもまとめたいものだけ記事化したほうがいいのか? 今後のスタイルについては試行錯誤が必要です。

オリヴァー・サックスの著書「色のない島へ」を再読して、病気や障害のもとでも喜びを保っている人々について考えてみました。

2020/11/29日

「植物が出現し、気候を変えた」再読メモ(1)

まえがき/はじめに

「色のない島へ」の続きを読むか、「心の視力」を読むか、と思っていましたが、過去に中途半端で終わらせていたものを優先することにしました。一度さらりと読んで、まとめた記事も書き始めたのに下書きでほってある「植物が登場し、気候を変えた」を。

■ホールデン「創造主である神がいるとしたら、無類の甲虫好きに違いない」。甲虫が40万種いることからこう答えたこうですが、植物もそれくらいいるとのこと。でも細菌はもっと多いかもしれない。(piii)

わたしに言わせれば、「神はこの世界のインフラをしっかり整えた」というイメージかもしれません。目に見えない細菌、背景としての植物、媒介者としての昆虫など、目にとまりにくい細かな部分をしっかりプログラミングしているので、動物などの目立つオブジェクトがしっかり動作するようになった、と。

■「恐竜なんて目じゃない。地球の歴史をもう一度植物を主役にして見直そう」。この世界の環境を変え、動物たちの栄枯盛衰をコントロールしてきたのは植物だという話がテーマ。人が土地を作るのではない、土地が人を形作るのだ、という話とも似ていると思う。(p iv)

■この本は「科学的な推理小説」であり、読む人がより植物への愛着を深めるためのものだ、と著者は述べている。確かに、植物の化石とシミュレーションを手がかりに、地球の過去の謎を解き明かすさまは推理小説そのものだ。(p iv)

わたしは探偵小説好きだが、こういう自然科学の本を読むにつれ、血なまぐさい殺人や犯罪を題材にしなくても、推理小説を書くことはできると知った。もちろん、「死んだ」化石が手がかりが手がかりになり、どうやってある生き物が「殺されたか」の謎を解くという意味では、もっと多くの命と死が関わっているのだけど。(p4)

そういえば、推理小説において、事件の「動機」ほどどうでもいいものはない。作家もトリックを考えるのは楽しかろうが、毎度違う私怨を考えることほど退屈なことはないだろう。なら、推理小説の犯人には動機などなくてもいいわけで、犯人が人間でなければ、つまり自然界ならばよりプロットがすっきりするともいえる。元祖推理小説のモルグ街の殺人がそうだったように。

■「本文中から専門用語をなくそうと、できるかぎりの努力をした」とあるように、この本は専門的な科学知識を扱う本としては異例なほど読みやすく、気取った推理小説を読むよりも簡単だ。(p v,7)

また科学史に関わる人物のストーリーが生き生きと描かれているのも、群像劇らしくて読んでいて楽しい。(p8-9)

■「史上最高のナチュラリスト、チャールズ・ダーウィンはその魅力に心奪われた。リチャード・ドーキンスは、それをほとんど無視した。どうもこの世の中は、植物に魅了される人とそうでない人との二つに分けることができるようだ」(p2)

絵を描く人が、背景込みで描く人と、キャラクターだけで描く人に分かれがちなのとよく似ているかもしれない。植物という背景込みでこの世界に魅力を感じるか、それとも動的な生き物(植物も広い意味ではそうなのだが)のみしか目に入らないかだ。当然ながら前者のほうがこの世界をより良く理解できると思う。

ダーウィンは植物について6冊の本を書いており、有名なフィンチよりも植物標本の分類のほうが高く評価されたという。(px 34)

■これまで、植物の歴史はつまらないものとしてほとんど無視され、教科書でもほんの数ページしか扱われなかった。それは時代遅れで役立たずで間違っているとこの本で反論されている。考えてみれば、植物がつまらないと感じる人たちは、そうした叙述の影響を受けているのかもしれない。自分で森を歩き回り観察した人なら、決してつまらないとは思わないはずだ。(p2)

植物は地球の歴史をみごとに記録している証人でありも地球のもつ大きな力の一つでもある、というのがこの本の主張だ。それを解明する手がかりが、化石の分析と、「地球システム」モデルという新しい科学だという。(p4-5,9,213)

ただ、今日は例外で、地球環境に対する生き物の影響、つまりヒトの影響があまりに大きすぎるので、産業革命以降の時代は、人類世(人新世)と名づけられているという。産業革命以降、世界が劇的に変化し、人類の一部が不適応を起こすようになった、というわたしのかねてからの主張とも一致していると思う。(p10)

■ニュートンの有名な言葉「私がより遠くを見ることができるのは、巨人の肩の上に立っているからだ」が、嫌味から出たものだろう、というこれまた有名な話。だがニュートンは複雑な内面の持ち主で謙虚な言葉も残しているので、彼の意図がどこにあったのかは知るよしもない。(p8)

第一章

■植物の葉が出現して植物界全体に広がるまで4000万年かかったとみられている。葉は平たい太陽光パネルであり、40℃からマイナス56℃の世界にまで広がっていて、地表の75%を覆っている。(p13,21,26)

葉を作るのはノックス遺伝子のオンオフによって制御されていてどの植物も共通している。その遺伝子は葉が登場するずっと前から存在していた。どうして葉の登場まで、これほど時間がかかったのか、がこの章のテーマだ。(p28,32)

■1859年、ウィリアム・ドーソンにより、カナダで葉のない化石が発見された。1919年にはスコットランドのライニ―植物が発見される。保存状態のよい珪化木だったようだ。ウェールズで最初に確認された葉のない維管束植物はクックソニアと呼ばれた。

それから植物版のカンブリア紀大爆発が起こったが、なぜか葉は最後まで登場しなかった。やっと現れたのが今では絶滅した最古の樹木アーケオプテリス(archaeopteris)の仲間だった。(p23-26)

■植物版のカンブリア紀大爆発の時期には二酸化炭素濃度が90%も落ち込んだことが化石の研究からわかった。(p32)

そして二酸化炭素の濃度が気孔の数に影響するという研究も現れた。植物はなんと産業革命以降の二酸化炭素の上昇に反応して気孔を減らしていた。食事が減るるともっと食べようとして口が増える、と考えるとわかりやすい。二酸化炭素が今の10倍あったころは、食べる口がほとんどいらなかった。(p33-35)

葉を大きくしても内部を涼しく保つには、窓がたくさん必要だ。気孔が増えなければ、葉を大きくすることがかなわなかった。そして気孔の数が増え、葉が大きくなったので、循環させる水を大量に汲み上げ、葉を冷やせるようにもなった。(p38)

二酸化炭素という制約が取り去られたことで、植物たちが競い合って、大きな葉を茂らせた森林をつくるという競争をスタートさせるピストルが鳴らされたのだ。(p43)

では、これから地球の二酸化炭素が極端に高くなるようなことがあれば、植物は葉をなくするだろうか? それとも当時の植物と違って、高性能な配管があるので、気孔の数をある程度減らすのみで、蒸散で大きな葉を冷やそうとするのだろうか。

■「遺伝子の潜在的可能性と環境が用意したチャンス」の巡り合わせという表現は、人間にもそっくりそのまま当てはまるだろう。ルネサンスの芸術の爆発はまさにそうだし、女性の社会進出もそうだ。昔から才能ある人はいたが、環境の制約に阻まれていた。天才は個人の能力のみではなく、環境に恵まれた人たちなのだという話を思い出す。(p44)

しかし、二酸化炭素の濃度を低下させたのも、意図したわけではないにせよ、植物たち自身だったというのは興味深い。人類もまた集団として社会の仕組みを変えてきた。悪い方向に変わったこともあればねよりよく整備されたものもあり、それが個人の活躍につながっている。どんな人も先人の集団的努力の上に立っているのだ。(p44,48)

この本を読んでいると、植物は動的で人間らしさを持つように感じる。しかし人間もまたこの地球の生き物のひとつだから植物に似ているともいえる。

植物たちが二酸化炭素濃度を下げ、葉を大きくして森を作り、大いに繁栄した結果、地球が寒冷化してスノーボールになりそうになった。(ペルム紀大量絶滅のことを言っている?) 人類が大いに繁栄して気候を変え、地球が灼熱地獄になりかけているのと重なる。(p48,275)

このたびも、過去と同じように、ぎりぎりのところでサーモスタットのスイッチが入るのだろうか。たとえそうであるにしても、過去の5回(6回?)の大量絶滅で種の一部のみが存続したように、人類もまた種族として首の皮一枚で生き延びるだけだろうけれども。

■宇宙から地球を観測した場合、大量に存在する酸素、メタンガス、そして赤色光が吸収されていることから、生命の存在を類推できるという。赤い光を吸収しているのはもちろん緑色の葉の植物である。(p16,19)

■アンリ・ポアンカレ「科学は事実である。ちょうど家が石でできているのと同じように、科学は事実でできている。しかし、石の積み重ねがかならずしも家にならないように、事実を積み重ねても、それが科学になるとは限らない」。(p18)

確かに事実を寄せ集めても、それを積み上げる方法が間違っていれば、それは似非科学にさえなる。家のような形をしていながら、家としての機能を果たせないハリボテになるかもしれない。事実と事実を結び合わせるときには、本当にそれらが結合するのか、それとも空想という接着剤で無理やりくっつけていないか熟慮が必要だろう。

■「新しい理論は、突然のひらめきからやってくることがある。ポアンカレの場合そのひらめきは、地質調査で野外を歩いているとき訪れた。彼は当時、数学の難問にずっと頭を悩ませていた。そこに突破口がやってきた。「一歩踏み出したその瞬間、あるアイデアが私に降ってきた。それは、問題の解決につながると思っていたいままでの考えとはまったく関係のないアイデアだった」。ポアンカレの例はひらめきの典型といえよう。劇的な突破口につながるひらめきき、しばしば、どこからともなく現れたように見える」(p18-19)

■ゲーテは、1790年の「植物変態論」で、植物の色々な器官、たとえば花なども含めて、葉が変形したものだという着想をすでに得ていた。(p30) 個人的にはこの話で思い出されるのは花びらのようながくが葉に退化しているミドリニリンソウだ。

第二章

■酸素を発見したことで有名なプリーストリーだが、この場合も未発表の先駆者シェーレがいて、プリーストリーは譲らなかったという科学にはよくある話。プリーストリーはフロギストン説も頑なに擁護したという。(p51,52)

サックスもオアハカ日誌で書いていたが、ある面ではとても謙虚な科学者でも、名声によって傲慢に、また攻撃的にさえなってしまうという謎がある。

■史上初の潜水艦の話。脇道にそれてはいるが、内容はとてもおもしろい。このあたりの科学的エピソードの面白さが本書を緩急のある退屈しない本にならせていると思う。(p54)

■石炭紀後期からペルム紀初頭の巨大生物たち。羽を広げると63cmにもなったメガネウラや1mのムカデやヤスデ、1.5mのウミサソリの発掘秘話。当時は40mのヒカゲノカズラや15mのトクサの森もあった。両生類も数mあった。(p55-46)

■酸素はずっと21%だったと考えられていた。しかし、過去には大量の石炭を算出する時代があり、だからこそ石炭紀と名づけられた。大量の石炭は大量の植物(巨大トクサやヒカゲノカズラ)を示唆している。

同時代の3人の学者が必要なピースを持ち合わせていたのに、ニアミスで答えが完成しなかったという話は興味深い。きっとインターネット時代の今でさえよくある話だろう。(p58-59)

のちに石油会社のデータによって、35%に達した時代があることが確認された。3億年前も光合成に使われていた酵素ルビスコの代謝データもそれを裏付けた。非常に多方面から手がかりを集める博物学的な複合推理だとわかる。(p64,68)

「かつて異なる科学分野のあいだにあった厳密な境界線が取り払われた」ことがこの分野を進歩させている。(p285)

今日でも、極致の海に巨大生物が多いという話は、冷たい海では酸素濃度が高くなることによるらしい。実験室のショウジョウバエも巨大化したという。(p72-73)

ペルム紀の終わりには、逆に酸素濃度が激減し、別の要因と重なり合った大量絶滅が訪れた。このときも植物の活動が関係していて、大陸の乾燥とともに、森林が衰退したという。(p75,109)

■動物、細菌、菌類による有機物の分解には光合成と反対の作用があり、こうして酸素は循環している。しかしそれらが活動できない場所(極地、泥炭地、湿地、大陸棚)では有機物が分解されないか遅くなり、均衡が崩れる。また嫌気性菌も硫黄によって有機物を分解するので、酸素が消費されず残る。しかしいつかは帳尻があうようになっている。(p61-62)

こうして読んでいくと、この本は地球規模での物質の循環について多く扱っていることがわかる。それが地球システムモデルの研究結果なのだろうが、酸素や二酸化炭素の循環は、植物学、生物化学、地質学、鉱物学、その他多くの学問のあわせ技でないと理解できないものなのだ。(p79,81)

■なぜ石炭紀にはそんなにも酸素が多くなったかの仮説。背の高い植物が、構造を安定させるリグニンを合成したが、それがなかなか分解されず、酸素消費が遅れたのではないか、とされている。ということは、巨大生物を生み出したのは植物だったのかもしれない、ということだろう。(p69)

この章からわかることとして、わたしたち生き物は、時代の環境という巨大で手の及ばないものに翻弄されている。博物学的研究をもってさえ解き明かし得ない複雑なフィードバックで制御された環境の海の只中で、生きるも死ぬも定められているのだ。

第三章

■オゾン発見と、成層圏・対流圏、そしてオゾンホールの発見の歴史。土壌中の微生物の活動が、窒素酸化物をつくり、はるか上空のオゾンを破壊するという関連にも驚く。バタフライ効果もさもありなんである。隕石の衝突や噴火がどんな影響をもたらすかの証拠はまだ少ないという。(p87-95)

■グリーンランドで発見されたヒカゲノカズラの胞子の化石には奇形が見られた。(だがヒカゲノカズラは無性生殖もできたので生き残った) そのような異常な胞子は、世界中のペルム紀末の地層から発見された。

シベリア・トラップが物語る数十万年にも及ぶ火山噴火がオゾン層を破壊する連鎖反応を引き起こしたとする説がある。当時の二酸化炭素濃度の高さと、酸素濃度の低さも破壊と回復の遅れにつながったという。(p100-)

■ニールス・ボーア「君の説は狂気の沙汰だというのが、皆の一致した見解だ。いま皆のあいだで意見が分かれているのは、君の説が、真実の可能性があるほど十分に常軌を逸したものかどうかだ」(p83)

■フリーマン・ダイソン「重大な新機軸が生みだされるとき、それはかならずといっていいほど曖昧で、不完全で、混乱した形で現れる。それを発見した本人でさえ、半分しか理解できていないものだ。他の人にとっては、それはほとんど謎としか見えない。どんな推測であっても、それが最初は常軌を逸して見えないとしたら、それが真実である望みはまったくない」(p116)

この章の推理は、過去最大の大量絶滅であるペルム紀の絶滅の謎を解こうという意欲的なものだ。少なくとも、大量の死体はある。そして大量の変異した花粉が犯人を指し示している。だが、犯人がどうやってそれほどの殺戮をやってのけたのかは、悠久の時に埋もれてしまった。

ここで書かれている説は、現代の実験もあって信憑性に富むように思えるが、それほど過去のことを自信をもって解き明かせるのだろうか、という雲をつかむような感覚もまた禁じ得ない。

第四章

■恐竜の発見の歴史、そして5つの大量絶滅の発見について。その中でも三畳紀の絶滅は未解明の部分が多く、最も厄介だと考えられている。(-p128)

ペルム紀に完成したパンゲア大陸では、極端な大陸性気候の暑くて乾いた気候になった。当時の記録のほとんどが行方不明だが、植物は異なるという。

「植物はふつう、動物よりは大量絶滅を乗り切りやすい。植物なら、種子をばらまいたり地下に球根を作るなどして次世代を確保できる。いつか環境が改善されたら、こうした種子や球根から復活すればいい。…2億年前の災難においては、植物の粘り強さが功を奏して、三畳紀の終わりについてもたくさんの化石を残してくれた」。植物ってかっこいい、と感じる。(p133)

これまで「三畳紀末に動物の多様性が減った原因については議論しても無駄だ」とまで言われていたのが、植物の化石のバイオセンサー機能が発見されるとともに、解明の機運が高まったという。(p272)

博物館に眠っていた貴重な植物の化石群を読み解く方法がわかり、科学の進歩によってその声を聞けるようになる様子はドラマチックだ。(p135)

■化石によると、三畳紀末に二酸化炭素濃度が3倍にまでなり、8℃も気温が上昇した。二酸化炭素濃度が増加すると、石炭紀とは逆の変化が起こり、大きな葉をもつ植物は生き残れなくなり、気孔を減らして小さな葉を持つ植物が優勢になった。(p136-137)

■各地の噴火痕をパンゲア大陸のジグソーパズルに当てはめると、模様がきちりと合体するというのが面白い。大陸が本当に移動したことはもちろん、噴火の時期もわかる。その噴火で排出された二酸化炭素は化石燃料全体の10倍だったという。(p132,138,141)

植物の化石はまた炭素の安定同位体12Cが増えていることも示していた。温暖化で溶けた海中のメタンハイドレートが、大量の温室効果ガスとこの同位体を放出したと考えられた。(p143-145)

■5500万年前の暁新世の終わりにも、噴火がきっかけで海流の流れが変わってしまい、メタンハイドレートが溶けた。そして数千年で海洋表面の温度が6℃も上がる温暖化が起こって多くの生物が絶滅した。

こうした現象は、現在の人為的な地球温暖化とよく似ている。当時のように、温暖化がメタンハイドレートを溶かし、さらに温暖化するという「正のフィードバック循環」にはまりこむ可能性がある。その結果、生物種の多くは絶滅するが、やがて地球のサーモスタット機能により安定を取り戻し、新しい時代が来る。だが、それには数十万年かかったとされる。(p146,148,154)

■生態系の回復の際、最初の繁茂する植物はシダらしい。そういえば、ササが枯れたor刈られた後の若い人工林の林床にシダが群生しているのはそのためなのだろうか? (p151)

■この章からわかるのは、大量絶滅に対する地球の回復力はものすごい、ということだ。現在の地球温暖化とは比べ物にならないくらいの大惨事でも、計り知れない時を経て地球はサーモスタット機能により安定を取り戻してきた。だが、それは地球全体の話であって、個々の生物種は大打撃を受けた。

要するに、現代の環境破壊によって地球が死の惑星になることはないだろう。しかし、この環境破壊が、今生きている生物種にとっては取り返しのつかないフィードバックループを引き起こす可能性は、過去の例をみると十分にあるだろう。

ただ地球を守りたいだけなら、環境保護活動をする必要もなかろう。地球はわたしたちが思っているより、よほど強いからだ。しかし人間が種として生き残りたいなら、何らかの延命策を講じる必要はあるだろう。

2020/11/30月

吹雪の森

かなり雪が降って、地面は一時的に圧雪路面のように覆われていました。

森の中はとても静か。ウサギやキツネの足跡が縦横無尽に走り回っていますが、クマの足跡はありません。もう冬眠したのかもしれません。

まだスノーシューは必要ありませんが、雪がそこそこ深いので、普通に歩くとかなり疲れます。体力の消耗を抑えるため、普段の半分くらいの速度でノロノロと歩きました。

クマゲラの森に入り口あたりまできたところで、甲高く木を削る音が響きます。一瞬クマゲラ?と思いましたが、音がそこまで大きくない。見上げると、アカゲラの背中が見えました。普通のアカゲラにしては音が大きくて、よく響く木だったのでしょう。

雪で覆われて歩き回れる場所が増えたことで、あっちにもこっちにも、クマゲラが掘ったらしい穴が見つかりました。でも、何度立ち止まって耳を澄ましても、ドラミングや羽音などの気配はありませんでした。

森の深くまで行く前に、かなり吹雪が激しくなってきて、森の中まで吹き込んできたので、今日は引き返すことにしました。夏にしても冬にしても無理は禁物。無理を推して粘るくらいなら、何度も足を運ぶことを優先しよう。

吹雪が顔に吹き付け、足元にも雪が盛り上がるので、来た道を引き返すのも一苦労でした。スマホが修理中で接写レンズもまだ使えないし、こうも吹雪がひどくては立ち止まって自然観察どころではありません。

車の場所まで帰ると、前後左右の窓ガラスにびっちり雪がこびりついていて、今季初のブラシで雪落としをする必要がありました。

道ばたに生えている秋の名残りのガマの穂も、すっかり雪の中です。

そういえば明日から12月。いよいよ冬らしい時期が訪れます。

11月のまとめ

今日で11月も終わり。

地元の人は雨が多いとか雪が遅いとか言っていますが、わたしが引っ越してきてからの過去2年の写真を見る限り、傾向はほぼ同じです。昔に比べれば温暖化は進行しているでしょうが、今年が特に極端だとは思いません。

本格的に森歩きを始めたのは今年のコロナ以降なので、雪が降り始めの時期に森を歩くのは初めてでした。白黒のコントラストが描き出す荘厳なほどの美しさや、静けさの中に響く動物たちの暮らしの音に魅了されました。

今月の個人的な重要な出来事は、(1)道北でも散発的にコロナ感染症が現れ始めたこと、(2)読書の習慣を再開したことの2つです。

(1)コロナウイルスの広がりについて
コロナに関しては日本のみでなく、北半球全域で猛威を奮っているので、道北に来るのも時間の問題でした。クラスターになる可能性は低いでしょうが、気をつけなければなりません。

正直いって、コロナがここまで長引くとは思っていませんでした。春先の自分の予想を思い返すと、色々恥ずかしくなります。「未来は予測できないものだ」が行動経済学の常識なのに、慎み深さを欠いて馬鹿なことをしたものです。

その常識を忘れていたわけではなく、頭にはありました。でも、このたびは「例外」なのではないか、と思ってしまいました。自分は例外で大丈夫だと思うこと自体がバイアスに引っかかっていることなのだな、というのがよくわかりました。

確か、ダニエル・カーネマンは、学生たちは、心理学や行動経済学の知識が増えたからといって、バイアスにとらわれなくなったわけではなかった、という研究を載せていたと思います。知識としてはバイアスについて知っているのに、自分は知っているからこそ落とし穴を避けられるという自信過剰に至ってしまうのでしょう。

本当に必要なのは慎み深さなのです。知識があるからこそ、自信過剰になるのではなく、言葉を控えて自制しなければならないのです。

人がいかに誤りやすいかを知っているなら、自分は落とし穴の位置を知っているから誤りを避けられる、と思うのではなく、たとえ知っていても誤るほど愚かであることを思い返すべきなのです。それがバイアスの本質ではないでしょうか。

今回のコロナの件について、わたしが意外に思っているのは、国際社会の協調性のなさや、世論の分裂です。これほどひどくなるとは思ってみませんでした。

かねてから一部で科学的根拠を無視した極論が広がる土壌があることは知っていましたが、ここ数年のありさまはひどいものです。SNSを通して、一般の人々まで蝕まれてしまいました。(かといって、かつてテレビを鵜呑みにしていた世代が良いとも思えませんが)

もう先のことを予想して墓穴を掘るつもりはないので、単に、今の混沌がどこへ向かうのかはわからない、とだけ書いておきましょう。来年収束するのか、それとも予想のつかないさらなる混乱へ発展するのかはわかりません。未来は予測できないものなのです。

やるべきなのは、未来を予想することではなく、いま何をするか考えることです。やがてコロナが収束する日まで、早く時間が過ぎてほしいと考えて、無為に過ごすことだけは避けるべきでしょう。この時間を有効に使って、何であれ今できることに取り組むほうが良いはずです。

いくら未来がわからないとはいっても、前から書いているとおり、問題はコロナだけではないのですから、将来が良くなる可能性など無きに等しく、厄介な問題が連鎖する可能性のほうが高いのです。

だったら、これから非日常が加速しても楽しく過ごせるように、今の状況に適応してしまうべきでしょう。この状況が早く過ぎ去ってほしい、と考えている人は、今が一番つらい時期だと過程しているわけですが、そんな保証はどこにもないわけですから。

もし今後、さらに複合的な問題がエスカレートしたら(コロナはともかく気象科学からすればそれは確実ですが)、今この状況を耐えられずストレスを抱えているような人が、より悪化した状況に耐えれるはずなどありません。

だから、今はまだぬるま湯で、これから熱湯になるかもしれないと考えて、自分を慣らしておくほうがいいでしょう。

(2)新しい読書の習慣について
幸い、わたしは都会の人々に比べればストレスなく暮らしているほうです。コロナ前と生活はほぼ変わっていませんし、かえって充実したくらいです。都会にいたころは、死の寸前まで追い詰められましたが、今でははるかに余裕があります。

でも、今後の人生に備えるという意味では、現状に満足するわけにはいかないと気づきました。現状維持ではなく、向上を目指さないと、世界の状況がさらに悪化したときに、また耐えられなくなってしまうかもしれません。

自然観察の知識が増えて、生活の知恵が身についているという点では今年も向上できたと感じます。しかし、これまでの自分の人生を思うと、危機を乗り越えてくることができたのは間違いなく読書のおかげでした。

自分の病気という経験と、読書で得た知識、この2つを結び合わせ推敲することで、解決策を導き出してきました。今後も両方が必要です。

もう自分の問題はあらかた片付いたと思って読書をやめていましたが、今後を見据えた場合それは安易だと気づきました。常に知識は取り入れ続けないと、向上は見込めません。

自然観察をしている人を見ていても、経験だけでは限界があり、途中で進歩が止まります。図鑑だけ見ても理解は深まれません。しっかり文章を読んで、経験と知識を結び合わせてアップデートしていかないと、新しい世界は開けません。

ケンブリッジの歴史学者ハーバード・バターフィールドは、科学の進歩とは新しいメガネをかけるようなものだ、と表現しました。知識の進歩についていかなければ、同じ景色しか見えなくなってしまいます。

だから、毎日少しずつでも読書し、考える時間を持とうと思って、自然観察日記に読書メモを追加しました。

かつては失読症の影響から読むスピードを優先していましたが、今後は、少し読んでは立ち止まり、感想や要旨をメモする、という新しい読書スタイルを試してみようと思っています。それがうまくいくかどうかは試行錯誤です。

読書の時間ができたのは、わけのわからないシダやキノコの写真を整理する季節が終わったから、というだけのことかもしれません。来春以降継続できるかは非常に怪しいところです。

かつてのように、自分の病状を解明する、という明確な目的があったころと違い、今は何を目指せばいいのかよくわかりません。その方向性を見つけるためにも、もっと見識を広げることが大事だと考えます。

いずれにしても、毎日忙しく過ごし、実地の経験と、読書の知識によって、知的好奇心が揺さぶられる生活をしていれば、世の中の悪いニュースに心をかき乱されたり、じれったく感じたりすることもないでしょう。

11月は以上です。

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投稿日2020.11.02