2021年2月の道北暮らし自然観察日記

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もくじ

2021/02/02火

氷爆とミヤマガマズミ?の冬芽

少し天気がよかったので、森の中の滝を見に行きました。遠くに見える雪山はとても寒そう。

昨日は気温が暖かく、プラス2℃くらいまで上がっていました。夜中に突然、地震のような音が響いて飛び起きたら、家の屋根の雪が崩落した音でした。まるで流氷のように屋根の横の空き地になだれ落ちていました。

氷爆も溶けてしまっていないか心配でしたが、森の中はそこまで気温が上がらなかったようです。しかし森に続く道に分厚く積もった雪は表面が一度溶けて凍ったのか、シャリシャリした踏み心地になっていました。氷砂糖の琥珀糖みたいな。

カメラを忘れて出かけてしまったので、写真は前のようにスマホで撮りました。取りに帰れる距離だけど面倒なので、そのまま森の中へ。相変わらず忘れ物が激しい。

ほこりのように毛羽立っている地衣類?粘菌?

森の入り口付近に多かった冬芽。去年からずっと、これがハシドイの冬芽だと思っていたのですが、先日別の森の奥で見かけた冬芽と違いますね…。同じハシドイなのか実は別のものなのかわからない。

ケヤマハンノキの冬芽。そろそろ芽鱗が取れて、もこもこの葉が現れていました。

滝の岩場に登って、先日見つけた小型のシシガシラ?のようなシダを探してみましたが、もう大量に雪に埋もれて、どこにあるかわからなくなってしまっていました。

その代わりに、雪の隙間から岩盤のほうへ伸びている、あまり見たことのない冬芽の枝を発見しました。

冬芽は対生で赤色を帯びています。

左右から2枚の芽鱗がはさみこむ、イラストで描くチューリップのような形。

頂芽も同じような形。前に一度だけ別の森で見たことがある、ミヤマガマズミの冬芽ではないか、と思いました。

前に見たミヤマガマズミの冬芽は、もっと丸くかったのに、今回のは細長い。果たして同じミヤマガマズミなのか? 

でも冬芽ってシナノキなどもそうですが、冬のあいだ少しずつ成長して、冬の終わりごろには長補細くなっている種類もあります。ミヤマガマズミもそうなのかも。

一年目の秋にミヤマガマズミの実を何回も見かけていたので、そんなにレアな植物ではないはずですが、あまり見つけられません。

氷爆の様子。見事に固まっていて、今回もすぐそばまで雪の上を歩いて手で触れることができました。裏側を水が流れていますが、表面の氷はかなり分厚く、そうそう割れそうもありません。

つららも豪華。とても美味しそうな色合い。サイダー味?

滝の側面のうろの中も、氷が張り付いていて、さながら氷でできた鍾乳洞のごとく。凍りついた岩肌は、貝殻の真珠層のようにてかてかと光り輝いていました。

野鳥もミヤマカケスやゴジュウカラを見かけましたが、カメラを忘れたこともあって撮れませんでした。カメラがあったとしても、森の中だと、目視では鳥が見えても、カメラのモニタでは見失ってしまうことばかり。撮影にもっと慣れないと難しい。

2021/02/03水

ズミの実をついばむヒヨドリ

公園を散歩していると、ヒヨドリが3羽、甲高い声を上げて、ズミの実をついばんでいました。植栽樹で、まだ実が残っていることからして、殺虫剤などかけられている可能性を疑っている木ですが、大丈夫だろうか…。

公園の奥にある川沿いの林にもヒヨドリ。しかし、やっぱりオートフォーカスだと木のほうにピントが合ってしまいます。なんとかならないものか。

一瞬タカのような鳥が滑空していって、ほんの数秒だけ木に止まったのですが、すぐ飛び立って林の中に消えていきました。たぶんハイタカだったと思うのですが、写真に撮れず残念です。

2021/02/04木

自堕落な習慣を置き換えられるよう、自分を分析する

ここ最近、自分の行動の無秩序さに振り回されているように感じます。いえ、正確に言えば、ある面では秩序正しく、別の面では無秩序であり、統一性がないということです。

あたかも複数の自分がいるかのようであり、例えば日中と晩とで行動の基準が変わってしまいます。日中は自制心があり、何事にも真剣に取り組むことができるのに、夜はまったく自堕落で自制心がないかのように行動してしまうということです。

これは何も特別なことではなく、誰もが多かれ少なかれ経験することでしょう。いわゆる「自我消耗」という用語は、わたしのためにあるかのように感じていました。それが科学的に正確な概念かはさておき。

始めのうちは、夜になるにつれ体力が消耗し、疲れが増すせいで、自制心に欠けてしまうのだと思っていました。意志力は有限であるという自我消耗の説は正しく思えました。

しかし、マインドフルネスに取り組んで、自分の行動を客観的に分析できるようになってくると、どうも違うようだと気づきました。

夜になると自制心が薄れ、ダラダラとネットサーフィンしたり、夜食を食べたり、自堕落になったりしてしまうのは、寝付けないからです。ベッドに入ってすぐに寝れるようなら、そんな誘惑に負けないはずです。

わたしの色々な悪しき習慣は、意志力が弱まっているからではなく、スイッチの切り替えが鈍いことが原因です。内発的に眠るモードに切り替えできないため、外発的な刺激で切り替えようとして、望ましくない条件づけが成立してしまっているのです。

もう一つ、わたしの性質として最近、自覚するようになったのは、「感覚の空白に耐えられない」ということです。寝られない夜に、悶々とただ寝転がっていることはできず、何か刺激を求めてしまい、それが悪しき習慣になってしまいます。

まあ、別に新しい発見ではなく、2年以上前の記事で考察したことです。やっとこさ、それを自分ごととして認識できるようになってきたにすぎません。

無意識に人格が切り替わってしまう「スイッチング」とは?―多重人格をスペクトラムとして考える
複数の人格を抱え持つ多重人格(解離性同一性障害)は奇病のようにみなされがちです、しかし実際にはスイッチングというグレーゾーンの現象を通して、普通の人たちの感覚と連続性をもってつなが

ここ2年は、自然界の中を歩き回って楽しむことに意識を傾けていたとはいえ、わたしの思考や考察が、同じところをぐるぐると歩き回って一向に進歩が見られないのは、ひどく残念でなりません。

自分の身体が感じられない生ける屍になった人たちー感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学
感覚過敏に比べて、あまり注目されず、深刻さが理解されにくい、感覚の鈍麻や麻痺、解離が引き起こすアイデンティティの障害について考察しました。

昔なら、エリナー・ファージョンの白昼夢よろしく、寝る前に持続的空想が生じていたので、それが眠る助けになってしましたが、年齢のせいか、解離が薄れてしまったせいか、うまく働かなくなりました。

今になって、普通の人たちが、酒やタバコや薬物やギャンブルに溺れたりする気持ちがなんとなくわかってきました。わたしは自分が誘惑に弱いことを知っているので、それらには手を出さないようにしてきましたが、夜の自制心の欠如は同類の問題でしょう。

親近感を感じるようになったので、依存症を抱える人たちのブログを時々読むようになりました。

あるスマホゲームの重課金者のブログを読んだとき、こんなことが書かれていました。

無駄な時間を過ごしているような気がして、一度、一ヶ月ほどゲームをやめてみた。しかしゲームをやめても、別の何かの中毒になるだけだった。だから、どうせやめても無駄だと思い、程々に楽しむことにした。

わたしも自分がそうだと感じています。スマホゲームに課金したことはありませんが、特定の中毒や依存症そのものに執着心があるわけではないということです。

問題の根底にあるのは、何らかの切り替えスイッチが必要、あるいは感覚の空白に耐えられない、ということであり、その役目を果たしてくれるものなら何でもいいのです。ある悪しき習慣を断ったところで、別の悪しき習慣が取って代わるだけです。

だからといって、わたしは、それならもう仕方がない、とは安易に考えません。何かで代替し、上書きすればいいのであって、比較的無害な、願わくは有益な習慣に置き換えることも可能だと考えます。

(1)外的刺激によってスイッチを切り替えることが必要、(2)感覚の空白に耐えられない、という2つの要素からして、ここは習慣的な悪い感覚刺激を、無害な感覚刺激に置き換えることが手近な解決策でしょう。

これはリストカットに悩む人の問題とも同じです。リストカットの目的は、外部から刺激を与えて過緊張のスイッチをオフにすることですが、わたしもまったく同じ問題を抱えています。

なぜ無意識のうちに自傷行為をやってしまうのか―リスカや抜毛の背後にある解離・ADHD・自閉症
リストカット、抜毛、頭を壁にぶつけるなどの自傷行為、また自己破壊的な依存症の原因はどこにあるのでしょうか。それらが注目を集めるための演技ではなく、解離という心の働きや、脳の構造と関

リストカットをやめるに際して、たとえば氷を手で握るような、別の刺激に置き換えると聞いたことがあります。

そういえばセラピーのとき、手で握ると気持ちのいいボールを使うといい、と教えてもらったのを思い出しました。(マッサージボールで検索すれば出てくる)

また、オリヴァー・サックスがよく書いているように、音楽の力は内的なリズムを変える外的スイッチとして優秀でしょう。ただ、わたしにとっては、音楽は「強すぎる」と感じられてしまいます。(こんなことを書くとまるでフロイトのようですね)

それで、わたしに役立つスイッチ切り替えグッズはなんだろう?と探してみました。触り心地がよかったのは、昔のゲームのコントローラー(シリコンジャケット付きWiiリモコン)でした。手に馴染んで心地よいように、うまく設計されているものです。

もう起動しないゲーム機ですが、触るだけでドーパミンが程よく分泌されて、脳のスイッチ切り替えに役立つような気がします。ゲームだから、過去の経験のせいで当然そのように条件付けされているでしょう。

それが代替刺激としてふさわしいのかどうかは微妙です。どうせ使えないコントローラーだから、ゲーム中毒になる可能性は心配していません。そうではなく効果が弱そうだ、という点が気がかりです。

もっと別の方法はないでしょうか。たとえば、タバコをやめたい人が、吸いたいと思うたびに、ドクロがタバコを吸っている絵を見るようにした、という話を聞きました。

条件づけの上書きです。タバコを吸いたいという衝動が、ドーパミンの快楽ではなく、死の恐怖感と結びつくようにしたわけです。

なかなか良さそうなので試してみたところ、かなり効果がありました。でも次第に慣れてしまって元の木阿弥でした。そこそこの期間、効果は持続したので、生理的な恐怖や不快感を催すものを常に供給できれば、うまくいくかもしれません。

一番いいのは、もっと建設的で望ましい習慣に置き換えることです。しかし、どうしても寝る前は疲れていて意志薄弱になっているので、頭を使うこと、理性を要することは成功の見込みが薄いのです。

頭ではわかっていても正しいことを行えない、だからこそ認知行動療法は役に立たないのだ、と昔の記事にまとめたとおり。

理性的に考えて動機づけを強化しておくことには価値があります。しかし、理性の力に頼るのは限界があるので、条件反射そのものを書き換えなければなりません。

カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由
トラウマの治療において、従来の対話を中心としたセラピーに限界があり、身体志向の方法が必要な理由をさまざまな研究をもとに考察しました。

わたしの場合、問題が生じるのは夜中だけです。昼間は大自然の力を借りることができるので。内的なスイッチ切り替えができなくても、大自然は必要な外的刺激を最も望ましい方法で与えてくれます。

夜も星空の下で眠れたら、多分問題なくなるのでしょうが、そこまで野性的ではありません。スイッチを切り替えようと夜散歩に行くこともありますが、一番疲れているときはそれができません。

だとすれば、(1)思考する余裕がある時間は、理性的に考えて動機付けを強化する。(2)疲れてしまって理性では誘惑に抗えないときは、触り心地の良いものや音楽を使って意識を引き戻す。(3)どうしても誘惑に負けそうなときは生理的な恐怖や嫌悪感を催すものを見ることで不快な条件付けを上書きする。

このまま自堕落な習慣にはまりこんで、コロナ禍にもかかわらず、生活習慣病などを発症して、病院にお世話になるようなことは避けたい。ダラダラと無駄な時間を過ごして、自分の可能性を浪費することもやめたい。

現にこの2年、わたしは自分が進歩しているのか停滞しているのか、まったくわからないのです。今まで知らなかった大自然に親しむという意味では間違いなく進歩しているのですが、知的活動の面ではひどく停滞し、創造性が妨げられています。

そうなっているの原因は、自己をうまく制御できていない、つまり自制心(セルフコントロール)の欠如にあると思えます。

結局わたしは、大自然の持つ癒やし効果に頼り切ってしまい、自分で自分のトラウマ的性質と向き合い、乗り越えていく努力をおろそかにしてきたのだと思います。

このままでは、ずっと停滞し続け、やがて老化の衰えとともに、乗り越えるチャンスすらなくなり、凋落していくに違いありません。まだ若く力のあるうちに取り組まなければいけない課題です。

2021/02/05金

凍てつく吹雪の森に小鳥たちが集まっていた

今冬は本当に晴れません。今日も暈のかかった太陽は見えているとはいえ、ずっと吹雪です。雪が平年並みに降ってくれるのは嬉しいのですが…。

晴れないと放射冷却が起こらないので気温が下がりません。しかし、よく晴れた日のマイナス20℃より、風の強い日の吹雪のほうが寒い。

昼ごろ森に出かけてみましたが、木々がまばらになっているところで吹き込んでくる風がとても冷たく、凍えそうになりました。もっと奥に入っていくと、木々の防風壁に阻まれて、驚くほど静かでした。

こんなに寒い風が吹きすさぶ日なのに、カラマツ林には小鳥たちがたくさんいました。風が強いからこそ宿り場を求めて集まってきたのでしょうか。

ハシブトカラ(コガラかも)、ゴジュウカラ、それにコゲラの姿が見えました。いずれもあまり警戒心のない鳥たちで、近づいて写真を撮っても、脇目も振らず木の実などをついばんでいて、逃げる様子はありませんでした。

コゲラが一瞬アリスイに見えて、なんとしても写真を撮りたいと思ったのに、カメラが思うようにピントが合わず、イライラしました。ハシブトガラでさえ思うようにピントが合わず、周りの枝にばかり焦点が合う始末。

焦点が合いさえすれば、とてもきれいに撮れるのでもったいない。

(追記 : 本体機能の詳しい設定で、オートフォーカスの仕様を変更することで対処できるかもしれません。画面の中央にオートフォーカスする設定などを試してみようと思います)

イタヤカエデの種と格闘するハシブトガラの動画。

https://youtu.be/33L8NVw5eyM

そのあと、風がほとんど入ってこない谷間でトドマツの葉を採取したり、キコブタケを観察したりしました。上面が苔色で下面が橙色。雪の中でひときわ映える素晴らしいキノコでした。

帰り道、谷から出ていく道では、正面から吹雪が吹き付けてきて、身の危険を感じるほど冷たく感じました。こんなに家の近くの森でも、遭難したり死んだりしかねない、と感じたほどでした。

しばらく背を向けてやり過ごそうとしましたが、一向に収まる気配がないので、意を決して吹雪に立ち向かい、風の強い場所を一気に通り抜けました。

ひとつ良いことがあったのは、そのときの景色があまりに美しかったこと。強風で作られた雪紋が斜陽に照らされて浮き上がっていました。

ひどく凍えましたが、カメラで撮るくらいの余裕はありました。でも、景色の本当の美しさは、写真には収まらないものです。五感に訴える他の要素はもちろん、そのときの心理状態も美しいという意識を引き立ててくれるのでしょう。

歪められた過去という問題について

【気になったニュース】

嘘でつくられた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書」に困惑する人たち – Yahoo!ニュース

昨今フェイクニュースが問題になる中で面白い記事。「作られた歴史」は古くからありふれた問題だったことがわかります。これに限らず、権威者が残した文書や碑文は、当然自分の国の有利になるよう書き換えられていますし、たとえ正しく書こうとしている場合でも一面だけの真実しか含んでいません。考古学者がそれらをつなぎ合わせて描き出した古代の物語は、現時点で辻褄の合う、もっともらしいストーリーにすぎません。

植物の名前の由来について調べたいとき、よくネットで検索しますが、非常に怪しい説がいくつも見つかります。ネット初期に書き込んだ誰かのもっともらしい説が、コピペで広がって定説のようにみなされているさまは、椿井文書と同じです。名前の由来どころか、あらゆる情報において、こうした不確実さが生まれています。

現代はあまりにそういう事例が多すぎて、科学的実験で裏付けられている事実、および観察して確証できる事実以外の情報に、信憑性はほとんど期待できないと思います。インターネットの登場により、そうした実体のある情報よりも、誰かか創作した虚構の情報のほうが、あまりに多くなってしまいました。

現実に存在した人物、現実に起こった出来事についての歴史的情報でも、一面の真実しか含んでいなくて、あとは学者の想像によって作り上げられた物語が定説になっていることはよくあります。後々別の説が出てきて覆されますが、それすらも「正しい」のかわからないし、そもそも「正しい」ことに意味があるのかすらわからなす。

このニュースの事例もそうですが、過去の出来事なんて、結局何が正しいのかわかりようがないのだから、現代に生きる自分たちの利益や、心の拠り所になるストーリーを作ってしまえばそれでいい、そう感じる人も少なくないだろうと思います。

以前にどこかの記事で書いたように、この問題は、個人の虚偽記憶、歴史学、進化生物学の全てに共通する不確実さだと思います。すべてに共通しているのは、正しいかどうか確証できない過去の遺物を、想像と推理によって結びつけているだけ、ということです。部分的には正しくても、大きな誤りが入り込んでいる可能性が常にあります。

また、それぞれ自分のルーツ、国や地域のルーツ、人類のルーツといった、アイデンティティに関わっている、ということも共通しています。語られるストーリーは、自分は何者なのか、という心の拠り所を形成するのに用いられます。だからこそ、正確を期そうとする良心的な人でも、無意識のうちに、過去を自分の都合のいいストーリーに歪めてしまうことは十分にありえます。

研究によってあきらかになっていとおり、わたしたちの自伝的な記憶はまったく正確ではなく、後から再構築された主観的な物語にすぎません。虚偽の記憶でも、よほど事実と反するという証拠が浮上しないかぎり、自分では誤りに気づくことができません。

ということは、人にとって過去というのは、正しいかどうかが重要なのではなく、自分を納得させてくれるかが重要なのです。正しい情報よりも、もっともらしい物語のほうが心に響くので、人類が過去やルーツを創作し続けることは防ぎようがないでしょう。

昔からさまざまな宗教が人の心の拠り所となってきたことや、現代ではアニメやマンガのキャラクターを尊敬する偉人に挙げたりする若者がいることは、正しい歴史よりも心に訴えかける物語のほうが優先される、という実例です。

そうである以上、わたしは「正しい」過去を知ろうとしたり、構築したりするのは無駄だと思います。「正しい」過去にこだわるあまり、歴史問題に関わる衝突も繰り返されています。

人は本来、そんな無益な論争に首を突っ込まず「今」を生きてるのがよいのでしょう。人の記憶の構造は、過去の正確性よりも、ゆがめられた過去を拠り所にして今を生きることに特化しているのですから。

2021/02/06土

原始的な川沿いにツグミとオジロワシがいた

時間ができたので、町内の河川敷をスノーシューで歩こうと出かけてみました。以前、夜中にエゾユキウサギや謎の大型の鳥を見た場所です。市街地にも関わらず、自然が残っていて親しみやすい場所だと思っていました。

ところが、上の写真の反対側、背を向けている方向は、工事用車両が走り回って、開発されている真っ最中でした。川岸のヤナギの木々も無惨に伐採されてしまって、荒れ廃れていました。

こんなに人口が減っている過疎地でも、人は自然を回復させるのではなく、破壊することを選ぶのか、と悲しくなりました。住宅地のすぐそばの河川敷だから仕方ないとはいえ、残念です。

今は自然がまだ残っているように見える道北ですが、30年後はどうなっているでしょう。人が減って過疎化しても、外国による土地の買い占めが発生したり、放射性廃棄物を埋められたりして、結局は自然が破壊される一方になる気がしてなりません。

幸い、市街地のほうではなく、わたしが普段歩いている森のほうは、まだ自然が残されていて、動物たちも暮らしています。でも森林伐採や植林も進んでいるので、いつまで持つかどうか。自然林と人工林は別物なのです。

川沿いを歩きたいと思っていたのに当てが外れたので、今まで歩いたことのない、まったく別の場所に挑戦してみることにしました。

家から5分ほどの支流で、通りかかる車もめったにありませんが、夏はササに分厚く覆われていて進入できない川岸です。おそらく護岸工事もされていない原始河川ではないかと思います。

川沿いに何箇所か降りていけそうな場所がありましたが、めぼしい場所を探しているとき、頭上を大きな影が旋回しました。トビよりももっと翼長があり、はっきりと白い尾が見えました。オジロワシです!

急いで車を停めて外に出ましたが、もう姿はどこかへ消え去っていました。でも、ちょうどその場所が、いい具合にササが埋もれて歩きやすそうなので、川まで歩くことにしました。

スノーシューで歩き始めてすぐ目に入った幹。近づいてみると、菌類のアカコウヤクタケと地衣類のダイダイゴケの混生でしょうか? 何かの蘚苔類も見えます。

カメラだの接写だとこれが限界なので、こんな場面で使えるよう、スマホ用接写レンズも持ち歩くべきでした。

原始的な風景を残す川沿いの景色は息を呑むほどの美しさでした。迫力ある山肌を背に、ツルの巻き付いた枯れ木がアーチのように川に架かっていました。

雪と氷に覆われたその下で、脈々と流れる川の音が、耳に心地よく響いていました。わたしが生きている間、このような美しい自然が残されていればよいのですが。

ミヤマカケスがギャーギャーと鳴く声が聞こえたので、目を凝らして探してみましたが、声は聞こえど姿は見えず。

しかし、声が聞こえなくなってから、何かが飛ぶ影が見えたので、目で追ってみたら、実がたくさん弾けたカツラの巨木の枝にいたのは…、

ミヤマカケスだと頭がオレンジ色で、羽に青い線が入っていますが、まったく別の鳥。

この鳥はいったい何だろう? 柔らかそうな胸の白黒の斑点や、意外と鮮やかな羽の赤茶色がオシャレな鳥ですね。

鳴き声も、カケスのようにギャーギャーという騒がしい声ではなく、キャッ、キャッとキツツキを思わせるような鋭く短い地鳴きでした。

帰宅後とりあえずGoogle Lens先生で試してみたら、ツグミだと一発で当ててくれました。地面を歩いているツグミは白い眉毛で見分けていましたが、下から見たのは初めてなので気づきませんでした。

https://youtu.be/-fGXmC2iWGk

そろそろ帰ろうとしたとき、さっき見たオジロワシが、もう一度現れて、頭上をダイナミックに旋回しました。驚いてカメラを構えましたが間に合いません。でも、オジロワシが着地したところが見えました。

そこは、川沿いに立ち並ぶ高い常緑マツの木のてっぺん。肉眼でもかろうじて見えますが、風景に同化しています。飛ばなかったら気づかなかったでしょう。

超望遠のカメラで拡大していくと、

こんなに遠くにも関わらず、

はっきり威風堂々たる姿をとらえることができました! 60倍ズームの力はすばらしい。枝ぶりからするとトドマツでしょうか。

去年も朱鞠内湖畔で、同じようにマツの先端に佇む2羽のオジロワシを撮ったのを思い出しました。キリッとした目つきがかっこいいです。

ぜひ飛び立つ瞬間を撮りたいと思って、ずっとカメラを構えていましたが、泰然自若に構えて首を回すだけ。夕方になって、冷え込んできたので、根負けして帰ることにしました。

帰ってから写真を確認してみたら、20個くらいあったオジロワシの動画や写真のうち、ピントが合っていたのはわずかに画像2枚、動画1本のみでした。相変わらず、手前の枝などにピントが合ってしまいます。

こんなに遠いにもかかわらず、ほんのちょっとだけでもピントの合っている写真があったことを喜ぶべきなのでしょう。でも、一瞬のチャンスしかないような場面では、このカメラだと絶対失敗するでしょうね…。なんとかならないものなのか。

設定を見直してみたところ、オートフォーカスの詳細設定で、疑似マニュアルフォーカス的なものを選べることがわかりました。画面の中心に焦点が合う、という設定です。被写体を中央におけばピントが合うはずなので、少しは使いやすくなるかも。

でも、車の中から突然ヒグマを見つけた場合なんかは中央より動くものに焦点が合ったほうがいい気もするし、器用貧乏な感じも否めません。とりあえず次回から色々な設定を試してみて、一番馴染むものを見つけたいです。

今日は河川敷の自然が破壊されていて、ひどくがっかりしましたが、森の近くの川で美しい鳥を見れて、よい散歩スポットも発見できて、最終的には満足でした。

帰宅後、道北の広範囲の地域が、1時間ほど停電する事故がありました。比較的暖かい日だとはいえ、夜は氷点下に下がる真冬なので心配しましたが、復旧したので一安心です。

道北1万3千戸停電 18時現在|NHK 北海道のニュース

内陸部は比較的早く復旧したのに対し、沿岸部はもっと時間がかかったので、当該地域の方たちはやきもきしたことと思います。二年半前の地震のときのように長引けば、死人が出たかもしれません。

うちはポータブルストーブを用意してありますし、薪ストーブで暖を取っている友人がいるので、避難するためのガソリンさえあれば、命の危険はありません。真冬でも都市部より災害に強いと思っています。

それでも、氷点下の時期の停電はヒヤッとします。いかに現代人が、インフラ頼みの暮らしをしているか、思い知らされます。

「身近な自然―北海道自然読本―」読書メモ(1)終

図書館で借りてきた「身近な自然―北海道自然読本―」がちょっと興味深かったので、読書メモ。30年前の本のようですが、今は当時よりもっと身近な自然がなくなっていると思うと胸に来るものがありますね。

■「林立するビルの林とアスファルトの地面に閉ざされ、わずかに残る自然も貴重なるがゆえに手に取ることを禁じられている都市の子どもたち、豊かな自然の中にありながら都市化された風潮と、遊び友だちを失ってしまった田舎の子どもたち、自然の中でそれに手を下すすべをなくしてしまったようである」(p12)

前半は実体験として納得するが、後半もまた、こっちに引っ越してきてから痛感していることだ。自然豊かな場所に住む子どもたちも、(1)大人が自然について何も知らず、(2)インフラの整った暮らしの中で育つ、という理由のため、自然に親しむ機会がほとんどない。今や、都会に育とうが、田舎に育とうが変わりないのだと感じさせられた。(p12)

■ミズバショウの葉が、「1mほどにも大きくなった葉が湿地一帯に生い茂るとまるで大蛇のねぐらを思わせるような不気味さを感じる」もので、「ヘビノマクラ」と呼んでいたという話が面白い。わたしもここに来て本物の野生のミズバショウを見て、そのおばけのような大きさに驚いたから。(p14)

■自然を使った色々な遊び方が載っているのが参考になった。(p15-25)

・ササ笛。クマイザサの葉をwの字に折りたたみ、中心に穴を開けて吹く。一度やってみたい。

・ドングイ笛。なんとオオイタドリの別名らしい。茎を節をひとつ挟んで切り取って吹く。中空で節の部分に隔壁があるので音が鳴るようだ。やってみないとよくわからない。

・ハマナスの実笛。去年はジャムにしたハマナスの実。みずみずしそうにみえて、実は硬い。ヘタを取って、その穴から内部の種をほじくりだしてから、穴のふちに口を当てて吹くらしい。

・カラマツの猫じゃらし。とても不思議な作り方で、ぜひ作ってみたい。カラマツの若枝の皮をむいて、内部の芯だけするりと取り出す。すると骨なしになった表皮が柔らかく、猫じゃらしになるらしい…。

・ヒトリシズカの風車。もともと風車みたいな形だが、中空の筒状の茎(オニシモツケ、エゾニュウとかヨブスマソウなど)に差し込んで吹いて回して遊ぶという。しかし、試さなくても容易にイメージできるし、ヒトリシズカの葉もお茶が絶品なので、遊びに使うのはもったいない。

・泥棒草と巡査草。泥棒草とはダイコンソウの実のことで、巡査草はキンミズヒキの実。衣服にたくさんついたダイコンソウの実を、キンミズヒキの実を丸めて転がせばうまく取れるらしい。どちらの実も見たことがあるのでイメージできる。

ほかにもたくさん載っているが、今まで知らなかった、やってみたいのはこんなものか。

■自然観察会の注意点。「植物名の羅列は、得てして英語の単語を覚えるがごとき作業である。マニアなればこそメモのとりかたもスタイルが決まり頭に入り易いが、少しでも自然のことがわかればという人達には無用のことである。名前の羅列は初心者には覚えきれず自信を失わせるだけで、かえってマイナスである」(p33)

「結局、世話人が考えるほどに参加者は、目指す鳥を見れないばかりか、説明が聞こえないといった事態がごく普通と思わなくてはいけない。二十種以上の鳥が出現したからといって、ニ、三種しか見れない人のほうがむしろ当り前なのである」(p51)

どちらも心当たりがあるが、わたしが自然界を素人ガイドするときは、今のところ陥っていないと思う。わたしは遠慮しがちなほうなので、あまり難しい話やマニアックな話をしないし、案内するのは友人数人だから、誰かが鳥を見逃すこともめったにない。

話すのは実用的な話題で、どの山菜が食べれるとか、この植物はどういう用途で使われていたとか、地味でも拡大すると美しいとか、名前以外の話題がけっこう多い。わたし個人が「名前」よりも「用途」に興味があるタイプで、アイヌの資料をよく調べているからだと思う。

個人的に「大人数で自然をガイドしてもらう」という体験であまり楽しめたことがないので、今後もし自分がガイドする機会があるとしても、商業ベースの集団ガイドには関わりたくないな、と思う。

■せせらぎウォッチング。石と石の間に隙間があるものを「浮き石」、隙間が泥や砂で埋まっているものを「沈み石」といい、「浮石」の多い川には水生昆虫が多い。(p59)

カワゲラ、カゲロウ、トビケラ、ユスリカ、プラリナ、アミカ、ヘビトンボなど。きれいな川の指標生物。その多くは成長とともに川に流されて下り、羽化すると飛んで上流に戻ってくる。(p60-62)

水生植物は、(1)抽水植物…ガマなど根本が水につかっている、(2)浮葉植物…スイレン、コウホネ、ヒルムシロなど根が水底にあり葉は浮く、(3)沈水植物…キンギョモなど全体が水の中、(4)浮遊植物…ウキクサなど水に浮いている、の4種類がある。花は基本的に小さい。(p63)

偏光グラスをつければ、水面が反射しないので、川魚を見ることができる。以前に作ってもらったのがあるので、春が来たら試してみたい。(p70)

■北海道の野生高等植物は2000種以上あり、そのうち400種ほどが薬用になるという。(p78)

松浦武四郎が記録しているアイヌの薬用植物23種のリスト。その中に地衣類の「佛甲草」が黴毒に使われたとあって調べてみたが、地衣類ではなく多肉植物のマンネングサのようだ。

また胸骨の痛みに石長生(クジャクシダ)が使われていたとあるのも興味深い。石長生は一般にはイノモトソウやハコネシダを表すようだが、クジャクシダはハコネシダの近縁。(p82)

より詳しくは千里真志保による分類アイヌ語辞典の植物編に120種載っているらしい。(p84)

ほかに、この本では、ゲンノショウコ、オオバコ、ヨモギ、キハダ、ウドの使い方が載っている。

キハダの実をつぶして煮た液が喘息の薬になったり、内皮を乾燥させて小麦粉と練ったものを湿布にしたというのは初耳。有効成分はベルベリンで、抗炎症作用や整腸作用がある。(ベルベリンは目薬になるメギに含まれているとのことで聞いたことがある)

またウドの茎や根の生汁は精神不安に効果があり、ウドの根を秋に掘って煎じると、発汗、解熱、鎮静作用があり、かぜ、歯痛、神経痛などに効くという。(p88)

■国蝶オオムラサキの話が出てきたので北海道でも見られるのかと思ったが、食草であるエゾエノキの分布と一致していて、石狩あたりが北限らしい。そこを境にエゾヒメギフチョウが現れるらしく、それが見れるということはオオムラサキは見れない。(p129)

■現地の人にとってはタンチョウがいる風景など当たり前で「ここきれいでしょ、こんな所に住めたら幸せですよ」と話すと、「そうかい、おれたちゃ毎日見てるけど、何もおもわねぇけどな、どこがいいのよ」と返された話。

しかし、高倍率スコープで見せると感動して取り合いになったとか。地元の人にとって確かにその風景は当たり前だが、もっと高解像度の体験をさせてあげると印象ががらりと変わり、価値を認められるようになるのだ。

わたしもそんな経験をしていて、最初はここに書いたのと同じような反応をされるけれど、一緒に山菜採りに行ったり、スノーシューで歩いたりすると、こんなに楽しいものだったのか、という感想が返ってくる。(p144)

「毎日見ているあたりまえの風景の中に、花があり、鳥がいる。このあたりまえが、都会人ず求めても、手に入らない価値を持っているということに、あまり気付いていないようだ。しかし、この気付かない幸せの方が、本物のように思えてくる。…自然の中にツルがいるのはあたりまえなのだ。それに驚き、感動する都会人のほうが、ある貧しさを抱えていることに気付くべきであろう」(p146-147)

わたしは「あなたの子どもには自然が足りない」の本から入っているので、元よりそれに気づいた上でここに来た。わたしからすると、自然豊かな場所に住む人たちの自然への無関心は、失ったことがないゆえ、貧しさを経験したことがないゆえだと思う。

恵まれた二親に育てられた人が、ちゃんとした親がいるのがどれほど幸せなことか知らないように。五体満足な人が、健康な人生がどれほど得がたいものか知らないように。

前に「東京や大阪でも、夜は星がきれいだったでしょ?」と言われて耳を疑ったことがある。この地域の人たちは、都会では星が見えない、月だけしかない、ということを想像すらできないのだ。それでは、当たり前に星空が見えることがいかに幸せかを想像しようがない。

そう思うと、わたしは都会に生まれてよかったと思う。病気に苦しんできてよかったと思う。幸せな状態が当たり前すぎて、その価値に気づけなくなるよりは、一度すべてを失う経験をして、ごく当たり前の物事の価値を実感できるようになったほうがいい。そうでなければ、感謝の気持ちを抱くことができない。

■北海道自然環境保全指針による「すぐれた自然」の地域の図に道北はほとんど含まれていないのが意外だった。大雪山周辺や十勝、道東、札幌周辺の支笏・洞爺あたりにも多く残っていることになっている。(p203)

ほかのところの自然を見たことがないので、道北が他の地域と比べてどうか分からないが、珍しい生き物や植物だらけの「すぐれた自然」はなくても「当たり前の自然」が多く残っていて、アイヌ時代の山菜などをそのまま味わえるから、決して悪くないと思う。

というより、保護地域とされている場所だったら、山菜採りなんてできようもないので、自然保護区として有名な道東じゃなくて、普通の自然が残っている道北に引っ越して本当によかったと思う。

美術館のような近寄りがたい自然を「鑑賞する」ことではなく、ごく普通の身近な自然を楽しんで五感で「体験する」こと。それができてこそ、わたしの目的だった自然との共生を楽しめているだから。

2021/02/07日

川床でエゾタヌキがもぞもぞしていた

今朝は妙に体調が悪く、体が固まっていました。昨日もそうだったので、最近、眠りの質が悪い。空気の換気に問題があるのか、夜中に冷えるのか…。気温は冷え込んでいないので、24時間換気の不調の線が濃厚ですが、どうすることもできません。

昨日と同じ、近所の支流沿いを散歩。冬は除雪されず、雪に埋もれてしまう小さな橋があるので、そこをスノーシューでわたってみようと考えていました。

橋のところに到着すると、30mくらい先を、黒っぽいもこもこした生き物が道路を横断するのが見えました。キツネにしては色が黒いので、もしかするとタヌキ?と思いましたが、遠くてわからない。

カメラで拡大して撮ろうと急いで構えましたが、謎の生き物は道路脇の雪の壁をよじ登り、川のほうへ消えてしまいました。

もしかすると、まだいるかもしれないと思ったので、スノーシューで橋を越えて、謎の生き物が消えていったほうへ川沿いを歩いてみます。

川沿いの風景はこんな感じ。川幅は10mくらいでしょうか。夏でもせせらぎが涼しげですが、いかにもヒグマが出そうな場所なので、そうそう探検はできません。

しばらく川沿いを歩いて、生き物の足跡がないか探してみましたが、雪で埋もれた古い足跡しか見つかりません。もう遠くに行ってしまったのだろう、そう思ったとき、

川床で何かがもぞもぞと動いている? 拡大してみると…、 

さっきのタヌキのような生き物!

川のほうへ行ったのは見えましたが、てっきり雪の上を歩いているものとばかり。まさか川床にいるとは…。

雪が降っている中だったので、毛並みが白くなっていますが、明らかにあの生き物。熱心に川床をさらえながら歩いています。まるで落とし物を探しているかのよう。こんな真冬の川でも寒くないんでしょうか。

動画も撮りました。

https://youtu.be/kNo5vtPatqA

熱心に川床を探っているからか、あるいは、せせらぎの音でわたしの足音がかき消されているのか、かなり近づいて上から見下ろしても、逃げる様子はありませんでした。

そうしているうちに、わたしがいた場所からは見えない、こんもりと積もった雪の死角の裏へ消えていきました。もしかすると、雪のトンネルの中に巣穴があるのかもしれません。

エゾタヌキだろうとは思ったものの、動作がいかにも「アライグマ」でした。北海道でも、ペットのアライグマが野生化して畑を荒らす事件が多発しているので、一応、帰宅してから、タヌキとアライグマの違いを調べてみました。

すると、タヌキは足が黒いのに対し、アライグマは灰色。そしてアライグマはしっぽにしましま模様があることで見分けられるとのこと。

改めて動画を見たら、手足もしっぽも黒いので、やっぱりエゾタヌキのようです。これまでもタヌキを見たことは何度かありますが、夜中にドライブレコーダーに映ったのを除けば、初めて写真に収めることができました。

いったい何をしていたのかはわかりませんでしたが、こんな寒いのにお疲れ様、という気持ちになりました。野生動物も頑張って生き抜いているんだなぁ。

橋を渡ったところから、川と平行に除雪されていない林道が伸びていたので、そのまま、もう少し歩いてみました。川沿いの景色は魅力的でしたが、体調があまりよくないので、適当な場所で引き返しました。

途中で、いろいろな木を見かけましたが、黄色い小さな対生の冬芽が特徴のハシドイの木があり、そのそばに、もう少し大きなオレンジ色の対生の冬芽の低木がありました。

これは、前にシカの水飲み場付近を歩いたときにも大量に見つけた冬芽です。そのとき、ほかに候補が思いつかないので、ハシドイだとみなしましたが、やはりさっき見たハシドイらしき木の冬芽とは違う気がする。

どちらかがハシドイで、どちらかはハシドイではないのかもしれない…。いずれ正体がわかればいいのですが。

また、除雪されていない林道には、大量にヤチダモの若木が芽生えていましたが、頂芽が食べられているのが目立ちました。頂芽がなくても、側芽でヤチダモだとわかります。

本来の頂芽があるヤチダモの写真は以下。

こんなふうにヤチダモの頂芽を食べてしまったのは誰なのか。周囲に動物の足跡がないことからすると鳥? あるいは食べられたのはずっと前で、足跡が埋もれてしまったのか。

ヤチダモの冬芽は見た目には硬そうで、人間の観点からすると、美味しそうに見えないのですが、動物にとっては違うのでしょう。

小さな橋の上まで戻ってくると、たくさんの小鳥の鳴き声が聞こえましたが、不思議なことに一羽も姿を目視できませんでした。

もっと粘りたい気持ちもありましたが、冬の川沿いは寒い。雪も降っていて、頭がフラフラするので、無理はせず帰ることにしました。タヌキが見られただけでもよかったです。

2021/02/08火

マイナス30℃近くまで冷え込んだ朝日

予報によると、マイナス20℃を下回る冷え込みで、晴れ間がのぞくらしい。これはサンピラーが見えるかもしれないと思って、頑張って早起きしました。

朝7時前の気温はマイナス24℃。後で知ったところによると、最低気温は午前3時から4時くらいで、幌加内ではマイナス32.5℃を記録したそうです。さすが日本一寒い場所。

日の出は6:40くらいでしたが、地平線に見えるのがその時間、というだけで、実際に山々の影から見えるようになるのは7時前でした。

でも、最初からうっすらと曇っていて、全然サンピラーになりそうもない。朝日が見える地点まで行きましたが、道中でもほとんど樹霜がない。サンピラーが見れるような朝はもっとキラキラ輝いてきれいなはずです。

山間の橋の上から眺める雪原は壮大でしたが、空はどんより。橋のふちの雪によじ登って撮っていますが、欄干より高くまで積もっているため、安全柵のようなものはありません。朝だから体も硬いし、バランス崩して落下死しないよう、すぐ引き上げました。怖い。

そうこうして時間をつぶしていると、ついに朝日が現れました。とても美しい朝日で、ダイヤモンドの輝きのようでした。キツネの足跡が続く雪原が照らされて、凹凸が浮き出て迫力がありました。

写真ではわかりにくいですが、晴れているのは、山の稜線からほんの少しの隙間だけでした。それで、5分か10分後には、太陽は雲の中に隠れてしまい、どんよりとした風景に戻ってしまいました。

少しでも日の出が見れてよかった。でもサンピラーが見たかった…。今シーズンは曇り空ばかりで、気温が下がる日もほとんどないので、もうチャンスはないかもしれません。早起きして疲れたので、帰宅後ちょっとだけ二度寝しました。聞くところによると寝ている間にダイヤモンドダストが見れたそうです。それも残念…。

流氷を見に沿岸地域まで遠出

昼から時間が空いていたので、沿岸部まで遠出して流氷を見に行くことにしました。

出かける前に、流氷が接岸しているかSNSでサーチをかけてみたり、紋別や網走の情報を調べてみました。すると網走では接岸しているとのことでしたが、他の場所は不明でした。

情報がないこと自体、接岸していないということだろうな、と思いましたが、他に日にちはないし、野鳥観察でもできればいいか、というくらいの気持ちで行ってみました。

内陸部に住んでいるので、沿岸地域に出るには、自動車で2時間くらい走る必要があります。気軽に出かけられる距離ではありません。これまで見に行ったのも、毎年1回か2回くらい。

わたしの住んでいる内陸部は曇り空でしたが、オホーツク海のほうへ車を走らせるうちに晴れ間が見えてきて海岸に着くと、すがすがしく晴れ渡っていました。

去年は、見事に流氷が接岸していましたが、今年は…

接岸はしていないけれど、目視できる距離にありました! 去年は流氷に埋め尽くされて真っ白になった海を見ましたが、今年はよく晴れた空の下、真っ青に澄んだ海だったので、とても新鮮でした。これはこれですごくいい。

海岸に降りてみると、流氷が接岸したときの名残がありました、浜辺に打ち上げられた巨大な氷の数々。その上にさらに雪が降り積もっていたので、足元がおぼつかない。平らな砂浜だろうと歩くと、思わぬところに巨大な氷が埋まっていて、足をくじきそうになりました。

波打ち際だけは雪も溶けて、黒っぽい砂が見えていました。レイチェル・カーソンの「海辺」を読んだ今となっては、この下には多種多様な生き物が潜んでいて、独自の生態系をつくりだしているのだろう、とイメージすることができます。

砂浜には、色とりどりの滑らかな石が落ちていて、何の鉱石かはわからないけれど、心奪われました。とても風が寒かったのに、つい小石や貝殻拾いに夢中になってしまいました。海の近くに住んでいる人にとってはごくありふれたものでも、わたしにとっては宝石のよう。

都会に住んでいると、海岸はゴミだらけで汚い場所、という印象ですが、この道北のオホーツク海の砂浜には、まったくゴミが浮いていませんでした。雪が溶けている季節なら違うのかもしれませんが、こんな砂浜のそばだったら住んでみたいな、と感じました。

波打ち際の海の水をよく見ると、小さな蓮の葉のような模様が見えます。

よく見てみると、薄く張った氷の層のようでした。調べてみると、その名のとおり、蓮の葉氷というのがあり、海氷の初期段階に作られるものだそうです。直径0.3mくらいから、やがて数mの大きさ、何十cmの厚さにもなり、オオオニバスの葉のごとく、人が乗れるほどまで成長していくのだとか。

夏には湖を蓮の葉が覆い、冬は海に氷の蓮の葉が浮かぶとは、自然界のつくりはまったくもって不思議で魅力にあふれています。

エゾシカの群れ、5羽のオジロワシ、海辺のカモメたち

オホーツク海の沿岸へ向かう、道中、何度もエゾシカを見かけました。山間部を通ると、エゾシカの飛び出し注意の看板が立っている近くには、道路脇に当たり前のようにエゾシカの群れがいました。

そんなに珍しいものではないのに、エゾシカを見つけるたびに、車を停めて、写真を撮りたくなります。動物を見かけると、それだけで嬉しくなるものです。

最初に見かけた子ジカ。今年生まれの子どもでしょうか。ディズニーのバンビに出てきそうな愛らしい姿。

立ち止まって、わたしのほうをしばらく見つめたのち、慌てて逃げていきました。

その先には、家族と思われる、大人のシカたちが。子どもを狙う不審者だと思われてしまったでしょうか。みんなじっとこっちを見つめてから、キョン!と警戒する声を上げて、林の中へ逃げていきました。

しばらく行った別の場所では、雪の丘の上にエゾシカの群れ。さて、下の写真の中に、エゾシカは何頭いるでしょうか? わたしもよくわかっていませんが、少なくとも7頭以上のはず。

さすが超望遠カメラ。遠くても、こんなにはっきり顔がわかるほどに拡大できます! さっきの親子連れと違って、立派な角をもったオスのエゾシカも何頭かいました。

普段通っている車のほうがうるさいだろうに、車が停まって人間が姿を見せると、みんな警戒してカメラ目線。ハクチョウなど他の生き物もそうですが、自動車が近くを通っても気にしないのに、人の姿だと警戒するのはなぜだろう? 

遠くから写真に撮るだけで、圧倒されるこの威容。近くで見れば、きっとヒグマと変わらない体格があるのだろうと思います。迫力満点です。

それにしても、みんなそれぞれ顔が違って味わいがあります。名前をつけたくなるような、どことなく人間味のある、物言いだけな顔に思いました。

町のすぐ近くにはいなくても、少し山間部の道路となると、シカ牧場かと思うほど、あちこちの道路脇でシカの群れを見かけました。

松浦武四郎が北海道に来たころは、平野部を埋め尽くすほどいたそうですし、アイヌ民族はシカは天から投げ与えられる食物のようなものだと考えていたそうです。そのころよりはかなり減っているでしょうが、いまだエゾシカはたくさんいるんだなと感じる出来事でした。

そこからさらに走って海の近くの町に差し掛かったあたりで、道路脇の木にたくさんカラスがとまっているな、と思っていたら、その中に茶色いずんぐりした鳥が見えたので、あわてて車を停めました。

てっきりフクロウではないかと思いましたが、確認してみると、オジロワシだとすぐわかりました。最初は一羽だけかと思いましたが、

すぐその近くにもう1羽とまっていることに気づきました。2羽とも、人家の近く、道路の近くなのに意に介さず、わたしが道路脇の雪の壁に登って、身を乗り出して写真を撮っていても、飛び立つそぶりすら見せません。実に肝が座っています。

たじろがずじっとしている上、距離もそんなに遠くないので、いまだかつてないほど鮮明にオジロワシを映すことができました。思っていたよりも、白い縁取りを帯びた羽の装飾が美しく、気品ある佇まいの鳥なんだな、と初めて気づくことができました。

https://youtu.be/0IqV5MDjAeY

それから車を走らせて、海岸沿いにくると、もっと頻繁にオジロワシを見かけるようになりました。車を停めにくい場所で見た1羽はスルーしてしまいましたが、海岸でも少なくとも2羽のオジロワシを見かけ、埠頭の氷の上にとまって休んでいました。

とても凛々しい顔つき、白いマフラー、そして鋭く尖ったカギ爪。

しばらく眺めていると2羽が同時に飛び立って、わたしの頭上を飛び去っていきました。シャッターチャンスはほんの一瞬! でもありがたいことにピントが合って、悠々と青空を背景に飛んでいく様子を、写真にも動画にも収めることができました。

もちろん、オジロワシの写真や動画なんて、今やネットを探せばも数限りなく見つかるものです。写真が動画より、自分で見たという体験に価値があるのは言うまでもありません。それでも、こうして映像が形に残ると、あのとき見た、という記憶を思い出して強化する助けになります。

帰り際には、先ほど車を停めづらくてスルーしたオジロワシが、まだ同じ道路脇の木にとまっているのを見かけました。実は去年ここに来たときも、同じあたりの場所にとまっているオジロワシを見かけてスルーしたので、同じオジロワシなのかもしれません。

あまり余裕がない狭い道でしたが、後続の車が来ていなかったこともあり、思い切って停車して車を降りて撮ることにしました。

すると、わたしがカメラを構えてオジロワシの姿をとらえるやいなや、わたしの存在に警戒したのか、カメラレンズに太陽の光が反射したのか、ずっとじっとしていたオジロワシは飛び立ち、空を舞っていきました。

その瞬間に撮れた迫力ある写真。

一瞬のことだったので、ピントがあまり合っていませんが、ぶれているのもまた、間近で見た迫力を思いださせる味になります。

まるで木彫りの彫刻像のようないかめしい姿、意外なほどカラフルな羽、そしてボロボロになっている尾翼。冬の厳しさを意味するのか、はたまた他の鳥とケンカしたのか。ワシは毎年換羽するはずなので、そのうちきっと新しく生え変わるでしょう。

海岸で流氷を眺めていたときにも、さまざまな鳥を見かけました。遠くの流氷の近くで浮き沈みする白いものを見つけたので、ズームしてみると、どうやらカモのようでした。

カモはまるで、お風呂に浮かべたアヒルのおもちゃのようにプカプカと漂い、海の表面が波打つのに合わせて、浮き上がったり沈んだりを繰り返していました。湖や川の静かな水面のカモしか見たことがなかったので、大洋の中をぽつりと一羽揺られるカモの姿は鮮烈でした。

しだいに波に揺られて岸に近づいてきたので、超望遠レンズではっきりとらえることができるまでになり、ホオジロガモのオスだとわかりました。

ホオジロガモは海底が浅いところまで岸に近づくと、たびたび5秒か10秒ほど潜っては、再び顔を出す動きを繰り返していました。海の底の砂の中に、お目当ての食事があるのかもしれません。

港の近くには、巨大なカモメが多数飛んでいました。トビを思わせる巨大な翼長ながら、全身が白い鳥は、わたしが住んでいる内陸部では見ることがないので、その美しさにしばし見惚れました。

写真で見て気づいたのですが、足がどこにもありません。飛行機の着陸用の車輌も驚きの方法で、見事に収納されているのでしょう。

このカモメは何という種類だろう、と後で調べてみたところ、おそらくオオセグロカモメではないかと思います。くちばしの先に赤い部分があり、尾羽が白く、大型だからです。

一方、中型のカラスくらいの大きさのカモメもたくさん飛んでいました。逆光で飛んできた体色が黒く見えて、カラスの群れかと勘違いしたくらい、大きさは似ています。

少し調べたところでは、こちらはウミネコかもしれません。オオセグロカモメより小さく、くちばしに黒い部分があり、尾羽が黒っぽく見えます。

普段、海の近くにめったに行かないので、海鳥を見かけるだけで嬉しくなりますね。子どものころに海釣りに行ったとき、トビを何度も見ましたが、きっと他の海鳥もいっぱいいたんだろうな。当時は興味がなかったので、目に入りませんでした。

野鳥の写真を撮っていると、同じく鳥の写真を撮りながらウロウロしていた年配の女性が、同好の士だと思ったのか、おすすめのスポットを教えてくれました。帰りも遠いので、あまりそのスポットを堪能できませんでしたが、コロナの時期でもなかったらゆっくり話を聞いてみたかったです。

新しいカメラの超望遠性能のおかげで、これまで見えなかったものが見れるのも嬉しい。オジロワシの羽の美しさやカラフルさは、これほど拡大できて精細に写るカメラでないと、気づくことができませんでした。

前に書いたように、見えないものは存在しないのと同じです。レーウェンフックが顕微鏡を発明して初めて、微生物を見ることができるようになり、その存在を認識できるようになりました。遠くの野鳥にしても、精細に見ることができなければ、気付かない点も多い。

森の中ではピント合わせに苦労しますが、海では遮るものがないので、かなり高確率でピントが合っていたのもよかったです。先日設定を調整したことも役立っているのかも。

カメラを買うかどうかは悩みましたが、「見るためのツール」に投資してよかったな、と今となっては思います。自然観察がいっそう楽しく、味わい深いものとなりました。

2021/02/11木

森をぶらついてカケスを撮ったり

遠出して疲れが出たのと、用事が忙しかったのとで、ここ3日は自然観察も低調。昨日は近所の公園を短時間散歩しましたが、一羽のヒヨドリを見かけただけでした。

ビデオ通話で友人がオオタカを見た話をしてくれて、不鮮明ながら写真も撮っていました。もしかすると、わたしが前に2回見たハイタカらしき鳥も、オオタカだった可能性がありますね。白い眉毛の太さ(オオタカは太く、ハイタカは目立たない)などで区別できるそうです。

今日は大事な仕事があったので、体力を温存する必要がありましたが、近所の森をぐるりと一周する余裕はありました。野生動物がいるような奥地までは入れませんでしたが、冬しか歩けない斜面を下って帰ってきて、新ルートを開拓できました。

森の中は汗ばむほど暖かく、雪も心なしか溶けつつあり、春が近いことを思わせる雰囲気でした。

20m級のカラマツやエゾマツの樹冠で、小鳥たちがしきりにさえずっているのが聞こえましたが、カメラで無理やり撮影すると、下の写真のようなありさまでした。

さすが超望遠だけあって倍率は足りていますが、枝にさえぎられていて、たぶんハシブトガラ?という程度にしかわかりません。

いつものようにミヤマカケスがギャーギャーと鳴いていて、今日はひときわ騒いでいるのも聞こえました。カケスは体が大きいから撮ることができましたが、やはり森の中だとボケたり枝に隠れたりで難しいですね。

帰りに斜面を下っているとき、風邪にあおられた頭上の枝から、雪の塊がドサリと目の前に降ってくるのを何度か目撃しました。塊が落ちて砕けた地面には、こんな凹凸ができていました。

初年度から、冬の森に不思議な凹凸がたくさんあるのに気づいていましたが、こうやってできるものだったんですね。雪の塊が落ちたくらいで、こんな穴が空くのだろうか、と訝しんでいましたが、目の前で実演されると納得できます。

そろそろ新月なので、夜は晴れたら星を見に行きたかったのですが、残念ながら曇り、つくづく今冬は晴れませんね。

2021/02/12金

森の鳥たち。ヤマゲラ、オオアカゲラ、エゾライチョウ、ウソ等

久しぶりにとても良い天気!  こんな青空の日はどう使おう? 何を見に行こう? 悩みかけましたが、各地の天気を見たら、晴れているのは近所だけだったので、普通に森に出かけることにしました。北海道は広いから、普段の行動圏内ですら、天気に差があります。

向かったのは、家から5分のところ。先月、奥のほうまで入って、ヒグマが木に登った爪痕を見た森です。除雪されていないので入り口まで歩くのが一苦労ですが、奥を探検できるのは今の季節だけなので有効活用しないと。

林道の脇の林の中をスノーシューで歩いていくと、エゾマツの人工林、トドマツの人工林、そしてシラカバや多様な樹木がある自然林など、狭い範囲に色々な森があることに気づきました。

その自然林の中で見つけた、背の低い若木の冬芽。現地では色合いからしてシナノキの冬芽だろうか?と思いましたが、芽の間隔が密についているのがシナノキらしくなく、首をかしげました。

後になって写真で見てみると、ヤマナラシの冬芽に見えますね。森の中にも時々ヤマナラシは生えていますが、たいてい特徴的な樹皮で判断しています。若木は見たことがなかったので、とっさに判別できませんでした。(追記 : 後日観察したところ、やはりシナノキだったようです)

そこからしばらく歩いて、今はもう使われていない林道を歩いていたとき、大勢の鳥たちが集まってくるのに気づきました。

カラ類は高い場所でエゾマツやトドマツの葉の隠れてさえずっていて姿は見えません。エゾコゲラはギィーと扉がきしむような鳴き声をあげて、樹齢100年を越えていそうなミズナラの巨木の枝を走り回っていました。

エゾコゲラの動きは、まるで重力など存在しないかのよう。はるか頭上の枝を、ときには逆さになりながら、瞬間移動みたいな速度でちょこまかと走り回っています。そのさまはゴジュウカラにも似ていますが、ゴジュウカラと違って幹を上から下には走れないようです。

https://youtu.be/l_eYBLYybYQ

続いて見つけたキツツキは、なんとヤマゲラ! 先月、公園の逆光の中、ヤマゲラらしき鳥のシルエットを見たのを除けば、およそ一年ぶり、今シーズン初の出会いです。わたしはこのずんだ餅っぽい色合いが美味しそうで大好きです(笑)

カメラを新調したおかげで、これでもかというくらい色鮮やかな写真が撮れて感動です。今まで、写真なんて絵に比べてつまらない、と思っていましたが、それは人の撮った写真を見る側の感想にすぎませんでした。自分で自然観察していると、写真に写すことで、体験がより豊かになるのだと気づきました。

もちろん、わたしの写真にしても、見る側の人にとっては、今やどこにでもある普通の写真に思えて、つまらないでしょう。他人の撮った写真を見るだけでは何の感動もないものです。

大自然の中に自分の足で出かけて、野生の生き物と同じ瞬間を過ごし、その風景のただ中にいた、という実感が伴ってこそ、思い出としての写真には価値があります。

頭に赤い部分があるので、これはヤマゲラのオスのようです。特徴的な鳴き声やドラミングは聞こえませんでしたが、しきりに枝をつっついて、首をぐるりと回してくちばしを突っ込んで、虫などを食べているようでした。

https://youtu.be/OEzjS8EZ37I

まだヤマゲラを観察している途中から、何か別の大きなキツツキが、木をつっついている音が響いていました。日に日に暖かくなって春めいてきたからか、大賑わいです。

ヤマゲラが飛び立って森の木々の中に姿を消してから、次なるキツツキを探してみると、そこにいたのはオオアカゲラのオスでした。ちょうど木の幹を見事に彫刻している最中でした。

こうしてオオアカゲラの突っついている穴を見ると、クマゲラの食痕よりはかなり小型だとわかります。オオアカゲラもそこそこ大きなキツツキなのに、クマゲラはどんな迫力なのか…。ここの森にいることは、去年鳴き声を聞いて知っているので、きっとそのうち出会うでしょう。

オオアカゲラも、先ほどのヤマゲラと同じように、首をぐるりと回して上下逆さにして、木にできた穴の中にくちばしを差し入れていました。どうして首を回す必要があるのか不思議です。そして先ほどのコゲラもそうですが、動きが非常に素早く、瞬間移動しているかのようです。

https://youtu.be/GEhAjCNTBVA

その林道をずっと行けば、先月エゾライチョウを見た場所に続いています。まさかまたいるなんてことは…、と頭上を見上げていたら、

ものすごくデジャヴュを感じる図!

前回見た木の2本ほど隣にある木の上に、またまたラグビーボールのようなまんまるなものが乗っかっていました! きっとこの前と同じエゾライチョウに違いない。ここが彼のりお気に入りなのでしょうか?

ところがエゾライチョウが動き初めてみると、

のどが黒くない! ということは、このエゾライチョウはメスで、前回見たオスとは別個体です。もしかすると、ご夫婦なのでしょうか?

前回はじっくり長時間観察できましたが、今日はすぐ飛び立ってしまいました。森の中を滑空して消えていきましたが、体が大きいので迫力がありました。

https://youtu.be/10iKOHQoXKs

ずっと歩き続けて、森の奥地のヒグマの爪痕がある場所に到達。特に新しい写真は撮りませんでしが、観察してみて新しく気づいたことがありました。

前回見つけたトドマツのヒグマの木登り痕は、なぜ登ったのか不明でした。しかし帰ってから調べてみると、隣の木の木の実を食べるために登ることもある、とのことでした。

それで改めて周りを観察してみると、すぐ隣の木に太いコクワ(サルナシ)のつるがヘビのように巻き付いていて、トドマツのてっぺんと同じ高さに枝が生い茂っていました。間違いなくヒグマは、このコクワの実を食べるために、隣のトドマツに一生懸命よじ登ったのでしょう。

自然についての知識が増え、観察眼もこなれてくると、次第に謎が解けていくのが楽しいですね。

帰り道では、エゾヤマザクラの木の上に、カラ類より少し大きな鳥が数羽の群れをなしてとまっているのを見つけました。

目視ではこんなに小さいのですが、

さすが超望遠レンズのカメラなら、ここまではっきり見えます。首まわりの鮮やかなオレンジ色から、すぐにウソのオスだとわかりました。ここに引っ越してきた2年前に見て以来かもしれません。

写真に映っている冬芽はエゾヤマザクラです。あとで調べてみたら、ソメイヨシノなどのサクラの芽やつぼみが好物らしいので、エゾヤマザクラの木の上で食事会を開いていたのにも納得です。

https://youtu.be/I8yTZDh9GuE

でも、カメラで遠くから捉えることのできる鳥の大きさは、ウソくらいが限度。シジュウカラ、ハシブトガラ、シマエナガくらいの小ささだと、近くまで寄ってきてくれない限り、なかなか姿を収められません。

帰り道は、林道ではなく森の中の道なき道をわたり、雪に覆われた渓流を慎重に渡って歩くルートを歩きました。近くでヒグマが冬眠していないことを願うばかりです。山の斜面ではないので大丈夫だと思いますが…。

シラカバやイタヤカエデの芽に感じる春の気配

途中で見かけた、びっしり地衣類に覆われた木。たぶんカブトゴケの仲間だと思いますが、これほど一種類にフサフサと覆われているのは初めて見ました。(以前にカラタチゴケに覆われた木は見たことがありますが)

非常に色鮮やかなボタンのような裸子器がたくさんついています。なんて美しいのだろうと思って、同じような写真を大量に撮ってしまい、後で整理する羽目になりました。

ほかに道中で目にとまったのは、木々の芽の色が変わってきていることでした。このイタヤカエデは心なしか緑みを帯びていて、先の芽鱗が割れて、新芽がすでに顔を見せています。

このシラカバの芽も、先がもう割れて新芽が萌え出て、虹色に色づいています。春がすぐそこまで来ているんですね。

わたしは冬が大好きだから、春が近いのは少し寂しくもあります。でも春にはスプリングエフェメラルや山菜の楽しみがあるし、季節ごとに美しいものをふんだんに楽しめます。だから名残惜しくも、次の変化が楽しみです。

奥地まで入って帰ってきたので、森の中を歩いた時間は2時間半ほど。足がくたくたになりました。でも、昨今のストレスの多い時代、これくらいやって初めて中和される気がします。森のそばで暮らせることに感謝です。

2021/02/13土

「アイヌのごはん」読書メモ(1)終

去年採ったコゴミ(クサソテツ)を醤油漬けにして保存していましたが、今日餃子の具に使ったのが最後でした。冷凍したイラクサや、乾燥させたヒトリシズカなど、山菜は旬の季節以外にも長期利用できるものが多くあります。

でも山菜の知識を蓄えるのは大変。まず自然観察で見分ける力を養うのはもちろんのこと、利用の仕方も、地元の人たちの知恵や古い文献、とりわけアイヌ文化の伝承などを地道に調べる必要があります。

最近、近所の図書館に「自然の恵み アイヌのごはん」という料理本が入ったので、試しに借りてきたら、そうした知識の宝庫で、とても役立つ内容でした。

前半部分はアイヌのさまざまな料理レシビ、後半部分はアイヌが利用していた山菜の図鑑(アイヌ語名入り)になっています。どちらも知らない知識がけっこうあって、かなり勉強になります。

エゾシカ、エゾタヌキ、さまざまな魚を使った料理レシピもありますが、わたしは狩りや釣りはしないので、山菜料理の部分をメインに読みました。

■スクスクの炊き込みご飯。「スクスク」とは、なんとシダ植物の胞子で、それを米に加えて炊くと、ふりかけご飯のような見た目になるそうです。特に味はなく、「目で楽しむ食材」とのこと。(p31)

巻末の解説によれば、クサソテツ(コゴミ)の胞子葉から採った胞子を使っていましたが、ほかのシダの胞子も使われたかもしれないとされていました。(125)

クサソテツの胞子葉なら、とても特徴的なので見分けやすいです。似ているのは、小型のイヌガンソクしかありません。

クサソテツとイヌガンソクは、胞子葉のサイズだけでなく、栄養葉のある時期なら茎の鱗片を見れば区別がつきます。一度「スクスク」料理を試してみたいと思いました。

ほかにも、シダ植物の葉を刺し身の受け皿に敷いて使っている写真もあり、シダ植物の使い方もまだまだ色々あるんだなと驚きました。(p36)

■ハマナスの実を混ぜご飯に入れていたり、カリンズ(フサスグリ)、クワ、ブルーベリー(クロミノウグイスカグラ)の実をサラダにしていたり、というのも新鮮でした。あまりわたしの好きそうな食べ方ではないのですが…。(p30,47)

■ほとんどの山菜は食べたことがありましたが、オニシモツケの芽が食べれるとは知りませんでした。煮物に使っているレシピがあります。山菜の時期に探したことはないけれど、葉と托葉が特徴的なので見分けられるかな。(p50,89)

■イタドリを利用したレシピが多い! ジャムにしたいし煮物にしても美味しいし、新芽が大量に採れる1週間くらいの期間にいっぱい集めて冷凍しておきたいです。(p50,62,66)

■フキ、ネマガリダケ、ワラビの下処理(アク抜き)の方法が詳しく載っているのが役立ちそう。(p67)

■ササの実も食べれるとのこと。しかしめったに花を咲かせないので、毎日山に入ってタイミングを逃さないのが肝心。記載されているのはチシマザサだが、たぶんクマイザサでも良いのだろう。(p89,112)

■発酵じゃがいも(越冬じゃがいもではない)の作り方と料理方法が面白い。普通に越冬させる場合は土の中に埋めますが、発酵じゃがいもは雪の中に埋め、融けたり凍ったりを繰り返すことで発酵するそうです。(p77)

■食べたことのない山菜メモ。オオハナウド、ヤブマメ(実)、ヒメザゼンソウ(有毒)、ツルボ(近くにない)、エゾニュウ、ハンゴンソウ、ノビル(近くにない? ニラと勘違いしているかも)、ムカゴイラクサ、ガガイモ(有毒)、シャク、エゾフユノハナワラビ、オニシモツケ、エゾタンポポ、エゾテンナンショウ(有毒)、ハマヒルガオ(近くにない)、コウホネ(根)、ヤドリギ(茎からデンプン)、ヒシ(実)、クロユリ(根)、ハイイヌガヤ(近くにない)、ナギナタコウジュ(未発見)。

ほかにも、巻末の解説部分に、名前だけ挙げられているのが多数ある。(p107)

有毒、希少植物、分布していない、水生植物である、根を利用する、などの理由で食べれないものが多い。現実的なのは、ハンゴンソウ、ムカゴイラクサ、シャク、エゾフユノハナワラビ、オニシモツケあたりか。シャク以外はわざわざ食べるべきか謎。

個人的に一番試してみたいのはシダ植物のエゾフユノハナワラビだったりする。葉を刻んで炊いたり、お茶にしたりすると良いらしい。(近縁のハナヤスリのお茶に近いのかもしれない)(p88)

■保存用の山菜は春先のものは干すとひょろひょろになってしまうので、6-7月の「ミ」が入ってからのものを使うという。フキも7月に採ったものを塩漬けにすれば何年ももつ。7月ごろに採ったギョウジャニンニクのほうが好きなアイヌの人も。

大きな葉のまま干すと枯れ葉になってしまうが、小さく刻んで干すと青々したまま保存できる。(p120)

わたしたち現代人にとっては、山菜とは旬を味わう嗜好品にすぎないが、アイヌの人たちにとっては厳しい冬を生き抜くための必需品だったので、目的とするところが違う。現代人は柔らかく美味しい春の時期に少量味わうだけだが、アイヌの人たちは「ミ」の入った時期に大量にとって保存することに重点を置いている。

だから、まず食料を集めて保存することが先にあり、その上で、これをいかに少しでも美味しく食べるか、工夫することが続く。この本のレシピは、飽食の現代の観点からすれば、あまり美味に思えないかもしれないが、異なる目的の上に成り立っていることがわかれば、違った発見が得られると思う。

たとえば、普通の日常が続いている今のところは需要が少ないかもしれないが、今後、全世界的な飢饉がやってこれば、大いに役立つ知恵といえる。たとえ森があっても、そこにある食べ物の使い方を知らなければ、利用することができない。マニュアルを読めばすぐ使えるものでもなく、平時からの見分けの訓練や、保存法の工夫が物を言うだろう。

2021/02/14日

気温プラス6℃。冬の終わりが見えてしまった…

今日の最高気温はなんと6℃!  暗くなってもまだプラス気温のままでした。

2月らしからぬ陽気…、と言いたいところですが、最近はこんな冬が増えています。明らかに温暖化や異常気象の影響で、将来が心配です。

今はまだ、厳寒日もあるし雪もそこそこ積もります。しかしきっと近いうちに、雪が全然降らず、降ってもすぐ溶けるような冬ばかりになり、ヒグマも冬眠しない、なんて事態が訪れそうです。そうなったらわたしはどこに住めばいいのだろう? サハリン?

近くの公園や川沿いをスノーシューで歩いてみましたが、冬の服装だと、少し歩いただけでじわっと汗ばむような気持ちの悪いぬるさです。心なしかハンノキの花粉も飛んでいるような気がします。

公園にあったズミの冬芽を撮っておきました。確実にズミだとわかっているので、今後、森でズミらしき木を見つけたときに、比較検討する手がかりになります。

ヤマザクラを小型化したような雰囲気で、アズキナシによく似ています。しかし、芽鱗がきっちりまとまらず、少しずれているのが特徴か。きっちり整ったヘアスタイルではなく、ツンツン尖って乱れている髪型のような。

しばらく公園を歩いてみましたが、鳥もいないし、自然のままの木もないし、とてもつまらない。すぐに引き返して、家の近所の川沿いを歩くことに変更しました。夏はササやぶになって入れない場所です。

めったに車が通らない道沿いの、分厚い雪の壁によじ登り、川沿いの林を歩きます。天塩川の細い支流が流れていて、護岸工事もされていない天然河川ならではの野性的な風景が続いています。

今年は雪が平年並みに降ったので、数日温かいくらいでは、そうそう地面は見えません。でも、雪の下を轟々と流れている川を見れば、雪解けが間近いことはすぐに気づきます。

数歩歩いただけで、足が重くなるのを感じます。スノーシューの裏を見てみると、大量の雪の塊がへばりついていました。気温が上がって、雪が溶けて湿っぽくなったせいで、ひどく歩きづらいです。ほんの数日前までは、まだ冬らしい乾燥した雪だったのに…。

川沿いに身を乗り出すと、対岸から、エゾシカのキョン!という甲高い警戒声が響き渡りました。慌てて姿を探しますが、眼下の川沿いにも、対岸の森にも姿は見えません。

エゾシカといえど、もしいきなり出くわして、驚いて向かって来られでもしたら危険です。鉢合わせしないよう、位置を確認しておきたかったのですが、どこから声がしたのかわかりません。足跡があれば手がかりになりますが、少なくとも見える範囲には残っていないようです。

慎重に周囲を見回しながら川べりを降りていくと、もう一度、耳をつんざくようなキョン!という声が響き渡りました。改めて、音の位置を意識してみると、対岸の森の中のようでした。

やはり姿は見えず、その後、もう声が聞こえることはありませんでした。わたしのほうは全然エゾシカが見えなくても、向こうはきっと森の中からこちらが見えていたのでしょう。驚くべき周囲への観察力です。

面白かったのは、川沿いに立っていた枯れ木。色鮮やかな地衣類と、ツリガネタケがたくさん生えていました。

なかなか近くでツリガネタケを見る機会はありません。表面は貝殻や瓦のようなひだがうねうねしています。見た目に反して、とても硬いです。

裏側はひだになっているのではなく、イグチ科のキノコのように、ぎっしりと管孔が詰まっています。もしイグチだったら新鮮で美味しそう、と思ってしまいます。

後で調べてみたら、このキノコの肉はフェルト質で、火種(火口/ほくち)として使えるとのことでした。シラカバなどの樹皮(ガンピ)やガマの穂も燃えやすいことで有名ですが、いざという時はツリガネタケも使えるんですね。

温かい上に、水は青く澄み切って美しい。川のほとりに佇んで、自然の音に耳を傾けていると、ああ、もう冬は終わるんだな、という実感が湧いてきました。

暦の上での立春は2月3日ですが、道北の春はいつも遅い。でも、去年も2月後半にはもう春の気配が迫ってきて、ヤナギのつぼみも現れていました。本格的に雪解けしてスプリングエフェメラルやフキノトウの季節になるのは4月ですが、いずれにしても冬の終わりはもうすぐです。

2021/02/15月

雪ではなく雨。公園のバンクスマツ?の松ぼっくり

昨日はプラス6℃。そして今日は雪ではなく雨。改めて本格的な冬は終わったんだな、と感じます。これから何度か寒さはぶり返すでしょうが、それも束の間。ひとたび春の陽気が漂いだしたら、もう冬が戻ってくることはありません。

忙しかったので、森や川に出かける時間はありませんでしたが、休憩時間に公園を10分ほど散歩しました。公園の色々な樹木を見て回りましたが、最後に目に止まったのが入り口に植えられていた大きなマツでした。

地面には松ぼっくりが落ちていましたが、羽がぎっしり折りたたまれてコンパクトにまとまっています。春のような暖気の雨だし、雪が溶けて湿気も強いので、松ぼっくりも湿っぽくなっているのでしょうか?

葉っぱを見てみると、2枚セットでした。ということは本州産のクロマツかアカマツ、あるいは外国産のヨーロッパアカマツ、ヨーロッパクロマツ、バンクスマツ、モンタナマツのいずれかでしょう。

樹皮が剥がれて赤くなっている部分もありますが、全体的な色はクロマツ?

しかし、特徴的だったのは、1枚目の写真にも写っているとおり、開いていない実がたくさん枝についていたことです。これは海外産のバンクスマツの特徴と一致しています。バンクスマツは火災の熱で球果が開くよう適応しているそうです。

ちなみに、火災に適応した植物として有名なバンクシアと名前が似ていますが、どちらも18世紀にキャプテン・クックに同行した植物学者ジョセフ・バンクスに由来するとのこと。

とはいえ、様々な種類のマツには、実が成熟するまで数年かかるという特徴があるので、実が残っている=バンクスマツではないようです。

他の特徴としては、バンクスマツの実は上向きや横向きにつき、時々先がぐにゃりと歪む形になるようです。アップで撮った写真はまっすぐですが、木全体を映した写真の実を見ると、けっこういびつな形の実が多いようにも見えます。

バンクスマツは、葉が2~4cmと短いことも、特徴だそうです。上の葉の写真はわたしの手のひらの上で撮ったものですが、手のひらの幅より短いので、4cm以下程度でしょう。

アカマツやクロマツ、ヨーロッパクロマツは最短でも7cmくらいはあるようです。ヨーロッパアカマツやモンタナマツは5cm前後で、バンクスマツよりは長いです。

今日公園で見たマツは、地面に落ちていた枝の葉を調べただけだったので、もっと長い葉があったのかはわかりません。

上に載せた写真を見ると、もっと長い葉があるように見えるので、バンクスマツではなくヨーロッパアカマツかも? 冬芽も撮っていたら手がかりになったのですが…。

公園の木も観察してみると、意外と面白い点がいろいろ見つかるものですね。

2021/02/16火

春の嵐? 風の強い一日

今朝からずっと、かなりの強風が吹き荒れて、暴風注意報が発令されています。視界は良好で、吹雪にはなっておらず、ホワイトアウトの危険はなさそうです。単に風が強めという程度です。

ここ数日の暖気で道路の圧雪が溶けてしまい、除雪が追いついていません。車の運転も不自由なので、森歩きなどの外出はしませんでした。

(後で聞いたところによると、あずった車が多かったそうです。「あずる」=「タイヤがはまって動かなくなる」。また、わたしの住んでいるところではさほど雪が降らず10cm未満くらいでしたが、さすが豪雪地帯の朱鞠内や音威子府は50cm/日くらい積もったそうです)

先日から読んでいる「北海道自然保護読本」シリーズですが、なんと、ライブラリデータベース – きたマップ というウェブサイトに、全巻PDFで公開されていました。自宅で好きなだけ読み放題です。早速「動物と私たち」を読み始めているので、近いうちに読書メモを書きたいです。

しかし、「いつでも読める」になると「結局読まない」になりがちなわたしの性格。読書のモチベーションを維持するのが難しい。カーソンの「われらをめぐる海」も途中まで読んでほっぽりだしてしまっているので、もう少し真面目に読む意欲を持ちたいです…。

2021/02/17水

「自然を読む」読書メモ(1)

ライブラリデータベース – きたマップでpdfが公開されている「北海道自然保護読本」シリーズの第二巻の「自然を読む」。後の巻とは違って中学生を対象としたイラスト入りの本なので、とても読みやすく、勉強になります。

第1-3章まで。

■水墨山水画の世界のような中国・桂林のカルスト地形の成り立ちについて。もともと海の底だった石灰質の台地で、雨水がくぼみにたまり、くぼみの石灰質が水に溶けて侵食されていくと、非常に凹凸の激しい岩峰になる。地下では鍾乳洞もできる。北海道には、当麻町と中頓別町に鍾乳洞がある。

画家の東山魁夷(1908-1999)は、桂林を訪れたとき、「世にも珍しい風景の中をさまよった。桂林から陽朔へ下る灕江の舟旅こそ、地上の一隅に、神がひそかに残しておいた空想の旅路である」と書き記したという。(p5-8)

■浅間山に登った物理学者また随筆家の寺田寅彦(1878-1935)は、「小浅間」という随筆で火山噴出物について「その他にもいろいろな種類の噴出物がそれぞれに違った経歴を秘めかくして静かに横たわっている。一つ一つが貴重なロゼッタストーンである。その表面と内部にはおそらく数百ページにも印刷しきれないだけの〈記録〉が包蔵されている。悲しいことにわれわれはまだ、その聖文字を読みほごす知恵が恵まれていない」と書いた。(p11)

寺田寅彦の教えを受けた物理学者、中谷宇吉郎は、雪の結晶の美しさに感動して研究に没頭したことで知られ、「雪は天から送られた手紙である」との言葉を残した。(p13-14)

自然界にはロゼッタストーンや天からの手紙のような情報が眠っており、読み解く観察力と知恵があれば多くの発見につながることが示唆されている。

■動物たちのフィールドサイン。知らなかった部分のメモ。

エゾユキウサギの食痕は後ろ足で立ち上がり、伸び上がるようにして、灌木や若木の枝をかじってあることがある。切り口はナイフでスパッと切ったように鋭い。雪の上に残されている桃色の分泌物は、発情期のウサギによるものだという。突然足跡がなくなっているなら「止め足」で、後ずさりしてから大きく横飛びして身を隠したことを示している。(p26-27)

木の下のほうの樹皮が剥がれているのはエゾヤチネズミの食痕。食糧が乏しくなる春先に多い。積雪の高さの場所につくため、雪が溶けると高い位置になっていたりする。足跡は左右の足跡の間にしっぽをひきずった溝がある。(p26,33)

雪が溶けると、その下でネズミが動き回っていた枯れ草の絡まったトンネルの跡がたくさん見つかるという。(p37)

雪面に散らばった小枝や冬芽のさやが落ちていたら、エゾリスやエゾモモンガによるもの。エゾユキウサギ同様、ナイフで切ったようなきれいな切り口。(p33)

キタキツネの足跡は普通一列になっているが、左右の足が一組ずつ横に並んで、歩幅が普通より広いなら(つまり両足跳びのような足跡か)、獲物を追ってギャロップで走っていたことを意味する。深く残った並んだ足跡は踏ん張って高くジャンプして狩りをした場所。(p28)

カラスの足跡は、飛び立つ時には揃えた両足のつま先が深くなり、両翼の先が雪をはいた跡も残る。カラス、ハト、スズメ、シギなどは三本足のほか後ろ側に伸びる一本の爪がある。(p30)

カケスやリスが木の幹のひだや穴などに木の実を蓄え、普通なら生えないはずの場所から植物が発芽していることがある。ハイマツ帯から遠く離れた中腹で、ハイマツが育つような場合も。(p34)

エゾシカの足跡は牛と似ているので、牧場近くでは紛らわしいという。雪が深くなると泳ぐような足跡になり、明治12年の大雪の際は大量のエゾシカが死んだ。そういえば、先日森の深くで見かけた立派な雄ジカが、イルカが泳ぐように逃げていった様子が思いだされる。(p37)

「カッコウ鳴けばマメを蒔け」という言い伝えがある。昭和57-58年の報告によると、東京では5/10ごろ、道央では5/17ごろ、道北では5/25ごろが初鳴きだった。(p38)

■根室半島では、濃い霧は林のせいで発生すると考えられて木が伐られてしまったが、余計にひどくなってしまった。海から運ばれてくる霧が、林によって防がれているとわかったので、世界でも珍しい防霧林が作られた。

北海道の鉄道防雪林や、高速道路沿いの防雪林も世界的には珍しい存在だという。雪を防ぐとともに、道路近くの斜面を保護している。

霧が立ち込める林は湿度が高くなって温度が下がり、木の生育は悪く、高山植物が生育する。地衣類のサルオガセも繁茂し、別名「霧藻」と呼ばれるという。(p44)

■雪は毛布であり、雪がなければ地面はカチコチに凍ってしまう。雪の毛布があるおかげで、冬には土と雪の間に秘密の通路があり、青々した植物さえ茂っていて、小動物が利用できる。(p50)

■針葉樹の形は、天然の雪落とし屋根のようになっていて、吹雪の中で道に迷った人が、針葉樹の屋根の下に入ってひと晩を明かして助かった例もあるという。そういえば今年、そのような針葉樹の下に入ってみたが、まるで子どもの秘密基地のような立派な空間だった。(p51)

■森林は残雪を長く蓄え、巨大なダム湖のような役割を果たしている。道東の厚岸町では、森林伐採のせいで、牡蠣の産出量が減ってしまった。森林がないと、雪解け水が早く川に流れ込んでしまい、海水温が下がって、牡蠣の成長が妨げられてしまう。森林があるとその流れがゆるやかになり、一年中海に栄養分が供給される。(p52-54)

■シャクナゲやイソツツジの葉は、乾燥が続くとそのふちが巻き込んで蒸散量を抑えるようになる。先月、岩尾内湖付近で、おそらくシャクナゲと思われるそのような葉を見つけて写真を撮っていたが、日記に載せるのを忘れていた。せっかくだから、ここに貼っておこうと思う。(p57)

■水辺を好む植物でも、栄養素が少ない湿原(有機物が堆積するばかりで分解が進まない)では育たず、特有の植物ばかりになる。最も栄養素の少ない場所では雨水だけでも育つミズゴケのみになる。(p58)

一方ハルニレ(アカダモ)は、十分な水と栄養分が次々と供給されるような場所でないと育たない。豊かで日当たり良く、風の弱い扇状地が必要で、札幌、旭川、帯広など、人間も住むようになった場所に多かった。北海道開墾の手引きにも甲地とされている。

アメリカでも同様で、ネイティヴ・アメリカンはアメリカニレの生えている土地が住みやすいとしていたらしい。ドイツではサワシバ、アカシデが住宅地にふさわしい木とされていた。(p59-61,64)

■エゾエンゴサクの花の色はアジサイと同じく土壌の影響を受け、赤に近いものは酸性土壌を表す(p63)

■カツラやイチイは数百年生きる長命だが、シラカバはあまり長く生きない。美しさは儚く、次第にトドマツ林などに交代する。(p68)

「自然を読む」読者メモ(2)終

4-5章

■カルデラ湖のなりたち。噴火のあとマグマだまりが空になって陥没したもの。カルデラはポルトガル語で大鍋を意味する。北海道では、屈斜路湖、支笏湖、洞爺湖、摩周湖、阿寒湖、倶多楽湖など。(p73)

■大雪山のふもとの凝灰岩の大地を石狩川が削ってできたのが層雲峡。高さが100mを超える絶壁が24km続いている。凝灰岩が冷えると体積が収縮して、冷えた面と垂直に割れるが、層雲峡の場合上下から冷やされたので、垂直に立ち並んだ材木のような「柱状節理」になった。

根室半島の車石は、周囲の海水によって冷やされて、全方位に放射状に割れ目が走ったものだという。

冷却面に並行に亀裂ができたものは板状節理と呼ばれる。(p76-77)

層雲峡は一度行ってみたが、遠いのと観光地化されているのとでげんなりしてしまい、地元の森でいいやと考える転機になってしまった。

また、気になって調べてみたが、去年行った北見枝幸の千畳岩もまた、凝灰岩が海水で冷却して作られた柱状節理だとされていた。

■地面の色、北欧の子供は地面を灰白色に塗るが、それはポドゾル土壌のため。ポドゾルは北海道には少ない。北海道の主な土は褐色森林土。日本など亜熱帯の東アジアはラテライト性赤色土。

土が黒くなるのは腐植のため。赤くなるのは土の中の鉄が酸化するため。空気に触れたり、気温が高かったりすると酸化されるので、暑い地方は赤い。

土が水に触れて空気にさらされなくなると鉄分が酸化還元されて青緑色になる。これはグライ化と呼ばれ、グライ土は水田に利用されている。(p78-84)

■日本の川は、標高に対して河口からの距離が短く、流れが急。水の中の石はアルキメデスの原理により、石の体積に相当する水の重さだけ軽くなる。水で流される石の体積は流速の6乗に比例する。流速が2倍になるだけで、流れる石の体積は64倍になり、水害がひどくなる。

大きな石の上面で小さな硬い石が回転すると穴が空き、おう石(凹石?)ができる。(p86-88)

■利尻昆布の産地では、機械乾燥ができない時代は収穫日の天気が重要だった。地元の漁師の代表が空を見て天気を予報し、8割方当たっていた。一方、日高昆布の産地では、昆布の干し場の岩が厳選され、日高地方に多いカンラン石の上には決して干さなかった。カンラン石は比熱が大きく温まらないからだった。(p91)

■雲の名前。学術的名称は、もう少し覚えやすくはならないものか、と感じていたが、一般名称との対応表が少しは役立つかも?

(低い)
層雲…きりぐも
積雲…わたぐも
乱層雲…あまぐも、ゆきぐも
層積雲…くもりぐも、うねぐも、むらくも

(中ほど)
高積雲…ひつじぐも
高層雲…おぼろぐも

(高い)
巻雲(絹雲)…すじぐも
巻積雲(絹積雲)…うろこぐも
巻層雲(絹層雲)…うすぐも

(低い場所から高い場所まで全体を覆う)
積乱雲…にゅうどうぐも、かなとこぐも、かみなりぐも

「積」がつくと丸まった雲。レンズ雲と呼ばれる形になることもある。「層」がつくと平たいベールのような雲。「乱」がつくのは低い位置にできる雨雲。中くらいの高度だと「高」がつき、もっと高い場所(6000m以上)にあると「巻(絹)」がつく。(p93-95)

■コリオリの力のため、北半球では、台風や前線は反時計回りにやってくる。温暖前線が来ると、巻雲、巻層雲、高層雲、乱層雲とベール状の雲がやってきて、長雨になりやすい。寒冷前線だと積乱雲や積雲が来るが、長雨にはならない。(p96)

■こうした仕組みのため、詳細な原理を知らなくても天気を予想することができる。科学的に正しいとされている天気ことわざ。

・夕焼けの翌日は晴れ
・朝焼けは天気が悪くなる
・朝霧は晴れ
・お月様がかさをかぶれば天気は下り坂 (つまり巻層雲や高層雲が出て温暖前線が来ているという意味か)
・遠くの音がよく聞こえると天気が悪くなる(トリスタン・グーリーの本で前に原理を読んだが忘れた…)
・煙が横にたなびくと雨、まっすぐあがると晴れ(単に風が流れているかどうか?)
・飛行機雲がなかなか消えないと天気が崩れる
・レンズ雲は風が強くなる
・星のきらめきの強い夜の翌日は風が強くなる

■地衣類カラタチゴケは大気汚染に敏感で、わずかな硫黄酸化物にも反応する。公害としては四日市ぜんそくが有名だが、今でも苫小牧など工業地帯では、カラタチゴケやウメノキゴケが少ないことで大気汚染がうかがえる。(p105)

■水生生物の調査でも水質汚染を知ることができる。カワゲラ、ヘビトンボ、サワガニなどはきれいな水にしか住めないが、ミズムシ、サカマキガイ、ユスリカ、イトミミズなどは汚い水の川にも棲息する。(p109)

■昭和49年の「緑の国勢調査」という図が面白い。森のボートルスケールみたいなもの。詳しくは環境省のウェブサイトに載っていて、その後も数回実施されているようだ。

植生調査 | 生物多様性センター(環境省 自然環境局)

最新のデータ調べ方がわからないが、昭和49年の時点では自然度9(最高ランクの一つ下)の森が、全国21.7%に対し、北海道59.6%も存在している。身近に豊かな生態系があるすばらしい環境だとわかる。ただし自然度9は原始林ではなく間伐の行なわれている森も含む。(p114-116)

■最後のページには聖書のヨブ記12:7-8が引用されていた。
「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥も、あなたに告げるだろう。大地に問いかけて見よ、教えてくれるだろう。海の魚も、あなたに語るだろう」(p118)

以上。これまで、「自然を読む」ことについての翻訳本は、ハロルド・ギャティやトリスタン・グーリーの本など数冊を読んできましたが、国内の本で、しかも無料で公開されている本があったとは思いしませんでした。おもに北海道について書かれたものなので、邦訳本より身近な話が多く、勉強になりました。

学校で読まされたら、何も頭に残らないような本ですが、実際に自然に親しんだ上で読めば、とても役立つ知識だらけの本です。本当の勉強とは単に教室の中でするものではなく、現実世界での経験と、読書などの知識を、鳥の両翼のように組み合わせて学ぶものだとつくづく実感します。

過剰同調性があってよかったと思えた

ここ最近、ずっと悩んでいました。

あれほど絵を描くのが好きだったはずなのに、まったく描けなくなってしまった自分はいったいどこにアイデンティティを求めればいいのか。あれほど病気の考察と分析のために本を読んでいたのに、今では読書する意欲が限定的なことを、どう受け止めればいいのか。

今日シャワーを浴びているときに気づきました。

そうか、これはわたしの過剰同調性のなせる業だったのだ、と。

わたしは自分のことを詳しく神経学的に調査したとき、「過剰同調性」という概念を知りました。もともとの自分が透明人間であるがゆえ、周囲の環境と一体化し、どんな色にでも染まってしまう性質です。

いわゆる過剰適応とはまた別のもので、無理をして合わせているわけではありません。勝手に、おのずと、知らず知らずのうちに、周囲の環境に合わせてしまい、別の自分になりきってしまうのです。

これは脳科学的には解離と関係している現象であり、スペクトラムという観点からすれば、軽い程度の解離性同一性障害ともいえる状態です。スペクトラムの一方の端には、記憶さえも断絶してしまう重い病的状態がありますが、もう一方の端にはシェイクスピアのような創造性があります。

もともと人間には五感やミラーニューロンシステムを通して、周囲の環境を取り込み、同期、同調する能力が備わっていますが、それが強い人もいれば弱い人もいます。その能力が強い人はHSPなどと呼ばれ、弱い人は自閉症スペクトラムとみなされることがあります。

わたしは強いタイプであり、すぐに周囲の色に同調し、何にでもなることができます。でも、自分の意思で何者にもなれるわけではなく、あくまで周囲の環境に合わせ、受動的に変化するだけです。その点は、カメレオンなど体色を変えて擬態する生物とよく似ています。

これは受動的な能力ですが、コントロールするすべがないわけではありません。自分で環境を選べない子どものころは、ただ置かれた境遇に甘んじて受動的に翻弄されるほかありませんが、大人になれば、自分が生きる環境を選ぶことができます。

思い切って生活環境を一変させることにした理由の一つがそれです。わたしが過剰同調性を持っていて、生物学的に異質な環境である現代社会の刺激に過剰に影響を受け、それで病気になってきたのだとしたら、生物学的に好ましい環境に身を置けば、普通の人以上に良い影響が得られるのではないか。そう思ったからこそ常識はずれな変化をいといませんでした。

しかして、体調がある程度改善されたので、その着想は正しかったのだ、と思っています。確かにわたしは自然界から身体的に良い影響を受けました。

でも考えてみれば、過剰同調性の影響はそれだけではなかったのです。わたしは閉塞的な現代社会に過剰同調した結果、解離を起こし、それが空想傾向につながり、絵を生み出すように促しました。絵を描いていたのもまた過剰同調性の結果でした。

一方、自然豊かな環境に来たら、絵が描けなくなりました。なぜなのか悩みましたが、過剰同調性のせいだとすれば納得がいきます。自然豊かな環境に過剰同調したわたしは、人並み外れて自然観察に没頭し、五感で自然を感じる活動に興じるようになりました。身の回りに暮らすほとんどの人より詳しくなりました。

でも、考えてみれば、絵も自然観察も、自分でそうしたいと思って、選んだ道ではありませんでした。いつのまにか、勝手に、おのずと、それらに熱中し、没頭していました。環境がそうさせたのです。わたしは昔も今も、置かれた環境と同じ色に変化していただけだったのだ、と気づきました。

わたしは忘れていました。何色になるか自分で選ぶことはできない、ということを。コントロールできるのは、どの環境で生きるのか選ぶことだけ。

だから、今のわたしは、自然豊かな環境に合わせた色に染まっているだけなのです。この環境にいながら、都会に住んでいたときのような、絵を描くという色を発揮するのは、ほとんど不可能なのです。もちろん、ものすごく頑張って集中すればできますが、無理をすることになるので消耗も激しくなります。

だとしたら、無理に自分の色を変えようとするのではなく、せっかく過剰同調性によって新しい自分になれていることを楽しむべきだと思いました。

過去の自分、別の色だったころの自分ができたことを羨んで、もう一度そうなりたいと願うのではなく、今の自分、新しい色の自分だからこそできることを喜んで、楽しめばいいのだと。過去の自分がひたすら何百枚もの絵を描いたように、今の自分はひたすら何百種もの生き物に親しめばいい。

それがきっと、過剰同調性と共に生きるということ。

わたしは過剰同調性のおかげで、普通の人には不可能なほど、環境の色を取り込むことができます。

それは必ずしも自分の願っている方向性ではないかもしれない。好きな色を好きな時に発揮することはできません。周囲の環境を無視して、なりたいものになれる、というチートな能力ではありません。

でも、なりたい色になろうとしなければ、環境に合わせて普通以上の色を発揮できるのです。だったら、それを活かすほうがいい。自分にない能力を求めるのではなく、自分に備わった能力を最大限活かして、楽しむほうがいい。

幸い、今わたしが取り込んでいる環境の色は、有害なものでも、危険なものでもありません。これ以上何を高望みすべきでしょうか。たとえ絵が描けなくなろうとも、いまは自然観察や、自然について知識を増し加えることに喜びを見いだせるのですから。

自分の現状を過剰同調性という観点で見つめ直せたことで、とてもすっきりしました。絵が描けなくなったことを思い悩まないでいい、ということがわかりました。それはわたしの創造性が枯れたことを意味しているのではなく、わたしが新しい色、別の色の自分になったことを意味しているにすぎないのです。

わたしのアイデンティティは、絵を描けることでも、神経学的な考察ができることでもなく、その時その時に環境に合わせて、さまざまな色を発揮できることにある。絵を描けなくなっても、わたしの根底が揺らいでしまうことはなく、すべて同じ自分なのだと。

後日この話はいつ空のほうの記事にまとめたいですね。

2021/02/18木

吹雪の後の森の様子

あまり時間がなかったけれど、当て所なく森歩き。ここ数日、吹雪の影響などで、ろくに外出できなかったので、体がなまってしまって、新鮮な空気を求めていたので、どこでもいいから森に行きたく感じていました。

森の入り口の沢沿いには、一昨日と昨日の嵐で、ヤナギの木の枝がたくさん落ちていました。ヤナギというと「柳に雪折れなし」ということわざがありますが、今回の低気圧の強風には耐えられなかったようです。

それでも、川沿いの別のヤナギは芽鱗が取れてつぼみが現れかけていて、春を待ち望んでいました。暖かくなったり、また冷え込んだりを繰り返しながら、確実に春は近づいています。

森の中は、ふわふわした雪が地面を覆っていて、動物の足跡がまばらに見えるだけでした。表面の層は柔らかいのに、下のほうに硬くしまった雪が堆積しているせいで、スノーシューで歩くとガツンと足首や股関節に負担がかかります。一歩ずつそっと足をおろさないと傷めてしまいそう。

気温が暖かいので、水分を含んだ重そうな雪が、トドマツの枝を垂れ下がらせていました。いまだかつて、こんなに枝がしょんぼりと垂れ下がったスリムなトドマツを見たことがあったでしょうか。

落葉樹地帯を歩いていると、細かい雪やあられが枝の隙間か吹きつけて冷たかったので、トドマツの林に入って雪をよけることにしました。トドマツの枝の下は空洞になっていて、即席のテントのように、吹雪から守ってくれました。昨日読んだ本に書かれていたとおりです。

あるトドマツには、凍裂と思われる筋が4本も走っていた。シカの角研ぎ痕かと初めは思いましたが、こんなに長い痕が残るはずもないので、凍裂なのでしょう。長年この地に生育していると、何度も割れてしまうものなのでしょうか。

その近くのトドマツの裏を通り過ぎたとき、、くぼんだ樹皮にセミの死体が2つ付いていて、またもやぎょっとしました。本当に頻繁に見かけます。心臓に悪い。全然慣れる兆しがありません。

久しぶりの森歩き?というほどでもないはずなのに、すぐ息が切れます。地面が歩きづらく、雪が冷たく、気温が高いせいでしょうか。いつもより疲れが激しい。

あたりを見回すと、再度降り積もった雪のため、今冬はクマイザサがほぼ100%埋もれているのがわかります。昨冬とは大違いです。これくらい降ってくれれば何も言うことありません。晴れ間は少なかったけれどいい冬でした。まだ終わってないけれど。

たまに雪の上に残っているササの茎などを見ると、動物にかじられた痕跡が見つかります。これはエゾユキウサギの食痕? 何かの動物でしょうが、種類までは特定できません。

雪が降っていることもあり、鳥は少なめでした。しかも、上を向くと冷たいので観察しにくい。カケスの鳴き声や、コゲラの音が聞こえましたが、カラマツ林のハシブトガラしか撮れませんでした。

今年はもしかすると餌が少ないのか、シマエナガなど、他の野鳥の数も減っているような気がします。去年に比べてずっと雪が多く、植物が覆われてしまっていることも関係しているのかもしれません。

でも、その中でハシブトガラは、いつでも見れるほど数が多い。カラマツの実を食べることのできるハシブトガラにとっては、餌不足など微塵も感じない冬なのかもしれません。どの鳥が何を食べているのかという知識があれば、もっと理由をつかめるのでしょうけれど。

2021/02/19金

シイタケ栽培のためのミズナラの原木を伐り出す

友人の山に出かけて、先日調べたミズナラの原木を伐り出す作業を手伝ってきました。

木を伐るときは、「植物の叡智の守り人」に書いてあったネイティヴ・アメリカンの話のように、その木の何十年ぶんの命をもらっている、ということに思いを馳せてしまいます。

わたしがミズナラの木を見分けて指定しているので、どの木の命を奪うかを指示しているのは実質のところわたしなのです。それを考えると気が重くなります。

でも、同時にわたしは、神経科学の研究を知る身として、極端なアミニズムや自然の擬人化に気をつけたいとも思っています。ネイティヴ・アメリカンの芸術的・宗教的な感受性には敬意を持っていますが、科学の目も大切にしたいと思っています。

自我に関わる脳の部位を持たない生物を擬人化して、その気持ちを考え、感情移入してしまうのは、自分の空想を膨らませているだけです。極端な感情移入は我が身を滅ぼしますし、本来存在しないものを空想するという、ある意味で僭越な行為だとも思います。

わたしは数十年ぶんの木の命を大切にしたいと思います。それは事実だからです。しかし、それ以上に、たとえば木の気持ちや痛みを考えたりはしません。また木を擬人化して、わたしがその木を「殺す」よう指示した、などとは考えません。それは妄想だからです。

自然を大切にするときは、主観的な感受性と、客観的な思考とのバランスが大切だと思います。そのバランスを取れない人々が、自然保護のために極端で暴力的な行為に走ったり、食物連鎖という自然の摂理に反した独りよがりで僭越な愛護運動を推し進めたりするからです。

白と黒のような両極端な思想は心を蝕みます。自然を破壊することと、自然を溺愛して保護しすぎることは両極端です。

現にネイティヴ・アメリカンにしてもアイヌにしても、自然を擬人化するアミニズム文化は持っていましたが、だからといって、木を伐らず、草も採らず、動物も狩らないような極端な自然愛護に走っていたわけではありませんでした。

必要なぶんだけ採り、感謝して大切に使う、というバランスのとれた態度で自然に接していました。わたしもそうありたいです。

さて、木を伐り出すのは、思っていた以上に大変でした。前にシラカバを伐った時にも感じたことですが、木はかなり細く見えても、たとえば人のふとももくらいの太さでも、ずしりと重いのです。

伐り出した木はソリに載せて運びましたが、それもかなりの重労働でした。数十年の命の重みを感じさせられました。

こうして伐り出した木は、友人がドリルで穴を開けて、シイタケ栽培の原木にすると聞いています。シイタケが育つのは2年後だそうで、その成長が楽しみです。

その森の中で見かけた謎の冬芽2つ。

うろこ状の芽鱗がとても美しい膨らんだ冬芽。春が近くなって膨らんできて変形したハルニレの冬芽でしょうか? だとしたら写真の葉痕に維管束痕が4つ写っているのが変ですが、たまたま変異したものかもしれません。

赤いアーモンドのような形の冬芽。プラタナス(モミジバスズカケノキ)を思わせる色と形ですが、葉痕は狭いV字型なので異なっています。エゾノバッコヤナギでしょうか?

【気になったニュース】

コロナ渦、SNS、安心感。ノルウェーの森でキノコ狩りに夢中になる若者(鐙麻樹) – 個人 – Yahoo!ニュース

去年の9月のニュースですが、コロナ禍で自分と同じような生活をしている人々が遠い異国にいることを知って親しみが湧きました。というより、もっと大勢の人が自然との共生に取り組んでいて、教えてくれる先生も多いようで、羨ましい限り。

自然と共存する暮らしを意味するノルウェー語「フリルフツリヴ」(friluftsliv)。発音しにくいけれど、ぜひ覚えておきたいです。

冬道運転の危険を思い知る

この雪山での労働のせいで疲れたせいもあったのでしょうか。

帰りに郊外の真っ暗な道を運転しているとき、地面が凍りついて、いわゆる「そろばん道路」になっていることに気づきませんでした。吹雪が吹いていて、ライトが反射して視界が悪いことに、気を取られてしまっていたせいもあるでしょう。

ただまっすぐな道だったのに、ハンドルを取られて左側に寄ってしまい、道路の横にそびえる雪の壁にめりこんで止まりました。

ハンドルを取られて、思うようにコントロールできないのは、ヒヤッとする経験でした。その状況での最善手はエンジンブレーキをかけてから止まることだったと思いますが、とっさのことだったので対応できませんでした。しかし、スピードが出ていなかったので、焦って急ブレーキするようなことはなく、ゆっくりブレーキを踏み込んで止まりました。

スピードは40キロ超くらいしか出していなかったので、衝撃はまったくなく、雪の壁にこすって停まった、という程度でした。わたしは普段から車通りの少ない道を選んで走っているので、対向車や後続車もありませんでした。

バックして壁から抜け出そうとしましたが、空回りしてしまいます。それで、車から降りて、真っ暗な中、調べてみたところ、巨大な雪の塊がタイヤの間に入り込んで邪魔していたので、スコップで取り除きました。

雪を掘り出してから車を動かしてみると、簡単に抜け出せましたが、妙な音がします。見ると、ぶつかった場所が凹んで、タイヤにこすれてしまっていました。北海道に引っ越してきて2年半、ついに雪道で事故ってしまったか…と頭を抱えました。

車がすれた雪の壁を調べてみましたが、ガードレールなど衝突した形跡はなく、公共物を破損させてはいませんでした。しかし今週、気温が日中プラスになる日が相次いだせいで、雪が固く凍っていたようです。地面のそろばん道路もそのせいでした。

お世話になっている自動車メーカーに電話してみたところ、もし走れるようなら、そのまま家まで戻ってほしい、と言われました。凹んだ部分がタイヤにこすれる異音はあれど、走行には問題なかったので、ゆっくり家に戻りました。

その後、保険で修理することになるので、明日、自動車を引き取りにきて、代車を手配する、ということになりました。わずかな衝撃なのに凹んだことに唖然としましたが、最近の車はそう作られているとのことでした。大事には至りませんでしたが、今さらながら、雪道の危険性を思い知らされました。

軽微な損傷ですんだのは、日頃安全運転を心がけていたおかげでしょう。地元の人たちは、雪道でも70キロ近い速度で飛ばしますが、わたしは40キロから50キロしか出さず、後続車が来たら、端に寄って追い抜かせています。エンジンブレーキも常用しています。

今回も、もしもっとスピードを出していたら、転倒したり、雪の壁の奥にあるガードレールまで達したり、衝撃でむち打ちになったりしていたかもしれません。それで死にかけた人も知っいます。

わたしは、スピードを出していない慎重な運転だったからこそ、ハンドルを取られて壁にこするくらいですみました。この経験のおかげで、今後はさらに慎重になるでしょう。

免許をとったころ、地元の人に言われた言葉があります。「一度くらい怖い思いをしたほうがいい」。今まで一度もそんな経験がなかったので、雪道の怖さを意識することがありませんでした。わたしにとっては丁度いい勉強だったように思います。

2021/02/20土

吹雪の中歩く。今年は積雪が多め

自動車の代車が来たので、少し公園まで運転しようか…、と思っていたら、猛烈に吹雪き始めてホワイトアウトっぽくになってしまいました。

でも出かける用事があったので、吹雪の中歩いて用事をこなすことに。かえって雪が積もったほうが地面も滑りにくくなります。地元の人たちは全然気にせず、普通に何人も歩いていました。

まあ、ここで暮らしていると、これくらいの吹雪だと大したことはない、という気持ちにはなりますね。運転はしたくないけれど、風が強いわけでもないし、歩くぶんには問題ありません。

後で気象庁のサイトを調べてみると、今日の吹雪は、24時間で20cmを超える積雪でした。場所によっては、先日の低気圧よりも降ったようです。

道北の二大豪雪地帯では、朱鞠内は過去最深311cmに対し、今年は今日時点で262、音威子府は過去最深281に対し今年211と、近年になく豪雪で、温暖化が叫ばれるより昔の冬を偲ばせるほどの積雪となっていました

現地の人の中には、これだけ降ってうんざりしている人もいますが、冬に雪かきのアルバイトをしている人たちにとっては特需だし、ウィンタースポーツ好きな人にとっても天国だし、わたしにとっても、もう昨今の温暖化では経験できないだろうと思っていた豊かな雪に恵まれて、とても楽しい今冬です。

しかし、困ったことに、24時間換気の故障のせいか、家にいると、ひどく咳き込むことが多いです。喘息を発症したのではないかと疑うレベル。ハウスダスト対策はしているので、空気中の二酸化炭素濃度とかの問題ではないかと考えています。

外にいくと完全に治るので、間違いなく室内環境の問題。24時間換気の修理交換は3-4月になるとのことで、あと数ヶ月、どう生き延びるか悩まされています。できるだけ外で遊べということでしょうね(笑)

(追記 : その後、台所の換気扇を強モードで回し続けたら、楽になることがわかりました。これまでは家に戻ってくると、空気が薄くて息がしづらい感覚があったのが解消されました。これで交換まで乗り切れそうです)

2021/02/21日

公園で見つけたヨーロッパアカマツ

昨日できなかった代車の試運転で出かけた公園。もうほとんど0℃付近の気温なのに、公園は木が少なくて風が肌寒いです。

そこで見つけた2本セットの葉のマツ。だいたい6cmくらい?アカマツ、クロマツ、ヨーロッパクロマツにしては葉が短い。バンクスマツにしては長い。消去法でヨーロッパアカマツ?

地面に落ちていた枝についていた松ぼっくり。今回も開いていない形をしています。

ヨーロッパアカマツだとしたら、松ぼっくりは2年目までは枝に残り、3年目に開くようです。上の写真は2年目の未熟な松ぼっくりが枝ごと落ちたものでしょうか。

葉先の冬芽の写真。去年の雌花=1年目の松ぼっくり?らしきものがぶら下がっています。

冬芽の様子。赤みを帯びていて、ふっくらした卵型。

図鑑によると、ヨーロッパアカマツとバンクスマツの冬芽は長卵形。アカマツとクロマツは円筒形、ヨーロッパクロマツは円錐形とのこと。

つまり、卵型なのは、ヨーロッパアカマツとバンクスマツだけなので、上の写真の冬芽はそのどちらかだといえます。

幹の色。黒っぽい部分と、赤っぽい部分が混在。

図鑑によると、ヨーロッパアカマツの樹皮は「灰褐色から赤褐色」とのこと。ヨーロッパクロマツは「灰黒色から暗黒色」なので、簡単に言うと、褐色がかっているということですね。それには当てはまっています。

調べてみたら、アカマツとヨーロッパアカマツ ~ ②判別法 | 山野有情 ~雑草という名前の草は無い~ というサイトに、とても詳しいヨーロッパアカマツの見分け方が載っていました。ポイントは以下の数点

・葉は平べったい部分があってねじれる。(アカマツは直線的)
・松ぼっくりは2年目にはまだ開かず、緑色から暗緑褐色。(アカマツでは2年目には開く)
・1年目の実(去年の雌花)は垂れ下がる。(アカマツでは上向き)

この特徴すべてに当てはまっているので、ヨーロッパアカマツで正しそうです。

また、ヨーロッパアカマツなどは載っていませんが、冬芽と葉痕 マツ科 「気ままに自然観察」 に色々なマツの冬芽が載っていました。同じマツ科でも、こんなに違うなんて面白い。

これまで、マツの仲間は難しくて、種類の見分けなどできていませんでしたが、じっくり観察することで違いがわかってきました。少しずつ苦手を克服していきたいです。

2021/02/22月

チョウセンゴヨウとエゾマツの冬芽、バッコヤナギのつぼみが現れ始める

今日は遠くまで車で外出する用事。車が修理中なので、どうしようかと考えあぐねていましたが、代車が来たし、普通に乗れそうなので、無事に出かけることができました。

車の修理の見積もりの電話もかかってきましたが、思いのほか損傷は軽微で、バンパーの交換だけですむとのことでした。早ければ今週末、遅くとも来週には戻ってくるようです。やはり安全運転しててよかった。

出先の建物のすぐ横に建っているマツの木。去年観察して3本セットの葉のリギダマツだと思いこんでいたのですが…。

改めて調べてみると5本セットでした…。当時はたまたま不揃いな葉を調べてしまったのでしょうか。

5本セットだとしたら、ゴヨウマツ、チョウセンゴヨウ、キタゴヨウ、ストローブマツ、ハイマツのいずれかですが、明らかに高山性のハイマツではない。

葉の長さは10cmくらいと長く、もっと短いゴヨウマツとキタゴヨウも除外されます。というわけで、チョウセンゴヨウ(Pinus koraiensis)かストローブマツ(Pinus strobus)です。

この二種では、ストローブマツが細い針金のような葉なのに比べ、チョウセンゴヨウは幾分厚みのある葉です。確証は持てませんが、少し厚みがある気がしたのでチョウセンゴヨウのほうでしょうか。

冬芽の様子。パイナップルみたい。手持ちの図鑑にはマツの冬芽はあまり載っていないのですが、ネット検索する限りチョウセンゴヨウのほうが近い? ストローブマツはもっと芽の表面が滑らかで、芽の太さに対して葉がもっと細い…ような気がする。

樹皮の様子。せっかく撮ってはみましたが、ゴヨウマツ系はそんなに樹皮の違いははっきりしていないので、区別の手がかりにはなりませんでした。

全体の樹形。まあ図鑑に載っているチョウセンゴヨウに似ているような。

前回は適当すぎる観察でリギダマツと考えてしまいましたが、一つの木でも複数の葉っぱを観察するなどしないといけませんね。今まで文章を読んだり調べたりすることばかりやってきた人生なので、観察スキルに慣れていく必要があります。

その後、公園の林の中で観察したエゾマツの葉と冬芽。

エゾマツは一枚だけの葉なのでわかりやすい。葉を確認した上で、樹皮も確認すれば、トドマツとすぐ区別できます。

アカエゾマツとの区別が難しいですが、エゾマツの葉の断面は平べったく、アカエゾマツ(と近縁のヨーロッパトウヒ)はひし形です。この写真の葉は明らかに平べったいのでエゾマツです。

ピンぼけですが、冬芽の様子も。同じマツでも、先日のヨーロッパアカマツや、上のチョウセンゴヨウとは全然違いますね。あまり目立ちません。

公園の林の中にはホオノキの実の殻もたくさん残っていました。すっかり鳥たちが実を食べた後ですが、殻はそのまま枝にくっついています。

この殻を煮出したお茶が、それはそれはフルーティーで美味なのですが、高い場所すぎて採れない…。そもそも公園の木だし、採るわけにはいきません。

そして、エゾノバッコヤナギと思われるヤナギが、もうかなり白いふさふさの書道の筆のような毛を覗かせています。

2月初頭だと、ごくまれに芽鱗が取れているだけでしたが、今や多くの冬芽が割れてつぼみが現れて、春近しという雰囲気を感じます。

見つけた鳥たち。マガモ、ヤマガラ、シマエナガ等

出先の建物のすぐ裏を流れる、天塩川の支流には、マガモのご夫婦がいました。去年もここで夫婦を見たのですが、まさか同じ個体だったりするのかな?

地味で落ち着いた色合いのメスと、

派手な孔雀色の頭のオス。冬なので鮮やかな繁殖羽ですが、渡っている夏場や、飛来してすぐの秋は、エクリプス状態で、ほとんどメスと変わらない羽色らしいです。

ご夫婦で仲良くツーショット。

https://youtu.be/rRyFgzR-P4o

マガモは過去の狩猟圧から人間に対する警戒心の強い鳥ですが、二羽ともわたしが遠くから写真を撮っているくらいでは気にせず、ガァガァと鳴きあっていました。

その後、公園の林で見た鳥たち。到着してすぐの時間帯は、ほとんど鳥がいないように見えましたが、15:30くらいで日が傾いてくると賑やかになってきました。

まず、最もよく見かけるキツツキのエゾアカゲラ。しきりに木をつついているのを真下から撮影しました。

木をつついて餌をついばむだけでなくドラミングの音も時々聞かれ、繁殖シーズンが近づいてきたことを思わせます。

いつもの割とどこにでもいるエゾコゲラ。木々のある場所なら、アカゲラに次いで見つけやすいキツツキです。

こちらはギィーという、あまりキツツキらしくない鳴き声が印象的で、遠くにいても森の中によく響き渡って存在に気づきます。

今シーズン初目撃のヤマガラ。カラ類なのに、モノクロではなく、橙色の鮮やかなお腹が美しい。マツの梢に止まってさえずっていました。

別の木から飛び立つ瞬間も撮影できました。

ヤマガラはそんなに珍しい鳥ではないと思いますが、もとよりカラ類が、いることはすぐわかっても撮影が難しい小鳥たちなので、ヤマガラもめったに撮れません。今日は二羽も見れて嬉しかったです。

同じように、今シーズン何度も目撃しているのに、写真に撮れたのは初めてのシジュウカラ。黒いネクタイがオシャレです。

そして、帰宅後、家の近くの公園で見かけた、今シーズン二度目の撮影のシマエナガ。声が聞こえたので慌てて探すと、逆光ながら見つけることができました。とまっている枝はコブシのようです。

https://youtu.be/JeXu9-PYPoI

すぐにいなくなってしまいましたが、千載一遇の好機に写せてよかった! 去年は公園に行けば毎日いるような鳥だったのに、今年はなかなか目にしないので心配していましたが、暖かくなればもっと見れるかもしれません。

本物のシマエナガを見たことのない人は、メディアの写真だけ見て、見ればすぐわかる可愛い鳥だと思いこんでいるかもしれませんが、実物はもっと地味。というか、あまりに小さくてすばしっこいので、いても目視できないでしょう。鳴き声を知らないと、すぐそばにいても気づけません。

このシマエナガはハシブトガラの群れの中にいましたが、そのハシブトガラのほうも、鳴いているところをばっちりビデオ撮影できました。これは地鳴き? さえずり?

https://youtu.be/OzSMiGQM4Vw

ハシブトガラの鳴き声で検索しても、同じような鳴き声の動画が見つかりませんでした。見た目がほとんど同じコガラの場合、もっと悲しげな風音のような鳴き声らしいので、ハシブトガラであること自体は合っていると思うのですが。

2021/02/23火

ついにネコヤナギのつぼみも目立ち始めた

朝からずっと吹雪いていましたが、午後になって曇りになったので、道路の近くを流れる川沿いを、スノーシューで散歩してみました。前にエゾタヌキが川床を歩いていた場所です。道路のすぐ脇なので、写真に標識も写っていますね。

川の流れは、タヌキが歩いていたときより流量が増していました。まだ勢いが強いと感じるほどではありませんが、少しずつ雪解け水が増加しているようです。

川沿いには、ハンノキ、ヤチダモ、オニグルミなど様々な木々が生えていて、その中にネコヤナギもあり、ついに芽鱗が取れて白いつぼみが現れていました。

ネコヤナギは水辺に多く生え、冬芽は先が尖っていて、時に反り返っていて、灰色の毛で覆われているところが、昨日のバッコヤナギ(ヤマネコヤナギ)と違う、と覚えていますが、ヤナギ類は仲間が多いので正しいかどうか定かではありません。

そういえば、去年、ネコヤナギが咲き始めた(つぼみが露出した)ことに気づいたのも2月19日ごろでした。

去年と今年では、雪の量などかなり違うに気候に感じられますが、自然はかなり正確に時を数えているものだと感心させられます。いえ、もともと自然が時を数え、それをわたしたちが暦と呼んでいるにすぎないのですが。

この場所は、昨年の春に、ニワトコの芽を摘んで食べた場所でもありました。ニワトコの芽が開くのはまだ一月以上先ですが、心なしか緑色が目立ってピスタチオの実のような色合いになり、膨らんできたような気がします。

川沿いには、いかにもキツツキが木彫りしたらしい木もありました。かなり深くまで掘られていますが、高い位置ですし、サイズもそれほど大きくないので、クマゲラではないでしょう。

アップで見ると、かなり迫力のある彫り痕ですね。

時刻は16時ごろで鳥が比較的多くなる時間帯かと思っていましたが、川沿いには特に見当たりませんでした。さっきまで吹雪いていたからかもしれません。少しずつ、着実に春が近づいていて、楽しみなような、後ろ髪を引かれるような気持ちです。

2021/02/24水

今日の冬芽。ハルニレ、ネグンドカエデ等

朝は良い天気で晴れていたので、マイナス15℃以下まで冷え込んだようです。春が来る前の揺り戻しですね。道北下川町ではダイヤモンドダストも見られたそうです。

公園のハルニレの冬芽。かなり膨らんできて、形が変化しました。

前に森で撮ったハルニレ?っぽい冬芽とはまた形が違うような気もします。この時期には日に日に形が変わるので、よく知っているはずの木でも、見慣れない冬芽に思えることがあります。

公園にあるネグンドカエデ(トネリコバノカエデ)。実が全然落ちないのはそういう生態の木だからなのか、外来種ゆえに鳥に人気がないのか果たして。

ミカンの実のように白い産毛で覆われたネグンドカエデの冬芽。

こんないい天気の日は少ないから、森や海に出かけたいけれど、残念ながら仕事です。なかなか天気と予定が合わないものです。

2021/02/25木

エゾシカ襲う食糧不足

時間があったので、久しぶりに森の奥地まで入ってみることにしました。

出かけるとき、車のボンネットに、ネコの足跡がついていることに気づきました。いつの間にか雪から逃れてガレージに入り込んでいたようです。

振り返ると、灰色の丸々としたネコが、こちらをじっと見ていました。この付近に住んでいるネコで、時々見かける子です。マヌルネコのようなふくふくした体つきなので、近所のどこかの家で世話されているネコなのかもしれません。

でも、人を見るとすぐ逃げるので、飼い猫のようにも思えません。エサだけもらっている半野良猫なのかもしれないし、本格的に自立している野良猫なのかもしれません。いずれにしても元気そうで何よりです。

今日出かける森は、かつては人工的な道が作られていました。しかし、今は誰も管理しておらず、夏は背の高い草で覆われ、ヒグマのテリトリーなので入れません。

でも冬なら探検できます。雪が降ると草が覆われてかつての道が現れるので、冬眠しているヒグマの穴を間違えて踏むようなこともありません。

先月、3回奥地まで探検したら、エゾシカの水飲み場になっていました。あまり頻繁に通うとエゾシカが可哀想だと思い遠慮していましたが、最後に訪れた1/25から一か月経ったので様子を見に行ってみることにしました。

一度プラス5℃を超える陽気の日がありましたが、雪解けの気配はまだなので、ヒグマも寝ていることでしょう。

先週の木曜日にここを訪れたときは、雪解け間近な陽気のせいか、なんとなく疲れがひどく、道のりの半分もいかず4分の1くらい歩いただけで息切れしてしまいました。でも今日はマイナス6℃くらいで冬らしく、体力も十分でした。

秋ごろに倒木が発生していた場所を通りかかると、こんなに埋もれていました。雪の降る前は倒木の下をくぐって抜けていたのに。やはり今冬は雪が多めです。

晴れ間がのぞいているにも関わらず、少し吹雪いていて風も強く、鳥の姿はほとんど見えませんでした。しかしかなり奥まで入ったところで、遠くのカラマツから、シマエナガのジュルジュルという声が響いてきました。

遠くの非常に高いカラマツだったので、目視では塵粒が跳ね回っているようでしたが、さすが60倍のカメラなら写せました!

遠くなので、どうしても枝に阻まれてしまいますが、なんとなく何の鳥かわかります。一枚目はシマエナガ、二枚目は頭と顎が黒いので、ハシブトガラでしょうか。

あまり息を潜めて写真を撮り続けると野生動物との遭遇が心配だったので、そこそこで諦めて、さらに奥へと歩き始めました。

森の奥のコクワなどのツル性植物が繁茂している地帯では、先週の低気圧の影響か、何本かの木が倒れていました。森の中でも倒れるなんて、よほど風雪が強かったのでしょう。

そのあたりからエゾシカなど野生動物の足跡が増え始めました。同時にエゾシカの食痕である樹皮剥ぎ痕が目につきました。前来たときは無かったはずなのに、あっちにもこっちにも。

近づいて調べてみると、前にエゾシカの水飲み場で観察したとおり、ほとんどがハルニレ(やオヒョウニレ)の若木で、たまにヤマグワも剥がれていました。

ヤチダモやニワトコは、頂芽がたべられていることが多かったものの、ハルニレやヤマグワと違って、近くに目立つ足跡はなかったので、エゾシカが食べたのかどうかは分かりません。

それから、わたしが歩く森の中のルートの中では、一番高い地点に到達しました。すばらしい風景。夏には到底来ることのできない、動物たちだけに許された場所の眺めです。

ここからはかつて使われていた道を使って森を下っていきます。前に来た時と同様、エゾシカの真新しい足跡がたくさんありました。人が作ったであろう道も、今ではエゾシカが毎日水飲み場に通う通行路です。

エゾシカの足跡は一本の溝のように踏み固められていて、何頭もの群れが連れ立って、毎日歩いているらしきことが読み取れます。

その通行路の脇にある樹木には、やはりところどころエゾシカが樹皮を食べた痕がありました。根本の雪を掘って樹皮を食べたような痕跡も。水飲み場に行くついでに、間食して歩いているようです。

渓流に近づいてきたので、マツの並木の隙間から川のほとりを見下ろしてみると、やはりエゾシカがいました。枝のブラインドに遮られて見にくいですが、向こうもこちらに気づいてじっと見ていました。

そしてわたしがさらに下っていくと、エゾシカたちは警戒声を発するまでもなく落ち着いて、隊列をくんで向こうの雪山を登っていきました。

少なくとも4頭が並んで歩いているのが見えましたが、あまりに手際よくエゾシカたちが引き上げていったので、写真を撮る暇がありませんでした。

おそらくわたしを目撃するのは4度目のエゾシカたちなので、またいつもの奴が来た、と思われているのでしょうか。一ヶ月も期間を空けたつもりでしたが、動物はよく覚えているものです。

またしても食事の邪魔をしてしまって悪かったなと思いつつ、川のほとりに降りてみると、驚きました。

なんと、渓流のほとり一帯の若木が、樹皮を剥がれています! 特に川沿いに大量のヤナギの若木が生えていた地帯では、無事な木は一本もないようにさえ見えました。

明らかに異常事態です。少なくとも、これらのヤナギの若木がこの太さに成長するまで、おそらく数年から10年近くの間、このようなことは起こらなかったはずです。

今年の冬はそれほどまでに、エゾシカたちにとって食糧事情が厳しいのでしょうか。

思えば、今年は鳥が少ないように感じていたのも、偶然ではないのでしょう。昨夏の異常気象のせいで、ヤマブドウやミヤマガマズミの実のなりが悪いように感じていたことも。

また今年の冬は雪が多めで、わたしは森のササが覆われて喜んでいましたが、シカたちにとっては大切な食糧が覆われてしまっていたのかもしれません。何事も一面だけで判断するものではありません。

昨年は人間界でも、世界あちこちで食糧不足が引き起こされていましたが、動物たちの世界も例外ではありませんでした。これほど自然豊かに見える場所でも、食糧事情が悪いとは…。

ネットで調べてみたら、1984年の五九豪雪の時は、多くのシカがやせ細って餓死したそうです。

それに比べると、今日見たシカや、ここ最近見た他のシカたちは、全然やせ細ってはおらず、筋骨隆々でした。子ジカの姿も見られたので、今すぐ生死に関わるような食糧不足ではなさそうです。

樹皮剥ぎにしても、森の中にはまだまだ健康な若木や冬芽がたくさんあるので、いよいよ食べるものがない、というほどには思えません。

むしろ、今年樹皮剥ぎされた若木が枯れてしまった来冬以降、もし今年と同じように豪雪でササが覆われてしまったら、本当の飢饉がやってきそうです。

もっとも、もしそうなら、昔の道北では、今年レベルの雪が毎年降っていたので、いったい当時のエゾシカたちはどのように生き延びていたのだろう、とは思うのですが。

帰り道は、冬は雪で覆われていて使われていない林道を歩きました。かなり長い距離ですが、やはり左右の道端の若木の樹皮が剥がれ、おびただしいシカの足跡がありました。

途中、道の脇の雪山の上で、キツツキが木をつつく音がしました。そこそこ大きな音だったので、まさかクマゲラだろうかと思い、少しためらった後で、山の斜面をスノーシューで登ってみました。

ためらったのは、ヒグマが斜面で冬眠している可能性を考えたからですが、まさかこんな人里の近くにはいない…はず? でも、いかにも怪しそうな凹凸がないかどうかは確かめました。

少し登ったところで、キツツキが木をつつくのをやめました。トドマツらしい木のかなり低い位置でしたが、常緑の葉に隠れて、何かの鳥がいることは目視できました。

キツツキも動きを止めているので、わたしも斜面で立ち止まり、息を潜めて、相手の出方を待ちました。すると、キツツキはいきなり飛び立って森の中を羽ばたいて逃げました。

その瞬間、お腹の赤い羽毛が見えて、アカゲラかオオアカゲラだったことがわかりました。クマゲラの食痕は見つけるのに、なかなか姿を見ることがかないません。

もとの林道に降りて、しっかり除雪されて使用されている道路に近づいたとき、すぐ近くにエゾシカのオスがいることに気づきました。樹皮や新芽を食べていたようです。向こうも木立の間からわたしに気づいて、山の斜面を駆け上がっていきました。

少なくとも1ヶ月前に3度訪れたときは、これほど町の近くまではエゾシカは食物を探しに来てはいませんでした。やはり食糧が限られているようです。

異常気象が進んだ未来にはどうなってしまうのか、もしかすると、人間たちの未来の姿を暗示しているのだろうか。まだまだ自然豊かな道北に思えますが、暗い影が忍び寄っているように思えてなりませんでした。

2021/02/26金

雪で川が埋もれていた

珍しく天気が良かったので、氷瀑の様子を見に行ってみることにしました。2月2日に訪れてから、またかなり雪が降った一方、暖かい日も多かったので、どうなっているでしょうか。溶けているかもしれませんし、雪に埋もれているかもしれません。

氷瀑のある森に続く雪原には、ネズミの足跡が走り回っていました。いえ、ネズミにして大きいので、テンやイタチの足跡かもしれません。

森の中は、予想以上に雪が多く、滝に続く渓流は、ほとんどすべて埋もれていました。水流は雪の下を滞りなく流れていますが、音は聞こえど、水面はほとんど見えません。

川が埋もれて両岸がつながっている場所が多いので、歩いて渡ることができそうでした。もちろん、一歩ごとにストックを突き刺して耐荷重テストを行いながらですが、エゾシカの足跡が残っているので、人間一人の体重くらいで崩壊するような雪ではなさそうです。

川を歩いて渡れるおかげで、今まで一度も足を踏み入れたことのない対岸の森を歩くことができました。意外なほど広い平らな空間があったり、魅力的な樹木が林立していたり、時間があれば、もっとゆっくり観察したかったです。

両岸の木々の中には、大量の雪を抱えて、まるで弓のようにしなっている幹がたくさん見られました。下の写真に、そのような木が幾つも写っています。今にも倒れそうなほどしなっているのに、空中で静止しています。恐る恐るその下を歩きました。

川が流れる谷の両岸の山肌は、相当分厚い雪のコートで幾層にも覆われていました。エゾシカでさえ、こんな雪深い急な斜面は歩かないでしょう。ヒグマが寝床を作るのは、もしかしたら、このような誰にも邪魔されなさそうな場所なのでしょうか。

森の入り口近くでは、川はほとんど雪に埋まっていましたが、森の奥の滝の近くになると、ところどころ水面が見えてきました。清らかな水に川床の石が透き通り、鼈甲のような透明感のある色でした。せせらぎの音を聞いていると、心底落ち着きます。

そして、ついに氷瀑にたどり着きました。と言っても、いつもと異なり、雪の堆積した川を渡って、川沿いの最短ルートを進むことができたので、拍子抜けするほど近く感じました。

氷爆は先月来たときとほとんど変わらずに凍っていましたが、雪の量はかなり増えていました。わたしの背丈よりも巨大な、サイダーのような色の氷の柱は、もこもこした雪の毛布にくるまれていました。

分厚く張った氷は、まだまだ溶けそうもありません。手で触ってみましたが、氷は硬く、力を込めて押しても割れません。それでも、透き通ったクリスタルのような氷の裏では、先月にも増して力強い水流が落下しているのが、はっきり透けて見えます。

しばし滝の前で、耳を澄まして佇みました。これほど素晴らしい大自然があっても、訪れる人は誰もいません。人混みが苦手なわたしにとってはありがたいことですが、人間社会が自然から遠く離れてしまったことには悲しみを覚えます。

かつて自然と共に暮らしていたころの人々は、人生に充実感を覚え、恵みに感謝して生きていました。毎年、同じことを繰り返し、ただ今という時間を生きるために生活していましたが、その生活はマインドフルでした。

しかし、今では、人々は自然に目もくれなくなりました。都会ではもちろんのこと、たとえ大自然が身近にある場所でさえ。スーパーで買い物し、インフラに頼る暮らしには感謝や充実感はありません。

自然の中でレジャーを楽しむ人もいますが、その自然との付き合い方に、過去の世代のような親密さはありません。昔は生きるために必要なものをすべて、自然から得ていました。しかし今や自然は趣味やレジャーになってしまいました。人々は感謝することも畏敬の念に満たされることもなくなりました。

このような世界が、あとどれだけ続くのでしょうか。先のことは何もわかりません。未来は予測できません。この世界の行く末を憂えるより、今できることに目を向けたほうが建設的です。

そんなことを考えながら、滝を眺めていました。きっと今冬の氷瀑を見に来るのは、これが最後でしょう。見に来ようと思えば、来月もまだ日にちはあるでしょうが、ほかにも行きたいところはたくさんあります。

これが最後だと思うと名残り惜しくなります。次に来るのは12月の末でしょうか。来冬の雪はこれほど多いのだろうか。しっかり冷え込むのだろうか。色々な思いがこみ上げてきます。また来ることを誓って、わたしは愛着ある氷瀑に別れを告げました。

しっかり締まった雪が森を覆っているので、帰りは今まで通ったことのないルートを通ることができました。しばらく歩くと雪で覆われた林道に出ました。道の右側から斜陽が差し込んでいて、森の木々が作り出す影の縞模様が、雪の上に刻されていました。

開けた道の真ん中には、ちょうど近所の美しい雪山のてっぺんが顔を出していました。よく晴れた青空も相まって、まるで絵画の切り取ったかのような荘厳さに思わず見とれました。こんな素晴らしい景色が見れる場所を知っているのは、わたしだけなのです。

いろいろな冬芽。キハダ、ハリギリ、オオカメノキ、ハシドイ等

森の中を歩いている時に見つけた色々なもの。

時間帯のせいなのか、鳥は少なかったですが、いつもこの森に来るたびに見かけるミヤマカケスは今日もいました。森の中で滑空する大きな影に目をやると、鮮やかな模様の入った雨覆や小翼羽が煌めいて、すぐにカケスだとわかります。

キハダの冬芽。馬の蹄鉄型の不思議な形ですが、たくさんの冬芽が一箇所にかたまって密集していて、とてもおもしろく感じました。春の芽吹きを観察したことはないのですが、どんなふうに生えてくるんでしょうね。

ハリギリの冬芽。これを見つけて確信しましたが、わたしが去年の12月にこの森でコシアブラの冬芽を見つけたように思っていたのは、間違いなく単なるハリギリだったようです。成長してトゲが目立たなくなったハリギリの冬芽を見て、トゲがないからコシアブラかも?と思ってしまったのでした。

オオカメノキの花芽。ウサギの顔のような花芽がたくさんぶら下がっていて、色も鮮やかでユニークでした。去年、このオオカメノキの葉がしだいに開いていくところも撮りましたが、いつ見ても美しいですね。

ここでも白いふわふわを現していたバッコヤナギのつぼみ。冬芽の芽鱗がまだ残っていて、今まさに、分厚く積もった冬のベールを押しのけて、春が芽生えようとしている力強さを象徴しています。

この冬に何度も見て、気になっていた冬芽。昨冬はハシドイだと断定していた冬芽ですが、今冬、これと形はよく似ているものの、もう少し大きな赤みを帯びた冬芽を見つけて、そちらがハシドイだとわかりました。だとすればこれは何?

冬芽は対生で、淡いオレンジ色です。サイズは2mmくらいで、3-5mm程度あるハシドイの冬芽より明らかに小さいです。基本的に2つセットでついていますが…、

今月初頭に来たときにも見つけましたが、たまに一つだけ頂芽のようについていたり、形が崩れているものもあり、この特徴はどこで見つけた場合も共通しています。

樹皮はこんな感じ。白いつぶつぶが目立ち、ハシドイの樹皮そっくりです。やはりハシドイで合っているのでは?

これまで観察したところによると、そこそこ大きな木になっているものは、このオレンジ色のり小さな(2mm)冬芽です。一方、低木や灌木と呼べる程度の大きさの木の場合は、赤みを帯びた少し大きい(3-5mm)冬芽でした。

ハシドイは成長するとともに、冬芽のサイズが小さくなるのでしょうか? 

それとも、低木のような大きさの木のほうは、ハシドイではなく外来種ライラックなのでしょうか? 森にライラックが生えているとは考えにくいし、公園で見たライラックの冬芽はもっと大きい(5-10cm)だから違うと思うのですが…。

樹木図鑑を見ても、ほかに候補となるような似た冬芽の木は見当たらず、謎が深まるばかりです。

2021/02/27土

夕方ごろ現れたオオアカゲラ、今冬やっと見えた満月

先日エゾライチョウなどを見かけた近所の森に散歩。14時ごろでしたが、とても良い天気だったので、鳥たちが大勢いるのを期待していました。

しかし、まったく声が聞こえず、凍てついて死んだ森でもあるかのように静かでした。ただ強めの風に木々が揺れてひしぐ音がするだけでした。

森の中の木々が生えている斜面は、雪が硬く固まっていてスノーシューでも滑り、かなり歩きづらく感じました。一度表面が溶けた後に再度凍って、雪ではなく氷が混じっているのだろうか、という感触でした。

この前も見つけた謎の冬芽。色合いからするとシナノキなのですが、後で改めて写真を見るとヤマナラシかも?と思いました。しかし…、

今回は樹皮も観察したところ、全然ヤマナラシっぽくありませんでした。

一方、こちらは普通のシナノキの枝と冬芽。先ほどの枝のように冬芽が密についてはいませんが、色や形はよく似ています。

このシナノキの樹皮。すべすべして網目模様があるところが、さっきの樹皮とそっくりです。やはり芽の付き方が少し異なるだけで、どちらもシナノキだったようです。

途中、コブシの若木がたくさん生えていました。皮一枚でつながっている折れた枝を見つけたので、ちぎりとって持ち帰ることにしました。コブシの枝や樹皮はお茶にできると先日アイヌ料理の本に書いてあったので、早速試してみたいと思います。

(追記 : 後日このコブシの枝でお茶を煎じてみました。結論をいうと、香りはとてもよかったのですが、木の味そのものといった後味の悪さで、飲めそうにありませんでした。飲用するときは樹皮や枝ではなく花芽を使ったほうがよさそうです)

前にエゾライチョウが芽を食べていた高い木々の種類を知りたいと思ったので60倍ズームで撮ってみました。よく晴れた青空だったので、白い逆光にならず、はっきり写すことができました。あれほど高い木の冬芽も調べられるなんていい買い物をしたものだ。

立派にひび割れた幹だけ見ると、同じ種類の木々が並んでいるだけかと思っていましたが、奥の木々はシナノキのようでした。

一方、手前の木はエゾライチョウがいた本命の木です。下から見上げて対生だということはわかっていました。だからイタヤカエデあたりかなと思っていたら…、

確証は持てませんが、どうもキハダのように見えますね。こんなところにキハダの大木があるなんて思いもよりませんでした。若木はあちこちで見るから、キハダの木が少ないわけではないことは気づいていましたが…。これほど高いと実は収穫できませんが、鳥たちには人気のスポットでしょう。

午後14時ごろの森の中はシーンと静まり返っていましたが、いつものように時間帯の関係かもしれない、と思ったので森の中をゆっくり散策しながら、時間の経過を待ちました。

すると、予想どおり15時半ごろには鳥の声がちらほらと聞こえてきました。やはり朝か夕方でないと鳥は現れないようです。でも、森の中まで冷たい風が吹き込んでくるような天気だったので、そのころにすっかりかじかんでしまい、帰路につくことを余儀なくされました。

けれども、帰り道で、立派なオオアカゲラを一羽見つけることができました。

ゴジュウカラと違い、幹を下に向かって走ることはできないと聞いていましたが、器用に跳ねて下へ移動できるんですね。これなら別に幹を下向きに走れなくても不自由なさそうです。

https://youtu.be/FrxYWBsFGto

オオアカゲラが飛び立つときには、モザイク模様の豪華な羽がブワッと広がり、力強く羽ばたく音が森の中に響き渡りました。

そのあと、カラ類などの小鳥が増えてきましたが、体も冷えてしまったし、連日森に出かけて歩き疲れているので、今日のところは引き上げることにしました。足は疲れても、心はとてもリラックスできたので、大いに価値ある森歩きでした。

夜は満月。すっきり晴れるとはいきませんでしたが、雲の隙間から顔を見せるおぼろ月が美しい輝きを放っていました。

2021/02/28日

2月のまとめ

2月の最終日である今日は、友人とスキー場に出かけて、スノーチューブで遊びました。仕事の息抜きの一助になったようで良かったです。

小さな子どもたちが、自分の足の一部であるかのようにスキーをコントロールしているのを見て、わたしもあれくらい上手だったらなぁ、と羨望の眼差しで見ていました。

午後には、一週間前に修理に出した車が戻ってきました。安全運転していたこともあって、バンパーの一部が凹んだだけの軽度の損傷ですみ、保険も使わずに修理しましたが、万単位の出費になってしまったのが痛いです。

以下の2月のまとめ。

今月も忙しく楽しく自然観察に勤しめて満足でした。思ったより時間が早く過ぎてしまい、もう大好きな冬が終わろうとしていることには、名残惜しさを禁じえませんが、時の流れとはそういうものだと割り切るわかありません。

今月をざっと振り返ってみると、2度氷爆を見に行き、雪が積もった川の上は基本的に歩けるものなのだ、ということを学びました。

オジロワシをはじめ、各種キツツキ、カラ類、ツグミ、ウソ、エゾライチョウ、マガモ、ホオジロガモ、そしてシマエナガなど、さまざまな野鳥を見る機会にも恵まれました。

野鳥観察においては、先月悩み抜いた末に購入したカメラが大活躍してくれて、買ってよかったと実感できました。

高倍率カメラを買わなければ、これほど野鳥への興味を抱くことは決してなかったでしょう。やはり「見る」ためのツールは大事です。次いつか買うとしたら、顕微鏡なのでしょうか?

あちこちでエゾシカの群れに出会いましたが、積雪が多いせいか、樹皮剥ぎが増えているのはショックでした。今のところ、シカたちがやせ衰えているような様子はなかったので、大丈夫だと思いたいです。

気温がプラスは5℃を上回る日もあり、日に日に春が近づいてきている気配は感じます。ヤナギのつぼみも現れています。それでも、まだ揺り戻しで大雪が降ったりもするので、例年より雪解けは少し遅めになるかもしれません。

自然観察以外の活動としては、3冊ほど読書できました。しかし、感想をまとめるようなタイプの本ではなかったので、いつ空のほうの記事はまったく書けていません。過剰同調性についての記事を書きたいと思い、下書きはしていますが、書き上げる気力が湧いてきません。

レイチェル・カーソンの本も読みたいと思いながら、途中で止まってしまっています。外出して自然界の中にいる間は元気なのに、家に戻ってくると、気力体力が衰えて何のやる気も出ない、というのは相変わらずです。

都会に住んでいる人々に比べたら、コロナ疲れなどもないはずなのに、この気持ちは何なのでしょうね。家で悶々としていると、このような時代が、いつまで続くのだろう、暗澹たる思いになります。毎日、自然の中を歩いて気持ちを浄化されなければ、やっていられません。

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先月・翌月へのリンク

2021年1月の道北暮らし自然観察日記
2021年1月の自然観察を中心とした記録
2021年3月の道北暮らし自然観察日記
2021年3月の自然観察を中心とした記録

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投稿日2021.02.03