2022年3月の道北暮らし自然観察日記

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もくじ

2022/03/01火

ヤドリギを乾燥させてお茶にしてみたが…

先日採ってきたヤドリギの茎と葉を、乾燥させてお茶にしてみました。こちらのブログによると炒って熱を通しているようですが、わたしは日干しにしました。

一部の情報では2種類の毒があるとされていますが、韓国では普通に親しまれているお茶だそうですし、漢方薬にも使われています。食糧危機の時はヤドリギの茎からデンプンを採ったとする記録もあります。

ヤドリギの毒性について詳しく書かれたサイトを見ると、薬用目的で使われることもあり、致命的な毒ではないとのこと。別のサイトによれば、くだんの成分は、ビスコトキシンとヤドリギレクチンだと説明されていました。

よって、確かに強力な成分が含まれているものの、多飲しなければ大丈夫だろうと考えました。

お湯で淹れると、はっきり黄色っぽい色が出ます。飲んでみると、その味は…

なんかとてつもなく奇妙な苦さがある。うまく表現できないけれど、独特の味がありました。

しっかりと味がついているのは確か。ただ人によって好みが分かれそう。好きな人は好きだし、苦手な人はまったくダメかもしれません。渋いお茶のようだと書いてあるブログもあり、その感想に近いかもしれません。

でも、さっきのブログだとクセがない味と書いてあるのが不可思議です。もしかすると、日干しと炒るのとでは味が違うのでしょうか。もしくは、わたしが採取したのは、普通のヤドリギではなく、アカミノヤドリギだからなのか。

残念ながら、あまり好みの味ではありませんでしたが、多飲しないほうがよさそうなので、ちょうどよかったかもしれません。もし美味しかったらどうなっていたかと思うと。

2022/03/02水

未知の林道を探検

朝、コロナワクチン3回目接種の申し込み書が届いていて、さっそく電話したところ、4/19に決まりました。

やはり山菜採りシーズンと重なってしまう最悪の日程となりましたが、この際、仕方ありません。山菜の最盛期であるゴールデンウィークごろには、副反応から回復できるでしょう。

今日は、この前ライチョウを見た森を、再び長距離歩いてきました。後で歩数をみたら5100歩。冬の森で、しかもアップダウンが激しい場所でこの歩数というのは、相当な運動量だったと思います。でも楽しかった。

最初は、先日と同じルートを歩くつもりでしたが、途中で、森の奥のほうから、キツツキのドラミングが爆音で響いてきました。やや遠そうだったので、しばらく無視していましたが、どうしても気になってしまい、行ってみることに。

森の中の斜面は、ヒグマが冬眠しているかもしれないので、普段はできるだけ歩かないよう気をつけています。でも、ここはまだ人の手が入っている森で、倒木もない単純な地形なので、大丈夫そうだと判断しました。

音の大きさからして、少し斜面を登れば姿が見えるだろうと思いきや、登っても登ってもまだ遠く、いつの間にか、今まで知らなかった林道跡のようなものを2つ見つけました。

そのさらに先の、音の源までたどりつくと、まるで工事現場の削岩機の音のようなドラミングでした。しかし、どこにいるかは目視できず、もっと近づこうとしているうちに、ドラミング音がしなくなってしまいました。

しばらく、その場に佇んでいましたが、再開する気配はなし。まだ距離があるうちに、警戒して逃げられてしまったようです。そこから先はアカエゾマツの暗い不気味な森だったので、それ以上深追いせずに下ることにしました。

結局、それ以降、そのキツツキのドラミング音は一度もなかったので、正しい判断だったと思います。あれほどの音量ならクマゲラだったかもしれませんが、鳴き声は聞かなかったので定かではありません。単によく音の響く木だっただけかもしれません。

せっかく斜面をかなり登って、未知の領域に足を踏み入れたので、途中で見つけた1本目の林道を歩いてみることにしました。はっきり道が現れていて、若木も生えていないので、夏場は森林管理に使われている林道なのかもしれません。

途中で見つけた謎の削られた木。以前宮の森で見つけたものとそっくりなので、同じ生き物による痕跡だとはわかりました。

でも果たして何がどうやったら、こんな髪の毛のような削られ方をするのか…。キツツキの仕業なのかそれとも?

しばらく進むとカーブになっていて、そこからは厳しい上り坂。どうやら、さっき見た2本目の林道と合流しているようでした。

さらに進むと、さっき足を踏み入れなかったアカエゾマツ林の隣にあるトドマツ林の奥へ続いていました。さらに上り坂だったので、このまま林道を進むかどうか立ち止まって考えました。

道の方向は頭に入っていて、普段歩いている林道が左側に並行しているので、迷うことはなさそうでした。でも、かなり登ったせいで、その道に降りるには道なき斜面を下らなければなりません。

その斜面は倒木だらけで凹凸が激しく、何が埋まっているかわからないようなところでした。まさかこんな人里近くでヒグマが寝ているはずはない、と思いたいですが、確証は持てないので、このまま林道を進むことにしました。

わたしの勘が正しければ、この先に下るルートがあるはず。というのは、前にヒグマの爪痕があるあたりを歩いた時、謎の林道の入り口を見つけていたからです。今歩いている林道は、そこへつながっているように思えました。

さらに歩いて、うっそうと常緑の葉が生い茂るアカエゾマツ・トドマツ林に入ると、林道沿いのトドマツの幹に、シカの角研ぎ跡があったり、ヒグマの爪痕があったりするのを発見しました。

今日歩いた限りでは、野生動物の足跡はほとんどなく、たまにキツネ、テン、ウサギなどの足跡を見かける程度で、エゾシカの足跡さえほぼ見ませんでした。でも、きっと夏場はヒグマもシカも歩きまわっている野生動物の領域なのでしょう。

やがてその一帯を抜けると、読みどおり、少し開けた空間に出て、分岐点に差し掛かりました。さらに登る道もありましたが、下り道のほうは予想していた場所につながっていました。

こうして、いつも冬場に見に来ているヒグマの爪痕があるトドマツの木の近くに合流し、そこからは前回と同じルートで、森をぐるりと一周して帰りました。

帰り道の林道の脇にあったキハダの若木。樹皮の色が鮮やかなオレンジ色ないしは赤茶色で、よく目立っていました。

冬芽を見て初めてキハダだと気づきました。

道中では、鳥を見かけるたびに、立ち止まって観察しました。残念ながらエゾライチョウは見かけませんでしたが、その他のさまざまな鳥がいました。

ゴジュウカラ。

マヒワ。

シジュウカラ。

ハシブトガラ(コガラ)。

ヒガラ。

コゲラ。

ウソ。

さすがにかなりの長距離を歩いたので、帰り道は体の節々が痛く、随分と疲れました。でも、森の清涼な空気はとても爽やかでしたし、森を優しく抱擁するかのような夕日を眺めながら、心地よい達成感とともに帰ってくることができました。

2022/03/03木

まだツグミがいた

今日は色々忙しかったし、昨日十分歩いたので、家の前を雪かきして、ちょっと近所を歩いただけ。

ナナカマド並木にまだツグミがいました。一時期飛来していた大量の群れはいなくなり、いつもの冬に見かける程度の数がとどまっているようです。

2022/03/04金

ちぐはぐな一日。氷爆もオオワシも見たけれど

病院の定期検診の日。本来は一ヶ月前の予約でしたが、近隣でコロナが流行し始めたので、一ヶ月もあれば収まるだろうと考えて今日に延期してありました。

ところが、一ヶ月前より今のほうが状況が悪化しており、主要都市名寄では、一週間に173人という信じがたい過去最高数が報告されています。予約をさらに二週間ずらしてもらいましたが、完全に読みを誤りました。

電話連絡などのために早起きする必要があり、寝不足。8時間は寝ていますが、ロングスリーパーなので10時間寝ないと頭痛がひどいです。

でも貴重な晴れの日だったので、強行軍で予定どおり近所の氷爆を見に行きました。今季三度目。これが最後となりそう。

しかし、出かけようと思ったら家の前が排雪中で足止めを食らうタイミングの悪さ。

そのうち目が覚めるかと思っていたのに、運転していても眠いし、頭も痛いし危険。すぐ近所なので事故るリスクは少なかったものの、家で寝ているべきだったかと後悔。反応速度がいつもより1秒くらい遅い。

森に着いて歩き始めても、頭痛と眠気がひどく、何度も雪の上に寝転がってそのまま寝てしまいたい誘惑に駆られました。本当にそんなことをしたら凍死してしまうでしょう。

途中、シマエナガの群れに遭遇しましたが、眠くて頭痛もするので、うまくタイミングがとれず、こんな写真しか撮れませんでした。

それだけでなく、シマエナガを見ている時、はるか頭上を滝の方角へと滑空していくワシが見えました。まず白い尾が見えたのでオジロワシかと思ったら、次の瞬間、両肩が白いことに気づきました。今季二度目のオオワシ!

でも、上空は風が非常に強く、巨大な雲が走るように流れている状態で、その風に乗ったオオワシも、ジェット機のような速さで視界から消えてしまいました。どのみち、寝不足のわたしの反応速度では、カメラを向けることさえ無理でした。

滝までの道のりは、気温が高くてプラスになっているため、かなり雪がべとべとして歩きにくく、スノーシューに大きな塊となってこびりつきました。滝は近いので寝不足でも行けると思っていたのに、思わぬ体力の消耗。

でも、渓流が雪で埋まっていたので、水の上を歩いてのショートカットができたので、いつもより早く目的地に着きました。拍子抜けするほど近く感じました。

氷爆は雪に埋もれていましたが、3月に来るとこんなものでしょう。大量の雪で滝壺も一部埋まっているため、すぐ近くまで行って、氷に触れるのがこの時期の利点です。

川床は水が澄み切っていて、底の色とりどりの石が鮮やかでした。エキノコックスの心配がなければ、飲んでみたいほど清らかでした。実のところ、もし飲んでも、そう危険はないと思いますが、万が一を考えて、できないのが残念です。

滝まで歩いてきても、まだ眠い。しばし、しゃがみこんで目を閉じ、水音と鳥の声に耳を方向け、心身を休めてリラックスしました。本当に眠りこまないよう気を張ってはいましたが、自然の音に包まれるひとときは悪い心地はしませんでした。

滝壺の水音とは不思議なもので、川床を埋める雪の隙間を流れるときに、ゴポゴポとまるで人の話し声のような低い音が聞こえていました。そういえば、去年の晩冬にここに来たときもそんな音を聞いたような記憶が呼び覚まされました。

滝の前で目を上げて、ずっと奥の森を眺めると、カラ類が飛び回っているのが見えました。そのうちゴジュウカラは写真にも撮れました。ほかにハシブトガラも飛んでいて、コゲラの鳴き声もしました。

目視できる一番遠いところに、比較的大きめの鳥がいるのが見えたので、カメラで目一杯拡大してみたところ、ウソの群れだとわかりました。

何の実を食べているのかまでは、小さすぎてわかりませんでしたが、ヤチダモかカエデに思えました。帰ってから写真や動画を確かめた感じでは、イタヤカエデに思えます。ヤチダモならもっと枝の節が目立つはず。

滝の前の雪に寝転がってみたら、さぞかし気持ちよかろう、という誘惑に負けて、ちょっとだけ試してみました。ところが、いざそうしてみると非常に冷たく、音もフードで聞こえづらくて、イメージしたほど快適ではありませんでした。

動かずじっと滝音を聞いていると、心地よいものの、だんだん体が冷えてきました。名残惜しく感じましたが、また来年も来れるのだから、と自分に言い聞かせて、帰ることにしました。そうしなれけば、今日は体力が持ちません。

帰り道、ふと、向こうのほうのシラカバの木の又の上に、奇妙な丸い影が見えました。もしかして、とカメラで拡大してみると、フクロウのように見えました。これまでフクロウを写真でとらえたことは一度もないので、テンションが上がりました。

でも、しばらく見ていても動く気配がありません。さらに何歩か近づいて拡大してみたら、どうも単なる木こぶではないかと思えました。カメラの液晶ディスプレイで見ているので、周囲が明るいと画面が見づらく、対象がよくわからないのです。

がっかりして立ち去ってしばらく歩いているうち、もう一度カメラの写真を確認してみようと思いました。少し日が陰ってきたので、画像を見てみると、やっぱりフクロウだったかもしれないと思いました。

それで急いで引き返してみたら、さっき木こぶがあったはずのところに、何もなくなっているのに気づきました。やっぱりフクロウだったのか?と確信を深めました。

ところが、さらに続きがあって、家に帰ってから画像を改めてPCで拡大したら、どこからどう見ても、ただの木こぶでした。

二度目に見たとき、いなくなったように見えたのは、見る角度によるものでした。確かに同じ場所を確認してはいたのですが、見る角度がほんの少し違うだけで、木こぶがフクロウのように見えたり、何もないかに見えたりするのです。

どうしてこんな錯覚にとらわれてしまったのか分かりません。眠くて頭痛がひどかったからかもしれません。元気でも見間違えたのかもしれません。どのみち、やることなすこと混乱している日でした。

その木こぶを見てすぐ、突然の吹雪が吹き荒れ始めました。今しがたまで晴れていたのに、天気の急変です。森の中にいても吹き込んでくるほど激しかったので、急いで車に戻りました。

でも、車に戻るとすぐに止んでまた晴れてきたので、最善手は、森の中でやりすごすことだったかもしれません。本当に判断力が欠けている日でした。

自分でも判断力がボロボロなのを自覚していたので、帰りの運転は、慎重に慎重を期しました。なんとか家にたどり着くと、頭痛がさらに悪化していたので、しばらく寝ました。それでも、この日記を書いている今でさえ、まだ少し頭痛がします。

こんな日もあるか、と諦めるしかありません。すべての判断がまずく、ちぐはぐでした。でも、事実として滝を見に行けたのはよかったですし、明日からはまた調子を取り戻せるでしょう。

2022/03/05土

まだ低調。高層の林道を探検、ネコヤナギがもこもこに

まだ寝不足な感じがするし、頭痛も少し。でも明日は吹雪予報で外出できそうにないので、散歩してきました。

前回発見した、少し標高の高い場所にある林道。斜面をしばらく登るとたどり着きます。前回はキツツキの音に導かれて登っていきましたが、今回はもっと手前の地点から登ってみたところ、予想通り林道が続いているのがわかりました。

ツリガネタケがびっしりと群生している、かなり太いシラカバの枯れ木。

ここにもヒグマの爪痕がたくさんついているトドマツを発見。普通にヒグマのテリトリーの範囲内なのですね。

林道をしばらく歩いていくと、なんと誰かの足跡が! …ではなく、この前わたしがキツツキを追って登ってきた足跡です。これで前回の足取りと合流できたので、林道の地理が頭に入りました。

前回は、この上層の林道をそのまま進むことはしませんでした。近くにキツツキがいるだろうと思って、音を立てたくなかったので、もう一つ下の中層の林道にストックを置いてきて、取りに戻らなくてはならなかったからです。

これまでの探検によると、この森は下層、中層、上層の3つの林道が斜面に並行して伸びているようです。去年までは下層しか知りませんでした。前回は中層を探索し、今回は上層を歩いてみることにしました。

斜面をかなり登ったところにあるので、木々の隙間から見える遠くの町の景色を見下ろすことになります。

その上層の林道は、途中で中層の林道と合流するのか思っていたら、並行したまま、もっと奥まで続いていました。前回見つけたアカエゾマツ林とトドマツ林の境目を抜ける道のようです。

おそらく、このまま進めば、前回の終着点に合流するのでしょう。その場所が、下層、中層、上層の林道それぞれへの分岐点になっていたのだろうと思います。

ならばそこまで行ってみようかと思っていたのですが、上の風景の正面にて、アカゲラが威勢よく朽木を突っついて食事中なのを見つけました。食事にあまりにも夢中なのか、かなり近づいても逃げる気配はなく、ずっと観察できました。

とても美味しそう?に木を突っついているので、このまままっすぐ近づいて食事の邪魔をするのは申し訳なく思いました。今日はあまり体調もよくないことだし、ここが潮時だと考えて、引き返すことにしました。アカゲラさんごゆっくり。

帰り道で見かけたシラカバの若木の倒木。

シラカバとダケカンバを見分けるひとつのポイントとして、シラカバは幹から生える若枝が黒いという特徴があります。言い換えると、シラカバの若枝はサクラのような風合いで、太く成長して初めて白い皮をまといます。

知識としてはわかっていましたが、倒木を観察する機会などそうそうないので、白い幹から生える黒い枝の写真を撮っておきました。しかし、ダケカンバやウダイカンバの若木は観察したことがないので、どの程度、違いが明瞭なのかは不明。

帰り道、車を運転していると、道路脇のネコヤナギの冬芽のカバー(芽鱗)が取れて、もこもこのつぼみが姿を現しているのがちらっと見えました。カーブだったので止まるわけにもいかず、そのまま毎年ヤナギを観察している川沿いに行ってみました。

するとやはり、そこのネコヤナギも、白いもこもこの筆のようなつぼみがあらわになっていました。

脱ぎかけのとんがり帽子が、まだちょこんとてっぺんに残っているのも多くありました。

不思議なことに、ネコヤナギのつぼみは、花が咲く前は地色が赤いことに気づきました。毛は白いけれど、素肌は赤茶色。どんな構造になっているんでしょうね。またチャンスがあったらじっくり見てみたいです。

いよいよヤナギのつぼみが現れると、春も間近。本当はもっと冬を楽しみたい気持ちもあったけれど、時の流れは止まってくれないし、わたしの体力にも限界があります。

わたしにできるのは、川を下る舟から景色を眺めるように、時の流れにあらがわず、刻々と移ろう変化を受けいれ、そこに楽しみや喜びを見いだすことだけです。

2022/03/07火

大雪の翌日、オジロワシが飛んでいた

今年は雪が少なめだな、と思っていましたが、最後にどかっと降りました。半日で30cmくらいだそうです。一気に積雪深も100cm近くまで増えました。

大雪のさなか外に出ると、膝丈くらいまで積もっていました。ドアが開かないとか、窓から出るとかいうレベルではないので、大雪と表現するほどでもないのかもしれませんが、今シーズンにおいては最大のドカ雪だと思います。

でも、直前に排雪が入っていたので、雪かきはとても楽でした。朝を待つまでもなく、夜寝る前にダンプで往復するだけで、ほとんど片付きました。降るタイミングがよかったです。

その翌日の今日は、よく晴れていたので、流氷を見に行きたいと思っていました。しかし、昨晩の雪かきの疲れが残っていましたし、残念ながら流氷は知床付近まで南下してしまっているとの情報が入りました。

それで、午後から少しだけ森歩きをするだけに。一気に積雪が増えたのと、気温がプラスで雪がベタついているのとで、かなり歩きにくく、遠出はできませんでした。

かなり手前のほうの混交林で、ゴジュウカラをじっくり観察しただけ。繁殖期を迎えて色めき立っていて、レパートリー豊かな歌の鳴き声を披露してくれました。

あとでその近くを歩くと、ゴジュウカラのものらしき、ロマンスグレーのか弱い羽が落ちていました。手で持とうとしてもあまりに軽すぎて、いとも簡単に飛び去ってしまいます。

そのとき、頭上を悠々と飛んでいく巨大なワシが視界の隅に映りました。見上げると、神々しく輝く白い尾翼! 肩も白く見えたのでオオワシだと思いましたが、帰宅後に写真を確認したら肩は白くなく、オジロワシのようでした。

オジロワシは上空を何度もぐるぐる旋回して、少しずつ螺旋を描くように離れていきました。何度もシャッターチャンスはありましたが、残念ながら、森の中から撮っていたせいもあって、枝に遮られてピントが合いませんでした…。

オジロワシもオオワシも見れると嬉しいですが、カメラでわちゃわちゃ追いかけている間に消え去ってしまうのが悲しい。どうせ撮れないなら、肉眼でじっと眺めて、その勇姿を堪能するほうがいいのではないか、とも感じます。

やっとトドマツ林にたどり着いて、あたりを見回すと、いつも鳥の巣がたくさんあるあたりに、集合住宅がありました。今年増設されたのでしょうか。それとも、今までもあったのに気づかなかっただけ?

はじめのうちは、分厚く積もった雪に足をとられて、ひどく歩くのが苦しく感じられた今日の林道。しかし、歩いているうちに楽になってきました。これなら、もっと奥まで行けるかも、と思えるくらいに。

でも、これはβエンドルフィンもとい内因性カンナビノイドによる多幸感だと思われるので、注意が必要。体が疲れているのは事実なので、脳内麻薬に騙されずに、大事を取って引き返しました。薄着してきたせいで寒かったし。

大量の雪が降って、一気に冬に逆戻りしたかのような景色ですが、プラス気温なので、除雪が進んでいる主要道路のアスファルトは見えています。

去年の日記を見返してみると、来週にはもう斜面が雪解けしてエゾシカの群れがサラダバーを食べているんですね。そして土があらわになった場所では、謎の芽も生え出ていると書いていました。天気予報を見ても、今後は毎日プラス気温になり、来週にはプラス7℃という日もありました。きっとこれが最後の大雪。急速に雪解けが進むでしょう。

2022/03/08火

ミズナラの若木の樹皮から生える謎の芽? 癌腫病?

今年も友達が自分の山にシイタケのホダ木を切り出しに行くということで、ミズナラの同定のためについていきました。

良さそうな太さのミズナラは多数あったのですが、気になった異変がありました。複数のミズナラの若木に、樹皮からこんな奇妙な形のものがたくさん出ていたのです。

遠くから見た限りでは、森の中でよく見るカラフトキンモウゴケのようにも見えました。でも近くて見ると、どう考えてもコケではありません。ルーペで拡大してみると、まるでたくさんの芽が突き出て、先が割れているように見えます。

ミズナラに樹皮から芽を出す性質があるなんてことはありませんし、調べても類似した画像は見つかりませんでした。

となると、虫こぶや病害ではないかと思いますが、ミズナラやブナ科の病害を調べても、それらしいものが見つかりませんでした。こぶ病の初期?とも考えましたが、どうもネット上の写真とは全然違うような…。でもセンダンこぶ病の写真なんかを見ると似ている気も。

英語文献でも軽く検索してみましたが、アグロバクテリウムの感染によって起こる癌腫病(croen gall)が似ているように思いました。

正体がわからない以上、このイガイガが樹皮に発生しているミズナラの若木は、ホダ木にしないほうが良さそうです。できれば、後日改めて観察して、経過を見てみたいですね。

2022/03/10木

友人の娘さんが慢性疲労症候群になったらしい

昨日、カメラをコンクリートに落として壊してしまいました。たいへんショックです。修理に出したら、最低でも3週間は帰ってこないようです。

ちゃんと落とさないように、常に首に引っ掛けるなど、色々対策していたのに、こうなってしまうのが不注意優勢型ADHDたるゆえんです。家に帰ってきて、首から外して置こうとした時に玄関の床に落としました。

見積もりによると、修理費用は非常に高く、新品を買うのと変わらないくらいでした。それだったら、もういっそ新品を買ってしまったほうがいいかもしれない、と思いました。それなら土曜には届くはずですし。

悩みました。でも、それしか選択肢がないので、同じのを急いで注文することに決めました。幸い、一眼レフではなく、コンパクトデジタルカメラなので、買い替えられないような価格ではありません。

壊してしまったほうも、とりあえず修理に出してみることにしました。友人が前にこのカメラが欲しいと言っていたので、直ったのをプレゼントしたら喜んでくれるかも。そうでも考えないとやってられません。

この一年、不注意で壊してしまった物の修理代金で20万円くらい飛んでしまっています。自動車とスマホとカメラ。どれも普通の人よりずっと安全策を講じているのに…。自分の不甲斐なさにがっかりです。

でも、お金で解決できることばかりなのが、不幸中の幸いでしょうか。大怪我したわけではありませんし、誰も傷つけていません。不慮の出来事で出費がかさむのは仕方ないことです。気落ちしすぎずに頑張ろう。

翌日の今日は、非常によく晴れた気持ちいい日でしたが、森に出かける気にはなれませんでした。気温が7℃まで上がったので、雪が溶けて歩きにくいだろうし…。

どのみち、昨日も今日も、やることがたくさんあって非常に忙しかったので、無理せず体を休めておくことにしました。来週はまた気温が下がるし、カメラも届くので、森散歩を楽しみたいと思っています。

ところで、久しぶりに、東京にいる友人家族と連絡を取ったら、娘さんが自律神経失調症で寝たきりのようになっていると聞きました。迷走神経系の異常も色々出ているようで、おそらく慢性疲労症候群だと思います。

昔から、非常に感受性の強い子だったので、遅かれ早かれ慢性疲労症候群になるのではないか、と心配していました。予想があたってしまって残念です。

傍から見ていた限りでは、子どもの頃のわたしによく似ているので、同じ方法が回復に役立つかもれしれません。つまり都会を離れて大自然の中に身を置くことです。

でも、それが効果的だとわかっていても、おいそれと勧めてよいものかという葛藤があります。アドバイスを聞いてくれるでしょうか。おせっかいに思われないでしょうか。行動してくれるでしょうか。

試しにこっちに旅行に来て2週間過ごしてもらえたら、何か変わるかもしれません。でも、かなりお金や労力が必要です。

それに、わたしと似ているとはいっても、ソマティック・エクスペリエンスまでは勧められないので、単に自然の中に来ただけで回復するかはわかりません。

そもそも、わたしの勘違いかもしれません。慢性疲労症候群は多因子疾患で原因は多様なので、じつは全然違う理由で発症している可能性もぬぐえません。

だったら初めから何も言わないほうがいい?

もし自分が相手の立場だったら、と考えてみました。10年前、わたしが寝たきりの状態で、藁にもすがる思いで色々調べている時に、今のわたしのような人が現れて、アドバイスしてくれたら?

当時のわたしには、そうしてくれる人は誰もいませんでした。わたしにアドバイスできるほど知識や経験のある人は身の回りに誰一人いなかったのです。だから、自分で調べるしかありませんでした。

でも、もし当時、今のわたしのような人が声をかけてくれたら…。もしかすると耳を傾けたかもしれません。知識や経験があって、具体的な話も手助けもしてくれる人がいたら、アドバイスを聞き入れて行動したかもしれません。

だったら、とりあえず話だけはしてみるべきかもしれない。それで相手が受け入れないなら仕方ない。来週Zoomで話す約束をしたので、そのときに自分の経験を話してみようと思います。

とはいえ、わたしは、こと他人に関しては、日に日に無力感を強めています。

自分の人生は、自分で変えることができる。わたしは尋常ならざる努力を通して、それを実感してきました。徹底的に調べ、調査したことで、自分の人生を取り戻すことができました。だから、わたしは自分に関しては統御感を抱いています。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

でも、他人に関しては、まったく正反対の学習性無力感を覚えています。どれだけ努力したところで、誰か1人の人生をさえ変えることはできません。心の扉の取っ手は外側にはついていません。

何百冊もの本や資料を調べて、ブログに大量の記事を書いて、主治医とも議論してきたのは、すべて自分のためです。でも、心の片隅のどこかに、誰か他人のためにもなればいいな、という気持ちがあったことは否定しません。

けれども、これほど多くのことをやってきて、何か少しでも、誰かのためになったでしょうか。誰かの人生が変わったでしょうか。何もありませんでした。わたしは、ただわたし自身の人生を変えただけです。それは素晴らしいことでしたが、それ以上得たものは何もありませんでした。

わたしは他人に期待するのをやめました。誰かの力になろうとしても、失望させられるだけでした。今でも手紙を送ったり、カードをあげたりすることはあります。でもそれだけです。それ以上、深入りしようとするのはやめました。

人は自分を変えることはできます。でも他人は変えることはできません。だから、今回も、あまり深入りするつもりはありません。わたしの考えを変えさせるような、よほどのことがない限りは。

2022/03/11金

無力さに打ちひしがれるくらいなら関わらないほうがいい

昨日の続き。

もともと、わたしがブログを書き始めた理由の一つに、「周囲の人と病気の話をしないため」という理由がありました。

どういうことかというと、当時のわたしは、病気の治療法やメカニズムについて徹底的に調査していて、それを周りの同じ病気の友人に話したがる傾向があったのです。みんなの役に立つと思って、良かれと思ってそうしていました。

でも、周囲の友人たちは、それを望んでいませんでした。みんな自分では何も考えず、調べようともせず、「権威ある」医者の言うことにただ従って、延々と闘病生活を送ることを望んでいました。

医者の意見と異なることを主張し、自分が「発見」したことを意欲的に語るわたしは、その人たちからすれば背教者のようなものでした。「権威のない」ただの素人であるわたしが何を言おうと、だれも真剣に聞いてくれませんでした。

わたしはもちろん、自分の考えで話していたわけではありません。最新の論文や、さまざまな分野の専門家の本をじっくり読んだ上で、よく考えて話していました。わたしのブログの記事を読めばそれは明らかなはずです。

でも、周囲の人たちは、誰も、わたしと同じような努力を払おうとしませんでした。どうしてなのか、わたしにはわかりません。なぜ当事者でもない医者を信用しきって、何の効果も出ていない治療のためにずっと病院に通い続け、死ぬまで病人をやっているのか、わたしには理解できません。

その人たちは、病気であることに満足してしまったのだと思いました。自分は〇〇という病名(慢性疲労症候群や線維筋痛症など、さまざまな病気)だというラベルを受け入れ、そのラベルを貼ってくれた医者を信奉し、ありがたがっているように見えました。

わたしも最初はそうだったので、気持ちがわからないでもありません。でも、もし何年もその医者にかかっても治らないなら、自分で考えて調べるべきなのです。自分の体のことは、当事者である自分が一番よくわかっているはずだからです。

そうしなければ、死ぬまで〇〇という病気の患者のままです。「未知の難病でまだ治療法が見つかっていないから治らないのだ」という言い訳を正当化して、まるで悲劇のヒロインのように振る舞い続けるようになります。

でも、ある意味では、その立場はきっと心地よいのです。自分は〇〇という難病だと名乗ることができる。理解されない病という苦しみを抱えながら必死に生きている自分の姿に酔うことができる。患者会の先鋒として、少なくとも同じ病気の仲間内では英雄視される。

それに比べて、わたしのように自分で調べ始めたら、一度診断されたラベルを捨てなければなりません。自分にラベルをつけてくれる医者はもうおらず、自分は〇〇という難病だと名乗ることはもうできなくなります。

名前のついていない苦痛を抱えながら、不安定な海のただ中のようにあやふやな世界へと漕ぎ出さねばなりません。医者に頼って、他人の頭に考えてもらうことはできません。頼りになるのは自分の思考力と徹底的な調査だけです。

だから、一度難病だと診断された人は、その心地よいラベルの外に出ることを好みません。病気であることが心地よいと言っているわけではありません。それは大変な苦痛です。でも、病名のついていない状態、権威者である医者からラベルを貼ってもらえない状態よりかは、ずっと安心でき、心地よいのです。

だから、わたしは1人で調査を続けるしかありませんでした。わたしと一緒に来てくれた人はいませんでした。ただ1人、主治医が理解のある人で、病名という枠組みを超えて相談に乗ってくれたことだけは救いでした。

でも、それ以外には、誰にも、自分で調べたことを話せませんでした。話そうとすれば、周囲の友人ともっと関係が悪化してしまうことは目に見えていました。だから、わたしは話すのをやめました。代わりにブログに書き綴ることで、言葉にしたい欲求を満たすことにしました。

結果として、それは良い決定だったと思います。誰にも話せないがゆえに、ブログの記事はますます充実していきました。過去に書いた記事が、次なる考察の足場また土台となりました。もし誰か話せる相手がいたら、このような考察の積み重ねはなかったかもしれません。

ついにわたしは、既存の病名のラベルの枠組みを超えて、自分の病気がどこから来ているのかをおおよそ突き止め、今自分にできる範囲の中で、最善の解決策をとることができました。

もし、周囲に理解のある人が大勢いたら、もっと他にできることや、試してみたい治療法もありましたが、それは叶いませんでした。でも考えうる最高の解決策でなくとも、置かれた状況の中で最善の解決策をとれたことに満足しています。

このような経緯があるので、昨日書いたような結論に至ります。

わたしは他人に期待できなくなりました。誰も、わたしの言うことを真剣に聞いてくれませんでした。主治医だけはずっと討議につきあってくれて、いろいろ助けになってくれました。でも、同じ病気の友人の中には誰もいませんでした。

わたしはできれば、同じ病気の友人の力になりたいと願っていました。彼ら、彼女らの苦痛を自分のこととして知っているからです。自分と同じように、その苦痛から抜け出せるのなら、どんな助けでも差し伸べたいと思いました。

でも、誰もそれを望みませんでした。その人たちは皆、病気のラベルのうちにとどまることを選んだのです。「自分は専門医から診断された慢性疲労症候群である」といったラベルに固執し、それ以外の意見を聞き入れようとはしませんでした。

こんなことがありました。

わたしが、アーレンシンドローム(光過敏症)について、徹底的に調査していたときのことです。

症状が似ている友人に、遮光レンズのメガネをかけたら、かなり楽になるよと何度もアドバイスしました。できるなら、オプトメトリストのところに行って、内斜視なとがないか検査してもらうのもいいよ、と勧めました。

何度も言いましたが、真剣に聞いてくれる様子はありませんでした。

それから2年か3年が経ったころ、友人が、パソコンを買い替えたと嬉しそうに話してくれました。買い替えて一番よかったのは、画面に輝度を前のパソコンよりも暗くできることだと自慢してきました。目の負担が減ったとのことでした。

わたしは唖然としました。何年も前に、わたしが遮光レンズの有用性を話していたとき、真剣に聞いていたら、もっと早く解決したはずではないでしょうか。

それに、パソコンの輝度は、新しいパソコンなど買わなくとも、フリーソフト(D-Filterとか)で限界以上に下げられます。当時、パソコンの輝度の問題についても話したのに、何一つ真剣に聞いてくれていないことは明らかでした。

本当にバカバカしくなりました。もちろん口には出しませんし、その友人を非難するつもりもありません。そうではなく、自分にバカバカしくなったのです。

「権威のある医者」ではない自分が真剣にアドバイスしても、やっぱり何も聞いてはくれないのだと。同じ病気の人たちが求めているのは、病気を治すためのアドバイスではなく、単に傷をなめ合うかのように、不幸な境遇に同情しあう仲間にすぎないのだと。

だから、今回も、友人の娘さんが慢性疲労症候群のようになったからといって、そして彼女がわたしの境遇とよく似ているからといって、手を差し伸べる気にはどうしてもなれないのです。

どうせ無駄だと思うからです。真剣に聞いてくれるはずはありません。深入りすれば、自分が傷つくだけです。

それなら、初めから何も話さず、当たり障りない話に終始するほうが良いのではないでしょうか。自分の無力さに打ちひしがれてがっかりするくらいなら、最初から関わらないほうがいいのです。

わたしの考えが歪んでいることは自覚しています。過去の嫌な出来事の積み重ねから、極端な考えに至っていると思います。この考えを打ち砕くような何かが起これば素晴らしいと心から思っています。でも、何も期待していません。

自分が変えられるのは自分自身だけだ。他の人を変えることは決してできない。これが今のわたしの偽らざる本心です。

その点、これまでブログに書いてきたことは、どこか預かり知らぬところで、見知らぬ誰かの役に立ったこともあるのかもしれません。その見知らぬ誰かは自分で調べて、自分で情報を取り入れる人だからです。その人はきっと自分の人生を自分の力で変えることができるでしょう。

2022/03/12土

エゾシカの群れに包囲されて焦った

新品カメラが届いたので、森散歩に出かけてきました! 同じカメラなので当たり前ですが、まるで買い替えたとは思えないほどいつも通りです。出費がかさんだという厳然たる事実だけが心に重くのしかかります。

天気は今にも雨が降りそうな空模様。気温も暖かく、地面の雪がザクザクに緩んでいます。それでも、久々に森に足を踏み入れたときの気持ちの高揚と言ったら! (3日以上間隔が空いたら、わたしにとっては「久々」です)

森に入る前から、鳥たちの喧しい声が聞こえていましたが、声からは何の鳥だか全然わかりませんでした。よくいるカラ類ともまた違う感じ。でも鳥の歌のレパートリーは意外と多いので、実はカラ類の知らない歌かもしれない。

空がどんより曇ったグレー寄りの白で、どこを見上げても逆光になってしまって、高い木に止まる小鳥を観察するのはほとんど無理そうでした。あまり鳥に固執することなく、奥へ歩いていくことに。

冬のあいだは、人間の足跡もたまにありましたが、今日はわたし以外の足跡はまったく見当たりませんでした。春めいてきて、雪が重くて歩きにくくなったので、森散歩する人もいよいよいなくなったのかもしれません。

たくさんの鳥たちは近づくたびに四散してしまっていましたが、カラマツ林でようやく一つの群れに追いつきました。遠巻きに眺めてみたら、黄色い模様がチャーミングなマヒワでした。今年はよく同じ場所にいます。

さらに奥に進んで登っていくと、そこら中の広葉樹がエゾシカに樹皮剥ぎされていました。去年は若木ばかりだったのですが、今年は樹齢20年近いだろう太い木までもが、徹底的に食い尽くされていました。

もしかしたら、去年、若木の樹皮剥ぎをしすぎて、もう太い木しかなかったのでしょうか。だとしてもこれは…。ただでさえ植林された針葉樹が多い森なのに、これでは貴重な広葉樹が枯れ果ててしまいそうです。

樹皮剥ぎされている木は、しっかり種類は確認しませんでしたが、おそらくミズナラのような樹皮がうろこ状にひび割れている木ばかりのようでした。シナノキやイタヤカエデのような滑らかな樹皮の木は、ほぼ無事でした。(追記 : 後日改めてよく調べると、シナノキは高確率で樹皮剥ぎされていました)

意外だったのは、ツル性樹木のコクワ(サルナシ)までもがひどく樹皮剥ぎされていたことでした。太いコクワの木は貴重だと思うのですが…。ここまで剥がされてしまうとやはり枯れてしまうのだろうか…。回復してほしいです。

今年の冬は、例年より雪が多いということは全然なく、おそらく7割くらいだったと思います。30年以上前と比較すれば、5割かもしれません。それほど少ないのに、エゾシカの食糧がなかったというのが驚きです。

どうせなら、雪を掘りあさって、無限とも思えるほど生えているクマイザサの葉を食べてほしいものです。

でも、昔はもっと雪が多かったはずなのに、どうやって、広葉樹林とエゾシカが共存できていたのか不思議です。松浦武四郎の時代には、山合いの平原を埋め尽くすほどのシカがいたと言われているのに。

何かしらのネガティブフィードバックがあって均衡が保たれてきたのだと思いますが、今のわたしには見当もつきません。自然の仕組みはよくできているので、わたし個人が気に病むようなことではないのだろう、と思いたいです。

さらに奥へと進んでいって、冬しか立ち入れないエリアへ。

探索していると、四方八方から鳥たちの声が聞こえてきました。夕方だからか、あちこちから多様な鳥が集まってきて、目まぐるしく飛び交い始めました。

でも、今立っているのは、森の奥の巨大なツル性植物がはびこっている雪の斜面。どう見てもヒグマのテリトリー。今のところ足跡は見ないので、まだ起きてないとは思いますが、ややハラハラしながら鳥を観察しました。

かなりの種類の鳥が集まってきていて、いつもいるヒヨドリや、ハシブトガラ(コガラ?)の他、ゴジュウカラ、シマエナガも一羽いました。

観察しているうちにさらに鳥が集まってきて、アカゲラやコゲラのようなキツツキの姿も。

でも、じわじわと暗くなってきたので、少し不気味さを感じて、名残惜しくも先に進むことにしました。こんな森の奥地で日が暮れてしまうのはまずい。

先に進むと何かの巣も見かけました。これは現在進行系で使われている巣では? 近くにはハシブトガラが一羽飛び回っていましたが、その巣なのかどうかはわかりません。

その先の下り坂は、エゾシカに踏み荒らされ、食い荒らされた痕跡があり、かなり散らかっていました。ここを下っていくとエゾシカの水飲み場ですが、これだけ痕跡だらけなら今日もいるのでは?

気づかれるのが早いと、わたしが斜面を下るより早く、エゾシカが向かいの山の斜面を登っていってしまいます。最近はそのパターンが多かったので、向かいの山をじっくり見ていましたが、一頭も見当たりません。

今日はいないのかな、とがっかりして降りていくと…

いたー! 眼下の水飲み場の渓流のそばに佇んでいるシカを見つけました。もうかなり近い距離なのに、逃げる気配がありません。こっちは樹木の枝越しに見ているので気づかれていないのかもしれません。

でも、いつもならもっと遠くからでも気づかれてしまうのに…。たとえ茂みに後ろに隠れていようが、シカの目はそうそうごまかせません。今日はさらに足跡もザクザク聞こえているはずなのに、逃げないのはなぜ?

どうしても隠せない足音をたてながら、さらに下っていくと、さらにもう一頭エゾシカがいることに気づきました。距離は30mくらいか。

そこからじっと観察していると、渓流沿いに点々とエゾシカが! 目を凝らすと10頭くらいのエゾシカの群れがそこにいました。

全然逃げる気配がないので、じっと動画を撮っていたら、突然、一頭の若いエゾシカが目の前に登ってきました!

わたしから死角になっている崖を登ってきたので、いきなり現れたように見えたのです。たった10mくらいしかない至近距離だったので思わず身構えました。全然逃げないと思ったら、まさか威嚇してくる?

しかし登ってきた若いエゾシカは、わたしを横目で一瞥すると、すぐさま身を翻して、来た崖を走り下りていきました。

さらに、群れにいた奥のシカが数頭、わたしの前から回り込むように右手の斜面に登っていくのが見えました。エゾシカに囲まれた? 包囲作戦を展開している?

いよいよ恐ろしくなって引き返そうかと思ったら、残っているエゾシカの群れが、左手方向の向かいの山の斜面へと、ゆっくり立ち去り始めました。10頭弱のエゾシカたちが隊列をなし、山を登っていきます。

落ち着いた足取りに見えましたが、山を登って姿が見えなくなるのは一瞬でした。わたしがスノーシューで登ったら、最速でも15分はかかりそうな雪山を、たったの数秒で登ってしまったのです。驚くべき健脚です。

それにしても、さっきの若いシカは偵察部隊だったのでしょうか。おそらく1歳くらいの小柄なシカでしたが、あの怪しい奴を見てこいと送り出された下っ端だったのかもしれません。

エゾシカたちの群れの食事の時間を邪魔してしまったのは申し訳なかったですが、いつもと違う場面に遭遇できたのは面白かったです。エゾシカたちにも独特の社会的関係があるんだなぁという人間味が感じられました。

それから、斜面を下って、さっきまでエゾシカたちの群れがいた水飲み場に降りましたが…。周囲が非常に荒れていました…。これらの木が果たして無事に回復できるのかそれだけが心配です。

あとは長い長い林道を引き返すだけ。もう日が暮れ始めていて、鳥も見当たらなかったので、一目散に帰ってきました。

久しぶりの森歩きでしたが、やっぱり森っていいなと思いました。特別すごいものを見たわけではないけれど、生き物たちの世界があって、鳥たちやエゾシカたちの生活を垣間見ることができました。

2022/03/13日

久しぶりのキバシリやアトリ。今日もエゾシカたちがいた

翌日、また同じところに出かけてみました。昨日と打って変わって、見事な青空でバードウォッチング日和でした。

地上20mのとても高いカラマツの枝にいたコゲラ。鳴き声ですぐにわかりますが、姿を見つけるのは至難の業です。

さらにレアなのがキバシリ。今シーズン2回目の目撃となりました。木の葉が落ちるように木から木へと飛び移るさまは忍者のようです。

樹皮に同化しすぎていて、写真だとどこにいるのかわからないほどです。実物は動いているから、かろうじて存在がわかります。意外と長いエビフライのような尾のおかげで、他の鳥と見分けるのは簡単です。

さらに奥に進むと、遠くのカラマツの上方に群れている鳥がいました。中くらいの大きさで、ちらちらと桃色や黄色が見えるので、マヒワとベニヒワに混成の群れではないかと思って写真を撮っていました。ところが、帰ってから確認すると、今シーズン初のアトリでした。

胸元にネックレスのようにオレンジ色の帯があるのが特徴で、個人的にはオウサマペンギンみたいな配色と覚えています。真冬に姿を見ることはめったになく、春に見かけることが多いです。

日本には冬鳥として飛来する渡り鳥です。越冬のため北方からやってくるので、厳寒期はもう少し南まで降りているのかもしれません。春が近づくとともに北上し、道北も中継地として通るのだとしたら、この時期によく見る理由が説明できます。

もっと奥の、冬にしか入れない地帯にて、昨日たくさんの鳥がいたツル性樹木が繁茂しているあたりで、ミヤマカケスを見ました。珍しくもない大型の鳥ですが、今年はなぜか見かける頻度が低いです。

木の裏側に顔を突っ込んで何かを食べていました。後で確認してみたら、ヤマブドウの太いツルが隠れていただけでした。食べていたのは樹皮なのか、芽なのか、それとも隠れていた虫なのか。

昨日エゾシカの群れを見た水飲み場まで下っていくと、今日は数頭のエゾシカが向かいの山の斜面を登っていきました。

帰り道の林道では、シジュウカラがいました。そんなに見かける鳥ではないのに、どういうわけか、ここではよく見ます。近くに住んでいるのかもしれませんね。

2022/03/14火

雪解けの斜面でお食事中のエゾシカたち。スノーチューブでも遊んだ

毎年、春になると真っ先に雪解けする南斜面にエゾシカの群れが現れます。今年もそろそろ来ているかな、と見に行ってみると…

やっぱりいました。写真には映り切りませんが、10頭以上の群れを見かけました。雪解けが始まって、地面が露出した斜面で、サラダバーを楽しんでいました。エゾシカは本当に時季をよく知っています。

今年、森の奥で見るシカの群れには、オスが大勢含まれていますが、この群れはメスだけでした。

注意深く身を低くして観察していると、シカたちは最初は警戒してみんなで一斉にこちらを見つめていました。でも、逃げてしまうことはなく、しばらくするとまたむしゃむしゃと木の芽や埋もれたササなどを食べ始めました。

ぺろり。美味しそうです。

全然気にする様子がないので、心ゆくまで観察できそうでした。シカが何かを食べているだけの動画を長々と撮ってしまいました。でも、動物はどれだけ観察しても飽きないものです。どうして、ただ草を食べているだけでこんなに可愛く面白くユーモラスなんでしょう。

さすがに、それ以上近寄ると、群れの中の一頭が、キョン!と警戒声を上げました。でも、群れは逃げませんでした。しばらくじっとしていると、また草を食べ始めました。これ以上、食事の邪魔をするのは悪いので、別れを告げて帰ってきました。

その近くの山合いでは、ヤナギのつぼみが、いよいよ春を告げようとしていました。白玉の真ん中に黒い点。そういえば、なんかこういう形の食べ物があったような? タピオカでもないしなんだっけ?と調べたらバジルシードでした。

河川敷の風景。雪解けとともに、鈍く光沢をもって輝く川面が現れました。河原の雪にはエゾシカだけでなく人間の足跡も見え、誰かが散歩を楽しんでいるようです。こんどわたしも歩いてみようと思いました。

川沿いのネコヤナギとハンノキも、咲く日がいよいよ近そうです。

その後、友人を誘って、スノーチューブを持って森に出かけて、木の少ない斜面を滑って遊びました。夏はクマイザサで覆われる場所ですが、今は天然のスキー場です。

最初はそれほど滑らない感じでしたが、日が暮れるに従って気温が下がると、雪の表面が凍ってしまったのか、ジェットコースターのように。滑るごとに距離が伸びて、最後はあわや林に突っ込んでしまいそうでした。

帰りに森の外で見かけた鳥。逆光でしたが、シルエットからツグミだろうとわかりました。少数がこのあたりに残って冬越ししそうです。

2022/03/15火

友人との話し合い。苦しんだ経験は無駄ではなかった

久々に一日中雪でした。予報によるとまだ降るようで、今年の3月は意外と積雪量が多くなるかもしれません。もう雪解けで春が見え始めたところで一旦後退するのはいつものことです。いわゆる広い意味での三寒四温です。

先週書いていたように、今日は友人とビデオ通話で久しぶりに話しました。娘さんが慢性疲労症候群っぽい症状を発症した友人です。

解決策を話すより、まずよく聞くように努めて、自分の経験を話して共感を示すようにしました。病気のメカニズムについて話す時は、難しい用語は使わずに、噛み砕いた日常の言葉で、ごく簡単に説明するようにしました。

会話のとき、ずっと意識していたのは、出過ぎたアドバイスをしないということでした。結局のところ、知識を伝えるアドバイスは無駄だと思ったからです。

知識を伝えたければ、あるいはアドバイスしたければ、わたしのブログの役立ちそうな記事を幾つか紹介することもできました。でも、そんなことをしても無意味だと思いました。本人が自分で調べて見つけるのでない限り、行動にはつながりません。

おそらく、わたしがいくら病気の仕組みや治療に役立つことを話しても、何も記憶に残らないでしょう。でも、共感の土台を据えて、思いやりある言葉をかけるなら、その温かなやり取りが、言葉にならない記憶として残ります。

それでいったい何が変わるのか。おそらくほとんど何も変わらないでしょう。闘病が快方に向かうことはないでしょう。具体的な治療に踏み出すステップにもならないでしょう。

でも、今にも墜落しそうな気持ちが少し持ち直して、ほんのわずかでも浮き上がることができるでしょう。一日一日、なんとか生き抜こうという思いが、強められるでしょう。

他人にできるのはそこまでなのです。前に書いたとおり、人は自分自身を変えることなら、相当な努力を払えばできるかもしれません。でも他人を変えることはできません。

たとえわたしが本当に問題の解決策を知っていたとしても、他人にそれを行わせることはできません。できるのは、ただ一杯のココアを淹れて、ほんのひと時の間、安らげる時間を作ってあげることだけです。

たくさんのことを調べ、たくさんの知識を得たのに、友人が苦しむのを見ていることしかできない自分は無力だと感じます。まるで、数年前の最悪の時期にいる自分のようなのに、ただ見ているだけで何も助けてあげられないからです。

でも、どうやっても、他人であるわたしが助けることはできないのです。本人が元気づけられて、自分で解決策を模索し始めない限り。だから、わたしにできる唯一にして最大のことは、思いやりを示して元気づけてあげること、それだけなのです。

そう考えれば、今日の交流はとてもよかったと思います。よく感情移入して、話も弾み、温かな雰囲気で終えることができました。同じ経験者であるわたしにしかできない方法で、共感を伝えられたと思います。

何ひとつ解決策を伝えることはできなかったかもしれません。でも、今日のわたしの話し方や態度には、10代の時から苦しんできた経験と、必死に病気について調べた知識が、見えない糸のように織り込まれていました。

きっとそれでいいのだと思います。熟練の料理人は食材について詳しく知り、高度なレシピを理解しているかもしれませんが、お客さんに差し出すのは完成したスープだけで十分なのです。

同じように、わたしはこの病気について非常に詳しく知り、さまざまなメカニズムを理解しているかもしれませんが、それらを話したら、相手は圧倒されてしまうでしょう。そうではなく、それらが混ざり合って完成したスープのようなエッセンス、温かい共感と思いやりを伝えるだけで十分なのです。

わたしは、こっちに引っ越してきて、病苦からある程度解放されたことで、自分が病気だったころのことをうまく思い出せなくなりました。かつての自分の気持ちについて文章を書こうとしても、生の気持ちがわからなくなりました。

それで、人は皆、格言のとおり「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ものなのだ、と考えるようになりました。回復してしまえば、辛い病気だった時の記憶は薄れ、消えていってしまうのです。人の感情を生み出しているのは「今この瞬間」の感覚だからです。

病気から解放され、「今この瞬間」の病気の感覚が薄れてしまったわたしは、もう当時の気持ちを思い出したり、再体験したりすることはできないのだと、考えました。

病気を体験したことで、思いやり深くなれるとか、苦しむ人に感情移入できるようになれる、というのは嘘だと思いました。今まさに苦しんでいる間なら同じ境遇にある人に共感できますが、苦しみが過去のものになれば、共感もできなくなってしまうのだと。考えるようになりました。

病気になった人は、他人の気持ちがわかるようになる、思いやれるようになる、というのは、そういう悲しい経験をした人を元気づけるためのある種の方便にすぎないのだとみなしました。そのことは過去記事で書きました。

「病気の苦しみを理解してほしい」―それは現実的な目標なのか
病気の苦痛を理解してもらうことを目指して周りの人とコミュニケーションするのは実際的なのかどうか考えました。

でも、今日、新しい発見がありました。過去のわたしと同じような苦しみを今まさに味わっている友人の話を聞いた時、わたしは、その当時どのような気持ちだったかを思い出すことができたのです!

よくよく考えてみれば、それは当たり前のことでした。わたしはもともと共感能力の強いHSP気質の人間です。だから、相手の話に感情移入して、それを自分の体に起こっていることのように想像することができます。

ミラータッチ共感覚―他人の痛みを自分の身体で感じてしまう超HSPな人たち
他人の痛みを見るだけで、自分の身体に感じてしまうミラータッチ共感覚を持つ人のストーリーから、感受性豊かな人たちが学べることを考えました。

一方、わたしが昔、病気で苦しんだ時の苦痛は、すべて手続き記憶の形で体に保存されています。単なる言葉のような「知識」ではなく、身体的な「経験」という形で保存されている記憶です。

手続き記憶は、自転車の乗り方とか、メロディの記憶に使われている記憶形式です。長年自転車に乗ってなくても、体が覚えています。子どものころに聞いた流行曲は、最初のフレーズを聞けば、すぐに続きを思い出せます。

ここが重要な点です。懐かしのメロディは、自分から意識的に思い出そうとしても、たいていうまくいきません。今ここで、さあ思い出してみなさい、と言われても、どんな曲があったかすら、出てこないかもしれません。

しかし、ラジオからふとその曲のイントロが聞こえてきたら、またたく間に思い出すことができます。

わたしの病気の時の気持ちや記憶もそのような形で保存されていたのです!

今まさに聞いている流行曲は、頭の中でヘビーローテションがかかっているので、労せずとも口ずさむことができます。同様に、今まさに病気と闘っている人は、病気の苦痛や辛さを切々と物語ることができます。

しかし、年月が経つと、当時の流行曲がなんだったのか忘れてしまいます。自分か頭の中を検索して思い出すことはできません。同様に、病気から回復してしばらく経つと、その当時どう感じていたか、思い出すのが難しくなります。

けれども、何かきっかけとなる呼び水があれば、手続き記憶はよみがえります。たまたまイントロを聞くだけで、流行曲のメロディがすべて思い出されます。同じように、過去の自分と似たような病気の人から話を聞いていると、忘れたはずの当時の感覚や気持ちを思い出すことができます。

これは一種のフラッシュバックともいえます。制御できなければ危険です。過去に呑まれてしまうかもしれません。

しかし、すでに安心できる居場所を見つけていれば、適切な距離を置いて振り返ることができます。安全な「今ここ」に軸足を置いて、過去の自分の感覚を、やや客観的に受け止めることができます。(いわゆる「二重の意識」)

そのように平静さを保ちながら、過去の辛い記憶や気持ちを思い出せると、今まさに同じような経験をしている人に心底共感することができます。

無思慮の壁で隔てられているほど遠くから他人事のように話を聞くでもなく、フラッシュバックを起こしてしまうほど相手に同化して気持ちをかき乱されるでもなく、冷静に、でも温かみをもって、話を聞いてあげることができます。

今日話した友人は、そのようなわたしの態度に心を動かされて、それはわたしが病気に苦しんだ経験から「財産」だと表現してくれました。わたしはそんな大それたものではないと言いましたが、一面の真実をついているとも思いました。

過去に辛い経験をした人、試練をくぐりぬけた人は、喉元過ぎれば熱さを忘れるので、言葉で語れるような記憶(宣言的記憶)は失ってしまいます。しだいに辛かった時の気持ちを思い出せなくなってしまいます。

しかし、フロイトが述べたとおり、心は忘れてしまっても体は忘れません。当時の感覚や苦痛や感情は、いずれも身体的な経験(手続き記憶)として、体に刻み込まれています。経験は決して忘れられることはありません。

手続き記憶が決して消えないというのは、考え方によっては絶望的な事実かもしれません。

ナチスの強制収容所を生き残っても、腕に彫られた囚人番号は一生消えませんでした。同じように、凄惨な事故も、虐待も、性犯罪も、一度経験してしまえば、その身体的な記憶は体に刻み込まれ、一生消えません。

でも、見方を変えれば、その人が恐ろしい逆境を乗り越えたというサバイバーであるという事実が、決して消え去らないということです。どれほど恐ろしい目に遭っても諦めず屈さなかったという証拠が、しっかり残り続けるのです。

もし「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がすべての点で真理であるなら、苦しんだ経験はすべて無駄である、ということになります。

病気から回復した人が当時の気持ちを全部忘れてしまうなら、病気だった期間は無駄になります。もしその期間、健康だったら得られていたはずのものを得損なっただけということになります。

虐待によって子ども時代を失った人や、病気によって思春期を奪われた人は、たとえ回復できたとしても、得損なった物の大きさに苦しみ続けることになります。人生の重要な時期をごっそりえぐり取られたという空白だけが残るからです。

わたしも、回復してからしばらく、そういう気持ちでした。学生時代から10年以上に及ぶ闘病は、何の役にも立たなかったと思いました。一番元気な若い時期を失っただけだったと。

でも、そうではありませんでした。たとえ言葉による記憶(宣言的記憶)としては当時の記憶が薄れてしまっていても、身体的な記憶(手続き記憶)は、その十数年の闘病をすべて仔細に記録していました。

そして、その記憶を同じような立場の人に感情移入し、共感し、思いやりを示すために用いることができることに気づきました。しかも無意識のうちにそうできるのです。それは、ずっと健康に過ごしてきた人がどれだけ努力してもできないようなことです。

かつて軍隊にいた人は、体の動きに癖が残るので、見る人が見ればわかると言われます。逆にもし普通の人が、軍人のふりをしようとしても、長年の身体的な経験がないので、どう演じても偽物になってしまいます。

同じように、サバイバーとして逆境を乗り越えた人も、手続き記憶が体に染み付いているので、見る人が見れば分かるはずです。

もしサバイバーでない人が、善意の気持ちからサバイバーの気持ちに寄り添おうとしても、あまりうまくいかないでしょう。相手はきっと違和感を感じるはずです。経験していないことを知識で補うことはできないからです。

ですから、経験は財産です。わたしが学生時代から10年以上かけて闘病した手続き記憶もそうです。何百冊の本を読もうと、そのような経験の手続き記憶は得られません。実際に経験した人だけが、同じような立場の人を支えてあげられます。

完全に同じ経験はないので、できることは限られています。苦痛から助けてあげることはできないかもしれません。できるのは、一杯のココアを淹れてあげるくらいの小さなことだけかもしれません。

でも、その小さなことを自然にやってあげられるのが、同じような経験をしてきた人の強みなのです。

必死に相手の気持ちを想像しようと努力しなくても、大量の本を読んで知識によって理解しようとしなくても、ただ普通に接しているだけで、体に刻まれた手続き記憶が、言葉の代わりに語ってくれます。

あなたは独りじゃない。同じような苦痛を乗り越えてきた仲間がいる、今は希望が見えなくても、底しれぬ深い穴にいるとしても、絶望するにはまだ早い、と。

(追記 :

と、かっこよくまとめたはいいものの、やっぱり何か引っかかるところがあります。今回は間違いなく共感的なやり取りができましたが、数日前に書いたとおり、以前はそんなやり取りができなかったことが何度もあるのです。

わたしの対応が変わった、というわけでもないと思います。昔は知識を伝えたがるところがありましたが、もともと空気を読む性格なので、相手の気持ちを無視して意見を主張することはありません。

だとすると、そもそも共感し合える人は同じような病気の人だったのに対し、気持ちがすれ違ってしまう人はまったく別の病気の人だったのではないでしょうか。こちらが異質さを感じ取っていたように、向こうも異質さを感じていたのでは?

特に慢性疲労症候群や線維筋痛症という病名は、吹き溜まり的なところがあって、他の病名がつかない人が集められていて、おそらく複数の別の病気が混ざっていると思われます。同じ病名でも、同じ症状とは限りません。

改めて考えてみると、今回、話し合った人の娘さんの症状は、今まで出会った人の中でも、5指に入るほどわたしの症状に近い気がします。妄想を伴わない幻聴もあると言っていたので解離性障害寄りでした。

一方、あまり話が合わず共感的なやりとりができない人たちは、アスペルガーを土台にした慢性疲労や、ウイルス感染後CFSなどの、全然別の病態なのかもしれません。

自分の手続き記憶は財産ですが、あくまで、自分と同じような道をたどってきた人に共感できる、というだけです。医者から同じ診断名をもらっていても、生まれつきの性質も、発症の原因も、そもそもの症状も違う人がいるとしたら、互いに感情移入しにくいのも当然でしょう)

2022/03/16木

公園にヤマゲラなど鳥がたくさん。もうヒグマが起きたらしい

忙しかったので、夕方ごろに公園に散歩に行けただけでした。

出かける時、近所の人にあいさつしたら、驚くべき情報を聞けました。なんともうヒグマが目撃されたそうです。しかも子ども連れだったとのこと。普段わたしが行かない場所での目撃例でしたが、そろそろ注意しなければなりません。

公園に着くと、気温は高く、雨がパラパラと降っていました。でも毛布である雪が溶けてしまってアスファルトがむき出しになったせいで、真冬よりずっと寒く感じました。

まだ芝生の上は雪が60cmくらい積もっているので、スノーシューを履いてる歩き回りました。春が近いので、鳥たちが活発に飛び回っていました。

久しぶりに見たヤマゲラ。おそらく3羽くらいいたようです。真冬はあまり姿を見ませんが、毎年3月ごろから頻繁に姿を見ることになる、ずんだ餅カラーのキツツキです。

頭が赤いのでオスですね。背中はずんだ餅色ですが、脇にちらっと見える風切羽?には、他のキツツキと同じように、白と黒の縞模様が見て取れます。

あまり近くて見れませんでしたが、アカゲラもいました。

いつもいるヒヨドリも。騒がしい鳥ですが、姿は美しく魅力的です。

遠くに大きな塊が見えて、葉っぱだろうか、それとも鳥だろうか、と思って拡大してみたら、トビのようでした。尾が白ければオジロワシなのですが、茶色のようです。尾の形もエビフライのように中央が山型に凹んでいるので、トビだと区別できます。

もっととどまっていれば、さらに様々な鳥が見れたかもしれません。でも寒かったので、すぐ帰ってきました。これからどんどん鳥の種類が増えて、渡り鳥もやってきて、バードウォッチングが楽しい季節になりそうです。

2022/03/18金

初めての川沿いを歩く。エゾノウワミズザクラ発見?

朝は定期検診で病院に。まだ近隣でコロナ感染者が多いので不安でしたが、かつてないほど空いていて、一瞬で診察が終わり、一安心でした。

午後には、一昨日、誰かが歩いている足跡を見つけた河川敷をスノーシューで歩いてみました。

エゾシカの足跡がたくさんあり、川の水を飲んだり、ヤナギやヤマグワの樹皮剥ぎをしたりしている痕跡がありました。

しかし、河原に多いハンノキ、ヤマナラシおよびドロノキは樹皮剥ぎされていませんでした。味が違う? それとも樹皮の剥がれやすさが違うのでしょうか?

中洲のような場所にも、踏み荒らした足跡があり、樹皮剥ぎされた痕跡も見えました。おそらくまだ雪が積もって陸続きになっている時期に大挙して出向いたのでしょう。

川沿いなので、カモなど鳥が見られるかと期待していましたが、何一つ見つかりませんでした。空も晴れていたのに不思議です。時間帯でしょうか。

どこまでも川沿いを歩けそうでしたが、朝の病院で少し疲れていたので、無理しませんでした。そろそろヒグマが現れる可能性もあるので、また来年の冬にでも探検できたらと思います。

帰り道、樹木を同定しながら歩きましたが、堤防沿いに立っていたこの木だけ、はっきり正体がわかりませんでした。

冬芽を見ると、サクラに似ていますが、エゾヤマザクラではありません。

とすると、ウワミズザクラ、エゾノウワミズザクラ、シウリザクラの可能性があります。

このうちウワミズザクラの冬芽は丸みがあるので異なります。もとより、ウワミズザクラは自生していないので、公園などに植栽されたものを除けば生えていないはずです。

エゾノウワミズザクラ、シウリザクラは、どちらも冬芽は尖っています。しっかり比較したことがないので、違いはわかりません。今後経験を積みたいです。

エゾノウワミズザクラは、ウワミズザクラと同様、落枝痕があるそうですが、ざっと見たところでは見当たりませんでした。

ただし、ネット上では、ウワミズザクラの落枝痕の写真は数あれど、エゾノウワミズザクラの落枝痕の写真は見当たらないので、真偽は不明。落枝痕があるとしても、たまり目立たないのかもしれません。春に花が咲いているのを見つけたら、よく確かめたいと思います。

樹皮も確認しましたが、典型的なヤマザクラのような、横線が目立つ模様ではありませんでした。

去年、この付近の川沿いに、エゾノウワミズザクラが咲いているのを確認したので、もしかするとこれもそうでしょうか。5月から6月に花を確認すれば確実に同定できるので、思いに留めて見に来たいと思いました。

2022/03/20日

二度目のクマゲラに遭遇! 大迫力の鳴き声と羽ばたき

今日は午後に時間がとれたので、久しぶりに森散歩を楽しみました。もともと吹雪予報でしたが、ぜんぶ道東に行ったようで、道北は平穏で雪が全然降りませんでした。今年の冬はこんなことばかりで、雪雲が道北を避けていきます。

いつもなら森の中を歩くのですが、よい天気で風もなかったので、林道をとぼとぼと歩きました。何も考えずにぼーっとしながら歩くには、とてもよい道です。脇に生えているエゾノバッコヤナギかと思われる木のつぼみが見え始めていました。

林道から森の中に入ると、しだいに鳥たちの鳴き声が響きわたり始めました。さまざまな声がしますが、全然姿は見つけられませんでした。たまに樹冠の高いところを飛んでいるようでしたが、遠すぎて虫のような黒い点にしか見えませんでした。

しばらく鳥の声に耳を澄ましていると、遠くで、ケーンケーンというどことなく聞き覚えのある独特な声が響くのが聞こえました。はたと考えて、クマゲラの声だと思い出しました。声を聞いたのは二度目。前回もこの森でしたが一昨年です。

当時は、キツツキの仲間らしくキョーン! キョーン!という鳴き声だと聞きなしましたが、改めて効くとケーンケーンのほうが近いです。

まさかクマゲラがいるとは思っていなかったので、俄然気持ちが高ぶりましたが、かなり遠くのようでした。場所を推定すると、おそらく先月エゾライチョウを見た林道のさらに向こうの森(というか山)ではないかと思えました。

そろそろヒグマが起きているという話もあるので、そこまで見に行くのは難しく感じました。たとえ近くまで行っても、山の上のほうだったら斜面を登っていくわけにもいきません。

でも、せっかくクマゲラがいるのだし、試しに行ける場所までは行ってみようと思いました。

しばらく歩いて、秋にキノコ狩りをした場所に差し掛かったとき、突如、大きな鳴き声が前方から響き渡りました。あまりにも大きくて、一瞬、キツネやシカなど大型哺乳類の鳴き声かと考えたくらいです。一瞬足を止めて、まさかヒグマはこんな声で鳴かないよな、と真剣に考えました。

冷静に考えたところ、クマゲラの鳴き声に思えたので、さらに進んで、秋にムキタケをたくさん採った倒木地帯まで来ました。ここから先は野生動物の住みかなので、いま歩いていけるほぼ限界の地点です。

声がした森の奥のほうをしばらく眺めていましたが、何もいる気配がありません。もういなくなったのだろう、と諦めて帰ろうとしたら、わたしの動きに反応して、何か巨大な生き物がバサバサバサっと木から木へと飛び移るのが見えました。

間違いなくクマゲラだ! と確信しました。目を凝らして探すと、目視できる場所に、黒い大きな鳥が止まっていました。その迫力はトビに匹敵し、森の中で見かける鳥としては最大級、これまで見たことがないほどの存在感でした。

クマゲラは逃げる気配がなかったので、その場のしゃがんでカメラをぶれないように両手で構え、最大ズームで観察しました。

クマゲラを見たのはこれで二度目ですが、まさかこんなに近くで見ることができるなんて! 羽の質感までわかる距離です。また、去年見たクマゲラはクチバシの上まで赤いオスでしたが、今回のクマゲラは後頭部だけ赤いのでメスです。

クマゲラは、鋭い鉤爪で木につかまって登りながら、のけぞるようにしてケーン!ケーン!と繰り返し鳴きました。

白目が目立つ鳥類にしては珍しいコミカルな顔と、奇妙なほど長い首。頭は横からだと丸く見えますが、真後ろからだと意外なほど横幅がなく、縦に長細いシルエット。

しばらく鳴いた後、後ろを振り向いて身を乗り出すように構え、キョキョキョキョキョ…と鳴きながら、近くの木に飛び移ります。鈴を鳴らすような優雅な声にも聞こえますが、聞きなしで文字起こしするのは難しいです。

面白いのは、幹に止まっている時は、必ずケーンケーンと鳴くのに、木から木へと飛び移って、森の中を滑空して飛ぶ際には、必ずキョキョキョキョキョ…と鳴くことです。まるで行動ごとに声がプログラムされているかのように。

それにしても、木から木へと飛び移るとはいえ、全然逃げていこうとしません。すぐ近くの木に飛ぶだけで、カメラの射程圏内なので、動画を撮り続けることができます。

わたしが立ち上がって場所を変えると、森の奥に逃げて行ったように見えましたが、わたしが帰ろうとすると、またすぐ近くまで戻ってくるので、動画撮影を再開する、というのを何度か繰り返しました。

やがて動画を撮っていると、かなり近くのシラカバの木の裏側に回り込んで姿が見えなくなったかと思ったら、しばらくして顔だけ出しているのに気づきました。よく見ると、木の裏から顔を出しているのではなく、木の空洞から顔を出しているようでした。

ここにおよんで、やっと気づきました。もしかすると、このクマゲラは、自分の巣の近くに来たわたしを威嚇していたのでは?

鳥が妙に姿を撮らせてくれる時は、自分を囮にして人間の注意を巣からそらせようとしていることがある、としばしば言われます。まさかこんな場所にクマゲラの巣があるなんて思いもしませんでした。本当に申し訳ないことをしました。

角度のせいで、巣穴の中を直接見ることはできませんでしたが、この一羽のクマゲラのメス以外には何もいないようでした。繁殖期は4月以降なので、つがいを作って卵を産んだりするのは、まだかなり先のことだと思います。

だから、このメスの単身住宅だったのかもしれませんが、どんな鳥も住みかの近くに人間が来たらストレスでしょう。それで、撮るのをやめて引き返しました。

立ち去ってしばらくすると、あれほど鳴いていたクマゲラの声も聞こえなくなったので、やっぱりわたしのせいだったようです。絶滅危惧種なので、悪い影響がなければいいのですが…。

でも、できることなら、このクマゲラには別の場所に巣を作ることをお勧めしたいです。たまたまわたしがここを訪れただけではないからです。

夏には近くまで草刈りが入りますし、すぐ脇に車が行き来する林道があります。おそらくわたし以外にも、繰り返し誰かが近くを通ることになります。きっと落ち着いて子育てできないでしょう。

クマゲラを見れたことは、本当にすばらしい体験でしたが、手放しに喜ぶわけにもいかず、ちょっと複雑な気持ちでした。人も動物も生きづらい時代になったものです。願わくは、場所を変えてでも平穏に子育てしてほしいところです。

帰り道は、空が曇ってきて風も強くなり、表の吹きさらしの林道を歩くのは気が引けました。それで、森の中を通って帰ることにしました。途中、木の上に中くらいの大きさのシルエットが見えたので撮ってみましたが、逆光でよくわかりませんでした。

後で明るさを調整したところ、この配色はハシブトガラ? しかし肉眼で見たとき、カラ類より明らかに大きくずんぐりむっくりしていて、動きも鈍く、どんくさそうでした。

ということは、いつもあのあたりでハリギリの実を食べていたウソのメスかな?と調べてみたら、当たりでした。何を食べているのかよくわかりませんでしたが、シナノキあたりの互生の冬芽に見えました。

ウソはオレンジ色の胸当てをつけているオスの印象が強いので、地味なメスのことは頭から抜けていました。ハシブトガラの配色に近いことを意識できたのは、新たな発見です。

2022/03/21月

最後の干しポルチーニのスパゲッティ

ここのところ、異常に寒くて寒すぎて、日記を書く気が起こりません。部屋でPCの前に座っているのが本当に寒いのです。

寒いのは雪が解けてきたせいです。断熱材として優秀な雪が深い真冬は、マイナス二桁気温に反して寒くありませんが、初冬と晩冬の雪が少ない時期は本当に寒いです。

かといって燃料高騰の昨今、ストーブの設定温度を上げるわけにもいきませんから、服を着込むしかないですね。

さて、今日の晩ごはんは、昨秋に採ったポルチーニ(ヤマドリタケモドキ)のパスタでした。干して保存して、ちょっとずつ食べていましたが、名残惜しくも今回が最後です。

果たしてこの香り高いキノコを再び採れる日は来るのだろうか…。もしかすると今生の別れかもしれないと思うと、物悲しくもなりますね。まあ心配しないでも、また見つかるでしょう。今年採れるとは限りませんが。

厳格ではないものの一応ベジタリアンなので、肉は入れていません。でも見てのとおり、スライスした乾燥ポルチーニはしわしわの見た目になっていて、まるでベーコンのように見えます。

少なくとも料理の見た目、食感、味の点では、キノコがあれば肉は必要ないという確信を日に日に深めています。さまざまな食感や旨味のキノコがあるからです。もっとも栄養面は豆など別のタンパク質で補う必要があるでしょう。

2022/03/22火

森のアカゲラ。クマゲラはもういなかった

クマゲラがいた場所を遠くから確認しようと思い、一昨日と同じ場所まで行ってみました。もしまたいるようなら、刺激しないよう立ち去るつもりでしたが、まったく見かけませんでした。

それで、前回入っていかなかった谷をスノーシューで下り、クマゲラがいたシラカバの木を別の角度から観察してみました。すると、やはり巣穴のような空洞があったことがわかりました。

Webでクマゲラの巣を検索すると、これと非常によく似た穴の写真が出てきます。樹種は違っていても、大きさや形からしてクマゲラが巣に使っている可能性は十分にありそうです。

今回、たまたま留守だったのか、それとも別の巣を探しに行ったのかはわかりません。できれば、別のもっと良い場所に見つけてほしいと思います。この場所だと、周囲の木々の葉が茂る5月中旬ごろまでは落ち着けないでしょう。

一昨日と違って、今日の森は意外なほど鳥が少なく、拍子抜けでした。時間帯は同じなのに、なぜなのでしょうか。一昨日はやや吹雪でした。一方、今日はやや風が強く、木々が軋んで揺れていました。

唯一姿を見せてくれたエゾアカゲラのオス。クマゲラがいた場所の少し手前の広葉樹林を、せわしなく飛び回っていました。

2022/03/23水

公園でシマエナガの群れに遭遇

夕方ごろに公園に行きました。まだ一面が雪で覆われていますが、堅雪になっているので、スノーシューなしでも、ほぼ問題なく歩き回ることができました。

ヨーロッパトウヒ林のあたりで見かけたシジュウカラ。

広葉樹の幹に止まっていたハシブトガラ(ないしはコガラ)。

シマエナガがとても多く、あちこちで群れを見かけました。かなり近くで見る機会にも恵まれて楽しかったです。

ジュリジュリ聞こえてくる声のほうを見ると、遠くのほうで白い雪の粒が舞うかのように飛び回っていました。

ものすごい恰好で止まっているシマエナガ。真下から見ているようなアングル。

公園のニシキギの冬芽。枝の翼ですぐニシキギだとわかりますが、冬芽だけだと判別がつかないかもしれません。毎年見るたびに新鮮に感じてしまうので、つい写真を撮ってしまいます。

近所に咲いていたノリウツギのドライフラワー。秋頃からずっと撮ろうと思いつつ、自動車道路の脇なので、面倒臭がってしまい、今頃やっと撮影しました。

森の中で見かけるノリウツギは、冬芽はあっても、花が残っているのは見たことがありません。しかし、このノリウツギは、なぜか、花がすべて落ちずについたままドライフラワー化しています。なぜなのか理由はわかりません。

2022/03/24木

公園にいたマヒワ

家の裏の公園に散歩に行ったら、カラマツ並木にマヒワの群れがいました。スキー場は土曜日で終了だそうです。

2022/03/25金

オホーツク海の鳥たち

晴れていたのでオホーツク海まで行ってきました。去年も3/20に行っており、流氷が来ていました。今年は残念ながら、流氷はもう長い期間、接岸していませんが、海鳥に期待して行ってみることにしました。

いつもの南斜面にいたエゾシカの群れ。一段と数が増えました。

車で走っていると、道路脇によくエゾシカがいます。2回ほど丸まっているキツネも見かけました。安全運転が大切です。

道路脇にいた2頭のエゾシカは、去年生まれの若いシカたちなのか、全然警戒心がなく、車を止めると、ほんの5mくらいのところで相対しました。それ以上近づいてくることはありませんが逃げることもなく、きょとんとしていました。

何度か山間部を優雅に飛んでいるトビを見かけました。見かけるたびに、今回もトビかな、と思っていたら、尾が白っぽいのもいました。肉眼では白さが足りなく思えたので、やっぱりトビか、と思いましたが、後で写真を確認すると尾の形からオジロワシだったことがわかりました。

オホーツク海に到着。まだ雪が残っている岬。

打ち上げられた流氷が残っていた岩礁海岸。

スカッと爽やかに晴れた岩礁海岸。

真冬に流氷を見に来た時にもいたシノリガモ。

カワウ? ウミウ? 海辺の岩礁海岸で目撃したし、かろうじて見える顔が、白い部分が大きいように見えるので、ウミウでしょうか。

強風が吹き荒れる岬に生えていたハナゴケの仲間の地衣類。おそらくトナカイゴケ?

去年調べたことが正しければ、オオロウソクゴケ科のアカサビゴケ。

カモメが食べたウニの殻。岩礁海岸には、岩の上や隙間に、大量のウニの殻や貝殻が落ちて挟まっていました。食べ散らかしたゴミを無造作に捨てていくところは人間と同じですが、すぐリサイクルされる素材なので問題ありません。

岩礁海岸の潮溜まりに生えていた海藻類。名前を知りたいと思いつつ、何もできないまま時間ばかり過ぎていきます。

フジツボと一緒に大量に岩場にくっついていた巻き貝。タマキビの仲間でしょうか。

似ているけれどどこか違うカモメたち。

全身真っ白なのはシロカモメの若鳥? カモメ類は年齢によってかなり見た目が変化するので、じっくり腰を据えて調べないとわからないかも。

他に比べて薄汚れたような色合いのカモメもちらほら。ウミネコやセグロカモメの若鳥でしょうか?

オジロワシ。漁港の上を、カモメ、トビ、カラスなどに混じって飛び交っていました。カモメに比べると、細かい旋回や動きは苦手そうで、バサバサと必死に翼を羽ばたかせていて、いつもの優雅さはありませんでした。

漁港の湾内にぷかぷか浮かんでいたコガモ。

すぐ近くの欄干に止まっていたウミネコ。ネコのような鳴き声のほか、足が黄色く、黄色いクチバシの先端に赤と黒の点があるのが特徴。一方、セグロカモメの足はピンク色です。足が黄色いキアシセグロカモメは北海道には来ません。

浅瀬にたむろしていたカモメの仲間。色も大きさも遠すぎてわからないので、種類は不明。

拡大してみても、微妙に解像度が足りません。クチバシにあまり色がついていないようにも見えますが…。

帰り道でもやっぱりあちこちにエゾシカたちがいました。サファリパークな季節です。何頭かのオスが連れ立った群れの中に、立派な角をもつシカもいました。

最近のわたしは、輪をかけて安全運転になり、山道では40~50キロくらいしか出さないので、帰り着くころにはすっかり日が落ちていました。シカたちは、朝から夕暮れ時に至るまで、ずっと道路脇の斜面で草をはんでいたようです。

2022/03/27日

自転車のタイヤ交換。アオサギとムクドリ現る

そろそろ雪解けが進んで、おもな道路の路面はすべて見えるようになりました。もうスパイクタイヤの自転車で走れないので、タイヤ交換しました。去年は3/16に夏タイヤに換装していました。

換装した夏タイヤで公園までサイクリングしましたが、異常に風が強く寒かったので、すぐに帰ってきました。でも、帰り際に、見慣れない大きな鳥が一羽、空を横切りました。カラスかと思いましたが、よく見るとアオサギでした。

近くのアオサギのコロニーに飛んでいったのかもしれません。記録を調べてみたら、去年も24日に帰ってきたのを目撃していました。今年は去年よりやや雪解けが遅い気もしますが、鳥たちはほぼ同じ時刻に渡ってくるのですね。

公園の前の電線にはムクドリも止まっていました。去年の記録でも、アオサギとムクドリを同時に目撃しているので、ほぼセットで同じ時期に現れるようです。

2022/03/29火

アオサギの大群が巣に向かう

昨日、近所のアオサギのコロニーまで行ってみましたが、昼間だったからか留守で一羽もいませんでした。まだ子育てシーズンではないので、昼間はエサを探しに出かけているのかもしれません。

今日は都市部まで用事で出かけたところ、もう一つのアオサギのコロニーのあたりの空を、カラスやムクドリの大群のようなものが横切っていました。場所が場所だけに、まさかと思い目を凝らすと、なんとすべてアオサギでした。

ここまで多いアオサギの大群は見たことがありません。壮観でした。ここのコロニーも、さほど大きくないと思っていただけに、この数は予想外でした。今年は例年に増してアオサギの飛来数が多いのかもしれません。

川沿いの日当たりのよい場所のニワトコの芽が、かなり膨らんでいました。もう数日で芽吹くでしょう。

農作業のお手伝いも始まり、今日は強風の中で、ビニールハウスの正面の設営を頑張りました。

写真は撮れませんでしたが、カラスが巣作りに忙しく飛び回っているのを見ました。何かミミズのようなねじれた細いものをくわえていて、いったい何だろうと思ったら、ヤマブドウの巻きひげだったようです。

また、これも写真には撮れませんでしたが、ホオジロが来ているのもちらっと見ることができました。

川の雪もかなり解けて、昼間は青空が川面に写り込んで、河川敷の白い雪との対比が、一年で最も美しいと感じさせるほどでした。運転しながらだったので、その風景は撮れませんでしたが、夕方の帰り道で風景を写しました。

ところで、去年の秋に採ったホオノキの実の殻でお茶を飲んでいるのですが、なぜか今回は味がよくありません。変なえぐ味があり、コブシの樹皮のお茶の味に近いような気がします。良い香りがかきけされてしまっています。

何回かお茶を出した後に抽出できる残り香は、いつも通り甘くて良い香りなので、えぐ味さえなんとかなれば問題ないようです。今どき、ホオノキのお茶なんて飲んでいる人はめったにいないので、理由を調べようにもわからないのが残念です。

2022/03/30水

フキノトウ発見。ホオジロも見かけた

そろそろ雪が解けて地面が見えてきました。それならもしかして、と探してみたら、家のすぐ近くに出ていたフキノトウ。

去年の日記より2週間ほど遅いですが、今年はあまり積極的に探していなかったからだと思います。去年より雪解けはやや遅いですが、1週間程度でしょう。去年が早すぎたともいえます。

近所をサイクリングしていると、強風のせいで鳥は少なめでしたが、昨日見かけたホオジロがいました。今回は写真に収めることができました。これから初夏にかけて何度も何度も見かける鳥です。

庭はまだ9割以上雪に覆われていますが、部分的に地面が見えていました。常緑多年草のツルマンネングサが元気そうな姿を見せ、ほかにももやしのような芽が。よく見ると葉の形からしてオダマキかなと思いました。

去年の日記を見ると、3/31には庭のフクジュソウが咲いていましたが、今年はまだ雪に覆われているので遅くなりそうです。と言っても連日の陽気ですぐに溶けるでしょうから、きっと数日程度で春の花々が咲き始めるでしょう。

2022/03/31木

エゾノリュウキンカのつぼみが出現。またクマゲラに遭遇

かなりいい天気! そろそろ春めいてきた3月最終日。雪解けと共に湿地になるほうの森に、春の兆しを探して森歩きに行ってきました。

もう春なので、もちろんヒグマも目覚めているはずです。それで、今年初めて、杖に熊鈴をジャラジャラと結びつけて出かけました。鳥の観察は難しくなってしまうけれど、安全のためには仕方ありません。

まだ森の中の大半は雪に覆われていますが、ところどころ解けて地面のぬかるみが見えている場所があります。そして、このような場所にいち早く顔を出しているのが…

春を告げる代表的な山菜であるエゾノリュウキンカ(通称ヤチブキ)です。キャベツのような彩度が高い黄緑色なので、まだ緑が少ない森の中でひときわ目立ちます。

そろそろ芽吹いているかな、と思ってはいましたが早いですね…。去年も4/1に確認しているので、春の訪れの速度はそれほど例年と変わらないようです。

さすがにまだ葉っぱだけかと思っていたら、毎年エゾノリュウキンカやギョウジャニンニクを採っている斜面には、もう立派なつぼみをつけている個体も見つけました。早い。

大きさは手と比較するとこの程度でしかなく、まだまだ山菜採りには早いです。4月中旬ごろからがシーズンです。今年はワクチン3回目で寝込んでいる予定なので、あまり採れないかもしれません。

森の奥の池もかなり雪解けしていました。冬の静寂が終わり、いよいよ春の目覚めの植物たちの大爆発が始まりつつあります。名残惜しいですが、眠りに就くべき時もあれば目覚めるべき時もあります。それが生きているということだから。

この池からもう少し進んだところが、先日クマゲラの巣らしきものがあったエリアです。今日は、巣の前を通りかかったときは、クマゲラの気配はなく、やっぱりもう移動してしてしまったのだろうか、と思って通り過ぎました。

ところが、そこから帰りの林道を歩いていると、頭上をピロロロ、ピロロロという鈴のような声を響かせながら、何か大きめの鳥が飛んでいきました。もしかして初めて見る鳥なのか?と思いましたが、やがて向こうのほうから、ケーンケーンという聞き慣れた声が。

そうでした。クマゲラは飛んでいる時は、鈴のような声で鳴くのでした。降り立ったクマゲラは巣がある場所の近くの木に止まったようでした。今回は刺激しないように、極力近づかず、最大望遠で遠巻きに観察しました。

あまりに遠すぎたせいで、目視ではクマゲラの位置がわかるのに、カメラで撮ろうとすると、どこにいるか全然わからず、1分くらいもたもたしてしまいました。やっとこさ見つけて、わずかな時間動画に撮れましたが、すぐに巣の方向へ飛び去ってしまいました。

場所が場所だけに、前回見たクマゲラと同一個体なのは間違いないでしょう。絶滅危惧種なので、同じ場所にたくさん別個体がいるほど個体数は多くないからです。かろうじて確認できる頭の色も後頭部だけ赤いように見えたので、同じメスと思われます。

もし、これからもあの場所で巣作りするようなら、また出会うチャンスもあるかもしれません。今回と同様に、ストレスにならない程度に遠くから観察できれば嬉しいです。

帰りの林道では、もうこんなに立派に花が開いているフキノトウも見つけました。

初フキノトウを見つけたのは昨日とかなり遅かったですが、これだけ大きな個体がある以上、先週にはもう出ていたのでしょうね。

ネコヤナギが開花。オジロワシやシジュウカラもいた

まだ帰りたくなかったので、ほかにも春の兆しを探しに、公園に向かいました。その途中、真っ白な牧草地に何かいるのに気づいて、カメラを向けてみました。

やっぱりキタキツネ! 今年の冬はあまり姿を見かけませんでしたが、やはり秋と春は見かける頻度が増えます。エゾシカも多くなってきたし、キタキツネも見かけるようになれば、それだけ暖かくなってきたということでしょう。

公園では、春の鳥がいないかとあたりを散策して回りました。でも昨日と同じく、ヒヨドリくらいしか姿を見かけません。鳴き声を聞く限り、別の鳥も多少混じっていそうなのですが、姿を見かけません。

そのとき、向こうのほうのアカマツ林で、何かが木の陰で動いたのに気づきました。一瞬大きさや動きからエゾリスではないかと思いました。去年の秋もここで見かけたからです。

でも、慎重に近づいてカメラを向けたところ、リスではなく鳥でした。カラスのように見えましたが、さらにじっと観察していると、ミヤマカケスだとわかりました。公園にカケスが来ているのはちょっと珍しいかも。

地面に落ちている何かをせっせとついばんでいる様子だったので、邪魔しないように、遠くから写真や動画を撮るだけにしました。松の実を食べていたのかもしれません。

結局、公園では特にこれといって発見もなかったので、アオサギのコロニーも見に行きましたが、また留守でした。

それで、そのさらに先にある橋まで行って、川を見下ろしました。すると、カラスに混じってアオサギが飛んでいくのが見えましたが、カメラは間に合いませんでした。

川を眺めていると、何羽かカモもいるようでしたが、警戒心が強く、すぐに遠くに飛び去ってしまいました。しばらくして、空を大きなトビが飛んでいるのが見えたので、カメラを向けてみたところ、意外にもオジロワシでした。

もう春だから、オジロワシやオオワシはロシアに帰ったものだと思っていました。おそらく今冬最後と思われる勇姿を、こんな家のそばで見せてくれたことが、とても嬉しかったです。今ロシアは恐ろしい国になっていますが、鳥には関係ないでしょう。ぜひよい旅を。

最後に、いつも見に行っている、川沿いのネコヤナギも見に行ってみました。去年は28日には咲いていました。今年もエゾノリュウキンカが出ていることからして、もう咲いているのでは?と思ったら、

ちょうど、今まさに咲き始めたところだったようです。去年3/28に同じ場所で撮った写真と比較すると、開花の速度は明らかに遅いことがわかります。去年は常識はずれの早さで春がきましたが、今年は1週間程度は遅いようです。

雄花の先端の様子。そういえばヤナギハンドブックに、雄しべだか雌しべだかの先端の形状が種類の見分けに役立つと書いてあったような…。今度改めて調べてみたいです。

そのすぐ後ろで、シジュウカラがしきりにさえずっていました。聞いたことのない鳴き声が面白かったので、動画に撮ってみました。かろうじて音は入ったと思います。覚えられる気はしませんが…。

シジュウカラはずっと、わたしのすぐそばを飛び回っていて、やがて地面に降りて何かを一心不乱に食べていました。シジュウカラの舌が写った貴重なショット。

何を食べていたのかは不明。イケマの実とか? シジュウカラが立ち去ったら調べてみようと思いましたが、延々と食べ続けていて、2分くらい動画を撮ってもまだ食べていたので、邪魔するのも悪いと思って立ち去りました。

クマゲラも、ミヤマカケスも、シジュウカラも、厳しい冬を乗り越えて、一生懸命それぞれの営みに専念していることを思うと、人間が邪魔するのは申し訳ないと思ってしまいます。それぐらいの距離感と敬意をもって付き合っていきたいです。

それにしても、本当に春ですね…。いよいよ忙しい時期がやってきました。虫との闘い、ヒグマやマダニの緊張感…。覚悟を決めなければなりません。

3月のまとめ

低調だった2月に比べ、少し持ち直した感がある3月でした。

上旬には、今まで行ったことのない林道もかなり探索できました。…でもどうせなら1月や2月に発見しておきたかった。来シーズンの楽しみに取っておくことにします。

去年と同じくオオワシやオジロワシに遭遇できましたし、何と言っても2度目のクマゲラを至近距離で見ることができたのは素晴らしく幸運でした。

ようやく調子が上がってきたところで冬が終わってしまい、後ろ髪を引かれる思いです。春が来るのは嬉しいけれど、まだ冬を堪能しきれていないし、激動の忙しい春についていけるほどエンジンがかかっていない状態です。

でも、毎年毎年、すべてを楽しみ尽くせるわけではない、ということをわきまえて置かねばなりません。自分の体力や能力の限界をわきまえて、身の丈に合った仕方で楽しむのがよいでしょう。

少しでも多くの経験を積みたいという欲求はありますが、欲張りすぎないのが大切です。季節はめぐり、今年できなかったことも、また来年チャンスがあるはずです

いよいよ来月からは春がやってきます。4月と5月は、信じられないほど忙しくなるでしょう。

ワクチン接種で体調悪化が懸念される中、できるだけ多くの山菜やハーブを採って、来冬のために保存食糧を蓄えなければなりません。時間との勝負です。気合を入れて頑張りたいと思います。

世界情勢は、ロシアのウクライナ侵略が、すでに1ヶ月以上に及んでいます。やはり短期解決とはいきませんでした。惨憺たるニュースに心が痛みます。

でも、これまでの戦争とは違って、ロシアの動向に奇妙さがあるのも事実です。もしかすると、4月以降、早い段階で大きな動きがある可能性もあります。事態を注視して、冷静さを保っていきたいです。

今のところ、生活に直接影響が及ぶのは、物価上昇でしょう。すでに小麦製品をはじめ、さまざまな製品が値上がりしています。今後を考えると、なおのこと山菜採りや畑仕事に励み、保存食糧を確保しておくのは重要に思えます。

きっとこれからもっと大変な時代になります。どれくらいの早さで世の中が変化していくかはわかりませんが、先月も書いたように、物理的にも精神的にも、できる範囲で準備はしておきたいと思います。

自然観察日記には特に関係ないですが、2月3月は、勉強の習慣も大幅に改善して、以前のような勤勉さを多少なりとも取り戻すことができました。学ぶ努力によって、自分を強化することはとても大切なので、引き続き進歩できるよう努めたいと思っています。

 

先月・翌月へのリンク

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投稿日2022.03.03