心のこもった朗読や演劇をするときに、わたしの「色のなさ」が役立ってきたらしい

わたしは、子どものころから、朗読や演劇が上手だと、よく言われてきました。

覚えているのは小学生のころ、国語の授業で「ちいちゃんのかげおくり」を読んでいたころ、当時の担任の先生にべた褒めされて、やたらと持ち上げられたことです。

それからも、朗読や演劇やスピーチなど、人前で何か読んだり演じたりするのは、妙に褒められる傾向がありました。普通にやってるだけなのに、声優みたいだとかアナウンサーみたいだとか言われて、なんだか妙に目立ってしまうのです。

自分では特に上手い気はしませんし、ぶっちゃけ、わりと適当にやっているだけのことも多いので、不相応というか、きっとお世辞か過大評価じゃなかろうか、とずっといぶかってきました。

でも、最近になって、このいつの間にか勝手に役に入り込んでしまうのは、わたしの特性なのだろうなーということに気づきました。

この前、解離の舞台という本を参考に、わたしは「色がない」タイプの人間だ、ということを書きました。自分の色がなく、透明で、環境によってどんな色にでも変化してしまいます。

「色がない」わたしは自分が描く空想世界の中でだけ虹色でいられる
わたしは「色がない」から「虹色」の空想世界を描き続ける

その本によると、わたしの「色のなさ」は、他の分野での才能、つまり絵や文章の空想的な創作力とも、何かを演じる能力ともつながっている同じ根っこなのだそうです。

多彩な色を身にまとうことはできる。そのなかに溶け込み、演じ、かぶることはできる。

しかし、自分の色を「もつ」ことができないでいる。多彩な色は自分がもつ色ではなく、他者がもつ色でしかない。(p39)

幼少時から空想の舞台をありありと思い描き、人と話しているときでも状況とはまったく関係ない夢想に耽っていることが多い。

また実際に演劇を好み、舞台で活躍したことがある人も多い。(p50)

「色のなさ」と演じる力のつながりについて考えるうちに、わたしの朗読とか演技が、どうして上手いと言われやすいのか、理由がうすうすわかってきました。

褒められるとき、よく「感情がこもっていて上手い!」と言われるのですが、わたしの分析だと、どうもその逆です。

役者というのは、おそらく、感情を込めて演じてはいけないのだと思います。言い換えれば、自分の色を込めてはならず、透明でなくてはいけません。

どうして感情を込めない透明な演技が、逆に心がこもっていると思われたりするのか、そして透明な演技をするにはどんなテクニックが役立つのか、わたしはプロの役者でも何でもありませんが、最近気づいたことを書いてみようと思います。

気持ち悪い演技をしていることに気づかない

わたしは、これまで、いろんな人のスピーチや朗読を聞く機会がありました。その中には、ただ無味乾燥に淡々と読むだけの人もいれば、妙に熱い気持ちがこもっている人もいました。

よく目にする失敗は、

淡々と読む→もっと感情を込めて!と言われる→思いっきり感情を込めて読む→なんか読み方が気持ち悪い…

となってしまう人です。感情を込めて読もうと意識するあまり、どうにも読み方が聞いていて気持ち悪いというか、おおげさで不適切に感じられるのです。これは朗読でも演技でも同じでした。

なお悪いことに、この落とし穴にハマっている人たちは、自分の演じ方が気持ち悪いことにまったく気づいていないことがほとんどです。

本人は、しっかり感情をこめて、情熱たっぷりに読んだ!という達成感に浸っているようで、こもっている感情がずれていることに気づいていません。それで、回数を重ねるごとに悪化して、気持ち悪さが定着してしまう人さえいます。

このことに気づいてから、わたしは、自分が演じるときも、気持ち悪くなっていないかどうか、気をつけるようになりました。知らず知らずにうちに、感覚が聴衆とずれていないか、ということです。

舞台の上にいる自分は、この感覚のズレに気づけず、自分の演技に酔ってしまうことさえあるので、認識のずれに気づくには、客観的な目が必要になります。

方法のひとつは、だれか信頼できる友人に見てもらっていてアドバイスしてもらうことですが、これはおすすめしません。自分の目で自分の演技を見、自分の耳で自分の話し方を聞かないかぎり、ゆがみは実感しにくいものです。

そこで役立つのがデジタル機器です。

ボイスレコーダーやビデオ録画を活用する

スピーチする人や、演劇、朗読をする人にとっては、もはや定番といえるアドバイスが、自分の演技を録音・録画することです。

この方法は、良い演技をするために絶対不可欠なものですが、ずっと上達しない人に限って、いつまでもこれをやろうとしないことが多い気がします。

試しにスマホのボイスレコーダーで、自分の朗読を録音してみるとわかりますが、最初はあまりの下手さに驚くと思います。自分の声でないように思えてヘコむかもしれません。

特に、自分ではすばらしい感情をこめて生き生きと読んでいると酔っている人ほど、自分の実感と現実とのギャップに打ちのめされるでしょう。

あまりに実感と違うので、ボイスレコーダーの感度が悪いせいだと責任転嫁する人もいますが、現実をちゃんと見て受け入れることが肝心です。ボイスレコーダーに録られた自分の声こそが、聴衆が聞いている声です。

演劇の場合も同じで、スマホのビデオで録画すると、あまりに自分の動きがこっけいで、目を背けたくなります。でも、みんなが見ているのは、そんな自分の姿なのです。こればかりは疑いようのない事実です。

もし、録音・録画した自分の演技に違和感があるなら、それは変な感情がこもっていたり、不適切な動きをしていたりして、演じている自分と見ている人との間に感覚のズレが生じているということを意味しています。

ボイスレコーダーやビデオカメラという客観的な目を通して、自分の演技を分析するなら、聴衆の視点に立ってこの感覚のズレを修正していくことができます。

感情を込めてはいけない理由

わたし自身、これをやってみて気づいたのは、自分でうまく読もう、演じようと思っているときほど、気持ち悪い演技になっているということです。

小学生のころのわたしは、それこそ何も考えず無心に読んでいました。うまく読もうなどとひとかけらも考えず、ただその情景に没頭して身を委ねていました。

ところが、高校生くらいになると欲が出てくるというものです。みんなに上手いと言われるものだから、そうか、ならもっと上達してやろう、なんて意気込んで演じるうちに、自分でも知らず知らずのうちに気持ち悪い演技に偏っていました。

たとえば、わたしはよく声優の声真似をして遊んでいました。好きな声優の名セリフを真似てみると、意外にイイ線をいっているように思えたりするものです。

それで、その声優のような声色で朗読したり演じたりしてみると、我ながらカッコイイ気がして嬉しくなります。

ところが、それを録音・録画して後で再生してみると、自分が思っていたイメージとはかけ離れた、なんだか気持ち悪かったり、物足りなかったりする演技になっていることが多いのです。

特にありがちだったのは、気持ちを込めたはずなのに、あまり抑揚がついていなくて、一本調子になっていることでした。

上手い下手でいうと、それなりに上手いと言われるかもしれません。でも、ちょうどニュースのアナウンサーみたいに、最初から最後まで、同じ声色で、淡々と読んでいる感じなのです。

いったいどうしてそうなってしまうのか。

のどに力を入れて、特定の声を作ってしまうと、声優みたいな声になる反面、感情が入らなくなってしまいます。

役者というのは、登場人物そのものになって、自然な演じ方をしなければなりません。演じると言うより、なりきってしまわなければ、自然に聞こえません。

声色を作ったり、自分の気持ちを込めたりしてしまうと、聴衆は物語の内容ではなく、話している人自身に注意が向いてしまいます。

その結果、話している人は「上手」と褒められるかもしれませんが、本当は、話している人の上手さに注意を引いてはだめなのです。あたかも、物語の中の人物が、いまここに現れて直接 話しているかのように感じてもらわなければ、すばらしい役者とは言えません。

言い換えれば、役者は見えてはいけません。役者自身は透明になって、見えなくなって、役者の代わりに登場人物本人が見えるかのように演じなければいけないということです。

これが、最初に書いた、自分の感情をこめないほうが、心のこもった演技ができるということの意味です。自分の色をこめず、透明でいればこそ、役者の色ではなく、登場人物の色に注意を引きつけることができます。

特定の声色を作って、自分の感情を込めている役者は、自分が出している色のせいで、物語の登場人物たちの色が見えなくなっていることに気づいていません。

役者が入れてしまっているその余計な色こそが、どうにも場面にそぐわない「気持ち悪さ」の原因です。

声を作っていたり、自分の勝手な感情をこめたりしてしまう役者は、仮面をかぶって演じているだけであり、登場人物の「ふり」をしている偽物でしかないのです。

透明なればこそ、あらゆる色を反映できる

わたしは、スピーチをしたり、朗読をしたりするとき、色々なリラックス法を試してきました。滑舌をよくする口のストレッチだとか、緊張をほぐすと言われている体操だとか、リラックスするための筋弛緩法だとか。

でも、結局のところ、一番大事なのは、極力自分の色を捨て、感情も捨て、ただ物語の内容に同一化して、流れに身を委ねることです。

もっとわかりやすい言い方をすると、リラックスして気負わない、という意味でもあるのでしょう。

声優みたいなカッコいい声を作ろうとして、のどに力を入れようとしたりはせず、腹式呼吸で、かえって全身の力を抜きます。

特定の声という「色」を作ろうとせず、特定の感情という「色」をこめようともせず、自分のありのままの声を信頼します。演じる技術ではなく、物語の内容のほうに意識を向けます。

わたしはもともと色がない性格なので、意図的に色を作ろうとしないかぎり、透明に近い状態になるのでしょう。そこへ物語のイメージが流れ込むままにすれば、登場人物の抱く感情そのものが、わたしを透過して聴衆へと伝わることになります。

物語の登場人物は、ただひとつの色ということはありえません。男性にしろ女性にしろ、さまざまな登場人物が出てきます。物語の内容も、特定の色だけということはありえません。ときには激しく、ときには悲劇的に、ときには幸せになります。

自分が特定の色をこめてしまうと、それがカラーフィルターのように働いて、物語が持つ虹色の輝きが損なわれてしまいます。聴衆に届くのは、カラーフィルターを透過した一部の色だけになってしまいます。虹色の物語が単色になって、何をやっても同じ色、役者個人の色になってしまいます。

色がない状態を保たないと、虹色の表現はできません。役者が透明な透過板のように、あるいはありのままを反映する鏡のようになってはじめて、物語の持つ虹色の感動を、そっくりそのまま、聴衆に届けることができるのだと、わたしは思っています。

どうしても抽象的な精神論になってしまって、もどかしいですが、この記事に書いた点を実際的なアドバイスにまとめるとしたら、

■無理に声を作ろうとしたり、勝手に感情を込めようとしたりしない
■変な力が入ってないか、録音・録画して、客観的に評価してみる

の二つだけでいいのかなと。

そうすれば、自分の色が入り込んでしまって気持ち悪い演技になっている部分に気づき、自分の色を極力消して、物語の色だけを忠実に反映できるようになっていくんじゃないかなーと思いました。

わたしもつい、ときどき、自分の色を入れたい欲が出てしまうことがあるので、折に触れて、このポイントを思い出したいです。

投稿日2017.03.23