わたしが創作をしていてよく不思議に思うのは、絵が描けない人から、「わたしはそんな具体的にイメージできないから描けない」と言われたり、文章を書けない人から、「そこまで書くことを思いつけない」と言われたりすることです。
どちらの場合も、あたかも作家というのは、創作する前から、完成形が頭の中に存在していて、それをただ作品に置き換えているだけであるかに思われているように感じます。だから、自分には具体的なイメージがないから創作はできない、と言うわけです。
けれども、これはわたしの作家としての実感と食い違っています。確かに、わたしはもともと何かしら描きたいものや表現したいものがあって創作を始めます。しかし、創作をはじめた段階では、まだ作品の全体像は見えていません。
作品を創っていくなかで、わたしは自分が創りたかったものを発見し、自分の作品とはじめて出会います。そのときの驚きや感動が、創作の醍醐味といっていいでしょう。前に書いたように、わたしは自分の空想世界のイメージが、現実のものとして形になるその瞬間の喜びのために創作しています。
この不思議な感覚は、創作をしない人にはなかなかうまく伝えられないのですが、最近読んでいた芸術の中動態―受容/制作の基層 という本に、わたしの言いたかったことがうまく表現されていました。
もともと「表現によって知る」ということは、表現する前は何を表現したいかわからなかったのに、表現が完了すると「自分の表現したかったことはこれだ」と思えるということである。多くの人がこれを体験している。(p206)
この本では、言語学における「中動態」という概念をキーワードにして、作家が創作という行為によっててはじめて、自分が創りたかったものと出会うという不思議な感覚が解き明かされています。
それは、作品世界が、あたかも命をもって生きているかのように感じられる、というあの素敵な感覚ともつながっています。作品が作者の手を離れて、ひとりでに成長していくように感じられるからこそ、作家は創ってみるまでどんな作品になるかわからないのです。
「中動態」とは何か
この本のキーワードは、そのタイトルにあるように、「中動態」という概念です。「中動態」とはいったい何なのか。それは以前にも説明しましたが、「能動態」でも「受動態」でもない第三の態です。
わたしたちは、子どものころから学校で、「能動的」か「受動的」かの二項対立の思考を学びます。積極的⇔消極的、ポジティブ⇔ネガティブと同じように、自分から「能動的」に行動するのは良いことで、「受動的」に振る舞うのはあまりよくないと教えられがちです。
でもこれは、近代になってアメリカなどから輸入された考え方であって、昔からそうではなかったようです。世界各地のさまざまな言語には、「中動的」と呼べる、第三の考え方がありました。
能動的に「~する」でも、受動的に「~される」あるいは「~させられる」でもなく、「おのずと、自然に~になる」。そうしたニュアンスを持つのが中動態です。
この本には、例えば、日本語の「見える」という言葉が中動態であるとして、わかりやすく比較して説明されています。
われわれはふだん、「見る」と「見える」を使い分けている。例えば、「どう見ても、こうしか見えない」とか、「ぼくの答案見ただろう」「見たんじゃないよ、見えたんだ」というような具合である。
このように比較対照して使い分けられる場合、「見る―見ない」は私次第であるが、「見える―見えない」は私を超えていると思われる。
とはいえそれは、「見せられる」のように他者に委ねられているのではない。あくまで、ひとりでに見えるのである。
「見る」「見える」「見せられる」―こう並べると「見える」という語のもつニュアンスが、幾分わかりやすくなるだろう。(p8-9)
自分から進んで「見る」でも、他人に「見せられる」でもなく、おのずと自然に「見える」。これが中動態のニュアンスです。
もともと「見える」の古語は、「見ゆ」という言葉だそうで、 岩波古語辞典では「見ゆ」について、「見るという動作が、意志によらずに、自然の成行きとして成立する意」と説明されているのだとか。(p9)
「意志によらず」「自然の成行きとして成立する」。これが、中動態という概念のポイントです。こうした考え方は、特に西洋文化の影響を受けるまでの日本では、とりわけ重要で、日本人の思想形成に深く関係しているとされています。
大野は日本語に日本人の「物事を自然の成行きと捉える傾向」(同、123頁)を指摘する。日本人は物事の根本に「おのずから~なる」はたらきを見るというのである。
大野晋が日本語の助動詞や動詞に見て取った自然と作為の区別、そして「自然の成り行き=おのずから」を根本的なものとする(日本人の)考え方は、日本の思想や日本思想研究の領域で大きなテーマとされている。(p224-225)
考えてみれば、西洋文化では、はっきりと「神」がいて能動的に世界を創り、人類や地球は受動的に創られたものとみなされています。
しかし、日本においては、その線引きはもっとあいまいだったでしょう。「自然」という言葉そのものが物語っているように、日本人は、自分たちを含むこの世界は、「自(おの)ずから然(しか)る」もの、自然にそうなって立ち現れてきたもの、ととらえてきました。
そして、わたしが自分の創作に対して感じる思いも、これとよく似ています。
わたしは確かに、絵や文章を生み出してきた作者です。だけど、自分が創作世界に対する西洋文化的な神のような存在だとはとても思えません。ある意味、わたしは自分もまた創作世界の住人の一人であり、創作世界とともに生かされているかのように感じます。
わたしの創作作品は、自分で努力して能動的に生み出したもの、というよりは、いつのまにかわたしの内から自然に湧き上がり、おのずと形になっていったもののように思えます。
もしわたしが創作世界に対する超越的な神のような存在なら、わたしは創作することによって驚いたり感動したりすることはなかったかもしれません。意のままに自在に作品を創り出しているとしたら、そこに意外性はないはずです。
けれども、わたしは自分が創ったはずの創作作品から、いつも驚きを感じます。完成したとき、そうだ、これがわたしの表現したかったものなのだ、という出会いを経験します。こうした感覚を持っている作家はきっと少なくないでしょう。
これはつまり、創作というのは、西洋文化的な「能動的」「受動的」で割り切れる過程ではなく、古くから伝わる「中動的」な枠組みによって理解すべき行為なのだ、ということを意味しています。
創作は中動態だとみなしていた芸術家たち
この本では、自分の創作過程を中動態として表現した、さまざまな芸術家の言葉が紹介されています。
まずは、フランスの劇作家また詩人のポール・クローデル(Paul Louis Charles Claudel)のことば。
色調がたえずニュアンスのあらゆる戯れによって遅滞させられながら、じつに緩慢にひとつの輪郭や形態としてはっきりしてくる(se préciser)さまにひとはおどろかされるのである。
(……)そして、(……)自然の構成要素の共謀から横にたなびくメロディーが立ち現れてくる(se dégager)のが徐々に見えてくるのである。(p17)
彼は、自分の創作は、おのずと「はっきりしてくる」「立ち現れてくる」「徐々に見えてくる」ものだとみなしました。創作とは、最初から全体像が見えていて、ただそれを作品に加工するようなものではなく、創っているさなかに、少しずつ実体化していものです。
次に、抽象絵画の祖とされるワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky
私がかつて使用した形態はすべて「おのずと」到来した。私の眼前に出来上がった姿で立ち現れ(sich stellen)、私はただそれを写しとればよいだけであったり、あるいは、すでに制作にかかっている最中、私自身の不意をついて生じたり(sich bilden)するのだった。(p18)
カンディンスキーもまた、創作は自分が神のような立場から作り出すものだとは思っていませんでした。作家は「おのずと」「立ち現れ」る何かを写し取っているだけであり、イメージが「不意をついて生じたり」するので、驚きや発見を経験します。
カンディンスキーは、昔の記事で書いたように、自分の描いた絵から、不意に別のイメージを発見することもありました。自分が創ったはずの作品から、思いもよらないものが立ち現れてくる出会いを経験したのです。
オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)もまた創作をこう表現します。
絵を描いている間に、私のうちに色の感覚(=意味)が目覚めた(le sens des couleur s’est reveille)、それは以前より強く、別の仕方で現れる(se manifester)。
彼は独特で鮮やかな色使いで知られていますが、それもまた、自分で意識して色選びしたというよりは、おのずと自然に立ち現れた色を表現していたのでしょう。
ドイツの画家また彫刻家でもあるマックス・エルンスト(Max Ernst)もこのように言います。
詩人の役目は、自分のうちでおのずと考えになること(ce qui se pense)、おのずとことばになること(ce qui s’articule)を書くことにあるのですが、それと同じように、画家の役目は、自分のうちでおのずと見えてくるもの(ce qui se voit)を囲い込み、投射することなのです。(p99)
詩人であれ、画家であれ、作家はすべてを意図して作品を創り出すのではなく、おのずと現れる何かを囲い込んで、ひとつの作品へと作り上げていく、という中動的な考え方が描写されています。
このように、芸術家たちは、自分たちの創作が、能動的―受動的という枠組みではとらえきれないものであることに気づいていました。自分が神のような超越的な立場から創作したとは思えず、自分のあずかり知らぬ場所から、作品がひとりでに立ち現れてくるかのような驚きや感動がある、だから創作はこんなにも楽しいのだ、と気づいていたのです。
「創造」が、つくり手本人にとっては「発見」と思われる―われわれはここに、制作過程の中動相を再確認することができる。
…今までなかった「何か」を「自分が創造した」とは思えない。新しく生まれた「何か」について「見つかった」と言うしかない。それでも外から見れば、あるいは後から振り返れば、それは自分がつくったことになるのだ。
「創造」は、制約から出発し制作主体の新たな成立を内に含むこのような中動的過程と考えられる。「作品」と同時に「作者」も成立してくる動的な過程である。(p177)
この「作品」と同時に「作者」も成立してくる、というのはとてもおもしろい表現です。作者は最初から作者なのではなく、創作作品を創る中で、作者になっていきます。作者が作品を創ると同時に、作者もまた作品によって形作られ、成長していきます。
もはやこうなってくると、作者―作品という枠組みで考えることにも無理があるかもしれません。最初に書いたように、作者もまた、作品世界の中で生きる登場人物のひとりにすぎないかのように、創作の中で新しい発見や出会いを経験し、成長していくからです。
作品世界は「生きている」
この作者もまた作品世界の中の登場人物の一人にすぎない、というような感覚は、実は「中動態」という概念と密接に関わっています。
たとえば、言語学者パンヴェニストは、中動態という文法の特徴をこう定義したそうです。
能動態では、動詞は、主語から出発して主語の外で実行される過程を示す。中動態はこれとの対立によって定義されるべき態であるが、そこにおいて動詞には、主語が過程の座であるような過程を示し、主語は過程に対し内的である。(p64)
ちょっとわかりにくいですが、ここでは、能動態と中動態は、対照的な特徴を持っているとされています。
さっき「見る」「見える」「見せられる」という比較で考えたときは、あたかも、中動態とは、能動態と受動態の中間であるかのように思えました。
しかし、中動態とは単に能動態と受動態のあいだに位置する概念なのではなく、能動態と真っ向から対立する、対照的な概念ともとらえることができる、とパンヴェニストは言います。
彼が言うには、能動態の「わたしは見る」といった表現の場合、動作は、わたし→対象 という一方通行になります。A→Bという一方通行だからこそ能動的か、受動的かという区別が生じます。
しかし中動態の「わたしは見える」といった言葉の場合、動作は、わたし→対象→わたし、とループします。わたしが対象を見ていると同時に、対象はわたしに迫ってきて、それによってわたしは対象を見て…、というような相互フィードバックのループが生まれます。
中動態で表される現象は、A→B→A→B→A…とずっとループし続けるので、いわゆるニワトリが先かタマゴが先か、のように、どっちが能動的で、どっちが受動的かという区別が起こりません。あるときは能動的であり、あるときは受動的でもある、という複雑な構造になります。
芸術の創作も同じように、作者→作品→作者→作品…とループし続ける構造になっています。それがさっき書いた、作者が作品を創ると同時に、作者もまた作品によって形作られ、成長していく、ということです。
だから、フランスの哲学者アラン(Alain、本名 エミール=オーギュスト・シャルティエ)は創作についてこう書いていました。
美しい詩はまず企画のうちにあって、それからつくられるのではなく、美しいものとして詩人に現れる(il se montre beau au poète)。
美しい彫像は彫刻家に、彼がそれをつくってゆくにつれて、美しいものとして現れる(elle se montre bell)。そして肖像画は絵筆の下に生まれるのである。(p103-104)
単に作者が作品を創るのではなく、まず作品のほうから作者に現れる、と彼は書きます。創作する人は、単純に能動的な立場から作品を企画して作るのではなく、作品の側からも影響を受け、フィードバックのループが生まれます。
創作をしない人たちは、疑問の余地なく、「作者が先で作品が後だろう」と言うかもしれませんが、そんな単純なものではないのです。
作者は、創作のアイデアがどこからともなく降ってくるのを経験するので、ときには「作品が先で作者はそれを形にしただけにすぎない」と感じます。
作者はまた、創作する中で、自分が作品によって形作られ、成長していくのも体験します。最初、自分で想像していた以上の先品が生まれることもあります。この本の中で引用されている小説家の保坂和志の言葉のとおりです。
書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る。(p197)
創作というのは、あるときは「作者が先で作品が後」と感じられるかもしれませんが、創っている中で「作品が先で作者が後追いをしている」ような感覚が感じられ、ニワトリが先かタマゴが先か、のような状態になっていきます。
そして、このニワトリが先かタマゴが先か、という比喩が示すとおり、このような、どちらが能動的でどちらが受動的なのか区別できないようなフィードバックループの構造は、自然界の生き物のつくりの中によく見られる仕組みです。
この本によれば、この仕組みは、生物学においてはオートポイエーシスと名づけられています。自律性をもって自己組織化し、入力と出力の不在によってループし続ける構造です。(p232)
対照的に、入力と出力がはっきりしている構造、たとえば能動的の「わたしは見る」A→Bというような一方通行の構造は、アロポイエーシスと呼ばれています。例としては自動車工場がそうだと言われています。自動車は、最初から決められた設計図どおりに工場で組み立てられるのであって、自動車が工場を組み立てるようなことはないからです。
ですから、中動態、そしてオートポイエーシスのA→B→A→B→A…とループし続ける、能動的でも受動的でもない構造は、人工物ではなく、生き物や自然界に組み込まれた特徴だとみなすことができます。
だからこそ、昔の日本人は、目ざとくも、身の回りのものを「自然」、「自ずから然る」という中動的な概念で表現しました。
中動態が自然界の特徴だということは、言い換えれば、中動的であるとは「生き物」的である、ということです。人工物のように、作って終わり、というのではなく、創られたものが「生き物」のように自律性を持って動いているように感じられる、ということです。
これは、創作に親しむ人には馴染み深い感覚なのではないでしょうか。自分の作った作品は、無機質な死んだ人工物のようではなく、まるで自分の手を離れて動き出す生き物であるかのように感じられる、という感覚です。
たとえば、哲学する赤ちゃんによると、小説家たちは、自分の創作の登場人物について、こんなふうに感じていました。
ヘンリー・ジェイムズは『大使たち』の序文で、登場人物と作者の関係をこんなふうに語っています。「いつも彼らのほうがずっと先を歩いていて、作家はずっと後ろから息を切らして追いかけていくのです」。
…テイラーは、文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。するとほぼ全員が、作品の登場人物の自律性を認めていました。
…通りを歩けば登場人物が後ろからついてくる気がする。作中の役割について議論を交わすことがある。自分は彼らの言動を書きとめているにすぎないと感じることがよくある。そんなふうに彼らは答えています。(p93)
作家たちにとってすれば、作品のなかの登場人物は、自律性を持って生きている存在、オートポイエーシス的な存在だったのです。
ヘンリー・ジェイムズの「いつも彼らのほうがずっと先を歩いていて、作家はずっと後ろから息を切らして追いかけていく」という表現はまさに、創作が、作者→作品 つまりA→Bという単純な一方通行ではないことを認めています。ときには作品→作者 つまりB→Aのように、作品が先に現れて作者は後追いをしているだけのように感じることがあるのです。
小説家以外の分野の作家たちもやはり、さっきアランが述べていたように、「美しい詩は…美しいものとして詩人に現れ…美しい彫像は彫刻家に、彼がそれをつくってゆくにつれて、美しいものとして現れる」のを経験します。
これは作家たちが、自分の作品は「生きている」もの、すなわちオートポイエーシスを備えた「生き物のようだ」と感じていることを示しています。
芸術の中動態によると、言語学者ヤーコブ・グリム(Jacob Grimm)は、この「生き物」のように生き生きして感じる、というのは、中動態という文法の主要な特徴のひとつでもある、と述べました。
真の本来的な中動態は一般に、内的な魂や身体において生き生きとlebendig生起していることを表示するためにつくられた(p135)
中動的であるとは、生き物のように感じられるということ、それ自体が、独自の魂を持って生きているかのように思える、ということです。
哲学者エルンスト・カッシーラ(Ernst Cassirer)もまたそのことを実感していて、創作とは、自分の作品が内側から生気を帯びてくるような体験だと述べました。
しかし私がこの単純な知覚体験に没頭しているうちに、すなわち素描の一本一本の線を明暗・図と地・上下といった目に見える関係に従って追っているうちに、突然、引かれた線がいわば全体として内側から生気を帯び(sich beleben)始めます。空間的対象が美的対象となるわけです。(p95)
作者にとっては、作品はただのモノではなく、生きている命なのです。創作とは、自動車工業のように、ただモノとしての制作物を作り出す行為ではなく、ちょうど親が子を生み育てるような、一つの命を生み出すような体験です。
親は子どもを生み育てるとき、子どもを自分の好きなように形作るとは考えません。親は子どもを育てると同時に、子どもによって成長させられていきます。子どもは親の思わぬ行動を見せるので、親は驚きや感動を覚えます。
子育てはアロポイエーシス的な能動→受動という一方通行ではなく、オートポイエーシス的な、お互いがお互いに影響を与え合うプロセスです。これが、ひとつの命を生み出すということです。
われわれは、ここまで中動態で捉えてきた制作過程を、「作者であることのオートポイエーシス」という視点で考察していくことができるだろう。
作者はあらかじめ作者であるのではなく、制作という産出プロセスの作動を通じて作者であり、作者になりつづけていく。(p238)
だから、わたしを含め、創作する人たちは、自分が作品世界の神の立場にいるのではなく、作品世界の中に一緒に住む登場人物の一人にすぎないかのように感じます。
確かにわたしは作品世界の出来事を書きとめて世に送り出しているという意味では作者かもしれませんが、わたしもまた作品世界によって生かされている登場人物の一人なのです。
世界とひとつになる「フロー」の脳科学
ここまでは、おもに言語学的、哲学的な観点から、創作活動の中動的な特徴について考えてきました。さすがにこの視点だけだと地に足がついていないようなあいまいさがあるので、最後に科学的な視点から少し考えたいと思います。
創作活動は果たして、哲学的な観点だけでなく、科学的な観点からも、中動的な行為だといえるのでしょうか。
わたしたちが創作活動をしているときの没頭した状態は、心理学者ミハイ・チクセントミハイによって「フロー」と名づけられています。ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? ではこう説明されていました。
中断したくない、ずっとやっていたいと強く願うような経験は、精神的快楽・肉体的快楽を含め、数多く存在する。ヘレンの全身全霊を挙げての没頭ぶりは、ミハイ・チクセントミハイが「フロー」と呼ぶ状態に似ていると言えるだろう。
フローは、芸術家が創作活動をしているときなどに感じる状態である。ふつうの人も、映画や演劇、読書、あるいはクロスワードパズルに我を忘れるようなとき、フロー状態にあると言える。(p285)
芸術家が創作活動しているときは、このフローという没頭状態にあります。フローとはとうとうと流れる川のような、淀みのない流れを意味しています。創作活動に没頭しているときは、まさに自然と流れるように心地よい集中を感じられるのではないでしょうか。
ピクサー流 創造するちから――小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法の中で、ディズニーのパイロン・ハワードは、頭を使って考えるでもなく、ただ無我の境地で流れのままに没頭しているときこそ、よい作品が作れると述べていました。これがまさしくフローです。
ディズニーで映画監督を務めるパイロン・ハワードは、ギターをならっていたとき、先生に「考えると下手になる(If you think,you stink)」という言葉を教わったという。
今でもそのイメージが強く生きており、監督としての仕事に影響を与えている。「楽器でも仕事でも、リラックスして無の境地に達し、考えなくても音楽が流れ出るようでなければいけない。
絵コンテを描くときも同じです。一枚一枚の完成度など樹にせず、ただシーンの赴くままに勢いに乗って描けたときが一番いい。経験と勘に頼ってやっているような感じです」(p297)
こうした流れのままに創作するフロー状態に入っているとき、脳はどのような活動をしているのか。例えば、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる の中で神経科学者のアダム・ガザリーはこう述べていました。
これまではトップダウン処理とボトムアップ処理は対立していると思っていた。認知機能をコントロールするうえで、基本的に両立しないと思っていたんだ。
だが、そうじゃないのかも。脳の一部がトップダウンとボトムアップの完璧なバランスをとったときに、フロー状態に入るのかもしれないよね。(p78)
彼は、雄大な自然の中で、写真撮影に没頭しているとき、フロー状態を経験しました。神経科学者として彼は、フロー状態とは、単なるトップダウンでもボトムアップでもない、バランスのとれた状態ではないかといいます。
トップダウンというのは、たとえば上司が部下に命令するように、上から下に指示する経路のことをいいます。この記事で考えてきたことで言えば、能動的な枠組みです。
ボトムアップは逆に、上司に命令されなくても、部下たちがそれぞれ自分で動いて、いつしか上司をも動かしてしまうような、下から上に草の根的に影響が広がっていく経路のことをいいます。これは受動的な枠組みといえます。
しかし、フロー状態は、トップダウンでもボトムアップでもなく、完璧にバランスのとれた状態、つまり能動でも受動ともいうことができない状態ではないか、とされています。神経科学者から見ても、創作活動のフロー状態は「中動的」なのです。
おもしろいことに、 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 という本では、わたしたちがフロー状態を経験するとき、脳の前部島皮質という場所が活性化して、「世界のすべてが了解できると同時に、自己と世界の境界が消える」のではないか、とされています。(p293)
「前部島皮質は、内受容と外受容の感覚、そして身体の活動状況を統合して」、「いまこの瞬間に存在している自己」という感覚を作り出している場所だそうです。(p286,291)
簡単にいうと、感覚をまとめて現実感を生み出している場所、ということです。
この前部島皮質が活性化すると、わたしたちは、よりリアルに感覚を感じ取り、「今この瞬間」に没頭します。完全に没頭すると、自我がなくなり、世界と一体化します。
考えてみてください。わたしたちは、没頭して創作しているときなど、フロー状態に入っているときは、自分の将来について思い悩んだり、過去の失敗をくよくよ考えたり、今日の晩ごはんのこんだては何にしようか思案したりしないのではないでしょうか。
フロー状態に入ったら、人は自分自身について何も考えなくなります。これが、感覚刺激と一体化しているということ、世界に没入し、ひとつになっているということです。
作家の場合、世界に没入しひとつになるとは、創作作品の世界に入り込むことを意味します。作品世界と一体化したら、もう作者か作品か、能動的か受動的か、という区別はなくなります。作品世界の住人のひとりになるのです。
作品の外側からメタ視点で客観的に眺めるのではなく、作品の内側に入って、まさに「今ここ」にいるかのように、作品世界に没頭しきった状態が、島皮質の活性化したフローです。
ですから、わたしたちが芸術作品を創作するとき、自分が作品を能動的に作っているのではなく、自分もまた作品世界の登場人物の一人であるかのように感じられるという現象は、単に哲学的な意味合いではなく、脳科学的にも説明することができます。
作家は創作することによって作品と出会う
最初に書いたように、わたしは創作しない人たちから、自分はイメージがわかないから絵や文章をかけない、と言われることにひどく違和感があります。その人たちは、創作とは、はじめから頭の中で完成しているものを単に外に出す行為だと考えているようです。
しかし、それは間違いです。作者は最初から完成図を頭の中に持っているのではなく、創ってみなければわからないことがたくさんあるからです。
頭の中にしかないものは作品ではない。意識や精神のはたらきだけで出来る作品などない。(p239)
この記事で考えたように、創作とは、自動車産業のようにあらかじめ決まっている設計図を組み立てるアロポイエーシス的な行為ではなく、作品を作る中で自分も成長し発見を重ねていくオートポイエーシス的な行為、つまり子育てのようなものでした。
自分はイメージがわかないから創作できない、という人は大勢いますが、自分は子どもをどう育てるかわからないから子育てなんてしない、という人はほとんどいません。最初から完璧な親である必要はなく、親は子どもを育てる中で子どもから学び、親として成長していくのがふつうだからです。
イメージがわかないから創作ができないと言う人は、最初から完璧な親であろうとしているようなものです。最初から完璧な作家である人なんてだれもいません。それどころか、どれだけ時間をかけても完璧な親にはなれないように、どれだけ経験を積んでも完璧なクリエイターになれる人はいません。
親はいつだって子どもから教えられるように、作家もまた作品を通して教えられます。子どもの意外な成長によって驚きや発見を経験できるのが子育ての喜びであるように、創作する中で作品に教えられ、思いもよらぬ発見をするのが、創作の喜びです。
とすればつくり手は、作品が出来上がってはじめて、自分がどのような作品をつくろうとしていたのかを知るわけだ。このようなつくり手は、制作過程を外から支配し制御する者、authorとしての作者とは言えないだろう。
…つくり手は、つくる過程を超越的な位置から能動的に支配するのではなく。過程の中動の中に巻き込まれている。
…つくり手は、どんな作品をつくろうとしていたのか、作品が出来上がらないとわからない。実在の他者とは、出来上がった作品を見て、「ああこれだ」「自分のつくりたかったのはこれだったのだ」と、気がつくようなつくり手である。(p191-192)
親は子どもを意のままにコントロールできません。子どもを意のままにコントロールしようとする支配的な親は、子どもの反発を招くだけです。同じように、作品を意のままに形作れる作家などいません。完璧な作品を作ろうとしても失望に終わるだけです。
子どもは想定外の成長を見せるからこそ、ロボットではなく「生き生き」としたひとつの命だと感じられます。作品もまた、つくり手の想定外の変化をひとりでに遂げるからこそ、無機質な工業製品ではなく、生きた魂のある創作世界だと感じられます。
だからわたしは、自分はイメージがわかないから創作できない、と言う人たちは、もっと肩の力を抜いて、気取らず創作をはじめてみればいいのではないか、と思います。
わたしは、この記事を書いた書き手ですが、最初からこのような内容になると決めて、計画して書いてきたわけではありません。
確かに、芸術の中動態―受容/制作の基層 という本を読んで、こんな記事を書きたいなという漠然とした構想は持ちました。でも細部まで決めていたわけではなく、書いているうちにどんどん考えが発展していき、新たな発見が生まれ、そうか、そうだったのか、と気づく瞬間がありました。
最初から完璧な構想があったわけではなく、書いている中で、気づき、発見し、考えがまとまっていき、やがてひとつの記事として立ち現れました。
だからわたしは、自分はイメージできないから創作しないと言っている人はもったいないと思います。創作しない人は、創作する過程の中で発見する感動を得そこなっているということだからです。
この記事のように、単に本の感想を書く、ということだけであってもそうです。本を読んだだけで満足し、感想を書かないのはもったいないと思います。感想を書いてみてはじめて気づくこと、考えがまとまることがたくさんあるからです。
わたしが好きなオリヴァー・サックスという作家が道程:オリヴァー・サックス自伝の中で、書いているように、書くという行為は、ただ文章を作るとか考えをメモするといった機械的な行為ではなく、読んだだけでは思いも至らなかったことに気づき、考えをまとめ、発展させる行為です。
私は書くという行為によって、というか書くという行為のなかで、自分の考えはこうだと悟るようだ。(p236)
本を読むという能動的行為、また本から知識を得るという受動的な行為だけでは気づけない発見や得られない感動が、書くという中動的行為の中で立ち現れます。
絵を描いたり、詩を書いたりすることも同じです。ただ頭の中でイメージするだけでそうした作品ができるわけではありません。
作家は、ただ頭の中で考えているだけではなく、創るという行為を通して初めて、自分が創りたかったものと出会うことができます。
創作とは、頭の中だけで想像できるような単純な行為ではなく、ひとつの命を生み出すということであり、実際に創作して、創ってみないことにはわからない感動や発見、気づき、そして出会いを秘めているのです。