ビアトリクス・ポターのことを知っていますか? 名前を聞いてもピンとこない人もいるかもしれません。でも、あの「ピーター・ラビット」の作家だと言ったらどうでしょう。
最近、ビアトリクス・ポターの生涯について、いろんな本を読んで、調べていました。
わたしも絵本みたいな絵を描くから…と言いたいところですけど、わたしと彼女ではずいぶん絵のタッチも方向性も違いますよね。
そうではなくて、大自然の中に引っ越した作家さん、という意味で、彼女はわたしの大先輩です。
(写真は北海道紋別郡滝上町のハーブガーデン)
彼女が大都市ロンドンの生まれだったように、わたしも日本の都会で生まれ育ちました。でも、ビアトリクスがそこに馴染めず、イギリスの湖水地方という自然豊かで風光明媚な地方に引っ越したように、わたしも去年、道北にやってきました。
ビアトリクスもわたしと同じく、大都会にいては体調が悪くなる人だったみたいです。彼女のエピソードは、詩人ウィリアム・ワーズワースとともに、わたしが道北に引っ越すときに、大いに励みになりました。あんな有名な作家がそう決断したんだから、自分もきっと間違っていないはず、と!
この記事では、わたしが調べたビアトリクス・ポターの生涯について、共感できたところなどを書きたいと思います。感受性が強い、敏感なタイプの人、自然が好きな人は、きっと「自分もそうだ」と思えるところがあるはずです。
とっても絵が好きだったビアトリクス
ビアトリクスは、かなり複雑な子ども時代を送った人です。ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)という本ではこう書かれていました。
ビアトリクスはひとりぼっちで体が弱く病気がちな子どもだった。(p22)
どうしたひとりぼっちだったんでしょうか。友だちを作るのが苦手だった? いいえ。そもそも友だちを作る機会を与えてもらえなかったのです。
ビアトリクスの時代、中産階級の家庭では、親子のふれあいがほとんどなく、子育ては乳母に任せっきりという養育が珍しくなかったようです。ビアトリクスも子ども部屋でひとりぼっちでした。
子どもは、顔は見せても声を出してはいけない、すなわち、大人の前でみだりに口をきいてはならなかったのです。
もっぱらばあやと家庭教師によって世話をされ、両親に会うために階下にされていかれるのは、なにか特別な出来事があるときか、「おやすみなさい」をいいに行くときだけでした。
たまにポター夫人が長い階段を上がって子ども部屋に来ることもありましたが、それもごくごく稀なことで、彼女は子ども部屋でのことはほとんど何も知りませんでした。(p22)
子どものころのビアトリクスは、「黴菌(ばいきん)がうつったり悪しき影響を受けるからといって」同じくらいの年頃の子どもと遊ぶことさえ許されませんでした。(p44)
6歳のときに弟バートラムが生まれ、唯一の遊び相手になりました。でも、それまではずっとひとりぼっちでしたし、弟は心の悩みを打ち明けられる相談相手にはなりませんでした。
しかも、教育係の乳母マッケンジーの育て方は「厳格でスパルタ式」だったそうです。めったに外出させられず、たまに外に出かけるときは「ものすごく着ごこちの悪い」服装を着せられました。(p24,26)
さらに、ビアトリクスは体が弱く、病気がちで、よく風邪をひいたり、頭痛に悩まされたり、ほんの若いころから関節にリウマチの痛みが出たりしていました。
そんな中、だれにも自分の本心を話すことができず、孤独なビアトリクスは、「詮索好きな目、とりわけ母親の目から秘密を守るため」、独自の暗号で日記を書いていました。(p44)
息が詰まりそうな子ども時代です。わたしの絵の「空花物語」の主人公のひとりの「ハナ」は、とても高いお城の塔の部屋でひとりぼっちで育てられたお姫さまですが、のちにビアトリクス・ポターの生い立ちを知って、なんとなく似ているなと思いました(笑)
そんなビアトリクスですが、日記によると、辛い環境でもめげない心を持った、しっかり者の少女だったみたいです。
それらを読めば、彼女が聡明で思慮深く、意志の強い少女であったこと、また、しばしば風邪と頭痛に悩まされながらも、鋭いユーモア感覚をもち、つねに日々の出来事に敏感に反応していたことがわかります。(p45)
なんでビアトリクスの暗号の日記の内容が流出しているのかって? さすがに亡くなった後の詮索好きな目からは逃れられなかったからです。
彼女が亡くなったあと、ビアトリクス・ポターの研究家によって、日記は解読されてしまいました。もしビアトリクスが生きていたらそんなことは許さなかったでしょうし、憤慨したことでしょう。
どんな場合でも他人の日記を盗み見るのは配慮にかけたことです。何より、ビアトリクスは、ほかの誰よりも自分の私生活をのぞき見されるのが大嫌いで、メディアに露出することを徹底的に嫌っていた人でしたから。(p296)
でも、今となっては、そうした資料は、生前のビアトリクスについて教えてくれる貴重な証言です。そのおかげで、わたしたちは、敏感で繊細な女性が、どのように辛い子ども時代を乗り越えて、すばらしい作家になったのか、教えてもらうことができます。
本を読み、絵を描き、物語を創った
ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)によると、ビアトリクスが逆境を乗り越える助けになったのは、空想したり、創作したりすることでした。
両親といっしょにすごしたり、勉強したりしているとき以外の長い一人ぼっちの時間に、ビアトリクスは自分だけの特別な世界をつくりだし、それにのめりこんでいきました。
観察眼のするどいビアトリクスは、生まれながらの芸術家でした。…ビアトリクスは、たいへん幼いときからすばらしいできばえの作品を残しています。
絵の題材は、自分の興味のある動物や虫や草花ばかりでしたが、絵の技術といい、感受性といい、目をみはるものをもっていました。(p12)
ひとりぼっちで遊び相手もいないとなれば、本を読んだり、空想したりすることが唯一の気晴らしになります。
かなり前に、心理学の「空想傾向」の記事でもビアトリクスのことをちらっと書きました。
孤独でストレスの多い子ども時代を送った人は、空想の世界に逃避しがちです。そのときの空想は、のちに作家として活動するときに役立つことがあります。
わたしも、ビアトリクスとはまた違う理由から、あまり幸せでない子ども時代でした。家庭内や学校生活は、いつも問題だらけで、気が休まることがありません。ちょっとでも足を踏み外せば死んでしまう綱渡りをさせられているような感覚でした。
だからなのか、わたしの子どものころは、ずっと空想の世界が避難所でした。小学校のころには、現実と空想の境目がわからなくなっていて、空想の友だちの声が聞こえて、会話もできていました。
ずっと不思議な経験でしたが、のちになって、それは「イマジナリーコンパニオン」と呼ばれる心理学的な現象だったと知りました。
辛い境遇のなかで、だれも助けてくれる人がいないと、子どもは空想の中から支えてくれる誰かを作り出すそうです。
ビアトリクスの場合、イマジナリーコンパニオンがいたかどうかはわかりません。
でも、ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)によれば、彼女の作品のキャラクターたちは、わたしの作品の登場人物たちと同じく、どこからともなく現れた存在でした。
ピーターがこれほど長生きしている魅力の秘密はなんでしょう。自分でも、まったくわかりません。
たぶん、ピーターもその仲間たちも、自分のしているひとにいそがしく没頭して、ひたすらわが道を歩みつづけているからでしょうか。みんないつでも独立自尊ですから。
〈タプシー〉みたいに、みんな〈ひとりでにうまれたんです〉(アメリカの作家ストウ夫人の『トムじいやの小屋』で、奴隷の少女タプシーは出自をきかれても〈ひとりでに生まれた〉としか言わなかった)。
とりわけ名前なんかは、もう当たり前のように決まったんです! (p280-281)
自分でいちから考えたわけでもなく、意識して創作したわけでもなく。「ひとりでに生まれた」としか思えないキャラクターたちは、わたしの場合とよく似ています。前に書いた、児童文学作家のエリナー・ファージョンのエピソードとも似てますね。
だけど、ひたすら空想の世界にこもっていたわたしとは違って、ビアトリクスは、はるかに現実的な子どもだったのかもしれません。
ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)には、「日記を読んでもわかるように、ビアトリクスはロマンチストではありません」と書かれています。もっと「現実的」な性格でした。(p54,72)
わたしのファンタジーは、どこかふわふわとした夢の中のような世界観ですが、彼女のファンタジー世界は、いつだって現実に根ざした、地に足がついたもののように思えます。
わたしは大人になってから模写も練習しましたが、もともとは空想で描くほうでした。それに比べて、彼女の絵本に登場するキャラクターは、現実の動物そっくりで写実的です。
どうしてビアトリクスの絵は写実的なのか。なぜなら、彼女は子どものころ、いつも、本物の動物や植物を目の前に置いてスケッチしていたからです。
毎年夏になると、ビアトリクスの一家は、スコットランドなど自然豊かな地方に秘書に出かけました。その場所でビアトリクスは、自然のなかを探検し、たくさんの動物や植物を子ども部屋に持ち帰っては、スケッチを楽しんでいたそうです。
9歳のときにかいた毛虫はとてもこまかいところまでかきこんでありますし、1880年、14歳のときにかいたうさぎも、よく観察してかかれています。
絵をかくとき、ビアトリクスしいつもそのものを目の前にして写生しました。ビアトリクスは自分だけの動物園をもっていたのです。
ビアトリクスと弟のバートラムは、かぶと虫、毛虫、ねずみ、かえる、はりねずみ、とかげ、こうもり、そのほかどんな動物でも、手にはいるものはみんな集めていました。
つかまえた動物を、みつからないように子ども部屋へそっと運んで、長いあいだ観察し、動きやくらしぶりを記録しました。(p12-13)
ビアトリクスは、スコットランド地方や湖水地方の自然のなかを探検して、たくさんの動植物を観察し、その特徴をよくとらえて描きました。
彼女が描き溜めた細部まで正確なボタニカル・アートは、ピーターラビットの野帳(フィールドノート)にまとめられています。キノコの絵などは、写真よりもはるかにすばらしい質感や色合いを伴って、まるで生きているかのようです。
考古学品や化石でもそうですが、ビアトリクスの絵は触感に訴えるものがあります。絵を見ると、あたかも描かれた対象に触ったような感覚が得られるのです。(p181)
彼女のスケッチは、とても正確で美しかったので、のちに専門家たちからも高く評価されるようになったといいます。
1954年には、湖水地方ウィンダミアの英国菌類学学会の会員向けに、特別展が開催されました。会長を務めたF.B.ホーラ博士は次のような報告を残しています。
「最も印象に残っているのは、ビアトリクス・ポター女史のキノコの作品展です。女史は絵本作家やさし絵作家として子供の本を多数出版し、人気を博したことで有名ですが、細部まで余すところなく描かれたその作品は、今まで私が見たどんなキノコの絵よりも優れた出来栄えを誇っていると思います」。
ホーラ博士の他にも、英国菌類学学会の会員で、彼女の作品の科学的正確さ美しさを高く評価した人がいます。『道端と森のキノコ』に60枚のビアトリクスのスケッチを採用したフィンドレイ博士です。(p58)
わたしも、彼女の植物画を見てみましたが、こんな絵がたくさん載せられている図鑑なら、本当に読んでいて楽しいだろうなと思います。
今日では、図鑑といえば写真が主流ですが、科学的な正確さと芸術的な美しさをかね備えた絵は、写真よりはるかに優れているとのことでした。
必要なものを取捨選択できるスケッチの記録に比べると、写真は実用性に乏しいことが多いのです。写真は一瞬しか捕らえることができないのですが、絵画は時のうつろいを描き出すことができます。
さらに最良の写真をもってしても、画家個人の視点の代用にはなりえせん。(p164)
芸術家であり、科学者でもある
ビアトリクスは、非常に繊細な観察眼をもっていたので、ただスケッチするだけでなく、自然界の生きものの生態系を深く理解していました。
ピーターラビットの野帳(フィールドノート)に書かれているように そこには科学と芸術が同居していました。
ビアトリクスのごく初期の作品では、科学する目が創造性と同居しているように思えます。
…彼女は科学の研究においては専門家の姿勢を崩さず、鋭い分析と無比の正確さを追求しました。
ジェミマ・ブラックバーン(少し前の時代の若い動物解剖学者)のように、ビアトリクスは「科学と芸術は相いれないものではなく、科学は芸術を作り出すための基礎固めの役割を果たしている、と考える最後の世代の一人」でした。(p160)
ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)によると、若い頃は、化石、昆虫、コケや菌類、地衣類を研究テーマにしていて、専門家並みに博識だったそうです。
このころ、ビアトリクスが興味をもち熱中したものは、広範囲におよんでいました。いろんなテーマにたいへん深い知識をもっていましたが、ほとんどすべて独学によるものでした。(p89)
彼女の菌類と地衣類に対する興味は、いまや彼女にとって、追求すべききわめて重要なテーマとなっていました。彼女は自分の顕微鏡を使って胞子の研究をし、その培養までもしていました。(p91)
だけど、彼女の熱心さにもかかわらず、とても残念なことに「当時、女性は学会に出席を許されていなかった」ので、学問の世界で成功することはできませんでした。
もし時代が違っていたら、ビアトリクスは、ピーター・ラビットの絵本作家ではなく、科学者や博物学者になっていたのかも。最近わたしが読んでいたコケの自然誌という本のロビン・ウォール・キマラーみたいに。
わたしは、自分について、ビアトリクスほどの自然界に対する博識や現実に根ざした感性もないけれど、芸術と科学両方の分野に関心をもっている人間だと思っています。
このサイトの記事だって、わりと理屈っぽいというか、科学的方面からの記事もたくさんありますよね。感性と理性、両方あってはじめて創造性になると思っています。
ビアトリクスは感性と理性を両方かね備えた、本当の意味で創造性にあふれる作家でした。だからこそ、彼女の作品は、今に至るまで、傑出した存在感と人気を誇っているのではないでしょうか。
ポターの作品の世界観は空想的でありながら、現実世界と地続きです。ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)の解説で、絵本作家のいわむらかずおさんが、ビアトリクスの絵本の、こんな面白いポイントに注目していました。
ポターのおはなしに出てくる動物たちは、服を着たりしてかなり人間に近くえがかれているときと、動物そのものとしてえがかれているときがあります。
たとえば、さっきまで服を着て二本足で歩いていたうさぎが、いつの間にか、はだかになって四つ足でかけていたり、同じ場面に、服を着たうさぎとはだかのうさぎがいっしょにいたりすることがよくあります。
考えてみたら、変なことです。…でも、もしかしたら、ポターの心の中にはポターなりのルールがあったのかもしれません。絵本を読んでいて、とくに不自然さは感じられませんから。
頭で考えただけの絵だったら、こうはいかないと思います。これもまた、ポターの動物観察の中から自然に出てきたものなのではないでしょうか。(p110)
思わず「なるほど」と言いたくなります。この、空想と現実とが違和感なく同居して、地続きになっている感覚。これこそが、優れたファンタジーには欠かせないものだと思います。
前に書いたように、ファンタジーとは空想だけで成り立っているものではないからです。優れたファンタジー作家は、現実世界に対する深い知識も持っていて、読者が「本当にありそう、起こりそう」と感じられる世界観を作り出すことができます。
わたしはこれが苦手です。現実世界に対する知識が少なすぎるし、調査も根気が続かないから、どうしても、イメージだけで書いてしまうことが多いです。イメージだといくらでも都合よくかけますが、説得力が伴わない。だからふわふわした夢みたいな感じになります。
わたしは推理小説も好きですが、推理小説の中に、架空の都合のいい毒薬や突飛な物理法則なんかが出てきたら、途端に興ざめしてしまいます。
あくまで現実世界に根ざしていて、本当に存在するものを使って物語が組み立てられているとき、フィクションなのにリアリティが生まれます。
ビアトリクスは、徹底して動植物を観察してスケッチした人でした。だから、彼女の絵はちょっとした動物の姿勢にしても、関節のなりたちから、たたずまいに至るまでが「本物」です。
その物語も、現実の動物の習性に基づいています。こればっかりは、子どものときからよっぽどよく観察してきた人にしか創れません。
さらなる不幸に見舞われる
そんなビアトリクスですが、「不幸せな少女時代をおくり、おはなしを作りつづけているあいだも、ずっと幸せとはいえなかった人」だと書かれています。(p5)
あれほど子どもの心に訴えかける絵本をかいている間も、ロンドンで窮屈な生活を続けていました。
ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)をみると、なんと「ボルトン・ガーデンズの四階にあった子ども部屋は、四十七年間にわたって、ビアトリクスの遊び部屋であり、教室であり、後には彼女のアトリエ」でした。あの息苦しい子ども部屋が、です。(p22)
もうすっかり適齢期を過ぎた39歳のとき、ビアトリクスには初めて愛する人ができました。
その男性ノーマンと婚約しますが、両親は「それを阻止しようとあらゆることをしました」。相手が出版業界の商人だったので、娘には身分不相応だと考えたからです。(p134)
ビアトリクスの強い決意によって、両親は最後には折れました。でも、この恥知らずな結婚を、限られた肉親以外にはだれも明らかにしない、という条件付きでした。(p134)
ずっとカゴに入れられた小鳥のような生き方を強いられてきたビアトリクスは、アラフォーにもなって、やっと幸せをつかみ、自由になれるかと思われました。
ところが現実は残酷でした。恋人ノーマンは、悲運にも結婚直前に白血病で亡くなってしまったのです。
ビアトリクスがどれほど打ちのめされたかは知るよしもありません。ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)にこう書かれていました。
ノーマンの家族もなげき悲しんだことでしょうが、まだ家族でノーマンの死をいたむことができただけ、すくいがありました。しかし、親との約束をまもったビアトリクスのまわりには、なぐさめあう人がいませんでした。
ノーマンの死後しばらくのあいだの、くらやみのような日々の中で、ビアトリクスの気持ちがどのように変化していったのかを知ることはだれにもできません。
ビアトリクスは愛する人を失ってしまったばかりでなく、幸せな結婚の夢も失ってしまったのです。(p53)
その時期の気持ちをつづった日記は見つかっていません。ビアトリクスの人生のどん底でした。
愛する湖水地方に引っ越しする
恋人が亡くなった年、ビアトリクスは一大決心をしました。子どものころから、楽しい思い出があり、心のよりどころになっていた湖水地方に引っ越すことに決めたのです。
まず手始めに、湖水地方のソーリー村というところの、ヒルトップ農場を買いました。すぐに引っ越すことは許されませんでしたが、親元から離れた自然豊かな場所に、逃げ出せるようになりました。(p64)
そんな二重生活でも、ロンドンと違って、湖水地方のヒルトップでの生活は、自由でした。そこでビアトリクスはたくさんの作品をつくりました。
やがて、ソーリー村の生活にもなじみ、新しい友だちもできました。そして46歳のときに、弁護士のウィリアム・ヒーリスから結婚を申し込まれます。
このときも「両親のポター夫妻は、年とっていたので、前回以上に、娘を結婚させて手ばなすのをいやがりました」。でもビアトリクスは今度こそ自分の意志で結婚しました。(p67)
こうしてついに、47年間過ごした4階の子ども部屋というオリから自由になり、晴れて湖水地方の住人になりました。
ビアトリクスがロンドンを離れたかったのは、そこが親にしばられた息苦しい場所だったという理由はもちろんあるでしょう。
でもそれだけでなく、「人でごったがえし、建物がたくさんたっている」大都会が性に合わなかったのだとも思います。もし単に親元を離れたいだけだったら別の都市に引っ越せばいいだけだからです。(p14)
ビアトリクスは、子どものころから、家族の旅行で、なんどもイギリスのスコットランド地方や湖水地方の大自然を経験していました。
そうした大自然は、息苦しい子ども時代に、心ゆくまま探検し、動植物とふれあえる唯一の逃れ場でした。ビアトリクスの芸術家としての感性を育ててくれた場所でもありました。
わたしは、ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)に引用されている、18歳のビアトリクスの日記の表現が大好きです。あまりに美しくてうっとりするので、ちょっと長いですが引用させてもらいます。
森にはふしぎな妖精たちが住んでいた。老いたアルム(テンナンショウに似たサトイモ科の植物)が、草のおいしげった小道を私といっしょに歩き、庭のツゲやバラの垣根で古風な花々をつんでいた
……どの石も、どの樹木も、ヒースの香りも、耳にきこえるどんなかすかな響き、モミの樹々を吹き抜きぬける風のささやきも、私はよく覚えている。
遠雷がとどろいても、はやてが谷間を吹きあげてきても、ああ、そこはいつも美しかった。
懐かしい故郷よ……太陽が沈み、山の向こうに紫の影を落とし、その影が徐々に峡谷を下り、川面から立ちのぼる白い霧と出会う。
それから、一、二時間すると、丘の向こうから大きな中秋の満月が上ってくる。すると、妖精たちがあらわれて、なめらかな芝生の上で踊りはじめる。
ヨタカのぶきみな叫び声や、フクロウのホーホーという鳴き声がきこえ、コウモリが家のまわりを飛びかい、暗い森の奥からノロジカの声が響き、夏のそよ風のざわざわと耳慣れぬ響きが、遠くからかすかに、そしてしだいに近くきこえてくる。(p36)
なんて美しく、耳に心地よい、流麗な表現でしょう。大自然の感動が、ビアトリクスが心の奥にまざまざと刻まれていたのがわかります。
そんな琴線に触れた大自然の思い出があったからこそ、ビアトリクスは辛い子ども時代を乗り切ることができました。大人になって、恋人ノーマンの死でどん底を味わったときも、同じ大自然が、絶望的な傷を癒やしてくれました。
わたしは湖水地方に引っ越したビアトリクスのエピソードを励みにして、北海道に引っ越すという一大決心をしました。でもビアトリクスと違って、子どものころに何度も北海道に来ていたわけではありません。
でも、慢性疲労症候群を発症するわずか一ヶ月前、まだそこそこ元気だった最後の11月に、修学旅行で北海道を訪れた思い出がありました。
その日、わたしは飛行機から初めて北海道の大地を見下ろしました。それまでずっと狭い本州の風景しか見たことがなかったので、息を呑みました。延々と果てしなく、どこまでも続く平原。広大という言葉では表現しきれない自由な広がりをたたえた大自然。
降り立った北海道の地は、同じ日本でありながら、どこか異国のようでした。アイヌ文化の博物館が旅程にあったので、口琴(ムックリ)を買って、ホテルで練習しました。
別の日には、洞爺湖に行きました。秋の霧に包まれた紅葉の湖がなんと幻想的だったことか。当時のクラス詩集が残っていて、ちょうどわたしが洞爺湖のことを詠んだ短歌が載っていたのでここに公開しちゃいます(笑)
どうせ作者の名前は載ってないし、クラスのみんなのも一緒に。学校にいけなくなった後、クラスの友だちとのつながりは全部切れてしまったので、だれもここを見る人なんていないでしょう。
どの短歌がわたしのかわかりますか? ヒントは、当時のわたしは漢検準一級でした。
まあ、行ってた学校の性質がわかるというか、やたらともったいぶった難解な単語を使っている短歌がいくつかありますよね。
今のわたしだったら、そんな難解なことばを使っている短歌じゃなくて、「見てないの!? 地球岬の あの絶景 200度近くの 青一色を」なんかが好きです。だれが作ったのか知りませんが、いい言葉のチョイスですよね。
当時のわたしの作品は、漢検準一級ということで、一番ルビがふられまくってるやつ。
「沼出でぬ 流るる霧の 絶え間より 千々(ちぢ)を纏(まと)いて 幻のごと」です。あー恥ずかしい(笑)
意味を解説すると、洞爺湖に行ったとき、目の前の霧がさっと晴れて、突如として、ちりめん生地のような色とりどりの紅葉をまとった沼(湖)が現れ、まるで幻を見てるみたいに美しかった、という感動を詠んだものです。
ビアトリクス・ポターみたいな表現力はないけれど、あのときの幻想的な光景は、ずっとわたしの心に残っていました。最後の元気な時期の思い出ということもあって、北海道には憧れと郷愁が残りました。
だから、去年、もう体調がぼろぼろで、近々死ぬんじゃないかというほど追い詰められたとき、一か八かを賭けて、十数年ぶりに北海道に行ってみることにしました。ビアトリクスが、ノーマンの死という人生のどん底で、湖水地方に助けを求めたように。
わたしが向かったのは、修学旅行で訪れた地ではなく、北海道のもっと北のほうだったけど、この旅行は大成功でした。
湖水地方の大自然がビアトリクスの人生に活力を呼び戻したように、わたしは道北で息を吹き返し、そこに引っ越すという思い切った決断に至りました。
そのとき、ビアトリクス・ポターが湖水地方に引っ越したエピソードをすでに知っていたので、決断の助けになりました。感受性の強い作家にとって、都会から大自然に移り住むことが心身の健康に好ましいということを、彼女は身をもって教えてくれていたからです。
「幸せの代償」
こうして、湖水地方に引っ越したビアトリクスは、自分を縛る親元から解き放たれて、立派な紳士と結婚し、子どものときから愛してきた湖水地方に囲まれて暮らすようになり、めでたしめでたし…。
という結末になるかと思いきや、現実はもうちょっと複雑でした。確かに彼女は晩年は幸せでした。しかし、晩年幸せに暮らしたのは農婦「ヒーリス夫人」であり、作家「ビアトリクス・ポター」ではありませんでした。
いったいどういうことか。ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)に、ビアトリクス・ポターが、晩年、こんな考えさせられる変化を遂げたことが書かれていました。
けれどもビアトリクスは、自分の幸せの代償をはらわなければなりませんでした。
ビアトリクス・ポターの画家、あるいは作家としてのエネルギーが、幸せな生活でそがれてしまったのです。ビアトリクスはもう二度と、あのようにふしぎな魅力にあふれたおはなしも、絵も生み出せませんでした。
すばらしい作品を生み出していた気力は、今ではもっとべつなもの、農場を管理することや、家畜の世話をすることや、家をまもることや、ウィリアムとなかよくくらすことなどにむけられるようになったからです。(p80-81)
なんと言えばよいのでしょう? ずっとカゴの中に小鳥だった不幸な少女ビアトリクス・ポターは、ついに幸せを手に入れました。
でもそれは、作家「ビアトリクス・ポター」の終わりを意味していました。現に、晩年の彼女は、「ヒーリス夫人」(夫がウィリアム・ヒーリスなので)として知られることを好みました。
ピーターラビットの野帳(フィールドノート) にも、そのころのビアトリクスの変化についてこう書いてありました。
ビアトリクスは、満ち足りた気分でウィリアムと二人、優雅な田舎暮らしを始めました。依然、ヴィクトリア朝の娘として両親の世話に忙しい身ながらも、カースル・コテージでは、初めて経験する自由も楽しんでいました。
その後数年の間に、ビアトリクスの興味の対象は、画家兼作家としての創作活動から、農場経営、特にハードウィック種の羊の繁殖へと移っていきました。(p41)
満ち足りた生活に伴って、ビアトリクスの興味は、創作活動から、もっと現実的な日々の仕事に移っていったと書かれています。
一方で、ビアトリクス・ポター 描き、語り、田園をいつくしんだ人(福音館の単行本)によると、17歳の少女のころのビアトリクスは、自分についてこう書いていました。
私には絵を描くこと以外に没頭できることはない。絵を犠牲にすることは絶対にできない。(p52)
友だちもおらず、人生経験もなく、学歴もない。そんな少女にとって、唯一、絵を描くことだけが、自分のよりどころでした。
もしかすると、絵を描いているときだけ、自尊心を保てたのかもしれません。絵を描かない自分には価値がないと思えたのかもしれません。
また、恋人ができて婚約を目前にした38歳ごろにはこう書いています。
私は物語を創るのが大好きなのですー物語はいくらでも出てきます
ーけれども、絵を描くのがとても遅く、ひじょうに苦労します。 し
たがって、私の創作人生が長かろうが短かろうが、その終わりを告 げるとき、私が書きたいと思っている作品がいくつも未完で終わる ことはまちがいないのです。(p131)
どちらの言葉からも、若いころのビアトリクスは創作のエネルギーに満ち満ちていたことがわかります。
努力して無理に創作していたのではありません。内側から突き動かされる衝動によって、「創作せずにはいられない」、言い換えると、「創作しないと死んでしまう」ような人だったのです。
このことは、前にわたしが書いたこの記事の内容そのままです。
四六時中、創作を続ける人たちの多くは、才能があるから創作するのでも、好きだから創作するのでもありません。呼吸と同じように、そうしなければ死んでしまうから、創作しつづけます。創作することが自分の存在価値だからです。
生まれ育った背景や、独特過ぎる性格などのせいで、アイデンティティが弱く、創作しているときだけ、自分らしくあれるように感じます。創作しなかったら、自分が消えてしまいそうです。
ビアトリクスも、そういうところがあったように思います。幼いころから、ひどく生きづらい環境で育ってきたせいで、自分を表現することが封じられていました。創作は、ビアトリクスがありのままの自分自身を出せる唯一の避難所だったのでしょう。
ところが、幸せな人生を手に入れた彼女は、ありのままの自分でいるために、もう創作活動をたよりにしないでよくなりました。創作などしなくても、夫と過ごすとき、湖水地方で農作業に携わるとき、生きている自分を実感できるようになりました。
「作品を描きたいという強い衝動がもはや自分のなかに感じられないことを、彼女は自覚していました」。(p201)
「創作しないと死んでしまう」作家だったビアトリクス・ポターは、「創作しないでも生きていける」ヒーリス夫人になりました。昔の自分はなんであんなに創作できたのか、ビアトリクス本人もわかりませんでした。
ビアトリクスは、絵を描くことをまったくやめたわけではなかったのですが、翌年もそのつぎの年も、新刊本は出ませんでした。
「せめても正直に申し上げたいのですが、例の本はまだ進んでいません。
周囲の田園風景は、十分にインスピレーションを与えてくれる美しさです。でも、それを形に出せないのです。
それに、目がいつも疲れているのです……画帳をいろいろ探してみることにします。しかし、それは私に、目がちゃんとしていたときはどうしてこんなにたくさん、上手に絵が描けたのだろう、と思わせるだけかもしれませんが」。(p206)
「お話の本の〈種は尽きました〉。絵を描くための目も、疲れはてました。
でも、オークの古木や、排水路や、古くなった屋根や、じめじめした壁などは大好きで、いろいろ手をかけたくなっています。(p249)
あの「絵を犠牲にすることは絶対にできない」「物語はいくらでも出てきます
ビアトリクスは、絵や物語を描けなくなったのは、目が弱ったせいだと何度も述べています。彼女は並々ならぬ優れた目と観察力に恵まれていたようなので、その衰えが絵を描くことを難しくしたのは確かでしょう。
でも、それだけではないと思います。彼女は、リウマチや頭痛や風邪に悩まされていたころ、親にわずらわされていたころでも、旺盛に創作していたからです。
ビアトリクスは、精神分析まがいのとが大嫌いでしたから、こんなことを書いては、怒られそうですが(p251)、わたしは、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本にあった、この説明が思い出されてなりません。
ある意味、そこからくる「欠落」を心のなかに抱えていなければ、直接に生涯に寄与するわけでもない創作という行為に取りつかれ、人生の多くを費やしたりはしないだろう。
書いても書いても癒やし尽くされない心の空洞があってこそ、作品を生み出し続けることができるのだ。(p183)
心の空洞からくる、何かしらの欠落があってこそ、創作に避難所を求め、しゃにむに作品を生み出しつづけることができる。
でも裏を返せば、もしその空洞が埋められて、欠落が満たされれば、創作する必要はなくなり、その必要も感じられなくなる。こうして、作家は普通の人に戻るのです。
大自然に支えられながら創作した人
ビアトリクス・ポターの生涯を垣間見ると、わたしとよく似ているところもあれば、ぜんぜん違うところもあります。
わたしは彼女ほど現実主義者ではありませんし、細密な観察眼も持っていません。だけど、家庭事情が複雑で、創作が好きで、何より大都会に耐えられず大自然の中に引っ越してきたところは同じです。
じゃあ、わたしもやがて彼女と同じく、作家であることをやめて、大自然の中で満たされて生きる一人の人間に戻るのか。
若かりし日の「ビアトリクス・ポター」が、晩年の「ヒーリス夫人」になる自分を想像だにできなかったように、わたしも自分の将来はまったくわかりません。創作しないと死んでしまうと書いていたくせに、創作をやめて幸せに暮らすようになる可能性もあるでしょう。
しかし、ひとつだけ言えるのは、豊かな大自然の地方に引っ越したからといってすぐ創作しなくなるなんてことはない、ということ。
ビアトリクス・ポター―ピーターラビットはいたずらもの (愛と平和に生きた人びと)によると、ビアトリクスは、湖水地方に拠点を移してからも、しばらくの間は、いろいろなストレスに直面しました。出版社のごたごたとか、年老いた母親の世話とか。
そうした時期には「このようないそがしい中でも」「作品にかけるビアトリクスの気力はおとろえず」創作を続けていました。(p79)
とくに、湖水地方のヒルトップ農場で創作していたときが一番充実していたようです。
ウラは、ヒルトップはビアトリクスの隠された世界の中でも、とても重要な部分なのだと感じました。
自然と友だちになって、すばらしい作品を生み出す力となった部分、そして、ほとんどだれも、家族や友人でさえも理解できず、見ることもなかった世界だったのです。(p96)
ビアトリクスの子どものころからの創作パターンを見るに、強い心身のストレスがありながら、それを癒やしてくれる大自然がある、というときが一番クリエイティブだったようです。
ただ強いストレスにさらされているだけでは逆境に押しつぶされてしまい創作などできません。逆にただ大自然の中でリラックスして満たされているなら創作の必要を感じません。
ストレスと癒やしの絶妙なバランスが、創作のエネルギーを生んでいたのかもしれません。
そこで思い出したのが、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ) という本のこの話。
ニューヨーク州立大学バッファロー校のマーク・D・シーリー准教授(心理学)は、一定のストレスにさらされることが長い目で見れば人を強くするのではないかと考え、逆境の利点について調べている。
…どうやらゴルディロックス領域のようなものが存在するらしい【訳注 童話『ゴルディロックスと3匹のくま』で、主人公の女の子ゴルディロックスが熱すぎず冷たすぎもしない適温のスープ、ちょうどよい硬さのベッドを見つけることから、最適なレベルを意味する】。
すなわち、小児期や思春期に適度の―多すぎず、かといって少なすぎない―困難を経験すると、対処能力、回復力、そして成人後の慢性的な消耗性の痛みに向き合う力を身につけることができるというのだ。(p99-100)
ストレスや逆境は、熱すぎず冷たすぎもしない、中程度のレベルを経験するときに、かえって良い影響があるとのこと。
ビアトリクスは、度重なるストレスに見舞われても、自然界に支えられてクリエイティブに創作していたとき、こんなゴルディロックスゾーンにいたのかもしれません。
そういう意味では、わたしは今のところ、わりと中間層にいるような気がします。
わたしは自分の過去から解放されたとは思っていませんし、病気が治ったといえるほど体調もよくない。でも、ここに引っ越してきて、日々、大自然から癒やされ、生活の質を保つことができています。
去年のように生死の境にいると感じられるほど辛い体調だと、そもそも創作できません。だから、治ってはいなくても、少し体調が戻ってきた今のほうが、クリエイティブになれると思います。
ビアトリクスの人生を概観して思ったのは、明らかに、彼女の生涯を通じてずっと、大自然が創作の助けになっていた、ということ。
まず、子どものころに、大自然との出会いがなければ、彼女の感性が育つことはありえませんでした。動植物をスケッチする喜びがなければ、絵本のキャラクターは生まれませんでした。
湖水地方のヒルトップ農場での癒やしがなければ、度重なる両親による抑圧や、恋人の死といった逆境が相次いだ陰鬱な時代に、創作し続けることはできませんでした。
すなわち、豊かな大自然とのふれあいがなければ、唯一無二の作家ビアトリクス・ポターはこの世に存在しませんでした。
最終的に、彼女は満たされて創作を終えましたが、それはずっと望んでいた幸せな結末でした。
だから、わたしは、去年、ビアトリクス・ポターという人の生涯について知れたこと、そして彼女の足跡をたどって、自然豊かな場所に引っ越す決断ができたことを、よかったと思います。
ビアトリクスと違って、わたしは大自然に親しんだ年数がまだまだ浅い。だから、もっとこれから感性を磨いて、創作に活かしていきたいです。