空の青さを思うとき、わたしはそのなかに自分を委ね、この謎に身を投じた。そして空は、わたしの中で思考する。
―哲学者モーリス・メルロ=ポンティ (日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめ
p386の引用文)
わたしはもともと、空を見上げるのが好きでした。息苦しい生活の中でも、空を見上げているひとときは、辛いことから解放されるような気がしていました。
わたしはもともと大都会で育ちました。空を見るのがずっと好きだったのは、どんな大都会でも、空だけは自然のままだからなのだ、と思っていました。
わたしの創作に出てくるお姫様のハナが、幽閉されていた塔の最上階の部屋の窓から、毎日広い空を眺めていた、というエピソードは、たぶんそこから出てきたのだと思います。
でも、北海道に引っ越して来てから、考え方が少し変わりました。わたしが都会で見上げていた空は、「自然のまま」ではないことに気づいたからです。
北海道に引っ越してきてから眺める空は、都会で見ていた空とは比べものにならないほど壮大で、きれいでした。
どうして都会の空と、北海道の空はこんなに違って見えるのか。
「高い建物が少なく空が広いから」という一言で片付けてしまいたくなりますが、もうちょっと科学的にあれこれ考えてみましょう。そうやって分析してみると、絵を描くときに応用できることも見つかるはず。
なぜこんなに壮大なのか
ここ道北に引っ越してきて毎日圧倒されるのは、空の広さ、そして壮大さです。あまりに広い天球が、わたしを360度覆っています。大海原の雄大な波のごとくうねる雲の層に、思わず目を奪われます。
でも、わたしが見上げている空そのものは、東京や大阪の都市で見上げていたものと同じはず。なのに、なんでこんなに、いつ見ても飽きないほど心を奪われるのか。
最初に書いたように、「高い建物が少なく空が広いから」という理由はとても大きいでしょう。
空を一枚の大きなアートに例えてみましょう。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザです。
美術館でモナリザを見るとき、絵の前にたくさんついたてが置いてあったらどうでしょうか。ついたての隙間から絵の一部が断片的に見えます。たとえば手の一部とか頭の一部とか。それだけで、すばらしい絵だと思うでしょうか。
同じように、都会では、大空というすばらしいアートが、乱立する高層ビルによって隠されています。断片的にしか見えず全体像が見えません。確かに同じ空を見上げてはいても、そのアートとしての魅力は大幅に損なわれてしまっています。
たとえば、下の写真はつい最近撮った空です。シロナガスクジラのような風合いの巨大な雲が、とても芸術的に感じました。
でも、この「雲くじら」の全体像が見えるのは、すべての建物が低く、さえぎるビルがないおかげです。もし真ん中にひとつでも高層ビルがあれば、くじらは真っ二つに分断されてしまい、そもそもくじらっぽく見えないでしょう。
もっと言えば、この写真でさえ、わたしが見た風景の全体像ではありません。本当は、この左右にもっと子くじらのような雲が続いていて、360度にわたって大海原のような景色でした。斜めに撮っても・・・やっぱり限界が。
写真もまた一部しか切り取れないので、空というアートが断片的になってしまい、本当の感動が伝わりません。ましてやビルで虫食い状態になってしまった空はなおのことです。
だとすれば、「北海道だから空がきれい」ではないことは明らかです。北海道でも、札幌、旭川、帯広などの都市部は、いまや東京や大阪と変わらないようなビルが乱立しているので、こんな広い空は見ることができません。あくまで、もっと郊外や小さな町でのみ、こんな大空を楽しめます。
では本州の郊外でも同じなのか。まあ、基本的には同じで、本州でも郊外にいけばすばらしい空が眺められると思います。別に北海道限定ではない。
でも、北海道ならではの有利な点もあります。土地が広く、真っ平らの平野や、牧草地、田畑などが多いので、地平線まで雄大な広がりを堪能できる場所が多いからです。
さらに、わたしが住んでいる道北ならではの利点もあります。
前に書きましたが、ここは日本でも人口密度が最も小さい地域。人口が少なめであるだけでなく、土地が非常に広いからです。町ひとつで東京都並みの面積があったりします。
人口密度が小さいということは、つまり建物がまばらだということ。日本の町は、本州でも沖縄でも、また北海道の都市部でも、妙に隣家との間隔がせまく、住宅がひしめきあっているところが多いです。
家と家の間隔が狭く道路も狭いと、空を見上げても、仰角の関係で、視界が一部さえぎられてしまいます。たとえ個々の家の高さが低くても、軒下近くから見上げれば、視界はさえぎられ、空は狭くなります。だから、田舎でも、必ずしも広い空が楽しめるとは限りません。
しかし道北は、家と家の幅が広く、道路も広い。うちの町は人口数千人しかいませんが、片側2車線並みの広さの道路と、自動車が悠々と走れる幅の歩道があったりします。公共施設などの駐車場も、ものすごく広い。
これには理由があって、わたしの住む町は北海道でも有数の豪雪地帯だからです。
小さな町だと、除雪(雪を道路脇にどける)はできても、排雪(道路脇の雪を雪捨て場に運ぶ)はあまりできないことが多い。それならば、道路脇に雪をしばらくためておいて、排雪回数を減らせばいい、というわけで、道路が広く作られていると思われる。
夏場は片側2車線プラス歩道で6車線分くらいありそうな広い道路ですが、厳寒期には雪の壁で圧迫されて、都会の道と変わらない狭さになったりします。
家と家の間隔が広いのも同じような理由で、冬場は個々の家それぞれに雪捨て場が必要になります。屋根の横のスペースや庭などを、とても広く空けておくことで、冬場に雪を置いておける場所を確保しているわけです。それほどスペースがあっても雪壁になりますけどね。
こういった特殊な事情があるので、道北は、町中でも道が広くて家と家の間隔も広い。ということは、家のすぐ前からでも、視界をさえぎるものがほとんどなく、雄大な空を楽しめる、ということだったのです。
都会では、わざわざ空を「見上げ」なければなりません。上方向しか空間がないからです。しかし、ここ道北では、前をまっすぐ「見る」だけで、雄大な空が視界に入ってくる。
そして、おもしろいことに、この「見上げる」と「見る」の違いが、空のスケールを感じ取るときの印象を左右する、というのが次の話です。
月が大きく見える理由と同じ
同じ空を見ていても、垂直方向に「見上げる」ときと、水平方向に「見る」ときとでは印象が大きく変わります。
こんな体験をしたことがないでしょうか。沈む寸前の夕日を見ていて、今日の太陽はなんて大きく見えるんだろう、と思ったことが。夜空を見ていて、月がいつもより大きく感じられたことが。
月が地球に接近してほんの少しだけ大きく見えるスーパームーンというのが話題になることがよくありますが、それとは別の話。スーパームーンで大きくなる割合はほんのわずかですが、それでは説明できないほど大きくみえることがあります。
たとえば、伝記レイチェル・カーソンによれば、沈黙の春の著者である、あのカーソンも、水平線上に見えた月が「余りにも大きく、はじめはそれが本当に月であるとは信じられないほど」だったことがありました。(p205)
月の数値上の大きさは、ほぼ変化しないはずなのに、なぜ時折、妙に大きく見えることがあるのか。
その理由は人間の目の働きと心理的錯覚にあります。失われた、自然を読む力という本で、探検家のトリスタン・グーリーがこう解説してくれています。
地平線で見るとき、太陽が通常より大きく見える理由は、光学的錯覚で、心理の結果であり、外的要因によるものではない。
そう言われても、信じられないかもしれない。しかし、太陽や月が通常よりずっと大きいと次に思ったとき、簡単な実験をして確かめることができる。
腕を伸ばして、一本の指で太陽か月を指し、自分の指のどのくらいがその球体を覆っているかを見よう。腕を伸ばしたとき指先は約1度の幅だ。太陽と月は両方とも、それらを空の高いところで見るか、沈んでいくのを見るかにかかわらず、一度の半分に近い幅だ。
したがって、それらは、指の幅の約半分くらいに見えるだろう(太陽より月を用いたほうが、目にとってずっとやりやすく、安全だが、原理は同じだ)。
これを、注意深く、数度試して、空の高いところと低いとこの測定結果を比べてみたら、納得するしかないだろう。
そうなったときでさえ、この真実はときとして感情ー「あの太陽は巨大だ!」ーと一致しない。(p202-203)
太陽や月がいつもより大きい、と感じられたときには、自分の指を使って、大きさを確かめてみるといい、とアドバイスされています。そして、特に大きく見えない日の大きさと比較してみたら、特に変わりはないことがわかります。
これは同じよくある錯視の一種です。同じ大きさの図形なのに、まわりの背景のせいで大きく見えたり小さく見えたりするのってありますよね。(参考 : 錯視のカタログ )
でも、どうして、大きく見えてしまうときがあるのか。たとえば地平線近くの月や太陽は、建物などの近くにあるので見慣れた物体と比較することで大きく見えると言う人もいます。さっきのシロナガスクジラっぽい雲は、真下の家との対比で大きく見えていましたる。
でも写真などで大きく見える場合はそうですが、ふだん目視して大きく見える場合は、他の理由も関係しているでしょう。
トリスタン・グーリーは、その理由は、「われわれが世界を垂直にでなく、水平方向に見るように」特化しているからだ、と説明しています。(p203)
わたしたちは、産まれてからずっと、垂直方向より、水平方向を見ることのほうがはるかに多いものです。首を曲げて上を見上げるより、まっすぐ前を見ることのほうがはるかに日常的です。
すると、わたしたちの立体的な奥行きを感じる能力は、垂直方向より、水平方向のほうがより発達します。
わたしたちは鳥ではないので、垂直方向の高さを目測する能力はほとんど必要とされません。一方、水平方向の奥行きを感じる能力は、町中を歩くときであれ、自動車を運転するときであれ、いつも必要とされます。ずっと使っているほうの能力が鍛えられ、使っていない能力は鍛えられないのは当然です。
こうした水平方向と垂直方向の距離感を目測する能力の違いのせいで、「垂直方向に自分の上にあるものは、水平方向に見えるものよりずっと近いように見え」ます。(p203)
具体的に言うと、垂直方向の雲を「見上げる」と比較的平らに見え、奥行きが感じられません。他方、水平方向の地平線や山々との境目の雲を「見る」と奥行きや立体感を感じます。
そして、脳はここで、無意識のうちに簡単な計算をします。
ふたつのものが同じ大きさに見えても、一方が他方に比べてずっと遠く離れていると考えていると、遠くにあるほうは実際にはずっと大きくなくてはならないことを理解するように脳は習慣づけられている。(p203)
垂直方向にある月、太陽、雲などは奥行きがなく、近くにあるように見えます。一方、水平方向にある月、太陽、雲は、奥行きがあって遠くにあるように見えます。でも、脳はつじつまを合わせようとします。
あの月ははるか遠くにあるはずなのに、いつも見ている近くの月と大きさが同じだ。ということは、あの遠くの月は、いつも見ている月よりはるかに大きいのだろう、と。
これは、遊園地などに置かれている「エイムズの部屋」と呼ばれる錯視部屋と同じです。
エイムズの部屋の仕組み|南紀白浜|体験型テーマパーク|白浜エネルギーランド|エネラン
エイムズの部屋も、本当は同じ距離なのに、片方の人は近くにいるように、もう片方の人は遠くにいるように見せかけることで、近くにいる人がこびとで、遠くにいる人が巨人であるかに錯覚させます。
それと同じことが空を見るときにも起こっていて、近くに見える頭上の月は「こびと」に、遠くに見える地平線近くの月は「巨人」に見えるわけです。本当の距離や大きさは同じなのですが。
しかし、この錯視のおかげで、同じ空でも、垂直方向の眺めより、水平方向の眺めのほうが壮大に見えるという違いが生まれます。
やや垂直方向に都会で見上げる空は「こびと」の空に見える反面、水平方向に何もさえぎるものがない道北の空は「巨人」に見えます。それだけ雄大なスケールが感じられるということです。
グーリーはこの錯視を解除する方法も書いています。垂直と水平を入れ替えてみるんです。どうやって? 答えは簡単、寝転ぶだけです。
とても大きいか、とても小さく見える太陽か月を次に見たとき、前後に体を傾けたり、頭を片方に傾けたりして、太陽や月の大きさが変化するか見てみよう。ほとんどの人で変化するだろう。
効果がなければ、地面に横たわってみよう。楽しもう!(p203)
わたしたちには平衡感覚があるので、首を傾けて上を向くだけだと、たぶん印象は変わりません。しかし寝転がってしまえば、横と縦の概念が逆転します。
ということは、都会の空も寝転がって見れば、ビル群が奥行きを強調してくれるので、なかなか壮大に見えるんじゃないでしょうか。おもしろいですね。
なぜこんなに青いのか
道北に引っ越してから、空のスケール感だけでなく、色合いに感動することもあります。これまでも青い空は見ていますが、それ以上に深みのある、吸い込まれるような青天井です。
たとえば、冬場に撮ったこの写真。色を加工したりしているわけではないのに、驚きの青さです。言うまでもなく、自分の目で見たときの青さの印象はさらに強いものでした。
空の青さはその時々の条件で変化するので、わたしの住んでいるところの空が取り立てて青いというわけではないと思います。都会でも青い空が見られることはあります。
空が青く見えるのは、太陽光の成分のうち、赤は波長が長く、青は波長が短いからです。
日中、太陽が上から差し込むときと、朝や夕方に斜めから差し込むときとでは、太陽光が大気中を通る距離が変化します。
日中は、大気中を通る距離が短いので、波長の短い青い光が地表近くで散乱し、空が青く見えます。しかし、夕方や朝は、太陽光は大気中を長く進まねばならず、そのあいだに青い光は散乱しきってしまい、波長の長い赤い光だけが地表にとどきます。
けれども、トリスタン・グーリーが日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめで書いているように、空の青さを決める要素は、ほかにもいくつかあります。
空の青さは、大気の透明度と大気に含まれる水分の量で決まる。(p147)
空の青さと大気の透明度、そして標高には関連がある。…乾燥した大気に標高の高さが組み合わさると、空気が透明なおかげで比類なくすばらしい景色を手に入れることができる。(p155)
大気が澄んでいるか、乾燥しているか、標高が高いか。
ナショジオの記事によると、大気中に塵や水滴などが多いと、青空も夕焼けも、ぼやけてしまうようです。日本の大都市では大気汚染はそこまでひどくありませんが、中国では青空が失われてしまっているのだとか。
では北海道はどうかというと、黄砂が飛んできくることもありますし、湿度の高い地域もあります。標高はそんなに高くない場所がほとんどです。
わたしが住んでいる道北でも、毎日青く澄み切った空を見れるわけではなく、かすんだ空や、白い雲に覆われた空も多いです。曇っていても、壮大なスケールのおかげで、なかなかいい眺めですけどね。
でも、さっきの冬場のとんでもない青さの空には、やっぱりそれなりの理由があります。
わたしが住んでいる道北の内陸部は、日本一のパウダースノーで有名です。本州の雪しか知らなかったわたしは、一年目の冬にびっくりしました。
まず、雪だるまがつくれません! 砂のようにさらさらなので、服についても濡れません。はたき落とすだけです。1メートルくらい積もっても、スノーシュー(かんじき)なしで足を踏み入れると、ズボズボと下のほうまで沈みます。まるで白い砂漠だと感じたほどです。
こんなに特殊な雪なのは、気温がマイナス10度以下まで下がって、ひどく乾燥するからです。加湿器を何台も稼働させて湿度を確保しないと寝苦しかったりします。
それで、この道北の中央部の空は、トリスタン・グーリーがこう書いている標高の高い山の空と、とてもよく似ています。
空気が冷えると空気中に気体としてとどまることのできる水蒸気の量が減る。…山に登って高度が上がれば空気は冷たくなり、…高く登れば登るほど、空気中の水分は凝結して、霧や雲になりやすい。
そのために山頂からの眺めは、絶景ー空気が乾燥しているときーになるか、空気が湿り気を帯びていると、雲に閉ざされて何も見えないかのどちらかになりがちだ。(p154)
わたしの住んでいるところも、だいたいこの二つのどちらに偏りがちです。空が一面曇っていて何も見えないか、一面の青空か。
特に、雪が大気中の塵を洗い流した後の、気温がとても低い乾燥した日は、わざわざ標高の高いところに行かなくても、日光の中の青い成分の光が、十分届くことになります。こうして、最上級の青い空が見れます。
わたしたちの側の色の感受性
でも、空が青い、と感じる理由は、これだけではないかもしれません。環境側の理由が大きいのは確かですが、わたしたち人間の側の色の感受性も関係しているでしょう。
前に書いたように、わたしたちの色の感受性は、神経伝達物質ドーパミンと関係しているようです。
だから、幻覚剤を飲んだ医者オリヴァー・サックスは、とんでもなく濃い藍色の幻覚を見ました。
最近の研究によると、世界中が色あせて見えてしまう離人症では、このドーパミンの働きが低下しているようです。わたしも病気がひどいころ離人症があって、世界が薄っぺらく白黒に見えていたのでわかります。
世界が色褪せて見えるのは脳のせい―離人感・現実感消失症の病態解明への第一歩― | 国立研究開発法人日本医療研究開発機構
そして、おもしろいのは、やっぱりドーパミンが欠乏しているらしいADHDの子どもを対象にした研究で、都市ではなく自然豊かなところを歩いたときのほうが症状が改善されることがわかっていることです。
おそらく、人工的な都市はドーパミンを抑制し、自然豊かな環境はドーパミンを放出させるように思います。
ということは、わたしも含めて、もともとADHD傾向の強い人は、都会に住んでいるときより、自然豊かな場所にいるときのほうが、青色の感受性が上がっていて、空がより青く感じられるのではないでしょうか。
たとえ同じ青さの空を眺めていても、その時々の、わたしたちの色の感受性が違えば、色あせて見えることもあれば、より鮮やかに見えることがあるのです。
さらに別の理由を挙げるとすれば、周囲の色の対比効果も関係しているかもしれません。
たとえば、ファッションなどで、補色をアクセントカラーにして目立たせる方法が知られていますが、赤色、だいだい色、黄色などの色とりどりの花畑と、青い大空はおおむね補色関係にあって互いを際立たせます。
もっと多いのは、より自然でなだらかなグラデーションになることでしょう。
都市の風景に比べて、自然豊かな場所では、当然、野原や山々の黄色や緑色が豊かです。
手前の野原の黄色、森の緑、遠くの山々の青緑色、そして空の青や群青色、と色のスペクトルの並びにそったグラデーションが続くことで、空の青さがより引き立つことがあります。
これは、わたしがよく絵に使っている技法ですが、単に絵の技法の域にとどまらず、自然の風景そのものが、そんな色使いでグラデーションになっているのをしばしば見かけます。
絵を描くときも、空の広がりを意識する
わたしが住んでいる道北の空が、どうして壮大に見えるのかを、ここまで考えてきました。単に「建物が少ないから」だけではなかったですね。
ここで考えたことを、絵にも応用することができるでしょうか。
絵は平面でフレームに区切られているので、本物の空ほどのパノラマは表現できません。ても本物の空だって、心理的な錯視で月が大きく見えたり、まわりとの対比でより青く見えたりするので、絵でも技法次第で空のスケール感を表現できるはずです。
たとえば、奥行きを出すことで、空のスケール感をアップさせられます。
昔、絵心教室をプレイしているときに教わりましたが、雲を一層だけ描くのではなく、大きい雲、中くらいの雲、小さな雲を段階的に描き入れることで、空に奥行きがあるように見せることができます。
有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で部屋の奥行きが表現されている方法と同じですね。
下の絵はちょっと変則的ですが、雲の大きさを変化させることで奥行きを出している例です。
わたしたちは水平方向の奥行きを見分けることに慣れていることからすると、遠景に山を描いたり街並みを描いたりして、地上と空の境目部分を強調することで、奥行きがある絵になるでしょう。グーリーがこう書いていたように。
空はわたしたちの見ている世界の半分を占めるが、多くのドラマが生まれ、わたしたちを惹きつけてやまない美が見出せるのは、空と大地が溶け合うところである。(p158)
また、おなじみの空気遠近法を使って、遠くの風景は青みがかった色で、薄く描くことで、立体感を強められるでしょう。
でも、時には都会の空も描いてみたくなるかもしれません。それならば、「効果がなければ、地面に横たわってみよう」というアドバイスの出番です。
ちょうど地面に横たわったときに見えるかのように、真下からの角度で、乱立するビルと、その隙間から見える大空を描きます。すると、中心の空に向かって、集中線のように集まるビルが奥行きを作り出してくれて、ダイナミックな絵になるはずです。
さらに、さっき書いたように、補色効果やグラデーションを使って、空の青さを引き立てることができます。都市よりも山合いの空が魅力的なのは、青を引き立てる色がまわりにあるからです。
配色のセンスなんてない、と感じる人も多いかもしれません。わたしもそうでした。そんなときは、自然の配色をまねてみるようにしましょう。
黄色っぽい色の花畑と群青色の空を補色関係で対比させる、空から地面にかけて、虹色のグラデーションをかけるようにする、といった、ちょっとした工夫をするだけで、空の青さが引き立つようになります。
これからも空を楽しもう
ここ北海道の青空がとても美しいのは、たくさんの理由があってのことだと思います。
地元の人たちは子どものころからこの風景に見慣れているので、引っ越してきたばかりのわたしのように、いちいち立ち止まって感激していたりはしません。
それでも、聞いた話によれば、地元のあるご夫婦の娘さんは、都会に出て結婚したあと、帰ってくるたびに故郷は空が美しいと口にするようになったそうです。
子どものころから見慣れている空でも、大空が隠されて見えない都会に住んでみると、そのありがたみを意識するようになるんでしょう。
わたしも、ずっと都会で育ってきたからこそ、ここ道北の大空が大好きです。これからも感性を研ぎ澄ませて、大空をじっくり味わい尽くしたいと思います。