胆振東部地震で北海道大停電の日、ボートルスケール1の満天の星空を頭上に抱いた

1985年の秋、ニューヨーク州ロングアイランドを竜巻が襲い、送電線を引きちぎって電気を止めてしまった。

作家のデイヴィッド・エイブラムは、人工の光に妨げられていない、あるがままの夜空に初めて接した人々の様子を記している。

大勢の子どもたちが、まばゆすぎる家々の灯りや街路灯に邪魔されることなく、生まれてはじめて天の川を目にし、息をのんだ。(p143)

これは、日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめという本に載っているエピソードですが、奇しくも、わたしも、この子どもたちと同じ経験をすることになりました。

旅行(というか引っ越しの下見)で北海道に来ていた時期に、まさかの北海道胆振東部地震に鉢合わせして被災してしまったのです。

幸い、震源地から離れていたので、特に被害はなかったのですが、二日間にわたる停電で、思わぬ被災地生活、そして今まで見たことがないような星空を経験することになりました。その稀有な体験について、日記がてら書き残しておこうと思います。

持っていたiPodのカメラでは写真に何も映らなかったので、文章での体験記になります。

ともあれ、写真が撮れていてもこの感動は、画像ではとても伝えられませんけれど。満天の星空の画像なんてネットで検索すればいくらでも出てきますが、この記事で書く体験はわたしだけのものです。

停電にびっくりする

現地に着いて、宿泊施設に数日滞在してから迎えたあの夜…。

真夜中に寝ているとき、不意にベッドが揺れているのを感じました。しかしそれほど大きな揺れではなかったので、夢かなーと思ってそのまま二度寝。

朝6時前にふと起きて、ちょっと肌寒いので暖房器を見てみたら…なぜか電源が切れている。びっくりして、そこらじゅうの電気をつけようとしてみると、どれもまったく反応しない。もしや何かの電化製品を使いすぎてブレーカーが落ちたのかと確かめに行きましたが、何をやっても復旧しない。インターネットもつながらない。

もしかすると、自分のところだけの問題ではないのでは?と思ったので、家の外に出てまわりの家を見てみると、朝なのでわかりづらいものの、どの家も電気がついていないように見える。近くの施設の非常灯も消灯しているし、Wi-Fiの電波もひとつもとらえられない。

なんだかおかしいぞ、と施設の外のコンセントが生きているか確かめようとドライヤーを持って外出したところ、近隣に宿泊している方が出てきているのを発見。とりあえず挨拶して声をかけてみると、どうやら地震が起こって街全体が停電しているらしい、と教えてもらえました。

そこで、まだ早朝でしたが、どれくらいの範囲が停電しているのかと、自転車で町を一周してみることに。すると、すぐそばの交差点からして、信号が消えている! もちろん自動販売機も使えない。

自転車で走っていると、おじさんが家の外に出ていたので、あいさつをして話しかけてみる。夜中の三時ごろ地震に気づいてびっくりしたとのこと。苫小牧のほうで震度6だったらしいとの情報。おじさんはずっとここで農家をやっているけれど、過去に一回夏の暖かい日に停電したくらいで、こんなことは初めてだと言っていました。

そのまま大通りのほうまで走っていきましたが…やっぱりどこもかしこも停電している。これはかなり大規模だ…と感じて帰ってきました。途中、近所のおばあちゃんが困惑して家から出てきていたので、さっき聞いた地震の情報をお伝えしておきました。地震には気づかなかったらしい。いろんな人に話を聞いてみたところでは、気づいた人は3割くらいだったかな。

それから棟の管理人さんが車でやって来たので話を聞いてみると、近くの川からの取水場は非常電源で動かせるとのこと。飲み水の心配はなさそうで安心しました。

災害時に田舎は意外と強い

その後、携帯電話だけは生きていたので、遠方の家族に電話して、状況を調べてもらいました。どうやら、わたしのいる地域だけでなく、全道で停電が起こっているらしい、という想像を越えた被害状況がわかってきます。

都市部ではすでに大混乱のようでしたが、こちらは平和。たとえ停電しても、近くに川があるし、畑のお野菜を食べれるし、何より人口が少ないのであまり混乱せず余裕がある感じ。大都市の被災ではトイレ問題が深刻になりますが…ここだと最悪、昔ながらの対応ができますしね。アスファルトに覆われてインフラなしでは機能が麻痺する都会と違って、田舎ならではの強みを感じました。もちろん豪雪の冬にこうなったら目も当てられないですが…。

ありがたいことに、知り合いからカレーとガスコンロの差し入れ。朝早く起きちゃったし、じたばたしても仕方ないので、11:00から14:30くらいまでもう一度寝ました。インターネットがつながらなくて、電気も使えないとなると、お仕事は何もできない。

起きてからは、町内の様子を見に、また自転車で出かけてみる。騒ぎが大きくなっているようなこともなく、至って平和そのものでした。学校が休校になったことで、子どもたちが学年関係なしに、公園で一緒になって遊んでいるのをぼーっと眺めていたり。

電化製品使えないから、子どもたちも家でゲームもできませんよね。昔のゲームボーイなら電池式で、しかも友達と通信ケーブルで遊べて、屋外でも見やすい液晶だったので、かえってこういう非常時は強かっただろうなー、と思いました。戦場に持っていって爆撃受けても大丈夫だったという伝説がありますからね。

今のゲーム機は、高性能になったぶん、かえってインフラがやられると遊べなくなって遊べなくなってしまうんだなぁ…としみじみ感じました。こういう災害の多い今こそ、避難所生活でも遊べるゲームボーイを復刻させるべきかもしれない。

幸い、ここは都市圏とは違って、電気が止まっても避難所生活になるようなことはなく、豊かな自然のなかで好きなだけ遊べるので、特に退屈することもありませんでした。せっかくだからこの機会に、川まで行ってのんびり過ごしたり、子どもたちが帰った後の公園の遊具で遊んでみたり。

ものすごーく久しぶりにブランコに乗ってみて、こんな感覚だったかとびっくりしました。ジャングルジムとかも、昔はすいすい登れたのに、どうにもぎこちなく。子どものころ普通に遊んでたはずの遊具が、いつのまにか全身負荷運動になっている。でもまだ間に合う。少し遊んでいるうちに、感覚を取り戻してきて、昔のように身体を動かせるようになりました。しばらく弾いていなかった楽器の弾き方を思い出すような。フロイトが言っていたように「こころは忘れてしまう。でもからだは忘れない―ありがたいことに」。

橋の上から、太陽の光がきらきら反射して美しい川をうっとり眺めていると、町の広報車が何かを触れ回っている。音が割れていて聞き取れないけれど、同じ内容を災害緊急メールで配信してくれていました。電気の復旧は明日朝まで難しいとのこと、水道は大丈夫だから落ち着いてほしいと。また町役場で携帯電話の充電サービスをしてくれているらしい。

帰りに町役場に寄ってみると、地元の子どもが携帯電話と充電器を持ち寄って大人たちと談笑していました。ほのぼの。後になって札幌や旭川の充電サービスの様子をテレビで見ましたが、長蛇の順番待ちの上に殺伐としていて全然様子が違っていてびっくりしました。この町は平和なのに、ニュースで見る被災地はものすごく深刻で恐ろしそうな状況だったから。

もちろん、この町でもいろいろあったようで、水が供給されないというデマが飛び交ったり(それに対応しての町内放送だったらしい)、生活物資を求めて商店に人が殺到したりしたらしいと聞きましたが、それでも都市に比べたらたかが知れている。

都市部のセコマは長蛇の列で商品がなくなったらしいですが、ここのセコマは冷凍・冷蔵の棚ががらんどうになったくらいでした。ほかにも、どうせ溶けてしまうからと、アイスを無料で配布してくれたお店があったり、レジが使えないからとお客さんの自己申告で代金計算することになって、高校生がお年寄りの計算を手伝っていたりと、いい感じで横のつながりが発揮されていたと思います。

次の日の朝まで電気が復旧しないという町内放送を聞きながら、わたしが思ったこと、それは、もしも全道が停電したままなら、今夜は本物の、そう本物の、一生に一度かもしれないような星空が見られるのではないか、ということ。

震源地近くで生死の関わる状況に置かれている人たちにとって、電気の復旧が死活問題なのはわかっていましたが、それでも、この機会にぜひ本物の星空を見てみたい、と思いました。それが本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかという本を呼んで以来の、わたしの夢でしたから。

三十年代、五十年代、もしくは七十年代の暗闇から、時空を越えて現代の夜の闇へとやってきたなら、人工の光が劇的に増えたことに驚かない人はまずいないだろう。とはいえ、その増加のしかたは段階的なものだったので、いまの夜の暗さも昔とそう変わらないと、現代人は考えてしまいがちだ

「増え続ける光害が空を汚していくさま」を目の当たりにしてきたアマチュア天文家のジョン・ボートルは、こうした状況をふまえ、夜空の明度を段階的に表すための光害基準である「ボートル・スケール」を2001年に考案した。

…明るい方のボートル・スケールは、大半の読者にとっておなじみのものだ。クラス9は「都心部の空」、クラス7は「郊外と都市部の境」、クラス5は「郊外の空」―僕たちの多くが標準的と感じる、いわゆる「暗い」空である。

しかしボートル・スケールには、失われつつあるものも含まれている。実際、欧米人の大多数、とりわけ若い世代はめったにそれを体験したことがなく、おそらく想像すらできないはずだ。

クラス3に分類されるのは「田舎の空」で、「いくつかの光害が地平線に現れる」程度、クラス2は「真に空が暗い典型的な土地」、そしてクラス1は「天の川が明確な影を投げかける」ほどの暗い空だという。(p16-17)

光害が広まりすぎた現代では、このようなボートル・スケール1の夜空を見るには、国際ダークスカイ協会が認定しているような星空保護区に行かないと難しいらしい。今年に入って、西表石垣国立公園が国内初の星空保護区に認定されたとのことで、こんどそこに行ってみようかと思っていたほどでしたが、まさか今日ここで、その夢がかなってしまうのか?

今回わたしが滞在したところ ーそして移住を希望しているところは、普段から、なんと天の川が見えます。

町外れの建物の裏などの暗い場所に行けば、満天の星空と、うっすらとしたもやのような白い帯がわかるので、ボートル・スケール3か4程度の夜空を見れるようです。

では、全道が真っ暗な夜ならどうなるのでしょう?

失われた感性

宿泊地に帰ってきてみると、近くの棟のご夫婦がソーラーパネルを出して座っておられたので声をかけてみる。管理人さんが充電用にと確保してきてくださったらしい。わたしはインターネットがつながりませんでしたが、その方はスマホやラジオで情報収集できるようで、現状についてかなり詳しく教えてもらえました。どうやら発電所がほとんど稼働していないために電力復旧は難しそうとのこと。

もしこのまま停電だったら、今晩、本物の星空が見られるかもしれない、と話してみると、なんと昨晩、それを見たとのこと。地震のとき、緊急地震速報が来て叩き起こされたので(わたしの携帯電話には来なかった)、そのまま屋外に出てみると、えもいわれぬ満天の星空で、心底感動したそうです。その話を聞いていて、わたしもぜひ今晩それを見たいから空が晴れてほしい、そして、不謹慎ながら、もう少しだけ停電が続いてほしい…そう思いました。

話が弾んだところによると、その方は、ご主人さんが病気で退職されてから、毎年夏場に北海道を転々と旅行されているらしく、いつも三箇所くらいお決まりの滞在地があるのだそう。最初は札幌近郊の都市部から初めて、少し慣れてきたらもう少し奥の苫小牧あたりに行き、それから最後にここ道北に来るのだとか。一週間前に苫小牧近郊におられたらしく、今回の地震は危機一髪だったともお聞きしました。

北海道全体でどこがお気に入りですか、と尋ねると、ここが一番いいとのこと。なんにもないのが最高だと(笑) ここよりさらに北の稚内とかになると旅行はともかく長期滞在するには難しいので、ここが上限かな、とおっしゃっていました。けれども、宗谷本線で稚内まで旅するのはぜひおすすめだと教えてくださいました。わたしも前々から行きたいと思っていたんですよね。乗車賃がすごく高いけど(笑) 宗谷本線の名寄以北は近いうちに路線が廃止されるかもという噂もあるので、早めに行っておかなければ…。

話し込んでいると、ご主人さんが、パッと空を指さして「ハヤブサだ!」と教えてくれました。振り返って見上げてみると、黒い翼の鳥が急旋回して飛んでいくところでした。残念ながら、わたしにはハヤブサのハヤブサたるゆえんまではわかりませんでしたが、少なくとも、カラスやスズメのような鳥ではないことだけはわかりました(笑) きっと、何度も視界に入っているのに見分けられないせいで気づけていないんだろうな…。そういう観察眼も鍛えていかなくては。

レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダー で書いていたこの記述を思い出します。

かつてある人がわたしに、モリツグミの声を一度もきいたことがないといったことがあります。けれども、その人の庭では、春がくるといつも、モリツグミが鈴をふるような声で歌っているのをわたしは知っています。(p38)

あるいは、スーザン・バリーがに視覚はよみがえる 三次元のクオリアで書いていたこのエピソードも。

教授のひとりは、野鳥の観察にとても熱心だった。博物学者の多くはそうだが、この教授も並はずれた観察力を持っていた。

「車の運転と野鳥の観察は、わたしの二大趣味なんだよ」と言って、野鳥の観察地に向かう道で危険なまでに車のスピードをあげた。なんとも奇妙な組み合わせの趣味だとわたしは思ったが、やがて、自然界をすばやく観察する能力があるからこそ、こんな運転スタイルをとれるのだと気がついた。

教授は目と耳が鋭く、葉陰にいる鳥をほかのだれよりもはるかに早く見つけられる。いっぽう、鳥類学に関心を寄せているにもかかわらず、わたしはじきに、自分が鳥を見つけるのはきまってグループの最後であることに気がついた。

タカの観察地として有名なペンシルベニア州のホーク・マウンテンに出かけたとき、わたしは渡りをするタカの数を数えて一覧表の作成を手伝うことになっていた。ところが、たいして役にたたず、あの大きくて立派な鳥をしょっちゅう見逃した。(p73-74)

しっかり自然界を感じ取る観察力を身につけていなければ、庭で鳴いている鳥の声や、目の前を飛んでいる鳥の姿にさえ気づくことができないのです。いかに自分が、自然から切り離された世界で育ってきたかを痛感しますね。隔絶された都市で生きてきた人間は、自然の中で息づく生き物なら絶対にとらえ損なったりしないような気づきをさえ見逃すほど、感覚がにぶくなっています。

だからこそ、わたしは本当の星空が見たかった。何か忘れているものを呼び覚ましてくれるような気がして。

そして、夜が来た

日が暮れ始めると、管理人さんがきて、非常用持ち出し袋のなかにある、手回し充電ラジオや乾電池式ライトの使い方を教えてくれました。これで夜もばっちり…なはず。そのころには、遠くの空に、すでに一番星が明るく輝き始めていました。

星が増えていく様子を観察すべく、近くの公園のジャングルジムのてっぺんに登って仰向けに空を見上げました。ところがなぜか小さな虫にたくさんたかられてしまい、どれだけ振り払っても集まってくる。体臭や呼気に反応しているんでしょうか。(※後で教えてもらったところによると、頭虫というユスリカらしい)

仕方なく、別の場所を探して自転車を走らせる。そして、大きな別の公園の、アスレチック遊具のてっぺんまで登って、遠くの暮れなずむ空を眺めました。星は両手で数えられる数を超えていました。試しにiPodのカメラで写真を撮ってみましたが…案の定、何もまともに映らないですね。 雲がないことだけは撮影できましたが(笑)

 

少しずつ暗くなっていく空を無心で眺めていましたが、まだ空が明るいのに、予想以上にあたりが暗いことに気づく。街灯のない町というのを経験したことがなかったので、停電したときの夜がどれほど暗いか想定できていませんでした。帰り道が危なくなってはまずいので、いったん大型ライトと寒さ対策の上着を取りに戻ることに。家に戻って、大型ライトを自転車のかごの中に設置してみると、それでようやくまともに道が照らせるくらいでした。通常のライトでは、歩くにはともかく、自転車で走るには弱すぎる。

いよいよ空が暗くなってきましたが、ありがたいことに雲ひとつない晴天でした。地平線にいたるまで、すっかり晴れ渡っていて、気温も寒くはなく、停電さえ続けば、今夜は最高の星空が見られることが保証されたようなものでした。

まだ日が暮れきっていないにもかかわらず、通りを歩いている人の顔が見分けられません。「たそがれ時」とは、夕方になると、人の顔が誰だかわからなくなって「誰(た)そ彼」と声をかけることから来ているという語源は有名ですが、現代社会では、夕暮れになると自動的に街灯がついてしまうので、昔の人のそうした感覚を体験する機会がないものです。

家の前に座って懐中電灯を揺らしながら口笛を吹いていると、通りかかった二人組が、「あれ、人がいる?」と驚いた様子、わたしは「びっくりさせちゃってすみませーん(笑)」と返す。「だれだか顔も見えないものね」と相手の人。わたしのほうも相手の顔が見えません。でもたった三メートルくらいしか離れていないし、まだ日が暮れきっていないトワイライトの時間帯なのです。こんなことって普段は経験できません。

地平線はまだうっすら明るく、ほのかな夕暮れの赤らみが残っているのに、すでに数百の星が空に見えてきています。わたしはライトを装備した自転車で、再び公園へと向かいます。

家々の電気はほとんど消えていますが、行き交う車のヘッドライトだけはいつもどおりの明るさです。車の行き来は少ないとはいえ、これだけヘッドライトが明るいと、完全な暗闇というわけにはいかないのだな、とちょっとがっかり。もう目もくらむほどのまぶしさで、ヘッドライトで照らされたら、顔をそむけるしかありません。鬱蒼とした森の中から出てきた鹿が、突如ヘッドライトに照らされて硬直して轢かれるのもよくわかるというもの。わたしたち人間は、当たり前と思って使っている照明の明るさに対して、感覚が麻痺してしまっているのです。

公園に着いたのは、夜の19時から20時くらいの間だったでしょうか。すっかりあたりは暗くなっていました。もう天の川まで目視できるほどに満天の星空が姿を現している。公園に立っている彫刻像が、ほとんど影の輪郭だけしか見えず、まるで怪物のような威圧感。ほんの2メートルくらいのところまで近づいても、やはり怪物にしか見えない。ふだんよく知っている場所でなければ、魑魅魍魎に出くわしたと思い込むかもしれない。昔の人たちが妖怪などの伝説をたくさん残した理由がよくわかります。

わたしは誰もいない公園に向かい、ゆっくり星空観賞できるところを探しました。芝生に寝転がってみましたが、やっぱり虫が多い。それでローラー滑り台に寝そべって、一人特等席から空を眺めることにしました。

それはボートル・スケール1の夜空

寝そべって見上げる夜空は、立ったまま見上げる夜空とはまったく違っていました。立ったまま見上げていても美しいですが、横になると印象が全然違う。星空の中に浮いているとでもいうのか。

初めて見る満天の星空は…期待していたのとはかなり違っていました。さっきの本で説明されていた立体的な星空や、色付きの星空を期待していたのですが、それらとは全然違いました。たぶん、地球上のどこで観測するかによって、空の味わいもかなり変わってくるのだと思います。

この日、わたしの頭上に姿を現したのは、星空保護区の宣伝で見かけるような神々しくまばゆい星空ではなく、もっと繊細な、手で触れるとパラパラとほどけて崩れてしまいそうな、ガラス細工のような星空でした。無数の数えきれない星が、砂粒を流したアートのように空を覆い尽くしていて、ただ静かに、青白い光をたたえていました。

目がくらむほどの明るさもなければ、震えるほどの美しさがあるわけでもない。でもしっとりと染み込むような、ずっとうっとり眺めていたいような繊細な美しさでした。滑り台に寝転がりながら、あまりの心地よさに眠りに落ちそうだったほど。虫が肌に止まってくるせいで寝ることはできませんでしたが。

何かの流星群なのかまったく知らないのだけど、流れ星もたくさん。あちこちで白い筋がこぼれるのがはっきりと見えます。

しばらく公園で星空を眺めていましたが、無粋にも駐車場に止まった車が、ステージをライトアップするかのごとく強烈なヘッドライトをずっとこっちに向けて動かなくなったので、そこを退散することに。ライトアップされても天の川は見えていますが、まぶしいことこの上ない。

仕方なく自転車で町内をまわってみると、あちこちに人魂のような光がふわふわと浮游しています。もちろんすぐにそれが懐中電灯の光だと気づきましたが、懐中電灯を持っている人の姿がまったく見えないほど暗いので、あたかもホタルのようにライトだけが浮游していました。昔の人が人魂を見間違えたのは、いろいろ理由はあるんでしょうが、一番単純な可能性としてはかすかな明かりを手に歩いている墓守りや墓荒らしだったのではなかろうか。(よく言われていた墓場のリンの発光説は間違いらしい)

いつもは昼も夜もほとんど町の人を見かけませんが、この夜だけは例外で、あちこちの戸口に、星空を見に戸外に出た人たちが立っていました。明かりを持っていない人たちの場合は、例によって姿はまったく見えないので、ライト付き自転車で真横を通っても、声がしてやっと存在に気づくほど。こちらがライトを照らしていれば、向こうは存在に気づけるので事故の心配はなさそうでしたが。

大通りに出ると、子どもや若者が連れ立って天の川を観賞してあちこちを歩いている。横を通ると、たぶんわたしのことを指して「なんかライトが走ってるけど誰かわからないなー」と友達同士で話している。

ふだんわたしは、都会の光がまぶしすぎて、よく黒いサングラスをかけて夜の町に外出します。街灯や自動車やオフィスの光にあふれた都会の夜(ボートルスケール9の汚染されきった夜)は、濃いサングラスをかけてやっとちょうどよくなるほど明るいからです。

わたしが滞在しているこの町は、それよりはずっと暗く、都会でサングラスをかけたときに見るような暗さが、普段、街灯がある状態の町の暗さです。しかしこの日は、それどころではないほど足元のおぼつかない暗さ、星明かりだけをバックライトに、影絵のように街並みだけが浮かび上がる暗さ、わたしが経験したことのない夜でした。

わたしはその暗がりの中を、わくわくする冒険心とともに、町はずれの川にかかる橋までやってきました。通りを曲がる車のヘッドライトに時折照らされて、橋のほとりの何かが、まるで双頭のグロテスクな鬼のように暗闇の中に突然現れる。何度ライトがあたっても、やはり鬼のようにしか見えない。ふだん昼間はそこに何があったのだろう、と考えて、たぶんうっそうとした木々の房だろうと考えるのですが、それでも目に見えるのは恐ろしい何かです。

もしかすると、川の水面に星空が反射しているようなロマンチックな風景が見られるかもしれない、と思って橋までやってきましたが、この日の繊細な夜空はそこまで明るくはなく、ただ漆黒の闇の下で川の流れる轟音が聞こえるだけでした。近くに湖などがあれば、または海の上だったら違っていたのだろうか、それとも、満天の星空とはどんな場合もこういうものなのだろうか。

自転車に乗って真っ暗な町を走っていると、まるで、満天の星空が自分ひとりだけのものであるかのように、わたしの頭上に付き添ってきます。わたしはそのとき、今わたしは「頭上に星空を抱いている」のだと感じました。特に考えたのでもなく、ただこの言葉が素直な実感そのままに脳裏に浮かびました。あたかも自分ひとりだけのために作られた特設の劇場のように、星空のドームは、どこまでも、わたしの頭上についてきました。

毎日ずっとこうだったらいいのに。そうすれば、こんなに物惜しい気持ちにならなくてすむのに。今晩だけの夜空だと思ってこんなに必死に眺めなくてすむのに、そう感じました。

でも、もしこれが毎日見られる夜空だったら、こんなにも愛おしくはなくなってしまうのでしょうか。一生のうち今日しか見られないかもしれない空だからこそ、こんなに美しいのでしょうか。レイチェル・カーソンが、センス・オブ・ワンダー で書いていたこの話を思い出します。

わたしはそのとき、もしこのながめが一世紀に一回か、あるいは人間の一生のうちにたった一回しか見られないものだとしたら、この小さな岬は見物人であふれてしまうだろうと考えていました。

けれども、実際には、同じような光景は毎年何十回も見ることができます。そして、そこに住む人々は頭上の美しさを気にもとめません。見ようと思えばほとんど毎晩見ることもできるために、おそらくは一度も見ることがないのです。(p30-31)

わたしは幸いにも、「一度も見ることがない」人にはなりませんでした。もしかしたら一度だけ、これっきりかもしれないけれど、確かに本物の空を一度見た人になれたのです。

試しに、iPodのアプリのバルブ撮影機能でしばらく露光して夜空を撮影できないかとやってみましたが…残念ながらその程度のカメラでは何も映りませんでした。

しかしきっと、何も映らなくてよかったのでしょう。この日の星空は、安っぽい一枚の写真に切り撮れるようなものでは決してなかったからです。かえって写真に切り撮ってしまうことで失われてしまう、もろくて繊細な美しさがそこにありました。この景色は、わたしの記憶の中にだけプリントされるべきものです。

橋からの帰り道、わたしはこんどは別の公園に行き、ネットが張ってある遊具によじ登って寝そべってみました。そこの公園はクモの巣が多いので、ライトで注意深く照らして、寝る場所を選びましたが…やっぱり虫が多くて落ち着かない気分でした。

近くの茂みがカサコソと音を立てるのでライトを向けてみましたが、何もいません。でもきっと何か野生動物がいたのでしょう。頭上の星空は本当に美しいのだけど、うっとりと恍惚感にひたってもいられない。起き上がってみると、この短いあいだに、クモがわたしの身体の上に糸を引いていました。

それからまた別の滑り台に寝そべってみました。やっぱり星空を眺めるには滑り台が一番いいかもしれない。寝転がりながら、きっと同じ星空を見上げていただろう昔の人たちのことを思い出しました。荒野の旅人や、草原の羊飼いたちは、みんなこんな空の下で、自分は何者なのか、どうしてここにいるのか思索したのだろうか。

失われた夜の歴史 によると、1886年にイギリスの詩人トマス・ハーディは、「闇はちっぽけな普通の人間に詩的な力を授ける」と述べたらしい。(p346) 自然からすっかり切り離された時代に生きるわたしだけれど、この星空の下にいるうちは、古代の人たちとつながって一体になれるような気持ちがしました。

何も見えない本物の夜、漆黒の闇

それから、空が少し曇ってきたのか、星空が一部欠けてきました。雲があるかないかはまったく目視できないので、星が見えない=雲に覆われている?と判断するしかありませんでした。

また、遠くの空の地平線の一部が、うっすらと明るいのに気づきました。「明るい」という言葉にそぐうほどの明るさではありませんが、この真の暗闇の中では、そこだけが比較的明度がうっすら明るいように見えるのです。そしてそちら側の星がいくらかかき消されています。

すぐに気づいたのは、それはこの地方の都市の方角だということです。人口がここの十倍くらいの数万人程度いるので、車の光などで、空が明るくなってしまうのだろうか、と感じました。次の日知ったところによると、その日の晩から、その地方では一部家屋の停電が復旧していたとか。

つまり、何十キロも先の光害が地平線を通してこの町の空を汚染していたのでした。ボートル・スケールのクラス3のところにあった「いくつかの光害が地平線に現れる」という一文を思い出します。この日の夜空はもっと暗かったとはいえ、一部復旧した地方や、行き交う車のライトはあったので、完全な暗闇とまではいかなかったのでしょう。

だいぶ走り回って疲れたので、わたしは名残惜しく思いながらも、家に戻りました。家の中はもちろん真っ暗でライトなしには何も見えません。寝室に入ってみて驚いたのは、カーテンを閉めていると、遮光カーテンでもないのに、部屋の中が完全な暗闇に包まれることです。

この日、たくさん驚いたことはあったけれど、この完全な暗闇、というのはまた衝撃的な経験でした。ふつう、暗いといっても、目が慣れてくるとうっすらと身の回りが見えるものですが、この日の家の中はそれどころではない。どれだけ目が慣れても、なんにも見えません。本当になにも。だから、懐中電灯を置いた場所を忘れると、自分の家の中でさえ迷子になりかねません。以前、失われた夜の歴史 で読んだこの話を思い出した。

多くの家庭では、夜のどの時間帯であれ、暗闇の中を注意深く手探りしながら、歩きなれた部屋や廊下を移動していた。ウェールズのあることわざは、「分別こそ最良の蝋燭である」と断言している。

触覚はきわめて重要だった。誰もが自分の住まいの構造を、家中の階段の正確な段数も含めて長く記憶に留めていた。

だが、よく知らない場所にいる場合には、できるだけうまく対処するしかなかった。ルソーは『エミール』の中で、馴染みのない部屋にいる時は、手を叩いてみるよう助言している。

「その反響によって、その場所が広いか狭いか、また自分がその中央にいるのか隅にいるのかがわかるだろう」。

19世紀にイタリアを訪れたある旅行者は、海沿いの「みすぼらしい」宿で一夜を過ごすことになり、夜明け前に自分の部屋の「出口を見つけ」ようとして、部屋中を「きわめて正確に測量」する羽目になった。

…そしてどこでも重要だったのが、暗闇の中で道具や武器を見つける必要が生じた場合に備えて、家の中をきちんと片づけておくことだった。「物にはすべて正しい置き場所がある」ということわざも、夜にはいっそう切実なものとなったのだ。(p170)

わたしは思いもよらぬ被災生活のために、中世の産業革命以前の人たちが経験していた「失われた夜」を体験していたのです。もっともわたしの場合は懐中電灯という文明の利器があったので、ここまで苦労しませんでしたが、自分の手足さえ見えない暗闇や、道具を手元に置いておくことの重要さを体感することは叶いました。

家に戻ったわたしは、カーテンを開けたままベッドに横になりました。この星空を手放すのが惜しく、少しでもそれを見ていたいと思ったから。ベッドからは窓を通して、わずかながら星空は見えていましたが…やがて窓の外の限られた空はくもってきて、星が見えなくなり、わたしも眠りにつきました。

それから、午前0時過ぎになって、ふたたび目が覚め、窓の外を眺めてみると、また星が見えるようになっている。わたしは気になって、懐中電灯を手に外へ出てみました。

ドアを開けたその瞬間、わたしは立ちすくみました。あまりの暗さのせいで、あたかも宇宙空間に足を踏み入れたかのような錯覚を覚えました。どこでもドアを開けたら別世界に通じていたような感覚です。家の中もまっくらだったのに、何を驚くことがあるのか、と自分でも思いますが、わかってはいても、思わずすくむような暗さでした。そして頭上を見上げると、そこにはえもいわれぬミルキーウェイが輝いていました。

そのときわたしの脳裏には、あなたの子どもには自然が足りない に書かれているこのエピソードがよぎりました。

「最初にカウンセリングの仕事をしたのは他の団体でのことでしたが、私は、それまで町なかから外へ出たことのなかったエイズの子供たちを山へ連れて行きました。

ある夜、九歳の女の子が私を起こし、トイレに行きたいと言いました。テントから出ると、彼女は空を見上げました。そして息を呑み、私の足にしがみついてきました。その子はこれまで、こんな星空は一度も見たことがなかったんです。その夜、私は子供の心を動かす自然の力を知りました。

彼女は変わりました。その夜からというもの、彼女にはすべてが見えるようになりました。皆が気づかないくらい背景に溶けこんだトカゲでさえ、見えるのです。彼女は自分の感覚を使うようになりました。感覚が目覚めたのです」(p171)

わたしの大人になりきった身体は、この子ほど感受性豊かではありませんが、それでもドアを開けて宇宙空間へ飛び出したときの感覚は、この話にそっくりでした。足元が底なしの空間のように思えて、思わずどこかにしがみつきたくなりました。

さっきまでの、町内総出で星空を観賞していたあの町とは、どこか別の場所にいるかのようでした。町はもう寝静まっていて、自動車さえ走っていない。この広い夜空の下に自分ひとりだけになった気がしました。

よくよく夜空を見ると、あたかも物語の中の動く星のような、4つの点滅する光の集まりがはるか上空を横切っているのに気づきました。おそらくは飛行機だったのでしょうか。空を見上げているうちに、飛行機は空の果てへと消えていき、心細くなって飛行機を追いかけたいような衝動に駆られました。大自然のただ中にたった一人取り残されたかのように感じたからです。

あたり一面から、虫や鳥や獣の声が鳴り響いていました。ここはもう人の手を離れた動物たちの時間なのだ、と感じました。さっきのように、もう一度街中を一周しようかと思って通りに向かいましたが、好奇心よりも本能的な恐怖が勝りました。

ふと足元でガサゴソ音がしたので、懐中電灯のライトを向けると、小動物の黒い影が走り去っていくのをはっきりと見ました。影の形や大きさからすると、たぶんイタチか何かだったのでは、と思います。さっきのエピソードの女の子のようにすっかり感覚が目醒め、トカゲならぬイタチの存在に気づき、的確な方向にライトを向けられたのでしょうか。

もっと遠くまで見に行きたい、という気持ちもありましたが、ここはクマが出ることで有名な地方でもあるので、ここまで野生の動物が迫ってきている時に出歩くべきではないと感じ、ただそこに立って、頭上に満天の星空を抱いていました。

やがて、肌寒くなってきたので、名残惜しくもわたしは家の中に戻り、もう一度眠りにつきました。次に目が覚めた三時ごろ―地震からちょうど一日経ったころ―には、空はもう曇ってしまっていて、星空は見えませんでした。

しかし、窓から山並みすれすれのところに、この日初めてはっきりとした三日月が見えているのに気づきました。そういえば、この日の満天の星空は、月のない夜空だったのです。道理で川面に映らないほどの繊細な星空だったはずです。

後で月の出・月の入り時刻方角マップというサイトで調べてみると、この日、わたしのいた場所で月が出るのはだいたい深夜1時か2時以降だったようです。きっと、月の出ている満天の夜空も美しかったのでしょうが、月のない繊細な星空は、全道停電の日ならではの格別なものでした。

その次に目が覚めると、もうあたりはすっかり明るく、朝になりきっていました。わたしは本物の星空へと旅立った夢のごとき旅程から帰ってきたのです。

電気の復旧へ

その次の日も、相変わらず被災状況はそのままでした。この町では中心部の電気は復旧していましたが、わたしのいる地区は停電したままでした。

昼頃の町営放送では、シャワーを無料で提供しているとのことで、一度も泊まったことのないホテルまで行って、客室の無料開放されたシャワーを浴びてきました。なんとも被災地らしい体験です。

帰りは、すでに電力が復旧している町の施設に行って、携帯電話を充電し、ようやくインターネットにも一時的につなぐことができました。さっき書いた、札幌近郊などの様子をテレビで見た、というのはここの施設でのことでした。

この時点では、全道停電のうち、すでに六割が復旧しているとのことで、わたしの地区は残りの四割に含まれていました。管理人さんからの情報によると、夜六時半ごろに発電所がひとつ復旧するらしく、停電が回復するのではないか、とのこと。

残念ながらその時間になっても停電は回復しませんでしたが、夜22時ごろになっても寝られないので、少し自転車で散歩でもしようかと思って家を出たその瞬間、目の前の信号機に、いきなり明かりが灯ったのが見えました。びっくりして振り返ると、家の外灯もついていて、電気が復旧していました。あれだけ電気のない夜を楽しんでいたにもかかわらず、この瞬間はちょっと感動しました。やっぱり現代人たるわたしの生活は、電気につながれているようです。

まだ北海道全体で見れば、電気が復旧していない地域もありますし、たとえば人工呼吸器や人工透析を必要とする人など、電気のありなしが生死を分ける人もいます。そうした人たちのことを考えると、電気がこない被災生活は早く終わってほしいと思います。

けれど、それを思いに留めた上でも、今回わたしが経験できた電気のない生活、そして一生に一度の本当の夜、本物の星空は、他に代えがたい貴重な体験だったと思うのです。

今のわたしは、さっきのエピソードに出てきた女の子ほど純粋な感性を持っているわけではない。だから、「その夜からというもの、彼女にはすべてが見えるようになりました」とはいかない。たぶん、わたしの感覚が目覚めるためには、この夜の経験だけでなく、もっと多くの経験が必要でしょう。

でも、この夜の体験は、間違いなく一生残る貴重な財産でした。だから、わたしはこの夜の出来事を文章に書き残しておかねばならない。そう思ったからこそ、急いでこの記事を書きました。

これから先、きっと、日本でこれほど広い地域一帯が停電するようなことは、おそらくないでしょう。たとえあったとしても、そのどまんなかに滞在していて、暑くも寒くもない時期で、じっくり寝転がって星空を楽しめるようなことは、まずありえないと思う。

わたしが見たのは、一生に一度の夜空でした。たとえこの日にあった出来事の詳細は忘れようと、身体のすべて、五感のすべてを使って、満天の星空を「頭上に抱いた」経験は、決して忘れない。フロイトが語ったとおり「こころは忘れてしまう。でもからだは忘れない―ありがたいことに」。

追記1 日本各地のボートル・スケールを調べる方法

Light pollution map を使えば、世界各地の光害の度合と、ボートルスケールのクラスを調べることができます。

このマップは、サーモグラフィーのように、暖色になるほど光害がひどい地域で、寒色になるほど星空が見えやすい地域であることを示しています。

ボートルスケール1や2の場所は黒や灰色の無彩色ですが、日本列島はこのありさまで、ほとんど星が見えるところがありません。

拡大して北海道地方を見てみると都市部は光害で真っ赤です。都市部から離れれば、道南や道北の一部に、灰色のボートルスケール2くらいの地域が、まだ残されてはいます。

しかし、この灰色の地域というのは、たいてい道路もないようなとんでもない山奥です。ヒグマが出るので、夜中に入っていくのはほぼ不可能です。

とはいえ、わたしが住んでいる町はその付近なので、町外れまで行くだけで、ボートルスケールが3か4くらいの場所はちらほらあります。

わたしも引っ越してきてから、夜、町外れの公園に自転車で出かけることがよくあります。そこで撮ってみた星空の写真がこちら。(デジカメで撮ったので、目視より星の数が多く感じます)

都会生まれのわたしにとっては、これでも、相当すばらしい星空です。でも、この星空はボートルスケール3か4くらいなのです。

わたしがあの日見たボートルスケール1の星空は、写真には収められませんでしたが、これらをしのぐ本物の星空でした。

日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめによると、アメリカの作家、ヘンリー・ベストンはこんな言葉を残したそうです。

夜を敬うことを覚え、むやみに怯える気持ちを追い払え。

なぜなら人の体験するさまざまな事柄から夜を追放してしまうと、同時に宗教的感情や詩情など、人間性の探究に奥行きをもたらすものまでが消えてしまうからだ。(p357)

わたしも都会にはなかった満天の星空を眺めるたびに思います。

過去に生きた数えきれない世代の人たちは、この星空を眺めて、どんなことを思い、どんなことを願い、日々の試練を乗り越えね喜びを分かち合ってきたのだろうか、と。

そして、今や、この星空が見られなくなった世代のわたしたち、そして星空を見たことがない子どもたちは、いったい何を失い、何を考えなくなってしまったのだろう、と、

追記2 プラネタリウム「星空とともに」を見て

その後、満天の星空を見たこの町に引っ越してから迎えた春。

あの3.11の日に、東日本大震災の日の仙台の満天の星空についてのプラネタリウム「星空とともに」が近くで上映されるというので見に行ってきました。

東日本大震災の日にも、今回の胆振東部地震と同じく停電が起こり、夜には満天の星空が広がったといいます。時期的には半年の差があるので、見える景色はかなり違っていたかもしれませんが、状況はよく似ています。

でも、ただの停電しただけの、気楽な田舎の被災地生活だを送ったわたしとは違い、東日本大震災のときの被災者の感想は、おのおのに悲壮で壮絶でした。

体験談のなかには、わたしと同じように、満天の星空に感嘆して、いかに人間が自然の美しさを破壊してきたか考えたという人が一人だけいました。でも、他の大勢の人は異なった感想を抱いていました。

特に多かったのは、天空に見える星々を、死んでいった人たちの魂にたとえた人たち。悲惨な状況も相まって、満天の星空を恐ろしく、恨めしく感じた人が大勢いたようです。キリスト教の天国のような宗教的な思想の影響を受けた感想も多かった。

一方で、子どもはもっと純粋なとらえ方をしていたようでした。親が被災生活のあまりのストレスに気持ちの余裕を失って、空を一度たりと見上げる余裕もなかったところ、子どもは星空の美しさに感動して、一緒に眺めるよう親に促したというエピソードもありました。

レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダーで書いていたことを思い出しました。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激に満ちあふれています。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。(p21)

もちろん、被災地で大人たちが心の余裕を失ってしまったことには並々ならぬ事情がありました。家族を、友人を、財産を、日常のすべてを失って、冷静でいられる人なんていません。

だけど、だからといって夜空に燦然と輝く無数の星々を恨めしく思ったり、まったく無視したりしてしまうのは、残念なことだとも思いました。

東日本大震災のような未曾有の災害のときでさえ、子どもたちは、美しい自然に目を見はる感性を失いませんでした。

子どもたちが感じたように、星々の明かりを、純粋な美しさとして、また励ましとして受け止める感性があれば、被災生活の苦しみも変わったように思います。

大人になると、苦しいことがたくさんあります。日々のストレスはもちろんのこと、大震災の被災生活の苦痛は、実際に体験したわけではないわたしには想像することもできません。

だけど、わたしもまた、学生時代からずっと難病に苦しんできた当事者として、恐ろしく辛く耐えがたい時期に、何に目を向けるかが、絶望と希望を分けることを知っています。苦しいときに、空を見上げて美しさを味わえるかどうかが、その人の人生の景色を左右するということを。

レイチェル・カーソンが、がんと闘病した生涯最後の年月に、こう書いたとおりだと思います。

地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

たとえ生活のなかで、苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。

地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。(p51-52)

わたしもまた、そう思ったからこそ、はるばる北海道の奥地までやってきました。

多くの大人たちの例に漏れず、わたしも「澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ」てしまっていました。

でも、このときの星空、およびその後に経験したさまざまな大自然の息吹から、子どものような感性を呼び覚まされつつあります。

「星空とともに」から学んだのは、たとえどんな苦しみに襲われたとしても、自然界の美しさに目を向けるだけの心の余裕を持つことは可能なのだということ。そしてそれが逆境を乗り越える力になるのだ、ということ。

わたしも、これからの北海道での暮らしの中で、その子どものような感性を養い、大切にしたいと励まされました。

投稿日2018.09.08