彼女たちの空想能力は概して活発である。学校では国語や美術の成績が優秀であることが多く、とりわけ作文や詩、絵画において秀逸な作品を仕上げる。
それらの作品を仕上げるのにあまり苦労はなく、頭に浮かぶ空想・表象をそのまま文字や画にうつしかえるだけである。(p127)
豊かなオリジナリティ、色とりどりのファンタジー、独自のユニークな世界観。
絵を描いていると、ときどき、独自のファンタジー世界を創り、それを意欲的に表現している人に出くわします。その人の頭の中にはきっと、もう一つの地球が広がっているのだろう、と思います。
そうした創作意欲の豊かな人を支えているのは、子どものときからの「空想傾向」や「持続的空想」である、と説明するのは、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) という本です。
空想傾向とは
「空想傾向」(fantasy proneness)とは、米国の心理学者、WilsonとBarberが発見した、ファンタジーにのめり込みやすい性格のことです。
空想傾向の強い人は人口の4%ほどで、子どものころから空想と現実の境が曖昧で、遊んでいた人形やぬいぐるみと会話していたり、妖精や天使、想像上の友だちの存在を身近に感じていたりします。
単なる頭の中の空想ではなく、五感で感じられるほどの強いもので、実際に「妖精さん」を目で見、声を聞き、触ることができた、と感じています。
空想傾向が育つ原因は、遺伝的素因のほか、孤独や病気、複雑な家庭環境などのストレスの多い環境、精神疾患などで不安定な親などからの逃避であるとされています。(p121)
安心できる居場所がなく、そこから物理的に逃れられないとき、子どもは想像力を用いて、空想の世界に逃避する能力を発達させるようになるのだそうです。これは心を守る脳の働きの一つであり、「解離」と呼ばれています。
だれでも、子どものころに、つまらない校長先生の話の最中に、意識を飛ばして、あれこれと空想していたことがあるかもしれません。しかし孤独な子どもや、家庭環境に恵まれなかった子どもは、そのような時間が、ほかの子どもよりはるかに長くありました。
強いストレスがかかって、想像力が発達すると、空想がより鮮明になって、目に見えるほどになるといいます。こんな話が載せられています。
小さい頃、情緒不安定になると絵に描いたように鮮明に映像が見えた。それが普通だと思っていた。小学校へあがってから自分は人と違うなと思うようになった。
山を見る時、私は山の反対側も見ている感じがする。隣の部屋のことも見えるようにわかる。(p77)
過去の記憶や想像などが、目の前にありありと浮かぶようになるのです。
これは、いわゆるフラッシュバックや、自閉症のタイムスリップ現象と似ているものかもしれません。そうであれば、もともとの生まれつきの脳の特性が関係している可能性もあります。
持続的空想とは
空想傾向と関連して、子どものときにストレスのかかる経験をした人は、「持続的空想」という習慣を持っている、とも言われています。
持続的空想とは、数ヶ月以上の長い間、どんどん発展していく空想の物語です。
主人公は多くの場合、自分や同年齢の子どもで、人物像は詳細に設定され、物語はどんどん勝手に進行していきます。かなり具体的にありありと眼に見えることもあるそうです。
主人公が自分であることもあれば、ほぼ同年齢の同性の子どもであることも多い。人物像は詳細に設定され、物語は具体的かつ数ヶ月間持続的に進行していく。
かなり具体的にありありと眼に見えるように空想しており、それもどんどん勝手に進行していくようだという。(p126)
たとえば、こんな話が書かれています。
映画館にいるように自分の想像した映像が見える。小さいときから自分で物語を作って、それを映像で見ていた。自分で映画を作っていた感じです。
主人公は憧れの女の子で、彼女が成長していく過程の物語を作るんです。(p127)
そのような具体的な物語が頭の中にあるからこそ、冒頭で引用した説明のように、国語や美術の成績が優秀で、造作なく作文を紡ぎ、詩を詠み、絵を創ることができるのです。また演劇が得意で役にのめり込むことが容易、という人もいるようです。
子どものころから、今に至るまで、ずっと持続的空想が続いているとしたら、その人の持つオリジナル世界のストックは、普通の人の何倍も豊富でしょう。その人の創る文章や絵には、周りの人にはない個性が満ち溢れているでしょう。何より、表現したいものがすでに心の中にしっかり存在しているので、創作する動機づけが強く、方向性がしっかり定まっていることでしょう。
上の本は、どちらかというと、ストレスやトラウマを抱えた人の話が中心ですが、感受性の強い子なら、だけでも持続的空想を経験することがありえます。児童文学作家のエリナー・ファージョンもこうした習慣を持っていたようで、エリナー・ファージョン伝―夜は明けそめた には、こんなことが書かれていました。
「寝つきが悪くて、明け方まで眼を閉じられないことがよくあった。午前1時か2時まで寝つけなければ、眠る努力は諦めて、底知れない深淵から、私の世界を呼び出すのだ。
するとギリシア神話の神々や、エリザベス朝の人々がごたまぜになって飛び出してきて、勝手に動き出す。彼らを自分で操っていた意識はなかった。
その連中に今度は広大なニーベルング伝説の場面が加わって、そこで私の音楽に対する情熱と神話に対する情熱が、融合されることになった。私はラインの乙女たちとともに水浴し、ローゲとともに憤怒し、ブリュンヒルデとともに剣を鍛えた。
実生活において、闇の中の私の世界のスケールに届くものは何もなかった」(p80)
こうした持続的空想が、彼女の旺盛な創作力の基盤となったのは言うまでもありません。
また、冒頭に引用した文の中で、空想傾向の強い人は、「それらの作品を仕上げるのにあまり苦労はなく、頭に浮かぶ空想・表象をそのまま文字や画にうつしかえるだけである」と書かれていましたが、興味深いことに画家のワシリー・カンディンスキーは芸術の中動態―受容/制作の基層 によると、こんなことを言っていたそうです。
私がかつて使用した形態はすべて「おのずと」到来した。私の眼前に出来上がった姿で立ち現れ(sich stellen)、私はただそれを写しとればよいだけであったり、あるいは、すでに制作にかかっている最中、私自身の不意をついて生じたり(sich bilden)するのだった。(p18)
ですから、必ずしもこの空想的な想像力は、ストレスを抱えた子どもが抱える精神病理のようなものではなく、感受性が強く、芸術的資質をもった人たちに共通する特徴なのでしょう。
幼少期にストレスやトラウマを経験した人が必ずしも空想傾向を身につけるわけではありません。ストレスがあるから空想するようになるのではなく、もともと感受性の強い子がストレスを受けたときに空想を避難所にしやすい、ということではないかと思います。
子どものときからの「空想傾向」「持続的空想」は芸術の才能と深く関わっているのです。
わたしの空想傾向
わたしが「空想傾向」と「持続的空想」に興味を持ったのは、何を隠そう、わたし自身がそうだからです。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) という、あまり手に取る機会がなさそうな本を読んだのも、自分に関係するところがある予感がしたからでした。
わたしは子どものころから、もう一つ別の世界に住んでいます。…といっては大げさかもしれませんが、子どものときから寝る前に空想が広がり、物語が勝手に続いていく、というのを経験しています。
きっかけは何だったのか、よく覚えていませんが、物心ついたときには、わたしは、とあるファンタジー世界にいて、4人のきょうだいと、大勢の仲間と一緒に、世界を冒険するようになっていました。
ファンタジー世界の国の名前や設定はもともと決まっていたわけではなく、勝手に話が進行し、その中で見知ったことが世界の設定になりました。いろいろなゲームから影響を受けつつ、物語は広がっていきました。
このサイトの絵のテーマ、「ゆめまな物語」の主人公、ゆめとまなきには、確か2-3年くらい前に出会いました。作ったではなく出会ったと書いているところがポイントです。
あまりそちらでの話を書くと、このサイトに載せている絵に対する印象が変わってしまうのでやめておきますが、わたしの絵のモチーフは、長年の空想から来ていることが多いです。
とはいえ、わたしの空想は、あまり映像が鮮明ではないですし、物語も勝手に進行するので、小説のような計算された劇的な展開はありません。単調かつ都合よく話が展開していきます。
でも、意識的に話を作っているわけではないので、思わぬ人と出会ったり、驚くべき発見があったりして楽しいです。
映像としてはそれほど鮮明でないため、残念ながら、そのまま描き写せば絵ができる、といったお手軽なものではありません。「ゆめまな物語」の絵は、モチーフとして空想の世界の人物を参照していますが、場面や背景などは、その都度考えて作っています。それぞれに載せている詩と、空想の世界の物語にはあまり関係はありません。
持続的空想―オリジナリティの源
わたしは、自分には、絵を描く才能は、あまりないと思っています。
前の記事で書いたように、わたしは視覚的に考える人間ではありません。(リアルな夢を見るときをのぞけば)頭の中にはっきりとした鮮明な映像が浮かぶことはないですし、現実と混同するようなリアリティはありません。また、色の微妙な違いを見分けられる能力もありません。
プロの絵描きになる人には、苦手なことを反復練習する根気が備わっている、という点も以前の記事で書きましたが、わたしにはそのような辛抱強さはありません。すぐ飽きてしまうので、絵はかなり適当です。
さらに、人気のある絵を描く人は、他の人気絵師の作品に強い興味を持っていて、技を盗みます。しかしわたしはアニメやマンガにはほとんど興味がなく、そもそもテレビを見ません。二次創作にもあまり関心がありません。
ですから、わたしは、プロのイラストレーターになったり、二次創作の人気絵師になったりすることは、自分にはできないと思っています。
でも、わたしは絵を描いています。そして、わたしの絵を見る人にはわかると思いますが、世の中の流行や、人気のある題材からはかけ離れた場所で、独自の世界を淡々と描いています。
それは、わたしの中に表現したい世界があるからです。その世界は、おそらくは子どものころの孤独や、辛い家庭環境から発達したと思われる、持続的空想にもとづいています。
わたしはこの本を読むまで、自分には絵を描く取り柄はまったくないと思っていました。しかし実際には、持続的空想は、他の多くの人が持ち合わせていない、後天的な才能のようなものなのだ、ということを知りました。そのおかげで、わたしは国語と美術が苦にならなかったのです。
文章を書くこと、詩を作ること、絵を描くこと、これらはどれも、わたしが好きなことです。以前は文章を書くのが好きなのに、絵を描くことも好き、というのは矛盾しているように感じていました。わたしの先入観では、文章力と画力は相反するものでした。
しかしこの本を通して、どちらも空想の世界を表現する手段であり、持続的空想がある人は国語も美術も好きなのだ、ということを知りました。まさにわたしのことでした。
わたしには確かに映像思考や努力の才能というものはありませんが、持続的空想によるオリジナリティと独自の世界という強みがあります。それは、没個性と言われる今の時代にあって優れた個性です。
何より、わたしが描かなければ、形にならない世界がある、ということを知っているのは、絵を描く強い動機づけであり、絵を描いていて特に達成感を感じる部分です。そう考えると、自分自身の絵を描く能力と素質にも、満足できる気がしました。
これからも、オリジナリティのある絵を楽しく描いて、この子どものころからの能力を活かしていきたいと思います。
▽ファンタジー世界の創作についてもう少し考えてみた記事を書きました。