子どもの4%が持っている「空想傾向」 とは? 絵が描けるのは描きたい世界があるから

「絵を描くスキルがあってうらやましい」。

最近、わたしもそんなことを言われるようになりました。

わたしは自分が絵がうまいなんて思ったことはないですし、どちらかというと、ずっと絵が下手だというコンプレックスを抱えてきた人なので、そんなふうに言われると、どうにも変な気持ちがします。

今でこそ、友だちにイラストのカードをプレゼントしたら そこそこ喜ばれるようにようになりましたが、10代から20代はじめのころなんかはバランスの悪い絵だったので、プレゼントしても ありがた迷惑で、無理して受け取ってくれてるなーというのをひしひしと感じていました。はっきり「いらない」と言われることもありました。

わたしは絵がうまかったわけでもなければ、絵を描くスキルがあったわけでもありません。「絵の技術があるから絵が描ける」というのは、少なくともわたしにはまったく当てはまりません。

だから、今になって「絵がうまくてうらやましい」なんてたまに言われても、何か勘違いされてるなーと思ってしまいます。だいたい今でさえ、自分は絵がうまいなんて、これっぽっちも思いません。

では、わたしが絵を描いてこれたのはなぜか。

その理由は、子どもの頃からの「空想傾向」にあると思っています。

「空想傾向」というと、単に夢見がちな人のことをいう一般的な言葉のようにも聞こえますが、実はれっきとした心理学用語で、1983年に発見されました。解離の舞台という本にこう説明されています。

ウィルソンとバーバー(Wilson and Barber 1983)は、催眠反応性の高い女性群27名と対照群の女性25名、計52名(平均年齢28歳)に対して詳細な面接をし、催眠反応性の高い群のほとんどに見られる記憶、空想、精神的体験などの特徴を描き出し、そこに生き生きとした空想にもとづいた体験を見出し、それらを空想傾向(fantasy-proneness)と名づけた。

…空想傾向は一般人口の四%に見られると推定されている。その基本特徴は空想に対して広く深く没入することであるが、同時に創造的な才能でもあるとされる。(p156)

「空想傾向」は、人口の4%にみられる、空想に深く没入する子どものころからの傾向です。ときに創造的な才能にもなるとされる「空想傾向」とはどんなものなのか。どんな良い面と悪い面があるのか、わたしの場合、「空想傾向」がどのように日常に反映されてきたのか、書いてみたいと思います。

「空想傾向」(fantasy-proneness)とは?

最初に引用したとおり、空想傾向は、ウィルソンとバーバーという研究者たちが、1983年に発見したものです。

その後の研究によると、空想傾向は、決して珍しいものではなく、人口の4%、つまり100人のうち4人ほどが空想傾向を持っているとされています。つまり、学校の各クラスに1人か2人は空想傾向の強い子がいることになります。

空想傾向は「創造的な才能」でもあるので、クラスの中でいちばん美術や作文が得意な子が、もしかすると空想傾向の持ち主かもしれません。

空想傾向は、ウィルソンとバーバーが、催眠感受性の研究のときに偶然発見したものでした。しかし、その後の研究では、必ずしも催眠感受性と関係があるとは限らないことがわかっています。

質問紙による空想傾向の測定 : Creative Experience Questionaire 日本語版(CEQ-J)の作成

Lynn & Rhue(1991)は催眠感受性と空想傾向の関係についての研究から催眠感受性と空想傾向の間の相関はあってもわずかである
(r = 0.25)と報告し、高い催眠感受性を持つ対象者の大多数は空想傾向であるということはできないが、高い催眠感受性を持つ対象者
は低い傾向の人と比較すればより高い空想傾向を持っているということを見出した、と論じている。

このr=0.25というのは相関係数を表していますが、相関関係が強いといえるのは、この数値が0.7を上回っているような場合です。

空想傾向と催眠感受性は、当初思われていたほど関係しているわけではないことがわかります。

空想傾向は子どものころから

空想傾向は、大人になってから身につくものではなく、幼いころから備わっているという特徴があります。空想傾向を持つ人は、必ず子どものころから、一風変わった独特な体験をしています。最初の本から再度引用してみましょう。

幼少期の多くの時間、彼女たちは架空の世界に住んでおり、人形や動物の玩具が実際に生きているものと信じ、妖精、守護天使、木の精などが実在するものと信じていた。

半数以上が幼少期に空想上の人や動物であるICと一緒に遊んだりして、多くの時間を過ごしていた。実際に彼女たちは、ICをはっきりと見たり、聴いたり、触れたりしたと報告する。(p156)

この説明では、空想傾向を持つ人は、子どものころから、空想の世界に親しんでいることがわかります。

単にファンタジーが好きだとか、お姫さまになりきってごっこ遊びをするというようなものではなく、「架空の世界に住んで」います。つまり現実の世界に住んでいるのと同じほど、空想の世界での出来事を日常生活のひとコマのように感じています。

言ってみれば、家の裏庭とか、ベッドの下とか、通学路の路地裏とかに、空想世界への扉が見えているようなもので、現実世界と空想世界とが地続きになっています。頻繁に現実と空想とを行き来していて、現実の友だちも、想像上の友だち(IC)も何ら変わりありません。特に、想像力豊かな子どもが創り出す独自の言語や歴史も備え持つ空想世界は、別世界(パラコズム)と呼ばれることがあります。

こんなことを書くと、まるでファンタジーやアニメの話みたいだと思う人もいるかもしれません。

けれども、話の順序が逆で、そういったファンタジーやアニメの世界観のほうが、子どものころから生き生きとした空想に親しみ、気づいたら空想の世界にトリップしていた作家たちの原体験によって作られてきたのだと思います。

続く説明を見てみると、空想傾向を持つ人たちは、物語の世界にも没頭しやすいこともわかります。

また孤児や王女、動物などになりきることも多く、自分は普通の少女のふりをしているが実際は王女であると思っている場合もある。

また物語の世界に没入して、そのなかの登場人物になりきり、その世界で見たり、聞いたり、感じたりする。本のなかの登場人物がICになることもある。

小学生頃になると、周りから嘘をついていると言われたり、からかわれたりするため、そうした空想を人には言わなくなることが多い。(p156-157)

本やアニメの物語を見ていると、その物語の世界の中に入り込んでしまって、あたかもそこの登場人物になったかのように感じてしまい、物語の中の登場人物と会話したり、もともとの物語にはないストーリーを体験していったり、果ては物語の登場人物を空想の友だち(IC)にして、現実世界にまで連れてきてしまったりもします。

物語をただ読んだり見たりしている他の子どもたちとは違って、その世界の中に入りこんで、すべてを体験しているわけなので、本人にとってそれは空想ではなく、現実そのものです。でも、まわりの普通の子どもや大人にとっては突飛な空想でしかないので、夢見がちな変な子どもとみなされるようになってしまいます。

この説明だけでは、空想傾向を持った子どもが、具体的に言ってどんな子なのか、ちょっとわかりにくい人もいるかもしれません。

そんな人におすすめしたいのが、去年、邦訳が発売された、詩人A・F・ハロルドによる児童文学、ぼくが消えないうちに (ポプラせかいの文学)

これは空想がとびっきり豊かな女の子エミリーと、彼女の空想の友だちラジャーとの冒険物語で、空想傾向をもった女の子の日常がどんなものなのか、子ども自身の目線から生き生きと描いています。

空想傾向を持っていない人が読めば、空想傾向を持つ子は決して変な子でも嘘つきでもなく、想像力にあふれた魅力的な子だとわかりますし、自分も空想傾向を持ってきた人が読めば、それこそ物語の世界に吸い込まれて数日間は帰ってこれなくなることうけあいです。

興味がわいた人は、とりあえず出版社による特設ページをどうぞ。

『ぼくが消えないうちに』特設ページがオープンしました! | ポプラ社

また、あなたの子どもには自然が足りない という本には、詩人のウィリアム・ワーズワースやウィリアム・ブレイクの子ども時代について、こんなことが書かれていました。

ウイリアム・ブレイクやウイリアム・ワーズワースなどの、幻視者的な資質を持った詩人たちは、子供たちを精神的に自然へと結びつけた。

子供のころ、ブレイクは預言者エゼキエルが木の上に座っているのを見たと周囲に告げた(そのため親からひどく叩かれた)。彼はまた木の枝の上に天使がいっぱいいて、歌っていたとも言った。

ワーズワースは子供時代に自然の中で信じられない経験をしたことを『雲海不滅の頌』に記している。

牧場も森も小川も
土も、目に入るものすべてが
夢のような栄光と新鮮さの
天空の光を装っているように
私には見えたのだ(p324-325)

ワーズワースやブレイクといった想像力豊かな詩人たちは、幼少期から、自然の風景の中に天使や天空の光を見るような「幻視者的な資質」を持っていました。これが空想傾向です。

成長してからの空想傾向

そんな幼いころから空想傾向が豊かな子どもは、成長して大人になってからも想像力豊かです。

一般に、子どものころは想像力豊かでも、大人になると創造性が失われると言われたりしますが、解離の舞台によると、空想傾向を持つ人たちの場合はそうではありません。

幼少期に空想傾向をもつ者は成人になっても空想が少なくなることはない。

人との会話の内容を想起するとき、その場でありありと知覚しているように感じる。特定の刺激がそれに関連する空想を引き起こす。

…空想があまりに現実的であるため、85%の人が空想の記憶と実際の出来事の記憶を混同しがちであると報告している。(p157)

子どものころは、物語の世界に入り込んで、空想の世界の出来事も、現実の世界の出来事と何ら変わりありませんでしたが、大人になってからも、生き生きとした空想は変わりません。

空想の記憶と現実の記憶を混同しがち、というと、まるで妄想や見当識障害みたいですが、こちらの研究で書かれているように、必ずしも、空想の物事を現実の出来事と取り違えるリアルモニタリング・エラーを起こしたりはしないことがわかっています。空想傾向がとびっきり強すぎて、催眠感受性も強い人はともかく、空想傾向があってもちゃんと現実をわきまえている人は大勢います。

Fantasy proneness, mental imagery and reality monitoring

空想傾向は鮮明な心的イメージ経験と関係しているが、空想傾向が必ずしもリアリティ・モニタリングエラーにつながるわけではない

幼児期における空想世界に対する認識の発達 によれば、空想傾向の強い人は、空想に親しむがゆえにかえって、ごく普通の生活を送る人たちよりも、空想と現実の違いを深く考えるようになるとも書かれていました。

Sharon & Woolley( 2004)は、 空想高群の子どもは空想低群の子どもよりも多種多様な存在を現実的か空想的かで判断することに長けていたと報告している 。

こうした結果について、 Woolley & Cornelius( 2013)は、「数多くの空想に従事する子どもは、 現実とは何か、 非現実とは何かについてより洗練した感覚を持つ可能性が考えられる」( p.64)と述べている。

実際に空想傾向のある人はわかると思いますが、空想に没頭すればするほど、現実とは何か、空想とは何か、というある意味哲学的な問いについて考えるようになるものです。幼いころは空想と現実を混同しがちでも、年齢を重ねるにつれ、より洗練された感覚を持つに至るでしょう。

しかし、いつのまにか、自分でも気づかないうちに、実際にはなかったことを、現実にあったことだと思いこんでしまっている「虚再認」が起こっている可能性はありますし、空想の出来事に、現実の経験と同じくらいの価値や意義があるようにも感じているでしょう。

空想傾向を持つ人は、子どものころ、自分の空想だけでなく、本やアニメの物語に世界にも没入することができましたが、大人になってもやはり、物語の世界に入り込んでしまいます。

最初の本の中で、20代後半の女性はこう語っていました。

物語を読むと空想が出てくる。物語の世界に自分が入って、その登場人物と話したりする。

その世界を見ていることもあるし、その世界の人物になりきってしまうこともある。つらいときにはそういう空想の世界に入り込んでしまう。

空想の世界にその子(ICのこと)が来ると、薬のように一挙に安心感というか、暖かいものを感じる。昔はその子とお喋りをしていた。彼がいると安心できる。(p98)

物語の世界に没頭して登場人物と話したり、想像上の友人とやりとりしたりできることがわかります。

また、やはり空想傾向を持つ30代半ば男性もこう言っていました。

本を読んでいるときでも、まるで映画を見ているようです。映像がはっきりと浮かんできて、そのなかに自分がいるかのように感じる。それが普通のことだと思っていた。

そのなかの登場人物になったり、その登場人物の傍らにいたりする。物心ついたときから空想のなかで遊ぶのが一番楽しかった。空想のなかで遊ぶことを自分の居場所にしてきた。

部屋でテレビ映画を観ているとき、自分はその部屋にはいない。ストーリーの展開にしたがって、その映画の空間全体のなかに入っていく。映画を観ると登場人物の影響が一,ニ週間も続いてしまう。(p95)

本を読んでいるときはまるで映画を見ているかのように、また映画を見ているときは、まるでその空間全体に入り込んでしまったかのように、物語の世界に没頭してしまうことがわかります。子どものころから持っていた物語に入り込む能力は、大人になってからも変わらないのです。

なかには勝手に頭のなかでストーリーが展開し、登場人物たちがひとりでに動いて物語織りなしていく「持続的空想」を経験している人もいます。

「持続的空想」とは、頭のなかで繰り広げられる空想の世界に深くそして頻回に没入し、日常生活の多くの時間をそれに費やすことである。

空想世界はあたかも見えるように現われ、細かく状況が設定され、時にストーリーが数日間にわたって展開する。(p154)

持続的空想については以前の記事でも扱いました。

芸術が得意な人の持続的空想―独自の世界観とオリジナリティの源
国語や美術が得意な人は子ども時代から空想傾向を持っている

空想傾向を持つ人の不思議な体験

空想傾向の強い人は、ただ空想や物語に入り込んでしまうだけでなく、そのほかにも不思議なことをいろいろ経験します。

たとえば、とびきり強い子どものころの記憶を覚えていたり、見るものや聞くもの、想像するものから、人一倍強い影響を受けたりします。

空想傾向者は幼少時から感覚体験に深く没入し、それに集中していることが多い。そういった体験は生まれつき快感を伴っており、楽しい体験だからである。

幼少時の生き生きとした記憶をもっていることが多く、過去をあたかも現在であるかのように想起する。

また空想、記憶、思考が直接的に身体に影響を与えることもあり、テレビや映画で暴力を観たときに具合が悪くなったり、熱さや冷たさを想像するだけで実際にそのように感じてしまったりする。(p157)

ここで語られているように、空想傾向の強い人は、自分の感覚体験に強く、深く没入するため、他の人の何倍も深く刺激を感じています。

子どものころの印象的な体験が、人より何倍も強く感じて脳裏にまざまざと焼き付いていて、そのときの空気や匂い、感触、味まで、手に取るようにリアルに思い出せる人もいます。

テレビや映画の暴力シーンや、3.11の津波のような衝撃的なニュース映像など、刺激的な場面から、強い影響を受けすぎて気持ち悪くなってしまうこともあります。

またいわゆる超越感覚や第六感と呼ばれるものを頻繁に経験している人もいます。こうした感覚は決してオカルトではなく、実際に人間に備わる能力の一部ですが、それがひときわ強く体験されてしまうのでしょう。

五感を超える? 人間の持つ「超越感覚」の正体│日経サイエンス

人間がふだん使いこなしている視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のいわゆる五感。こうした感覚の種類は未発見のものを含め他にたくさんあり、人間はこれらを様々に組み合わせて使っていることが、脳科学の研究からわかってきた。

文字や音に色が見える、人のオーラが見える、音で味がするといった、いわゆる共感覚が鋭いこともあります。

あなたも共感覚者?―詩人・小説家・芸術家の3人に1人がもつ創造性の源
文字や数字に色がついて見えたりする共感覚と創造性

空想傾向を持つ人たちは、眠っている間も生き生きとした夢を見ることが多く、現実と変わらないほど五感がありありと感じられるリアルな夢や、夢の中で自由に行動できる明晰夢を見る人たちもいます。

さっきの本で、ある30代後半の女性はこう言っています。

夢はリアル。匂いもするし、風も感じるし、町のざわめき、走っているときの土の感じとかがありありとしている。

周りは普通の街中と同じで、道路があって建物があって、この世界と同じように見える。現実のこの世界のような感じ。

だから夢だったのか実際のことだったのかがわからなくなる。現実よりも現実的。夢はこの状態で目が覚める感じ。本を手にとって見ても、きちんと内容が書いてある。(p168)

リアルな夢や明晰夢について詳しくは、過去の記事をどうぞ。

幻想的な夢をアイデアの源にしたアーティストたち―なぜ明晰夢やリアルな夢を見るのか
夢を創作に活用したクリエイターたちのエピソードと幻想的な夢のメカニズム

空想傾向はどこからくるのか

こうした不思議な子ども時代の体験、そして大人になってからも続く強い感受性をもたらす原因は何なのでしょうか。

この本によると、その要因には、生来の素質と、二次的な環境原因とが、両方からみあっているようです。(p152)

特に、空想傾向の内容が、自分の願いを満たすかのようなファンタジーの要素が大きい場合は、より生来の素因の影響が強く、逆に不安や恐怖、緊張をかきたてるような内容を伴う場合は、何かしらの環境側の要因が強いのではないか、と推測されています。(p159)

このうち、生まれつきの素因については、おそらく、HSP (Highly Sensitive Person : 人いちばい感受性の強い人)として知られる、遺伝的な素質が関係しているのではないかと思います。HSPは心理学者エレイン・アーロンが提唱した概念で、だいたい一般人口の5人に1人に見られる、生まれつきの感受性の強さだとされています。

HSPが5人に1人、つまり100人に20人ということからすると、100人中4人にとどまる空想傾向の要因すべてをHSPという遺伝的影響で説明できるわけではないことは確かです。しかし、HSPの中でも特に感受性の強い人たちが、空想傾向や共感覚を持ちやすいのかもしれません。

芸術的な感性が鋭いHSPの7つの特徴―繊細さを創作に活かすには?
感受性が強いHSPの人が芸術に向いているのはなぜか

また、環境要因のほうについては、空想傾向を発見したウィルソンとバーバーが、4つの要因を挙げているそうです。

(1)大人が子どもに空想を促したこと
(2)孤独な状況
(3)困難でストレスの大きい状況からの逃避
(4)幼少時からの芸術領域の過剰な練習

空想傾向を持つ人は、この4つの項目のうち、2つ以上に当てはまることが多いとされています。また、空想傾向を持つ人の1/3は、不安定な養育環境で育った生い立ちが見られるそうです。(p158)

創造的才能やコミュニケーション能力にも

ここまで見たように、空想傾向は、豊かな空想に我を忘れて没頭しやすいことや、強い感受性を持っていることを特色としています。

容易に想像がつくように、こうした傾向には、良い面もあれば悪い面もあります。

空想傾向が悪いほうに出てしまうと、現実逃避して空想の世界に閉じこもってしまったり、現実と空想を取り違えて、いわゆるポリアンナ症候群のように非現実的な夢想にはまりこんでしまったり、さらにはネガティブな空想に浸って精神を病んでしまうこともあるかもしれません。

特に空想傾向の原因として、不幸な生い立ちが関わっている場合は、心身の問題につながるリスクが指摘されています。

しかし、空想傾向にはもちろんポジティブな面もたくさんあって、あふれる想像力を芸術的な才能として活かしている人もいます。

空想傾向(Fantasy Proneness)のポジティブ機能― 主観的充実感 と 自尊感情 に及ぼす効果―

ポジティブな側面としては、創造性(Lynn & Rhue,1986)、共感性(Wilson & Barber,1983)、種々の創作活動(Singer & Singer,1990)などとの関連性が指摘されている。

空想傾向の強さがネガティブ、ポジティブどちらに結びつくかは、性格特性、想像・空想経験の統御可能性あるいは状況への対処の仕方などによって異なってくるものと思われる。

空想傾向は、しっかりとコントロールできれば、創造性や共感性、創作活動に役立つ、ということがわかります。

空想傾向を持っている人は、子どものころから、物語に親しみ、架空の世界のイメージを思い描き、物事を深く感じ、登場人物になりきることに慣れているので、文学、絵画、音楽、演劇などの才能が自然と養われていきます。

また、「共感性」という点も挙げられていますが、空想傾向は、他の人の気持ちを思いやる力の高さとも関係しています。

空想傾向が社会的スキルに与える影響

空想傾向が社会的スキルに与える影響は、共感性によって左右されることが多く、特に空想傾向高群ではその傾向が多く見られることが明らかとなった。

具体的には、空想傾向高群において、共感性の「共感的関心」と「気持ちの想像」が高い方が有意に社会的スキル得点が高く、空想傾向低群では共感性によって社会的スキル得点に差がみられなかった。

よって、空想傾向の高さを他者の気持ちや状況を想像したり、それによって他者への暖かい気持ちを持つことに利用できる場合、高い社会的スキルを持つことができると考えられる。

つまり、生き生きとした空想能力を、他の人に関心を示し、気持ちを想像するために活用できる人は、高い社会的スキルを持っていて、コミュニケーションが得意だということがわかります。

しばしば誤解されがちですが、以前の記事で書いたとおり、ファンタジーの空想世界を創ることができるのは、自分の部屋に閉じこもっているマニアックなオタクのような人ではありません。

空想世界の世界観を創るためには、まず現実の世界に対する深い知識と理解が不可欠ですし、空想世界の人物を思い描くには、人の心への関心や共感も欠かせません。

空想のファンタジー世界(パラコズム)の創作に必要な2つの要素
ファンタジーの世界を創作するには知識と共感力が必要

空想傾向を持っている人は、豊かな空想を通して、そうした知識や共感を成長させていくことができるので、高い社会的スキルを身につけることができます。そのような相手の気持ちを理解する高いコミュニケーション能力は、先程出てきたHSPの人の特徴でもあります。

深い感性を持っていた詩人また劇作家で、妖精の存在を信じていたノーベル文学賞受賞者ウィリアム・バトラー・イェイツや、「失われた世界」のような生き生きとした空想小説、そしてシャーロック・ホームズ・シリーズの鋭い心理描写を書き、超常現象にも関心があったサー・アーサー・コナン・ドイルなどは、ときどきアスペルガーではないかと言われることもありますが、実際はそうではなく、空想傾向やHSPの持ち主だったのではないか、とわたしは思っています。

別の記事で詳しくまとめましたが、児童文学作家のエリナー・ファージョンは、とびきり強い空想傾向を持っていたようで、夢見がちな子ども時代を過ごし、のちにそれが作家の創造性の原動力になりました。

わたしの空想傾向

以上のように、空想傾向を持つ人たちは、幼い頃から物語の世界に入り込んだり、強い感受性を持っていたり、創作活動に親しんだりしています。

わたしも、以前に持続的空想の記事に書いたとおり、子どものころは、現実世界とは別に、空想世界でも長い時間を過ごしていました。

過去の思い出を振り返るとき、どれが現実の出来事で、どれが空想世界の話だったというのは (虚再認でない限り) よくわかっていますが、どちらの出来事も同じくらい自分にとって意味がある思い出の1ペーシです。

小学校のころ、夜、ベッドの布団の中で出会った友だちのことを覚えています。一晩中おしゃべりした記憶もあります。そのときの友だちは、その後、わたしの小説の世界に住むようになりました。このサイトにも乗せている翠河瑠香シリーズに出てくる由梨菜のことです。

その当時、学校の校庭の片隅にあった壊れた塀のはしに登って、いつもだれかとおしゃべりして、長い時間過ごしていたことも覚えています。あまりに楽しい時間だったので、いまだにそのことを思い出すとうきうきしてきます。

でも、不思議なことに、当時仲がよかったどのクラスメイトを思い出しても、その場で会話した記憶がありません。そもそもあのわくわく感は、現実の友だちにいまだ感じたことのないもので、夜 布団の中でしゃべっていたときの感覚とよく似ています。けれどもそれが由梨菜だったかというと、おそらくは別の人物だったような気がします。

こうした体験はその後もたくさんあって、いまだに空想世界の物語は続いています。今では現実と空想を混同するほどではないとはいえ、わたしの人生は相変わらず現実と空想がモザイク状になって織りなされています。

空想傾向を持つ人たちの中には、統合失調型パーソナリティ (統合失調症ではなく、病気ではないものの奇抜でエキセントリックな人たち)と呼ばれるタイプの人もいて、ひときわ空想傾向が強く、第六感が強かったり、視覚イメージ力が鮮やかだったり、それこそどっちが空想で、どっちが現実なのかわからなくなってしまったりするようです。

わたしはそこまで思い込みが強いわけではないですし、特に視覚イメージ力は、前に書いたとおり、あまり鮮明でなくぼやけていることが多いです。

それでもリアルな夢はたびたび見ますし、うとうとして空想に没入してしまうことはよくあります。ぼーっとしているときに限れば、ものすごくリアルな視覚イメージが出てきてハッとすることもあります。

最近、VR(バーチャル・リアリティ)のゲームが流行っていますが、わたしの場合、たぶん、あんなゴーグルをつけなくても、ちょっと目を閉じるだけで空想世界を体験できるセルフVRをやっているほうが楽しいんじゃないかなーと思っています。

わたしがよく見るリアルな夢については、前の記事に詳しく書きましたが、最近新しいバリエーションが増えて、さっき引用した体験談にあった、夢の中で本を読む、というのが追加されました。夢の中で本の文字が見えたとき、おやっこれってもしかしたら読めるんじゃないの?と思って意識を研ぎ澄ますと、何が書いてあるのか読めてしまうことが何度か。どうでもいい内容だったり、支離滅裂だったりすることも多いですが。

刺激的な娯楽はいらない

わたしは子どものころはともかく、今は全然テレビを見ませんし、アニメも映画も見ていません。だれかに作られたストーリーをわざわざ楽しまなくても、自分の内から湧き出る空想世界のほうが面白いですし、自分の空想世界というコンテンツを消費するのに忙しくて、だれかが作ったコンテンツを楽しむ余裕がありません。

テレビや映画を見ないわたしでも、本や物語は今でもよく読みます。なぜテレビはだめなのに、本は親しみやすいのか不思議に思っていましたが、さきほどの経験談の中に答えがありました。

たとえば、「テレビや映画で暴力を観たときに具合が悪くなる」とか、「映画を観ると登場人物の影響が一,ニ週間も続いてしまう」といった表現があります。

まさしくそのとおりで、わたしにとっては、テレビや映画は刺激が強すぎて耐えられないのだと思います。わたしがテレビを見なくなった理由の一つに、どんなドラマの予告でも、金切り声を上げたり、怒鳴ったり、果ては殴ったりするシーンがピックアップされていることがあります。

わたしはいつもあれを見るたびに動揺して気持ち悪くなっていて、どうしてこんな衝撃的なシーンをダイジェストで見せるのか不思議に思っていました。今思えば、世の中のほとんどの人は刺激を求めて飢えているので、テレビや娯楽は暴力シーンやきわどい刺激ばかりで埋め尽くされているのでしょう。わたしみたいな感受性が強すぎる人は少数派なのです。

映画にしても、ドラマにしても、アニメにしても、ニュースにしても、内容はどんどん薄っぺらくなって、ただ刺激的なものばかりで構成されているので、過度に没頭し、その中に入り込んでしまうHSPや空想傾向を持った人には、今のメディアや娯楽はあまり向いていないのではないかと思います。

また、テレビや映画は基本的に受け身の娯楽ですが、本は自分で読む速度やページを調整できるなど、能動性があるのがいいのかもしれません。わたしは創作活動が一番好きですが、創作はなんといっても究極の能動的な活動です。

絵を描くのは空想が先、技術は後追い

世の中の大勢の人たちが、退屈しきってひっきりなしに刺激的な娯楽を求めてさまよっているのとは対照的に、わたしは今までの人生で、退屈したことがありません。

順番待ちや移動時間のような、みんなが退屈でしんどいというような場面でも、わたしは退屈するどころか、かけがえのない時間を過ごしてきました。本を開いて物語の世界や知識の海に没頭することもありますし、手元に何もなくたって、何時間でも好きなだけ自分の空想世界を冒険することができます。

何より、初めに書いたように、わたしの絵や文章は、子どものころからの空想傾向の延長線上に創られてきたものです。

最初に書いたとおり、よく「絵を描くスキルがある人が羨ましい」という人がいますが、絵が描けない人に足りないのは技術ではなく描きたい世界だと、わたしは思っています。

わたしはもともと絵を描く技術なんて全然ありませんでした。むしろ絵が描けないと思い込んでいたくらいです。でも、絵を描く技術やセンスはなくても、どうしても描きたい空想世界、わたしが描かなければ形にできない、わたしだけの空想世界がありました。

空想世界の中で、ゆめまなや空花の二人が勝手に新しい場所へ行くと、わたしはそれをなんとか絵に表現する必要に迫られるので、色んな絵を描くようになります。

双子がゾウの友だちを作ったら、わたしもゾウを描かなきゃならない。ソラとハナが世界一高い塔に登ったら、建物や遠近法が苦手でも、塔を描かなきゃならない。

そうしているうちに、いつの間にか、多様な絵を描くようになりました。わたしが意図して空想しているというよりは、登場人物たちが、おのずから、自分の意志で新しい世界に飛び出していくのを、わたしはただ楽しみに見守って、それを絵に写し取っているだけです。

いつだって技術より空想が先行していて、技術は後追いで身に着けるもの、それがわたしの描き方でした。

もちろん、絵を描くには子どものころからの空想傾向が絶対に必須だとかいうわけではないでしょう。たとえば大好きな版権キャラを描きたいという気持ちが動機になって二次創作を通して上達していく人や、美しい風景に魅せられて絵を描くようになる人だっています。動機はさまざまです。

でも、どんな人であっても、「技術があるから絵が描ける」サヴァン的な人はほとんどいなくて、たいていは、ほかの人が持っていないモチベーション、絵を描く理由、描かなければならない理由があったからこそ、絵を描き続け、スキルが後追いで身についてきたのだと思います。そして、そのようなさまざまなモチベーションのひとつが、子どものころからの空想傾向なのです。

この記事で見てきたように、空想傾向には、ネガティブな側面もあれば、ポジティブな側面もあります。空想傾向があるからといって、イコール芸術的才能があるというわけではなく、しっかりコントロールしなければ、才能どころか問題だらけになってしまうこともあります。

わたしも、空想世界の出来事があまりに楽しすぎて、ともすれば現実に戻ってこれなくなるような時期がありました。一時期リアルな夢の世界にはまりすぎて、夢を見るために毎日生きていたようなころがあったことは前に書きました。いまだって、バランスをとるのが難しいといつも感じています。

それでも、空想傾向の手綱を握って、現実と空想とを絶妙に織り合わせるようになれば、子どものときから親しんできた空想傾向は、創造性の源になり、コミュニケーションの助けになり、何よりも、ほかの誰でもない、自分だけの思い出と夢がつまった宝箱になるに違いありません。

投稿日2017.01.26