繊細で夢見がちで創作が大好きなHSPの人にこそ読んでほしい「ファージョン自伝―わたしの子供時代」

これまでずっと、自分の独特な個性に悩んでいて、なかなか身の回りに、似たタイプの人を見つけられないでいました。ひとまずADHDの診断は受けましたが、自分の一面にはすごく当てはまるものの、それだけでは説明しきれない感じがしていて。

「のび太型ADHD」の本を読んで自分のお絵描き人生の謎が色々解けた話
わたしの創作力はADHDで苦労していたことの裏返しだった

その後、あれこれ調べたところ、心理学者エレイン・アーロンが提唱したHSP(Highly Sensitive Person とても感受性の強い人)にもっとも近い、というところまではたどり着きました。しかし、HSPにもさまざまなタイプの人がいます。人類の5人に1人はHSPだと言われますが、そんなにわたしと似ている人がいるとは思えません。

芸術的な感性が鋭いHSPの7つの特徴―繊細さを創作に活かすには?
感受性が強いHSPの人が芸術に向いているのはなぜか

どこにでも溶け込めるけれど誰とも違うような、現実を生きているようで ずっと夢の中にいるような、そして創作しつづけていないと死んでしまうような。そんな不思議なこれまでの人生を振り返ると、一人だけ別世界の住人のように感じてしまうのですが…、

ついに見つけました!  わたしと同じ種族、同じ世界の人を。

けれども、わたしなりに幼いころの自分を描写しようとしてみると、このようになる。

夢見がちで、臆病で、病弱、涙もろく、痛々しいほどのはにかみ屋で、感じやすく、食いしん坊で、外からのどんな力にも規制されずに生きている少女。

それほどわがままなわけではなく、人への愛情が深いのと同時に、人に愛されたいという願望もまた強かった。

また、人に苦痛を与えるのがいやなのと同じくらい、人から苦痛を与えられることもいやだった(わたしはたいがいのことに臆病だったのだ)。

そして、書くこと、読むことと自分の家族、それから空想の世界に深く深く没頭していたのだった。(p280)

わたしが読んでいたのは、ファージョン自伝―わたしの子供時代という本。児童文学作家エリナー・ファージョンが、自身の子ども時代を振り返って書いた自伝です、

エリナー・ファージョンとわたしは、生まれが一世紀以上違うし、そのほかにも諸々の違いはたくさんあります。わたしはエリナー・ファージョンのように後世に名を残すような作品を創ることもないでしょう。けれども、それらを差し置いてでも、わたしはこの自伝を読んでいて、自分の子ども時代を重ね合わせることができました。

もし、わたしの絵や文章を見てくださっていて、自分と似ているところがあるな、と感じていただけた人がいたら、きっとこの ファージョン自伝―わたしの子供時代には共感できるところがたくさんあると思います。HSPにもさまざまなタイプの人がいますが、とりわけ空想世界が大好きで、人生の大部分を別世界で暮らしてきたような人にこそ読んでほしい本です。

感受性の強いHSPの人は、今の社会だと、発達障害ではないか?とみなされたり、神経質すぎるとか過敏すぎるとか批判されがちです。でも、この自伝を読めば、この性格は、障害や病気などでは決してなく、個性のひとつだとはっきりわかります。

この記事では、児童文学作家エリナー・ファージョンとはどんな人だったのか、どのように空想世界と親しみ、それが創作の原動力となったのか見てみましょう。

そして、HSPとは障害や病気のようなものではなく、ただ周囲の世界を敏感に反映してしまう個性だということ、すなわち虹色の世界を映し出すこともあれば、殺伐とした世界に影響されてしまうこともある真っ白なスクリーンのようなものなのだ、ということを、わたしの経験を交えてお話ししたいと思います。

いきなり自伝から読み始めた

いきなり白状しますが…

恥ずかしながら、わたしは、この自伝を読むまで、エリナー・ファージョンという作家のことを知りませんでした。それなのに、なぜこの自伝を読もうと思ったのか。

先日の記事に書いたように、最近わたしは、自分の空想世界について調べてみたいと思い、関連する書籍をあさっていました。まず見つけたのは、幼児期における空想世界に対する認識の発達という本で、その内容を頼りにして自分の生い立ちについて探ってみました。

その折に、ついでに見つけたのが、このファージョン自伝―わたしの子供時代でした。Amazonの解説によると、エリナー・ファージョンとは、「子供時代に謳歌した夢のような空想世界が、こうした名作を生み出す感性を育んだ」作家らしく、二件ほどついている魅力的なレビューに惹かれ、これはぜひ読んでみたい!と思いました。

そういえば、わたしは中学校のころにアガサ・クリスティー自伝を本屋で買ってきて、買う本間違えたのでは?なんて親に不思議がられていた子どもでした。昔から、自伝や伝記、ライフストーリーなどを読むのが大好きでした。このサイトの絵についての考察でも、古今東西の作家のいろいろなエピソードを引用していますが、人間の物語とか心理学に惹かれます。だから、きっと自伝から読み始めても楽しめるはずだと思いました。

面白いことに、ファージョン自伝―わたしの子供時代を読んだあと、親にそのことを話したら、親の子どものころからの愛読書が、エリナー・ファージョンの児童文学ムギと王さま―本の小べやだと知りました。わたしが子どものころ育った家の本棚に、ずっとエリナー・ファージョンの作品が並んでいたのでした。今にして思えば、出会うべくして出会った作家だったのかもしれません。そういえば、アガサ・クリスティーと、エリナー・ファージョンは共に内気で空想好きで学校教育を受けずに育っているなど共通点が多くありますし。

児童文学作家エリナー・ファージョンとは

エリナー・ファージョンは、1881年、イギリスのロンドンで生まれました。父親はディケンズ風の作家ベンジャミン・ファージョン、母親は舞台俳優を数多く輩出しているジェファーソン一家のマーガレットでした。

父親も母親も芸術家という、たいへん恵まれた家庭。エリナー・ファージョンは、そこの4人きょうだいの上から2番め、唯一の女の子として生まれます。子ども時代の愛称は「ネリー」で、自伝の中ではエリナーよりなネリーの名前が使われているので、ここからは彼女をネリーと呼びましょう。

ネリーは、小説家の父親と舞台俳優の血を引く母親の影響で、5歳にして物語を書き始め、詩や音楽、ときには絵画にも親しみ、やがて児童文学作家として花開きます。1921年、40歳ごろに書いたリンゴ畑のマーティン・ピピンで一躍有名になり、晩年の1956年には、第一回国際アンデルセン賞を受賞しました。

…と、こうした略歴だけなら、インターネットで調べるだけですぐわかりますし、有名な児童文学作家だったのだなー、というくらいの感想しか湧いてきません。もしわたしが彼女の作品を読んでも、著者略歴を見たくらいでは、自分とよく似ている、なんて感じることは永遠になかったでしょう。

作品は作者の人柄を物語りますが、自伝はそれ以上のことを教えてくれます。わたしはオリヴァー・サックスという作家が好きでしたが、彼の自伝を読んだとき、いっそう大好きになりました。自伝はその人自身しか知らない子ども時代のエピソードや、作家として有名になるまでの道のりを垣間見させてくれます。ネリー・ファージョンの物語もその期待を裏切りませんでした。

想像力豊かな作家というのは、何もないところから魔法のように物語を紡ぎ出せる天才のように思われがちですが、じつはそうではない、とわたしはいつも思っています。わたし自身の経験から言えば、本当のところ、作家というのは、ゼロから物語を生み出しているのではなく、子ども時代から親しんできた空想世界での出会いや実体験を、ファンタジー作品へと作り変えているだけなのです。ネリー・ファージョンの子ども時代は、その生きた実例となっています。

とびきり繊細で敏感だったネリー

わたしは、この自伝を読んで、ネリーは間違いなくHSP、それも芸術的感性にあふれたHSPの典型だと感じました。もちろん、本人がHSPだと名乗っているわけではありませんが、HSP(Highly Sensitive Person)とは直訳すればとても感受性の強い人という意味です。ネリーは自分たちきょうだいのことを、こんなふうに描写していますから、自分がHSPだと名乗っているようなものでしょう。

いまのわたしから見れば、わたしたちは愛情にあふれて、「ユニーク」で、過剰なまでに繊細な、そして生まれ落ちたままのように奔放に育ち、それゆえに社会的に見ればやや内気ではあったけれども、いつもなにかに没頭していた集団、というように見える。(p303)

「過剰なまでに繊細」なのは、HSPの中心的な特徴です。HSPの人たちは、とても細やかで繊細な感受性を持っているがゆえに、芸術的感性が豊かですが、同時に傷つきやすくもあります。また周りの人とあまりにも違っていて「ユニーク」ですが、裏を返せば集団から浮きやすく、目立ってしまいやすい、ともいえます。HSPの提唱者エレイン・アーロンは、HSPとは、良い面も悪い面も含むひとつのパッケージだと言っていました。感受性が強いゆえに、長所と短所が同居しているのがHSPなのです。

HSPは一般人口の5人に1人くらいの割合でいると言われています。わりと多い気がしますが、同じHSPの人でも、どれだけ繊細で感受性が強いかは人それぞれです。ちょっとHSPぎみの人もいますし、強いHSPの人もいます。とびきり強いHSPの人は5人に1人どころか、かなり珍しい存在だと思いますが、ネリーはまさにその典型、HSPの中のHSPだとわたしは思いました。

冒頭で引用したように、ネリーは子どものころの自分の性格をこう表現していました。

夢見がちで、臆病で、病弱、涙もろく、痛々しいほどのはにかみ屋で、感じやすく、食いしん坊で、外からのどんな力にも規制されずに生きている少女。

それほどわがままなわけではなく、人への愛情が深いのと同時に、人に愛されたいという願望もまた強かった。

また、人に苦痛を与えるのがいやなのと同じくらい、人から苦痛を与えられることもいやだった(わたしはたいがいのことに臆病だったのだ)。

そして、書くこと、読むことと自分の家族、それから空想の世界に深く深く没頭していたのだった。(p280)

この説明から思い浮かぶのは、ちょっと揺らしただけで雪が舞い散るスノードームみたいな、繊細な感受性を持った子どもです。まわりの視線が気になりすぎて、すぐ恥ずかしくなってしまう、引っ込み思案のはにかみ屋。他の人の感情に敏感すぎて、人の痛みが自分自身の痛みのように感じられてしまう子ども。ちょっとしたことからすぐに想像が膨らんで、空想世界にトリップしてしまうような夢見がちな少女。そして、その強い感受性と想像力のおかげで、創作したくてたまらない小さな作家さん。それが子ども時代のネリーでした。

ネリーがどれほど繊細で感受性豊かな子どもだったかを物語るエピソードは、自伝のそこかしこに散りばめられています。

たとえば、HSPの人の70%は内向型だと言われています。周りの人の視線を意識しすぎてしまうので、なかなか一歩を踏み出しにくいのでしょう。慣れ親しんだ家の中ならともかく、一歩外の世界に出ると、みんなからどう思われているのだろうか、という不安が頭をもたげます。ネリーはこう書いています。

家の外に飛び出してみたいと思ったことはなかった。わたしにとって大切なことは皆家のなかに十分あったからだ。家のなかでは、のびのびと自然にしていることができた。

でも、よその家に行くと自分をとても意識してしまうので、どこにも行かずにすむならそれにこしたことはないと思っていたし、知っている人とすれちがったりしても、自分の存在が目にとまらなければいいがと願ってしまうような子だった。(p280)

わたしも、まったく同じで、自分の家の中、部屋の中にいることが大好きです。外の世界に興味がないわけではなく、人と話すのも楽しめますが、自意識過剰であれこれ考えすぎて疲れてしまうので、やっぱり一人で安心できる家の中にいる時が一番落ち着きます。

ネリーはまた「人への愛情が深いのと同時に、人に愛されたいという願望もまた強かった」と書いていました。HSPの人は、他人の気持ちがわからないのではなく、逆にわかりすぎてしまうがゆえに、人いちばい親密さを求め、人いちばい傷つきやすくもあります。

昨今、「空気が読めない」ことが問題にされがちですが、HSPの人はその逆に、他人の気持ちを想像するのが得意で、しばしば「空気を読みすぎて」しまいます。空気が読めない人は、自分の好きなことを延々としゃべり続けたりしますが、HSPの人は逆に空気を読みすぎて、自分の意見をまったく言えなくなりがちです。こんなことを言ったらどう思われるだろうか、と相手の気持ちを想像しすぎるからです。ネリーもそのせいで、パーティーのような人が大勢いる場所では何も話せなくなって緊張してしまったそうです。

わたしはパーティーではいつも人見知りしてしまった。…今度のパーティーではちゃんと楽しく過ごして帰ることができるだろうか、といつも気をもむような女の子だった。

パーティーに行くまでの時間をわくわくしながら楽しむことができないのはもうわかりきっていた。パーティーとなるといつもお腹が痛くなってしまうのだ。(p377)

ネリーは、他の人の気持ちを想像するのが得意で、そのおかげで後にさまざまな登場人物が織りなす物語を書けるようになりました。しかしフィクションの登場人物の心境を生き生きと思い描けるのと同じように、まったく知らない人の境遇にも、強く感情移入して、思わず泣いてしまうこともありました。

ママがあるダンス曲を弾いたとき、わたしはいままでとはちがった理由でも涙が出ることをはじめて知った。

「ママ、それはなんという曲?」
「ウェーバーの最後のワルツよ」

あっという間に涙で目が曇った。音楽がとてもすてきだったからではなく(その曲がいいと思ったかどうかも定かではない)、それがウェーバーの、最後のワルツだったからであった。

それじゃ、ウェーバーさんは死んじゃったのね。かわいそうなウェーバーさん。どんな人なのかも知らないのに、わたしは彼が死んだからと言って泣いた。人は誰でもいつかは死んでしまうのだ……。(p220-221)

さらにネリーは、他の人の気持ちを想像しすぎるあまり、人間でないものの感情までありありと想像してしまうこともよくありました。たとえば、シェイクスピアの「夏の夜の夢」の一節、「踏みつぶされるあわれなカブトムシよ」というフレーズを聞いたとき、その痛みを自分のことのように感じてしまいました。

(ああ、あのカブトムシはどんなに痛かったことだろう。物言わぬ生き物の痛みは、彼らに同化することでしか理解できないものだ!)(p295)

わたしも、子どものときから、人や動物の気持ちをありありと想像しすぎてしまいます。物言わぬ無生物やゲームの登場人物まで感情移入してしまいます。動物を狩るようなリアルなゲームは痛々しくてプレイできませんでしたし、肉を食べるときも、動物が屠殺される悲しみを想像してしまうので、ほぼフィッシュベジタリアンです (本当は魚も食べたくないけれど、これでも妥協したほうです)。最近知りましたが、HSPの提唱者のエレイン・アーロンも菜食主義者だし、わたしの好きなオリヴァー・サックスもフィッシュベジタリアンだったとか。感受性が強いと、やっぱりどこかで動物の痛みについての葛藤があるのでしょう。ただし、当のネリー自身は美食家だったらしいので、この葛藤を乗り越えたのかもしれません。

感受性が強すぎて、自分自身の内なる不安や葛藤や、まわりの人の痛みや苦しみ、さらには音や光などの刺激を敏感に感じすぎてしまうと、気分が悪くなったり、体調を崩したりすることもよくあります。普通の人が意に介さないようなことにも動揺して、感情が揺れ動いてしまうので、ストレスを感じやすく、その影響が心身症として体に出ることがよくあります。ネリーもやっぱりそんな子どもだったようです。

頭痛のしなかった日、安らかにぐっすり眠れた日。そんな日をわたしは一日たりとも憶えていない。(p279)

汽車の旅というのは、心をわずらわされることが多いものである。ママとはぐれて迷子になってしまうのではないかと心配したり、パパがポーターにたいして興奮したりいらだったりしているのにやきもきしたり、耳のなかが痛くなったり、わたしたちの乗る汽車がくる前に、特急列車が通過してしまってがっかりしたり、プラットホームで感じるこのような興奮と不安から、いつも気持ちが悪くなるほどの激しい頭痛が起きた。(p284)

たいていの子どもにとって、遠足とか旅行は楽しいイベントでしょうが、わたしはまったく違いました。幼稚園のときのお泊まり会からしてものすごいストレスで、戦場に出征するかのような決意で臨んだのを覚えています。小学校のときの林間学校や修学旅行も同じでした。できることなら休んでしまいたいとどれほど願ったことか。中学校の修学旅行でハウステンボスに行ったときは、体調を崩してしまい、ひとり先生の部屋で寝てました。もちろん、旅行で味わった様々な新鮮な体験はどれも貴重な思い出ですが、それでも旅行中ずっと早く安心できる家に帰りたいという気持ちにつきまとわれていたものです。

彼女の敏感さは、どうも大人になっても変わらなかったようです。大人になってからのネリーの人生は、姪が書いた別の伝記エリナー・ファージョン伝―夜は明けそめたで読むことができますが、それによると、家に帰るなり、着ていた服をぜんぶ脱いでしまう習慣があったのだとか。わたしもつい家では軽装になってしまいますが、たぶん皮膚に触覚過敏があって、堅苦しい服装が苦手なのだと思います。(p180)

HSPの感受性の強さは、周りの人を思いやったり、想像力を養ったりするにはうってつけですが、あまりに強い感受性が自分の心や体に跳ね返って突き刺さってくることもある、もろはの剣でもあるのです。

ところで、前に紹介したように、HSPの人の中には、単に敏感なだけでなく、刺激を求めて新しいことに挑戦する好奇心の強さを持ち合わせている人もいます。これはHSS(High Sensation Seeking )と呼ばれる性質です。芸術家の中には、ただ単にHSPなだけでなく、HSPであると同時にHSSでもある、という人が多いようです。というのも、新しいものに挑戦したり、興味をもったりしないなら、創造性のレパートリーを広げるのが難しいからでしょう。

今回の自伝によると、ネリーの父であり、作家でもあったベンジャミン・ファージョンは、HSSの典型的な性格で、刺激を求めて少年時代にゴールドラッシュのオーストラリアに単身飛び込んだような人でした。その子どもであるネリーも、基本的にはHSPが強かったようですが、HSS傾向もしっかり受け継いでいたようです。

わたしは寄せては返す波のようなものや、自分の手にはけっして届かないもの、完全には知りつくせないものなどに心ひかれた。

たとえば地平線上の太陽の光が海につくり出す銀の道。月とそれをとりまく恒星。

虹と、その七色の光。幾すじもの光が、光る雲の端から地上までカーテンのように垂れているさま。

並木がつくり出す緑のトンネルのはるか向こうに見える光などである。(p283)

こうした未知なるものに対する旺盛な好奇心は、ネリーの創造性の成長にとってなくてはならないものだったでしょう。未知なる新しい世界に触れるHSS傾向と、それをじっくり深く考えるHSP傾向とが相まって、ネリーの豊かな想像力が育まれていきました。

現実と地続きになった空想世界「TAR」

感受性の強いHSPの人は、しばしばその膨大な想像力で、巨大な空想世界を創り出します。最初に触れたように、もともとわたしは、そんな巨大な空想世界について知りたくて本をサーチしているときに、このファージョン自伝―わたしの子供時代を見つけたのでした。

子どものときからひときわ深い空想に親しむ人たちの想像力は、前に書いたように心理学的には「空想傾向」(fantasy-proneness)として研究されてきました。

芸術が得意な人の持続的空想―独自の世界観とオリジナリティの源
国語や美術が得意な人は子ども時代から空想傾向を持っている

ファンタジーな作品を創る画家や作家、また演劇の役者などの中には、子どものころからこの空想傾向を持っていた人が少なくありません。子どもが空想ごっこをするのは ごく普通のことですが、空想傾向を持つ子どもの場合は、その規模が段違いです。普通の子どもの空想はあくまで現実世界を彩る飾りにすぎませんが、空想傾向を持つ子どもは、あまりに空想が膨らみすぎて、自分が住めるほど巨大な空想世界を生み出します。ときに空想と現実の境目があいまいになったり、それぞれの役割が逆転してしまうこともあります。普通の子は空想で遊ぶのに対し、空想傾向を持つ子は、空想の中に住んでしまうのです。ネリーはどうだったのでしょうか。

空は、想像がつくり出した野外劇場であった。まばゆいばかりの光を放ちながら、その実像をはっきりと結ばない世界。そこは想像を無尽蔵につくり出すことのできる宝庫だった。

本を読んで自分を魅了してくれるすばらしい世界に出会うずっと前に、空がわたしの想像をかき立てる最初の「暗示」を与えてくれたのだった。(p299)

ネリーはとても想像力豊かな子どもでしたが、最初に空想を思い描いたのは、大空というキャンバスでした。想像力という絵の具を揃えた子どもにとって、空はどんなものでも描ける魅力的な画用紙です。「空想」という言葉に、空という感じが含まれているのは偶然ではないでしょう。わたしも、まさにそれをテーマにした絵を描いたことがありました。

この絵は、大空に絵を描く、というメルヘンチックな内容ですが、さっき書いたとおり、作家が創る作品は、作家自身の原体験にもとづいていることが多いものです。わたしも、ネリーと同じように、子どものころ、大空をキャンバスに見立てて想像力を膨らませた体験があったからこそ、こんな絵を描きました。

空に流れるさまざまな形をした雲は、わたしたちの想像力をかきたてます。もやもやっとしたあいまいな形が、さまざまなアイデアの連想を生み出す、ということは、昔の芸術家たちも気づいていました。この現象はパレイドリアと呼ばれています。

しかし、ネリーは、ただじっと空を眺める、ポリアンナのような夢見がちな女の子だったわけではありません。空想傾向を持つ子どもは、ただ空想を思い描くだけでなく、自分が住めるほど大きい空想世界を生み出すと書きましたが、ネリーもまたそうでした。彼女のあまりに奔放な想像力が発揮されたのは「TAR」という独自の遊びを作ったときでした。

「TAR」は誰か別人になったふりをする、あの子供の遊びのことである。けれども、わたしとハリーがこの遊びにかける情熱、入り組んだ設定、そして自分ではない役柄になりきる度合いは、ほかに比類のないものだったろう。

「TAR」がはじまったのはわたしが五歳のときだが、この遊びのなかで経験したことは、それから20年以上ものあいだ、わたしの内外両面の生活におけるいちばん重要な経験でありつづけた。

わたしたちは豊かな想像力をパパの血筋から、そして別の人格になりすます演技力をおそらくママの血筋から受け継いでいた。

このふたつの性格を両親から受け継いでいたからこそ、わたしたちはひとつではなく、15ものちがった人格に瞬時にしてなりすますことができたのだった(考え方から身振りまでをすばやく変えるので、ドラマの進行がさまたげられるということはけっしてなかった)。(p360)

「TAR」とは何でしょうか?

「TAR」は、ネリーが成長してくる上で、アイデンティティの基礎をかたちづくったといっても過言でないほど重要な遊びで、この自伝では特にページ数を割いて詳しく語られています。Amazonの解説文に書かれていた「子供時代に謳歌した夢のような空想世界が、こうした名作を生み出す感性を育んだ」というのは、おもにこのTARを指しているのでしょう。

「TAR」を考えだしたのは、ネリーではなく、3歳年上の長男ハリー・ファージョンでした。ハリーもまたネリーに負けず劣らず繊細で想像力に満ち満ちていて。のちに作曲家になった男の子です。

TARの起こりは、ハリーが8歳、ネリーが5歳のとき、一家で「ザ・ベイプス」という舞台を見に行ったときのことでした。劇に感動したハリーとネリーは、登場人物であるテッシーとラルフになりきる遊びを始め、それにのめりこむようになります。始める合言葉は「テッシーとラルフに変身!」で、終わるときは「ハリーとネリーに逆戻り!」でした。この遊びは、やがて他の弟たちも巻き込み、テッシーとラルフ以外のさまざまな人物を演じるものへと発展していきますが、遊びの名前は「テッシーとラルフごっこ」のままでした。

十年ものあいだ、本から劇から伝説から、神話から、そしてスポーツの英雄たちの実話にいたるまで、すべての情報源から「TAR」はその登場人物を拾い集めてきた。(p374)

でも、「テッシーとラルフごっこ」という名前には不都合がありました。ハリーとネリーは、この空想世界の冒険のことを、親や他の人に知られたくなかったのです。それは子どもたちだけの秘密でした。

誰かに「なにをして遊んでいるの?」と聞かれても、わたしたちはだまっていた。このゲームの名前は秘密なのだ。誰にも教えてはいけない。

でも、もしわたしがハリーにこう言うのが聞こえたら、どうだろう。「テッシーとラルフ遊びをしましょう?」ときっとなにをしているかわかってしまうにちがいない。

ハリーがすばらしいアイディアを出した。「これからはこの遊び(Tessy-and-Ralph)の頭文字をとってT・A・Rと呼ぶことにしよう。TAR(タア)と発音すればいい。これで誰にも気づかれずにすむさ」(p367)

こうして、TARという名前が生まれました。TARとは、テッシーとラルフ遊びを指し示す、子ども同士の暗号だったでした。テッシーとラルフが登場しなくなった後も、登場人物を入れ替えて延々と続くこの遊びにふさわしい名称でもありました。「延々と続く」とはどれほど長かったのかって? それはもう「永久に続く」だったそうです。

ふたりは永久に、何時間でも、何週間でも、何年でもごっこ遊びをつづけていた。

…「TAR」はゲーム以上の、確固とした存在だったのだ。…「TAR」は実生活にとってかわるようななにかではなく、わたしにとっては人生そのものだった。

豊かな収穫を実らせるべきときに、緑の葉を茂らせ、成功すべきときには失敗した。実際の生活で起こるべき恋愛や冒険、悲劇、喜劇、スポーツでさえも、すべてわたしとハリーの「TAR」のなかに起こった。

「TAR」のなかでは、わたしは何日にもわたっておとぎの世界の登場人物になることができた。数々の決闘や闘争に負けたり勝ったりし、罪を犯したかと思えば英雄的な行動をとり、高潔な徳を身につけた後事故の苦しみに耐え、いろんな方法で何度も死んだ。

自分の王を陥れたかと思えば、今度は王を救う側にまわり、愛人をつくったり、愛人になったり、クロケットやテニスで大勝利をおさめたり負かされたり、聖職についたり、危険に目に遭ったり、喜んだり、飢え死にしそうになったかと思えば大金持ちになり、人を愛し、人に愛され、憎み、憎まれ、美しくなったり醜くなったり、強くなったり弱くなったりと、いつかは経験するかもしれないが、その歳ではけっしてできないようなありとあらゆる種類の人生を生きることができたのである。(p362-363)

TARに参加したのは、ハリーとネリーだけでなく、4人のきょうだい全員だったそうですが、特にこの遊びを愛しのめりこんだのは、ハリーとネリーの二人だったようです。この兄妹の想像力は無限大でした。二人の空想世界には果てがありませんでした。どこまでもどこまでも、果てしなく進み続けることができました。あらゆる時代の、あらゆる国の人たちになりきり、あらゆる物語を演じ、あらゆる人生を謳歌することができました。

わたしも、子ども時代、下の弟とまったく同じように延々と、永久にごっこ遊びをしていたのを思い出しました。ハリーとネリーとは違い、残念なことにわたしの弟は亡くなってしまいましたが、その後も、わたしの空想世界は果てしなく広がりつづけました。わたしもまた自分の空想世界の中で、あらゆる人生を生きも、あらゆる物語の主人公になり、王国の外交に頭を悩ませたり、伝説の剣を手にして死神と闘ったり、難事件を推理したり、養子を育てたり、ロボットを開発したり、それはそれは無数の冒険に挑みました。

ネリーの言葉どおり、わたしの空想世界の冒険も「実生活にとってかわるようななにかではなく、わたしにとっては人生そのもの」です。現実の世界で経験するより、何倍にも圧縮された時間をそこで過ごしたので、わたしにとってはいまだに空想世界のほうが現実の居場所で、リアルの世界は借り住まいのように感じられます。ネリーもまた、現実世界よりはるかに多くのことを空想世界の中で体験したと書いていました。

想像力と演技力というわたしたちに与えられたこと双子の才能はあまりにも実用的で、おもしろく、魅力的だったので、わたしたちは自分たちの現実の人生よりももっとすばらしい人生をつくり上げることができた。

そして年を重ねるにしたがってその才能はさらに実り豊かな収穫をもたらしてくれたので、たかが子供の遊びだからといって、大人になってからもその遊びから卒業することなどとうていできなかったのである。

わたしは現実の生活のなかでよりも、「TAR」の世 界のなかではるかに多くの進歩をとげていた。(p360)

わたしもまさにそうでした。いえ、いまだにそうです。ネリーは「大人になってからもその遊びから卒業することなどとうていできなかった」と書いていますが、わたしもいまだに卒業できていません。毎晩毎晩、空想世界の物語には新しいページが追加されていますし、ちょっとでも気を抜けば、現実世界が空想世界に侵食されていきます。

現実の何倍も波乱万丈の経験ができるTARはいいことづくめに思えますが、あまりに魅力的すぎるのはかえって危険でもあります。ネリーは、TARに入り浸りすぎて、大人になっても卒業できませんでした。空想世界に入り浸るということはつまり、現実世界から引きこもってしまうという意味でもあります。

広げるべき現実の世界は狭いままなのに、「TAR」の世界はどんどん広がっていった。わたしには自分をぐいぐいと引きつけてしまうこのゲームの外では、どんな新しい冒険も、友人も、経験もほしいとは思わなかった。

しかし、わたしの成長にとって、このゲームこそは危険な障害物であった。というのは、想像の世界がどんなに広がっていっても、そこには常識的な知識が含まれていなかったからである。

だから、わたしは三十歳近くなるまで自分が女の子だという意識もなかったし、頭でっかちなわりに精神的には未熟だったので、相応に精神が成熟するには、さらに十年はかかってしまった。(p360-361)

わたしもまったく同じ問題に直面してきました。あまりに空想世界が居心地よくて、そこでの人生が幸せすぎて、現実の世界などどうでもよくなってしまいます。わたしにとって、空想世界の人物こそが本物なので、そこでの人間関係にはとても気を遣います。けれどもリアルの人間関係となると、時々どうでもよくなってしまいます。今でもたまに、リアルで疲れてしまうと、一週間ぐらい空想世界に閉じこもって出てこれなくなることがあります。ネリーが、空想世界の外では「どんな新しい冒険も、友人も、経験もほしいとは思わなかった」のと同じように。

ネリーは、30歳近くになるまで自分が女の子だと意識しなかったと書いています。女の子らしい格好もあまりしておらず、父親にまるで男の子みたいだと言われたとか。わたしも今に至るまで自分の性別とか年齢、外見などをほとんど意識したことがありません。だって空想世界の中のわたしは、どんなプロフィールにだってなってしまえるんですから。現実のちっぽけなことにこだわる必要を感じません。

ハリーとネリーにとって、現実の世界とはリアルの世界ではなくTARの世界のほうだったので、リアルの世界の存在としての「ハリー」という男の子と「ネリー」という女の子は、演じる役の一つにすぎませんでした。

もちろん、家のお手伝いさんや両親は、わたしたちが何時間ものあいだ、なにかに没頭して遊んでいることは知っていた(けれども、その秘密の祭りが何週間ものあいだずっとつづいており、そのあいだふたりが「ハリー」と「ネリー」になったふりをしているとまでは思わなかったことだろう)。(p361)

ネリーにとって、現実の「ネリー」が数ある配役のひとつにすぎなかったように、わたしもまた現実社会の自分は、虹色に变化する配役のなかから一つの色を抜き出した、かりそめの人格にすぎないと感じてしまいます。空想世界の中で、ありとあらゆる人物になりきることができるのと同じように、現実世界でも、いつの間にか、まるっきり別人になったかのように振る舞ってしまいます。

前に書いたように、わたしのアイデンティティはとてもあいまいで、たやすく別の色に変容していまいます。それはネリーが、TARを通して「ひとつではなく、15ものちがった人格に瞬時にしてなりすますことができた」のと同じなのかもしれません。空想世界であらゆる人格になっていて、現実の自分はそのうちのごく一部にすぎないことを思えば、現実の自分のアイデンティティが希薄になってしまうのは当然です。

「色がない」わたしは自分が描く空想世界の中でだけ虹色でいられる
わたしは「色がない」から「虹色」の空想世界を描き続ける

寝る前に上映される「想像ゲーム」

ネリーがきょうだいたちとTARで遊んだのは、昼間だけでしたが、その驚異的な想像力は、夜になってもおとなしく寝てはくれませんでした。昼間TARで空想世界に入り浸っていたのと同じように、夜は夜で、自分だけで創る空想の劇場が幕を開けました。

夜中の「想像ゲーム」は、マーゲイトで生まれてはじめてサンガーのサーカスを見た後ではじまったものである。

それはハリーと協力して昼間に遊ぶゲーム、「TAR」がはじまるのとほぼ同時期のことだった。

平面的な考えを、意志の力によって三次元の夢に変えてしまうこのゲームのおかげで、眠れない夜が至福の時間に変わってしまった。

わたしはサーカスで見た女性に加えて、有名人やそこここにいる人々をどんどんゲームに参加させたので、数年もたつとそうそうたる人物たちが遊び仲間になった。(p284)

夜の「想像ゲーム」は、TARと時を同じくして始まった、ネリーのもうひとつの劇場でした。この二つは似ているようで別物でした。

TARのほうは、きょうだいたちと一緒に創り出す空想世界でした。幼児期における空想世界に対する認識の発達に書いてあった「準宇宙」(パラコズム)の形成と近いものだったのでしょう。

その他に、児童期以降になると、子どもの中には複数の仲の良いきょうだいあるいは友達と一緒に、「 準宇宙」( paracosm)と呼ばれる空想の王国や世界を作り出すことが知られている。

Silvey & Mackeith( 1988)は、 ラジオや新聞広告の呼びかけに応えて調査に協力してくれた 57 名(子ども3名、 大人 54 名)のうち 74%が、7歳から 12 歳の間に準宇宙を創作したことがあると回答したことを報告している。

例えば、ある女性は8歳の時、弟と一緒に「ミナトゥリアン」という少数民族のレースを空想し、 自分たちで雑誌を作った。また、 11 歳の時には仲の良い女友達と一緒に、「インスラ」と「プロスペリト」という島国を空想し、 独裁主義の島国「ウリリア」との戦いを 17 歳になるまで創作し続けたという。

このように、 準宇宙は空想の友達とは異なり、 しばしば仲の良いきょうだいや友達との共同作業によって作り出される。そのシナリオは複雑であり、 しばしば絵や文章によってまとめられる点が特徴として挙げられよう。(p64-65)

一方、夜中の「想像ゲーム」は、こうしたきょうだいたちとの共同創作ではなく、自分ひとりの想像力で ありありとした空想世界を創り出すという違いがありました。

またTARは実際に体を使い、声を出して演じる舞台演劇のような空想でしたが、夜中の「想像ゲーム」のほうは、映画に近いものでした。あたかも、自分だけの特等席に座って、真夜中のスクリーンに映し出されるストーリーを楽しむ劇場のようなものだったのです。

わたしの空想世界は、弟が亡くなる前はTAR風でしたが、一人で空想するようになってからは「想像ゲーム」風になりました。前に書いたように、わたしは、小学校3年生ごろ、真夜中ベッドの中にいたとき、本物にしか見えない女の子と出会いました。はっきりとその姿がわかり、はっきり会話することができました。なんとも不思議な体験ですが、ネリーもまた、自伝の中で「想像ゲーム」劇場の幕が上がったときのことをこう書いています。

ネリーは夜、ベッドでサーカスのことを思いめぐらしていた。紙を張った輪をくぐり抜ける、馬に乗ったきれいな少女。

なにを泣いているんだと聞かれて、おいおい泣きながら、「にいちゃんの服はおいらにゃ着られねぇ」と答える泣き虫の道化師。

ある夜、ベッドに寝ていると、なんとも不思議なことに、ネリーの「考えていること」が本当になったのだ。そうとしか、ほかに言いようがなかった。

これらのうつくしいもののことをただ考えていただけでなく、そのうちに突然それらが目の前に現れ、自在に動いたり、馬を走らせたり、紙の輪をくぐったりしはじめたのだ。

バンドの演奏する音楽が聞こえ、照明があたり、昼間の太陽の光のなかで見るようにはっきりと、まるで本物を見ているかのように、そこに、現れたのだ。

ネリーは魔法にかかったように、恍惚として横たわっていた。また、ほかの晩にも起こるかしら。こんなふうにして呼び出したのはわたしの力なのかしら。

そうよ。きっと、そう。こうして、ネリーは寝つけないままベッドに横たわっているときには、考えていることが形を持って目の前に現れるのを夜ごと待ちつづけたのである。(p226)

 わたしのほかにも、同じような体験をしている人がいて安心しました。それも精神的に病んだ人とかではなく、恵まれた家庭に育ったひときわ繊細な女の子、のちに世界的な児童文学作家になったネリー・ファージョンだったのですから。

今日では、想像力豊かな子どもが、目に見える姿を持ち、実際に会話することができ、時には触れることさえできる空想の友だちを持つ場合がある、ということは学問的にも証明されています。この前読んだ幼児期における空想世界に対する認識の発達はそうした現象について研究した本でした。

目で見え、声が聞こえ、触れることもできるというのは比喩ではなく、ネリーが『「考えていること」が本当になったのだ。そうとしか、ほかに言いようがなかった』と書いていたとおり、文字通りの意味です。わたしの場合、さすがに今となっては、文字通り姿が見えたり声が聞こえたりすることはなくなりましたが、空想上の人物がそばにいるときの存在感は、まざまざと感じ取れます。

わたしが空想の友だちに出会ったのは9歳か10歳ごろでしたが、ネリーもまた、13歳のときに空想の友だちに出会ったことを書いてました。

キーツに全身全霊をかけてのめりこんだのは、13歳のときのことだった。それ以来長いあいだ、「ハイペリオン」の詩よりもすばらしいと思えるものはほかになかったし、アポロという名にいたっては、これ以上わたしをうっとりとさせてくれる名前はどこを探してもけっして見つからなかったのである。

わたしはアポロをまるごと自分の若い神様に祭り上げた。わたしの夜の空想のなかではハイペリオンという名前で登場したが、人間のあいだではウォーリック卿の息子ディック・ネヴィルになるのだった。(p286)

ネリーは、キーツのハイペリオンを読んだとき、詩の世界と登場人物を自分の空想の中に取り入れてしまいました。そのとき取り入れた人物はアポロまたハイペリオンという名前になり、もともとの詩の設定から完全に独り立ちして、ネリーの個人的な空想上の友だちとしてTARや夜の想像ゲームの中で具現化するようになりました。

ネリーは幼いころに初めて空想の劇場が開演して以来ずっと、「寝つけないままベッドに横たわっているとき」には、劇場が上映されるのを楽しみにするようになりました。その結果、「眠れない夜が至福の時間に変わってしま」いました。そして現実と空想の境目はもはや存在しないも同然になりました。現実世界と空想世界を行き来するのに魔法の扉をくぐる必要はなくなり、二つの世界は地続きになったのです。

カーテンの向こう側にある、あのうっとりするような世界を生まれてはじめて経験して以来ずっと、わたしのなかでは現実の世界とお芝居の世界は区別がつかないほどに混ざりあってしまった。

我が家の裏庭のつづきにあのきらめく世界があり、あのきらめく世界のつづきに、ハリーとわたしが舞台の一部を再現する我が家の裏庭があるように思われるのは、なんと不思議なことだったろう。

そのとき以来、夜にベッドに入り、眠りにつこうとするとき、ひとりでにとてもすばらしいことが起こるようになった。横たわっているわたしの目の前に、舞台の上でも舞台をおりてからも、わたしがよく知っている、大好きな人々が現れるようになったのである。(p397)

わたしの夜の空想劇場はいつ幕開けしたのかよく覚えていませんが、いまだに律儀に毎晩毎晩、ちゃんと上映を守ってくれています。よっぽど疲れているときや、気が立っていて眠れないようなときは、なぜか上映中止になってしまってとても悲しい思いをするのですが、ネリーもひどい一日の思い出を書いた部分で、まったく同じこと言っていました。

そこで、あまり寝心地のよくない場所にじっと寝ていなければならなかった。わたしは想像の世界に没頭することに気持ちを集中しようとしたが。けれども、今夜はそれもうまくはいかない。

アポロでさえもちゃんと姿を現してくれないのだ。心の画面にアポロのイメージを持ってくることはできた。けれども、それはまるで人形をテーブルの上に持ってきたのと同じで、自分の力では動いたりしゃべったりしてはくれないのだった。(p445)

ひどいことが数珠つなぎのように連鎖した一日の終わりには、ネリーの空想の劇場は上映されませんでした。劇場の席に座って、いまかいまかと楽しみにするのですが、一向に映画は始まりません。

わたしの場合も、精神的にリラックスできていない夜は、映画が上映されなくなってしまって、あの退屈で寝られない夜という、どんな悪夢よりも耐えがたい時間がやってきます。

ネリーは、空想の友だちであるアポロを自分で頑張ってイメージしても、まるで人形のように「自分の力では動いたりしゃべったりしてはくれない」と書いています。わたしの空想世界の人たちもそれと同じで、自分の力で無理やりイメージしても、命のない人形みたいになってしまってまったく動いてくれません。

空想の友だちにしろ、空想世界の登場人物にしろ、わたしがまったく意識せず、受動的にただぼーっと空想のスクリーンを眺めているときだけ、魔法がかかって命を持った本物の人間になり、独りでに物語を始めてくれます。勝手に話が進行していくからこそ夜の空想劇場はわくわくして、登場人物もまた本物の人間と遜色ないのです。映画は勝手に上映してもらうものであって、自分でイメージして作り上げるものではありません。

ネリーの想像ゲームは、基本的には寝る前に上映されるものでしたが、必ずしも寝るとき限定ではありませんでした。ネリーの場合もわたしの場合も、その劇場は、夜の決まった時間にオープンするというよりは、昼間であれ、夜であれ、「退屈で苦痛なとき」にオープンするという決まりがあるようです。たとえば、ネリーは、バスに揺られている退屈で苦痛な時間に、想像ゲームと同じ生き生きとした空想が現れたと述べています。

市街バスのいちばん端っこに押し上げられて、バーナーズ通りのクランプトン先生の踊りの稽古へガタゴト揺られながら行くときなど、わたしはこの騒音を、自分がよく知っているお気に入りの曲をぶっ通しで演奏するオーケストラに仕立て上げることもできた。

たとえば、マスカーニのオペラの間奏曲や『ヘンゼルとグレーテル』の大部分などにである。

バスがガタゴト揺れていたり、街の喧騒がわたしをすっぽりと包んでいたりするかぎり、このオーケストラはわたしの真夜中の「想像ゲーム」で、登場人物が生き生きと動くのと同じくらい、本物そっくりに演奏したものだ。(p286)

バスの退屈で苦痛な時間は、ネリーの想像力によってたちまちオーケストラに変わってしまいました。わたしも学校の退屈な授業や全校集会、車やバスや電車に乗って移動しているときなど、よく勝手に空想の劇場が上映され始めることがあります。ぼーっとして意識が解離したときに、映画が自動的に始まるようです。

有名どころでは、ドラえもんののび太くんとか、赤毛のアンのアン・シャーリーも、わたしやネリーと同じ特技を持っているようです。作家は自分が体験したこともとにを作品を作っている、というわたしの持論に違わず、ドラえもんの作者の藤子不二雄や、赤毛のアンの作者のルーシー・モード・モンゴメリは、自分自身がそんな空想たくましい子ども時代を送っていたので、こうしたキャラクターを作ったようです。

このぼーっとしている退屈で苦痛なときに、勝手に空想の映画が上映される現象は、脳科学的には、脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)が関係していると考えられます。DMNとは、何もやっていない安静時、つまりぼーっとしているときに生じる脳のアイドリング状態のことです。前に書いたように、アイデアが突然天から降ってきたりするのは、このDMN状態のときです。

「神さまが降りてくる」現象の正体―芸術は本当に「わたし」が作るのか
小説・マンガ・音楽などは脳のデフォルト・モード・ネットワークが創っていた

例えば、お風呂に入っているときや、散歩しているとき、自転車に乗っているとき、うとうとしているときなどにどこからともなくアイデアが降ってきやすいのは、脳がDMNになっているからです。そのとき湧いてくるアイデアは自分で苦労して考えたものではなく、どこからともなく独りでにやってきたと感じられます。ぼーっとしているときに始まる空想劇場は、この現象の豪華版だとみなすことができます。

脳科学的にいえば、創造性は「何か一生懸命に考えているとき」ではなく、「何も考えず頭を休めているとき」に発揮されやすいものなので、現代人がスキマ時間を活用したり、忙しく予定を詰め込んだりしているのは、じつは創造性には逆効果です。このあたりの研究や実験は、マヌーシュ・ゾモロディ の退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すという本に詳しく書かれています。

わたしたちの脳には、退屈で耐えられないようなときに、苦痛を紛らわすために空想を創り出すという能力がもともと備わっているようです。

その最たるものが、オリヴァー・サックスが見てしまう人びと:幻覚の脳科学で書いてるシャルル・ボネ幻視でしょう。視力の衰えた高齢者の場合、幻視が見えるようになることがありますが、それはあたかも、目が見えなくなるという究極に退屈な苦痛をまぎらわすために、脳が映画を作ってくれているかのようです。

デイヴィット・スチュワートは自分の幻覚を「とにかく友好的」と言い、自分の目がこう言っているのだと想像している。

「がっかりさせてごめん。失明が楽しくないことはわかっているから、このちょっとした症候群、目の見える生活の最終章のようなものを企画したよ。たいしたものではないけど、私たちにできる精いっぱいなんだ」。(p42)

興味深いことに、この幻視は、完全に目が見えなくなって、見えない生活に慣れきってしまうとなくなるそうです。目が見えない生活が当たり前になると、それを退屈だと思わなくなるので、脳がわざわざ映画を創り出す必要がなくなる、ということなのかもしれません。

ネリーやわたしが、真夜中に空想の映画を楽しめるのは、なかなか寝つけない寝付きの悪さゆえに脳が退屈するからですし、ネリーがバスの中でオーケストラを聞けたのも、騒音が苦痛で移動時間に退屈したからでした。巨大な想像力という空想傾向を持った子どもにとっては、耐えがたい退屈さこそが、創造性を燃えたたせる最高の薪になるのです。

現実を生きるにはどうすればいいか

わたしにしても、ネリーにしても、これほど空想世界に入り浸りの子ども時代を送ったのは、HSPの感受性の強さがかなり影響していたのでしょう。

最初にみたように、感受性が強すぎると、ほとんどの人にとって何気ない物事が苦痛になります。ほとんどの子どもは、遠足や修学旅行を退屈だと感じることはありませんが、わたしにとっては慣れない環境のせいで、いつも体調が悪くなってしまい、楽しさよりも苦痛のほうが勝って退屈でした。ネリーもまた、汽車の旅行や、人の多いパーティで同じように退屈や苦痛を味わいました。

HSPの70%は内向的だとされていましたが、それはつまり、感受性が強いと刺激の多い外の世界が苦痛になりやすいということです。より刺激の少ない、慣れ親しんだ家の中のほうが安心できるので、インドア派になっていきます。

でも、家の中でも完全にリラックスできるとは限りません。家の中にもそれないりに不快な刺激はありますし、もし家族が不仲だったりしたら、自分の居場所がないでしょう。ネリーの家庭はとても恵まれていましたが、父親のベンがかんしゃく持ちだったので、ときどきピリピリとしたムードになりました。わたしの家庭は、まあ、お世辞にも居心地がいいとはいえませんでした。

そうなると、感受性が強く想像力豊かな子どもにとって、究極の安心できる場所、リラックスできる場所というのは、慣れ親しんだ文字通りの家というよりは、慣れ親しんだ心の住みか、つまり空想世界の中だけなのです。ネリーは、現実より現実じみている空想世界に馴染みすぎて抜け出せなくなっていましたし、わたしはいまだに自分の故郷は空想世界で、自分はそちらの住人だと感じています。

本当なら、一生、空想世界の住人として過ごしたいのですが、肉体をよりしろにする人間である以上、現実はそれを許してはくれません。物質の体を維持するには、現実世界で働かねばなりません。ネリーにしてもわたしにしても、苦労したのはそこでした。

怠け者で、食いしん坊で、わがままで、無軌道な性格を持ったわたしの目の前に、挫折の二文字が横たわっていた。

毎日何時間となく、わたしは家族が「ネリーは仕事をしている」という嘘を信じてくれることを期待して、部屋を閉めきって過ごした。

けれども、実際にわたしがやっていたことと言えば、ハイペリオンを呼び出し、延々とのらくらし、トランプ遊びをもう一回だけ、と言いながらやりつづけ、飴をしゃぶり、本を読んで読んで―あともう一章だけ、と言いながら読みつづけ、それからやっとペンをとるのだった。

あのころいつもわたしはこんなふうだったし、それはいまでも変わらない。(p593)

想像力豊かなHSPと言うと聞こえはいいですが、さっき見たように、それはのび太くんと同じだという意味でもあります。わたしはいわゆるのび太型ADHDと診断されていますが、HSPとのび太型ADHDは同じコインの表と裏です。

感受性の強い繊細なHSPの子どもといっても、それはメリットに注目した場合の話で、デメリットに注目してしまえば、ごろごろ昼寝してサボりがちで、空想にふけることが唯一の楽しみというのび太型ADHDでしかありません。中立性のある心理学から見ればHSPですし、欠点に注目する医学から見ればのび太型ADHDという診断になります。

空想世界に延々と閉じこもって自分のやりたいことばかりやっているなら、究極のダメ人間まっしぐらです。わたしもずいぶん長いこと、自分は怠け者のダメ人間だという劣等感に悩まされてきました。

HSPやADHDが生まれつきの性質である以上、この性格は変えられません。たとえ空想世界でどんな人格にもなりすませると言っても、根本の空想癖そのものは変えられないのです。だから、ネリーは、50代の作家になってもなお「あのころいつもわたしはこんなふうだったし、それはいまでも変わらない」と書いています。

空想癖が染み付いて、簡単にのび太化してしまうHSPの人にできるのは、この怠け癖をいっそ仕方ないものとして受け入れてしまって、それでもなんとか生きていけるすべを身につける、ということに尽きます。

ネリーは、空想にふけってばかりの子どもでしたから、それでやっていくには、その空想そのものを仕事にするしかありませんでした。それ以外の選択肢などどこにもありませんでした。

ランカスター通りの家に引っ越してから、わたしは疑問の念にさいなまれるようになった。いったい、この先自分自身の足でしっかり自立することができるのだろうか。

自分自身にたいする疑問と、自分の才能にたいする疑問がかつてないほどにわき起こってきたのである。わたしはそのころ、もう二年以上もつづいている神経性の病気に悩まされており、十六歳のときに自ら幕を開けた転換期のただなかにあったのだった。(p592)

わたしには自信というものがなく、書くこと以外には自分の足場がなかった。それなのに、どうしても、どうしても、わたしは仕事を敢行することができなかったのだ。自分には書くことができるとわたしは信じていた―実際にペンをとることさえできたならば。(p594)

ネリーの最大の長所は、そのとびきり豊かな想像力でしたが、それは同時にネリーの唯一の長所でもありました。その空想能力は他の人が持っていない最大の武器でしたが、それしか武器がないともいえました。ネリーは学校に一度も行ったことのない子どもでした。言ってみれば、他の子が何かしら勉強してきた時間をほとんどすべて空想に費やしてきたきたのがネリーの人生でした。

世の中に5人に1人はいるとされる平均的なHSPの人たちならまだしも、圧倒的に強い感受性を持ち、空想世界を創り出せるほど空想傾向が強いHSPの人の場合、普通の仕事なんてそうそう就けません。

ネリーは恵まれた家庭で普通の生活を送っているだけでも、頻繁にストレスが体に現れ、何年も続いている神経性の病気に悩まされていました。わたしも10代のころから慢性的な疲労感や、ありとあらゆる不調に悩まされてきました。

これがもし、普通の人たちと同じようにアルバイトやパートタイムの仕事を始めたり、サラリーマンになったりしたら、どうなるでしょうか。はっきり言って絶対に体が持ちません。普通の日常生活の刺激でさえ苦痛なのであれば、一般の人たちでもストレスに耐えねばならない職場で働くなどもってのほかです。感受性の強すぎる極端なHSP体質の人は、それくらい「取り扱い注意」なのです。ちょっと衝撃を与えたら簡単に割れますし、壊れます。

だから、相当感受性が強いHSPの人には、仕事の選択肢はほとんど残されていないといっても過言ではありません。唯一の取り柄ともいえる巨大な想像力を活かして、普通の人が就けないような特殊な仕事に就くしか、生きる道は残されていません。たとえば作家や芸術家やクリエイターやアーティスト、さらにはセラピストやプログラマーやデザイナーになって、その感性を活かした仕事をする以外に生きる道はないのです。

ほかに道がないから、そうした専門的な職業に就くしかない、なんておかしな話だと感じる人がいるかもしれませんが、書きたがる脳 言語と創造性の科学という本にこんな話が書かれています。

多くの作家は単純に、ほかに何もできなかったから作家になったと言う。

ナサニエル・ホーソーンは書いている。「わたしは医者になって人々の病気を暮らしの糧にするのは嫌だった。牧師になって人々の罪を暮らしの糧にするのは嫌だし、法律家になって人々の争いを暮らしの種にするのも嫌だった。そう考えると、作家になるしか道は残っていなかった」

大学時代にボクシングをやっていたT・S・エリオットは言う。「わたしは動きが鈍すぎた。詩人になるほうがずっと易しい」 

ジョージ・バーナード・ショーは作家生活の現実的な利点を強調するが、これは現代にも通じる。「わたしが文学を仕事にする最大の理由は、作家は顧客の目に触れることがなく、立派な服装をする必要がないからである」(p275)

みんなそれぞれ様々な理由を挙げていますが、これらの作家たちが繊細で敏感すぎる極端なHSPだったとすれば納得がいきます。

ナサニエル・ホーソーンが、医者や牧師や法律家になりたくなかったのは、そうした職業につくと人々の病気や罪や争いに向き合わなくてはならないからです。ネリーが、感受性が強すぎるせいで、カブトムシの痛みさえ感じ取り、見知らぬ人の死に泣いてしまったのを覚えていますか。そんな感受性を持っていたら、人々の罪や死や争いに日々向き合う仕事が務まるでしょうか。いいえ、そんな殺伐とした仕事は絶対無理なので、感受性を活かして作家になるしか道は残されていません。

T・S・エリオットは運動神経が足りませんでした。HSPの内向型人間だったとすると、体を動かす仕事は難しかったでしょう。もし極端なHSPの人であれば、ネリーみたいに普通の生活をしているだけで不調に見舞われるはずですから、体を動かす仕事になんて就いたら、一年も経たないうちに体を壊すでしょう。詩人になるしかありません。

ジョージ・バーナード・ショーは、人目に触れる仕事ができませんでした。たぶんHSPで感受性が強すぎたせいで、人目を気にしすぎてしまうからでしょう。ネリーがパーティに行くたびに体調を崩していたように、感受性が強すぎると人と関わる仕事はストレスが強すぎます。文学を仕事にするしかありません。

オリヴァー・サックスのオアハカ日誌によると、高名な詩人のW・H・オーデンもまた、とても敏感な人だったらしく、「いつも暗い部屋に閉じこもり、カーテンを閉めきって外の世界や気を散らすものを遮断して書いていた」そうです。そんなことが許される職業は作家ぐらいしかありません。(p106)

医者も、法律家も、牧師も、肉体労働も、接客業も無理。強い刺激はお断り。そんな感受性の強すぎる人に残されているのは、一人でコツコツと感受性を活かした作業ができる仕事、あるいは相当洗練されたストレスの少ない職場での仕事だけです。もうこの時点で選択肢はかなり狭まります。

生活のすべてを犠牲にして、無理やり普通の仕事に就いて、休みの日は死んだようにぐったりしてボロ雑巾のようになっていくか、それとも、自分のたぐいまれな想像力を頑張って磨いて、普通の人が就けない仕事に就くか。どっちにしてもイバラの道です。どっちがいいか?というより、どっちがマシか、という選択肢かもしれません。ネリーは結局、後者を選びました。わたしもやっぱり後者を選びました。いや、選んだといえるほど立派な仕事はしていませんが、普通の仕事に就いてボロボロになるよりは、たとえイバラの道でも感性を活かした働き口を見つけるほうがまだマシでした。

でも、こう言う人がいるかもしれません。自分はとても強いHSPだから、普通の仕事は辛すぎて無理。かといってネリーみたいにクリエイティブな仕事に就けるほど才能があるとは思えない。

そう感じる人は、このことを知っておくべきです。児童文学作家エリナー・ファージョンは、作家の道を選びましたが、それは天才的な才能があったからではありませんでした。

最初の略歴で見たように、彼女がようやく有名になったのは、40歳ごろリンゴ畑のマーティン・ピピンを書いたときでした。国際アンデルセン賞を受賞したのは70歳を過ぎてからでした。ネリーは才能があったから作家になったというよりは、本人が書いていたように「自信というものがなく、書くこと以外には自分の足場がなかった」から作家になったのです。

それでも、10年、20年と辛抱強く感性を磨き続けていくうちに、才能のほうが後から追いついてきたのでした。そういえば、わたしが大好きなオリヴァー・サックスも、ようやく本を書いて名が知られたのは40歳ごろでした。

もちろん、感性を活かせる仕事というのは、作家業だけではありませんし、目指すのは有名になることではなく、とりあえず自活していけるようになることです。普通の仕事に就くことが難しいほど感受性の強い人であるなら、その強い感受性を活かせる仕事が必ず何かあるはずです。普通の仕事に就けない、ということそのものが、大多数の人が持ってない特殊な感受性を持っていることの証拠だからです。その特殊な感受性が求められている仕事は必ずどこかにあるので、あきらめず探すことが肝心です。

下手に妥協して無理のある仕事に就いてしまうよりは、たとえ時間がかかるにしても、自分という独特な形のピースがぴったりはまる仕事を探すほうが、絶対に苦労の見返りが大きいはずです。たとえ収入が多くないとしても、自分の感性を活かせる仕事に巡り合ったなら、大多数の人には味わえない充実した人生を送れるでしょう。ネリーと、彼女のきょうだいたちがまさにそうだったように。

ネリーと似ているあなたにこそ読んでほしい物語

この記事では、児童文学作家エリナー・ファージョンの子ども時代の様子をファージョン自伝―わたしの子供時代からたどってきました。国際アンデルセン賞を受賞し、ここ日本を含め世界中で愛されている童話作家。そう書くと、いかにも才能に満ち満ちた響きがありますが、この世界的な児童文学作家は、もともとは一人の繊細で感受性の強い女の子、「夢見がちで、臆病で、病弱、涙もろく、痛々しいほどのはにかみ屋で、感じやすく、食いしん坊で、外からのどんな力にも規制されずに生きている少女」ネリーだったのです。

とびきり豊かな想像力は、他の人にはない長所でしたが、同時に空想を抜け出て現実に向き合うのを妨げる短所でもありました。20代のころには、自分の才能に限界を感じ、すぐ空想にふけってしまう自分に嫌気がさしてしまうこともありました。でも、「ほかに何もできなかったから作家に」なる覚悟を決めたことで、やがて人いちばい強い感受性が才能へと育っていきました。

ひときわ感受性が強すぎて、空想にふけってしまいやすいHSPの人は、この記事で見たとおり、子どものころから生きづらさを感じやすく、心身の不調も抱えやすく、自信を持ちにくく、仕事に就くのも苦労します。そのせいで、わたしがそうだったように自分は欠陥品だとか、ダメ人間だとか感じることもあるでしょう。場合によっては、医者から発達障害のレッテルを貼られることもあるかもしれません。

あまりに色々と苦労するので、医者から「あなたには障害がある」と言われると納得しそうになりますが、そのときはネリーの物語を思い出してください。彼女は夢見がちで、引っ込み思案で、怖がりで、そっと触れただけでもヒビが入りそうなほど繊細なハートを持っていましたが、絶対に障害者でもダメ人間でも欠陥品でもありませんでした。ただ人いちばい感受性が強かっただけなのです。そして、あきらめずにその感受性を磨きつづけたら、ほかの誰にも創れないような作品を紡ぎ出せる児童文学作家エリナー・ファージョンになれたのです。

この記事を読んでくれているあなたやわたしが、ネリーと同じような特性を持って苦労しているとしても、それは決して何かが欠けているからではありません。ただ人いちばい感受性が強すぎるだけです。

感受性の強さは障害ではなく、いわば、真っ白なスクリーンのようなものです。真っ白なスクリーンそのものは良いものでも悪いものでもありません。真っ白なスクリーンは、良いものであれ悪いものであれ、何でも忠実に映し出します。ひときわ感受性の強いHSPの人たちは、強い刺激やストレスを感じると、それが真っ白なスクリーンにそのまま反映されてしまい、心身の不調を抱えがちです。でも、すばらしい芸術に触れたり、心揺さぶる感動を味わったりしたら、それもまた真っ白なスクリーンにそのまま反映され、素敵な創造性が生まれるのです。繊細な感受性という真っ白なスクリーン何が映し出されるか、悪いものが反映されてしまうか、それとも良いものを反映できるかは、ひとえにわたしたち次第です。

最初のほうで書いたように、わたしの親は、エリナー・ファージョンのムギと王さま―本の小べやを愛読していました。そのまえがきで、70代になったエリナー・ファージョンは、こう書いていました。

わたくしが、目をいたくしながら、こそこそと本の小部屋を出てくる時、わたくしの頭のなかには、まだ、まだらの金の粉がおどり、わたくしの心のすみには、まだ、銀のクモの巣がこびりついていたとしても、ふしぎではありません。

ずっとあとになって、わたくしが、じぶんの本を書きはじめた時、その物語が、つくりごととほんとのことと、空想と事実のまじりあいになってしまったとしても、ふしぎではありません。

あのほこりから生まれたこの本の物語が示すように、わたくしには、それとこれとの区別がつかないのです。

七人のおとめが、七本のほうきをもって、半世紀のあいだ、はきつづけても、わたくしの心に巣くう、きえた寺や花や、王たちや淑女たちのまき毛、詩人のため息、若衆やむすめたちの笑いをふきはらうことはできませんでした。(p7)

70歳を越え、世界的に有名な作家になった後でさえ、児童文学作家エリナー・ファージョンの創造性を支えていたのは、「半世紀のあいだ、はきつづけても」決して消えることはなく、もう現実と区別することさえできなくなった子ども時代の空想世界でした。

どれだけ才能豊かな作家になっても、エリナー・ファージョンという児童文学作家を演じていたのは、あのときTARに熱中した夢見がちな少女だったのです。兄のハリーといっしょに、TARで来る日も来る日も冒険を空想し、あらゆる人生を思い描いた少女は、いつしか児童文学作家エリナー・ファージョンという人生を演じきるだけの想像力を身につけたのでした。

冒頭に書いたように、わたしは、このファージョン自伝―わたしの子供時代を読んで、自分と同じ種族、同じ文化の人を見つけた!と感動しました。たとえ1世紀も昔に生きた、遠く離れた国の人であっても、その生まれ持った繊細な感受性と、それゆえに経験した喜びと苦悩は、まさしくわたしが経験してきたものと瓜二つでした。

わたしは彼女について知ったことで、自分という存在が決して異常なのではなく、ただとびきり感受性が強すぎるだけなのだ、ということがわかり、大いに安心し、励まされました。同じように悩んでいる人、劣等感を感じたり、自信をなくしたりしてしまっている繊細な人には、ぜひ一度読んでみてほしい本です。

インターネットで、この自伝の感想やレビューを調べてみると、とてもおもしろいことに、評価がはっきり二分されていました。ネリーの奔放な空想世界の思い出にうっとりして、自伝というよりひとつの作品だと褒めちぎる人がいる一方で、まとまりもない話題をつらつらと書いた大変つまらない本、エリナー・ファージョンのファン以外には読むべくもない本だと酷評している人もいました。

読了したわたしからすれば、評価が二分されるのはとてもよくわかります。簡単に言えば、エリナー・ファージョンとよく似ているHSPの人にとっては、自分と重ね合わせて読める最高の物語ですが、HSPでもなんでもない普通の人が読めば、よくわからない他人の私的な日記にすぎないでしょう。つまり、もしあなたが、この記事を楽しんでくださったとしたら、まず間違いなく共感できる一冊だ、ということになります。

これまで、感受性が強く、夢見がちで空想世界とともに生きてきた人ならきっと、この自伝、そしてエリナー・ファージョンの作品の数々を読めば、あの懐かしい子どものころの世界に引き戻されるに違いありません。そして、自分は決して一人じゃないんだ、同じような経験をしてきた人がいたんだ、ということを知って勇気づけられること間違いありません。

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投稿日2017.12.18