本物の自然を観察して描く。そうやってポターとダ・ヴィンチは芸術家また博物学者になった

絵本作家としてのビアトリクスはあまりに有名であるが、彼女のキノコの絵を中心とした博物画のコレクションは、ほとんど知られていなかった。(p5)

この前、ピーター・ラビットの作家ビアトリクス・ポターの生涯を振り返る記事を書きました。

そのときちらっと紹介したピーターラビットの野帳(フィールドノート)という本が、非常に興味深かったのでご紹介。

この本は、ビアトリクスが描いた絵本“以外の”絵がカラーでたくさん収められています。中には鉱物や化石、昆虫などのデッサンもありますが、特にキノコの絵が豊富です。

そして、(こればかりは言葉で伝えられないのですが)ビアトリクスの植物画は、構図といい、色使いといい、質感といい、写真よりもはるかにリアルです。まるで目の前にキノコが生えているかのよう。つやっつやの質感と魅惑的な色使いは、おもわず「おいしそう」と思ってしまうほど。

そう感じるのはわたしだけじゃなくて、英国菌類学会の会長F.B.ホーラ博士をして、「今まで私が見たどんなキノコの絵よりも優れた出来栄えを誇っている」とまで言わしめたのだとか。(p58)

この本がおもしろかったのは、19世紀のアマチュア博物学者たちの世界観を伝えているからです。前に神経科学者オリヴァー・サックスのオアハカ日誌の感想のときにも出てきた、あのわくわくする世界。

プロだの専門家だのといった、権力のしがらみができる前の、ただ自分の探究心に突き動かされて自然科学を研究していた人たちの物語。

ビアトリクス・ポターも、そうしたアマチュア博物学者たちと交流していました。彼女が自然界についてより詳しくなる方法として用いたのは、「絵に描く」ということでした。

「若いころは、本当によく植物を観察し、たくさん描いたので、今では、小枝を描くことなどたやすいことです。…(中略)。こんなふうに細かい部分を描き足すと絵の実在感が増してきます。」(p167)

ビアトリクスは観察したものを「絵に描く」ことを通して、専門家顔負けの博物学的な知識を深め、絵の技術も身につけました。その知識と画力は、のちに絵本を描くときにも大いに役立ったのです。

また、やはり先日発売されたナショナル ジオグラフィック日本版 2019年5月号[雑誌]の中で、有名なルネサンスの画家レオナルド・ダ・ヴィンチが、人物や動物をじっくり観察したことが書かれていました。

ビアトリクスとレオナルドは、どちらも自然界をよく観察した科学者であり画家であり、何より博物学者だった、ということでとてもよく似ていると感じました。この記事では、二人のエピソードから、本物の自然を観察して描くことの価値に注目してみたいと思います。

  
2018/11/8に近所の森で撮ったキノコの写真。本当は写真ではなくスケッチしたほうがいいのだけど…

ピーター・ラビットの作家は博物学者だった

ビアトリクス・ポターは、あのピーター・ラビットの物語を書いた絵本作家としてよく知られています。でも彼女は、絵本作家である以前に、博物学者でした。

前の記事でも書きましたが、ビアトリクスが絵本作家になったのは時代背景が関係していました。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート)に書かれていることによれば、彼女は本当はキノコの研究者になりたいと思っていて、専門家たちにアプローチして論文まで制作したのに、夢はかなえられませんでした。

その当時は、女性は学問から閉め出されている時代だったからです。 学会はすべて男性で構成されていて、女性は論文を自分で発表することはおろか、会合に出席することさえ許されませんでした。(p38.124,127.,145,192) 

加えて、専門家のあいだにはびこる、みにくい妬みやしがらみがありました。たとえ男性の研究者であっても、権力争いに敗れれば、正しい学説が覆い隠され、表舞台から追放されることが日常茶飯事でした。(p105)

そうした事情から、ビアトリクスは学者になれませんでしたが、彼女の能力が劣っていたわけではありません。もし時代が違っていれば、ビアトリクスは作家ではなく学者としても成功できただろうと言われています。

フィンドレイ博士によれば、ビアトリクス・ポターはプロの科学者、生物学者の心を持っており、もしもっと後の時代に生まれ、考古学を選択しなければ、生物学者になっていただろうといっています。

どちらの分野に進んでも素晴らしい実績を上げただろうといっているのですが、博士の説が正しかったことは本書を読んでいただければわかることでしょう。(p59)

ビアトリクスは、非常に多彩で、しかも頭脳明晰だったので、考古学や生物学の世界でも十分に成功できるだけの能力を持っていた、とみなされています。

ビアトリクスのキノコの研究は、当時の学会では認められませんでしたが、今では彼女のほうが専門家より正しかったことがわかっているそうです。

驚いたことに、当時の専門家たちが最新設備の整った実験室をもってしても四苦八苦していた菌糸の培養に、彼女が自宅で成功していたという記録も残っています。(p119,125,128)

でも、ビアトリクスはいったいどうやって、それほどの専門知識を身に着けたのでしょうか。

ビアトリクスは、学校に行っていませんでした。他の子どもたちと馴れ合うことを禁じられ、家庭教師に育てられたからです。

それでも、当時の最先端の教育を受けた専門家たちにもまさる、本物の知識と技術を身につけることができた。その秘訣はいったいどこに?

生の標本を観察して描いたポターとダ・ヴィンチ

ビアトリクスの教師は、大学の有名な教師でも、学会を牛耳る専門家たちでもありませんでした。彼女は、自分がそういった偏った教育を受けなかったことを感謝してさえいます。

でも、ビアトリクス・ポターが正式な教育を受けなかったことは、ある意味では幸いなことでした

(彼女は自分でも「有り難いことに、私の教育は無視されてきたので、独創性が失われずにすんだのです」といっています)。(p145)

確かにわたしたちは教育のおかげで、読み書きができるようになり、基本的な知識を身につけられます。

でも、今も昔も、学校は教師や教科書に従順であるように訓練される場です。自分で考える代わりに、だれか賢い先人たちが考えたことを鵜呑みにし、テストのために丸暗記するよう教えられます。創造性を発揮する代わりに、権威者たちの言うことを疑わず受け入れるように教育されます。

ビアトリクスの時代もそうでした。学校に通い、そこで良い成績をおさめた専門家たちは、権威者たちの学説を疑うことができませんでした。しかし、ビアトリクスは権威者を恐れず、自説の正しさを確信していました。(p107,119)

そうできたのは、自分の目で、じかに観察していたからです。たとえ権威者たちが提唱する学説と異なっているにしても、また教科書に書かれていることに反しているとしても、ビアトリクスは、自分の目で観察したものを手がかりに、正しい答えをつかむことができました。

そして、ビアトリクスが観察のために用いた方法、それはスケッチすることでした。

ビアトリクスは、キノコ、コケ、地衣類、さらには考古学の出土品や化石など、さまざまなものをスケッチしましたが、どれも「目の前に存在するかのような質感」が特徴です。(p163)

こればかりは、言葉で表現することができないので、ぜひこの本に載せられている絵の数々をじかに見てほしいと思いますが、どれも質感がリアルで、感触や香りが伝わってきます。「あたかも描かれた対象に触ったような感覚」があります。(p181)

不思議なことに、ビアトリクスのキノコの絵は、“写真よりもリアル”だと感じます。

わたしたち現代人は、最もリアルなのは写真や動画だと思いがちです。でも、ビアトリクスの絵は、絵のリアルさは写実だけではない、ということを見事に教えてくれます。

ずっと前に考察した記事でも書いたとおり、セザンヌなどの画家は、写実よりももっとリアルな表現を追い求めました。

カメラ写真よりもリアルな絵を目指したセザンヌの挑戦―脳科学を先取りした画家たち
セザンヌの絵は脳科学の発見を先取りしていたリアルな絵だった

ビアトリクスの絵は、かなり写実寄りの見た目に忠実な表現ではあるものの、単なる写実やカメラ写真では決して表現できないような臨場感があります。

ピリンスレイ・バービッジは、植物画とは「模写の正確さのもとに、想像力がほぼ完璧に隷属している奇妙な芸術である」と言ったそうですが、ビアトリクスの絵は単なる模写に終わらず、想像力が存分に発揮されています。(p146)

たとえば彼女は、どの絵でも、レイアウトを工夫し、絵の構成を研究し、ふさわしい色を丹念に選んでいます。(p169-170)

だから彼女は、他の植物画家が描いた挿絵のことを、「質感が表現されておらず色も雑」だと評することができました。普通の人が言えば、何を偉そうなことを、と思われそうですが、彼女にはそう批評するだけの能力と矜持がありました。(p96,99,148)

ビアトリクスのスケッチは、色、形、大きさともに科学的に正確な上に、この世のものとは思えぬほどの美しさも備えていました。(p29)

ビアトリクスの絵は、写実寄りのリアルさがあるだけでなく、写真を超えた質感があるという点で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画ととてもよく似ていると感じます。

ダ・ヴィンチは、スフマートや空気遠近法といった技法を開発し、同時代の画家たちより、はるかに生き生きとした質感を表現しました。

ポターやダ・ヴィンチが、それほど質感豊かな絵を描けるようになったのはなぜでしょうか。二人がもともと才能に恵まれていたことは確かですが、それだけではありません。

たとえば、ビアトリクスがこれほどすばらしい植物画を描けた理由のひとつは、「できるだけ生の標本を描くことにこだわって」いたことにあります。(p166)

当時の他の画家たちは、家にこもって、乾燥標本を見ながらスケッチすることが多かったようです。そんな彼らは、ビアトリクスに言わせれば「押入れ博物学者」でした。(p147,166)

ビアトリクスの生きた絵は、実際に野山を自分で歩きまわって、生きている植物を見ながらスケッチした者にしか写し取れない繊細な美しさがあることを教えてくれます。

ビアトリクスが、どれほど「生の標本」にこだわっていたか、 あなたの子どもには自然が足りないという本に、にこんなエピソードがありました。

ポターの伝記作家であるマーガレット・レーンは、ビアトリクスと弟が「怖がることなく、親をびっくりさせるような実験をやってのけていた」と書いている。

二人は「数限りないカブトムシ、毒キノコ、鳥の死骸、ハリネズミ、カエル、芋虫、ヒメハヤ、蛇の抜け殻などをそっと家の中へ持ち込んできた。

死んだ動物に皮がついたままだったら、二人で剥ぎ、大急ぎで煮て骨を保存する。

一度など、いったいどこで手に入れたのか狐の死骸を持ち帰った。そして両親に知られることなく皮を剥ぎ、煮て、関節をつないで骨格を作った」

彼らは家の持ちこんだすべてのものについて絵を描き、色を塗り、それらの紙を綴じて、自然の本にした。(p99)

さすがにちょっと真似できませんが、ビアトリクスがどれほど本物の自然を観察するのを楽しんでいたのかがわかります。

レオナルド・ダ・ヴィンチもまたナショナル ジオグラフィック日本版 2019年5月号[雑誌]によると、リアルな絵を描くために解剖学者にもなりました。

筋繊維の一本一本に至るまで理解しようと、レオナルドは動物や人間の遺体を解剖した。この紙葉には、腕、肩、足の骨と筋肉が描かれている。(p48)

この雑誌には、人間の遺体を解剖してスケッチしている様子の写真があるのですが… 確かに美しいとはいえ、これもわたしには絶対真似できそうにありません!

とはいえ、ビアトリクス・ポターも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、自然界をじっくり観察し、ときには解剖までして観察することで、自然界のあらゆるものがとても美しい、ということに気づきました。

言うまでもなく、いくら生の標本を目の前に置いて描いたとしても、美しさを表現するためには、つぶさに観察しなければなりません。リアルな絵を描くためには観察する必要があり、観察するなら多くのことを学べます。

ビアトリクスは絵を描くことによって、博物学者になりました。たとえ学校を出ていなくても、彼女は本物の自然を教師にして学びました。さっき書いたように、ビアトリクスは当時に専門家たちより、キノコのことをよく知っていました。

レオナルド・ダ・ヴィンチもまた、絵を描くことによって博物学者になりました。ダ・ヴィンチにとって、絵を描くことは目的ではなく、「飽くなき知の探求」ための手段だったそうです。(p66)

ダ・ヴィンチは、人体を解剖し、じっくり観察しましたが、最近になって、ダ・ヴィンチのスケッチが、現代の専門家の学説より正しいということが判明したそうです。

アイルランドのリムリック大学医学部外科学教授の主任を務めるJ・カルビン・コフィーは、何年か前に驚くべき発見をした。

…そして、この仮説を証明しようと、研究チームを率いてこの部位の解剖学的特徴を調べているうちに、連続した構造として腸間膜を描いたレオナルドの素描を見つけたのだ。

「心底驚きました。私たちが観察していた構造にぴったり当てはまる素描で、紛れもなく傑作です」

研究の概要をまとめた2015年の論文に、コフィーはレオナルドの素描を掲載し、「今ではダ・ヴィンチの解釈が正しかったことがわかっている」と、その功績をたたえた。(p66)

ビアトリクス・ポターもレオナルド・ダ・ヴィンチも、当時の科学の学説を超えた正確な理解を得ていました。

その秘訣はなんでしたか? ピーターラビットの野帳(フィールドノート)でこう簡潔に表現されているとおりです。

対象を描くことは、そのものを理解することです。(p160)

絵を描くことが写真より優れているのはなぜか

今の時代のわたしたちは、ビアトリクスのように、フィールドワークで山野を歩き回ったたり、本物の標本を目の前に置いてスケッチしたりすることがあまりありません。

わたしも恥ずかしながら、そしてとても残念なことに、これほど絵を描いていながら、ビアトリクスのような絵の描き方をしたことがありませんでした。わたしはどちらかというと空想で描くタイプの人なので、観察することには苦手意識があります。

わたしだけでなく、このデジタル全盛の時代のわたしたちは、観察することが苦手な人が多いのではないかと思います。

たとえば、かつて自然と共生していたネイティブ・アメリカンやアボリジニやアイヌの人たちは、薬草と毒草を細かに見分ける観察眼を持っていました。

最近読んでいるクマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)によると、アイヌの人たちは、クマが食べているものをよく観察して、食べれる山菜と食べられない山菜を区別していたそうです。また、山の入り組んだ険しい急斜面の歩き方もクマを観察して見よう見まねでできるようになっていくのだとか。(p13,16)

でも、現代の子どもは、わたしも含めて、観察して学ぶ、という経験をほとんどしていません。先生が言ったことを聞き、教科書を読んで暗記するのは観察ではありません。

教科書を丸暗記できる人でも、ひとたび山野に出ると、鳥や植物の区別がまったくつかないことがよくあります。教科書のページ上の一次元、二次元的な情報を記憶するのと、三次元の世界のただなかで、時間とともに移り変わる情報を観察して学ぶのとは、全然違うからです。

現代っ子は、空気を読むのが苦手とか、指示待ち族だとか、自分で考えようとしないとか批判されます。わたしも学校の先生にそうやって怒られた記憶があります。

でも、それを子どものせいにするのはナンセンスだと思います。自分で観察して学んで行動するのが苦手なのは、そうした経験をしないまま育てられてきたからでしょう。「観察する」ことは一種のスキルであり、訓練しなければ実践できないからです。

現代のわたしたちが、観察する力を鈍らせてしまった別の原因は、デジタルカメラの技術の普及でしょう。

わたしもそうですが、大半の人が持ち歩くのはスケッチブックではなく、デジタルカメラです。良い景色や珍しい花を見つけたら、絵を描く代わりに写真を撮ります。とても便利!

でも、ピーターラビットの野帳(フィールドノート)に書かれているように、落とし穴があります。

しかし、必要なものを取捨選択できるスケッチの記録に比べると、写真は実用性に乏しいことが多いのです。

写真は一瞬しか捕らえることができないのですが、絵画は時のうつろいをもってしても、画家個人の視点の代用にはなりえません。(p164)

写真は背景も含め、すべてを同時に写し取るだけなので、絵に比べて、情報がふさわしく取捨選択されません。

でも、それだけではありません。巻末の解説で、訳者の塩野米松さんがこんな考えさせられることを指摘していました。

一時期、私は観察の道具としてカメラを使っていたことがある。そのままの事象をありのまま写し撮るカメラはすぐれた道具であるが、欠点がある。

写し撮ったのは自分ではなく、写真機という機械なのだ。

観察のための最良の道具は、私は絵を描くことだと思っている。絵を描くためには、よくよく観察しなければならない。

…知っているつもりでも、いざ描こうとするとすべてがわかっていなかったことに気づく。(p196-197)

本当にそのとおり!  

わたしもこの欠点を実感しています。一見すると、写真は絵の上位互換のように思えます。わざわざリアルに描かなくても、もっとリアルに写真が撮れてしまう。時短になるし効率的。

でもそのせいで、「自分が描く」というプロセスが失われてしまいます。絵を描くことはすなわち観察することでした。しかし写真を撮るということは、その大事な観察するというプロセスをカメラに代行してもらうことなのです。

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すという本では、写真を撮る人たちと、写真を撮らずに観察する人たちの記憶を比較したところ、写真を撮った人たちは記憶があいまいだということがわかった、と書かれていました。

これは「写真撮影による記憶の損傷効果」と呼ばれています。要するに、自分で観察する代わりに、カメラに観察を代行させてしまっているので、記憶に残りません。(p125)

確かに写真は時間の節約になります。でもそこで省いているのは、じっくり観察し、そこから学ぶための時間なのです。

動植物をじっくり観察してスケッチするのが決して「無駄な時間」ではないことは、ビアトリクスの経験からよくわかります。

彼女は、長い時間をかけてフィールドワークし、野生の動植物をスケッチしました。その時間は、無駄な時間どころか、当時の専門家にもまさる知識をたくわえ、のちにピーター・ラビットなどの絵本を生み出すためのかけがえのない下積み期間になりました。

最近読んでいる、探検家トリスタン・グーリーの失われた、自然を読む力には、芸術家は探検家と同じく、自然をよく観察する時間をとり、ちょっとした特徴を発見できる鋭い目を持っている、と書かれていました。

実は、目立たないランドマークの特徴に注意を向ける時間を割くのは、身につけるのに努力を要する習慣だ。

それが当たり前になっているのは、いっしょに歩いたことのある人たちの中では、3つのグループだけだった。それは芸術家と経験豊かな軍人、先住民だ。(p17)

自然界の細かな特徴に「注意を向ける時間を割く」のは無駄な時間ではなく、芸術や探検のスキルを必要とする職種の人にとっては必須の習慣であることがわかります。

この本ではやはり、そうしたスキルを磨くために勧められているのは「スケッチする」ことでした。

風景の複雑な特徴をよく見ることは、現代人の心にとって難しく、自然なことではないようだ。それに苦労しているなら、この技術を磨くためのふたつの方法がある。

ハイテク機器も地図もコンパスもなしに長期間へんぴな場所で生活するか、風景をスケッチするかだ。

実際的な解決策は後者だ。スケッチの質は重要ではなく、大事なのは見て、気づく技術をみがくことだ。(p17)

ビアトリクス・ポターは、この提案どおりのことをして、芸術家になりました。

前にオリヴァー・サックスのオアハカ日誌を読んだときに書きましたが、現代社会では、時短、ライフハック、効率化、スキマ時間の活用、といった名目のもとに、なんでもかんでも時間を節約して手早くこなすのが賢い方法であるかのようにみなされています。

でも、「無駄な時間」とか「非効率的な作業」だとか思われているものは、創造性を発揮するために、どうしても必要な時間なのです。わたしたちは、無駄をそぎ落とそうとして、実際には創造性をそぎ落としているということになります。

いま考えてきた学校教育とデジタル技術には、この共通点があります。

子どもたちをより効率的に教えようとして、観察し学び取る力の訓練をそぎ落としたのが今の学校教育です。絵を描いたりスケッチしたりする手間を効率化して、観察する時間をそぎ取ってしまったのが写真技術です。

学校も写真も、ぜんぶが悪いわけではありません。学校教育のおかげで読み書きできますし、写真技術のおかげで、世界中の文化を学べます。

でもあまりにそれらに偏りすぎて、効率を追い求めすぎるなら、じっくり観察し、学び、創造性を育むための時間を犠牲にしているのだ、ということを覚えておかねばなりません。

アマチュア博物学者の自由な世界

いま、オアハカ日誌に触れましたが、脳神経科医オリヴァー・サックスが書いたこの旅行記は、ピーターラビットの野帳(フィールドノート)と似ているところがあります。

この二冊に共通するのは、せわしなく時間に追われる現代社会の対極にある、めくるめくアマチュア博物学者たちの世界です。

オアハカ日誌では、効率化と利益主義にとらわれた学会とは正反対のものとして、アマチュアのシダ植物好きの人たちの文化が描かれています。そこには権力闘争や嫉妬心や対立する派閥などなく、ただ植物への強い情熱で結ばれた絆があるだけです。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート)に出てくるビアトリクス・ポターと、彼女が交流した人々、たとえばアーミットの三姉妹や、チャールズ・マッキントッシュの世界もそれと同じです。

ビアトリクスにはプロの制約にとらわれない、アマチュアとしての自由さがありました。

そしてさまざまな領域の対象を、色と形の興味深い並列の中に溶かしこみ、表面の凹凸、滑らかさと硬さを吟味しながら、生き生きと描くことができたのです。

ビアトリクスのイメージの広がりの大きさ、感受性の深さははかり知れないものがあります。(p161)

権力闘争や偏見にまみれたキュー植物園や自然史博物館とは違って、アマチュア博物学者たちの界隈には自由と平等がありました。

どちらの本でも、キーワードとなっているのは「博物学者」です。サックスはダーウィンやフンボルトのような博物学者にあこがれていましたし、ビアトリクスもキノコだけでなく動植物や考古学全般に興味をもち、「さまざまな領域の対象を、色と形の興味深い並列の中に溶かし」こんだ博物学者でした。

レオナルド・ダ・ヴィンチもそうでした。ナショナル ジオグラフィック日本版 2019年5月号[雑誌]によると、彼も学問の分野の壁にとらわれないで、ありとあらゆる分野に興味をもち、自然界を探求しました。

「レオナルドの素描のいくつかを見て、何より強く感じるのは、テーマからテーマへと自由に飛び移る、何ものにも縛られない知性です」とクレイトンは言う。

「人間業とは思えないほど幅広く、さまざまな問いに挑んだ精神の軌跡を目にすると、とても心躍るものを感じます」

次から次に思い浮かぶ疑問に、レオナルドは果敢に挑戦した。夜空にきらめく星は、なぜ昼には見えないのか。水と空気の違いは? 魂はどこに宿る? くしゃみ、あくび、飢え、渇き、性欲の正体は?(p48)

このサックスやポターやダ・ヴィンチが追い求めた「博物学者」という概念は、学問として確立された今日の科学の世界では絶滅危惧種になっていると思えてなりません。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート)の解説で塩野米松さんが書いているように、細分化されすぎたプロの学者の世界では、もう博物学者という生き方が成り立たなくなっているのだと思います。

現代の科学は博物学がさまざまに枝分かれし、細道に入り込み、実用的であること、経済効果を伴うことを義務にしながら迷路に入り込んでいるのではないだろうか。(p195)

ビアトリクスの時代も、サックスの時代も、そして現代も、プロの科学者の世界は、権力闘争や利益至上主義に汚染されてしまっていて、純粋な知的好奇心から自然界を研究することがもうできません。

わたしはもともと進学校に通っていて、友人の中に大勢、一流の大学に進んだ人たちがいました。

わたしも、順調に行けば、科学者を目指す専門家へのレールを進むことになったでしょうが、体調を崩して不登校になったので、進学はできませんでした。

世の中一般の規準からすれば、わたしはひどい大損をしました。でも、今となっては、ビアトリクスと同じように、「有り難いことに、私の教育は無視されてきたので、独創性が失われずにすんだのです」と思っています。

わたしの仲の良かった友人は、有名大学の理学部に進みました。もともと気さくで謙虚な人でしたが、上のポストにつくごとに近寄りがたい尊大な雰囲気になっていきました。

学問の世界がすべてそうではないかもしれません。でも、近年の理化学研究所の研究者の捏造や自殺のニュースや、科学をめぐる不正の数々をみるに、あながち誇張でもないでしょう。

一方で、ビアトリクスは、プロではなくアマチュアだったからこそ、学問の分野を隔てる派閥の壁や、利益至上主義にとらわれず、とても気楽に、自由に自然界を探求できました。わたしも自分がその立場にいられることをとても嬉しく思っています。

本来、「科学」とは、「学ぶ」とはそういうものだったはずです。科学者たちは、学問の分野をこれでもかと細分化しましたが、もともとの自然界には境界も垣根もありません。ぜんぶの分野はひとつにつながっているはずです。

「科学」と「芸術」を隔てる壁さえも、昔はありませんでした。今や科学者と芸術家は対極の存在であるかに思われていますが、ビアトリクス・ポター、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてオリヴァー・サックスら、この記事に出てきた博物学者たちはみな、科学者であると同時に芸術家でした。

ジェミマ・ブラックバーン(少し前の時代の若い解剖学者)のように、ビアトリクスは「科学と芸術は相いれないものではなく、科学は芸術を作り出すための基礎固めの役割を果たしている、と考える最後の世代の一人」でした。(p159-160)

わたしは、つねづ自然界の秘密をね本当に理解できるのは、専門家ではなく博物学者だと思っています。言い換えれば、狭い専門分野に閉じこもっている人ではなく、広く世界を見渡せる人だという意味です。

現代の細分化された科学の専門家よりも、一昔前の、もっと幅広い観点をもっていた博物学者たちや、しがらみにとらわれないアマチュアの研究者たちのほうが、もっとバランスのとれた考え方をしているものです。レオナルド・ダ・ヴィンチの科学的なスケッチは、今でも最先端の洞察を含んでいます。

分野ごとの境界を設けていては、決して全体像が見えません。木を見て森を見ずの考え方では、この自然界がいかによくできているか見渡すことができません。

わたしの友だちがそうだったように、専門家を名乗る学者たちは、役職が立派になるごとに、また知識が増えるごとに、高慢になって、他の人たちを見下すようになりがちです。

でも、わたしは、世界を広く見渡す博物学者は、どれだけ知識をたくわえても、決して高慢にはなれないのではないか、と思います。

本物の博物学者は、実験室にこもりきりの専門家とは違って、フィールドワークによって森へ、山へ、川へ、海へと出かけます。ちょっとでも大自然の中に足を踏み入れれば、自分がまだ知らないことがいかにたくさんあるかに気づくものです。

たとえ研究室の書棚にある専門書の内容をすべて暗記した人でさえ、実際に大自然のただ中に身をおいてみれば、自分の机上の知識がぜんぜん物足りないことに気づくでしょう。

ビアトリクス・ポターやレオナルド・ダ・ヴィンチが実践していたように、絵を描こうとして観察すればするほど、自分がまだ何も理解していないか、これからいかに多くの知るべきことがあるかを思い知らされます。

アマチュアの博物学者は、未知なる大海原のような自然界の謎に促されて、もっと知りたい、もっと研究したいという情熱に駆られます。そこにあるのは、権力を求める野心でも、利益を追求する欲望でもなく、ただもっと知りたいという純粋な好奇心だけです。

だから、この本の解説で塩野米松さんが書いているように、アマチュア博物学者たちの世界には、今でも、純粋な科学の本来の精神が息づいているのだと思います。

私はアマチュアナチュラリストの一人として思うのだが、自然観察や自然研究の喜びを、昔のまま維持しているのはアマチュアの研究者たちではないかと。

彼らは自分の喜びのためだけに、しゃがみこみ、空を見上げ、そこにすわりこんで、長い時間を過ごす。

ある人は人生の多くを観察のために過ごそうとして働く。そうやって彼らが費やした時間の結晶は記録として残されるのだ。(p196)

絵を描くことによって自然の美しさに魅せられる

今のわたしは、日々やることに忙殺されて、なかなか絵を描けていません。新しい生活環境や習慣に慣れるまで、もう少しかかりそうです。今は、夜型の睡眠リズムを朝型にしようと努力していているので、時差ボケがひどい。

でも、このピーターラビットの野帳(フィールドノート)を読んで、わたしもビアトリクスみたいに絵を描いてみたいと感じました。ずっと想像ばかりで描いていたわたしですが、もっとじっくり観察して描く心の余裕を持ったほうがいいかもしれない。

わたしは都会から道北に引っ越してきて、自分の生活がビアトリクスの時代に近づいたと思っています。この本で、次のように描写されているような時代のライフスタイルです。

この三姉妹の物語を理解するためには、私たち自身が、刺激的だがせわしなく、騒音にあふれ、ストレスの多いこの宇宙時代から離れ、情報伝達速度が遅く、長時間の静寂に包まれた汚れの少ない時代に身を置いてみなくてはなりません。

そんなことはほとんど不可能なことなのですが、あの時代は、静かで物思いにひたり、創造的思考をめぐらすには最適の時代だったのです。(p17)

「ほとんど不可能」だとは書かれていますが、わたしが今住んでいるところは、この条件にかなり近いところです。

インターネットはつながっているので、19世紀ほどの静寂はありません。それでも今この21世紀にしては「静かで物思いにひたり、創造的思考をめぐらすには最適の」場所だと思います。

ビアトリクス・ポターは、自然界をじっくり観察し、絵に描くうちに、その美しさに魅せられました。博物学者だった彼女は、わけ隔てなく自然界のすべてを愛し、感動を覚えました。

「人は、自然界の事物について、あちらが優れているとか、こちらが劣っているとかいうが、どれも等しく完璧なものなのだ。ヤナギの木のやぶだって、神の作りたもうた人間と同じくらい美しい」(p166)

ナショナル ジオグラフィック日本版 2019年5月号[雑誌]によると、レオナルド・ダ・ヴィンチもまったく同じでした。彼もまた、自然界をじっくり観察し、絵に描くうちに、そのすべてがすばらしいことを実感しました。彼は天才だと言われますが、自分は自然界から学んでいるだけだと考える謙虚な人でした。

自然の造形に忠実であろうとする長年の思いから、レオナルドは鋭く事物を観察した。

人間の能力では「自然の造形よりも美しく、簡素で、目的にかなった発明は決して生み出せない。なぜなら、自然の造形には欠けたものも、余分なものも何一つないからだ」と彼は書いている。(p71)

ずっと都会暮らしだったわたしは、まだビアトリクス・ポターやレオナルド・ダ・ヴィンチほどには自然界を観察できていません。でも、この半年ほどのここで過ごしただけでも、二人の言葉にまったく同意しています。

自然界の見せる風景は、一年を通して美しい。くもりの日でも雨の日でも、厳しい寒さに閉ざされた冬でも、そのときにしか見られないアートがあります。

絵を描くことは、自然を観察することです。そして、自然をじっくり観察した人はだれでも、その細部まで構築された類まれな美しさと、すばらしい構造に気づきます。

有名な海洋科学者レイチェル・カーソンは、センス・オブ・ワンダーの中で、自然の美しさに驚嘆することは、満足のいく人生を送り、永久な飽きない秘訣だと述べています。

地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。(p50)

絵を描くことは、「地球の美しさと神秘を感じ取」るための最良の方法でしょう。この記事で考えたように、描くことは観察することであり、絵に描こうとして初めて気づく美しさがあるからです。

いま、わたしが忙しいのはとても良いことだと思っています。ちょっと前までのように、病気のせいで寝込んでいるわけでもないし、人生に退屈しているわけでもない。あちこち自然観察しに行ったり、農作業を体験したり、今までに知らなかった生活に慣れ親しむのに忙しくしています。

でも、だからといって、毎日忙しくしすぎて、じっくり自然を観察したり、スケッチしたりする時間が取れないのは本末転倒だとも思います。

ビアトリクス・ポターとレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が示すように、自然の美しさを描写するには、そして博物学者になるためには、本物をよく観察して描く。その時間を取り分けるしか、近道はないからです。

わたしも、もう少し生活リズムが安定し、時差ボケ状態が直ってきたら、定期的に観察したり絵を描いたりする時間を予定に組み込んでみようと思います。

この記事を読んで、ビアトリクス・ポターの絵が見てみたくなったり、内容に共感してくれたりした方には、ぜひともピーターラビットの野帳(フィールドノート)を読んでみるようおすすめしたい。ビアトリクスのキノコの質感を感じてみてください。

ピーター・ラビットの絵本作家の意外な一面を知ってて、きっと、自分ももっと自然観察したい、絵を描きたい、という気持ちにならせてくれると思います。

投稿日2019.06.14