絵を描いていると、ときどき進歩がなくて、なかなか思うように上達しない時期が訪れるものです。絵の分野以外でも、これは一般的なことで、「壁にぶち当たる」とか、「頭打ちになる」とか、さまざまな仕方で表現されています。そして、一定数の人は、そうなると自分の限界を感じてやめてしまいます。
これは心理学用語で「プラトー現象」(高原現象)として知られています。山を登っていると、ある時点でずっとなだらかな高原(プラトー)のような場所が続き、なかなかそれより高みに登っていけない、そんな停滞期のことを指す言葉です。
けれども、「プラトー現象」の意味するところによると、ずっと停滞期が続く、というわけではありません。平坦な高原のような時期を辛抱し続けると、あるときぐいっと次のステップに上がれるときが来る、ということを教えてもいます。
ちょうど、つい二日前、大相撲力士の稀勢の里が優勝して横綱になりました。彼はずっと将来を期待されていましたが、文字通り壁にぶち当たって、なかなかそれを越えられずにいました。
その間ずっと、「まったく成長していない」とか、「学んでいない」「工夫がない」と周囲から非難され続けていました。たぶん、当人も、ずっと足踏みしている自分に歯がゆく悩んでいただろうと思います。
そんな彼が今月、ついに優勝して、自身初めての14勝も記録しました。ニュースなどのメディアは、何がきっかけで壁を越えられたのか、しきりに推測を飛び交わせ、さまざまな理由づけをしています。
あたかも、ずっと平坦な足踏み状態が続いていたのが、いきなり一段上がって成長したかのようです。まさしくプラトー現象です。
スポーツにしても、絵を描くにしてもも、ほかのどんなスキルを身につけるにしても、ずっと頭打ち状態で辛かったのが、あるとき突然ブレイクスルーが訪れて、上達を実感できる瞬間があるものです。
けれども、「まったく成長していない」と言われ続けた間、彼は本当に何も学んでいなくて、今年になってやっと奮起しただけなのでしょうか。絵を描く人に置き換えれば、上達しないように思える期間は、ムダな時間、ただ実りのない辛抱しているだけの時期なのでしょうか。
最近の認知科学の研究は、意外な答えを指し示しています。実は、プラトー現象は、わたしたちの実感とは違い、本当のところは、停滞しているように思えても、着々と無意識下ではレベルアップしていっているというのです。
教養としての認知科学 という本にはこう書かれています。
多くの人において、よい試行の発生頻度は、問題解決を続けるうちに徐々に増加していく。しかし、本人は全然そのことに気づいていない。
つまり、徐々によくなっているにもかかわらず、本人はひたすらできないと感じ、徒労感を募らせていくのである。
それにめげずに問題に取り組み、四、五回に一回程度、制約を外れたよい置き方が起きるころになると、解決に至ることが多いようだ。
そして解けた時には、多くの人は突然に解けたかのように感じる。(p229)
「徐々によくなっているにもかかわらず、本人はひたすらできないと感じ」ている。
これはいったいどういうことでしょうか。壁にぶつかって、何をやってもうまくいかない時期に、どんなことが起こっているのか。スランプに陥ったときに励みになる認知科学の発見を見てみることにしましょう。
ひらめきと上達の意外な共通点
はじめに書いたように、わたしたちは、しばしば頑張っているのに報われない辛い停滞期、スランプに陥ってしまい、悩みを募らせてしまうものです。
ブレイクスルーはある日突然訪れるものですが、いつ訪れるかまったく予想だにできないので、あたかも出口の見えない真っ暗なトンネルの中を歩いているかのように感じて、途方にくれてしまいます。
しかし、パズルゲームを用いた認知科学の研究は、意外なことを明らかにしました。
難しいパズルに取り組んだことのある人なら、きっとよくわかると思いますが、答えを見つけるには辛抱強さが必要です。すぐ答えが見つかるような場合は少なく、最初は何をやってもうまくいかず、ああでもないこうでもない、と悩み抜く時間が過ぎていきます。
そのうちに、まるで答えが天から降ってきたかのように、パッと天才的なひらめきが訪れ、あれだけ悩み抜いた難問が、見事に解けてしまいます。これは「Aha体験」と呼ばれていて、この一瞬の快感を味わうために、パズルを楽しんでいる人も少なくありません。
これは絵やスポーツの熟達のときのパターンとよく似ています。ずっと停滞したプラトーの時期が続いて、あるときブレイクスルーが訪れるのは、期間の長さの違いこそあれど、共通している部分です。
実際、この二つの体験、つまりあるとき突然訪れるひらめきと、ある日突然訪れる上達とは、認知科学からすると、とてもよく似たものだと言われています。
しかし、意外なことに、似ているのは「あるとき突然ブレイクスルーが訪れる」ことではなく、まったく正反対の部分です。
ひらめきは、専門的には洞察と呼ばれる。
ひらめきの特徴は、ひらめく前とひらめく後の不連続性にある。今まで解けない、わからないとうめいていたのが、突然、天から解が舞い降りてきたかのように、パッとわかってしまう。
…実は、洞察は前に述べたような常識とは大きく異なる姿をしており、前節で見た思考の発達と似たような姿をしていることがわかってきた。
つまり、多様なリソースの中でゆらぎつつ、徐々に変化していくのが洞察だったのである。(p227)
なんと、ひらめきも上達も、あるとき突然訪れるように見えて、じつは「徐々に変化していく」という特徴が共通しているのです。詳しく意味をみてみましょう。
徐々によくなっていることに気づかない
この本に載せられている認知科学の実験では、難しいパズルを解いている人たちの様子を観察することで、ひらめきの瞬間が訪れるまでの間、何が起こっているのか、ということが観察されました。
プラトー現象からすると、ずっとムダな動きをして、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、ある瞬間に突然正しいやり方を見つけるのではないか、と予想されますが、第三者視点で観察してみると、それとはまったく違うことがわかりました。
ここには、常識から考えれば非常に奇妙な(しかしこの章で述べていたことからすれば容易に予測できる)人間の振る舞いがある。
つまり、数は少ないながらもはじめから適切な振る舞いが現われ、それは徐々に増加しているにもかかわらず、それに全く気づくことなく問題解決が進められ、ある時にあたかも突発的に解にたどり着いたかのように感じる、そういう人間の姿である。
実はこうした現象は、このパズルを解く時だけに生じているわけではない。寺井たちは、別のタイプの洞察問題でこのことを検討している。ただし、彼らは手の動きではなく、目の動き、つまり着眼点を計測した。
彼らの実験で解決に至った人たちは、はじめは不適切な目の動きをしている。しかし失敗を重ねるにつれて、徐々に適切な目の動きが相当に増えていく。
…意識レベルの発見、つまり「わかった」という意識は、適切な目の動きが増加してから五~六試行後くらいに現れている。(p229-230)
この実験が物語るのは、「常識から考えれば非常に奇妙な」傾向です。
つまり、パズルを解いているプレイヤーはまったく気づいておらず、全然答えが見つからなくて、ただ悶々としているのに、目や手の動きを観察していると、気づかない間に正しい動きが増えていっていたのです。
そして、プレイヤーはある瞬間に、突然ひらめいてパズルが解けるAha体験を味わいますが、観察した記録のほうは、突然解けたわけではなく、徐々にうまくなっていって、答えにたどり着いている、というなんともごく当たり前のようなことを示しているのです。
これは、わたしたちが実感するプラトー現象の姿とは大きく異なっています。自分ではずっと平坦な高原を歩いているかのように感じている間も、じつはずっと山の斜面を登り続けているということになります。
また、最初に引き合いに出した大関稀勢の里の話に置き換えると、ずっと優勝できず、頭打ちになっているように見えて、進歩がないとか、工夫が足りないとか言われていた時期にも、じつは少しずつ着実に強くなっていたことになります。
結果は突然出たように見えますが、本人の意識が突然変わったわけでも、何か気持ちが変わるきっかけがあったわけでもありません。結果が出ていないように見える時期にもずっと腐らずに辛抱して続けてきた結果、経験値が着実に蓄積されていて、あるとき目に見える結果が出たにすぎないのです。
今、「経験値」という言葉を使いましたが、RPGなどのゲームをやった人なら、この感覚はつかみやすいでしょう。たとえば、レベルが29から30に上がるようなとき、突然パラメーターは大きく上昇します。でも、それまでの間も、経験値は着実に溜まっていっていて、それがその瞬間、目に見えるレベルという形で反映されたにすぎません。
レベルの数値だけを見れば、階段状に上昇していくかのようにも見えますが、実際には、レベル1からレベル99まで、ずっとコツコツと経験値を積み重ねていっているだけで、特にスランプや壁のようなものはないのです。
わたしたちの場合も、意識の上では、階段状のレベルアップのようなものを経験しますが、無意識下では、スランプに陥っているように思える間でさえ、着実に経験値がたまっています。
人間はある間違ったやり方にはまってしまった時でも、もっぱらそのやり方だけを使っているわけではない。
確かに、初期には制約にとらわれた不適切なやり方が優勢である。
しかし、数は少ないながらもはじめから適切なやり方も用いられている。
こうしたことが無意識の情報処理というリソースによって気づかれ、適切な評価を受けることによって、私たちは徐々に洞察へと近づいていくのである。(p234)
スランプに陥って、上達せず、出口が見えないように思える時期もまったくムダではなく、回り道や迷い道でさえもなく、ただ地道に経験値を稼いでいる時間だ、ということになります。経験値というパラメーターが無意識下にあって見えないせいで、どこまで行っても変化がないように思えてしまうだけなのです。
突然、神様が降りてきてアイデアがひらめくように思える場合でも、じつは無意識下でそれよりずっと前から準備が整えられていっている、という脳科学の説明については、前の記事でも扱いました。
脳の無意識のゆらぎが成長のもと
今見たのは、パズルを解いた人を観察した研究でしたが、もちろんこれは、先ほども言ったとおり、絵を描く練習や、スポーツの練習などの学習にも当てはまります。
これまで、子どもの発達は、ちょうどプラトー現象と同じように、段階的にステップアップしていくものだと思われていました。ステージ1、ステージ2、ステージ3というように、段階を踏んで、子どもは成長していくと思われていました。
しかし実際にはまったくそんなことはなく、ある年齢で新しい行動が身につくように思える場合でも、本当はそれ以前から、徐々に新しい行動が顔を見せてきて、やがて成長が明らかになるということがわかってきました。パズルを解く人のひらめきと同じパターンです。
このことから、近年は、子どもの発達において、「シーグラーの重複波モデル」というものが提唱されているそうです。
これは、子どもに、さまざまな行動のゆらぎが同時に、重複して生じるうちに、望ましい行動の回数が増えていき、成長につながるという考え方です。
最初は、脳のさまざまなリソースが、同時並列的に活性化していて、訓練していくうちに効率化されていき、やがて目に見える成長となって表れます。(p223)
実際に、子どもの学習の様子を観察したところ、はじめのうちは、さまざまな理由付けや解き方が入り乱れて、ゆらぎや一貫性のなさが生じていますが、やがて訓練とともに最適化、効率化され、上達していくことがわかりました。
ゆらぎが大きい子どもほど訓練の効果が大きく表れることもわかったそうです。
ゆらぎや変動性を伴う子どもたちは、教わったことを持続的に用いることができる。
一方、ゆらぎの少なかった子どもたちはしばらくするとそれが表に現れなくなってしまう。(p224-225)
このゆらぎや一貫性のなさ、というのを絵の上達に当てはめてみると、それは、出口の見えない試行錯誤の時期、ああでもないこうでもないと悩み抜いているスランプの時期だといえます。
スランプのさなかは、何をやってもうまくいかないように思えて、途方に暮れてしまいがちですが、そうした試行錯誤のゆらぎこそが、じつは成長していくための準備期間になっている、ということがわかります。
以上のことは、発達、学習におけるゆらぎが何を意味するのかについて重要なことを教えてくれる。
ゆらぎは単なるでたらめや一貫性のなさの表れでは決してない。逆にゆらぎや変動性こそが、次の段階への準備状態を表すのである。
ゆらぎのある状態にある子どもたちは、経験から多くのことを学び、それを持続させることができる。(p225)
壁にぶち当たって上達しないように感じ、何をやってもうまくいかず、スランプから脱出できないでいるように思える間も、じつは経験値は蓄積されていて、無意識下では成長していっています。
脳は奇跡を起こす によると、脳科学の専門家のポール・バキリタは、同じことがリハビリ訓練のときにも起きていることを説明しています。
それまでのリハビリ訓練といえば、数週間で終了するのが常だったが、患者の機能回復が止まって「横ばい」になるので、医師がそれ以上訓練を継続しないのだ。
だが、バキリタは、神経の成長がどういったものか理解した上で、こういった学習停滞期(プラトー)は一過性のもの (つまり、可塑性にもとづいた学習サイクルの一段階) であり、学習が強化されれば、ふたたび回復がはじまると主張した。
この学習強化の段階においては、目に見える進歩はないが、体内での生物学的な変化は怒っていて、新しく身につけた能力がより自動的に、より上手にできるようになっているのである。(p40)
子どもの学習にしても、医学的なリハビリにしても、プラトーの期間というのは、進歩が止まっているように見えて、じつは目に見えないところで、脳が可塑的(かそてき)に、つまり柔らかに変化し、ゆらぎが生じています。
これは学習の「ウサギとカメ」効果と表現されていて、新しいことを学習すると、まず、いま脳にすでにあるニューロンが強化され、それが素早く走るウサギのように、目に見えるレベルアップとして表れます。
しかしウサギず休んでプラトーに入っている間にも、まだ存在しないニューロンがゆっくり生み出されていくというカメのようなゆっくりとした変化が脳の中で起こって、脳の神経細胞にゆらぎが生じています。(p233-235)
そして、そのようなゆらぎや試行錯誤が、訓練を続けることでフィードバックを受け、最適化、効率化されていくと、ある瞬間に、ついにスランプを抜けた! 上達した! スキルアップした!と思える時期が訪れることになります。
「チャンスは準備された心に訪れる」
ここで大切なのは、結果が出ないように思える時期でも、腐らず試行錯誤をやめない、ということです。
スランプの時期には、何をやってもうまくいかないように感じられるので、「やっぱりダメだ」「自分には才能がないんだ」「続けてもムダだ」と考えて投げ出してしまう人が少なくありません。
実際に、ほとんどの人は、才能がないからでも、努力が足りないからでもなく、結果のでない時期にあきらめて投げ出してしまうせいで、上達できないまま終わってしまう、というのはマイクロソフトのビル・ゲイツが述べているとおりです。
Bill Gates: 10,000 Hours and a Lifetime of Fanaticism│EnglishCentral.com
If somebody reads the book to say that if you spend 10,000 hours doing something,you’ll be super good at it, I don’t think that’s quite as simple as that.
だれかが一つのことに1万時間費やせばその分野にずば抜けて強くなるという本を読むとしても、私はそんなに単純ではないと思う。
What you do is you do about 50 hours,and 90% dropped out because they don’t like it or they’re not good.
50時間を費やすと、90%が脱落する。好きになれない、向いていないという理由からだ。
You do another 50 hours and 90% dropped out.
さらに50時間費やした人の90%が脱落する。
So there’s this constant cycles.
そう、こんな普遍的なサイクルがある。
And you do have to be lucky enough but also fanatical enough to keep going.
そして運だけでなく、続けるだけの熱意も必要だ。
And so the person who makes it to 10,000 hours is not just somebody who’s done it for 10,000 hours, there’s somebody who’ve chosen and been chosen in many different times.
それに1万時間費やした人は、ただ1万時間費やした人ではなく、自分で選び、さまざまな時の中で選ばれた人なんだ。
あきらめずに続ければ、必ず出口が見えてくる、スランプに思える時期でも無意識下では成長していっている、というのは確かです。
でも、それは、もちろんあきらめずに続けた場合の話です。スランプで投げ出した人には永久に出口は訪れません。
そして、スランプの中で、成長していくためには、先ほど述べたとおり、ゆらぎが欠かせません。先の教養としての認知科学 のパズルゲームの実験では、ゆらぎを見せた人と、そうでない人とで、ヒントを与えられたときの結果が違っていたと言われています。
全員に同じヒントを与えたのだが、ヒントを活用できた人とそうでない人がいた。この違いは、それまでにどれだけゆらいでいたかと強く関係していた。
つまりその前にゆらぎの大きかった人はヒントを得た後に正解に至るが、ゆらぎの小さかった人はヒントを活用できず正解にたどり着けなかったのである。(p235)
ビル・ゲイツは、熟達には運も必要だ、成功するのは自分で選び、また選ばれた人だと言っていました。
チャンスが訪れたときに、それを手繰り寄せて活かせるかどうかは、ゆらぎがあるかどうか、つまり、懸命に試行錯誤して、ああでもないこうでもないと可能性を探り続けているかどうかに左右されます。
興味深いことに、世紀の発見をした細菌学者のルイ・パスツールは、「チャンスは準備された心に訪れる」と述べたそうです。(p235)
パスツールが偉大な発見ができたのは、たまたま舞い降りてきた宝くじに当たったわけでもなければ、前触れなくブレイクスルーに恵まれたわけでもありません。それまでの積み重ねの結果でした。
将来を嘱望されていた稀勢の里が、千載一遇のチャンスをつかんで横綱になれたのも、結果のでない時期にも、ずっと腐らずに試行錯誤を続けてきて、「準備された心」、つまり、いつでもチャンスをつかめるゆらぎを保っていたからでした。
スランプに陥って結果がでないとき、あきらめたり投げ出したりすることなく、辛抱して試行錯誤を続けているなら、無意識のうちに必ず出口が刻一刻と近づいてくるのです。
「三年鳴かず飛ばず」の本当の意味
スランプでなかなか結果が残せないように思える時期は、じつはゆらぎや変動が生じている上達への準備期間であるというのは、「三年鳴かず飛ばず」という有名な故事成語にも通じる点かもしれません。
「三年鳴かず飛ばず」というと、今日では一般に、怠けている人を軽蔑する意味で用いられます。しかし、本来の意味はそうではありません。「鳴かず飛ばず」の意味を調べてみると、こう記されています。
将来の活躍に備えて行いを控え、機会を待っているさま。また、何の活躍もしないでいるさま。
広辞苑で引いてみると、こうも書かれていました。
将来の活躍に備えて何もしないでじっと機会を待っているさま。現在では、長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑していうことが多い。
いずれも、後半の意味はきっと馴染みがあるものでしょう。では前半の意味はどういうことでしょうか。
この「鳴かず飛ばず」という故事成語は、史記楚世家「三年不蜚不鳴」に由来しています。簡単にいうと、こんなエピソードです。
ただひとつ、「自分に意見するものは死刑にする」という布告を出しただけで、政治については知らんぷりです。大臣たちは喜んで国を私物化し始め、悪人がのさばりはじめます。
三年が経過し、見るに見かねた家臣の伍挙は知恵を絞ります。王に直接意見するわけにはいきません。ならば…と伍挙はひとつのたとえ話を王に話しました。
「ここに一羽の鳥がいます。三年間、鳴くことも飛ぶこともしません。王はこのような鳥をどう思われますか」
すると王は伍挙の意図を見ぬいてこう切り返します。
「その鳥が三年鳴かないのは、意志を固めているからだ。三年飛ばないのは、羽がそろうのを待っているからだ。ひとたび飛べば天まで達するだろう。ひとたび鳴けばみんなが驚くだろう」。
そしてこう言い添えます。
「伍挙よ、言いたいことはわかっている。もう少し待ってほしい」
それから程なくして、今度は蘇従という人が異例の行動を起こします。なんと死刑を恐れず、王に直接進言したのです。
すると王は、今とばかりに腰を上げ、大改革に着手しました。王が遊び呆けている間に表面化した国の問題を一掃し、その三年間忠実だった伍挙や蘇従を部下に取り立てます。
荘王は、まさに将来の活躍に備えてじっと機会をうかがっていたのでした。
荘王は決して、調子が悪くて、三年遊んでいたわけではありません。ぐうたらと怠けていたわけでもありません。三年間何もしなかったのは、機会をうかがってじっと見張っていたからでした。「三年鳴かず飛ばず」とは、「将来の活躍に備えて何もしないでじっと機会を待っているさま」なのです。
絵でスランプになっている人にしても、大関のままで足踏みして「進歩がない」となじられていた稀勢の里にしても、本当のところは何もしていないどころか、無意識下ではゆらぎが生じていて、ブレイクスルーに向けて着々と準備を整えている「三年鳴かず飛ばず」の状態だとみなせるでしょう。
「うつ」とよりそう仕事術 (Nanaブックス) という本には、この「三年鳴かず飛ばず」の考え方が「バネ思考」という言葉で表現されていました。
「今が耐えどころだ、もうすぐ浮上する! 」なんてハッパをかけられるケースに心当たりがありませんか?
…しかし落ちるだけ落ちたら浮上するという考え方では、どこまで落ちればいいかわからないという不安がどこまでもつきまとってしまいます。
「落ちる」「浮上する」という言葉を使わずに、「今はバネを縮ませて、力をためている状態なんだ!」と考えてみるようにしました。(p93)
うまくいかない時期は、ただ辛抱しているとか、真っ暗な穴に落ちているというより、あたかも、ぐっとバネを縮めて飛躍のチャンスをうかがっているような準備期間だと思えば、決してムダな時間などないのだ、という前向きな見方ができます。
ニコニコペースで高原を楽しむ
こうした認知科学の研究や、故事成語からわかるのは、スランプに思える時期、つまり、プラトー現象を経験して、平坦な高原を歩いているような時期は、ムダな時間どころか、じつは大切で欠かせない時期だということです。
つまり、まったく上達しないように思えても、暗いトンネルの中にいて出口が見えないとか、自分はもうダメだとか考えて焦ったり追い詰められたりする必要などなく、ただ堂々と構えて、その時期を楽しんでいればいいのだ、ということになります。
最後に、この点で参考になるマラソンにまつわる話を紹介しましょう。
マラソンの走者は、長い距離を走る必要があるので、無理なく走り続けられるペースを保つことが重要です。
この無理なく走れるペースというのは、じつは笑顔で走れる速度だということが研究でわかっていて、「ニコニコペース」と呼ばれているそうです。
(1)遅いのに速くなる?…スロージョギング 福岡大学教授・田中宏暁さん : RUN : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
「ランニング初心者が、一番陥りやすいことって何だかわかりますか? それは、いきなり一生懸命にやりすぎて、ひざを痛めたり、つらくなったりして、ランニングをやめてしまうことです。
…『走ってください』と言われると、『頑張って』走ってしまうものなんです。だから、『こんなに楽でいいの?』というくらいから始めることが重要です」
…「実は、ニコニコペースを保った走りは、疲労物質の乳酸がたまらないぎりぎりのスピードなんですよ。だから、長い時間走り続けることができるので、心肺機能が向上します。
また、同じ速度のウォーキングと比べて約2倍のエネルギーを消費するため、減量効果も高くなるのです」
わたしたちは、マラソンでは、つい走る速度に着目してしまいがちです。しかし、どれだけ速く走っても、途中でバテてしまい、完走できなければ意味がありません。
マラソンにおいて最も大切なのは、たとえ速度が遅くとも、完走することではないでしょうか。その完走するための最も適したペースが、笑顔を保って走れる速度なのです。
絵を描くことや、その他さまざまなスキルを上達させることも、マラソンに例えてみることができます。何かのスキルを身につけるというのは、厳しい訓練と結びつけられることも多いですが、修行のような気持ちで必死に取り組んでいても長続きしないかもしれません。
イギリスの有名な劇作家ジェームズ・バリーは「幸せになるためには、やらねばならないことが好きになることだ」と述べたそうですが、どんなことであれ、続けるためには、笑顔を保てるペースが最善といえます。
どのあたりが、「笑顔を保てるペース」なのか、ラインは人それぞれ違うと思います。無理なく続けられるということは、自分に甘すぎることも、厳しすぎることもないということです、そのラインは人それぞれ違うので、自分にとって最適なペースを知るには試行錯誤が必要でしょう。
「ニコニコペースは人によって違います。隣の人とおしゃべりをしたり、鼻歌を歌ったりしながら走れるペースと考えていますので、ランニング経験のない人なら時速4~5キロくらいが多いでしょうか。ランニング愛好家の場合、時速10キロがニコニコペース、ということもあるでしょう」
…「時速4~5キロというのは、あくまで最初の話です。ニコニコペースは次第に上がっていきます。ある人は、半年ほどで時速9キロがニコニコペースになりました。理論上は5時間を切るタイムでフルマラソンを完走できるのです」
絵を描く人にとってのニコニコペースも人によって違いますが、ほかの絵描きさんと気楽におしゃべりしたり、鼻歌を歌ったりしながら続けられるペースだといえるかもしれません。
笑顔で楽しめるペースは、その時期によって異なるので、慣れてきたらペースを上げることもできますし、不調な時期はあえて下げることも必要です。いずれにしても、その時々で笑顔で楽しめるペースを保つのが、続ける秘訣です。
スランプの時期は、どうしても、頭を抱えたり、悩みに押しつぶされそうになったり、悲観的な気持ちになったりしがちですが、そんなときこそ、「笑顔を保てるペース」に立ち戻ってみるのはどうでしょうか。
なかなか上達しないように思える時期というのは、無意識下で経験値が溜まっている欠かせない時期であり、チャンスをうかがう準備期間であり、何より、暗いトンネルではなく、なだらかな高原(プラトー)を旅している時期です。
せっかく爽やかな風が吹いている高原にいるのですから、下を向いて卑屈になったり、焦ってペースを乱したりするのではなく、風がもたらすゆらぎに身を任せ、笑顔で楽しんでみるといいかもしれません。
そうやって笑顔で高原の風景を楽しんでいるうちに、長いトンネルのように感じていた道のりはあっという間に過ぎ去って、あなたは、いつの間にかきっと、自分がより高い場所にたどりついたことに気づくでしょう。