創作環境に大事なのは自由より制約だという研究「どんな絵でもその本質は額縁という枠にある」

あなたは自由が好きですか? 100色以上もの色鉛筆や絵の具があれば、もっと自由に創作できるのに、と思ったことがありますか? わたしも昔はそう思って、高い色鉛筆セットを買ったことがありました(笑)

確かに創造的でありたいと思う人にとって、自由や多機能という言葉は魅力的です。たくさん選択肢があったほうが、より創造的になれる気がします。

でも、今となっては、自由だから、多機能だから、創造的になれるというのは幻想で、事実はその真反対だと思っています。

たとえば、「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86にこんなエピソードが書かれていました。

編集者たちは、ドクター・スースと賭けをした。編集者たちは、いくらスースでもたった60語で一冊の本を書くのは無理だろうと考えたのだ。ドクター・スースは、絵本のベストセラー『緑色の目玉焼きとハム』を書き上げ、賭けに勝った。

ゴッホは一枚の絵に最高6色しか使わなかった。青の時代のピカソは、1色にこだわって描いた。いずれも、自分自身に制約を課したのだ。(p400)

有名な作家たちの中には、選択肢を増やすどころか、かえって選択肢を少なくすることで、傑作を生み出した人たちがいました。

これは、ピカソやゴッホのような達人限定の「弘法筆を選ばず」のような例にすぎないのでしょうか。一般人のわたしたちはやっぱり、多機能、他種類なツールに頼ったほうが創造的になれるのでしょうか。

いいえ、歴史をひもといてみれば、制約があったほうが創造的になれる、という例は枚挙にいとまがなく、心理学の実験もそれを裏づけています。この記事では、制約が創造性を妨げるどころか、どのように創作の助けになるのかを考えてみたいと思います。

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創造とは制約に対して適応すること

まず、わたしたちが、「制約」という言葉を聞いたとき、制約は創作環境にとって悪いもの、創造性を妨げる良くないものだ、というマイナスイメージをもってしまうのはどうしてでしょうか。

芸術の中動態―受容/制作の基層という本には、それは創作とは何か、という根本的な部分についての思い違いから来ている、と書かれていました。

材料に由来する制約が制作にとってマイナスと見えるのは、作品の制作を、頭をはたらかせること(構想)と手を動かすこと(機械的実現)の二段階に分けて考えるからである。

まずは自由な構想があり、その実現が物理的に妨げられるという図式だ。(p163)

ちょっと言葉が難しいので要約してみます。

わたしたちは、創作とは、まず頭の中で想像たくましくイメージをふくらませ、それからそのイメージを現実の形に作り上げる、というものだと考えがちです。

例えば、絵を描く人は、頭の中で最初に完成品を隅から隅までイメージし、それから画材を使って、頭の中にあるイメージを現実に作り上げる、というような考えです。

もし創作とはそういうものなのだとしたら、制約のある創作環境はとても邪魔になります。せっかく頭の中では完璧にイメージできているのに、まずしい創作環境のせいでそれが実現できないかもしれません。

たとえば、頭の中では256色で描いている絵が、たった数色しかない絵の具のせいで形にできなければ、ため息が出るだけです。その場合、制約は確かに自由な創作を妨げています。

けれども、本来の創作は、ただ頭のなかで思い描いた完璧なイメージを、ただ機械的作業で形にするようなものではない、と先ほどの文は述べていました。

創作している人なら気づいているように、最初から完璧なイメージが頭のなかにあることなど、ほぼありえません。こういうものを描こう、とイメージして創りはじめても、途中でどんどん姿形が変わって、構想とは似ても似つかぬ完成品が仕上がることもあります。

だからこそ、創作する人は、自分の作品世界は自分がいちから考えて作り出したものではなく、作者のコントロールが及ばぬ「生きている」世界だと感じることもあります。

どうして、最初に頭の中にあったイメージと、完成品がこんなにも変わってしまうのか。先ほどの本は、創作とはそもそも、自然界の動物のデザインに見られるのと同様、環境に対する適応として生まれるものだからだ、と説明します。

「創造」は、生命が環境においてあり、環境に対する適応として、環境に規定されつつみずから形をつくるところにすでに認められる。

人間の技術も同様に形をつくることであり、根本的には主体と環境の適応関係を意味する。

…制約や拘束があることによってはじめて、限定的にかたちが形成され、新しい「何か」が現実に生じうる。「創造」はそこにある。

無制限な自由からは、おそらく何も生まれないだろう。つくり手にとっての制約を外から除去してしまうことは、「自由」や「創造」を痩せ細らせることになりかねない。(p178-179)

生き物は、環境に合わせて適応しています。たとえば、生物の身体の色はどうやって決まっているのでしょうか?

たいていそれは、環境に対する保護色です。どんな環境で育つかが、生物という作品の身体にどんな色が塗られるかを決定します。

砂漠という環境に住む生物はたいて砂の色に似た体色をしています。海に住む生物は、水深によって体色が違います。比較的浅めの深海だと、赤っぽい体色で擬態する魚が増え、もっと深くなると暗色の魚ばかりになってきます。

生物のデザインが環境によって決まるように、「生きている」かに思えるわたしたちの創作作品のデザインも、頭のなかですべて完結して、最初からデザインが完璧な決まっているようなものではなく、そのときそのときの制作環境に左右されます。

言い換えれば、創作環境という「制限」があるおかげで、創作作品の形もまた、より具体的に、よりはっきりと洗練されていく、ということになります。

そのことを示す、歴史的に重要な例のひとつが、ビジュアル図鑑 自然がつくる不思議なパターンに載っていました。

五角形で平面を隙間なく埋め尽くすことはできないが、1970年代に数理物理学者のロジャー・ペンローズが2種類のひし形を使って隙間なく平面を埋める、5回対称性のあるパターンを発見した。例えば星型と十角形がパターンに現れているのだ。

ペンローズタイルと呼ばれるこのパターンには周期性がなく、単純な配置のルールにしたがってつなげていけば無限に拡張できる。ひし形の各頂点に原子を置くと考えれば、準結晶の格子に非常によく似た配列になるのである。

幾何学の法則をねじ曲げるかのようなこのパターンは、イスラム世界では数百年前から知られ、複雑なパターンのモザイク模様が考案された。

自然を表現するのに宗教上の制約があったこと、それとともにイスラムの哲学者が数学に深い関心を寄せていたことから、芸術性の高い洗練されたパターンが発達し、宮殿や寺院などを飾っているのが今も見られる。

イランのイスファハーンにある1453年建立のイマーム寺院には、ペンローズタイルにそっくりの文様がある。(p194-195)

平面を埋め尽くすパターン絵柄というと、多くの人は、ひとつの図形で埋め尽くすような比較的単純なパターンを考えがちです。それ以上複雑なパターンは、なかなか常人では思いつきません。数理物理学者のロジャー・ペンローズのような専門家が、やっとのことで見つけたくらいです。

▽ペンローズ・タイルとは (クリックで画像検索)

ところが、そのとても複雑なパターン模様は、イスラム圏の芸術家たちが何世紀も昔に先んじて発見し、作品に大々的に使用していました。どうしてその芸術家たちは、天才的な物理学者の発見を先取りするような発想ができたのか。

その秘密は、イスラム圏の芸術家たちに、宗教的事情から、生き物の姿を模倣してはいけない、という厳しい制約が課せられていたことにありました。

その厳しい制約のなかで、独自性を発揮するにはどうすればいいかを突き詰めていった結果が、だれも思いつかないような独創的な絵柄のパターンの発見だったのです。

▽イマーム寺院の文様 (クリックで画像検索)

このエピソードは、芸術の創作と、生物の適応は、基本的にいって同じ原理で成り立っていることをよく物語っています。

ガラパゴス諸島やマダガスカル島のような極端な環境に、ユニークなデザインの生物がたくさん現れるように、極端な制約を課された文化的環境では、ユニークなデザインの芸術がたくさん生まれます。どちらも、制約がある環境だからこそ、デザインが独創的になるのです。

「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86によると、ピカソとともにキュビズムを創始した画家のジョルジュ・ブラックは、次のように述べたそうです。

芸術の世界では、進歩というものは拡張ではなく、制約を知ることにある。(p390)

「どんな絵でもその本質は額縁という枠にある」

制約があるおかげで、かえって創造性が増し加わるという このような例は、芸術の歴史をひもとけばたくさんあります。

「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86によると、たとえば、有名な画家ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画も、じつは制約のおかげで生み出された傑作でした。

ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂に天井画を描くよう依頼されましたが、天井は湾曲してただけでなく、アーチに挟まれた三角小間で区切られていました。いわば制限だらけのキャンバスだったわけです。

ミケランジェロは、三角小間が張り巡らされた天上という制約を逆手に取り、障害物のない平画の天上では作り得ないダイナミックな構図を考案した。

足場は床から組み上げるのが一般的だが、ミケランジェロは壁に開いた穴から足場を伸ばす方法を考案しなければならなかった。生まれて初めて、複雑なフレスコ画の技法を使うことを余儀なくされた。

…500年の時を超えて、ミケランジェロの天井画は今でも見る者の心を震わせる。…障害物である三角小間があまりに巧みに溶け込んでいるので、その存在を忘れてしまうほどだ。(p388-389)

ミケランジェロは、湾曲していて、しかも障害物が多すぎる天井に絵を描くという無理難題を依頼されました。けれどもその制約のおかげで、ミケランジェロはかえって独創的になれました。

制約があっても見栄えのする絵を描くにはどうすればいいかデザインを突き詰めた結果、はるか未来の今日でさえ色あせない傑作が生まれたのです。

▽システィーナ礼拝堂の絵 (クリックで画像検索)

この本によると、ブラウン神父シリーズの推理小説などで知られる作家のG・K・チェスタトンは、この記事のタイトルにも冠した、次のような言葉を残したそうです。

芸術とは限界ということなのだ。どんな絵でもその本質は額縁という枠にある (p402)

考えてみれば、額縁という制限がなければ、絵を描くことはできません。極端な話、世界中ぜんぶに絵を描くことはできないので、画家はまず、絵の大きさと範囲を決めなければなりません。

どんな用紙に描くか、どんなサイズで描くかが、絵の内容をかなりの程度 左右します。画板に描く絵、黒板に描く絵、ストリートアートとして壁に描く絵、それらがぜんぶ異なっているのは、いわば「額縁」が異なるからです。

画家は、「額縁」という制限に応じて、どんな絵を描くか想像力をふくらませていきます。額縁が異なれば、異なる創造性が生まれます。

わたしが印象に残っているのは、任天堂のSNSミーバースで生まれたアートです。

わたしはもともとミーバースの絵心教室コミュニティ出身ですが、ミーバースの手書き投稿は、おおよそ絵を描く環境としては、最大級の制限が課されたものでした。

狭い横長のキャンバスに白黒のドットで手書きイラストを描いて投稿するだけ。途中で追加されたアンドゥ・リドゥ機能も一回だけの最小限の機能。Windowsのペイントにすらあるような単純な機能さえも一切ない。

でも、そんな制限のなかで、どれほど多種多様な表現の絵が生まれたか、わたしはリアルタイムで見ることができました。

それはたぶん、イスラム圏の極端な制限が課されたなかで発揮された創造性にひけをとらないものでした。またミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井を見上げて、こんな制限のあるキャンバスにどうやって絵を描こうか、と頭をひねったのとも似ていたはずです。

▽ミーバースの白黒投稿の絵 (クリックで画像検索)  

ミーバース出身の絵描きの中には、いまだにあの独特のキャンパスのほうが創造性が生まれると感じて、別サービスで白黒手書きイラストを継続している人もいるくらいです。

たった数年で終了してしまうようなサービスでも、極端な制限によって、いわばガラパゴス諸島やマダガスカル島のような独自の環境が生まれ、それに応じた創造性が発揮されうる、ということをミーバースの例はよく物語っていると思います。

独創的な人が制約に直面すると、無理やりにでも他にはないような解決法を見つけてしまう。

…自由になるためには、まず何かにしばられていなければならないということでもある。乗り越えるべき障害が必要なのだ。

創造というのは、往々にして束縛に対する反応なのだから。(p389-390)

「資源配分モデル」制約でしぼりこむ

なぜ制約があるほうが、独創的なアイデアが生まれやすいのか。心理学者たちは、その理由のひとつは、「資源配分モデル」という考え方で説明できることに気づきました。

右脳と左脳を見つけた男 – 認知神経科学の父、脳と人生を語る –には、アメリカの有名なタレント、テレビ司会者や作詞家など、多彩な才能を発揮したスティーヴ・アレンの仕事術に、その具体的な例を見ることができると書かれていました。

スティーヴは多彩な才能の持ち主だったが、そのなかには作詞もあった。講堂に私が運び入れたピアノの前に座り、スティーヴは、同名の映画のテーマソングで大ヒットした「ピクニック」の裏話を披露した。

スティーヴはプロデューサーから電話を受けるときろくてきな速さで歌詞を書き上げた。そのときのことを回想しながら、スティーヴは基本的には、心理学者が創造性の「資源配分」モデルと呼ぶものを説明していた。

スティーヴによれば、いつもならまったく制約なしに歌詞を書いてよいと言われていたという。

ところが「ピクニック」では、「映画のテーマに合った歌詞を書いてほしい。主演はウイリアム・ホールデンとキム・ノヴックで、二人がピクニックでダンスをするんだ」とプロデューサーに指示された。

目の前の仕事にすべてのエネルギーが注ぎ込まれ、歌詞を一気に完成させたとスティーヴは話した。

逆に制約のない場合には、歌の文脈とアイデアを定めるために多大なエネルギーが費やされるので、実際に歌詞を書く段になるとすっかり消耗しているという。そちらのほうが骨が折れ時間がかかるらしい。(p124-125)

アレンは多彩な才能の持ち主でしたが、まったく制約なく自由になんでも創っていいと言われるより、何かしら条件をつけられて制約を課されたほうが創作しやすいことに気づきました。

何か条件があったほうが、エネルギーを向ける対象をしぼりこめるので、限られた資源を創造性に振り向けやすくなります。これが「資源配分モデル」の考え方です。

言っていることは至極単純な話です。たとえば、巨大な模造紙をわたされて、好きに描いていいと言われると、何を描いたらいいか途方に暮れてしまうかもしれません。一枚の紙を渡されて、お題を指定されたほうが楽です。

同じように、制約が課されるおかげで、創作エネルギーをピンポイントで振り分けやすくなり、かえって創造的になった例が、芸術の中動態―受容/制作の基層にも載せられていました。

脳卒中の後遺症で右半身不随になり、左手だけのピアニストとして演奏活動を再開した舘野泉は、左手用の新曲を懇意な作曲家たちに依頼した。それについて彼は次のように述べている。

左手のための曲を書くことは、私が作曲を委嘱した作曲家たちにとっても、ひとつの挑戦である。使えるのは左手だけという制限のなかで、どの程度まで書き込んでよいものか。

両手で弾いているように響かせるといった次元での思考ではなく、あたえられた制約のなかで音を如何に駆使して自分の考えや感覚を響かせていくか。

しかしそうした不自由があるなかで書いていくことが、逆説的に新しい充実した表現を見出し、自由な力となっていくのを私は見た。[舘野、176頁]

この場合、作曲家たちはもちろん、制約がない環境でも、創造性を発揮していました。スティーブ・アレンが普段から多彩な創造性を発揮していたのと同じです。

けれども、アレンが条件を指定されたほうが創作しやすいと述べていたように、作曲家たちも、左手だけ使う曲を作る、という条件を課されたほうが、よりユニークな創造性を発揮しやすくなりました。

制限を課されたことで、限られた範囲に焦点が向けられ、創造性のエネルギーをピンポイントで振り分けることが可能になったからです。

これと似たエピソードは、さまざまな場面でよく見聞きします。

たとえば、ドラゴンクエストシリーズの作曲家を務めるすぎやまこういち先生は、ファミコン時代の作曲環境について、わずか三音しか使えなかったからこそ、独創的なメロディを作ることに集中できたと述べていました。

社長が訊く『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』

あの当時、いろんなゲームメーカーが
作曲家に音楽を頼むようなこともあったようなんです。
ところが「3トラックで音楽ができるわけないよ」と
断られる例がほとんどだったみたいなんです。

…でも僕には、面白かったんですね。
3トラック目は、
サウンドエフェクトに取っておきたいから、
2(ツー)トラックで音楽をつくってほしいと言われたんですが、
そういうことがある種のパズルに挑戦するような感じで。

いまだにファミコン時代に作曲された音楽が色あせないのは、白黒だけで狭いキャンパスに描かれたミーバースの絵と同じく、極端な制限があるがゆえに、作曲のときのエネルギーが創造的なメロディの作成に全振りされていたからなのかもしれません。

「選択肢過多」だと決定麻痺に陥る

制限の厳しい環境とは反対に、自由すぎる環境だと、人はどうしていいかわからなくなって途方に暮れてしまう、という心理学の研究もあります。

たとえば、 「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86にはこう書かれていました。

良いか悪いかという選択は容易い。良いものが2つも3つもある中から選ぶのは、難しい。

選択肢が多すぎると、たとえそれが良い選択肢ばかりでも、人はいわゆる決定麻痺に陥って決められなくなってしまうという心理学的な研究もある。

スタンフォード大学心理学部のヘイゼル・ローズ・マーカス教授によると、

「たとえその選択によって自由を手にできる、または力を得られる、あるいは何かに依存しなくても生きていけるという条件であっても、良いことずくめというわけではないのです。

選択という行為を迫られると、不安で頭が真っ白になることもあります。落ちこんだり、利己的に振る舞うこともあるのです」(p401-402)

あまりに自由すぎたり、選択肢が多すぎたりする環境だと、「決定麻痺に陥って決められなくなってしまう」「不安で頭が真っ白になる」というのは誰しも経験があるのではないでしょうか。

さっき書いたような、大きな模造紙をわたされて、なんでも好きに描いていいと言われたらかえって描きにくい、という例もそのひとつです。

選択肢が少ないほうが自由に決定しやすく、選択肢が多くなるとかえって束縛されて選べなくなる、という現象は、心理学の世界では「選択肢過多」と呼ばれています。

身近な例としては、現代の子どもたちが、自分の進路や将来をなかなか決定できないことでしょうか。

昔の子どもは、将来の選択肢が少なかったので、あまり悩まずに、少ない選択肢の中で自分がしたいと思うことに全力でトライできました。

しかし現代の子どもは、あまりに職業や学校に選択肢が多すぎるために、かえってどうしていいか不安になり、進路を選べなくなってしまいます。

少ない選択肢だと、比較検討してどれがいいか選ぶことができますが、あまりに選択肢が多すぎると、全容を知ることができないので混乱してしまい、脳のキャパシティをオーバーしてフリーズしてしまうからです。

選択肢が多すぎるという問題は、とりわけ現代のデジタルテクノロジーの環境に典型的です。一人でデジタル機器を3つも4つも持ち、SNSやゲームなどのアプリをたくさん掛け持ちしている人は少なくないでしょう。

一見すると、たくさんの情報に触れられるようになったおかげで、より新鮮な刺激にさらされ、創造性が増し加わると思えるかもしれませんが、実際にはその逆のことが起こってしまいます。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、注意についての研究が専門の心理学者ポール・アチェリーはデジタルな刺激にたくさんさらされる現代社会よりも、何もない大自然のなかに行ったほうが創造的になれると言います。

「こういう場所にいれば、当然、脳にとって選択肢が減る。選択肢が減れば、高いエネルギーを必要とする物事に注意が向けられるようになる。

オフィスではメールがきたり着信音が鳴ったりと、なにかしら音が聞こえているだろう? つねに取捨選択を迫られている状態だから、脳は物事を深く考えられなくなる。

でも、ここにいるあいだは、さほど取捨選択を迫られないから、ひとつの物事にじっくり集中できるようになるんだよ」(p67)

言わんとしていることは、すでに考えた「資源配分モデル」と同じです。

現代社会の生活環境は、あまりに自由度が高すぎて「選択肢過多」の状態にあります。

インターネットを使えば何でも調べられる、どこにでもアクセスできる、どんな情報でも入手できる。

その自由度と引き換えにわたしたちは、どこにエネルギーを向ければいいのかわからなくなり、結果的に、創造性を発揮する余裕を失ってしまいます。何を選ぶかにエネルギーが奪われてしまうので、創造性を発揮する以前に疲れ切ってしまうのです。

他方、大自然の真っただ中のような、逆にそうした選択肢が何もない環境に行けば、目の前にあるやるべきことに集中する以外に選択肢はありません。何も選ばなくていいぶん、エネルギーをひとつのことに振り向けやすくなります。

もちろん、自然豊かな環境で優れたアイデアが得られる理由はこれだけでは説明できません。ほかにもたくさんの要素がからんでいるはずです。

それでも、芸術家たちが、行き詰まったときに自然のなかに気分転換に出かけると、創造性を取り戻せるように感じる理由のひとつは「選択肢過多」から抜け出し、「注意配分モデル」にしたがってひとつのことにエネルギーを集中できることにあるのでしょう。

刺激がなく退屈なほうが創造的になる

スマホやゲーム機に囲まれた刺激の多い現代社会の環境に比べて、自然が多い田舎の環境は、何もなくてつまらない、退屈だと感じる人もいるかもしれません。

自然をこよなく愛する人たちは、そうではないと否定するでしょうが、あなたの子どもには自然が足りないに書いてあるように、現代っ子の大半にとってしてみれば、コンセントのない環境は退屈だ、と感じるのは事実です。

私はときどき、サンディエゴに住む小学四年生のポールが言った。おそろしく正直なコメントについて考える。

「僕は家の中で遊ぶほうが好きだよ。だって外には電気コンセントがないでしょ」(p25-26)

確かに、コンセントがある家の中なら、いえ今ではコンセントがない家の外でも、デジタル機器とバッテリーさえあれば、いつでもどこでも、SNSや動画やゲームを楽しむことができます。つまり、いつでもどこでも「選択肢過多」な刺激に身をさらすことができます。

多種多様で自由な刺激にさらされたほうがより創造的になれる。ほとんどの人はそう考えてしまいがちですが、ここまでこの記事で見てきたように、それは必ずしも正しくありません。

退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放すによると、心理学者サンディ・マン博士は、刺激の多い環境と退屈な環境とでは、どちらが創造的になれるのか、「代替用法テスト」という方法で測定しました。

これは、心理学者J・P・ギルフォードが1967年に考えた、創造性を測定する手法のひとつで、カップやクリップ、椅子といったありふれたものの使いみちを、どれだけ多く思いつくか、という方法です。

つぎの段階では、事前の作業をもっと退屈なものにしました。電話番号を20分間書き写すかわりに、音読してもらったんです。…参加者のほとんどはとんでもなく退屈だと感じました。

…すると、マンが思ったとおり、より退屈な課題をこなしたあとの方が、紙コップの活用法についてユニークなアイデアが生まれました。

イヤリングや電話、いろいろな楽器、さらにはマンがとくに気に入ったというマドンナ風のブラまで、この参加者たちは紙コップをただの容器以上のものととらえていました。

マンは、この実験で自身の仮説を証明しました。つまり、退屈している人はそうでない人より独創的に考える、と。(p33-34)

心理学の実験で明らかになったのは、人は刺激の多い環境より、退屈な環境のほうが、より創造的になれるということです。

つまり、コンセントのある家の中や、デジタル機器を自由に使用できる環境より、何も選択肢のない自然の真っただ中のほうが、少なくとも創造性という観点からすれば、よりユニークな発想ができるということ。

おもしろいことに、あなたの子どもには自然が足りないによると、子どもの場合も、おもちゃをたくさん与えられた人工的な環境よりも、おもちゃが何もないような自然のなかのほうが、創造的な遊びをするようになる、という研究があります。

スウェーデンで行なわれた研究によって明らかになったのだが、アスファルトの遊び場で遊ぶ子供たちは、何度も中断をさしはさんだ、細切れな遊び方をする。

その一方で、より自然に近い遊び場で遊ぶ子供たちは、一つの長大な物語を織り上げる遊びに何日もふけりつづけ、次々に物語の意味を創っては組み合わせ、その物語を完成させるのである。

…スウェーデン、オーストラリア、カナダ、そして米国で、緑の多い遊び場をもつ学校と人工的な遊び場のある学校の子供たちを調べたところ、子供たちは緑の遊び場でのほうがずっと創造的な遊びをすることがわかった。

これらの研究の一つでは、より自然が多い学校の校庭では、子供たちは男の子も女の子も平等なかたちで一緒に遊ぶことのできる、より空想的なごっこ遊びをした。

…研究者たちがさらに発見したことによけば、人工的な遊具の多い環境の中で遊んでいるときの子供たちのあいだには、身体的能力に基づいたヒエラルキーができやすかった。

しかし、ただの草地に低木を植えた場所、すなわち研究グループの表現を借りれば「植物の部屋」では、遊びの質に大きな変化が見られた。

つまり、子供たちはより空想的な遊びをするようになり、彼らの上下関係は、身体的能力よりも言葉を使う能力や創造性や創意工夫によって決まるようになった。(p96)

現代の子どもたちは、ゲームやおもちゃなどの遊び道具をこれでもか、とたくさん与えられていますが、もともと子どもは大人からおもちゃなど与えられなくても、自分で発明することができます。

昔から「必要は発明の母」などと言われますが、子どもの場合でさえ、自由になんでも与えられている満ち足りた環境より、制約があって選択肢の少ない環境のほうが、自分の創意工夫で独創的な遊びを発明し、創造性を発揮できるのです。

自由すぎるなら、自分で枠を決めればいい

この記事で書いたように、創造性を高めるのは、自由でなんでも選べる環境より、条件や枠組みがある程度決められた制約のある環境だ、ということを示す証拠は、歴史上の例や心理学の実験など数多くあります。

わたしたちはつい、たくさん情報や刺激に触れたほうがより創造的になれる、10色の色鉛筆より100色の色鉛筆のほうが独創的な絵が描ける、と思いがちですが、事実はそうではないのです。

ユニークな生き物たちは、生物のデザインは、環境との相互作用で決まることを教えてくれます。生き物の色が環境という枠組みで決まるように、「どんな絵でもその本質は額縁という枠に」あります。

「資源配分モデル」は、わたしたち人間のエネルギーは有限だということを思い出させてくれます。枠組みをちゃんと決めてやらなければ、どこにエネルギーを振り向けていいかわからなくなり、創造性を発揮する前にエネルギーを使い果たしてしまいます。

現代社会は、歴史上類例がないほど自由な選択肢が増えました。特に先進国に住んでいるわたしたちは、事実上、お金さえあれば、どんな選択肢でも選べるほどになりました。インターネットやデジタルテクノロジーは、まさに無限の選択肢を提供しています。

けれども、そんな「選択肢過多」な時代だからこそ、わたしたちは山積みされた選択肢のなかから、自分に合った選択肢を選び取るという困難に直面します。あまりに自由で多機能だからこそ、かえってどうやって使っていいかわからなくなり、エネルギーが奪い取られます。

そんな時代に、創造性を高めたいなら、多すぎる選択肢を自分で減らし、あえて枠組みを作ってあげる必要があります。今が額縁のない時代なのだとすれば、創造性を発揮するために、自分で額縁を用意する必要があるのです。

最後に、この記事の冒頭で引用した偉大な芸術家たちの例を、もう一度、「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86から見てみましょう。

ゴッホは一枚の絵に最高6色しか使わなかった。青の時代のピカソは、1色にこだわって描いた。いずれも、自分自身に制約を課したのだ。

作業するときに何らかの枠を求めたということなのだが、重要なのは、お仕着せではなく、自分で見つけた自分に合う枠だということだ。(p400)

ゴッホやピカソが類まれな創造性を発揮できたことには、もちろん本人たちの才能も関係しているでしょう。でも、それだけではなく、自分でちゃんと枠組みを決めることができ、そのおかげで自分の限られたエネルギーを、ピンポイントで創造性に全振りすることができたから、彼らは創造的だったのです。

わたしたちも、創造的でありたいなら、ちゃんと自分のために額縁を選ぶことが大事です。

多機能なツールを買う前に、より刺激の多い環境を求める前に、たくさんの情報に触れる前に、しっかり自分に合った枠組みを見つけ「選択肢過多」に悩まされなくていいようにするべきです。

まず枠組みを決めて、焦点をはっきりさせます。そのあとでなら、多機能なツールや高機能な画材も役立つでしょう。目的が決まっていれば、選択肢が多くとも迷うことがないからです。

決められた枠なしで何かをするとしたら、まず自分のために枠を作ってやらなければならない。

クリエイティブな人には完全な自由が必要だが、カオスの底なし沼に沈んでしまわないためには、逆説的に何らかの境界を設定してやらなければならないのだ。

完全な自由というものは、あなたを惑わせる危険な迷宮となり得る。

自分に制約を課すことで、自分の限界を知ることができるのだ。一度自分に適した世界とその枠を探し当てたら、後はその中で自由に創作すれば良い。(p402)

最初から何もかも自由であるより、まず枠組みを決め、目的をはっきりさせること。そうすることで、限られたエネルギーを路頭に迷わせるようなことなく、創造的な活動へと集中させることができるのです。

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投稿日2018.08.15