山菜採りでウドを味わった感想。植物観察にGoogle Lensが便利!

また山菜採りに近くの森に行ってきたので、そのとき見つけた植物について書こうと思います。

季節の変化が目まぐるしい道北に住んでいると、その瞬間しか見られない景色や動植物がたくさんあります。時期を逃すと、少なくとも来年までお目にかかれません。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート) で塩野米松さんが書いているように、自然界は、「期間限定」の楽しいイベントに満ちています。

自然観察には早道や近道はない。自然を観察しようとすれば、ゆっくりと、変化を見逃さす、勝手な推測で見逃したことを補うことなく観察を全うしなくてはならない。

草花は多くの場合、1年に1回しか花を咲かせない、時間やチャンスを逃せば翌年を待たなければならない。ほんのささいなことで、大事な生態を見逃してしまうことがある。そうしたら来年を待たなくてはならないのである。(p195)

道北に住んでいると、数日森に行かなかっただけで、何か大事なイベントを見逃した気がして「もったいない」と感じます。それほど森のようすは毎日変わっている。一夜のうちに花が開くことがある。

植物観察は、時期を逃すと翌年を待たねばなりません。そして、山菜採りは、チャンスを逃せば、また来年まで待たないといけない代表例。

今回はウドを採りにいきましたが、連れて行ってくれた人は、定期的に群生地を見に行っては、今が旬だというチャンスを見計らっていたのだとか。おかげで、とても美味しい山菜をいただけました。

ウドだけでなく、晩春から初夏の今の季節しか見れない、さまざまな植物を観察できて、とても楽しいひとときでした。名前も知らない初めて見る植物ばかりでしたが、Google Lensがとても役立ったことも書こうと思います。

ヤマウドを求めて

今回、山菜のヤマウドを採りに行ったのは、いつもと同じく、家のすぐ近くの森でした。自動車で行きましたが五分ほど。家の近くに森があるって本当にすばらしい。気軽に植物観察や山の幸を楽しめます。

ウドというと、スーパーなどで売られているのを見たことがある人も多いかもしれませんが、あれは白ウドといって、地下室などで軟化栽培された品種だそうです。それに対して、本物の野生のウドこそが、今回目当てのヤマウドです。

改訂新版 北海道山菜図鑑 (ALICE Field Library)を読むと、「最近は栽培品が出まわっており、軟化栽培されたものが多い。しかし野生品に比べる香りが少なく、味はかなり落ちる」とのこと。(p19)

つまり、市販品のウドを食べている人たちは、ウドの本当の香りも味も知らないわけです。山菜として山に生えている野生のウドを食べてこそ本物が味わえる。

さて、森に行ってみると…

エゾハルゼミが大合唱でした! 家からでもその声は聞こえますが、森まで行ってみると桁違いの音量。

大阪や東京に住んでいたころも、クマゼミやミンミンゼミの大合唱を聞きました。でも、大都市は緑が少ないので一箇所に集中している。公園のたった一本の木にセミたちが大集合してびっちりついている。そこだけ大合唱で騒音状態。

でも、こっちでは木はいくらでもあります。そして、エゾハルゼミたちは、森のなかのそれぞれの木に分散して鳴いています。

音は波だから、互いに増幅しあって、大きくなる。でも音源が分かれているので、一箇所だけから大音声が聞こえる騒音ではなく、森全体がうなりをあげて響いているような音の洪水です。

わたしは音過敏なほうですが、この音は意外と大丈夫。飛行機や電車や道路の車の騒音とは違う、と思いました。サラウンドに響く、大きいけれどどこか心地よい夏の音でした。いや、エゾハルゼミだから春の音か。

連れて行ってもらった場所には、さっそく、ウドが群生していました。都会育ち、引っ越してきたばかりのわたしは、ウドとはなんぞや、というレベルで何も知らないので、じかに見せてもらい、教えてもらいます。これがウドだ!

パッと見ただけではよくわかりませんが、特徴は、茎の表面にうぶ毛のようなものがびっしり生えていること、そして茎が枝分かれしている場所が赤くなっていること。

それを比較したのがこの写真。

左側が今回の目当てのウド。右側は…えーとなんだろうか。教えてもらったのに名前を忘れてしまった。

けれども、毛が生えているのと、赤いのとで区別はつくので、ウドを収穫していきます。「半分以上採ってはいけない」の掟を守りますが、群生地なので、とんでもない量が生い茂っているので、採りすぎることはさすがになさそうです。

近くには、山菜として有名なタラノキもありました。タラノキは芽の部分を天ぷらなどにしていただきますが、もう食べごろはすっかり過ぎてしまっていました。

こういうのは、あった場所を覚えておいて、また来年、時期を見計らって採りに来るといいみたいですね。チャンスを逃せば、来年まで待たなければならない、とはこういうこと。

それに対して、ウドのほうは、比較的チャンスが長くて、長いあいだ、味を楽しむことができます。

インターネットを調べてみると、ウドも芽や若葉を食べるとされていますが、1mくらいに生長したのを採ってきても十分においしいです。

無用の長物を意味する「ウドの大木」という言葉がありますが、改訂新版 北海道山菜図鑑 (ALICE Field Library)には、この言葉は大変失礼だと書かれていました。どうも本来は「ウロの大木」(内側がウロ、つまり空洞になって腐った大木の意)だったのではないかとのこと。なるほど、そうかもしれない。少なくとも大きく育ったウドを食べた限りはおいしいです。(p240)

先端部分の芽や若葉は、天ぷらにするとおいしいですし、茎はしっかり皮を剥いたら、和え物などにもできます。こちらは今回誘ってくださった方が料理してくれたもの。まるで料亭みたい!

若葉や芽の部分の天ぷらは、衣がサクサクで、葉は柔らかくて、もちっとしていて、ほのかにウドの香りがして絶品。これだけで幸せになれます(笑)

料亭でこうした山菜を食べると、おいしいけれど、ものすごく値段が張りますよね。それが、ここでは、ちょっと山に行ってくるだけで味わえるのだから、なんという贅沢。フキノトウなんか雑草レベルでそこらじゅうに生えてるし(笑) 山の幸に感謝です。

ちょっと時機を逸して、大きく生長したウドの場合は、皮むきがポイントで、かなりしっかりと茎の皮をむいておけば、柔らかくて新鮮なところを味わえます。

うちで料理したときは、しっかりむいた人と適当にむいた人がいたので、皮むきが適当な茎の天ぷらは固くて苦くて食べられなかった。苦いのは皮の境目の部分なんです。ちょっとだけ残しておくのは風味付けにいいけれど、残りすぎていると食べられない。

調理後に仕方なく、もう一回わたしが皮をむきましたが、そうすればおいしく食べられました。調理後にむくのは手間がかかるので、やっぱり下処理が大事ですね。

むいた皮はきんぴらにできますが、さすがにかなり苦いから、きんぴらごぼうの香り付けにちょっと入れるくらいでしょうか。ウドの皮を単独できんぴらにしてしまうと、よほど物好きな人以外は食べれないと思います。

ほかにも、このときは、まだ花期が続いていたニリンソウや、ミツバなども採ってきて、一緒に食べることができました。

この春、有名な山菜はひととおり食べましたが、調理が簡単でおいしい、という意味では、エゾノリュウキンカ、ニリンソウ、エゾエンゴサクあたりが一番気に入ったかな。どれも豊富に群生しているので、採りすぎて無くなる、と気を使わなくていいのも良い。

ギョウジャニンニクやタラノメは、人気があるのか、林道のそばのものはけっこう採られている気がするので、ちょっと気を遣いましたね。森の奥に行けばいくらでも生えているんだろうけど、ヒグマが怖いので。ほかの人のぶんも考慮して、慎重にちょっとだけ採る感じです。

改訂新版 北海道山菜図鑑 (ALICE Field Library)を読んでいると、食べれる山菜って、これっぽっちではなくて、種類豊富でたくさんあることにびっくりします。

もともとタンポポも食用に輸入されたから食べれるのだとか。若葉はおひたしや汁の実になりますし、花もおひたしや天ぷらにできるそうですよ。(p124)

道北も、外来種のセイヨウタンポポに席巻されて、野原一面タンポポ畑になっている場所もよくあるので、好きなだけ食べることができます。食べたければ(笑)

ツクシ(スギナ)も、あまり肥沃でない酸性土の場所に山ほど生い茂っていました。一回食べてみたけれど、わざわざ食べるようなおいしいものではないかなぁ…。「食べれる」と「おいしい」は違うので。

これはエゾゼンテイカ。

若芽が食べれるほか、花やつぼみをゆでたり天ぷらにしても食べれるのだとか。ちょうど今咲いているけどどうしよう(笑) (似ているエゾキスゲやヤブカンゾウも同じように食べれるらしい)。(p33)

さらにはそこらじゅうの木に巻き付いているツルアジサイの若芽なども食べれるらしい。アジサイの葉は毒だとよく聞くけれど、ツルアジサイは食べれちゃうのか…。挑戦してみたいけれど、これも来年ですね。(p147)

こちらもあちこちに生えているエゾノギシギシ。繁殖力が強く、これもまた外来種らしい。(逆に同じタデ科のイタドリは、外国で外来種認定されている)

このエゾノギシギシは、若芽部分を摘み取れば、ぬるぬるしたジュンサイのような食感を楽しめるのだそうです。そのためオカジュンサイとも呼ばれているとか。(p39)

食べようと思えば、いろいろ食べれるものは周りにたくさんあるみたいです。ただ、ここの地元の人たちは、フキノトウでさえ、わざわざ食べるほどでもない、と言うほど、美味しい山菜を知っているので、こうした「食べれる」だけの山菜には見向きもしないのですが(笑)

山菜と野菜の違い

改訂新版 北海道山菜図鑑 (ALICE Field Library)を読んでいて面白かったのは、巻末部分に、山菜と野菜の違いが説明されていたことでした。

もともとは、野菜だって人間が持ち出して栽培するまでは全部山菜だったわけですが、今や山や森に自生している山菜と、人間の利便性のために改良された野菜では、性質が異なっています。

山菜と野菜の違いを箇条書きにまとめてみると…

(1)旬の時期
山菜がおいしい旬の時期は一瞬。雪国だと雪解けした春に一気に芽吹いて生長する。だから山菜採りはタイミングが大事。

そして、人間の手を経て作られている野菜との決定的な違いは、食用に適する期間が極めて短いこと。つまり、ほんとうの意味で旬のものなのである。

この時期を逃しては食べられない、そうした旬のものだから貴重であり、かつ味わい深いものなのだ。(p300)

一方、野菜は、品種改良や、農業の工夫を重ねて、シーズンいっぱい、さらには一年中でも収穫できるようになっている。そのおかげで、都市の住民に安定した供給ができるが…。

(2)味
山菜は、旬のタイミングが極めて限られていることからわかるとおり、味も極端。ウドがそうであるように、山菜は栽培種と比べて、風味も香りもはるかに強い。しかし、旬の時期に食べると非常に味わい深い反面、時期を逃すとおいしくなくなってしまう。

山菜は野生のものなので、野菜と異なりアクが強い。このアクこそ山菜の持ち味にもつながるのだが、これが毒にも薬にもなる。

適度な量はからだによいのだが、食べ過ぎると下痢をするなど健康的にも逆効果になることも多い。ほどほどが肝心なのである。(p301)

山菜は、濃い味付けなどしなくてもおいしいほど、味にメリハリがある。

ジダケの最高にぜいたくな食べ方は、採りたてのものをたき火(これは川原など山火事にならないようなところでやってほしい)の中に皮付きのまま入れて、奉書焼きみたいにするやり方。

焦げた皮をふうふういいながらむき、熱々のままカリカリと食べる。これはおいしい焼きトウキビ(トウモロコシ)みたいな香ばしく甘い味で、もうこたえられない。

味噌やワサビ醤油をつけるのもいいが、まずは何もつけずに味わってみたい一品である。

それに対して野菜は通年食べられるように改良されているので、とてもマイルドな味になっている。悪く言えば、パンチが足りない。だからドレッシングなどで味を濃くする必要がある。

(3)無農薬・有機栽培
野菜は収穫量を上げるために、農薬を使うことが多い。

一方で、山菜は山や森のただ中に生えているものなので、無農薬だし、野生の有機物を肥料として育っている本当の意味での有機栽培といえる。

自然食品や無農薬・有機栽培野菜が、最近時に人気を集めている。だが、考えてみれば山菜は、そうしたものの元祖的存在だ。(p300)

(4)日持ちするかどうか
山菜は、基本的にいって、収穫してすぐその日のうちに調理して食べるのが理想。そうでないと風味が失われてしまう。

茹でたり乾燥させたりして調理したら、ある程度の長期保存も可能だが、どちらにしても採ってすぐ下処理すべきなのは同じ。

持ち帰った山菜をそのまま放置したら、せっかくの旬の味が台無しになる。…鮮度がよいうちに下処理しておかないと味が落ちて後悔する。(p300)

ウドやギョウジャニンニクのように生命力の強いものは、濡れた新聞紙にくるんで冷蔵庫の野菜室に保存しておけば、2~3日はだいじょうぶ。無論、採取当日の新鮮な味にはかなうべくもないが。(p302)

それに対して野菜は、ある程度日持ちするものが多く、遠隔地に輸送したり、冷蔵庫で保存したりするのに適している。しかしそれは、もともとあまり味が極端でないから、日持ちするのだともいえる。

以上に、こうした点を一言でまとめると、「山菜は旬の時期に採ってすぐ食べたら、とびきりおいしい。野菜は通年、そこそこの味が楽しめる」ということになります。

もともとはアイヌ民族のような狩猟採集民がそうだったように、旬の山菜を食べるのが身近だったはずですが、人間が都市生活を始めるにつれて、便利な野菜が栽培されるようになりました。

おかげで食糧を安定供給できるようにはなりましたが、旬の産物を食べるおいしさが忘れられ、野生の活力も失われてしまいました。全体的に水で薄めたかのような、メリハリのない食生活になってしまいました。

だから、わたしがそうだったように、山菜をじかに採りに行って食べてみると、本当の食べ物ってこんなにおいしかったのか!と感動します。今まで死んだ食物を味わっていたのかと思うほどでした。

生きた食物を味わうには、それなりの苦労が伴いますが、利便性を追求した野菜からは遠い昔に失われてしまった野生のエネルギーが感じられます。

森で見かけた植物たち

ここからは、今回、ウド採りがてら森を散歩しにいって、見かけたさまざまな旬の植物たちについて。

まず見かけたのは、ズダヤクシュ。漢字で書くと喘息薬種といって、喘息の薬になるそうです。

森の奥の日当たりのよいところに、一面に群生して、白いかわいらしい花を咲かせていました。冒頭に載せたこもれびの写真も、同じ場所のズダヤクシュの群生です。

次に見つけたのは、オドリコソウ。名前のとおり、踊り子が輪になって踊っているかのような可憐な花をたくさんつけます。

このオドリコソウの仲間に、ホトケノザという形の似たピンク色の花があるんですが、あの有名な春の七草の「ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ」に出てくるのは別物とのこと。あちらは、キク科のタビラコという植物らしいです。ややこしい。

続けて見つけたこの花。なんだか咲きかけのクリスマスローズみたいにうつむいていて、これから咲く花なのかな、と思って写真を撮っていましたが…

そうではなく、これでもう咲いているらしい。名前はアマドコロといって、とても形の似たナルコユリの仲間。(ナルコユリのほうが花期がちょっと遅く、大きさや形が微妙に違うらしいが、まだそこまで見分けられない)

別名はキツネノチョウチンといって、チョウチンを吊るして並べているかりのような花がつく。こちらの名前のほうがよっぽど直感的にわかりやすいですね(笑)

林道の両端にはところどころ、小さな黄色の花が。これはおそらくダイコンソウの仲間。

ダイコンソウにもいろいろと種類があるみたいですが、ここは道北だし、カラフトダイコンソウかなぁ、と安易に考えました。花の形もそれっぽい。

こちらの小さい白い花は、今の時期あちこちで見かけますが、花よりも葉の形が特徴的。

この車輪みたいな形の葉の形をとって、クルマバソウと呼ばれているそうです。これも、とてもよく似たクルマムグラというのがあるみたいですが、今のわたしでは見分けられないかな。

花びらが漏斗状になっているのがクルマバソウらしいので、この写真のはクルマバソウでよさそうかな。クルマバソウは乾燥させたらクマリンという芳香物質の桜餅みたいな良い香りがするらしく、ビールなどに使われることがあるそうです。

失われた、自然を読む力によると、クルマバソウがたくさん生えているのは、人間の手があまり入っていない古い森の証拠なのだそう。

森でクルマバソウの絨毯に出くわしたら、きっと古い森にいる。クルマバソウは移住が得意でないからだ。

風に乗ってあちこちに飛んでいくアザミと異なり、クルマバソウは新しい土地へと広がるのがとても遅い。

逆にセイヨウキヅタやシャク、ノイバラ、キイチゴ、ブラックチェリー、ニセアカシア、ポイズン・アイビーなどは新しい森にいる手がかりだ。(p86)

ここに挙げられている例に限らず、在来種のエゾ〇〇などの植物が豊富な森は原生にに近い天然の森です。一方、野原や花屋で見かけるような外来植物をたくさん繁殖しているなら、そこはすでに開発されている森でしょう。

この花は、あのトリカブトのつぼみ!

だと教えられたのですが、あとで詳しい人に指摘されたところでは、エゾトリカブトではなく、トリカブトの仲間のエゾレイジンソウだとのこと。Google Lens博士に調べてもらったら、やっぱりレイジンソウでした(笑)

エゾトリカブトの花が8-9月ごろなのに対し、エゾレイジンソウは6-7月。そしてこの写真の花も、もうすでにいくつか咲いてますよね。

エゾトリカブトの花は、ほとんどが紫、まれに白だそうですが、エゾレイジンソウの花は白っぽいクリーム色。それも写真と一致しています。どのみちトリカブトの仲間なので、毒があって危険なのですが。

おいしい山菜のニリンソウやヨモギの葉っぱとよく似ているので要注意です。しっかり白いニリンソウの花が咲いているのを見て、区別して採る必要があります。

そのほか、いつものジャゴケもいました。ヘビの皮のような見た目と触り心地から、湿った場所では、つい探してしまいます。苦手だという人もいますけれど。

ジャゴケとはどういうものか、コケの自然誌 にこう説明されています。

ジャゴケについて言えば、Snakewortと呼ぶほうが適切かもしれない。ヘビの鱗状の皮膚によく似ているからだ。

この植物にははっきり葉と呼べるものはなく、平らで曲がった葉状体が、毒ヘビの三角形の頭のように三つに分かれて丸く飛び出ているだけだ。その表面が小さな菱形に分かれているせいで爬虫類っぽく見える。

地表にぴったりと密着して、ヘビのように岩や地表を這い、裏面に並んだもじゃもじゃの仮根で軽く固定されている。(p103)

植物界の爬虫類っぽさ代表でいえば、ジャゴケはトップクラスの選手です。

この日は、植物と菌類が手を組んだ不思議な生物である地衣類もよく観察できました。植物と叡智の守り人 によると、地衣類とは「農業を発見した菌類」です。「光合成をする生物を錦糸の塀で囲い込んだ」からです。(p346)

地衣類は、空気がきれいなところであれば、どこの木の幹にも見られますが、この日見かけたのは、地面に落ちた木の枝に密生している、花のように開いた地衣類。

これはハナゴケ科のミヤマハナゴケかなぁ。それとも、ウメノキゴケ科のツノマタゴケか? Google Lens博士はツノマタゴケだと主張なさるのですが、ちゃんと図鑑とかで調べないといけないですね。素人目だと全然わからない。ヤマヒコノリかもしれない。

わからないといえば、キノコ類もそう。これはキコブタケの仲間? 薬効とかありそうですね(笑)

たくさんキノコも見かけるけれど、名前を知るのが難しい。キノコ博士だったビアトリクス・ポターに憧れます。

こちらは帰り道に道端で咲いていたハシドイ。紫やピンクでよく目立つライラックの仲間なのださそうです。(白いライラックの品種もあるそうですが、花の大きさが違います)

ツツジも白やピンクだと思っていたら、こちらのツツジは黄色やオレンジ色だったりして面白い。

Google Lensが便利

こういった植物観察のときに、最近役立つなと思っているのは、Google Lensの植物識別機能。植物以外も何でも識別してくれますが、植物は特に精度が高いような気がしています。

こういった自動識別は、昔 流行したものが微妙だったことから甘く見ていたんですが、今ではこんなに技術が進歩しているんですね。花の写真も、しっかりきれいに撮れば3割ぐらいで正答してくれて、7割くらいはアタリをつけてくれます。自動識別としては驚異的なほどです。

もちろん、山菜採りの場合は、自動識別に頼るのは危険です。外見が似た毒のある植物も多いので、図鑑を読むなどして、ちゃんと自分の目で見分けられるようになること、はっきり自信のないものは採らないことが大切。

だけど、山菜採りとは別の植物観察においては、名前を知る手がかりが得られるGoogle Lensはこの上なく便利です。

動物や虫の識別は、ここまで精度がよくなく、エゾハルゼミを見せてもただの「セミ」でしたし、蛾の写真も種の識別までは至らなかったですが、植物に関してはかなり実用範囲内だと思いました。

欠点は、世界規模のGoogleのデーターベースで検索しているので、地元の特有の種ではなく、海外の種が出てきてしまうのが多いことかな。それでも、おおよそのアタリはつけられますから、それをヒントにしてネットや地元の図鑑を調べたら、だいたいの種の名前はわかります。

今まで名前さえもわからなかった植物の名前を知る喜びはすばらしいです。Google Lensのおかげで、野外散策が今まで以上に楽しく興味深いものになりました。科学技術はこうした方向で活用されてこそ、ですね!

もっとも、名前を知るだけで満足してはいけない。植物と叡智の守り人にこう書いてあったのを思い出します。わたしも留意しないといけないところ。

いったん学名をつけた生き物に対しては、それが何者なのかをそれ以上知ろうとしなくなる人がいることに私は気付いている。

…ほとんどの人は、私たちの縁者であるこれらの木の名前を知らない。それどころか、ほとんど目にすることさえない。私たち人間は、名前を使って相手との関係を形作る―人間同士だけではなく、この世界との関係を。

自分の身の回りの植物や動物の名前を知らないまま生きるというのはどんな感じか、私は想像しようとする。私の性格や仕事からして、そんな生き方は知る由もないが、それはちょっと恐ろしくて、自分がどこにいるかわからないような感じなのではないかと思う。

ちょうど、道路の標識が読めない外国の街で道に迷ったときのように。哲学者は、孤立して他者とのつながりを失ったこういう状態を「種の孤独」と呼ぶ―周りの生き物たちから遠く離れてしまったこと、関係性の喪失からくる、深い、名前のない悲しみだ。(p266-267)

名前を知ることはとても大切。コミュニケーションの第一歩は名前を知ること。でも、それは始まりにすぎない。そこで満足してはいけない。名前を知ることで、やっと相手を識別できる。でも識別するだけでなく、理解しなければ、相手との関係を形作ることはできないのだ。

レイチェル・カーソンもセンス・オブ・ワンダーでこう書いていました。

いろいろなものの名前を覚えていくことの価値は、どれほど楽しみながら覚えるかによって、まったくちがってくるとわたしは考えています。

もし、名前を覚えることで終わりになってしまうのだとしたら、それはあまり意味のあることとは思えません。

生命の不思議さに打たれてハッとするような経験をしたことがなくても、それまでに見たことがある生きものの名前を書きだしたりっぱなリストをつくることはできます。(p47)

名前を教えてくれるGoogle Lensはとても便利で、とりあえず顔見知りになるためには大いに役立ちますが、そこで満足せず、観察する心、知ろうとする心を保っていきたいと感じました。そのためにも、せっかく森の近くにいるのだから、頻繁に足を運んで森を探検したいですね。

投稿日2019.06.04