外傷性脳損傷でフラクタルが見え始めて画家&数学者になってしまった「後天的サヴァン」ジェイソン・パジェットの話

この前の記事で、ジャクソン・ポロックのドリッピングの絵画に自然界と同じフラクタルが隠されていた! というびっくりするような話について書きましたが、芸術家とフラクタルをめぐる話はほかにもあります。

今回紹介するのは、ジャクソン・ポロックの物語に負けず劣らずユニークで突拍子もない、ジェイソン。パジェットという男性の物語。

彼はなんと、暴漢に殴られて脳を損傷したことがきっかけで、日常生活で見る景色に隠されたフラクタルが見えるようになってしまい、その超越感覚を生かしてアーティストまた数学者になりました。

そう書くととんでもない超能力映画みたいですが、彼の能力は脳画像研究を通して立証されており、もともと人間に備わっている特殊な能力が解放された「後天性サヴァン症候群」の一例だとみなされています。

彼の体験談が書かれているのは、31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という本です。毎度毎度、邦訳本のダサいタイトルセンスには辟易してしまうのですが、原題は「Struck by Genius: How a Brain Injury Made Me a Mathematical Marvel」(天才に打たれた:いかにして脳損傷は私を数学的驚異にならせたか)でした。

訳しにくいですが、「Struck」には「殴られる」や「襲われる」という意味があるので、暴漢に殴られたことを絡めているのでしょう。また「Struck by 」は、「Struck  by lightning」(雷に打たれる)のような、偶然に天災に襲われる、といったニュアンスがあるので、暴漢に襲われたことで偶然にもサヴァンの才能が目覚めてしまった、という二重の意味が込められているのかも。

原題だと、ちゃんと脳損傷が強調されているのに、邦題だとそこが抜けているのはなんだかなー、という気もします…。

この記事では、ジェイソン・パジェットがサヴァン症候群になって画家また数学者になってしまったいきさつをたどるとともに、自然界にひそむ「神の指紋」と言われるフラクタルが、わたしたちの脳や創造性とどう関係しているのか考えてみます。

殴られた後遺症で奇妙な色と形が見えるように

事件が起こったのは2002年9月のある夜。ジェイソン・パジェットが31歳のときでした。もともとADHDっぽい無軌道な性格だったパジェットは、何の目的もなく、ただ目の前の楽しみだけを追い求める刹那的な人生を送っていました。このときも、女友達に誘われて、カラオケバーで遊んでいました。

少し酔っ払いながら店を出て、しばらく歩いたとき、後頭部に衝撃が走って、意識が一瞬飛び、目の前が真っ暗になり、倒れ込みました。バーにいた二人組の男に後をつけられ、思い切り殴られたのです。強盗たちは、そのままさらに何発も殴った後、わずかばかりのお金を盗んで去っていきました。

ジェイソンは痛みをこらえて、ふらつきながら立ちがりましたが、どうにも様子が変でした。

僕は必死に立ち上がろうとした。痛みがひどいだけでなく、体のバランスが取りづらかった。

世界が違って見えた。どこかおかしく、幻想的だった。

何かが動くと、そのすぐ後ろから色のついた光が伸びる。窓、街灯、道路標識と、何を見ても、三角形や四角形がいくつも重なっていた。(p46)

殴られた衝撃で、彼の頭は重度の外傷性脳損傷を起こしていました。そのせいで、視覚がおかしくなってしまい、わけのわからない形がいくつも見えました。

ジェイソンは医者にかかりましたが、視界のあちこちにめまぐるしい色や図形が見えるのは変わりませんでした。さらに、PTSDを発症してしまい、カーテンを閉め切った家から出られなくなり、まともな社会生活を送れなくなりました。

人間に対する恐怖と、視界にチラつくわけのわからない色や形のせいで、精神的どん底に叩き落されたジェイソンは、いったい自分の頭はどうなってしまったのだろう、と考えて、一人ネットを調べ続けました。

医者にも説明できない奇妙な症状が色々とあったので、取り返しのつかない障害を負ってしまったのではないか、と不安な日々を過ごしました。

頭を殴られてから、ジェイソンの目に見える世界はすっかり変わってしまいました。動いているものが滑らかな動画に見えず、「途切れ途切れの静止画像で、奇妙な形が重なって見え」ました。(p67)

たとえば、水の流れはこう見えるようになったそうです。

毎朝、起きると、浴室へ行き、蛇口をひねり、洗面台に水を溜める。その水の流れを眺めながら、きつく巻きつけた弦をかき鳴らすような音がしないのはなぜだろうと思う。

僕には流水の構造が、特有の幾何学的な図形がある周波数で振動しているかのように見えるからだ。

この流れが途中で止まったら、まるでクモの巣のように見えるだろうが、実際にはクモの糸というより、小さな結晶からできた巣だ。(p16)

わたしたちにはまったくもって想像しにくいですが、滑らかな水の流れが、奇妙なクモの巣みたいな図形が連なる静止画像の寄せ集めみたいに見えていた、ということなのでしょう。

昨日まで普通に見えていた蛇口の水が、そんなクモの巣の寄せ集めにしか見えなくなったら、わたしでも、自分の頭はもう駄目なんじゃないかと思ってしまうに違いありません。けれども、自分で自分が変だ、とわかっているのは、正気を保っていて気が狂っていない証拠ではありました。

それはフラクタルだった!

ひょんなことからジェイソンに転機が訪れます。いつものように不安にさいなまれながらネットで情報を集めていると、自分の目に見えている奇妙な図形にうり二つのものを見つけました。

ある日、僕はまた四時間もパソコンにかじりつき、情報に浸っていた。目の前に見えている反復性のある幾何学的な図形を検索していると、画像検索結果にオウムガイが現れた。僕はすぐさまクリックした。

渦巻状の自然な形を見ると、瞬時に懐かしさを感じた。それは子ども時代の宝物だけでなく、朝のコーヒーをかき混ぜるときに見えるものでもあった。また、毎日、シンクの水が排水口へ流れ落ちていくときに見るものでもあった。(p77)

ジェイソンは、オウムガイの画像を見つけて、それが事件後に自分の目に見えるようになったものとよく似ていることに気づきました。オウムガイというと、教科書にもよく載っている美しい幾何学模様の貝殻を持つ生き物です。ジェイソンはオウムガイの貝殻について調べて、自分の目に見えるようになった奇怪な模様の名前をついに知りました。「フラクタル」でした。

読み進めると、その形が、僕がそれまで聞いたことのない言葉「フラクタル」として知られているものだとわかった。

フラクタルとは、貝殻から葉、木、山、稲妻に至るまで、既知の宇宙に存在するあらゆるものの基本となる、反復性のある幾何学的図形のことだ。

この新たなる知覚が持つ引力は強かった。それは、僕の視覚が脳損傷の生存者の幻覚以上の何かであることを伝える合図のように思えた。(p77)

ジェイソンは、事件の前までは、数学にも芸術にも縁のない生活を送っていたそうです。フラクタルという言葉を知らなかったことからもそれがよくわかります。数学をかじった人なら間違いなく知っているような単語のひとつですし、芸術でもよく使われるパターンなので、そんなに珍しい言葉ではないでしょう。

フラクタルとは、同じような形が大きさを変えて延々と続く構造で、自然界の雪の結晶や樹木の枝をはじめ、ありとあらゆるところに見られるので、「神の指紋」と呼ばれることもあります(p80)

ジェイソンはそのときまで「フラクタル」という言葉を知りませんでしたが、夢中になって調べ始めました。「フラクタル」という言葉を作ったのは、1970年代にIBMに所属していた数学者ブノワ・マンデルブロだと知ります。

そして、彼が導き出した単純な方程式、マンデルブロ集合を使えば、コンピュータでフラクタル図形を延々と描き続けられることを知りました。

強盗に殴られたあの日から、自分に見えるようになった幻覚の正体を知ったジェイソンは、絶望のふちで息を吹き返しました。もしかすると、自分に起こっているのは、単なる取り返しのつかない脳損傷ではないのかもしれない、そう思い始めたのです。

こういった視覚のすべて―そして、僕が世界で出会うあらゆる形―は、自然界に見られる幾何学的な図形、フラクタルと関連している。

切片、稲妻、海岸線はどれもフラクタルであり、その一部は全体と同じパターンを繰り返している。海岸線は使用する縮尺によって大きさが変化するため、特に好奇心をそそられる。

これは、フラクタルを理解することが、物質の本質の理解につながることを示していると思う。

たとえば、僕はつねづね人間がどこから来たのか、知りたいと思っていた。

今では、人体解剖図をざっと見ただけで、静脈、動脈、DNA鎖もフラクタルだということがはっきりわかる。人体は創造の構造そのものを映し出しているらしい。人体内部の構造は、宇宙のいたるところで見つかる、果てしなく繰り返されるパターンを映し出している。

このことに初めて気づいた時、僕は衝撃を受けた。あらゆる物、あらゆる人間は、この繰り返しの構造の再現なのだ。(p24)

後天性サヴァンのアーティスト誕生

新たな世界に足を踏み入れたジェイソンは、生気を取り戻し、社会への足がかりを見つけます。まず、自分の目に見えている不思議な幾何学図形を他の人に説明すべく、絵に描くようになりました。以前は絵など描いたこともなかったのに、ただ自分の目に見えるものを描くだけでアーティストになれることを知りました。

やがて、僕は鉛筆も持ち、それをスケッチしようとした。以前はそうでもなかったのに、その頃はかなり絵がうまくなっていた。

紙の上で何かを表現するのが得意になったのだ。鉛筆を持っても違和感がないどころか、自分と自分の頭の延長のような気がした。描かずにはいられない気分になり、それ以外のことはほとんど何もしなかった。(p106)

ジェイソンのアートは、信じがたいほど精巧で美しいので驚嘆させられます。

▽ジェイソン・パジェットの絵 (クリックで画像検索)

ジェイソンはまた、世の中には自分と同じように、不思議なものが見える人たちがいることを知りました。その人たちは「フォティズム」と呼ばれる視覚的な共感覚の持ち主でした。特定の文字に色がつく人もいれば、痛みで色が見える人や、自分の体の回りに日付が空間上に配置されて並んでいる人もいました。共感覚はじつに様々です。

あなたも共感覚者?―詩人・小説家・芸術家の3人に1人がもつ創造性の源
文字や数字に色がついて見えたりする共感覚と創造性

でも、ジェイソンの共感覚は、大半の人の共感覚より、よっぽど鮮明で特殊でした。彼に見えているものは、単なる共感覚者に見えるフォティズムというよりは、サヴァン症候群の人たちが見る世界に近いものでした。

サヴァン症候群とは、生まれつき、まったく訓練したことがないのに数学や音楽や絵画の分野で驚異的な才能を発揮する人たちのことです。以前は自閉症とのつながりが深いと言われていましたが、自閉症のサヴァンは、サヴァン全体の約50%なので、今では必ずしも自閉症に限定されないことがわかっているそうです。

普通、サヴァン症候群というと先天的な生まれつきの能力のことを言いますが、ごくわずかながら、事故や病気での脳損傷をきっかけに何らかの才能が開花する後天性サヴァンの人たちがいて、ジェイソンもその極めて珍しい後天性サヴァンでした。後天的に突然芸術の才能が開花した人たちの話は前にも書きましたね、確か。

ジェイソンは、後天性サヴァンについて調べて、親近感を覚えた人たちの例を幾人か挙げています。その中には、立体彫刻の天才もいました。

特に気に入ったのは、コロラド州ボールダーのアロンゾ・クレモンズの物語だ。クリモンズは、幼い頃の転落事故による脳損傷のため、うまく言葉を話せなかった。

しかし、彼は、目にしたどんな動物も、両手以外なんの道具も使うことなく、細部まで正確に粘土彫刻にすることができた。実際に、動物を一度、ちらりと見るだけで、そのイメージを写真のように記憶し、完全に正確な彫刻を完成させることができたのだ。(p97)

▽アロンゾ・クレモンズの彫刻 (クリックで画像検索)

ちらっと見ただけで形を記憶してしまって、正確無比に再現できるのは、前に紹介した有名な先天性サヴァンの画家スティーブン・ウィルシャーとよく似ています。ウィルシャーも、ヘリコプターから街を眺めただけで、細部まで写真のように記憶して正確無比な絵を描けてしまうサヴァンでした。

▽スティーブン・ウィルシャーの絵 (クリックで画像検索)

ジェイソンは数学の才能にも突如として目覚めました。それまでは数学嫌いでろくに勉強したこともなかったのに、「フラクタル」について知ったことをきっかけ、どんどん数学の理解が深まって、大学の授業に参加するまでになりました。「数学の専門用語や原理は知らないのに、理論面ではハイレベルな学生」として教授や生徒から一目置かれるようになりました。(p138)

彼はインターネットを通して自分の絵を発表し、共感覚を持つ人たちのコミュニティやサヴァンの研究者とも知り合います。そして、脳スキャンによる検査を受けて、正式に後天的なサヴァン症候群だと認められるまでに至りました。

脳は無意識のうちにフラクタルを処理している

けれども…

いったいぜんたい、何がどうして、ジェイソン・パジェットは頭を殴られて、自然界に隠されたフラクタルが見えるようになってしまったのでしょうか? 

もちろん頭を殴られて後天的サヴァンになれる人など万に一人もいませんが、それでもなお、いったいジェイソンの頭に何が起きていたのか、というのは気になります。ここからがこの記事の本題です。

ジェイソンが見ている幾何学図形は、頭がおかしくなってしまったことで見える架空の幻ではありません。前のジャクソン・ポロックの絵の記事で、わたしたちの身の回りの自然界にはフラクタルがたくさん隠されている、ということを考えました。ジェイソンはありもしないものを見ているわけではなく、本当にそこにあるものを見ています。

自然界には、フラクタル次元1.3~1.5という程よい度合いのフラクタルが満ち満ちています。わたしたちが自然を見るときにリラックスするのは、風景がきれいからでも自然を愛しているからでもなく、じつはそこに隠されたフラクタルを無意識のうちに感じ取り、脳の働きが変化しているのではないか、そんな仮説を引用しました。

わたしたちは無意識のうちにフラクタルを感じ取って、自分ではそれに気づきさえしないわけですが、ジェイソンはそれを見ることができました。ジェイソンは、自分は幻覚を見ているのでは、と不安になっていましたが、実際には、わたしたちのほうが本来あるべきものを見ていないのです。

とっても逆説的ですが、ジェイソンが見ている世界のほうが真実で、わたしたち人類の大多数が見ている世界は、まやかしだということになります。そんなことがありうるのでしょうか。

ジェイソンは、自分の見ている世界について調べるうちに、こんな驚くべき発見をしました。

強盗に遭ってから、曲線のある物の縁が滑らかに見えなくなっていた。縁がぎざぎざとし、どういうわけか周囲から浮き上がって見え、何年もそのひずみに当惑してきたが、その理由が理解できず、絵に描いてもその暗号は解けなかった。

しかし、その日の午後、僕は正しい答えを見つけたのだ。

「丸は存在しないんだよ」(p110)

ジェイソンは、脳損傷を負ってから、動いているものがカクカクとした静止画の連続のように見えるようになつっていました。見ている世界から滑らかさが失われてしまった結果、丸みを帯びた物体は、縁がギザギザに見えるようにもなりました。

動きが静止画の連続になって、丸いものがギザギザに見えるとなると、ジェイソンの目がおかしくなったようにしか思えませんが、デジタル画像や動画を扱う仕事をしている勘のいい人は、ここに隠されている意味に気づけるでしょう。

まず、見ているものの動きが静止画の連続のように見えてしまうことについて。動画やアニメに詳しい人なら、「フレームレート」(fps)という言葉を知っていると思います。例えば、このゲームは 60fpsだ、と書いてあったらは1秒間に60コマの静止画が再生され、それがつながって動画として見える、という意味です。すべての動画は、本当は静止画の寄せ集めからなっています。

でも、パラパラ漫画の要領で、ものすごい数の静止画が連続で切りかわるので、アニメもゲームも、あたかも滑らかに動いているかのように見えるわけです。

わたしたちが動画だと思って見ているものは、じつは錯覚なのです、本当はすべて静止画からなっているので、じつはジェイソンが見ている世界のほうが本物だということになります。

次に丸みをおびたものの縁がギザギザに見えることについて。これについては、デジタル画像に詳しい人なら、「アンチエイリアス」という言葉を知っているでしょう。

すべての画像は、ピクセルという細かいドットの寄せ集めでできています。ドットが荒いと、昔のゲームのキャラクターみたいに縁がギザギザに見えます。けれど、最近の画像は画素が細かいのと、アンチエイリアスという滑らかに見せる処理が入っているおかげで、見かけ上、縁が滑らかなように見えます。

ジェイソンの言うように、厳密にいえばこの世界に完全な円など存在しません。例えば、「◯」という文字は遠目に見ると完全な円に見えますが、拡大すれば、ドットの寄せ集めで縁がギザギザでカクカクしていることがわかるはずです。

ここでもやっぱり、わたしたちが滑らかだと思っている画像は錯覚で、じつはジェイソンが見ているような、ギザギザな縁のある映像のほうが本物だということになります。

そうすると、ジェイソンは脳を損傷したことで、わたしたちが気づいていない、世界の本当のありようが見えるようになったのだ、というとんでもない答えにたどりつきます。

本当は、自然界はフラクタルの寄せ集めでできています。わたしたちはそれに気づきませんが、ジェイソンにはフラクタルが見えます。

本当は、動きは静止画の連続でできています。わたしたちはそれに気づかず滑らかな動画だと感じますが、ジェイソンには1枚1枚の静止画が見えます。

本当は、どんな映像も、ドットの寄せ集めでできています。わたしたちはそれに気づかず滑らかな縁取りがなされているように錯覚しますが、ジェイソンには縁がギザギザに見えています。

どの場合も、ジェイソンは世界のありのままの姿を見ていて、わたしたちは補正後の滑らかな映像を見ている、ということになります。わたしたちが見ている世界というのは、より滑らかに、美しく見えるよう無意識のうちに補正がかかっている、加工されたものなのです。

そんなわけで、サヴァン症候群の研究者は、ジェイソンの脳に何が起こっているのか、次のような仮説を立てました。

プリットの仮説のひとつは、サヴァン症候群の人たちは、普通の人とは違い、意識的に脳の部位にアクセスしているというものだった。

彼女の説明によれば、脳は一日中、多くの計算をしているという―コンピュータのマウスに手を伸ばして動かすような単純なことについて考えてほしい。自分の動きは感じていても、ほとんどの人はその動きを可能にするために脳が行っている内部の計算にアクセスしていない。

彼女は、その計算が行われるのは、背側皮質視覚路であり、Where経路あるいはHow経路とも呼ばれると教えてくれた。それは後頭部にある視覚野から上に向かい、頭頂部近くにある頭頂葉皮質を通過している。ほとんどの人がアクセスできるのはそのアウトプットだけで、計算ではない。

「けれども、数学が得意なサヴァン症候群の人たちは、どうやらこの脳の部位にアクセスして、驚くようなことを計算しているらしい」と彼女は説明した。

彼女は、サヴァンには、共感覚による視覚を通して、そのプロセスに意識的にアクセスしているという仮説を立てていた。そして、脳のその秘密の領域で行われる、その「ゾンビ計算」が姿を変えて、絵や色や形になる、と彼女は言った。(p252)

難しめの内容ですが、噛み砕いて言うと、こういうことです。

わたしたちの脳は、知らず知らずのうちに巧妙な計算を行って、見えている映像に補正をかけている。だからわたしたちはフラクタルやドットや連続した静止画に気づかず、滑らかな映像しか見えていない。

しかしジェイソンのようなサヴァン症候群の人たちは、そうした補正がかかる前の、わたしたちが気づかない無意識の計算(ゾンビ計算)にアクセスしている。

わたしたちの脳は電卓みたいなものです。電卓は、複雑な計算を魔法のように行ってくれます。たとえ電卓に仕込まれたプログラムについてまったく知らなくても、わたしたちは電卓が計算してくれた答えを見れます。

同じようにわたしたちは、どのように自分の脳で計算が行われているのか知りませんが、脳が計算して出力した映像を見ることはできます。しかしサヴァンの人は、電卓に仕込まれたプログラムのような、ほとんどの人がまったく知らない脳の内部のブラックボックスにアクセスしている、というわけです。ゲームでいうと、データにアクセスして改造できるチーターみたいなものですよね(笑)

そういえば、前に色覚を失った画家の話を書きましたが、あれも似たような話でした。わたしたちの脳は、色や形や質感などを別個に認識して、それを無意識のうちに合成して出力してくれているようです。頭の中の計算機が、たくさんのレイヤーを合成して、それを完璧な映像に変換してくれて、その最終結果だけをわたしたちは見ています。

でも、この色が見えなくなった画家の場合、最終結果の前の、まだ加工途中の映像を見てしまっているようでした。彼は、視界から色が失われてしまっただけでなく、得体の知れない気持ち悪さを感じる、と言っていました。

それはきっと中途半端にレイヤーを重ねた途中の画像を見ているからだったのでしょう。あたかも、骨の上に筋をかぶせても、まだ皮をかぶせていない未完成の人間を見ているかのように。

わたしたちが何気なく見ている周囲の風景に、じつはフラクタルがたくさん隠されている、というのはなかなか信じがたいことですが、フラクタルは「神の指紋」と呼ばれていました。

文字通りの指紋は、裸眼では見えにくいですが、指紋検出用ブラックライトを使うとくっきり見えるようになります。

身の回りの世界のフラクタルも巧妙に隠されていますが、ジェイソンのような後天的サヴァンには見えます。そしてわたしたちも、とある「ブラックライト」みたいなものを使えば、神の指紋を見ることができます。

フラクタルの利用法について調べれば調べるほど、結局、僕が見ているものは、それほど異質なものではないと思えるようになった。

マンデルブロ自身、ドキュメンタリーの中で、マンデルブロ集合の有機性とその背後にある計算の単純さを考えれば、人間は歴史のどこかでそれを発見した可能性があると語っている。

…フラクタルは、極東から伝わった古色整然とした絨毯から、イスラム圏のタイル、西洋のステンドグラスの窓に至るまで、あらゆるものに見ることができる。(p81)

フラクタルを発見したマンデルブロが言うには、サヴァンのような人でなくても、人類は歴史のどこかで自然界の中のフラクタルを発見して、それをイスラム圏の幾何学模様をはじめ、世界各国に伝わる芸術の中に用いてきたといいます。

ではどうやって自然界の中の神の指紋を発見したのかというと、オアハカ日誌 という本でサックス博士がこう言っていました。(前の記事でも別の本から紹介しました)

まわりの幾何学模様に刺激されて、神経回路の定量的パターンについて話をする。飢餓状態、感覚遮断や中毒、それに片頭痛のときには、ミツバチの巣やクモの巣や格子や渦巻きや漏斗状の幾何学模様の幻覚が表れることがあるのだ。

…幻覚時に見える模様は世界共通で、多くの文化で使われている幾何学模様は、そのとき見たものがもとになっているのかもしれないという説に、興味を持ってくれたようだ。(p142-143)

ここで言われているような飢餓状態、感覚遮断や中毒、それに偏頭痛のときには幾何学模様が見えるそうです。ほかにもLSDみたいな幻覚作用のある薬物を使うと見えます。そうして見えた幾何学模様は世界各国の芸術に応用されてきたとか。

オリヴァー・サックスは左足をとりもどすまで (サックス・コレクション) の中で、自分の偏頭痛体験について書いていますが、その中で、視野の映る部屋の景色が、「ごく細い蜘蛛の巣ようも繊細」な「みごとな幾何学的美しさをみせる格子模様」に見え、しかも「静止画」の連続、「コマ落としのフィルム」のようになる、と書いていました。(p114-116)

サックスは偏頭痛の前兆として一時的にそれを体験していたにすぎませんが、おそらくジェイソン・パジェットが体験しているのと同じものだと思います。パジェットの場合脳損傷でずっとその状態になっていましたが、わたしたちも偏頭痛や幻覚性の薬物の影響で、一時的に脳の内部計算が見えてしまうことがあるのでしょう。

わたしたちの身の回りには、自然界にも、脳の中のプロセスにも、本当はフラクタルが満ちあふれているのに、無意識のうちに処理されているせいで、ほとんど気づかれていないのです。

自然の中に行くとクリエイティブになれるわけ

最後に、このジェイソン・パジェットの摩訶不思議な体験談から、わたしたちが学べることについて。

前回のジャクソン・ポロックのフラクタルについての記事で、わたしたちは無意識に身の回りの風景のフラクタルを認識していて、たとえばADHDのような感受性の鋭い子は強く影響されている、ということを考えました。

敏感な子は、都市部のような複雑な場所にいると、無意識のうちにイライラしたり、落ち着きがなくなったりします。反対に自然の多いところに行くと、リラックスして記憶力も上がっていました。

これは、本人も気づかないうちに、身の回りのフラクタルから影響を受けていたからでした。わたしたちは身の回りのあちこちにフラクタルがあるなんて全く気づいていませんが、それは無意識のうちに脳が高度な計算をやってくれているおかげでした。

わたしたちの知らないところで、脳はせっせと周囲の情報を処理しているので、周囲の情報量が多すぎると、いつの間にか負荷がかかってしまい、疲れたり注意力が低下したりしてキャパシティをオーバーしてしまいます。自然の多いところに行くとリラックスできるのは、この無意識の計算にかかっている負荷を軽減できるからです。

自然界を構成しているフラクタルは、簡単な方程式で表せることからわかるように、情報量が少なく、脳の無意識の計算にかかる負荷も減ります。

自然の中に行くとクリエイティブになれるのは、単に気分がよくなるとか、空気が新鮮だとかいう心理学的な理由だけではなく、無意識のうちに処理される情報量が軽減され、脳の負荷が解放されるという、数学的な理由が関係していたのです。なんとも驚くべきことですね。

サヴァン症候群でない人類の大多数の人たち、わたしを含むほとんどの人たちにとって、身の回りにあるフラクタルが見えないのは、単なる不自由ではなく、意味あってのことです。そうしないと脳が圧倒されてしまうので、わざと気づかないところで情報を取捨選択してふるいにかけているのです。

ジェイソン・パジェットをはじめ、普通の人が気づかない無意識の計算にアクセスできてしまうような人たちは、とても疲れやすかったり、精神疾患や言語障害を抱えていたりしがちです。本来意識しないはずの計算を意識してしまうというのは、それだけ脳に余分な負荷がかかるということで、リスクも大きいのだと思います。

前回のフラクタルの記事で引用したNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 の中で、心理学者のポール・アチュリーがこう言っていました。

脳でいちばん発達しているのは、抑制機能をつかさどる回路なんだよ。じつに興味深いだろう?

脳は処理しきれないほどの大量の情報を入手している。だから脳の仕事の大半は、情報を選別し、不要なものを排除することなんだ。そのおかげで、ぼくたちは意味のあることに集中できるというわけさ。(p65)

わたしたちの脳が、身の回りのフラクタルに気づけない仕組みになっているのは、十分な意味あってのことなのです。さもないと、あまりに大量の情報に脳が圧倒されてしまうからです。わたしたちの脳はいつも、情報量の多さと闘っている、ということを思えば、今の情報化社会がいかにリスクが高いかがわかるはずです。

わたしたちがクリエイティブな活動をするためには、脳のリソースに余裕がないといけませんが、わたしたちの身の回りには無意識のうちに脳になだれこんでくる情報が大量に存在していて、現にジェイソンはそれを見ることができます。

わたしたちは意識して、脳が情報に圧倒されないよう、気をつけていなければなりません。そのひとつが、前回の記事で書いたように、少ない情報量で構成された自然の風景の中に身を置いて、脳を情報過多から遠ざけて休める時間を意識的に作る、ということでしょう。

今回紹介したジェイソン・パジェットのとっても不思議な体験談は、わたしたちの脳の驚異的なつくりはもちろん、この世界の仕組みについてさまざまなことを教えてくれます。目に見えているものが決してすべてではない、ということに気づかせてくれます。

サン=テグジュペリの星の王子さまの有名な言葉のように「いちばんたいせつなことは、目に見えない 」のかもしれません。

投稿日2017.12.24