(こんな過酷な環境に住んで)幸せですか? と尋ねると、何をくだらないことを聞くという顔をして、回答してくれました。ほとんどの人が「大変」幸福だと答えたのです。その環境に満足し、誇りに思っているようでした。
その理由は明快でした。このあと解説していきますが、その背景には、みごとに創出されたラダックに住む人々特有の生体リズムがあったのです。 (p124)
豊かな物にあふれ、好きなだけ食べられる。上下水道が整い、どこでもインターネットに接続できる。そして最先端の医療と福祉が健康を守ってくれる。
わたしたち日本人はとても幸せな環境に恵まれているように思われます。ところがどうでしょう。アンケートをとればほとんどの人が不幸せだと答えます。わたしたちが思い上がって「発展途上国」と呼んでいる国の人々はどうでしょうか。上に引用したとおりです。
僻地に住む人々が「幸せだ」と答えられるのは、決して「豊かな生活を知らない」からではありません。 「時計遺伝子」の力をもっと活かす!: がん、うつ、メタボも防ぐ、体内の「見張り番」 (小学館101新書)からラダックの人たちの幸せの秘訣に迫りたいと思います。
これはどんな本?
「時計遺伝子」の力をもっと活かす!は、人の体内時計の在り処が発見されたまさにその年、1972年から、体内時計の研究に情熱を燃やしてこられた大塚邦明先生の新刊です。(一部の章はと大塚由美恵さんによる)
体内時計とはいわば、生物の体内に「環境の周期性」を取り込んだシステムです。たとえば、一日のサーカディアンリズムは、地球の自転のリズムを体内に刻み込み、朝や夜といった環境の変化にいち早く対処できるよう備えられた予測装置です。(p20)
1997年に最初の時計遺伝子が発見されて以来、20種類以上の時計遺伝子が協力して時を刻んでいることがわかっています。その中心が24時間周期のコアループです。(p77)
さらに、コアループを保護するためにさまざまな補助ループが存在し、単なる時計として働くだけではなく、さまざまな「ノンクロックな働き」に関与していることがわかってきました。(p75)
その多岐にわたる影響については、こう書かれています。
抹消の時計遺伝子に異常があると、生体リズムが乱れるだけでなく、高血圧、肥満、糖尿病などの生活習慣病が発症し、不眠や抑うつ気分が現れ、不登校や慢性疲労症候群になってしまうことが明らかになってきました。(p196)
この本では、著者がさまざまな分野、さまざまな国を縦断して、健康な体内時計の仕組みについて研究しています。著者が向かった国のひとつが、インド・カシミール地方にあるラダック(標高3300-4590m)でした。
ラダックの人たちはなぜ幸せなのか
ラダックは高所のため低酸素です。昼夜の、季節ごとの温度差が大きく、電気や上下水道は十分整備されていません。衛生状態は悪く、伝統医学による生薬しかありません。
大塚先生ははじめ、医療のない地域の人たちを助けたい、と思い上がった気持ちで訪問したそうです。ところが、その地の人々は、東京の人たちよりはるかに健康で、70歳を超える老人にさえ、みごとな24時間のサーカディアンリズムが見出されたのです。
その理由は何でしょうか。
1.明るい日差し
ラダックに住む人々のサーカディアンリズムが日本人よりも明瞭だった理由は、人々が自然とともに暮らしていることにあるようです。日中の日射しは、平地に比べて太陽に近い分だけ強く、そして明るいのが特徴です。
…明るい日射しを浴びながら歩くことで、住民は体内時計の針を繰り返し、正しい時刻に調節していることが、その理由の1つだと思います。(p125)
日中、光を浴びて、よく体を動かすことは健康な体内時計の基本です。ラダックの人たちは、子どものころから、当たり前のように強い光を浴びて運動しているので、健康な身体が作られているそうです。
2.メリハリのある生活
電力の普及が遅れていることも、生体リズムを維持するためには有効です。夜は音1つない暗闇になります。
…昼間の過度ともいえるほどの強い交感神経の亢進と。夜間の深い睡眠に伴う副交感神経の賦活。これがラダックに住む人々に見られた明瞭なサーカディアンリズムの源でした。(p126)
普通、わたしたちは年をとるにつれて、体内時計のメリハリがなくなると言われています。不登校の子どもでも、老人のような平坦なサーカディアンリズムがみられることが報告されていました。
ところがラダックの人々は、老人でもビシっと決まったサーカディアンリズムを持っています。ラダックには「夜更かし」というものがないのです。夜には必ず暗くなり、充分量のメラトニンが作られるからです。
3.低酸素環境
まずヒフという名の遺伝子を紹介しておきます。低酸素誘導性転写因子(Hypoxia Inducible Factor)の頭文字からヒフ(HIF)と呼ばれています。
その名のとおり、酸素が少ないときに現れてきます。少しでも効率よく生き延びられるように、酸素が薄い環境に特有の、いくつもの特殊な仕組みをつくり出すという役割を担っています。(p128)
ラダックの人々の身体では、平地に生きるわたしたちとは異なる、低酸素環境特有の遺伝子が生体リズムを作っているそうです。快適な環境でないからこそ、かえって、体内の遺伝子が総力を上げて時を刻んでいるのです。
わたしたちにも、快適な環境だからこそ失われてしまった、生物としての潜在的な能力がいろいろとあるかもしれません。
4.時がゆっくりと流れている
ラダックの人々は、もう1つ別の生活様式を身につけていました。時間がとてもゆっくり流れるという感覚です。心理的時間の時間推移の速さを測定してみました。それは10秒の時間を予測してもらうという検査です。
ラダックの人々は、4.47秒で、10秒が経ちましたと回答したのです。(日本人では12.25秒)。(p134)
わたしが何より興味を惹かれたポイントはここでした。
約5秒で10秒たったと感じるということは、1日を2日の長さで感じているということになります。ラダックの人たちの時間感覚は日本人よりも2倍以上ゆっくりなのです。
さらにラダックでは、人々が歩く速度も、ボタンを付け外しするような時間もゆっくりだったそうです。著者はこう結論しています。
「ラダックでは、人々はゆっくりと歩き、そして時もゆっくりと流れている」。
どうやらこれが、ラダックの人々の姿であるようです。(p134-135)
未来を予知するシステム
ラダックの人たちの生体リズムがすこぶる健康であることは、彼らが厳しい環境でも幸せだと感じる点とどう関係しているのでしょうか。こう書かれています。
体内時計は、常に時を意識し、時の流れを読み、環境の変化を予知して、その変化に対応すべく身体の調子を整えています。
…体内時計は私たちが身につけている数多くの仕組みの中で、唯一、未来を予知するための装置です。 (p131)
人間の身体の2つの健康管理システムのうち、ホメオスタシスは、異常が生じたときに、元に戻そうとする働きです。それに対し、体内時計は、環境の変動を予期して、異常が生じるのを未然に防ぐ仕組みであり、過酷な環境に前もって身体を合わせる事ができるのです。
わたしたちはいつ何が起こるともしれない24時間社会で、先の見えない生活を送っています。朝も夜もわからないメリハリのない生活を送り、突然の環境の変化に対応することができません。
必要以上にさまざまなストレス要因を貯めこんで、さまざまな病気になってしまう理由のひとつが、体内時計のリズムの消失にあることは間違いなさそうです。
わたしたちが、健康を取り戻すには、時計遺伝子の力をもっと活かす方法を知ることが欠かせません。ラダックの人たちに見倣えることはたくさんあります。
わたしはこの本と同時に、君にはもうそんなことをしている時間は残されていないという本を読んでいました。その内容は共感できるところもありましたが、一分一秒を惜しんで厳しく生きる姿勢には納得がいきませんでした。
確かに、この競争社会で成功し、勝利するには、厳しい態度が必要なのでしょう。ただしそれが幸せにつながるという保証はありません。現代の24時間社会の成果主義が葬ってしまった大事なものが、ラダックには残されているように思います。
ラダックの人々と同じ環境で生きることは難しくても、もっと、時間をゆっくり感じてみるのはいかがでしょうか。せかせかと過ごしている日常を、少し離れた視点からのんびり眺めてみるのはいかがですか?
ここでは、ラダックの人々の話だけを紹介しましたが、それはこの本のp123-136というたった10ページほどの内容にすぎません。
この本には、ほかにも、体内時計についての分かりやすい説明、人間は気圧や地磁気を感じる仕組みを持っているという最先端の話、そして体内時計の乱れを治す、時計遺伝子健康法が載っています。
体内時計について知るのに、まずお勧めしたい入門編ともいえる一冊です。
時間医学から見た高地の人の生活については以下の本の第三章にも書かれています。