生後1年足らずで両眼を摘出したダニエル・キッシュはマウンテンバイク、ハイキング、ローラースケート、スケートボードの達人です。目が見えない、いえ、目がそもそもないにもかかわらず、なぜそんなことができるのでしょうか。
盲ろう者のヘレン・ケラーは、相手の顔に触れることで話の内容を理解することができました。なぜ彼女はそのような能力をもっていたのでしょうか。
脳科学の進歩はそれらの源が、脳の比類のない適応能力、「可塑性」にあることを見いだしました。逆境に苦しむ人にとって励みになる一冊、最新脳科学でわかった 五感の驚異を紹介します。
これはどんな本?
最新脳科学でわかった 五感の驚異は米国カリフォルニア大学リバーサイド校の心理学の教授ローレンス・D・ローゼンプラムの著書です。分厚い本で読み応えたっぷりです。
前述のダニエル・キッシュは目が見えないにも関わらずマウンテンバイクに乗りますが、口から発するShhという音と耳を用いて、周囲の地形を把握することができるそうです。
これはエコロケーションといって、わたしたち目の見える人も、常日頃活用しているのだといいます。部屋にだれかが音もなく入ってきたときにそれに気づくのは、反響音の微妙な変化を感じるからです。
また盲ろう者のヘレン・ケラーは、唇、顎、喉仏を触ることで口の動きや声の振動、空気を感じ取り、話の内容を理解しました。
これはタドマ法というもので、触感を鋭敏にして言葉を読み取る方法です。驚くべきことに、盲ろう者でなくても、たとえばフライフィッシングという釣りの達人は、手の感覚だけで、魚の種類、性別、年齢がわかるのだといいます。
この本は、こうした人間に秘められた驚異的な能力を脳科学の観点から解説していて、わくわくさせられます。
ほかにも信号音つきのボールで野球をする盲人たちや、盗聴で犯人の居場所や持っているものの形さえわかる目の見えない捜査官などの話もあります。
わたしが特に興味をそそられたのは、それらの能力の源である、脳の可塑性についての話でした。
脳は思い描くことで変化する
あなたの脳は、カチンコチンですか? それとも湿らせた粘土のように柔らかですか?
嬉しいことに、すべての人の脳が、柔らかであることがわかっています。可塑性とは、工業用語で、粘土のように形を変えることができる柔らかな状態を表します。わたしたちの脳は大人になってもこの可塑性を保っているそうです。
前述のような盲目の人たちのすばらしい活躍は、この可塑性によります。健康な人でも、目隠しをするとすぐに脳が変化し、触覚や聴覚が研ぎ澄まされます。これは短期可塑性と呼ばれるそうです。いままで使っていなかった神経細胞がつながるのです。(p207)
本書に載せられている数々の実験の中でも、ひときわ興味深いものを紹介しましょう。(p208-209)
普段、楽器を演奏しない人たちに複雑のパターンをピアノで引いてもらいます。一日2時間、5日間連続で練習してもらいました。その結果、どうなったでしょうか。
5日間練習した場合:脳スキャンの結果、毎日2時間の練習後だけ、指の調節を担う脳の部分が拡大していました。次の日、練習前になると、その大きさは元に戻っていました。これが短期可塑性です。一時的な変化に過ぎませんが、脳は粘土のように形を変えていたのです。
4週間練習した場合:なんと、脳の拡大は、次の日になっても消えませんでした。それどころか、練習を2日休んでもそのままでした。これが長期可塑性です。
前述のさまざまな技能を持った盲目の人たちの場合と同じように、長い期間特殊な状況に置かれたので、脳そのものが変化したのです。しかしこれだけでは終わりません。
イメージトレーニングした場合:さらに、あるグループには、最初の1日だけピアノを弾き、それからはイメージトレーニングだけを続けてもらいました。彼らは、実際に練習した人に比べると技能的にはに下手でした。ところが驚くべき点がありました。
一番驚いたのは、脳スキャンの結果だった。なんと、メンタルトレーニングを行った被験者には、実際に手を使って練習した被験者と同じ神経可塑性が見られた。
つまり、右手指を司る領域をもっと増やすよう、脳が変化していたのだ。メンタルトレーニングでも、実際の練習と同じように脳が変化しうるのだ。(p214)
脳は「思い描くこと」によって変化するのです。
希望を思い描く
イメージトレーニングによって脳が変化するとはいっても、脳の可塑性は決して、魔法ではありません。たとえば、この本では、脳の過剰な可塑性が裏目に出る例として幻肢痛が挙げられています。(p210)
以前の書評で書いたように、虐待された子どもが心身の異常を抱えるのは、脳の可塑性を用いて、過酷な環境に適応しようとした結果でした。
粘土は形づくる人によってどんな形にもなり得ます。脳の可塑性が功を奏するかどうかは、当人がどう用いるかによります。
過酷な環境に常に不平を感じて、不満を口にしているとしたら、脳はそれを日常とするかのごとく変化してしまうかもしれません。
対照的に、想像力を用いて、どんな状況にも良い面を見出そうと努めるなら、脳はすぐに短期可塑性をもって応答し、いずれ長期可塑性をもって「脳細胞間の扉はもっとあっさりと開くようになり、新しい扉がいくつもできる」でしょう。(p208)
ナチス・ドイツの強制収容所を生き抜いた神経科医のヴィクトール・フランクルはあるとき、自殺することに決めた2人の男性と話し合いました。
彼は二人を止めようとして「人生はあなた方からあるものを期待しています。あなたたちを待っている何かがあるはずです」と語りかけたそうです。
一人は愛する家族のことを思い出し、もう一人は未完のままにしていた仕事を思い出しました。そして、それ以降、絶望しそうになるたびにそれを思い描きました。そうすることによって絶望のもとでも希望を感じることができたのです。
苦痛を感じる状況で積極的な考えや、希望を思い描くのは初めのうちは抵抗を感じるかもしれません。絶望と希望ほど相容れないものはありません。
それは道を踏み固めることに似ています。草が生い茂った道は最初、歩きにくく思えます。短期可塑性の時期です。何度も往復していると草は避けられ、歩きやすい道ができます。長期可塑性です。
もちろん、考え方次第で状況が変化するわけではありません。それでも考える内容、思い描く事柄によって、脳のレベルで苦難の耐えやすさが変化します。
最新脳科学でわかった 五感の驚異は、わたしたちの脳に秘められたすばらしい可能性を思い起こさせてくれます。たとえ目を失っても、耳を失っても、手足を失っても、わたしたちの脳の可塑性は失われないのです。
苦難のもとで、脳の可塑性を呼び覚ますため、希望を思い描くことは、だれにでもできる、喜びのための処方箋といえるでしょう。