■いつも人間不信
■人に傷つけられるのが怖い
■誰といても安心できない
■自分をさらけ出せず表面的な付き合いしかできない
■人に何かを期待しても無駄だとあきらめている
常に他人への根深い不信感を抱き、決してそれを拭い去れないとしたら、それは「基本的信頼感」と呼ばれる心の働きを、不幸にして得られなかったことによるのかもしれません。
「基本的信頼感」は、おおよそ生後2歳ごろまでの環境によって身につくもので、その時期に獲得できなけば、その後の人生で、他人を信頼するのが難しくなり、さまざまな問題につながってしまいます。
自尊心のなさ、傷つきやすさ、孤独、空虚感、「良い子」を演じること、自分の限界を超えて頑張ってしまうこと…こうした性質はすべて元をたどれば、「基本的信頼感」の欠如に行きつきます。
「基本的信頼感」とは果たして何なのでしょうか。それがなければ、人生にどのような影響が及ぶのでしょうか。どのように問題に対処できるでしょうか。
母という病 (ポプラ新書)という本を紹介したいと思います。
もくじ
これはどんな本?
母という病 (ポプラ新書)は、愛着障害や境界性パーソナリティ障害に詳しい、岡田尊司先生によるものです。
さまざまな問題を抱える人の根底に、幼いころの環境が絡んでいるという点が、多数の具体例を挙げて、わかりやすい言葉で解説されています。
また、この記事を書いたあとに発売された、トラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法から補足的な内容を多く追加しました。
「基本的信頼感」とは何か
冒頭で述べたように、だれも心から信じられない、という他人への根深い不信の根底には、「基本的信頼感」の欠如が関係しています。
「基本的信頼感」は心理学者のエリク・H・エリクソンによって提唱された概念で、この本では次のように説明されています。
自分は大丈夫だという安心感は、自分の力に対する自信からだけではなく、困ったときはきっと誰かが助けてくれるという周囲に対する信頼感からもきている。
周囲が味方になってくれると信じることができる感覚を「基本的信頼感」という。
実際に人が味方になってくくれるかどうかよりも、そう信じることができることがその人を守っている。(p54)
「基本的信頼感」は、周囲が味方になってくれる、と信じることのできる感覚です。
「基本的信頼感」が正しく育まれた人は、身の回りにいる他人という存在は、基本的に信頼しても構わないものだ、ということを、頭で考える必要もなく、当然の感覚として身に着けています。(p124)
しかし不幸にして「基本的信頼感」を育めなかった人は、そのような前提に不信感を持っています。
身の回りの他人は、自分を傷つける存在であり、決して油断できない。信用したり、期待してはいけない。そうした感覚を無意識のうちに抱いています。こう書かれているとおりです。
他人は自分を助けてくれる存在というよりも、自分を傷つけ、貶めたり、自分が機嫌をうかがい支えなければいけない存在に思えていたのでは、自分をさらけ出し、弱みをみせて助けを求めることは難しい。(p55)
二、三歳ごろまでがタイムリミット
「基本的信頼感」が育まれるか、それともそれを持たないまま大人になってしまうかを左右する要素は何でしょうか。
岡田先生はこのように説明しています。
この基本的安心感や信頼感が、一、二歳頃までの体験によっておおむね形づくられる。
もし人を信じられないとしたら、幼い時期に、人から心地よく安心できる体験を与えられるよりも、不快で傷つけられる体験を味わうことが多かったということだ。(p55)
「基本的信頼感」を育める時期にはタイムリミットがあるのです。動物の刷り込み現象や、言語のネイティブ話者のように、幼い頃のある時期に学んだ事柄が、重要な意味を持ちます。
そのときを過ぎてしまってから、いくら可愛がったところで、もう間に合わない。不可能ではないが、その時間を取り戻すことは容易ではない。(p76)
生後一、二歳、長く見て三歳ごろまでの時期は、あたかも、この人間の世界という国に迎え入れられる門口のようなものです。
この世界の入り口で、最初に出会った人である親が善意で迎えてくれ、生まれてきたことを無条件に祝福してもらえるなら、この世界は、基本的に安心できるところなのだ、という印象が刻まれます。
ところが、この世界の門をくぐったときに、入ってきたことを祝福されず、無関心にあしらわれたり、厳しい扱いを受けたりしたなら、この世界は基本的に危険なところで、他の人は信頼するに値しないという認識が刻まれるのです。
トラウマ研究の専門家ヴァン・デア・コーク博士の著書身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、「基本的信頼感」を持つ子と、虐待されたためにそれが育たなかった子の、世の中の見え方の違いについて、こう書かれていました。
まず、普通の子供たちは、切ない雰囲気の絵のカードを見せたときこんな反応を見せました。
どのカードを見せても、虐待されていなかった子供たちは、苦悩を鋭敏に嗅ぎ取るものの、この世は本質的には良い場所だと依然として信じており、苦境から抜け出る方法を想像できた。
彼らは自分の家庭で、守られていて安全だと感じているようだった。また、少なくとも一方の親には愛されていると感じており、それが学業に勤しんで物事を学ぶ熱意をおおいに高めているように見えた。(p178-179)
普通の子どもたちにとって「この世は本質的には良い場所」だと感じられていたのです。
では、「基本的信頼感」を持てなかった子たちはどうでしょうか。
クリニックの子供たちの反応は憂慮すべきものだった。彼らは、悪意や害意など微塵もうかがえないような画像に、危険や攻撃性、性的興奮、恐怖などの強烈な感情を掻き立てられた。
私たちは、敏感な人なら見て取れるような隠れた意味合いを持つ絵や写真を選んだわけではなく、日常生活で見られるありきたりの光景の絵や写真ばかりを抜き出した。
したがって、虐待された子供たちにとっては世の中全体がトリガー(トラウマを思い出させるもの)だらけであるとしか結論の出しようがない。(p179)
「基本的信頼感」のない人にとって、この世はどこもかしこも安全な場所などどこにもない、恐怖に満ちた場所であり、常に危険と隣り合わせの外国人またさすらい人として生きているのです。
そのため、生後二年ほどの期間に、養育者との関わりのなかで基本的な安心感を学べたかどうかが、その後の人生で逆境にうまく対処できるかどうかを左右するとされています。
アラン・スルーフと同僚たちは、1975年以来、30年近くにわたって、ミネソタ大学リスク・適応長期縦断研究で、180人の子供とその家族を追い続けた。
…スルーフは、レジリエンス(逆境から立ち直る能力)についても多くを学んだ。人生にはつきものの失望にどれだけうまく対処できるかを予想するうえで最も重要なのは、生後二年間におもな養育者との間に築き上げた安心感の水準だった。
スルーフは、非公式に私に語ったところによると、成人後のレジリエンスは、子供が二歳のときに母親がその子をどれほど愛らしいと評価するかで予測できると考えているそうだ。(p266-269)
このような幼いころに形作られる信頼関係は、医学的用語で「愛着」と呼ばれています。愛着が正しく育まれないとどうなるか、ということはこちらをご覧ください。
心の傷ではなく脳の傷
このような「基本的信頼感」または「基本的安心感」は、単なる心の問題ではありません。
母という病 (ポプラ新書)によると、人を信頼できるか、それとも不信感を抱いてしまうか、ということは、考え方次第だとみなされがちですが、実は、それは脳の発達や構造の問題です。
幼い頃に、よく可愛がられ、世話をされた子どもでは、オキシトシンだけでなく、セロトニンなど、不安をコントロールする働きをもった神経伝達物質の受容体が増える。(p74)
生後1歳半ごろまでの時期というのは、子どもの脳で、オキシトシンの受容体が増加する時期だそうです。
オキシトシンは愛着ホルモンと言われ、安心感や人を信頼する気持ちと密接に関係しています。
幼い時期に親や特定の存在から、無条件の愛を注がれたなら、その時期にオキシトシンの受容体がたくさん脳に形づくられます。そうするとその後の人生において、人を信頼したり、安心したりすることが容易になります。
しかしその時期に十分な愛情を受けられず、安心感に関わる神経伝達物質の受容体が十分に作られないまま育つと、心から人を信頼できない不信感にさいなまれるようになってしまいます。
実際に、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、動物を対象にした研究では、子ども時代に愛情に満ちた世話を経験できないと、安心感に関係した神経伝達物質をやりとりする脳の受容器が発達しそこなうことが示されています。
この見解は、神経科学者ヤーク・パンクセップの研究によって、さらなる裏付けを与えられている。
生後最初の1週間に母親に舐めてもらえなかった幼いラットは、所属や安心感に関連した脳の部位である前帯状皮質の麻薬様物質受容器が発達しないことをパンクセップは発見した。(p657)
単なる考え方の問題ではなく、これほど根深い生物学的な問題だからこそ、「基本的信頼感」は、人生に大きな影響を及ぼすのです。
養育環境が脳の発達に関係するという点は、虐待児の脳画像についての研究を扱ったこちらの記事でも扱っています。
「基本的信頼感」のない人の6つの特徴
「基本的信頼感」がなく、他の人を信頼できない人たちは、単に誰も信じられないだけでなく、生活の他のさまざまなところで支障を来たしがちです。
「基本的信頼感」の欠如がもたらす6つの点について考えてみましょう。
1.人が怖い
「基本的信頼感」がないということは、そもそも他の人は自分を助けてくれる「味方」であると考えられないということを意味しています。「味方」でなければすなわち「敵」です。
周りの人たちは、いつなんどき自分に危害をもたらすかわからない怖い存在である、そう考えるからこそ誰も信じられないのです。
これは単なる対人恐怖とはまったく意味が異なります。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本はこう述べています。
対人恐怖では「他者に嫌な感情をもたらしてしまう」という怯えが前景にあるのに対し、解離では「他者に危害を加えられる」という怯えの意識が強いと言えよう。(p129)
ここでは「基本的信頼感」を持たない人の例として解離、つまり解離性障害の人たちが挙げられています。そうした人たちは『「他者に危害を加えられる」という怯えの意識が強い』とされています。
「基本的信頼感」を持たない人たちは、赤ちゃんのころ、この世界の門口で、自分の存在は祝福されていないことを感じ取りました。自分はよそ者、部外者であり、歓迎される存在ではないのです。
見知らぬ国で外国人として過ごす場合のように、自分は周りの人たちと異質で、決して相容れないのだ、という強い不安と恐怖があります。
この世界は基本的に危険なところであり、周りの人たちから自分の身を守らなければいけない、という認識が根底にあるので、決して自分をさらけ出さず、常に緊張しています。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはそうした人たちが日常で感じる苦痛が次のように表現されています。
誰かが襲いかかってきかねないかを見極めようとしながら、学校の廊下を埋め尽くす顔の海の中を進んでいくのが、どのような感じか想像してほしい。
仲間の攻撃性に過剰に反応する子供や、他の子供の欲求を察することのできない子供、簡単に機能停止に陥ったり、衝動の制御ができなくなったりする子供は疎まれ、遊びや行事に参加させてもらえない。
いずれ彼らは強靭なふりをして恐れを隠すことを学ぶかもしれない。あるいは、テレビやコンピューターゲームに、ますます多くの時間を過ごし、対人技能と情動の自己調節の面でなおさら後れを取りかねない。(p189)
こうした対人過敏症状についてはこちらの記事で詳しく書きました。
2.自尊心がない
「基本的信頼感」がない人は、自尊心が発達する最も重要な時期に、「自分は望まれていない存在なのだ」「生まれてきたことを無条件に祝福されてはいないのだ」というメッセージを感じ取ってきました。
そのため、自尊心が育たず、繊細で、傷つきやすい心を持っています。母という病 (ポプラ新書)にはこう書かれています。
安全や安心感を得られず、自分は守られていないと感じていることは、もう一つの特徴にもつながる。それは、傷つきやすく、ネガティブな過剰反応を起こしやすいということだ。
…自分がいつも傷つけられ、損をさせられているという思いが強すぎるため、思わずそうした反応をしてしまうのだ。(p55)
自尊心はあたかも皮膚を守る衣服のようなものです。それが存在しないと簡単に刃物のような言葉や扱いにえぐられ、傷ついてしまいます。
あとで説明するように、傷つきやすさにも二通りあり、突発的な怒りで反応するタイプと、落ち込んで憂鬱になるタイプがあります。しかし、いずれにしても根底には自尊心が育たなかったことが関係しています。
3.慢性的な空虚感
「基本的信頼感」は「基本的安心感」とも言われます。他の人を基本的に信頼してもいいと感じていれば、自分はありのままに過ごしていて大丈夫だという安心感が生じるからです。
しかし「基本的安心感」がなれれば、そのような満ち足りた安心感は生じません。不安な外国の地で、見知らぬ人に囲まれてひとりぼっち。そんな心細さが慢性的な空虚感となって現れます。
不幸にもそうでなかった場合、子どもは、基本的安心感を育むことができず、いつも居心地の悪さを感じ、自分に対しても違和感を覚えることになる。
…ウィニコットは、こうした状態を偽りの自己と呼んだ。こうした状態にみられる共通する特徴の一つは、何とも言えない空虚感に慢性的に苦しめられることだ。(p75)
自分は望まれていない存在なのだ、この世界に居場所はないのだ、という漠然とした感覚は、居心地の悪さや不安を生じさせ、充実した人生や意義ある生活の喜びが感じられなくなってしまいます。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、こうした空虚感は、単なる心理的な問題ではないようです。
ボウルビィと同時代の小児科医で精神分析医のドナルド・ウィニコットは、同調の近代的研究の父だ。母親が赤ん坊をどのように抱くかから始めて、彼は母子の詳細な観察を行なった。
そして、こうした身体的相互作用が、赤ん坊の自己感覚の土台となり、その感覚とともに、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まると主張した。
母親が子供をどのように抱くかが、「精神が宿る場所として体を感じる能力」の根底にある。私たちの体がどのように接し合うかに関するこの内蔵感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築くのだ。(p187)
親子の結びつきは、心の発育だけでなく、身体感覚の発育にも影響します。(そもそも近年の研究によれば、「心」というものは身体感覚から作られています)
「基本的信頼感」が育たないような環境で育った場合、親子のふつうの触れ合いがありません。
わたしたちはだれかに触れ、また触れられることで、自分の体を認識し、感覚や運動機能が発達していきます。
しかし、それが不足し、「現実」を認識する土台となる自己感覚が育たないと、生きてはいても生きてはいないような、立ってはいても地に足がついていないような、自分が自分でないような、慢性的な空虚感が生じることでしょう。
なかでも、きわめて重度の人の場合は、鏡に映っている自分が自分だとわからない、自分が自分でないように思える、といった、自己感知能力の喪失が見られます。
4.「良い子」を演じてしまう
「基本的信頼感」がなく、人を信じられない人は、幼いころから、それでもこの危険な世界で生きていかなければならない、というサバイバルに直面します。
母という病 (ポプラ新書)によれば、その険しい日々を生き抜くために身につける生存戦略が、「良い子」を演じるということです。
母という病を抱えた人に広く認められるのが、「良い子」を演じてしまうということだ。それは子どものときだけ当てはまることではなく、大人になっても当てはまる。
相手の顔色を見て、気に入られようと振る舞ってしまう。自分の利益や生活を損なってまで、相手の都合に合わせ、尽くそうとすることもある。(p27)
まわりの人たちは、何かにつけて、自分の欠点をあげつらい、心をえぐり、傷つけてくる危険な存在です。そうした相手から身を守るには、相手におもねり、相手が望むような振る舞いをして、機嫌をとるしかありません。
その結果として、自分の意見を主張せず、親や学校の先生、友だちの言うことに自分を合わせ、ノーといわずに従う「良い子」を演じるようになります。
こうした特徴は過剰適応や過剰同調性とも呼ばれます。
5.限界を超えて頑張ってしまう
「基本的信頼感」を持たない人は、生き延びるために、限界を超えて頑張るという生存戦略も用います。
ちょうど部外者としてさげすまれ、差別されてきた人が、周りの人たちよりも必死に努力して、自分を認めてもらおう、非難される余地がないようにしようと頑張るのと同じです。
義務を完全に果たそうとして、あるいは目標を達成しようとして頑張る。自分がもう一杯いっぱいなのに、それでも義務や目標達成を優先しようとする。
そうしなければ、自分が無価値になってしまうと思っている。そうすることでしか、周囲に認めてもらえないと思っている。(p45)
この世界で、自分の存在が、無条件で祝福されていないのなら、自分を受け入れてもらうには、行動で結果を残さなければなりません。
だれよりも努力し、人並み以上の業績を挙げれば、周りの人たちも、自分の存在を認めざるを得なくなるでしょう。そして傷つけたり、見下したりする人たちの口を封じることができるでしょう。
しかし、周りの人たちは、きっと利用価値がなくなればすぐに自分を見離し、使い捨てコップを捨てるかのように冷淡に扱うのではないでしょうか。
そう考えるからこそ、単に一時期頑張ればそれで大丈夫なのではなく、常に頑張りつづけ、自分の身は自分で守らねばならないと考え、限界を超えて頑張り続けてしまいます。
限界を超えて頑張りすぎる問題はこちらの記事でも詳しく解説しました。
6.身体がリラックスできない
基本的信頼感の欠如は、もとを辿れば心理学的な問題ではなく、ラットの実験にあったように、幼少期の優しい身体的なスキンシップの不足からくる問題です。
幼いころから、優しく包まれるような身体的な世話を受けたことがないせいで、どこにいても安心できないような感覚系が育ってしまい、容易に脳の警報アラームが鳴り響いてしまうということです。
いつも警戒している人は、当然のことながら、つねに身体全体が過緊張状態にあり、リラックスできないでしょう。自分では気づかないうちに、無意識のうちに全身が固く張り詰めているかもしれません。
トラウマをヨーガで克服する に載せられている研究によれば、まさにそうした傾向が観察されています。
ゆるぎない安心感のうちに抱かれたことのない人びとは、穏やかに〈中心〉にとどまるという、心底からの経験を欠いている。
それは、“絶対に大丈夫、絶対に安全”という深い感覚なのである。
われわれのヨーガ研究の中では、この点について、慢性的なトラウマ患者の女性たちに関する熟考が重ねられた。
われわれは、シャヴァ・アーサナ(一連のヨーガのポーズの最後に行なう、完全にリラックスした状態)の間に、彼女らの筋肉が、まるで見えない敵と今も戦い続けているかのように引きつり続けているのを認めたのである。
こうしたことは、免疫学的研究の中でも見ることができた。近親相姦の犠牲者の免疫系は過剰に活性化されており、まるで環境汚染物質にさらされてでもいるかのような、切迫した危険の中にいる状態を呈していた。
危険に対するこうした過度の警戒感が、彼女たちの自己免疫病を進行させる素因となりうることを、われわれの研究は示唆していた。(p30-31)
幼少期に「ゆるぎない安心感のうちに抱かれたことのない」ためにリラックスする方法を知らない人たちは、常に見えない敵と戦い続けているかのような過緊張状態にあります。
それはとりもなおさず、免疫系が絶えず自分の内部で戦い続けているということであり、さまざまな病気の温床になりかねません。
大規模な研究によって、幼少期にトラウマ敵な経験をした場合、成人後の多種多様な病気の発症率が跳ね上がることが確認されています。
これら6つの点を考えると、「基本的信頼感」の欠如がいかに深刻な問題で、人を追い立て、心身を休まらせないものなのかがよくわかります。
二つのタイプの生存戦略―「懲罰型」と「懐柔型」
「基本的信頼感」を持たない人たちは、危険な世界を生き抜くために様々な生き方を身に着けていますが、おおまかにいって二つのタイプがあるようです。その違いは、幼いころからの生存戦略の違いを反映しています。(p243)
さらに、二つのタイプがあり、親を困らせたり脅すことで、思い通りにしようとする「懲罰型」と、親の手助けをしたり相談相手になったりすることで、親を支えようとする「懐柔型」がある。
…懲罰型の子どもは、大きくなっても暴力や力で相手をコントロールする傾向を示し、懐柔型の子どもは、顔色をうかがい、阿り、サービスすることで、自分の居場所を得ようとする。(p94)
「基本的信頼感」を得られなかった子どもは、自分の身は自分で守り、自分で状況をコントロールして生き抜くしかないことを悟ります。
ある人たちが身につける生存戦略は「懲罰型」です。暴力的な仕方で親や他人を困らせ、追い詰めてコントロールすることで、自分の身を守ろうとします。
このようなタイプは、身体的な暴力を振るう非行に走ることもあれば、言葉や自己破壊的な行動によって相手の心を揺さぶってコントロールしたりする場合もあります。
別の人たちが身につける生存戦略は「懐柔型」です。こちらは一切に揉めごとを避け、ひたすら相手の希望に合わせ、「良い子」として振る舞うことで、衝突を回避します。
自分の意志を捨て、自己主張もせず、相手が望む人形になることで、自分の身を守ります。自分の感情は切り離して麻痺させてしまいます。
こうした戦略の傾向の違いは、のちになって、境界性パーソナリティ障害寄りの傾向になるか、解離性障害寄りの傾向になるか、という違いにつながるかもしれません。
境界性パーソナリティ障害の人は心の底ではいくらか基本的信頼感を抱いているのに対し、解離性障害の人は基本的信頼感がほぼ存在せず、人に対して絶望しているとも言われています。
「基本的信頼感」の欠如にどう対処するか
このように、「基本的信頼感」の欠如は、知らず知らずのうちに様々な問題に枝分かれし、生活や対人関係を複雑にしています。ときには、大きなストレスを抱え込み、病気の温床になっていることさえあります。
すでに述べたとおり、「基本的信頼感」は幼いころに身につけなければ、その後の人生で獲得することはとても難しいと言われています。
それで、不幸にして「基本的信頼感」を得られなかった人が、他の人を心から信頼できるようになるのは、簡単なことではありません。
しかし、根本から自分を変えることが難しいとしても、自分の問題を知り、段階を踏んで対処していくことは助けになります。幾つかの方法を挙げてみましょう。
問題に気づく
まず必要なのは、自分が抱えている様々な問題の根っこに、「基本的信頼感」の欠如が関係していることを知り、それを受け入れることです。
対人関係の悩み、自尊心のなさ、やり過ぎてしまう傾向など、表面的な問題はさまざまです。しかし表面にこだわって、よくあるハウツー本などのアドバイスを当てはめても、あまり役に立たないでしょう。
根本的な解決を望むなら、複数の問題の背後に「安心できる場の喪失」という同じ原因が根深く関わっていることを認め、自分自身の人生としっかり向き合う必要があります。
親と向き合う
ある人たちの場合は、現在まで続く親との関わりが、自分の「基本的信頼感」の欠如と深く関係していることに気づくことになるでしょう。それが母という病 (ポプラ新書)で言われていることでした。
親にひどい目に遭わされたせいで、親のことなんか考えたくもない、思い浮かべるだけで虫唾が走る人もいるでしょう。
あるいは、親が今まで自分を育ててくれたということを思えば、親の育て方に何か悪いことがあったと考えるのは不謹慎だとか、申し訳ないとか考えてしまうかもしれません。
しかし親のやり方に問題があったことを認めるのは、親を憎んだり、親に感謝しなかったりすることとは違います。
親の悪いところしか見えず怒りにとらわれている場合も、親の良いところだけ見て無批判に感謝してしまっている場合も、どちらも視界が曇っていて、理性的な判断が失われています。
良いところも悪いところも冷静に見れるようになってこそ、はじめて親から自立した一人の人間としての自己を持てるようになります。
何が良かったのか、何か悪かったのかをはっきり理解して区別するなら、自分が信頼感や安心感を得るのに必要としているものを見極めることができるでしょう。
この点に関しては、ベストセラー「毒になる親」には、とてもバランスの取れたアドバイスが載せられていて助けになります。
「眠り」と「目覚め」
「基本的信頼感」を持たない人たちは、他者に対して極端な見方をしがちです。
一方では、他の人はだれも信頼できないという根深い不信感を抱いていますが、心の底では、自分の必要を満たしてくれる理想像にあこがれを抱いています。
この二つは密接に関連していて、理想の他者を求める強い気持ちが根底にあるからこそ、それにそぐわない周囲の人の何気ない言動に傷つき、やっぱり他人は信頼できない、という思いが深まってしまいます。
それで、「基本的信頼感」のない人は、他者は完全に信頼できない存在ではなく、同時に完全に自分の期待に答えてくれる存在でもない、ということを経験を通して学ぶ必要があります。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本ではそのような問題の克服には、2つのルートがあると書かれています。
解離の回復過程を振り返ると大きく二つの経路がある。
眠りの経路と目覚めの経路である。
眠りの経路は他者の保護によって包まれ、その中でまどろむことである。これは比喩的に言えば、母親に包まれ、安心できる居場所を獲得することである。
…それに対して目覚めの経路は他者に対する依存を放棄し、自らの責任を自覚し、将来に向かって行動することである。これは父親に同一化し、外部へと出で立つことに喩えられよう。(p204)
「眠りの経路」は、今まで感じられなかった安心できる居場所を経験して、心を休めることを意味しています。
良い治療者やカウンセラー、アドバイザーとの出会い、また入院生活などの保護の行き届いた環境を通して、他の人を信頼する気持ちを少しずつ学び、少しずつ安心できる居場所を実感します。
対照的に「目覚めの経路」は、他者から自立して、強い自尊心を形成することを意味しています。
存在しない理想像を求めてさまようのではなく、けじめをつけ、現実をしっかりと見据えて、自分の意志と力で未来を切り拓いていくのです。
これら二つの経路は互いに関連していて、「眠り」で安心感を感じた人はやがて「目覚め」て自立するべきですし、逆に安心感が得られないまま追い込まれて自立しようとするのも危険です。
「眠り」と「目覚め」は、以前の記事で説明した「包むこと」と「区切ること」に相当します。
他人はまったく信頼できない存在ではなく、ときには、暖かく包まれて眠っても良いのだということ。
同時に何もかも満たしてくれる理想像を追いかけても虚しいだけであり、ときには目覚めて区切りをつけ、自分の責任をまっとうすることも必要なのだということ。
この二つを学んでいくなら、周りの人との適度な距離感を身につけ、バランスの取れた生き方を実践していけるようになるでしょう。
表現すること
「基本的信頼感」のない人は、自分の気持ちを表現するのが苦手です。
相手に受け入れられるようにするため、自分の感情を抑えて「良い子」として振る舞ったり、人を信頼できないあまり表面上のやりとりしかせず、心を打ち明けないよう警戒していたりします。
そうして感情を内側に溜め込んでしまうと、不適切な怒りとして爆発させてしまったり、あるいは、感情を切り離して人格が解離してしまったりします。
それで、たとえ他の人を信頼できないとしても、何らかの仕方で、自分の感情を外に出し、表現することは、心身の健康のためにとても大切です。
表現する方法はさまざまですが、信頼できる話し相手がいないのであれば、文章の形で書きつづったり、芸術として昇華させたりすることが役立ちます。
母という病 (ポプラ新書)では、そのように対処した例として、不幸な家庭で育ち、やがてその苦悩を音楽的才能に活かしたビートルズのジョン・レノンの例が紹介されています。
同時にジョン・レノンの音楽や精神は、彼が幼い頃から味わってきた悲しさや心細さ、理不尽なことへの怒りといったものと切っても切れない関係にあった。その体験がなければ、彼の音楽もなかっただろう。
その傷つきやすく繊細な魂は、また母という病を抱えていたがゆえに生まれたものだった。(p66)
アーティストとして知られる人の中には、「基本的信頼感」や「基本的安心感」の欠如に苦しみ、その痛みを芸術として発散している人も多いようです。
別の記事で書きましたが、ジョン・レノンは、どうしても自分に自信を持てず、いつ周りに見捨てられてしまかわからないという恐れを抱いていたようです。その恐れから彼は死に物ぐるいで頑張りつづけ、結果として大成功を手にしました。
そもそも、この世界に安心して満足している人たちには、必死に頑張りつづけ、産みの苦しみを味わってまで何かを創造するような強い動機づけがないのです。
しかし当たり前の安心感を得てこなかった人たちは、自分の手て安心できる場所を創りだそうとし、クリエイティブな才能を伸ばします。
そのようにして創られたアートの数々は、言葉にならない繊細な感情の糸で紡がれているので、他の人の心を揺さぶる力に満ちています。
もちろん、アーティストとして成功できるかどうかは人それぞれですが、言葉に出来ない感情をアートとして表現することは、心のつかえを解きほぐし、癒やしと安心できる場所をもたらしてくれることがあるのです。
この本の後半部分では、「母という病」を克服するためのアドバイスが、歴史上の有名人や愛着障害の患者たちのエピソードを交えて、たくさん載せられています。
人によって役立つアドバイスはさまざまですが、こうした具体例を読むなら、自分に合った方法が見つかるかもしれません。
心の地図を作り直す
しかし、より重度の愛着の問題を抱えている場合は、他のさまざまな専門的な治療法が必要となる可能性があります。
トラウマ治療の専門家、ベッセル・ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でこう述べます。
トラウマの記憶を処理するのと、内面の空しさと向き合うのとは、まったく別の問題だ。
内面の空しさとはつまり、望まれたり、関心を向けてもらったり、真実を語らせてもらったりしたことがなかったために生じる魂の穴だ。
親が自分に目を向けるときにその顔が一度として輝かなかったとしたら、愛され大切にされるとはどういう感じなのかを知るのは難しい。
隠し事や恐れに満ちた理解し難い世界に生まれ育ったとしたら、自分の耐えてきたことを表現する言葉を見つけるのは不可能に近い。
望まれず、相手にしてもらえずに育ったとしたら、主体感覚や自尊心を体の芯から感じられるようになるのは大変な難題だ。
ジュディス・ハーマンとクリストファー・ペリーと私で行った研究(第9章参照)から、子供のころに望まれていないと感じた人や、成長過程で誰にも安心感を抱いた記憶がない人には、従来の精神療法があまり役立たないとわかった。おそらく、大事にされていると感じた古い痕跡を活性化できないからだろう。(p492-493)
つまり、重度の基本的信頼感の喪失の場合は、カウンセリングによる治療や言葉によって表現することが、ほとんど役立たない可能性があるということです。
そのような場合、言葉によって考え方を修正しようとしても無意味です。根本にある愛着の基礎にアプローチして、いわば心の地図を書き換えなければなりません。
非常に熱心で、思っていることを明確に表現できる私の患者の一部にさえ、この現象が見られた。
セラピーにひたむきに取り組み、私生活でも仕事のうえでもそれなりの成果を挙げているにもかかわらず、ふさぎ込み過ぎて彼らなど眼中にない母親や、生まれてこなければよかったかのように彼らを扱う父親の、破壊的な爪痕を拭い去ることはできなかった。
彼らの人生を根本から変えるには、内面に秘められたそうした地図を作り直すしかないのは明らかだった。(p493)
この本の中でヴァン・デア・コークは、そのような根本の心の地図にアプローチするために、身体に働きかけるいくつかの治療法を紹介しています。
そうした治療法が目的とするのは、生後幼い時期、つまり言語を獲得する以前の脳と身体に刻まれた、言葉にならず、意識にも上らない視覚的な記憶にアプローチし、内面の地図を覗き見ることです。
先ほど引用したトラウマをヨーガで克服する という本は、ヴァン・デア・コークがそうした目的のために開発したトラウマ・センシティブ・ヨーガのプログラムについて書かれていて参考になります。
また、以下の記事では、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で紹介されている治療法の一部を解説しています。
未来へ進むために
「基本的信頼感」が欠如した人生というのは、1歳半ないしは3歳ごろまでに経験した始まりの記憶に囚われた人生ともいえます。
この世界に生まれたそのときにかけられた呪いのために、その後の人生がずっと操られ、過去に縛られてしまっている状態です。
その呪縛は非常に強固なものであるとはいえ、少しずつでも鎖を断ち切って、未来へと歩んでいくことは可能です。
子どものころに愛着の絆が十分育まれなかったとしても、大人になってから、人との信頼を培うことはできます。それは獲得型の愛着と呼ばれています。
それは外国語を学ぶ場合と似ています。幼いころに学ぶ愛着は、流暢に扱える母語のようなものです。しかし大人になってからでも第二言語をある程度は学べるように、大人になってから愛着を学習し、使いこなすようになることも十分可能なのです。
わたしとしては、今回取り上げた母という病 (ポプラ新書)は共感できる部分もあれば、そうでない部分も多くありました。
以前の著書のときも感じましたが、著者の岡田先生は境界性パーソナリティ障害傾向を持つ人の考え方には精通しているようですが、解離性障害傾向の人の感情にはあまり詳しくないように思えます。
解離傾向は、より重度の幼少期からの愛着トラウマを持つ人たち特有のものですが、そうした問題にアプローチするには、この記事でも触れた身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法など、より詳しい本を参考にする必要があるでしょう。
誰も心から信じられない、傷つけられるのが怖い、安心できる居場所がない。そうした気持ちを抱いているなら、こうした本を通して愛着について学び、自分の人生と向き合ってみるといいかもしれません。