なぜ人はテロに強い不安と恐怖を感じるのか―「利用可能性カスケード」という錯覚

近、テロのニュースが新聞紙面やタイムラインを駆け巡っています。このニュースの内容に触れるつもりはありませんが、今読んでいる本、ファスト&スロー(上)に興味深いことが書かれていました。

ファスト&スロー(上)は心理学の本であり、わたしたちがついつい犯してしまう認知のエラーについて書かれています。著者はノーベル経済学賞を獲得したダニエル・カーネマンであり、この分野の本としては非常に網羅的かつわかりやすく、重宝します。

この本で取り上げられている心理学の概念のひとつに利用可能性カスケードというものがあります。その説明によると、テロリストがわたしたちにもたらす影響は、テロそのものというより、利用可能性カスケードによる部分が大きいというのです。

世論の動きにそのままついて行くと、この落とし穴に陥り、テロリストの思うがままになってしまう可能性があります。利用可能性カスケードとは何でしょうか。

最初にことわっておきますが、わたしは政治や宗教について議論したり、意見したりするつもりは全くなく、単に心理学的な問題としてこの事例を取り上げているにすぎないことをお含みおきください。

利用可能性ヒューリスティック

どちらが危険だと思いますか。

■車
■飛行機

この質問に対する答えは、人によって変わってくるでしょう。最近知り合いが交通事故に遭った人は、車と答えるでしょうし、ニュースで飛行機事故を見聞きした人は、飛行機と答えるかもしれません。

どちらの考えも理解できるものですが、アプローチとしては間違っています。唯一正しいのは、統計に基づいて、飛行機のほうが安全だと答えることです。これに関しては異論もあるようですが、統計と直感が食い違う場合でも、やはり統計のほうが重要であると思います。

ここで最初に挙げた方法、つまり最近の経験やニュースから危険性を判断する方法を「利用可能性ヒューリスティック」(availability heuristic)といいます。

ヒューリスティックとは、「困難な問題に対して、適切ではあるが往々にして不完全な答を見つけるための簡単な手続き」を意味していて、「見つけた!」を意味するギリシャ語「ユーレカ」に由来しています。(p146)

簡単にいえば、ヒューリスティックとは、難しい問題を簡単な問題に置き換えることだ、と考えて差し支えありません。

利用可能性ヒューリスティックとは、確率や重要度を判断するときに、思い出しやすさの問題に置き換えてしまうことです。よりたやすく思い出せるもの(つまり利用可能性が高いもの)は重要で、規模が大きいと判断してしまうのです。

たとえば飛行機事故が立て続けに2件起きたら、飛行機はとても危険だ、と感じたり、少年犯罪がワイドショーで何週間も取り上げられたら、最近の若者は恐ろしいと感じたりするのは利用可能性ヒューリスティックによるものです。

どちらの場合も、統計よりも、思い出しやすさによって重大性を判断しています。(ちなみに統計によると、近年増加しているのは、若者の犯罪ではなく老人による犯罪です)

利用可能性ヒューリスティックを引き起こしやすいものには次のような例があります。

■目立ったスキャンダル
■大々的な報道
■個人的な経験

利用可能性ヒューリスティックは、危険度を判断する場合だけでなく、生活のあらゆるところに隠れています。

たとえば、夫婦双方に、自分は家事に何パーセント貢献しているかを尋ねると、二人の合計が100%を越えてしまうそうです。自分のやったことは思い出しやすいため、貢献度を過大評価してしまうのです。(p194)

また、去年注目を集めたALS(筋萎縮性側索硬化症)のアイスバケツチャレンジは、利用可能性を上げて、難病への注目度を上げた取り組みといえるでしょう。

利用可能性カスケード

利用可能性ヒューリスティックは単なる個人の問題ですが、それが社会問題を引き起こし、ひいては国の政策さえ左右することを「利用可能性カスケード」(availability cascade)といいます。

この概念はキャス・サンスティーンとチムール・クランによって提唱されました。カスケードとは連鎖のことです。

利用可能性カスケードは自己増殖的な連鎖で、多くの場合、些細な出来事をメディアが報道することから始まり、一般市民のパニックや大規模な政府介入に発展するという経過をたどる。

また、リスクに関する報道が特定グループの注意を引き、このグループが不安に陥って騒ぎ立てるという経過をたどることもある。感情的な反応それ自体がニュースの材料となり、新たな報道を促し、それがまた懸念を煽り、大勢を巻き込んでいくわけだ。(p209)

このとき、報道を見聞きする人は確率や統計という分母については考えません。見聞きした回数という分子だけを考えます。統計的に見れば非常に小さなことなのに、非常に危険視されていきます。

こうなると、個人や専門家、政府にさえどうすることもできません。

統計についてよく知っている専門家が、過大評価を訴えても、感情的になっている人に敵視されるだけです。政府が意見するなら隠蔽工作と捉えられるでしょう。

あるいは専門家や政府がこのような流れを利用することもあります。結果として激憤する世論の流れるままに社会は動き、利用可能性カスケードが生じてしまいます。

ダニエル・カーネマンは、今日の世界で利用可能性カスケードを首尾よく活用しているのはテロリストだといいます。

9.11同時多発テロのような大規模テロは別として、テロ攻撃による死者数は、他の死亡原因に比べるときわめて少ない。執拗なテロ攻撃の標的になっている国、たとえばイスラエルでも、一週間のテロの犠牲者数が交通事故の死者数に近づいたことさえ、ほとんどないのである。

ただしこの二種類のリスクは、一方はたやすくひんぱんに思い浮かぶという点で、利用可能性に差がある。身の毛のよだつ光景と際限なく繰り返される報道とが相まって、テロには誰もが敏感になっている。(p212)

今回のテロがささいなことだと言うつもりはありません。報道しないわけにはいかないでしょう。

しかしテロリストは利用可能性を活用することを狙って、目立った行動をしているので、頻繁に報道されることは狙い通りだと言えます。

そもそも、ふだんこんな話題を書かないこのブログで、こうした記事を書いていること自体、利用可能性に影響されているというしかありません。

そして利用可能性の問題を指摘している記事が、時事問題を取り上げることによって、ある種の利用可能性を促進してしまっていることは認めざるを得ません。

テロ以外にも、さまざまな利益がからんで、利用可能性が押し上げられている現象はたくさんあります。一例として、ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球 には西ナイルウイルスの脅威のことが書かれていました。

2002年に西ナイルウイルスに感染した人の数は、北米大陸全体でわずか4000人、テネシー州では56人だった。うち15パーセントが死亡したので、罹れば怖いウイルスではあるが、私たちが日々直面しているリスクにくらべれば些細なことだ。

このウイルスがニュースになるのは、それが私たちに実際に与える危険の大きさのせいではなくて、それが目新しく、感染する相手を選ばないこと、そしてそれがより大きな流行になるかどうかの予測がつかないのが理由である。

このウイルスはまた、殺虫剤のメーカーや政府の寛大な予算で食べている科学者や、センセーショナルな見出しが欲しくてたまらない新聞記者にとっては贈り物だ。

つまり、恐れと金儲けがこのウイルスをスターにしたのである。(p145-146)

利用可能性カスケードを作り出すのは、往々にして「恐れと金儲け」です。

何かがセンセーショナルに報道されているときは、背後に恐れと金儲けによる増幅がないかよく考えてみるべきです。

引用文でも指摘されているように、企業の利益が絡んでいたり、視聴率やアクセス数、広告収入などを稼げたりする話題は、実際の規模よりはるかにセンセーショナルに報道されます。

一方、より緊急性が高くても、地味で好まれない話題、多くの人にとって耳が痛い問題などは、めったに報道されません。

そのほかのヒューリスティック

ヒューリスティックには、ほかにもいろいろ種類がありますが、このような事件に影響しがちなヒューリスティックに、「感情ヒューリスティック」(affect heuristic)と「代表性ヒューリスティック」(representativeness heuristic)があります。

ヒューリスティックとは問題の置き換えであると先に述べました。感情ヒューリスティックとは、他の複雑な問題を「好きか嫌いか」「感情が強いか弱いか」の問題に置き換えてしまうことです。(p204)

たとえば、中国製品に多くの人が抱いている感情は、どちらかというと「嫌い」だと思います。すると、中国そのものに対してネガティブな感情を抱きがちです。

他の問題で中国が登場したときに、たとえば中国系の会社のサービスを使うかどうか、という状況に直面したとき、その会社の質についてじっくり考えることなく、敬遠してしまうかもしれません。さらに悪いことに、その会社の良い点には盲目になり、悪い点ばかりを探してしまうかもしれません。

感情がからむと、直感的に良し悪しを判断してしまうだけでなく、それを補強する証拠探しも始めてしまうそうです。(p154)

また、代表性ヒューリスティックとは、やはり問題をステレオタイプとの類似性に置き換えてしまうことをいいます。(p219)

アメリカ人であればこんな性格、キリスト教徒といえばこういうもの、アスペルガーならこんな特徴があるといったステレオタイプがあります。このステレオタイプとの類似性を代表性といいます。ステレオタイプには一面の真実がありますが、統計的には多くないのに目立つものが誇張されていることがよくあります。

個々の人をよく知って評価すべきなのに、代表性の問題に置き換えてしまうと、誤解や偏見が生じがちです。

昨今の報道でも、たとえば次のようなヒューリスティックの問題が生じることが考えられます。

メディアでの取り上げられ方のため、イスラム系の人に会ったとき、この人はもしかすると危険な人物ではないかという疑念がさっと頭をよぎるかもしれません。しかしそれは、その人個人が何者かという問題を、メディアの報道によって確立された代表性や、形作られた感情の問題に置き換えているからです。

実際には、その人が危険な人物であるより、平和を好む普通の人である可能性のほうがずっと高いでしょう。そもそもその人が危険である確率は、わたしたちの町内に住んでいるだれかが危険かどうかという確率とたいして変わらないでしょう。

用心深くあることはいつの時代も大切ですが、偏見を抱くことはどんな時代でも有害です。犯罪を過小評価することは禁物ですが、感情的に反応するのはかえって危険です。

幸い、利用可能性ヒューリスティックなど、おのおののヒューリスティックの問題は、意識することである程度回避ないしは抵抗できます。

たとえば、思い出しやすさが確率とは無関係だということを意識し、たやすさより思い出した内容に注意を向けていれば、利用可能性ヒューリスティックは働かないそうです。(p200)

代表性の問題は、統計に目を向ければ打開されます。感情ヒューリスティックはとりわけ厄介ですが、その存在を知っているだけでも少しは違うでしょう。

わたしは、ニュース報道について議論したり、意見したりするつもりはありません。ただ、考え方のバランスを保つ上で、利用可能性ヒューリスティック、利用可能性カスケード、感情ヒューリスティック、代表性ヒューリスティックについて知っておくことは大切だと思いました。