凍りつきや解離は弱さのしるしではない―「クマにあったら腰抜かせ」から学べること

この話は、圧倒的な脅威に直面したときの不動化や解離を臆病と同じ類の弱さとして裁きがちな現代文化に異論を唱えるものだ。(p74)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア からの引用で書かれているように、わたしたちの社会では「解離」は弱さと見られがちです。

「解離」というとピンとこない人も多いかも知れません。

解離とは生物学的には、ストレスのもとで動けなくなって(不動化)、凍りついてしまう反応のことです。用語は知らなくても大勢の人がこれを経験しています。

・緊張したときに頭が真っ白になって、何も考えられなくなってしまう。
・先生や上司や怒られたときに、自分の意見を言えず、固まってしまう。
・暴力を振るわれたときに、金縛りに遭ったように動けず、抵抗できない。

わたしたちの社会では、ストレスとなる状況で、こうした「凍りつき」優位の反応を示すなら、恥や臆病や弱さだとみなされます。

凍りつきやすい人は、厳しい言葉を浴びせられると、頭が真っ白になってしまいます。後になってから、あのときこう反論できたらよかったのに、と後悔するかもしれません。

中にはポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」 に出てくる次のエピソードのように、恐ろしい経験をした際に、凍りついてしまったことを、ずっと恥ずかしく感じている人も少なくありません。

60代後半のある女性から、自分の体験を記したメールをもらいました。その女性が10代の頃、ある人物によって首を絞められ、レイプされたということです。

何年も経った後、この方は自分の娘さんにこのことを話しました。

ところが、娘さんは「お母さんは、どうして抵抗しなかったの? どうして何かしようとしなかったの?」と言ったそうです。

女性は困惑し、恥じ入りました。(p175-176)

でも、恐ろしい状況で凍りついてしまうことは、本当に、弱さの表れなのでしょうか。

抵抗できず固まってしまうのは、意志が弱い人たちなのでしょうか。臆病だから、やり返せないのでしょうか。

生物学はまったく別の観点を教えてくれます。野生動物と出くわしたときには、必死に抵抗した人が犠牲になり、腰を抜かしたり、固まったりした人が生き延びることもあるのです。

この記事では、解離(凍りつき)は弱さではなく、最後まで生き残ることをあきらめないよう、わたしたちの脳や身体に組み込まれた、生物学的な知恵である、ということをみていきましょう。

無意識の生物学的な反応―臆病だから凍りつくわけではない

ヒトを含め、多くの動物は、危機に面すると、大きく分けて2通りの反応を示します。

積極的に闘ったり逃げたりする能動的な反応か、それとも固まって動けなくなる受動的な反応か、です。

前者は「闘争/逃走反応」と呼ばれ、後者は「凍りつき/擬死反応」と呼ばれます。

脳神経科医オリヴァー・サックスは、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) の中で、動物界では後者の受動的な反応のほうがバリエーション豊富だと述べます。

闘争-逃走反応は、それが極端な場合には重要なものだが、現実の動物の世界でみられる現象の半分を示しているに過ぎない。

他の半分はそれほど劇的ではないが、正反対の反応という点でやはり劇的なのである。その特徴は、威嚇に対して無動を保つことである。

…動物の世界においては、威嚇に対する反応としては急激なものよりも受け身反応のほうが重要であり、そのレパートリーは著しく多彩である。(p381)

この受け身の反応にはどんなものがあるでしょうか。

有名なのは襲われたときに仮死状態になるタヌキ寝入りです。車のヘッドライトに凍りつくシカや、固まって背景に同化するカメレオンもそうです。

人間も、襲われたりおびやかされたりしたとき、同じように反応することがあります。

固まって動けなくなる、麻痺して金縛り状態になる、腰を抜かす、失禁する、失神する、頭が真っ白になる、などです。意識や記憶が飛ぶ「解離」も起こります。

人間は、危機に直面したとき、激しく抵抗する人もいれば、固まってしまって無抵抗になる人もいます。

おびやかされたときに、「闘争/逃走反応」と「凍りつき/擬死反応」のどちらが優位かは、人それぞれです。

傾向としては、女性、敏感な人、自己抑制の強い人、子ども時代にトラウマのある人などは、凍りついてしまいやすいようです。

わたしたちの文化では、ストレスや危機に面したとき、能動的な「闘争/逃走反応」をほうは勇敢で、受動的な「凍りつき/擬死反応」は臆病だとみなされがちです。

しかし、生物学的には、どちらが優れているというわけではなく、どちらも身を守るための無意識の反応です。

勇敢な人だから「闘争/逃走反応」を示しやすいわけではなく、臆病な人だから「凍りつき/擬死反応」を起こしやすいわけではありません。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア に書かれている次のエピソードを読むとわかりますが、この反応は自分で選んでいるわけではなく、勝手に起こるのです。

「戦場での臆病さ」のために軍法会議にかけられた兵士に話を聞いたことがある。

…所属していた優秀な海兵隊の部隊が待ち伏せ攻撃に合ったとき、これまで戦闘訓練など受けたことのない彼は反撃することができなかった。

この傷つき、途方に暮れ、辱められ、そして脅かされた兵士と話をしている間、発砲しなかったという彼の「拒否」は、実際のところ、無意識的な麻痺だったのではないか

―仲間の血や死、四肢の切断を目撃するという著しく異常な状況に対する正常な反応である―と私は理解するに至った。

…圧倒的な脅威への彼の本能的反応は行動を止めることだった。(p73-74)

この兵士は、臆病にも戦場で抵抗しなかったとみなされ、軍法会議にかけられました。しかし、彼は臆病だったのではなく、「無意識的な麻痺」に陥ってしまっただけなのです。

冒頭で引用した例もそうです。

女性は、襲われたときに なぜ抵抗しなかったのかと問われ、恥ずかしく感じました。しかし、本当は無意識のうちに身体が凍りついてしまったせいで抵抗できなかったのです。

けれども、この兵士や女性のように、恐怖を感じる状況で凍りついてしまい、何も抵抗できなかったことを、弱さや恥だと思い込まされ、自責や後悔にさいなまれている被害者は少なくありません。

自責感と自己嫌悪は性被害やレイプ被害者の間に共通して見られるものである。

戦うことが生き残りのために適した選択肢でなかった場合さえも、彼女らは「戦う意志を見せなかった」ことでひどい自己批判に陥る。(p74)

実際、不動状態は受動的反応として体験されるため、性的虐待やレイプの被害者の多くは、攻撃者とうまく戦えなかったことに対して甚だしい羞恥を感じている。(p110)

危機的状況で、凍りつく反応に陥った多くの人が、抵抗できなかったことで自分を責め続けます。

しかし、この凍りつく反応は、いま考えたとおり、臆病だから起こるのではなく、生物学的な無意識の反射です。

女性であることや遺伝的な性格、子ども時代の経験など、本人には変えようもない要素によって、凍りつきが起こる可能性が高まります。

逆をいえば、危機に面して能動的に抵抗できる人もまた、勇敢さからそうできているわけではありません。

おびやかされたときには、人は考えるよりも先に体が反応します。

そのとき、闘うか逃げるか、固まるか失神するかは、無意識のうちに反射として起こることがほとんどなので、本人の意志どうこうで決まるものではないのです。

それで、神経科学者スティーブン・ポージェスは、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」でこう指摘しています。

私たちは、身体的反応は反射的であり、自分の意思でコントロールできないということを忘れています。

命を奪うような脅威への反応として起きる不動は、他の哺乳類とも共通する一般的な「反射的」反応です。(p176)

医療の世界では、トラウマ・サヴァイヴァーの症状に対して、例えば失神などの反応が起きると、心理学的な問題だと捉えます。

しかしこれは実は生理学的な反射なのです。(p209)

このような生物学的な説明を考えたとき、怒られたときに固まったり、緊張で頭が真っ白になったり、襲われたときに抵抗できなかったりするのは、弱さでも、臆病でも、恥でもないことは明らかでしょう。

こうした反応を起こしやすいのは、単にその人が、危機に対して凍りつきによって反応しやすいタイプだからにすぎません。

4つの理由―なぜ凍りつき/擬死反応が備わっているか

けれども、こう疑問に思う人もいるでしょう。

危機に面したとき、闘ったり逃げたりするのが有効なのはわかる。

しかし、無抵抗になったり固まったりするのは、あきらめや生存の放棄ではないか。

だとしたら、より積極的な「闘争/逃走反応」ができる人のほうが強く、「凍りつき/擬死反応」に陥ってしまう人のほうは弱い、といえるのではないか。

この考え方は、「闘争/逃走反応」のほうが生き残る確率が高い、という前提に基づいています。

しかし、これは正しくありません。オリヴァー・サックスが述べていたことを思い出してください。

「動物の世界においては、威嚇に対する反応としては急激なものよりも受け身反応のほうが重要であり、そのレパートリーは著しく多彩」なのです。

言い換えれば、動物界では生き残るための手段として、「闘争/逃走反応」より「凍りつき/擬死反応」のほうが有効なので、より多く採用されている、ということになります。

抵抗しないことは恥や弱さのしるしではなく、あきらめや生存の放棄でもありません。かえって動物界では、凍りついて麻痺するおかげで生き延びられることも少なくないのです。

神経心理学者ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア の中で、「凍りつき/擬死反応」の有効性を4つ挙げています。順に見てみましょう。

1.自分より強い敵から生き延びる

第一に、俗に「タヌキ寝入り」として知られる、土壇場での生存戦略である。しかしそれは見せかけではなく、生来の命がけの生物学的策略だ。

オポッサムのような足の遅い小さな動物にとって、闘争と逃走というのはあまり成功しそうにない戦略である。

ガンジーのあの伝説的方法のような無抵抗の抵抗は、…捕食者の攻撃性を抑制し、殺して食べようという欲求を抑える働きがある。(p62)

動物界は食物連鎖によって成り立っています。

生態系の頂点に立つ動物を除き、あらゆる動物に、自分より強い捕食者がいます。

ピラミッドの頂点に立つ動物でも、幼いころはやはり、自分より強い捕食者に襲われる危険があります。

自分より強い敵に襲われたとき、闘ったり逃げたりしても、生き延びられる確率はかなり低くなります。闘っても組み伏せられ、逃げても追いつかれます。

そんな場合に、より生き延びられる確率が高いのは、「タヌキ寝入り」、つまり失神して仮死状態になることです。

抵抗すれば間違いなく殺されますが、抵抗しなければ「捕食者の攻撃性を抑制し、殺して食べようという欲求を抑える」可能性があります。相手が油断した一瞬のすきに逃げられるかもしれません。

たとえわずかであっても生き延びられる可能性がある場合には、闘ったり逃げたりするより、仮死状態になってやり過ごすことを選ぶのです。

これは、身体の構造からして男性より非力な女性や、まだ無力な子どものころにトラウマを経験した人が、凍りつき反応を示しやすい理由でもあるでしょう。

2.発見されにくくする

第二に、不動は多少なりとも姿を隠すのに役立つ。動かなければ捕食者からは見つかりにくいからだ。(p62)

「凍りつき/擬死反応」のメリットの2つ目は、捕食者に発見される可能性が減ることです。

映画「ジュラシックパーク」で、子どもたちが2頭のラプトルから隠れるキッチンのシーンのように、息をひそめてやりすごそうとします。

発見されないよう隠れるには、まだ見つかる前に、ちょっとでも危険を感じたら、反射的に固まって身を隠す必要があります。

凍りつき傾向が強い人が、ちょっときつい言葉をかけられたり、人前で緊張したりするだけでも固まって頭が真っ白になってしまうのはそのせいかもしれません。

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3.集団全体の生存性を高める

第三に、不動は集団の生存を促進するかもしれない。

捕食者の群れに追跡されたとき、ある個体の転倒は群れの残りの者が逃げ切るのに十分な時間、捕食者の注意をそらせるかもしれないからだ。(p62)

第三のメリットは、集団全体として見た場合に、だれかが凍りついて倒れておとりになることで、他の個体の生存率を高められるのではないか、というものです。

自分を犠牲にして仲間を逃す、と言えば聞こえはいいですが、損な役回りにも思えます。

しかし、後で引用しますが、これと正反対の結果になった事例があります。集団のうち、逃げた人が犠牲になり、凍りついて倒れた人が助かったというケースです。

必ずしも、逃げた人が生存しやすいわけではなく、凍りついた人が命を落としやすいわけではないようです。

ということは、集団の中に凍りつく個体がいるのは、単純に自分が犠牲になって、他のだれかを生き延びさせる目的ではないように思えます。

危機的状況はさまざまなので、闘って抵抗するか、一目散に逃げるか、固まって腰を抜かすか、失神して倒れるか、いったいどの方法が生き延びる結果につながるかは、状況次第です。

有性生殖で繁殖する生物は、遺伝的多様性によって絶滅を免れようとします。

同じように、ひとつの集団の中に、さまざまな反応をとる個体がいることによって、ある手段が失敗しても、別の手段が成功し、種として生き残りやすくなっているのではないかと思います。

4.痛みが麻痺する

最後に最も重要な、不動の第四の生物学的機能は、無感覚という非常に深い変性状態を誘発することだ。この状態では極端な痛みや恐怖を感じにくくなる。

このため、もし動物が攻撃から生き延びることができた場合には、たとえケガをしていても衰弱するほどの痛みに患わされにくくなり、好機が巡ってくれば逃げ出せるかもしれないのである。

…解離と呼ばれるこのような離れ方は、耐えがたきものを耐えられるようにしてくれるのだ。(p62-63)

最後の4番目、感覚が麻痺して痛みや苦痛を感じにくくなることです。

自分より体力に勝る敵に襲われるということは、耐えがたい恐怖や痛みを加えられる可能性が高いということです。たとえば、女性や子どもに対する虐待や性犯罪がそうです。

そのような極限状態では、必死に抵抗して痛めつけられるより、死んだように麻痺してしまい、気を失ってしまったほうが、生き延びられるかもしれません。

どちらにしても究極の選択であることに変わりはありませんが、この世界には限界をはるかに超えるような恐ろしい苦痛が存在していることは事実なのです。

サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) の中でオリヴァー・サックスは、生物の擬死反応とは「死を避けるために死を模倣すること」であると書いています。

死よりも恐ろしい究極の苦痛をさえ生き延びるためには、死を模倣してでも切り抜けるしかありません。

「クマにあったら腰抜かせ」

このように、動物界には、「闘争/逃走反応」では歯が立たず、「凍りつき/麻痺反応」でしか生き延びることができないような危機がたくさんあります。

闘って抵抗する人のほうが勇敢だ、凍りついて抵抗しない人は臆病だ、と主張するような人は、本当に危機的な状況を経験したことがない人たちだといえます。

自分より強い敵に襲われたこともなく、無力な子ども時代に暴力を振るわれたこともなく、そこそこ幸せな人生を送ってきた人たちは、死を模倣しなければ生き延びられないような状況など想像できないのです。

現代社会は、ある程度の家庭に生まれ、良い大学に進学し、出世レースに勝って成功した男性たちを中心に作られてきた文化です。

これまでの人生で、自分の力で闘ったり逃げたりできる範囲の危機しか経験してこなかった人は、そうできない他人を見下します。凍りつきを弱さや臆病の表れだとみなします。

しかし、自分の力では到底太刀打ちできないような本当の脅威、闘っても逃げても勝ち目がないような敵と対峙してきた人たちは、凍りつき反応の価値を認めます。

たとえば、クマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)という本を読んでいて、興味深いアドバイスを見かけました。

この本の著者は、アイヌ民族の狩人としてヒグマを何十頭も仕留めてきた故 姉崎等さんです。ヒグマは明らかに人間より強い存在です。

ずっとヒグマと共生してきたアイヌ民族は、自分より強い敵と対峙する経験が豊富だったはずです。

アイヌの伝統的な昔話(ウエペケレ)によると、もしクマに出くわしたら「決して逃げてはならない」という教えがあるそうです。(p229)

「逃げることは一番だめです。どんなことがあってもクマに背を向けるということは一番よくないです。まず絶対に背を向けない」

「逃げることは自分の命はいらないよというサインをクマに送るのと同じことです。

だから絶対に逃げないこと。助かりたいと思ったら逃げるんでないよと私はいつも言っています。(p224)

もちろん、これは逃げるのではなく闘え、と言っているわけではありません。クマに挑みかかったら、簡単に骨を折られ噛み砕かれるでしょう。

つまり、アイヌはクマと出会ったときには、あえて闘争/逃走反応を否定していたのです。

では、どんな反応をすればいいか。姉崎さんは「まず動かないということが重要です」と述べます。(p240)

ヒグマに出会ったときの最善の対処は、「棒立ちに立ったら動かない」ということです。(p227)

聞いた話では、うちの近くの森林組合の人たちも何度もクマに出くわしていますが、この方法によって、一回も襲われずにすんでいるそうです。

経験を積んだアイヌの人たちは、自分の意志で闘争/逃走反応を抑制し、棒立ちになってクマの目をじっと見つめたり、腹の底から声を出したりするそうです。

しかし、一般の人はそこまで肝が座っていません。パニックになって無意識のうちに「闘争/逃走反応」か、「凍りつき/麻痺反応」を起こすでしょう。

このとき、どうせなら「闘争/逃走反応」よりも、「凍りつき/麻痺反応」を起こしたほうがよほど生き延びられる可能性が高くなると言われています。

どうせ逃げたって、林道を走ればクマは60キロも出るような足の速い動物だから、逃げても逃げきれることはないんだから、あきらめて『座りなさい』と。『腰抜けなさい』と言うの。

腰抜けたら動けないんだから。彼らは抵抗をしないものにはかからない習性があるから。(p240)

彼らは肉食動物ではないから、人の肉を食ってやろうという気はないんです。ですから、被さってきたときに動かない方がいい。クマは動くところを攻撃するんです。(p321)

腰が抜けるというのは凍りつき反応の一種です。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」 によると、凍りつきや解離は、横隔膜下の迷走神経によって引き起こされるので、へなへなと倒れ込んで、内臓が緩んで失禁したりします。(p101)

凍りつきが起こっているときは当然、動けなくなって、無抵抗になります。現代文化はこれを弱さとみなしていました。

ところが、この反応でないと、ヒグマに出くわしたときは生き残れないのです。「彼らは抵抗をしないものにはかからない習性がある」からです。

この本を読むとよくわかりますが、ヒグマは肉食動物ではないので、積極的に人を襲うことはありません。(一度人を襲ったクマは例外)

ヒグマは人間を積極的に襲うどころか、人間を恐れ、できるだけ人と出会うのを避けて暮らしていることがわかっています。ヒグマが人を襲うのは、たいてい身の危険を感じたときです。

抵抗したり動いたりすると怖がって襲ってきますが、こちらが無抵抗なら、安全を確認して去っていくのがほとんどだと言われます。

動くと殺され、動かないと助かる

クマにあったらどうするか: アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 (ちくま文庫)には、「闘争/逃走反応」のほうが危険で、「凍りつき/擬死反応」のほうが身の守りになることを示すエピソードが幾つか載せられています。

たとえば、先にちらっと触れた、逃げた人が犠牲になり、動けなくなった人は助かった、というケースです。

それから、死んだまねをして助かるということだけど。それには一つそれなりの意味があるんではないかなと思う。

昭和に入ってからのことなんですけど、七~八人の営林署の作業員が朝、山に向かって行ったらクマと出くわして、クマに出くわしたら逃げるという心理が一番はやいんですよね。

そして、『ワァー、クマが出た』って言って逃げた。若い者は足が速いからどんどん逃げる。

そして林道ですから半分が崖場になっている。そしたら足の弱い年寄りは倒れてひっくり返った。

そのとき一人だけ襲われてクマに殺されたんですよ。七~八人のうち誰が殺されたのかっていうと、なんと一番足が速い人、一番先に逃げた人だった。

だからクマは転んで倒れた人を襲うのか、といったら、そうじゃなくて逃げて先に行った人を襲う方が多いんですよ。(p237)

凍りつき反応のメリットのひとつは、自分がおとりや犠牲になって集団の他の個体を逃すことだとされていました。

肉食動物に追われたときはそうかもしれませんが、クマに襲われたときは、まったく逆で、逃げたほうが殺されることもあるのです。

一概に凍りついたり倒れたりするほうが犠牲者になるとは言い切れないことがわかります。多様な反応手段があるからこそ、集団としては生き延びやすくなります。

もうひとつの例は、逃げたり抵抗したりしたときは襲われ、無抵抗になったときは襲われなかったという経験談です。

支笏湖畔に当時住んでいた人がマイタケ採りに登って行ったんですよ。そうしたら門別岳の上の方からクマが下りてきた。

クマが下りてきたというので、その人は逃げた。そしたら逃げるからクマは追いかける。…そしてすぐ人間を襲ってしまった。

…その人は観念してがちっと目をつむって一つも動かないでいた。その動かないでいることが死んだふりをしろって意味につながるのかもしれないんですよ。

そうやって動かないでいたら、クマは立ち去りながらドーンとその人の胸を一発叩いた。もうこの人間は死んだんだという感じでクマはボンと叩いてバサッと跳んで行った。(p238)

一目散に逃げ回っているときは襲われ、観念して死んだような状態になったら襲われなくなったことがわかります。でもこの話には続きがあります。

その人の場合はああ行った、帰ろうと思ってすぐに起きたらそこに座って見ていたクマがまたかぶさってきた。

前のように動かなければいいのに、今度は少しでも逃げようとしてもがいた。そうしたら動くところ動くところをクマはかじるんですよ。(p239)

この人はクマが行ったと思って起き上がりましたが、まだクマはそこにいました。そして先ほどとは打って変わって激しく抵抗したせいで、あちこちかじられて血まみれになりました。

この人は結局、もう一度 動かないようにしたおかげで、なんとか一命はとりとめて帰還できたそうです。けれども、途中で抵抗したので、血まみれになって重傷を負っていました。

これらのエピソードに共通するのは、逃げなければ殺されず、抵抗しなければ大怪我を負わずにすんだはずだということです。

しかし、おそらくこの被害者たちは「闘争/逃走反応」が優位だったのでしょう。無意識のうちに反射的に逃げたり抵抗したりしてしまったので、恐ろしい目に遭いました。

一方、同じようにクマに出くわしたのに、ケガ一つなく助かった例もありました。

特にナラの木にはキノコが出るということで、キノコ採りに行ったアイヌのおばあさんが、風倒木のそばを通ると、その当時、人が入ることはほとんどないからクマが風倒木の陰に寝ていたんです。そこへおばあさんが突っかけてしまった。

…そのアイヌのおばあさんはパキサラ(口の周りの入れ墨)をしていて、アイヌの習慣をしっかり身につけていた人で、そのおばあさんは逃げなかったんですよ。…黙って座っていた。

…クマは『ファゥ、ファゥ、ファゥ』と言って、今にも飛びかかりそうに睨んで怒っていたけど、そのうち去っていったということです。

だからそういう話を聞いても、クマは肉食動物のようにすぐ人を襲う動物ではないんです。(p230-231)

アイヌ植物誌 によると、冬は男性たちが狩猟のために山にこもり、春になると女性たちが山菜採りに山に入ったそうです。(p9) 女性たちは冬眠明けのクマと出くわす機会が多かったかもしれません 。

このおばあさんはクマに会ったら逃げるなという「アイヌの習慣をしっかり身につけていた人」だったので助かりました。

また、多くの男性たちのように「闘争/逃走反応」が優位というわけでもなかったのでしょう。無意識のうちに反射的に逃げたり抵抗したりもしませんでした。

そうすると、この場合には価値観が逆転していることに気づきます。

わたしたちの社会では、闘ったり逃げたりするのは勇敢で、抵抗せず固まっていることは恥や弱さだとみなされます。

しかしクマと出くわすことの多い文化ではそうではなかったかもしれないのです。

クマに出くわしてすぐに逃げたり抵抗したりしてしまう人は殺されてしまい、肝っ玉の小さい気の弱い人だとみなされたかもしれません。

逆に身動きとれなくなって、じっと固まっている人のほうがクマから生き延びて生還できる確率が高いので、窮地を乗り切った勇敢な人だとみなされていたかもしれません。

アイヌだけでなく、世界中さまざまな民族がクマと共存してきました。彼らの生存にとって、「闘争/逃走反応」は命取りになり、「凍りつき/擬死反応」のほうが有利でした。

だとしたら、今日のわたしたちにも遺伝的に「凍りつき/擬死反応」のほうが優位な人がいても不思議ではありません。先祖にとって役立った性質がそのまま遺伝しているのです。

凍りつき/擬死は勇敢に生き延びてきた証

ある文化においては、凍りつき/擬死反応は、絶体絶命の窮地を生き延びた証だったかもしれない。

これはヒグマと共生していた文化だけの話ではありません。

わたしたちの時代でも同じようにみなされるべきだ、と神経科学者スティーブン・ポージェスは、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で述べています。

私は、トラウマのサヴァイヴァーに、彼らの身体がしてくれたことを説明します。

多くのトラウマ・サヴァイヴァーは暗黙の裡に、彼らの身体がとても悪いことをしたと感じています。

ですから、トラウマ・サヴァイヴァーたちに、彼らの身体がとった反応戦略は、彼らの命を救ったのだということを理解してもらう必要があるのです。

トラウマを被ったとき、彼らの身体は、不動状態に陥り、解離を引き起こしました。

反撃したりせず、このように反応したおかげで、肉体的な傷や辛い苦しみを最小限にとどめることができたのです。

この場合、「不動」は適応的です。こうすれば、加害者のさらなる攻撃を誘発しなくて済むのです。(p175)

冒頭で引用した幾つかの事例のように、恐ろしい危機的状況で、凍りついてしまい、抵抗できなかった被害者たちは、闘ったり逃げたりしなかった自分を恥じていることがよくあります。

なぜ抵抗しなかったのか、なぜ逃げなかったのか、どうして反論しなかったのか、自己主張しなかったのか。最後まで必死に抵抗していればこんなことにはならなかったのではないか。

そう感じてしまうのは、「闘争/逃走反応」のほうが、「凍りつき/擬死反応」よりも優れているという、現代文化の誤った考えに影響されているせいです。

この記事で考えてきたように、動物界では、「凍りつき/擬死反応」のほうが、「闘争/逃走反応」よりも多く採用されています。自分より強力な敵に遭遇したときはそちらのほうが有効だからです。

人間の場合もそうです。

抵抗できなかったことは、本当に失敗だったのでしょうか。恥じるようなことだったのでしょうか。

抵抗したり逃げたりしていれば、本当にこんな結果にはならなかったのでしょうか。より悪い結果になっていた可能性はないでしょうか。

ある兵士は、戦場で抵抗できず、臆病な振る舞いをしたと断罪されました。しかしもし抵抗していたら、多勢に無勢の中、その兵士はどんな扱いを受けていたでしょうか。恐ろしい目に遭わされていたかもしれません。

娘から「お母さんは、どうして抵抗しなかったの? どうして何かしようとしなかったの?」と問われた女性はどうでしょうか。もし抵抗していたら、今ごろ娘が生まれていなかった可能性さえあるでしょう。

このようなことは現に起こっています。たとえば、第二次世界大戦中に、日本の兵士がバンカ島の看護婦たちを虐殺した事件では、唯一、擬死状態になっていた女性ひとりが生き延びました。

いずれの場合も、生存者はひどいトラウマを負いました。悪夢のような経験でした。

それでも、「反撃したりせず、このように反応したおかげで、肉体的な傷や辛い苦しみを最小限にとどめることができた」かもしれないのです。

無意識のうちに独りでに「凍りつき/擬死反応」が起こったおかげで、もっと恐ろしい結末から保護されていたのです。

そうだとしたら、凍りついて抵抗できなかったことは、恥じるようなものではなく、むしろ最善だったといえるでしょう。

今の社会は、反撃したりうまく立ち回ることができなかった人々を、まるでどこか悪いところがあったかのように扱います。

しかしポリヴェーガル理論に基づく社会では、その代わりにこう言われるでしょう。

「これは、そのときのあなたがとることができた、神経生物学的に最善の適応的反応だった。

あなたの身体があなたのために反応してくれて幸いだった。もし抵抗していたら死んでいたかもしれない」(p176)

「凍りつき/擬死反応」が生じて、抵抗できず麻痺してしまったことを恥じる必要はありません。それは弱さの現れでもありません。

クマと遭遇して抵抗したり逃げたりした人は、そもそも生還さえできなかったはずです。少なくとも命の危険から生還し、サバイバー(生存者)となれたのは、凍りついたおかげといえます。

ポージェスは、先ほどの女性についてのエピソードを、こう続けます。

娘さんは「お母さんは、どうして抵抗しなかったの? どうして何かしようとしなかったの?」と言ったそうです。

女性は困惑し、恥じ入りました。

しかし彼女は、ポリヴェーガル理論を読み「自分は正しかったのだ」と得心したのです。

そのメールには、「私は今泣いています」と記されていました。メールを読みながら、私も泣いていました。

ここで大切なのは、その女性を不動状態にした身体的反応は「身を守るためだったのだ」と女性が納得したことです。

女性は、これからはそのときの自分の身体的反応を心の底から誇らしく思うことでしょう。

女性の身体反応は勇敢であり、彼女は力ない餌食ではなかったのです。(p175-176)

「凍りつき/擬死反応」は弱さでも恥でもなく、むしろ恐ろしい経験を生き抜いてきた勇敢さの証なのです。

解離のおかげで生存したことを自覚する

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア によると、自分は無力な被害者ではなく、勇敢な生存者であると自覚することは、トラウマからの回復の重要なステップです。

トラウマを受けた人が自己の主体感や力の感覚を取り戻し始めると、自己に対する許しと自己受容が徐々に見られるようになる。

自らの不動状態も激しい怒りも生物学的に生じた本能的要請であり、人格の欠陥であるかのごとく恥じるべきものではないということを、慈しみとともに理解するようになる。(p110)

すぐ固まってしまうこと、何も言い返せなくなること、抵抗できなかったこと、頭が真っ白になってしまうこと。

トラウマを切り抜けた人たちは、これら凍りつきや解離の特徴を、弱さや恥だと思い込まされています。自分は臆病で「人格の欠陥」を抱えていると感じているかもしれません。

他の人に抵抗できず、すぐ受け身で反応してしまうので、自分の人生を自分でコントロールすることなど、もう不可能だと感じることもあるでしょう。

しかし、この凍りつきは、生物学的には生き延びるための強力な手段であり、そのおかげで今まで生き延びてくることができたのだと自覚するとき、人生は変わります。

わたしも、この記事に書いてきたように、抵抗できないことや、固まってしまうことは、臆病で気が弱いせいだと思い込んでいました。

これらが「解離」の症状だと知ったときも、やはり自分は欠陥を抱えているという思いがぬぐえませんでした。

最初のころ読んでいた、国内の医者が書いている本の数々は、「解離」を病気や障害だと表現していたからです。自分は障害者で被害者で病人だと思い込まされました。

しかし、海外の解離の専門家の本を読んでいるうちに、まったく見方が変わってきました。そこでは「解離」は勇敢さや創造性のしるしだと説明されていたからです。

解離が学べる絵本「私の中のすべての色たち」―逆境を生き抜く勇敢で創造的な子どもたち
解離につい学べる絵本「私の中のすべての色たち」から、解離した子どもたちが勇敢で強いといえるのはなぜか、解離と創造性はどうつながっているのか考えました。

これはトラウマのサバイバーを元気づけるただの方便なのでしょうか。ただのポジティブ思考にすぎないのでしょうか。

いいえ、そうではありませんでした。今回の記事で書いたようにこの考え方は、神経生物学の名だたる専門家たちによる研究に十分裏付けられています。

むしろ逆に、解離は病気だとか障害だとか書いている精神科医たちの主張のほうが、なんの科学的根拠も持ち合わせていないのです。

ポージェスが述べるように、「今の社会は、反撃したりうまく立ち回ることができなかった人々を、まるでどこか悪いところがあったかのように扱います」。

その文化を作ったのは恐ろしい危機を乗り越えたことのない人たちだ、ということを覚えておくべきです。

その人たちが経験してきたのは、自分の力の範囲で抵抗できるようなストレスだけです。「神様は乗り越えられる試練しか与えない」といった絵空事を信じていたりします。

だから「反撃したりうまく立ち回」ったりすることを、誤って勇敢さのしるしだとみなし、そうできないのは意志の弱さだと裁きます。

しかし、自分より弱い敵にだけ立ち向かい、自分の力で対応できる範囲の問題にだけ直面してきた人たちは本当に勇敢だといえるでしょうか。

いいえ、本当に勇敢なのは、極限まで、いえ極限を越えてまで試みられた人たちです。

自分よりはるかに強力な敵と対峙し、凍りつき/擬死のような、死を模倣する手段をさえいとわぬ人生を乗り越えて、今ここに生きている人たちこそ、間違いなく「勇敢」なのです。