私は「環境学概論」の授業をとっている学生たちにアンケートをとった。…200人の学生のほぼ全員が、人間と自然は相容れないとはっきり答えた。
…アンケートの後半では、人間と環境の間にあるポジティブな相互関係について自分がどの程度知っているか答えてもらった。
一番多い答えは「何も知らない」だった。(p18)
植物学者ロビン・ウォール・キマラーが驚いたこのアンケート結果は、わたしにとって意外なものではありませんでした。
率直に言ってわたしも「何も知らない」一人でした。
わたしは自分の病気について調査するうち、根本的な原因は自然界から切り離しにあるのではないか、と考え始めました。だから自然と調和した生活に戻りたいと思いました。
でも、どうやったら自然と調和した生き方ができるのでしょうか。自然セラピーや森林セラピーがいいと言われますが、ただハイキングや森林浴に行けば、それでいいのでしょうか。
まったく見当もつきませんでした。わたしだけでなく、現代社会に生まれた大勢の人もそうだと思います。
いったい誰が、自然と調和して生きる方法など教えてくれたでしょうか。学校の先生は身近な動植物の扱い方を教えてくれたでしょうか。教科書には自然を壊すことなく共生する秘訣が書いてありましたか。
いいえ。それよりも、人間が自然に触れるなら環境が破壊される、自然を人間の活動から保護しなければならない。そんな両極端しか教えられてこなかったのではないでしょうか。
でも、最初からそうだったはずはありません。たとえば、ネイティブアメリカンは、森や動物に深い敬意を抱いて、自然と調和した生き方を貫いていました。
その人たちの考え方や自然との接し方を学ぶにはどうしたらいいでしょうか。もう失われてしまったので手遅れでしょうか。
そんなことはありません。現代でもその知恵は語り継がれていました。科学者でありながら、ネイティブアメリカンの血筋と感性を受け継いだ作家でもあるロビン・ウォール・キマラーによる、植物と叡智の守り人という本を通して。
自然とふれあって、心と身体を癒やしたいけれど、方法がわからない。自然を愛する感性を持ちつつも、自然界からあまりに遠ざかってしまったせいで自然との接し方がわからない。
そんな人にこそ、この本をぜひ読んでほしいと思って、この記事を書くことにしました。
もくじ
これはどんな本?
植物と叡智の守り人は、植物学者ロビン・ウォール・キマラーによる、自然と暮らすためのエッセイ集です。
わたしは今までたくさんの本を読んできたつもりです。でも、こんな美しい本は読んだことがありませんでした。枕もとに置いておきたくなるような、心温まる本です。
森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書) などの著書で有名な、イギリスの霊長類学者ジェーン・グドールが、この本にこんな献辞を寄せています。
ロビン・ウォール・キマラーは、この非凡な本の中で、事実主義的・客観的な科学の考え方が、先住民に古くから伝わる知識によっていかに豊かなものとなり得るか示してみせる。
私が何よりも好きなのは、彼女の美の描き方だ―巨大なシーダー、野生のイチゴ、雨に濡れる森やかぐわしいスイートグラスの草原の心象は、この本の最後のページを読み終わっても長くあなたの心にとどまることだろう。
この献辞のとおり、ロビン・ウォール・キマラーは科学の知識とネイティブアメリカンの伝統を融合させました。それは、彼女自身が、ネイティブアメリカンの血を引く詩人であり、同時に現代科学の植物学者だからできたことです。(p49)
もともとこの本の原題は「Braiding Sweetgrass」(スイートグラスを編む)です。香り高いスイートグラス(セイヨウコウボウ)の束を三つ編みにして贈るという、ネイティブアメリカンの習慣に由来しています。
この本は、「ネイティブアメリカンに伝わる考え方と科学的知識、そして一番大切なことのためにその二つを融合させようとする一人のアニシナアベの女性科学者という、三本の糸を編んでできている」贈り物なのです。(p4)
科学と、ネイティブアメリカンの精神、そして語り手による物語。この三つをあみこんだことで、この本は類例のない深みを帯びています。
はっきり言って、わたしは彼女ほどの語り手には遠く及びません。わたしのこの記事では、この本の魅力をうまく表現できません。
でも、こうして記事を書くことで、一人でも多くの人が、この本を読んでくれたら。ただそれだけを願って、紹介記事を書いています。
「種の孤独」―独りぼっちの人間
現代社会に生きるわたしたちは、かつてないほど「孤独」になっていると言われます。
地球の裏側の人間とも、瞬時に対面して会話できるような通信手段があります。SNSなどのコミュニケーション手段も豊富です。にも関わらず、孤独です。
同じ家の中にいながら別々の電子機器に夢中になっている家族はAlone Together(一緒にいるのに孤独)と呼ばれます。
都会に住んでいたら近所の人と会話さえしないのも普通です。年配者の孤独死もありふれています。
でも、わたしは人間同士のつながりの希薄さという孤独より、もっと厄介な孤独があると思っています。
それは、ともに地球上に生きている隣人である、動植物のことを何も知らないという孤独、哲学者が「種の孤独」と呼ぶものです。
現代社会に生きる人間は、「種の孤独」、他の生き物たちとのつながりを失ってしまった、という大きな悲しみを抱えていると言われる。(p450)
都会で育ったわたしもそうでした。身近な動植物の名前なんて全然知りませんでした。足元にある草の名前は? もちろん知りません。
いえ、「知らない」ではなく、そもそも存在に「気づかない」のです。
あなたの子どもには自然が足りない に書かれているように、種の孤独においては、名前を知らないということは、存在を知らない、さらには価値を知らないということです。
いたるところに、しみか汚れのようなブルドーザーの痕が残っている。保護されていると思われているところでさえも、同じだった。
「こういう生態系の破壊はたいがい、私利私欲と無知からなされるんです」
彼女によれば、人々は名前を知らないものには価値を認めない。
「植物の名前を知るたびに何か新しいものに出合った感じがする、と言った生徒がいたわ。名前をつけるということは、その存在を知ることなのよ」(p60)
同じ地球に生きる隣人たちの名前を知らずに育ったわたしたちは、その大切さに気づけなくなりました。そして、自分たちの便利な生活のために自然をないがしろにしてきました。
大都会に住んでいて、この話を読んでいる人のなかには、「確かにそうかもしれない」と思う人もいれば、「あまりピンとこない」という人もいるでしょう。
わたしは自分の体験から断言しますが、どちらの人も、たぶん自分たちが種の孤独に陥っているという感覚を、本当の意味でわかっていないと思うのです。
わたしがそうだったからです。わたしは自分にもっと自然が必要だと思って大自然の中に引っ越しました。それでも、自分が種の孤独に陥っているなどとは思っていませんでした。
ところが、夜に野原を散歩して驚きました。数え切れない星が降り注ぐ夜空の下に、名も知らない無数の虫たちのコーラスが響いていました。キタキツネやオオジシギや、正体のわからないさまざまな動物の息遣いがありました。
わたしは音過敏ですが、不快さは少しもありませんでした。恍惚とするような心地よい時間でした。わたしはコンクリートジャングルの死の砂漠から、生き物たちの地球に戻ってきたのです。
そこにいる動物、植物、そして自然界のあらゆる生き物の数と存在感に圧倒されました。数え切れない無数の生命がそこにあります。都会にはなかったものです。
都会には歌を奏でる無数の生命の代わりに、無機質な人工物がひしめきあっています。人間以外の生き物の気配を感じることはめったにありません。
こればかりは、自分の身体感覚で、味わってみなければわかりません。
文字通りの孤独を癒すのが人とのふれあいであるならば、種の孤独を癒やしてくれるのもまた、身体感覚を通してのふれあいなのです。
奇しくも、キマラーは、植物と叡智の守り人に、わたしが体験したのと同じことを書いていました。
彼女は、自然界の歌声を聴くために、また自分が独りではなく、自然界のあらゆる生き物とつながっているのを感じるために森の中に足を運びます。
私はここに、「聴く」ためにやってくる。
木の根が作るまあるいへこみに積もったやわらかな松葉に抱かれ、ホワイトパインの幹に寄りかかり、頭の中の声が消えれば、周りの音が聞こえてくる。
松葉を渡る風の囁き、岩を滴り落ちる水の音、ゴジュウカラの足音、シマリスが何かを掘っている音、ブナの木の実が落ちる音、耳元の蚊の羽音、そして―私ではない、それを表す言葉を私たちは持たない何かの音。
それは名前のない、私たち以外の存在が奏でる音で、その中にいるとき私たちは決して一人ではない。
母の心臓の鼓動の音に次いで、それは私が最初に耳にした言語だった。
一日中だって聴いていられる。一晩中、夜が明けるまで。(p70)
森の中で、ありとあらゆる生き物の息づかいに耳を傾けるとき、彼女は、「決して一人ではない」と感じることができます。わたしがそうだったように、一晩中だって聞いていられるような心地よさに満たされます。
孤独に悩まされる現代人に必要なのは、これではないでしょうか。
現代人は、地球の裏側とでも対面して通話できるような手段をたくさん持っています。ありとあらゆるコミュニケーションツールを駆使できます。
でも、現代人の大半が持ち合わせていないものがあります。「名前のない、私たち以外の存在が奏でる音」に囲まれた空間、地球のあらゆる生命とのつながりを感じられる場所がどこにもないのです。
以前の記事に書いたように、WHOの報告によると、2008年以降、人類の半数以上が都市に住むようになりました。発展途上国の人たちも、人口ひしめき合う都市にかたまって住んでいます。
そこに、孤独を癒やしてくれるような、生き物たちの声があるでしょうか。夜、戸外に出て聞こえるのは、自動車の騒音、人々の雑然とした生活音、あるいは酔っ払いが怒鳴り合う声などではないでしょうか。
「一日中だって聴いていられる」とは口が裂けても言えません。
現代社会がいかに豊かになろうとも、科学技術がいかに進歩しようとも、孤独を癒やしてくれる自然界の歌はそこにはありません。
(※ここで書いた わたしの体験は、科学的に裏付けられています。自然セラピーの科学 ―予防医学的効果の検証と解明― には、こうあります。
自然の音は、都市の雑音に比較して心理的ストレスから心身が回復する速度を最大で37%速めることがわかっている。
様々な景観の写真と、それに組み合わせる音の有無による印象の違いを調べたイギリスの研究では、生物多様性が高い景観では雑音レベルが高くても耐えられるとの結果が出ている。
我々人間は、中程度の音圧レベル(65-70デシベル)の雑音(ノイズ)を好み、たとえば岩の上を流れていく小川や木々の間を吹き抜ける風のように、重なり合うフラクタル的な複雑さをもつ音を好む。
心理的な効果は植生面積の増加とは関係なく、生物の多様性が上がるほど強くなるという研究は、自然の量よりも複雑さや融合性といった質のほうが意味をもつことを教えてくれる。(p147)
わたしが都市の騒音には過敏なのに、夜の草原で奏でられる多様な生き物のオーケストラには心地よさを感じるのは、この理由によるものでしょう)
生まれながらの孤児―親の名前も知らない
人類は、自分たちを地球の生態系から切り離しました。あらゆる生物たちと共に暮らす生き方を捨て、自分たちだけ固まって住む都市を作り上げました。
その結果、自然界の隣人たちと疎遠になりました。もはや、足元の草花の名前すらわかりません。
身近な生き物の名前も、動植物との接し方もすっかり忘れていきました。今や動植物の名前を知っているのは、一部の学者や自然愛好家だけです。
その彼らとて、自然界を単に研究対象やカメラの被写体としてしか見ていないかもしれません。名前は知っていても、親しみをこめて接しているとは限りません。
かつてのネイティブアメリカンや、アイヌ民族のような人たちは違いました。身近な植物の名前や役割をすべて知り、自然をとても大切にして敬っていました。
最近、アイヌ植物誌 という本を読んでいます。アイヌの人たちが、自分の生活圏にある植物や樹木すべてを知っていて、それぞれの物語、生態、使い方に至るまでぜんぶ把握していたことに驚いています。
この記事では詳しくは触れませんが、アイヌとネイティブアメリカンの本を読み比べてみると、互いの価値観がそっくりなことに気づきます。どちらも自然を神からの贈り物だとみなし、親しみと敬意をこめて接していました。
現代社会のありさまはそれとは対照的です。
たとえば、近所の公園に生えている木の名前がぜんぶわかる大人がどれだけいるでしょうか。
子どもにあれはなんの木?と聞かれたとき答えられますか。その木にまつわるエピソードや木の実の使い方を説明できますか。
あなたの子どもには自然が足りない によると、2002年のイギリスの調査では、平均8歳の子どもたちは「自分たちの住んでいる地域の生物を見分けるよりも、…ポケモンのキャラクターを見分けることのほうが得意」でした。(p51)
わたしもポケモン世代だったので、確かにポケモンを含め、ゲームキャラクターの名前をたくさん覚えていました。身近な動植物の名前はぜんぜん知らないのに、です。
ポケモンの名前を知るのは別に悪いことではありません。でもそれらは架空の存在で、わたしたちの生活に何も関係していません。
動植物は違います。どれだけ自然界から切り離された生活をしていても、わたしたちはそれらの動植物から作られた食べ物で生き、それらの樹木で作られた製品や家に養われているのです。
まず、現実の存在、わたしたちを日々養ってくれている自然界の隣人たちの名を知るべきではないでしょうか。
キマラーは、植物と叡智の守り人の中で、そのことを嘆いて、こう書いています。
ほとんどの人は、私たちの縁者であるこれらの木の名前を知らない。それどころか、ほとんど目にすることさえない。
私たち人間は、名前を使って相手との関係を形作る―人間同士だけではなく、この世界との関係を。
自分の身の回りの植物や動物の名前を知らないまま生きるというのはどんな感じか、私は想像しようとする。
私の性格や仕事からして、そんな生き方は知る由もないが、それはちょっと恐ろしくて、自分がどこにいるかわからないような感じなのではないかと思う。
ちょうど、道路の標識が読めない外国の街で道に迷ったときのように。
哲学者は、孤立して他者とのつながりを失ったこういう状態を「種の孤独」と呼ぶ―周りの生き物たちから遠く離れてしまったこと、関係性の喪失からくる、深い、名前のない悲しみだ。(p266-267)
キマラーは、子どものときからネイティブアメリカンの文化で育てられ、植物学者として活動しています。
だから、「自分の身の回りの植物や動物の名前を知らないまま生きるというのはどんな感じか」わからないといいます。
わたしは逆に、子どものときから知らないのが当たり前でした。それはキマラーが想像した「自分がどこにいるかわからないような感じ」を通り越した状態です。
道に迷って、独りぼっちであることさえ気づくことのできない状態、「深い、名前のない悲しみ」を抱えながらも、それを意識することができない、感情的な麻痺状態です。
わたしだけでなく、現代社会の大半の人がそれに陥っています。
あなたの子どもには自然が足りない に書かれているように、あまりに自然界から遠ざかりすぎて、自分たちが何を失ったかさえ、もうまったくわからなくなっているのです。
農場育ちの、口数の少ない父親が話しだした。
「私が子供だったころは、誰でも一日じゅう外にいたものです。
どっちの方角へ行っても建物はないんですから。だから、畑や森や小川にいたものです。
ここではもうそういうことはありませんね。オーバーランド・パークは今じゃ大都市ですよ。
子供たちは何かを失くしたわけじゃないんです。だって初めから持っていないんですからね」(p28)
初めから持っていないのなら、どうして失くしたことに気づけるでしょうか。生まれながらの孤児は、どうして親を失った喪失感に涙を流せるでしょうか。
わたしを含め、現代社会に生まれた子どもたちは、生まれる前に、母なる自然から引き離された孤児なのです。だから親の名前も知らなければ、存在さえ考えもしないのです。
名前を知るよりも大切なこと
では、どうすれば、自然界とのつながりを取り戻せるのでしょうか。身近な動植物の名前だけでなく、その存在すら知らないという種の孤独から、どうすれば抜け出せるでしょうか。
わたしは最近、身の回りの植物を観察してスケッチするようにしています。最初は写真に撮っていましたが、ビアトリクス・ポターの例に倣ってスケッチするようになりました。
ただ写真に撮るのと違って、スケッチしてみると、いかに自分がよく観察していなかったかに気づきます。花の形、構造、葉の色合い。写真に撮っているときは全然気づかなかった美しさや巧みさに気づきます。
また、最近は、Google Lensのようなアプリがとても高機能なので、野外で見つけた植物の名前を瞬時に調べることができます。大方、正解に近い答えを教えてくれるので、名前を調べるのは容易です。
こうしてひとつひとつの動植物を観察すると、はじめてその存在を認知します。「植物の名前を知るたびに何か新しいものに出合った感じがする」と言っていた、さっきの生徒の言葉が身にしみて理解できます。
身の回りには、こんなにおもしろく、興味深い隣人がたくさんいた。それなのにわたしは今まで何も知らなかった。そして知らないがために、注意を向けることさえしなかった。そう思うとぞっとします。
新しい動植物の名前をひとつ知るたびに、日常を探検に変える――ナチュラル・エクスプローラーのすすめの著者、探検家トリスタン・グーリーのこの言葉に、心の底から共感します。
わたしは考えはじめた。あの草地でどのくらいの時間を過ごせば、
自分の周囲のあらゆるものを知ることができるのだろうか。 そこで
はたと思った。そのレベルの感性に到達するころには、周りのあら ゆるものが変わってしまっているだろう。 …仮にある一点に、その
場所を肌で知るのに充分な時間とどまっていたとして、一年を通じ てその場所を知るためには、どのくらいの時間かかるのだろう。( p289)
身の回りの自然界には、知らないものがあまりにも多すぎるのです。それこそ、気が遠くなってしまうほどに。
でも、名前を知るだけで自然界とのつながりを取り戻せるわけではありません。
名前を知ることはもちろん大切です。でもそれ以上に大切なことがあります。自然界の動植物を隣人として知るということです。
友だちのことを知るには名前だけでは足りません。その人となりを知る必要があります。自然界という、わたしたちの大切な隣人の場合も、それは同じです。
キマラーは、植物と叡智の守り人の今さっき引用した文脈でこう書いています。
いったん学名をつけた生き物に対しては、それが何者なのかをそれ以上知ろうとしなくなる人がいることに私は気付いている。(p266)
大切なのは驚嘆すべきものの源に名前を付けることではなくて、驚嘆し、畏怖する気持ちそのものなのだと。(p284)
沈黙の春で有名な海洋生物学者レイチェル・カーソンもセンス・オブ・ワンダーでこう書いていました。
いろいろなものの名前を覚えていくことの価値は、どれほど楽しみながら覚えるかによって、まったくちがってくるとわたしは考えています。
もし、名前を覚えることで終わりになってしまうのだとしたら、それはあまり意味のあることとは思えません。
生命の不思議さに打たれてハッとするような経験をしたことがなくても、それまでに見たことがある生きものの名前を書きだしたりっぱなリストをつくることはできます。(p47)
生き物の学名や構造に詳しい学者は大勢います。でも、彼らが自然を親しい友だちのようにみなし、自然界と調和した生活を送っているかといえば、そんなことはありません。
学者たちは「生きものの名前を書きだしたりっぱなリストをつく」ったりするかもしれません。そんな学者が作った図鑑がきっと、近所の図書館にたくさん並べてあるでしょう。
ペラペラめくってみて、楽しい、おもしろいと思えますか?
わたしは思いません。もちろん科学的な視点や研究も大事です。でも、難解な学術用語で動植物の外見の特徴を列挙しているだけの本は、動植物それぞれの人となりについてはほとんど教えてくれません。
名前を知ることと、「生命の不思議さに打たれてハッとするような経験」をすることはまったく別です。
コミュニケーションの第一歩は名前を知ることです。でも、それは始まりにすぎません。名前を知ることで、やっと相手を認識できます。友だちになるスタートラインに立ったということです。
興味深いことに、日本の植物学者の先駆けである、牧野富太郎も、そのことをよく知っていました。
彼は、専門書などない時代に自然を研究しました。ただ知識を詰め込むことではなく、友になることによって。牧野富太郎植物記〈1〉野の花 でこう書いています。
植物となかよしの友だちになるためには、まずその植物の名前を知ることです。
…わたしは何度もこの友だちにあいにいって、花のしくみや、葉の形、実のすがたなどをこまかくしらべ、しっかりと頭におぼえこみました。
…人生をゆたかに、心楽しく暮らすには、大自然を友とする人でなければなりません。
散歩をしていても、道ばたに咲いている草や、林のなかにしげっている木が、みな自分の知り合いだったら、どんなに心楽しいことでしょう。(p7)
これが目指すべきところです。自然と接する目的は、ただ検定試験に受かるために知識を詰め込むことではなく、自然界と親しくなって、心許せる友のような関係になることなのです。
そうすれば、わたしたちは、母なる自然から切り離された孤児ではなくなります。「関係性の喪失からくる、深い、名前のない悲しみ」から解放され、「みな自分の知り合い」になることでしょう。
それでは、どうすれば、名前や構造をただ知ることを越えて、自然界の動植物と友だちとして親しくなることができるのか。
それには、実際に自然界の隣人として生活していた民族に手引きしてもらうのが一番でしょう。彼らの考え方にふれるとき、今や失われてしまった自然との接し方を学べるはずです。
ロビン・ウォール・キマラーは、植物と叡智の守り人の中で、たくさんのエッセイを通して、ネイティブアメリカンの考え方を伝えています。
そのぜんぶで30ほどあるエッセイの中で、わたしが一番感銘を受けたのは、「生命あるものすべてのための文法」という章でした。だから、ここからは、その内容にしぼって、紹介したいと思います。
「一夜にしてキノコを土から立ち上がらせる力」
「生命あるものすべてのための文法」という章では、いまやネイティブの話者が9人しかいなくなってしまった、ネイティブアメリカンのポタワトミ語について書かれています。
キマラーは、ポタワトミ語は、科学者たちが用いる言語の対極にあると紹介しています。どういうことでしょうか。
さっき書いたように、学者が編纂した動植物の図鑑は、難解な言葉で理解しにくいことが少なくありません。植物図鑑なら、「葉は奇数羽状複葉で、花序は穂状」といった具合です。
キマラーは植物学者なので、こうした用語をよく理解していますが、科学者たちの用いる言語をこう評しています。
私は科学で使われる言語を身につけた―念入りな観察に基づき、小さな部位の一つひとつに名前を与える詳細な語彙。
…今では私の第二言語となったこの言語の長所を、私は高く評価している。
けれど、豊かな語彙とものごとを描写する高い能力を備えながらも、そこには何かが欠落している―
自然に耳を傾けるとき、あなたは自分の周りに、そして自分の中に、その何かと同じものが湧き上がるのを感じるのだ。
科学はときに、一つの存在をバラバラの部品に分解してしまう、よそよそしい言葉だ。物体のための言語なのだ。(p70)
科学の言葉は「よそよそしい言葉」「物体のための言語」です。
たとえば、だれかがあなたにこう言ったとしましょう。
「君の長卵形の顔には、淡褐色の虹彩の眼球が一対あり、その下の三角状の鼻には鼻孔が2つ横に並んでいて…」
たとえ正確な描写だったとしても、聞いていられないでしょう。モノ扱いされていて、「一つの存在をバラバラの部品に分解して」いる、一人の人間として扱われていないことがわかるからです。
科学の言語は、身の回りの動植物を、モノとして扱います。たとえ正確でも、生きている存在に対する敬意や感情はすべて廃されています。
科学者たちが問うのは、「あなたは誰?」ということではなくて「それは何なのか」だった。
植物に向かって「あなたは何を教えてくれるの?」と訊く者などいない。一番重要な問いは「それはどのように機能するか」ということなのだ。(p62)
ポタワトミ語は違います。
キマラーはネイティブアメリカンの子孫ですが、過去の非道な同化政策の影響で自分の部族の言語を教えられることなく育ちました。
彼女が、ポタワトミ語に触れたのは大人になってからです。最初に知ったのは「プポウィー」という言葉でした。
朝になると、私には何も聴こえなかったのに、前の晩にはそこになかったキノコが生えている。
乳白色のそのキノコは、松葉の腐葉層からにょっきりと、暗闇から光の中に顔を出して、途中でついた水滴がまだキラキラと光っている。
…失われた言葉を私が最初に味わったのは、プポウィーという言葉を口にしたときのことだ。
アニシナアベの民族植物学者、キーウェイディノクウェイが書いた本の、ネイティブアメリカンに伝わるキノコ類の使い方に関する論文の中でたまたまこの言葉を見つけたのである。
それによれば、プポウィーを訳すと「一夜にしてキノコを土から立ち上がらせる力」となる。(p71)
ネイティブアメリカンもまた現代科学者と同じく、自然界を深く観察していました。
でも、彼らが作り出した言葉は、科学の言語とはまったく正反対のものでした。キマラーはその違いをこう指摘します。
植物学者として、私はそんな言葉が存在することに驚いてしまった。
専門用語の豊富な語彙を持ちながら、西洋科学にはそんな言葉はない―この不思議な現象を表す言葉はないのである。
生物学者こそ、生命を表す言葉を他の誰よりも持っていそうではないか。
ところが科学の用語というものは、私たちが知っていることの限界を定めるために使われるのであって、私たちに理解できないことには名前は付かないのだ。(p71)
ここが、科学の言語と、ポタワトミ語の最大の違いです。
科学の言語は、自然界の動植物を生命ではなくモノとして見ています。バラバラに分解してピンセットと顕微鏡で観察し、客観的で味気ない語彙にまとめます。正確さを重視するために、生命を取り去る言語なのです。
それに比べて、ポタワトミ語は、自然界を生きた隣人として描写します。ちょうどわたしたちが自分の子どもや恋人について生き生きと描写するように、生命がもつ不思議さと美しさに最大限の敬意を払う言葉なのです。
わたしたちが自然とのつながりを本当に取り戻したいなら、科学ではなくポタワトミ語のような観点から自然を味わわねばなりません。
モノではなく、ともに地球に生きる隣人、友人として接します。そうしてはじめて、自然を家族のように大切にしたい、恋人のようにもっと知りたいという気持ちが湧き上がってくるのではないでしょうか。
探検家トリスタン・グーリーは、ナチュラル・ナビゲーション: 道具を使わずに旅をする方法 の中で、そうした観察の仕方を「五感をチューンする」と言い表しています。
学者のように自然界を観察して細ぎれに分解してしまうのではなく、「ただばらばらに存在していた光や空気、音や匂いがひとつながりの意味をもって自分の中へ入ってくる感覚」を楽しむのです。(p308)
「丘る」「赤る」「長い砂浜る」―70%が動詞の言語
「プポウィー」のような独特な語彙をもつポタワトミ語は、文法からしてユニークです。わたしたちがよく知っている英語や日本語とは全然違います。
植物と叡智の守り人によると、もうたった9人しか残っていないポタワトミ語のネイティブ話者の一人は、こう言ったそうです。
「言葉は私たちの文化の心。私たちのものの考え方も、世界観も、その中にあるの。
この世界は美しすぎて、英語では説明できないのよ」(p73)
ポタワトミ語は、英語のような今日の言葉では説明できない、自然界の美しさを表現できる言語なのです。どういうことでしょうか。
英語とポタワトミ語の目立った違いは、その語彙の種類にあります。英語は名詞が多いのに対し、ポタワトミ語はほとんどが動詞なのです。
英語というのは、物のことばかり考えている文化にはふさわしい、名詞を中心とした言語だ。英語の語彙のうち動詞は30パーセントにすぎない。
ところがポタワトミ語では70パーセントが動詞である。
つまり70パーセントの言葉は動詞活用しなければならず、70パーセントの言葉については時制と格の変化を覚えなくてはならないということなのだ。(p77)
単語の7割が動詞? さすがにそれは日本語を話すわたしたちでさえびっくりします。日本語は動詞が多い言語と言われますが、それでも名詞より多いということはありません。
名詞と動詞の割合が逆転しているのは、わたしたちの文化では名詞としてとらえているものが、ポタワトミ語では動詞になっているからです。
キマラーはポタワトミ語を学びはじめたときのことを回想し、その奇妙な語彙に混乱して、投げ出したくなったと述べます。
頭の中がごちゃごちゃになって、一生懸命になればなるほどそれはひどくなった。ぼやけていく文字の中に、一つの言葉が見えた。
もちろん動詞だ―「土曜日る」。
フン!と私は辞書を投げ出した。いったいいつから「土曜日」が動詞になったのよ?「土曜日」は名詞に決まってる。
再び辞書を手に取って頁をめくると、他にもいろいろな動詞があった―「丘る」「赤る」「長い砂浜る」、そして「入江る」。
「ばかみたい!」と私は頭の中でわめき散らした。
「こんなに複雑にする必要がどこにあるの。どうりで話す人がいなくなるはずよ。こんな言語、面倒くさいし覚えられやしない。
それより何より、間違ってるじゃない。入江っていうのは、人の名前か場所を指すに決まってる―名詞よ、動詞じゃない」(p78)
ネイティブアメリカンの血を引くキマラーも投げ出しそうになりました。「土曜日る」「丘る」「長い砂浜る」「入江る」。日本語にもありえない単語ばかりです。
現代のわたしたちの文化からすれば、複雑すぎて意味がわかりません。名詞で説明できるものをわざわざ動詞にして活用変化させる。効率の悪い無駄だらけに思えます。
でも、ちょっと待ってください。ややこしさを押してまで、わざわざそんな構造になっていることには大切な理由があるのではないでしょうか。
現代人は効率を重視するあまり、無駄を削ぎ落とそうとします。そんなときに決まって失われるのは、創造性、芸術的感性、遊び心といった豊かな世界です。その最たるものが効率だけに偏った科学の言語です。
ならば、ポタワトミ語はなぜ動詞だらけなのか。効率よりも大切な、どうしても表現したい何かがそこにあったからではないか。
「この世界は美しすぎて、英語では説明できないのよ」。
投げ出そうと思ったその瞬間、キマラーはポタワトミ語の真髄を理解しました。
そのときである。誓って言うが、頭の中でシナプスがビシッと音を立てて発火したのを感じたのだ。電流が私の腕を通って指先から流れ出し、その言葉が載っている頁が焼け焦げそうなほどだった。
その瞬間、入江の水の匂いがし、岸に水が打ちつけるのが見え、砂浜に打ち寄せる波の音が聞こえた。
入江が名詞なのは、水には生命が宿っていないと考えるからなのだ。入江が名詞だと考えると、それは人間に定義されてしまう。周りの岸に吸い込まれ、その言葉の中から出ることはない。
だがwiikwegamaa、「入江る」という言葉には、今この瞬間、生きている水がこの岸と岸の間に身を寄せ、シーダー(杉)の根やアイサのヒナたちと会話しようと決めた、という不可思議さが込められている。
そうしないことだってできるのだ―小川になったり海や滝になったりすることだって。
そしてそれには別の動詞がある。「丘る」「砂浜る」「土曜日る」。
何もかもが生命を持っている世界では、それらはみな考えられる動詞なのである。
海、陸、ある一日。マツ、ゴジュウカラ、キノコに至るまで、あらゆるものの中に息づく生命、世界に満ちる生命力を映し出す言葉。
それこそが、私が森の中で耳にする言語だ。(p79)
これを読みながら、わたしの心にも鮮やかなイメージが浮かび上がってきました。
わたしが大自然のただ中に引っ越してから、ずっと心を打たれてきた風景。空に渦巻く雲が、刻一刻と形を変え、同じ景色が一瞬たりとも続かないあの感覚。
引っ越してすぐ、わたしは雨上がりの空に見事な虹を見つけ、写真に撮ろうと思い全速力でカメラを取りに行きました。でも急いで帰ってきて見上げた空からは、もうあの虹はかき消えてなくなっていました。
野原を、森を散歩するたびに、毎日、新しい花が咲き、コケや地衣類の色が変化しているのに気づきました。同じ場所なのに、同じ景色は一度たりともありませんでした。
この前の記事で 森の幼稚園 ドイツに学ぶ森と自然が育む教育と実務の指南書から引用したように、「自然環境は、人の影響を介さずに、
わたしが経験した大自然は、確かに「動詞」でした。「名詞」ではありません。
一方、わたしが生まれ育った都会ではそうではありませんでした。都会の景色はまったく「動詞」ではありませんでした。言うまでもなくビルや人工物は季節が移ろっても変化しません。一年中同じままです。
ネイティブアメリカンが大自然に囲まれて生活していたころ、身の回りのものを言い表すのに、どうしても「動詞」が必要だと思ったわけがよくわかります。
そして、現代人が自然から離れた人工的な都市で暮らすようになって、「名詞」ばかりの言語を話すようになったわけも。
ポタワトミ語と、わたしたちの話す言語とで、動詞と名詞の割合が逆転していた理由はとても簡単です。それは単に、住んでいる環境を反映していたにすぎないのです。
ポタワトミ語は、常にダイナミックに移ろい変わる、生命に囲まれた世界に暮らす民族の言語です。
そして現代の英語や日本語は、生命のない、人工的な無生物のモノだらけの世界に暮らす人たちの言語なのです。
「生命あるものすべてのための文法」
英語や日本語が「名詞」を中心に世界をとらえるのは、身の回りにある自分たち以外の存在を、動くことも変化することもないモノとみなしているからです。
ポタワトミ語が「動詞」を中心に世界をとらえるのは、身の回りにある自分たち以外の存在を、動き、変化しつづける生命とみなして、敬意を払っているからです。
たとえば、英語では、わたしたち人間は「彼」や「彼女」と呼ばれ、生きた存在として扱われます。でも、人間以外のものは「それ」と呼ばれます。モノ扱いです。
英語には、生命あるものに対する敬意を表すツールがあまりない。英語では、あなたは人間か、さもなければ物である。
英語の文法では、人間以外の存在を「それ」という「物」に矮小化するか、あるいは「彼」また「彼女」という不適切な性別分けをしなければならない。(p80)
英語でも、例えばペットのイヌやネコなどは、「彼」や「彼女」と呼ばれるかもしれません。
でも、他の大多数の動物、昆虫、微生物、木々や草花は「それ」です。つまり、テレビや自動車や建物を指すときと同じ代名詞が使われます。生命のない物体と同じ、モノ扱いなのです。
日本語でもほとんど同じです。日本語では代名詞を使う代わりに固有名を使う機会が多いので、動物を「それ」呼ばわりすることは少なめかもしれません。
でもやっぱり、動物や植物はひとまとめに「それら」と呼ばれます。動物や植物を擬人化して、人のように扱うのは、絵本やおとぎ話の中くらいです。
基本的にいって「あなたは人間か、さもなければ物」なのです。
ポタワトミ語は違います。ポタワトミ語の最大の特徴は、あらゆるものを「生命があるかないか」で区別することだといいます。
ヨーロッパの言語は名詞に性別を割り当てることが多いが、ポタワトミ語は世界を男性と女性に分けることはしない。
その代わり、名詞と動詞はともに、生命があるかないかのどちらかに分かれている。
たとえば人の声を「聞く」のと、飛行機の音を「聞く」のにはまったく違う言葉を使うのだ。(p77)
ポタワトミ語では、身の回りのあらゆるものを生命があるかないかに分けます。
英語や日本語と違って、生命あるものを表す代名詞と、生命のないものを表す代名詞があります。
たとえばテーブルのような、生命のないものについては、「それは何ですか?」と訊き、「Dopwen yewe」と答える。それはテーブルです。
でもリンゴのことは「それは誰ですか?」と尋ねなければならないし、「Mshimin yawe」と答える。その人はリンゴです。(p80)
「yewe」は生命のないものを表す「それ」に近い代名詞です。
一方「yawe」は生命あるものすべてを表す代名詞で、英語や日本語に翻訳することができません。
あえて訳すなら「彼/彼女」ということになります。性別の区別がなく、両方の意味を含んでいるのです。
性別の区別がないおかげで、リンゴや樹木、草花、虫、微生物、さらには森、砂浜、川もyaweで表せます。性別の区別がわかりにくいか、そもそも性別がないものに対しても、この代名詞を用いて、生命への敬意を表せるのです。
日本語や英語を話すわたしたちは、一瞬にして「彼」「彼女」「それ」という代名詞を使い分けます。
同じように、ポタワトミ語を話すネイティブアメリカンは、一瞬にして、「yewe」と「yawe」を使い分けていました。
これが何を意味するか考えてみてください。
わたしたちは話題にしている相手が男か女かを一瞬にして区別しますが、ポタワトミ語では、相手に「生命があるかないか」を一瞬で判断するのです。
ネイティブアメリカンが、身の回りのものに、生命が宿っているかいないかを、いかに注意深く観察していたかがわかるのではないでしょうか。生命あるものに等しく敬意を払い、大切にするためです。
キマラーは、生命あるものを意味するユニークな代名詞「yawe」の意味を次のようにとらえています。
Yawe―あなた、私、彼、彼女、生きた存在を示す言葉。
生命と霊魂を宿すものに言及するとき、私たちはyaweという言葉を使わなければならない。
旧約聖書の神ヤハウェ(Yahweh)とアメリカ大陸のyaweが、どちらも敬虔な人々が口にする言葉だというのは、どういった言語学的な現象なのだろう?
内に生命を宿す、それこそまさに、この言葉の意味なのではないだろうか―創造主の末裔である、ということが。
ポタワトミ語は、話すたびに、人間が生命ある世界のすべてとつながっているということを思い出させてくれる。(p80)
yaweの語源ははっきりしませんが、もしかすると、神の名前YHWHから来ているのかもしれません。
だとしたら、この代名詞「yawe」は、ネイティブアメリカンにとって、神の力が宿っている生命すべてを敬う表現だった、ということになるでしょう。
ここで、ちょっと立ち止まって目を上げ、ネイティブアメリカンと同じ感性で、周囲の世界を見回してみてください。
あなたの周囲にあるものすべてを「yewe」(生命のないもの)と「yawe」(生命の宿るもの)に分けてみてください。
わたしの部屋の中には、ほとんど「yewe」(生命のないもの)しかありません。テーブル、PCとキーボード、コップ、絨毯、ベッド、本…。かろうじて、鉢植えの多肉植物が「yawe」(生命の宿るもの)です。
でも、窓を開けて外を眺めれば、一面の「yawe」(生命の宿るもの)に囲まれています。
わたしは森のすぐそばに住んでいます。数え切れないほどの樹木と、そこに生きる虫や動物たち、そして天空の渦巻く雲。ぜんぶ「yawe」です。
わたしはそのあまりの数に圧倒されます。それらすべてに、生命の力が働いています。それぞれの生命が彼/彼女の人生を歩み、自分だけの物語を持っているのです。(人間以外の生命について表現したいとき日本語はとても不自由です)
一方、都会に住んでいる人はどうでしょうか。
わたしもずっと大都市で暮らしていたのでわかりますが、家の中はもちろん、外に出ても、数えるほどしか「yawe」(生命の宿るもの)を見かけないのではないでしょうか。
確かに大量の人間と、ペットの犬や猫という「yawe」は見かけます。
でもそれ以外は、アスファルトの地面、電柱、家、ビル、自動車、信号機、パッケージされた商品…。見渡す限り「yewe」(生命のないもの)に囲まれています。
そこにちょっとだけ街路樹とか、雑草とか、ハトやカラスといった「yawe」(生命の宿るもの)がいるだけです。もしかしたらクモやゴキブリでさえ貴重な「yawe」かもしれません。
こうして、ネイティブアメリカンの感性を用いて、わたしたちの周囲の世界を見渡したとき、人類が、いかに生命あふれる自然界から遠く離れた死の砂漠に迷い込んで迷しまったかを実感するのではないでしょうか。まさに「種の孤独」です。
現代の科学は進歩しましたが、いまだに、「yawe」と「yewe」を分けている生命力とは何なのかは解明されていません。
生命力がただの電気的活動でないことは確かです。科学者も医者も、死んだものに生命力を与えて生き返らせることができないからです。
ひとつ言えるのは、生命力とは、わたしたち生き物にとって非常に重要な何かである、ということだけです。
であるなら、これほどまでに「yawe」に欠けた現代都市と、「yawe」に満ちあふれた大自然とでは、わたしたちに及ぶ影響がぜんぜん違っていてもおかしくありません。
見渡す限りのモノ、つまり生命力のない死んだ物体(yewe)に囲まれて生活する人と、見渡す限りの生きた生命(yawe)の囲まれて生活する人とでは、身体や心の働きが大きく変わったとしても、わたしは意外に思いません。
自然セラピーの科学 ―予防医学的効果の検証と解明― のような本に載せられているように、自然に囲まれた環境が、自律神経や免疫系に良い影響を及ぼすことを実証した科学的研究はたくさんあります。
でもそれだけでなく、わたしたち生き物にとって欠かせないエネルギー、まだ解明されていない何かが、「yawe」という言葉に凝縮されているのです。
わたしたちは生命に敬意を持たない社会に住んでいる
このネイティブアメリカンの感性を知ったあとに、改めて、英語や日本語の枠組みに戻ってくると、物足りない気持ちになります。
「この世界は美しすぎて、英語では説明できないのよ」と言ったネイティブアメリカンの気持ちがわかります。
ポタワトミ語の世界観について知ったあと、アンディという男子学生が、こんな感想を口にしたそうです。
「ちょっと待って」―この言語学的な特徴についてしきりに考えながら彼は言った。
「それって、英語を話したり英語でものを考えたりするのは、自然をないがしろにしてもいいって言われていることになりませんか?
人間以外は誰にも人格を認めないわけですよね? 色んなものを物扱いしなかったら、世の中は今と違うんじゃないだろうか?」
この概念にひどく感銘を受けたアンディは、目が覚めたみたいな気がすると言った。目を覚ましたというより、思い出したのだと私は思う。
世界が生命に溢れていることは私たちももうわかっているのだけれど、それを表す言語は今にも失われようとしている。(p81)
わたしたちは、ここ現代社会の文化の中で生活し、生まれたときから日本語を母語に生活しています。それ自体は、多くの点で恵まれています。
でもかつてのネイティブアメリカンのように、自然界に敬意を抱けるかというとそうではありません。現代の文化や言語の枠組みでは、自然界の生命に敬意を表すのはとても難しいからです。
さっき、わたしの感想として、「それらすべてに、生命の力が働いています。それぞれの生命が彼/彼女の人生を歩み、自分だけの物語を持っている」と書きました。なんともぎこちない文章です。
自然界の生命を「それら」とか「彼/彼女」と表現する語彙しかありません。人間以外の生命がつむぐ物語を、無理やり「人生」という言葉で表現しました。
現代文化と言語は、「人間以外は誰にも人格を認めない」という西洋文化の影響を色濃く受けています。そのせいで、無意識のうちに、気づかないうちに人間以外の生命をないがしろにしてしまいます。
英語が傲慢なのは、人間であることが、生命を持ち、敬意と道徳の対象となる唯一の方法である、ということだ。(p82)
英語だけでなく、日本語も含め、現代文化の考え方はどれもだいたい同じです。樹木や草花や虫や微生物は「それ」です。生命あるもののための特別な文法はありません。
わたしたちはそのことを当たり前だと思っていますが、ポタワトミ語のような世界観をもつ人たちからしてみれば、なんとも失礼なことです。次のたとえからわかります。
たとえば、エプロンを着けてコンロの前に立っているあなたのおばあちゃんを指して、「それはスープを作っています。それには白髪があります」と言ったら、そんな間違いを面白がるかもしれないが、やはりヒヤッとする。
英語では、家族、いやどんな人のことだろうと、「それ」とは呼ばない。そんなことをしたら大変失礼だ。
「それ」という言葉はその人から自我や家族としてのつながりを奪い、人間を単なる「もの」にしてしまう。
同様にポタワトミ語、そして先住民族の言語のほとんどは、自然界を指すのに家族を指すのと同じ言葉を使う。だって生きているものはすべて家族なのだから。(p79)
わたしたちは、あたかも、自分のおばあちゃんを「それ」と呼んでいるようなものなのです。人間以外の隣人や家族を「それ」や「モノ」とみなすことによって、敬意を抱けなくなっています。
こんにち、気候変動などの切迫感もあって、しきりに環境保護が叫ばれています。
でも、環境保護を訴える人たちの大半は、自然を「家族」として大事にするように言っていますか。それとも「モノ」として大事にするよう言っていますか。
資源を大切にしよう、水を節約しよう、森林を保護しよう、地球を壊さない持続可能な生き方をしよう。
いずれもすべて、地球の生命を、資源(リソース)とみなしています。あくまで、モノとして大事にするように、というスタンスです。
わたしたちが住んでいるのは、人間以外の生命は、すべて人間の所有物である、という「一つの生物種による独裁」社会なのです。(p83)
しかし、ネイティブアメリカンの文化では違ったはずです。
彼らにとって「生命あるもの」は、自分と同じ尊厳を持つ家族です。自然界を自分のおばあちゃんのように大切にしていました。自然界を同じ地球に生きる「家族」とみなすか、大切な資源である「モノ」とみなすかでは、全然違います。
「モノ」であれば、節約して大事にするとしても敬意を払う必要はありません。だから現代社会の人たちは、人間以外の「モノ」をぞんざいに扱います。
でも、「家族」なら、そんな扱いができるでしょうか。
木は「その人」ではなく「それ」と言うのだと教えることで、そのメープルの木は「物」になる。
自分と木の間に境界を作り、木に対する道徳的責任から自分を解放し、搾取への扉を開くのである。
生きている大地を「それ」と呼ぶことで、大地は「天然資源」になる。
メープルの木を「それ」と呼ぶならば、チェーンソーを使うことだってできる。
でもメープルの木が「彼女」ならば、私たちはチェーンソーを使うのをためらう。(p82)
もし、地球の自然を生命の通わない資源ではなく、生命の宿る家族とみなしていたら、ぞんざいに扱わないはずです。
ネイティブアメリカンやアイヌがそうだったように。
彼らは、自然を自分たちの家族や隣人とみなして、敬意を払い、贈り物をし、いたわり、感謝しました。
けれども、自然界の動植物を、人間のように、家族のように扱ってしまったら、行きすぎた環境保護活動を生むだけだ、と考える人もいるでしょう。
たとえば、植物の尊厳のために伐採を一切禁止するような。魚を痛みから保護しようと漁を禁止するような。動物の肉を食べることに真っ向から反対するような。
わたしは子どものころ、動物の肉を食べることに葛藤を覚えていました。感受性豊かな人なら、誰でも似た思いをしたことがあるはずです。
いま食べようとしている焼き肉は、ちょっと前まで愛らしい牛や豚の一部だった。それを残酷にも殺して肉を食べているのだと。
わたしは、そんな感情的な罪悪感をぬぐい去るには2つの道しかないと思っていました。罪悪感を麻痺させて、動物に感情移入などしないと割り切るか。あるいは肉を食べるのをやめて菜食主義になるか。
わたしはそう悩んだ結果、ベジタリアンを徹底していました。不殺主義に答えを求めたのです。
でも、この2つの道は、どちらも、先住民族の価値観、つまり自然と共生する価値観からはかけ離れていました。自然界と共に生き、注意深く観察すればすぐにわかります。
ネイティブアメリカンもアイヌも、動物は生きるために他の生命を奪う必要があるということを理解していました。
その生命には動物だけでなく、植物も含まれます。現代のベジタリアンのように、動物の生命を奪うことをためらいながら植物なら気にしない、ということはありませんでした。生命あるものすべてに敬意を払いました。
そして、注意深い観察によって、自然界の食物連鎖は、無節操な虐殺ではなく、互いが互いを支え合う共生関係であることに気づいていました。
だから、彼らはいつも、良識ある収穫を意識していました。ネイティブアメリカンにしてもアイヌにしても、自然界の生命を獲るときには、時間をかけて深い敬意と感謝を示します。
その敬意と感謝ゆえに、自分たちが生きるのに必要以上に獲ろうはしません。現代文化のように食べ物を捨てたりしません。貴重な生命を食べていることを知っているからです。すべて無駄なく使い切ります。
何より、自然界から奪うだけでなく、自然界を世話することで自分たちの責任を果たします。自然界には通貨はありませんが、与えられたぶんは、必ずお返しをすることによって感謝を行動で示すのです。
サウス大学の科学者D・G・ハスケルは、木々は歌う-植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学 の中で、このような考え方は、科学的事実であり、人類が生き延びるために必須のものであると書いています。
わたしたち人類もまた、その語りのうちにある―血族として、ヒトの形をとった同胞として。
耳を傾けることは だから、自分たちの、そして自分の親族たちの声を聞くことでもある。
…われわれはみんな―木々も、人間も、虫も、鳥も、バクテリアもさえも―多であってひとつなのだ。生命は、互いが互いを包含しあうネットワークだ。
この生命ネットワークは、決して慈愛に満ちた調和の理想郷ではない。
…生き延びるのは、ほかより強くて独立性の高い個体ではなく、関係性のなかに溶けこめる者たちだ。(p14)
人類はは、自然界の支配者でも所有者でもなく「親族」です。
自然界はみんなで一つネットワークです。人間だけの一党独裁は必ず破綻します。
この地球で、持続可能な社会をつくるには、自然界の他の生命たちの声に耳を傾け、「関係性のなかに溶けこめる」生き方がどうしても必要なのです。
自然との関わり方を学ぶために
でも、こうやって概略を書いたところで、単なる精神論に思えるかもしれません。現代のわたしたちは自然界と調和した生き方から離れすぎているので、先住民族たちの感覚がよくわからないのです。
この記事で紹介したのは、植物と叡智の守り人の30ほどの章のうち、序盤のたった1つの章の内容にすぎません。ほかの章では、もっとさまざまな観点から、自然界との関わり方が解説されています。
それらをすべて読んでいくと、徐々に先住民族たちの自然との関わり方が見えてきます。単なる精神論ではなく、実践のともなうライフスタイルであることも。
最後にいくつか簡単に紹介しましょう。
■三人姉妹
私が生きる中で出会った賢明な教師はたくさんいるけれど、この三姉妹ほど雄弁に、言葉ではなく葉や蔓によって、関わり合いについての知恵を具象しているものはない。(p179)
わたしたちの社会ではトウモロコシなどの作物は大規模な農場で農薬を使って機械的に作られます。でもネイティブアメリカンの社会では違いました。
その文化では、トウモロコシと豆とカボチャが「三人姉妹」と呼ばれています。トウモロコシの長く伸びた穂に、豆のつるがからみつき、カボチャの大きな葉が地面を覆います。
このとき、トウモロコシを単作で作る大規模農園ではありえないことが生じます。農薬なしで害虫がよりつかないだけでなく、収穫量も上がるのです。
作物を生命あるものとして尊重し、相互依存する三人姉妹のようにみなすとき、どんな調和を発見できるのでしょうか。
■森と共生するかご作り職人
「ほら」とジョンがその棒を私たちに見せながら言う。「苗木だった頃までの時間を剥ぎ取ったんだよ」。
そして私たちが作ったへぎ板の山の方を指しながら彼は、「それを絶対に忘れないことだ。あそこに積んであるのはこの木の生命全部なんだ」。(p185)
ジョン・ピジョンという名のネイティブアメリカンのかご作りの職人は、ブラックアッシュという木を材料にしています。
彼は木を切る前に、「森の人」である木と会話することから初めます。収穫しても構わないか、それとも収穫されるのを嫌がっているしるしがあるかを見極めるのです。
近年、ブラックアッシュの木は減っているといいます。職人たちが伐採したからでしょうか。いいえ、興味深いことに、伝統的な職人たちが減って、伐採されなくなった地域で減っているのです。
かご作り職人はブラックアッシュの森を破壊しているのではなく、逆に互いに支え合う共生関係を維持しています。生命を収穫しながら、同時に共生関係を築いている かご作り職人の生き方から何を学べるでしょうか。
■「良識ある収穫」を実践するハンター
テンはライオネルの手にかかって死ぬだろう。でもそれまでは、ライオネルにも助けられて彼らは元気に暮らすのだ。
知りもしないで私が非難した彼のライフスタイルは、森を護り、湖や川を護る。彼や毛皮を持つ動物たちのためではなく、森に棲むすべての生き物のために。
良識ある収穫とは、奪う者だけでなく、与える者をもまた支えている。(p250)
動物保護団体は、動物を殺して毛皮や肉を狩猟するハンターに敵対することが少なくありません。たしかにスポーツハンターや密猟者のような無責任な人たちは非難されるべきです。
でも、ネイティブアメリカンのライオネルについて知れば、考えが変わるでしょう。彼はハンターとして森で暮らすことにより、森の環境やあらゆる動物について、生きた知識をたくわえています。
彼は確かに動物を殺します。しかし、誰よりも動物たちを知っているので、動物たちが生きる環境を守り、世話することができます。
彼は生態系の循環サイクルそのものを体現しています。捕食者は他の動物の生命を奪います。しかし、捕食者がいなければ生態系は回らなくなり、他の動物たちも死んでしまうのです。
わたしたちは、自然界の他の動植物の生命を犠牲にしなければ生きられません。しかし、破壊したり搾取したりするのではなく、互いに支え合って共生できる、という知恵を彼から学べます。
■ガマの湿地帯というウォルマート
私は彼を元気づけようとして、「今日は湖の向こうに買い物に行くわよ!」と言う。
たしかに、湖の反対側の町には、エンポリアム・マリーンという名の小さな店がある。…でも私たちが行くのはそこではない。
ガマの生えた沼はエンポリアム・マリーンと似ている点もないわけではないが、その広大さは、どちらかと言えばもっとウォルマートに似ているかもしれない。
今日はその沼地で買い物だ。(p289)
現代社会のわたしたちは、スーパーやコンビニで買い物する以外に、生活必需品の入手方法を知りません。ある日 突然、流通やインフラが麻痺したら? 生き延びられる人がどれほどいるでしょうか。
ネイティブアメリカンなら問題ありません。ガマの湿地帯にいけば、生活に必要なものはみな手に入ることを知っていたからです。そこはさながら、自然界のウォルマートのような場所です。
キマラーに連れられて湿地帯に行った生徒たちは、生活必需品の買い物リストに書いたものを、ほとんど発見できました。iPodはありませんでしたが。
わたしたちは自然界の植物の使い方をほとんど知りません。しかし、過去の人たちは生活に必要なものは、自然界から、無料で調達できていました。その知恵と、自然界の豊かさから何を学べるでしょうか。
■レシプロシティー(お返しをすること)でつながる関係性
私有財産を基本とした経済の観点から見れば、「贈り物」には対価は支払われないから当然「無料」である。
だが贈与経済においては、贈り物は無料ではない。贈り物の本質とは、それがある関係性を築く、ということだ。
贈与経済の根底にある通貨とはレシプロシティーである。(p47)
感謝に根ざした文化では、贈り物はレシプロシティーという円を描いて自分のところに再び回ってくるということを誰もが知っている。(p482)
わたしたちは貨幣経済でなりたった社会に住んでいます。何かを得るには、代価を払って商品を買う必要があります。売り手と買い手に心のつながりはありません。
しかし、自然界と共に暮らす民族では、「贈与経済」というまったく違う価値観で成り立った社会が営まれていたといいます。
ネイティブアメリカンは、自分たちが自然界から受け取るものは、すべて無料で差し出された贈り物である、とみなしていました。代価を払わずにもらったので、自分も代価を求めずに他の人に与えるようにしました。
彼らは、レシプロシティ(お返しをすること)は義務だと考えました。まず自然がただで与えてくれた。だから感謝の気持ちを行動で表す。それによって、社会が循環していたのです。
ネイティブアメリカンが自然界から学んだ「与えること」「感謝すること」で成り立つ関係性は、現代社会の物質主義に慣れきったわたしたちにとって、とても新鮮なヒントになるでしょう。
まだまだたくさんありますが、このあたりにしておきます。ひとつでも興味を惹かれたなら、ぜひこの本を読んでみてください。
わたしたち現代人は、自然界との関わり方をもうすっかり忘れています。だから、冒頭に引用したように、環境学を専攻する学生たちでさえ、「人間と自然は相容れない」と思っています。
現代人は、自然界を守る唯一の方法は、人間が近づかないこと、保護区にして立ち入りを制限することだと思っています。そう教えられてきたからです。
科学者たちが立てた予想は、彼らが持つ西欧科学の世界観、つまり、人間を「自然界」の外側に置き、人間以外の生物種とのやり取りは概してネガティブなものだとする考え方と一致している。
彼らは、数が減少しつつある生き物を護る最良の方法は、人間が近づかずにそれをそっとしておくことである、と教えられてきた。(p209)
でもこの考え方は、人間だけが生命で、残りの自然界は壊れやすいモノだとする考え方に基づいています。
人間もまた自然界の一員であり、ともに生きる「yawe」の家族である、というネイティブアメリカンの考え方では、まったく人間の役割が変わってきます。キマラーの父はこう言っていたそうです。
人間が自然のためにしてやれる一番のことは、何もせずに放っておいてやることだと言う人たちがたくさんいる。その通りの場合もあるし、ご先祖様たちもそれはわかっていた。
だがわしたちには同時に、この土地を世話する責任もある。それはつまり、積極的に関与するという意味だということを―自然界は、人間が良い行動を取ることが頼りだということを、人は忘れがちだ。
愛しているものを柵の中に押し込めても、愛情や思いやりを示すことにはならない。関わり合いを作らなきゃいけない。(p458)
わたしたちは家族と関わる方法を忘れてしまった親のようです。まったく子育ての方法がわからない母親が、自分の子どもと どう接していいかわからず、ネグレクトしてしまうような。
もともとは自然界という「yawe」に満ちた家族の一員でした。しかし、あまりに自然から切り離された文化で育ってきたため、「種の孤独」に陥りました。
そのせいで、もはや誰も、家族との接し方がわからないようになっています。関わり合い方がわからないから、ほっておくか(ネグレクト)、破壊するか(虐待)しかできなくなっているのです。
わたしたちは生まれながらにして、母なる自然から分離保育された孤児なので、ごく当たり前の関係を築くことさえ苦労するのです。自然界に対する愛着障害の状態です。
だから、この植物と叡智の守り人のような手引きがどうしても必要です。
わたしもまた、自然から切り離された孤児であり、この本を読んでもなお、ネイティブアメリカンのような生き方や考え方からは程遠いありさまです。
それでも、何もしないよりはましです。愛着の傷を癒やし、種の孤独を脱し、再び母なる自然とのつながりを取り戻し、積極的に関わり合う方法を知るには、いちから学ばなければなりません。
科学者たちは今、人類は「六度目の大量絶滅」を引き起こしていると警告しています。ショッキングなことに、ここ40年間で世界の巨大淡水生物が約9割も減ったというニュースもありました。毎日そんなニュースばかりです。
人は名前も知らず、役割も知らないものに対して、価値を認めません。人は自然から切り離されただけでなく、取り返しのつかない破滅の道筋を歩んでいます。
ロビン・ウォール・キマラーは、それが今日の人類が抱える諸問題の根ではないかと言っています。
私たちの社会を苦しめる問題の多くは、自然界を愛する心、そして自然界から私たちに送られる愛から、自分たちを切り離してしまったことが原因なのではないのだろうか。
そうした愛こそ、傷ついた自然界や空虚な心を癒す薬なのに。(p162)
もう人類という種としては手遅れかもしれません。
けれども個人としては違います。わたしたち一人ひとりが、母なる自然とのつながりを取り戻し、自然界のすべての生命あるものに敬意を払うために。
この危機的な時代に生きる、感受性豊かな、自然を愛する人にこそ、今回紹介した美しい本、植物と叡智の守り人をぜひ読んでほしいと心から願うのです。