カウンセリングではトラウマを治療できないのはなぜか―物語ではなく経験が必要な理由

代のトラウマ研究の第一人者である、ベッセル・ヴァン・デア・コークが、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 の中で書いている次の説明は、いささか衝撃的かもしれません。

セラピストは、話すことにはトラウマを解決する力があると考え、その力に絶対的な信頼を置いている。…残念ながら、事はそれほど単純ではない。(p379)

私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。

1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。

私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321)

ハーバード大学のジョン・レイティは、GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネスの中で、ヴァン・デア・コークのこの考え方について、もっと歯に衣着せぬ言い方でこう代弁しています。

精神科医のベッセル・ヴァンダーコークは、トラウマの権威として高く評価されている。

…長年にわたって精神科医として患者を診てきたが、トラウマについて学んだことから心理療法をやめたと公言する。

彼に言わせればトークセラピーなど「むだ話」にすぎない。

…数十年に及ぶ試行錯誤の末に、彼は、体を動かすのがいいという結論に至ったのだ。(p248)

専門家も当事者も含め、これまで多くの人は、トラウマとは「心の傷」であり、傾聴によるカウンセリングや、認知行動療法のような、対話を軸とした心理療法(トークセラピー)が役立つと教えられてきました。

しかし、近年のトラウマ医学の進歩からすれば、それは「むだ話」にすぎない、と書かれています。そして、その代わりになるのは「体を動かす」アプローチでした。

いったいこれはどういう意味でしょうか。

確かにカウンセリングを受けると、いくらか気分が楽になるかもしれません。しかし会話を中心としたセラピーには限界があり、ときには症状を悪化させることもあります。

この記事では、なぜ言葉を用いたセラピーではトラウマ症状をうまく治療できず、「トラウマ記憶を物語に変える」という手法では不十分なのか、最近の脳科学の発見に照らして考えたいと思います。

そして、行動や経験を重視する身体志向のセラピーになぜ効果があるのかを、意外な観点から考察してみました。

会話によるカウンセリングの限界

冒頭で書いたように、今や、トラウマというと「心の病」であり、その治療のためには会話形式のカウンセリングなどのセラピーが必要だという考え方が一般的です。

基本的に、世の中に出ている本の内容や、テレビの報道などは、すべてその前提にのっとっているので、わたしも最初のころはそう思いこんでいました。

トラウマの治療とは、辛い過去の話を傾聴してあげること、認知行動療法のような手法で過去の認知を修正すること、言葉のやりとりの中で心の傷を癒やしていくことだと見なされています。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 によれば、こうした考え方は、1893年のフロイトと、その師であるブロイアーの研究までさかのぼります。

フロイトは談話を中心とする精神分析療法の発案者であり、彼の考え方は、現代のさまざまな形式の心理療法へと受け継がれてきました。

今日では、精神分析は影が薄くなっているものの、「談話療法」は健在であり、トラウマの話を詳しく語ることが、それを過去のものにするうえで役立つと、精神療法家はおおむね考えてきた。

それは認知行動療法(CBT)の基本前提でもあり、この療法は現在、世界中の大学院の心理学講座で教えられている。(p301)

確かに、このような治療法は、ある一定の成果を挙げてきました。会話を中心としたセラピーが、心理的負担をいくらか取り除くのは事実ですし、認知行動療法によって過敏な反応を減らすことができます。

しかしトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復に書かれているとおり、そうした言葉を用いたセラピーには限界があります。

現代の心理療法は、フロイトとその弟子たちの精神分析的アプローチか、認知行動療法的アプローチが主流となっている。

しかし、人間の苦痛を緩和するこれらの手段は、トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ。

これら従来の治療法は両方とも、トラウマに関連する一部の機能不全には確かに対処しているが、原因の根本には到達していない。(p5)

それら言葉を用いたセラピーの限界を感じてきたのは、何をおいてもまず、トラウマを負った当事者たちでしょう。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 には、2001年のツインタワービルの同時多発テロ事件のときの、こんなエピソードがありました。

2001年9月、国立保健研究所、製薬会社ファイザー、ニューヨークタイムズ社財団といった組織が、世界貿易センターへのテロ攻撃によってトラウマを負った人々への最善の治療法を推奨するための、専門委員会を設けた。

…長々しい討議のあとに委員会が推奨したのは、たった二種類の治療法だけだった。精神分析を重視するセラピーと、認知行動療法だ。

…推奨された治療法が承認されると、私たちはニューヨーカーがセラピストの治療室を訪れるのを、ただ待った。だが、ほとんど誰もやって来なかった。(p378)

同時多発テロの直後、トラウマ治療の専門家たちは、重大なトラウマを負った人たちを治療しようと、会話形式の治療法の代表ともいえる精神分析と認知行動療法を引っさげて待ちかまえていました。

しかしその思惑とは裏腹に、トラウマを負った人たちは、そうした治療法を望んでいませんでした。彼らは認知行動療法や精神分析のセラピストのもとを訪れる代わりにどこへ行ったのでしょうか。

グリニッチヴィレッジの今はもうない聖ヴィンセント病院で精神科を取り仕切っていたスペンサー・エズ医師は、生存者たちはどこに助けを求めたのかに興味を持ち、2002年の初めに医学生たちとともに、ツインタワーから逃げ延びた225人に関する調査を行なった。

自分の体験の影響を乗り越えるのに何が最も役立ったかを訊かれた生存者は、鍼治療、マッサージ、ヨーガ、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)を、この順番で挙げた。

…生存者の経験と専門家が推奨するものとに食い違いがあったことは、興味深い。

…トークセラピーへの関心が明らかに低かったことから、根本的な疑問が湧いてきた。(p378-379)

トラウマを負った人は、トークセラピーの専門家のもとへ行く代わりに、さまざまな身体志向の治療の専門家たちのもとに助けを求めていたのです。

それらの多くは、主流医学の専門家たちからは、効果の乏しい「代替治療」としか見なされていないものばかりです。しかし当事者たちは、「自分の体験の影響を乗り越えるのに…最も役立った」方法としてそれらを挙げました。

これは、トラウマの当事者たちが無学で愚かなだけなのでしょうか。本当はもっと効果的な専門医療を受けられたはずなのに、素人判断で怪しい代替治療に望みをかけ、たまたまプラセボ効果でよくなった例にすぎないのでしょうか。

もしそう考える人がいるとしたら、当事者たちを見くびりすぎです。

知識は経験に勝りません。教科書で知識を学んだだけの医者たちと違って、実際にトラウマを経験した当事者たちが、トークセラピーでは不十分だとみなすとしたら、それにはもっともな理由があるはずです。

これから考えるように、現代の脳科学は、この専門家と当事者の認識の食い違いにおいて、当事者の側の認識のほうが正しかったということを証明しています。

理解しても、感じ方は変わらない

なぜトラウマを経験した当事者たちは、会話を中心としたセラピーでは十分に効果がないと感じるのでしょうか。

その理由はたとえば、次の例からわかるでしょう。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 に出てくるミーガンは、過去の虐待のせいで、職場でちょっと注意されただけでも、無意識のうちに怖くなって萎縮してしまうことに悩まされていました。

ミーガンは、自分は危険ではないと「知って」はいましたが、身体は危険だと訴えていました。

…実際にトラウマをもつ人は、理性(mind)ではなく身体のリアリティーを体験する必要があります。

…ミーガンの場合には、単に認知的なアプローチだけでは、統合能力にある程度の変化をもたらすでしょうが、仕事で注意するたびに萎縮する反応が再活性化するならば、変化はその場限りのものになります。(p250-251)

ミーガンは「認知的なアプローチ」、つまり、従来の会話を中心にしたカウンセリングでは不十分でした。

彼女は、虐待は過去のもので、もう自分は危険ではないと認知できていました。言い換えると、頭ではわかっていました。それなのに身体が勝手に、同僚の前で萎縮するのを防げないでいたのです。

同様のことを、ヴァン・デア・コークも、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 の中で書いています。

なぜ私たちは、ただ理性に従うわけにはいかないのか。理解は助けになるのだろうか。

理性的で実行機能のある脳が上手に手助けしてくれるので、私たちは自分の抱いている感情の由来を説明できる

(「男性に近寄るとおびえてしまうのは、父に性的虐待をされたからだ」「息子への愛情表現が下手なのは、イラクで子供を殺したことに罪に意識を持っているからだ」というように)。

とはいえ、理性脳は、情動や感覚や思考をなくすことはできない

(レイプされたのは自分のせいではないと理性ではわかっていても、漠然とした脅威を覚えながら生きていたり、自分は根本的にひどい人間なのだと感じていたりする)。

なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない。(p335)

先ほどのミーガンの例と同じです。トラウマを負った人が悩まされるのは、過去の辛い体験を理性的に考えられないことではないのです。

認知行動療法をはじめ、言葉を主体としたセラピーは、この「理性的」な部分を強化する治療法です。理性を強化すれば、感情的な反応を抑制できる、という考え方に基づくものです。

冷静に、理性的に、落ち着いて思考することができれば、感情的な「心の問題」に振り回されることがなくなる、と専門家たちは信じています。

しかし現実はそうではありません。トラウマを抱える人たちは、頭ではわかっているのに、身体が反応してしまうこと、つまり「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」ことに悩まされているのです。

以前の記事でも触れたように、ヴァン・デア・コークの患者のキャシーは、ネガティブな考え方を正すよう言われたときにこう訴えました。

そう、そのとおりですよ。私は周りの人に何か悪いことが起こると、本能的に全部自分のせいにします。

それが道理にかなっていないことは百も承知していますし、もっと道理をわきまえるように先生が説得しようとすると、私はなおさら寂しくて孤独に感じるだけで、私という人間がありのままの自分でいるのがどんな感じなのか、世界中の誰一人としてけっして理解してくれないだろうという思いが裏づけられることになります」(p213)

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

キャシーは、自分が道理にかなっていない考え方をしていることを、頭ではわかっていました。しっかり認知していました。それなのに、どうやってもその傾向を変えられないことに苦悩していました。

これこそが、先ほど考えた専門家と当事者の認識の食い違いの根本原因です。

トラウマを実際に経験したことのない専門家たちは、言葉を用いたカウンセリングで混乱した感情を整理し、理性の働きを強化すれば、トラウマが引き起こす感情や苦痛はコントロールできるようになると考えるかもしれません。

しかし、実際にトラウマを経験した当事者たちは、いくら過去を冷静に認知し、考え方を変化させ、理性を強化したところで、「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」ことを身をもって体験します。

精神療法家はたいてい、人が洞察と理解に頼って自分の行動を管理するのを手伝おうとする。だが、神経科学の研究で明らかになっているように、理解の不足から生じる精神的問題はほとんどない。

…こんなコメディが頭に浮かぶ。怒りの管理プログラムに七度も参加した人が、自分の習った技法を絶賛する。

「見事といったらない。素晴らしい効き目がある―本当に頭にきていないかぎりは」(p108)

要するに、いくら認知を変えて洞察や理解を深めても、本当に必要なときには役に立ちません。本当に頭にきたときには、認知を修正して怒りを抑える方法などすっかり忘れてしまうように。

いくら考え方を変えるように言われても、うまくできないという経験を繰り返せば、自分がいかにどうしようもない意志薄弱なダメ人間かを思い知らされて落ち込むだけです。

けれども、それは実際には当人の意志が弱いせいではありません。間違っているのは、トラウマの性質を理解していない専門家のほうなのです。

ヴァン・デア・コークはそのことを認め、こう書いています。

私は、自分が受けた、理解と洞察に焦点を絞る専門教育が、自己の土台である生身の体の重要性をほとんど無視していたことに気づいた。

シェリーは、スキン・ピッキングをするのが有害なことや、それが母親によるネグレクトと関連していることを承知していたが、その衝動の根源を理解したところで、彼女がそれを制御するのを手伝ううえでは何の役にも立たなかったのだ。(P148-149)

「理解と洞察に焦点を絞る専門教育」の医療ではなぜシェリーの問題を解決できなかったのでしょうか。

無意識の身体の反応は意識よりも速い

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケア では、トラウマの性質を考えるにあたり、有名なベンジャミン・リベットの研究が引き合いに出されています。

神経外科医でありカリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部の神経生理学者でもあるベン・リベットが30年間にわたって行った一連の研究は、多くのことを示してくれているにもかかわらず、あまり知られていない。(p374)

このリベットの実験は、いわゆる「人間には自由意志があるかないか」という論争において、頻繁に引き合いに出されます。ネット上でも、「自由意志 リベット」で検索すれば、この実験の詳細な説明はごまんと出てきます。

この実験が「あまり知られていない」と言えるのは、それが自由意志の問題だけでなく、トラウマの性質を考える上でとても重要な事実を明らかにしている点です。

リベットは簡単に言えば、わたしたちの意志による決定と、身体の反応のどちらが先に生じているかを計測しました。その結果、何がわかったでしょうか。

脳の活動が、行動の決意を認識するよりも約500ミリ秒の(1秒の半分!)前に始まったのだ。

意識的な決意は、行動の原因となるにはあまりにも遅すぎる。

これはまるで、意識が単なる後知恵、つまり「自分に対する説明」の方法であって、行動は意識によって引き起こされるわけではないかのようだ。

…ヒトは、脳が無意識的に行動の準備を整えた後、ようやく行動を決意するのだ。(p375)

わたしたちは、まず自分の頭で考えて、それから体が行動している、と思い込んでいます。

しかし実験によると、それは逆でした。驚くべきことに、まず身体の生理的な反応が0.5秒先立っていて、それから意識が判断を下していたのです。自分の行動を内省できるようになるのはさらに後です。

トラウマの当事者たちが感じていた「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」理由がここにあります。

わたしたちは意識的に判断して行動しているわけではありません。理性で認知するよりも先に「脳が無意識的に行動の準備を整え」ています。

頭で考えるより身体が反応するほうが先なので、いくら理性的に認知したところで「あまりにも遅すぎ」て間に合わないのです。

別の記事で考えたように、今やトラウマとは、「心の傷」でも感情的な問題でもなく、身体に記録された条件反射だということがわかっています。

原因不明の身体症状に苦しむ人のための「記憶」の科学の10の考察
全身に散らばる原因不明の身体症状の謎を、記憶の科学から読み解きます

条件反射というと、パブロフの犬の研究が有名です。何か特定の刺激を感じると、意識するよりも早く、身体が無意識のうちに反応してしまう、という現象です。

わたしたちの身体は、ショッキングな体験をしたとき、そのときの反応を、この条件反射として記録します。それは次に同じ状況が生じても、とっさに身を守れるようにする、という生物的な理由からです。

しかし、この条件反射のせいで、うっすらとでも危険を感じるような状況に出くわすと、とっさに無意識のうちに身体が反応してしまうようになります。この無意識の反応に振り回されるようになってしまう状態が「トラウマ」です。

確かに、理性的思考を強化すれば、トラウマを負った人は、ある程度、不合理な行動や、過敏な反応を変えられるようになります。

わたしの友人が、認知行動療法とは、ネガティブな感情が湧いてきたとき、ちょうどキーボードの「変換キー」を押してポジティブな思考に変換するようなものだ、と言っていたのを思い出します。

たとえば、自分は無価値で惨めだ、というネガティブな感情が湧き起こってくるとき、そう思ってしまうのは子ども時代のトラウマのせいにすぎないのだ、と自分に言い聞かせて「変換」できるかもしれません。

また自分がだれかに殴りかかりそうになったら、衝動に身を任せるのではなく、その場から立ち去ることを理性的に選び、行動を「変換」できるようになるかもしれません。

しかしそれが根本的な解決にならないのは、おおもとにある感じ方そのもの、つまり理性的な思考よりも先立って無意識のうちに生じる、身体の生理的な反応を修正できないからです。

変換キーを押す以前に、毎度毎度、自動的にネガティブな感情が打ち込まれてしまうという不具合そのものは変えることができません。

ネガティブな感情が湧き起こってきたとき、理性的に合理的に考え直して、認知を修正できるようになるかもしれませんが、無意識のうちに湧き起こる無力感や衝動そのものは変えることができません。

その結果、理性的思考ができるくらい元気なときは、自分の行動を表向きコントロールできるかもしれませんが、いつも自分を監視する必要があるので、普通の人の何倍も疲弊していきます。

そして、いったん意志の力が途切れて、理性を働かせられなくなってしまうと、元のもくあみになります。

たとえば、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 が述べているように、ひとたび自宅に帰って緊張の糸が途切れると、荒れたり、落ち込んだり、自制心をなくしたりしてしまうかもしれません。

このシステムを常に制御しておくためには、厖大なエネルギーがいる。

…私がこれまで診た患者のうちには、卓越した技能を持つ教師や看護師が数多くいた。

そうした患者の同僚たちは、彼らを少しよそよそしい人、あるいは控えめな人だと感じていたかもしれないが、自分たちの模範的な同僚が自傷行為を行なったり、摂食障害を抱えていたり、異様な性行為を行なったりしていると知ったら、おそらく仰天しただろう。(p474-475)

こうしたトラウマのサバイバーたちは、人前ではある程度、意志の力で「まとも」に振る舞えるかもしれません。

しかし誰もが身をもって経験するように、意志力は無限ではありません。ダイエットに失敗する人も、ジム通いを続けられない人も、禁煙や禁酒しようとする人も、みな疲れると決意が鈍ること(自我消耗)を経験します。

ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)にこう書かれているとおりです。

彼らの実験で繰り返し確認されたのは、強い意志やセルフコントロールの努力を続けるのは疲れるということである。

何かを無理矢理がんばってこなした後で、次の難題が降りかかってきたとき、あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか、うまくできなくなる。

この現象は、「自我消耗(ego depletion)」と名づけられている。(p79)

意志力を保てなくなり、いざ破壊的な衝動に屈してしまうと、とても惨めで、孤独で、情けなく感じることでしょう。トラウマにまみれた自分が何一つ変わっていないことを思い知らされるからです。

理性的な認知に先立って生じる、身体の感じ方そのものを変化させられない限り、意志の力だけで自分をコントロールしつづけるのは不可能です。

したがって、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 にこのように書かれているのは、脳科学に照らしてみてももっともなことです。

会話によるセラピーでは、今この瞬間に生じている適応不全な無意識 による行動傾向に直接アプローチすることができません。(p226)

物語を語っても、体験は変わらない

トラウマの治療として、トークセラピーが重視されている別の理由は、過去の混乱したできごとを整理して、物語として語れるようになれば、辛い過去を受け入れることができる、と考えられているからです。

たとえば、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳にはこう書かれていました。

現在という時点から過去を振り返る形での虐待の「再」体験は、ただひたすら逃げたかった記憶を、現在の自分と関係付けてとらえる作業であり、それは記憶の整理へとつながる。

西澤はこの作業を「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」と表現している。(p110)

カウンセリングのような会話形式のセラピーのほとんどは、この「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」ことを重視しています。

過去の混乱した記憶は、すっきりと語れる物語に整理されて初めて、もう終わった過去のものとなります。

たとえば、今まさに戦争のさなかにある人は、自分の体験を「物語」として語る余裕はありません。それは「物語」ではなく、今この瞬間を取り巻く「現実」だからです。

でも戦争が終わった後は、自分の体験を「物語」として語れるようになるかもしれません。物語にするというのは、もう終わった昔話として受け入れるという意味でもあります。

しかし、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 には、こうした「トラウマ記憶を物語記憶へ変える」方法は、ある程度の効果はあるものの、トラウマの根本的な治療にはならないと書かれています。

従来の精神療法はおもに、なぜ本人がそのように感じるのかを説明する物語を構築することに的を絞ってきた。

…物語を語ることは重要で、物語がなければ記憶は凍りつき、記憶がなければ物事がどのように異なりうるのかを想像できない。

だが第4部で見たように、出来事についての話を語っても、トラウマ記憶を葬りされる保証はない。(p359)

冒頭で引用したように、ヴァン・デア・コークらの研究では、たとえ過去のトラウマを物語として語れるようになっても、トラウマの様々な辛い症状が緩和されない人が大勢いました。

研究参加者の大半は、筋の通った話を語り、そうした話と結びついた痛みも経験できたが、耐え難い光景や身体的感覚につきまとわれ続けた。

認知行動療法の柱である現代の曝露療法の研究からも、同様のがっかりするような結果が出ている。

この手法で治療を受けた患者の大多数が、治療の終了後三ヶ月の時点で、相変わらず深刻なPTSDの症状を見せるのだ。

いずれ論じるように、人は自分の身に起こったことを説明する言葉を見つければ、大きく変われるかもしれないが、必ずしもフラッシュバックがなくなったり、集中力が高まったりするわけではないし、人生に生き生きとかかわるよう促されたり、失望や自分が受けたと認識している心身の傷に対する過敏性が和らいだりするわけでもない。(p321-322)

なぜ、過去の辛い出来事を物語として整理しても、トラウマの辛い症状から解放されないのか。

ヴァン・デア・コークは、その理由は、トラウマ記憶の性質にあると述べます。

それには理由がある。人はありきたりの出来事を思い出すときには、その出来事と関連する身体的感覚、情動、光景、臭い、音、声も追体験するわけではない。

それとは対照的に、トラウマをそっくり思い起こすときには、その出来事を「経験する」。(p359)

先ほど触れたとおり、現代のトラウマ科学は、トラウマとは「心の傷」のようなものではなく、身体に保存された条件反射だということを明らかにしました。

以前の記事でも詳しく書きましたが、記憶には大きくわけて二種類あります。

「からだの記憶」の治療法―解離や慢性トラウマのための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる、「からだ」を土台とした生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。

一つ目は宣言的記憶です。わたしたちが普段、「記憶」という言葉を使うときは、こちらの宣言的記憶のことを言っています。これは、言葉で表現できるタイプの記憶であり、「物語」のようなエピソードもこれに含まれます。

それに対し、二つ目は、手続き記憶です。これは、自転車の乗り方や楽器の演奏の仕方など、身体で覚えるタイプの記憶です。手続き記憶は、無意識のうちに自動的に再生されるので、言葉で説明できません。トラウマ記憶はこちらにあたります。

一つ目の宣言的記憶は、文脈や物語に当てはめて語れるのに対し、二つ目の手続き記憶のほうは、さまざまな自動的な身体の反応として、全身いたるところにバラバラに記憶されています。

たとえばそれは、ヴァン・デア・コークが述べていた「その出来事と関連する身体的感覚、情動、光景、臭い、音、声」などの断片的な感覚です。

彼は、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のまえがきでこう説明していました。

トラウマの痕跡は、物語や意識的な記憶とは異なり、感情、感覚および心理的な自動反応のように、身体が勝手に行っていく「手続き」の形をとって、密かに私たちを支配している。(p ix)

トラウマ記憶は、そもそもの性質が、物語に当てはめられるタイプの記憶ではないために、いくら言葉で整理しようとしても上滑りし、言葉足らずになってしまいます。そもそも物語にすることが不可能なのです。

ここでもまた、トラウマを実際に経験していない知識だけの専門家と、身をもってトラウマを経験した当事者とのあいだで、認識のギャップが起こっています。

教科書を読んだだけでトラウマを理解した気になっている専門家たちは、そうした辛い体験は、言葉で整理して説明できるものだと考えます。

しかし実際にトラウマを経験した当事者たちは、それは不可能だとすぐにわかるはずです。自分の体験を、苦痛を、混乱を、筋道立てて話せるでしょうか。ブログや自伝のような形で、すっきりと書けるでしょうか。

いいえ、そんなことは不可能です。どれほど文章に長けた人でも、どれほど表現力のある人でも、自分のおぞましい過去を言葉にしようとした途端、言葉では到底表現できないたぐいのものだと気づくでしょう。

それゆえ、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 にはこう書かれています。

クライエントがトラウマに関連した、比較的首尾一貫した物語をつくった後でさえ、生理的症状は残り、ときには悪化することもあるでしょう。

さらに、関連づけることを必要としている他の記憶が言語的には利用できないので、過去のトラウマを言葉で表現することは必ずしも可能とはなりません。(p330)

「記憶の自己」と「経験の自己」

会話を中心とするセラピーの専門家たちは、この断片的で無秩序に散らばったトラウマ記憶を、会話を通して ひとつながりの物語に整理することに意味があるのだ、と考えています。

裁断されて、バラバラになった書物のページを、元通りの書物に編み直すかのように、バラバラになった記憶をつなぎ合わせれば、全体像が把握でき、トラウマを過去のものにできるのだと。

しかし現代の脳科学は、もう少し複雑な事実を明らかにしています。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 ではこう説明されています。

その後、神経科学的な研究によって、人には二つの異なるかたちの自己認識があることが明らかになっている。

…一つ目の自伝的な自己は、経験どうしを関連づけて、首尾一貫した物語にまとめる。

このシステムは言語に根差している。私たちの物語は語ることによって変化する。物の見方が変わり、新しい情報が組み込まれるからだ。

二つ目の、その瞬間における自己認識システムは、おもに身体的感覚に基づいているが、私たちは、安全で、急き立てられないと感じていれば、その身体的体験を伝えるための言葉を見つけることもできる。

二つの認識システムは脳の別々の場所に局在しており、それらの領域どうしに接続はほとんどない。(p387-388)

わたしたちの脳には、二種類の異なる自己認識システムが共存しています。

先ほど考えた二種類の記憶システムは、そのままこの「二つの異なるかたちの自己認識」に対応しています。

そして、この二種類の「自己」は、「別々の場所に局在しており、それらの領域どうしに接続はほとんどない」のです。

このままだと わかりにくいので、もっと具体的な説明を見てみましょう。

この二種類の自己という概念は、別の分野でも研究されています。

たとえば、ノーベル経済学賞に輝いた認知心理学者のダニエル・カーネマンは、名著ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、人間には「記憶する自己」「経験する自己」があると述べています。

二つの自己とは、「経験する自己(experiencing self)」と「記憶する自己(remembering self)」である。

「いま痛いですか」という質問に答えるのは前者、終わってから「全体としてどうでしたか」という質問に答えるのが後者である。(p267)

これらは先ほどの、二種類の自己と同じものです。カーネマンは、こちらのTEDの中で、この二種類の自己の違いについて、とてもわかりやすく説明してくれています。

: ダニエル・カーネマン: 経験と記憶の謎 | TED Talk

ノーベル経済学賞・ダニエル・カーネマン氏が語る、幸福を妨げる“3つの罠” – ログミー

この話から 我々が自らを二つの自己として 考えているらしいとわかります。

経験の自己― これは 現在を生き 現在を経験し 過去にも戻れる自己です。でも基本的には現在しかありません。

例えば 医師が “ここを触ったら痛みますか?” と 尋ねる相手は 経験の自己です。

そして 記憶の自己というのがあります。記憶の自己とは 記録を残し 人生の物語を紡ぎます。

医師が尋ねる質問を例に出すと “最近の調子はどうですか?” “旅行はいかがでしたか?” なんて質問です。

この二つは まったく異なるもので “経験の自己”と“記憶の自己”を 混同してしまうのは 幸福の観念に見られる混乱なのです。

二つの自己の違いがなんとなくわかってきたかと思います。

わたしたちの二種類の自己認識のうち「記憶の自己」は過去の物語を担当しています。対する「経験の自己」は、いま現在の感覚を担当しています。

この二つの自己は互いに連続しているようなものではなく、「まったく異なるもので」す。あたかも頭の中に二人の小人がいるようなものだと考えてください。

「経験の自己」の小人と、「記憶の自己」の小人は別人です。「経験の自己」の小人は常に今この瞬間の経験を担当していて、「記憶の自己」の小人はいつも過去の記憶を担当しています。

そして、重要なのは、トラウマというのは、この二人の小人のうち「経験の自己」の小人のほうが抱える問題だということです。

かつて味わったショッキングな出来事を、「経験の自己」の小人が手続き記憶として記憶し、今この瞬間も再生しつづけてしまっているのがトラウマだからです。

それなのに、会話を中心としたセラピーは、あろうことか宣言的記憶を担当している「記憶の自己」の小人のほうを対象にしてカウンセリングしています。

カーネマンが例として述べていた医師が、“最近の調子はどうですか?” “旅行はいかがでしたか?”などと尋ねて「記憶の自己」に語りかけていたように。

要するに、カウンセリングする相手が間違っているのです。

わたしたちの頭の中に、互いにほぼ隔絶されて住んでいる二人の小人のうち、実際にトラウマを負っているのは「経験の自己」のほうなのに、トークセラピーは「記憶の自己」のほうに働きかけているわけです。

そのせいで、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 で述べているような問題が生まれます。

一つ目のシステムが人に聞かせるための話を創作し、私たちはそれを何度も語ると、それが偽りのない真実を含んでいると信じるようになりやすい。

だが二つ目のシステムは、心の奥底でその状況をどのように経験するのかという、別の真実を認識する。

アクセスして、仲良くなり、和解しなければならないのは、この二つ目のシステムだ。(p388)

カウンセリングは、「一つ目のシステム」である「記憶の自己」の小人を対象に語りかけるものです。すると、その小人はもっともらしい物語を「創作し」て話します。

しかしその物語は、本当にトラウマを負った「二つ目のシステム」である「経験の自己」の小人の実感とはかけ離れたものです。

言葉によってもっともらしい話を創作してしまうというこの傾向は、意識と自己の中で神経科学者アントニオ・ダマシオが述べているように、ガザニガの分離脳研究によって、はっきり実証されています。

「言語的」創造心はフィクションに耽りやすい。たぶん、人間の分離脳研究におけるもっとも重要な知見はまさにつぎの点にある。

人間の左大脳半球は、かならずしも事実と一致しない言語的な話をつくりやすい。(p249)

ですから、言葉は上滑りして、トラウマの本質を伝えるにはまったく言葉足らずになってしまいます。その結果、時として起こるのが、いわゆる「虚偽記憶」を創作してしまうという問題です。

トラウマを治療するセラピーが本当にしなければならないのは、二つ目のシステムのほうの小人と「仲良くなり、和解」することです。

そのためには、言葉を用いてカウンセリングしたり、過去の出来事の物語を編み直したりしても意味がありません。

「記憶の自己」の小人は過去の物語を担当していますが、「経験の自己」の小人は今この瞬間の身体感覚を担当しています。

それゆえ、ちょうどカーネマンの説明に出てきた医者が、“ここを触ったら痛みますか?” と言って「経験の自己」に語りかけていたように、今この瞬間の感覚に注意を向けなければなりません。

ヴァン・デア・コークは「記憶の自己」ではなく「経験の自己」にアプローチするこんな例を挙げています。

八歳のとき父が家族を捨てて出ていきましたと患者に言われたら、私はいったん彼を制止して、自分自身と対話するように促すだろう。

父親と二度と会うことのなかったその少年について私に語っているとき、彼の内部で何が起こっているだろうか。それは体のどこで認識されているだろうか。

腹の底で物を感じ、胸が張り裂けるほどの悲しみに耳を傾けたとき―内受容の経路をたどって心の奥底にまで行き着いたとき―変化が始まる。(p391)

患者が過去のトラウマを話し始めたら、それは「記憶の自己」の小人が語り出したということです。話を聞きたい相手はそちらではないので、「いったん彼を制止し」なければなりません。

そして過去に何があったのか尋ねる代わりに、今この瞬間に「内部で何が起こっているだろうか。それは体のどこで認識されているだろうか」と問いかけます。

そうやって今この瞬間の感覚に意識を向けて初めて、「経験の自己」のほうの小人に話しかけることができます。

言葉が上滑りするのを免れるには、自分を観察する、体に基づいた自己システムを稼働させるといい。

このシステムは、感覚や、声の調子や、体の緊張を通して語る。内臓で経験する感覚を知覚できるのが、情動的自覚のまさに基本だ。(p391)

前回の記事で詳しく説明したように、ソマティック・エクスペリエンスやセンサリーモーター・サイコセラピーのような身体志向の療法は、そうした方法に特化したセラピーです。

ソマティック・エクスペリエンス(Somatic Experiencing)はその名のとおり、経験の自己(Experiencing self)を扱うためのセラピーです。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

これらの治療法では、過去に何があったかを聞き出すことはしません。

トラウマを負っているのは雄弁な「記憶の自己」の小人ではなく、無言のうちに身体の症状をもって語っている「経験の自己」の小人のほうでした。

そのため、ひとまず「記憶の自己」の小人には黙ってもらい、「経験の自己」の小人の声にならない声に耳をすませるのです。

語るだけのセラピーは解離を引き起こす

身体志向のトラウマセラピーにおいて、「記憶の自己」に黙っていてもらい、過去の出来事についてあえて話させないことには、さらに重要な理由があります。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 の説明を見てみましょう。

クライエントやセラピストは、出来事の記憶に焦点を当てたり、そのことを話したりしたいと望むかもしれませんが、耐性領域を充分に広げるまでそうした取り組みは脇に置きます。

そうすることで、さらなる調整不全や不適切な代償行為や解離を引きおこさずに、トラウマ記憶に触れることができるのです。(p252)

従来のカウンセリングでは、過去の出来事について自由に話すのは良いことだとみなされがちです。

しかし、近年のトラウマ医学によると、まだ準備がしっかりできていない状態で、過去に何があったかを話そうとすることは、「さらなる調整不全や不適切な代償行為や解離を引きおこ」す危険があります。

会話によるカウンセリングは、トラウマを治療しようとして、実際には症状を悪化させてしまっている危険があります。

たとえば、子どものトラウマ・セラピー―自信・喜び・回復力を育むためのガイドブック ではトラウマ的な事件のすぐ後で、恐ろしい出来事の内容を話させるという介入(デブリーフィング)の問題点について、こう危惧されていました。

従来の典型的な学校での緊急介入は、恐ろしさについて暴き、事実をもとにみんなを共通の理解へと導きます。

そしてトラウマへの反応を自然なものとしながらも、子どもに何が起きたのかを話させるように作られています。

緊急支援チームは、子どもに見たことや感じたことで最悪だったところを語らせることもあり、そして、そのまま去っていきます。

語らせられるだけのひどい体験には何の意味もありません。

私たち著者は、このようなトラウマのメカニズムを理解していない支援が、子どもに再トラウマを引き起こすことを確信しています。

子どもは(トラウマを受けた多くの大人もそうですが)従順になる傾向があるので、最初に対応した人は子供をさらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやっていることにおそらく気付かないでしょう。(p268)

従来のカウンセリングは、過去の辛い出来事の詳細を語らせるという形式をとります。

しかし、そのようにして過去のショッキングな出来事を語るということそのものが、トラウマの再体験を生み、「さらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやって」しまいます。

ここでもまた、実際にトラウマを経験したことのない専門家たちと、本当に身をもってトラウマを経験した当事者たちの間に、認識のギャップがあります。

トラウマを経験したことのない大多数の人は、専門家から一般人に至るまで、トラウマの症状とは、たとえばPTSDという概念で知られているような、激しいフラッシュバックや過覚醒や悪夢だと思いこんでいます。

当然ながら大学を出て医者になれる人たちの大多数は破壊的なトラウマなど経験したこともない人たちです。そのため主流の医学は、このトラウマを負ったことのない人たちの視点から研究されてきました。

しかし、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 に書かれているように、過覚醒やフラッシュバックと同じほど、いえそれ以上に深刻なのは、低覚醒や麻痺といった解離症状です。

症状誘発についての研究の多くが、患者の過覚醒やトラウマ再体験反応に注目してきました。

最近私たちの研究チームは、過覚醒や再体験反応を示す患者と、解離反応を示すトラウマ患者との脳活動を比較する研究を始めました。

例えば、Laniusらは、トラウマ経験を想起させる状況や出来事に対して、自律神経の低覚醒をともない、古典的な解離症状を示す患者がいることを見出しています。

多数ではありませんが、意味のある比率になっています。

トラウマ記憶に対するシナリオによるイメージ法の際に、患者は麻痺した感覚、身体から離れるような感覚、または「少し離れていた」ところからトラウマ記憶を体験するような感覚を報告しました。

このようなパターンは、フラッシュバックや再体験がおこるときとは明確に異なった脳活動の活性化を示しています。(p215)

こうした強い解離症状は、長期間の慢性的な逆境経験によって生じます。

あまりに強烈な、もしくはあまりに長い期間にわたるトラウマを経験したことで、神経系が麻痺し、シャットダウンしてしまい、過覚醒から低覚醒に反転する現象が解離です

軽度の解離症状は、だれもが日常生活の中で経験していますが、ほとんどの人は自覚していません。自覚できるほどの強い解離症状となると、慢性的なトラウマにさらされるなどしなければ生じません。

したがって、解離という現象は、実際にトラウマを負った当事者以外にはあまり理解できません。たとえば、解離性同一性障害(多重人格)がいまだに多くの医者から詐病扱いされていることからもそういえます。

当事者ではない医師たちは古くから、解離症状を理解できず、見当違いの治療を施すという過ちを繰り返してきました。

たとえば性的虐待のために解離性障害になった人たちは、性的な欲求不満とみなされて真逆の「治療」にさらされていた時代があったほどです。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

現代の「見たことや感じたことで最悪だったところを語らせる」ようなトークセラピーも、同じ轍を踏んでいます。

治療にあたる人たちが重篤なトラウマを経験したことがなく、解離とは何かわからないせいで、クライエントを「さらなるショックによる停止状態や解離状態に追いやっていることにおそらく気付かない」のです。

「距離を置くことで楽になる」ことの副作用

過去の辛い体験を語らせるような形式のセラピーが、このような解離症状を悪化させるといえるのはなぜでしょうか。

そもそも、言葉で語るというのは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 に書かれているように、物事を客観的に見るための方法です。

言語が進化したのはおもに「そこにある物」について人に語るためであって、自分の内面の感情、自分の内面性を伝えるためではない

(繰り返しになるが、脳の言語中枢は、自己を経験する中枢から脳内で物理的に可能なかぎり離れたところにある)。

ほとんどの人は、自分のことよりも他者についてのほうがうまく説明できる。(p390)

「脳の言語中枢は、自己を経験する中枢から脳内で物理的に可能なかぎり離れたところにある」という説明からもわかるように、言葉で語るのと、身体で経験するのとは、ちょうど正反対のものです。

トラウマの出来事を物語にするというのは、いわば迫真性を伴っていた「自分」の体験を、だれか「他人」の物語のように整理しなおすことで、ショッキングな体験から距離を取る、ということを意味しています。

小人の例えでいえば、会話によるセラピーは、「記憶の自己」の小人と「経験の自己」の小人の間の距離を広げることで、圧倒されにくくします。

言葉によって語れば語るほど、自分の経験から距離を置いて、客観視できるようになります。しかし先ほど引用したように『「少し離れていた」ところからトラウマ記憶を体験するような感覚』は解離の特徴のひとつなのです。

トラウマをヨーガで克服する には、まさにそうした経験をしていたフランクという男性のことが書かれています。

彼は20年もトークセラピーを受けていましたが、一向にPTSD症状が改善しませんでした。しかし後にトラウマ・センシティブ・ヨーガによる身体志向のセラピーを受けたとき、その理由に気がつきました。

フランクはPTSD症状のために、それまでの20年間、セラピーを受けてきたが、肉体感覚について質問されたことは一度もなかった。

…従来のセラピーには、どう見てもこうした探究の方向付けがない。伝統的なセラピーは、その瞬間の動作や感覚を実際に経験することよりも、過去の出来事や考えや気持ちを話すことの方を向いている。

フランクは、自分が何年かにわたって経験したことを〈話す〉ことはできた―〈今この瞬間〉の意識を〈経験〉することなしに。

彼は、「実は〈話す〉こと」を自分が〈経験〉することから離れる手段として使ってきた」ということに気がついたのだ。

彼は〈経験〉するのではなく、切り離したやり方で、何度も繰り返し〈話した〉だけだった。(p66-67)

慢性的なトラウマの当事者は「話すこと」を、自分の恐ろしい経験から距離をとり、遠く離れたところから他人事のように処理するための手段として使っています。

ですから、言葉によって物語を語ったり、理性を強化したりすればするほど、「記憶の自己」と「経験の自己」のあいだの溝は大きくなっていき、解離は強化されます。

「経験の自己」を遠くに押しやって溝を広げたおかげで、確かにトラウマの迫真の経験には圧倒されにくくなります。

しかし、問題なのは、人生の喜びや楽しさ、満足を感じるのも、この「経験の自己」の役割だということです。

それゆえ、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 が説明するように、言葉でトラウマを語らせる治療法は、トラウマの過敏な症状を経験しなくすると同時に、人生におけるごく当たり前の幸福も感じられないように麻痺させてしまいます。

トラウマ性ストレスへの治療の取り組みの多くは、患者を過去に対して脱感作することに的を絞っている。

トラウマ体験に再びさらされれば、情動の突発的なほとばしりやフラッシュバックが経ることを期待してのことだ。

だが私は、これはトラウマ性ストレスにおいて起こることの誤解に基づいていると考えている。

…脱感作によって過敏な反応は減るかもしれないが、散歩をしたり、食事を作ったり、子供たちと遊んだりといった、日常のごく当たり前のことに満足を感じられなければ、人生に置き去りにされてしまうからだ。(p122)

トークセラピーがもたらすのは、「脱感作」、つまり“距離を置くことで楽になる”という効果であって、トラウマ記憶そのものの根本的な解決ではありません。

確かにトラウマの迫真性を経験しにくくなりますが、同時にごく当たり前の満足を感じる能力も麻痺するので、「人生に置き去りにされてしま」います。

本当に必要なのは、「経験の自己」と「記憶の自己」の距離を取ることではなく、両者が歩み寄れるようにすること、つまり解離によって遠く離れてしまった二つの自己を、もう一度 統合することです。

過去20年にわたって、心理学専攻の学生がいちばんよく教わる治療法は、何らかのかたちの系統的脱感作だった。これは、患者が特定の情動や感覚に過敏に反応しにくくなるように助けるものだ。

だが、これは正しい目標だろうか。課題は脱感作ではなく、統合だろう。(p364)

セラピーが目標とすべきなのは、「脱感作ではなく、統合」なのです。

最近のいくつかの記事で考えたとおり、近年の神経科学の研究からすれば、トラウマを負った人は、自分の身体感覚を、文字どおり他人のものとして処理しているようです。

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頭や内臓に異物感や不快感を感じたり、手足など全身の原因不明のむずむず感を感じたりする、解離に伴いやすい体感異常(セネストパチー)についてまとめました。

トラウマを負った人が、制御できないさまざまな感覚に苦しめられるのは、「経験の自己」が、自己のコントロールを外れて、だれか他人のように振る舞っているせいだとみなせます。

頭ではわかっていても、身体が無意識のうちに反応して破壊的行為を繰り返してしまうのは、いわば頭と身体が別人になって解離しているからです。

以前の記事で考えたように、トラウマを負った人がさまざまな奇妙な症状に悩まされるのは、自分の身体が複数の別々の他人として処理されているからだとみなせる根拠があります。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

言葉を用いた治療法は、他人になってしまった「経験の自己」とさらに距離を取ることで症状を和らげようとします。それによって、どんどん自分が自分でなくなっていきます。

だが、物語はもっと重要な問題を覆い隠しもする。

それは、トラウマは人をまったく変えてしまう、それどころか、人はもはや「自分自身」ではなくなるという問題だ。(p390)

「経験の自己」が自分自身でなくなればなくなるほど苦痛は感じにくくなります。しかし人生の喜びもまた遠のきます。

本当に必要なのは、他人になってしまった「経験の自己」を、もう一度自分の一部として統合しなおすこと、もう一度「自分のものにする」ことなのです。

統合とは「自分のものにする」こと

この説明だけでは抽象的すぎてわかりにくいので、感覚を統合し「自分のものにする」とはどういうことか、最後にもう少しだけ考えてみましょう。

注目したいのは、トラウマを治療するときに生じる、脳の機能の変化です。

以前の記事で詳しく取り上げましたが、トラウマを負った人は、脳活動のパターンが右半球寄りなのに対し、トラウマを治療するにつれ、左半球寄りになっていくという変化がみられます。

自分でも制御できないネガティブな感情に悩まされている人や、フラッシュバックなどの身体感覚に翻弄されている人は、脳の活動が右半球寄りですが、トラウマを治療できた人は活動が左半球寄りになっていくとのことでした。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 でも、セラピーの効果は、そうした脳活動のパターンの変化として現れるとされていました。

私たちは、この種の身体指向の感覚統合においては、脳活動パターンの変化がおきていると推測しています。

その変化とは、記憶の回想に関連した脳神経回路活性化のパターンが、主に右脳と後頭葉活性化から、左脳と前頭葉前部活性化パターンへと修正されるということです。(p214)

ではなぜ、トラウマが治癒するにつれて、このような脳活動の変化がみられるのか。

一般に左脳には言語中枢があり、言葉を用いた思考をつかさどっていると言われています。

他方、右脳は感覚的な記憶をつかさどっていて、断片的な五感による記憶をつかさどっています。

このことからすれば、トラウマ治療における右脳から左脳への活動の変化は、バラバラに散らばったトラウマ記憶を、言葉によって整理し、物語にすることによって生じた変化のように思えます。

トラウマの治療によって、脳活動が右脳優位から、言語中枢のある左脳優位へと修正されることは、言葉によって過去を整理し、「トラウマを物語に変える」という従来の心理療法の有効性を物語る証拠のひとつなのでしょうか。

スキルの熟達化とよく似ている

必ずしもそうではない、と言える理由があります。

この、右脳優位から左脳優位に変わるという脳活動の変化は、言語が関係していないまったく別の場合においても頻繁にみられるからです。

たとえば、芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察 に載っている、音楽家の脳の使い方についての次の研究です。

訓練を受けた音楽家はメロディーを右耳で聴いたときのほうが成績が良く、訓練を受けたことがない非音楽家は左耳で聴いた場合のほうが成績が良かったのである。

この結果は、左右の半球がそれぞれ相反するかたちで音楽の処理に関与していることを示している。

訓練を受けた音楽家の場合は左半球が音楽処理に強く関与し、非音楽家の場合は右半球が強く関与しているのである(Bever & Chiarello,1974)。(p140)

音楽のメロディーの処理において、素人はおもに右半球を使っているのに対し、熟達したプロは左半球を使っているとのことです。つまり、音楽の技能に熟達するにつれて、脳活動が右半球優位から左半球優位に変化しているのです。

オリヴァー・サックスは、手話の世界へ (サックス・コレクション) の中で、こうした例が、もっと広く見られることに言及しています。大事な部分なので、少し長めに引用してみます。

「素人の目」や「凡俗の耳」から芸術家や達人の知覚器官への移行は、右半球優位から左半球優位への移行と並行して起こる。

ごく「単純素朴な」聴取者では主として右半球が音楽的知覚をつかさどるが、(その「文法」や規則を把握し、それらを複雑な形式的構造としてしまった)専門の音楽家や「達人の」聴取者では左半球が音楽的知覚をつかさどる。

…流暢なタイ語の使用者では(通常なら右半球がつかさどる)音色の識別を左半球がつかさどることが立証されている。

…数学的概念や数字の世界を、秩序だった広大な知的宇宙や知的体系の一部とみなせるようになった、数学や算術の「達人」にも同様の移行が見られる。

同じことは、空間や視覚的連関を「素人の目」にはできない仕方で見る画家や室内装飾家にもいえるかもしれない。これはまた、ホイストやモールス符合やチェスの名人にも当てはまる。

あらゆる高度な科学的知能・芸術的知能、あらゆる高度な日常遊戯の技能は、言語と似た機能をもち、言語と同様に発達する表象システムを必要とする。

これらはみな移行が起こって左半球の技能となるように思われる。(p204-205)

基本的にいって、言語でも芸術でも職人技であっても、どんな技能であれ、素人からプロへ熟達化するときには、右半球から左半球への活動の移行がみられるというのです。

興味深いのは、これは言語においても同様で、まだうまく外国語を習得していないときは右半球の技能であるのに対し、しっかり習得して「自分のものにする」と左半球の技能になるようです。(p153-154)

ということは、そもそも、わたしたちの多くが言語を使うときに左半球で思考しているのは、左半球が言語に特化しているからではなく、自分の話している言語、つまり母国語に習熟して「自分のものにしている」からではないでしょうか。

言語だから左半球優位なのではなく、熟達した技能だから左半球優位になるのです。つまり、左脳は言語の座というより、熟達化したスキルの座だということです。

オリヴァー・サックスが説明するように、右脳は まだ組織化されていない断片的な体験を処理し、左脳は秩序正しくまとめ上げられた技能を処理しているようです。

右半球は、まだ確立された記述体系あるいはコードが存在しない目新しい情況を処理するのに決定的な役割をはたすだけでなく、そうしたコードのまとめ役もはたしている。

そうしたコードがまとめられてその姿をあらわすと、機能は右半球から左半球へと転移する。

このような文法あるいはコードの形で編成されるプロセスは、すべて左半球がつかさどっているからである。

(目新しい言語課題は、言語的ではあっても、まず右半球でその大半が処理され、次いで左半球の機能として慣習化される。

これとは対照的に、視空間課題は、視空間的ではあって、表記法あるいはコードに埋め込まれれば、大半が左半球で処理されるようになる)(p150)

言語にしても、音楽にしても、ほかのどんな技能にしても、学びたての無秩序な断片的な経験だけで、まだ「自分のものにしていない」段階では右半球の技能です。

しかし、しっかり習得され「自分のものにする」ことができると左半球の技能になります。

これは、以前の記事で書いた、「内なる他人」は右半球に宿っているという研究と一致しています。

まだ「自分のものにしていない」技能は、内なる他人である右半球が管轄していますが、ひとたび「自分のものにする」ことができた技能は、自分すなわち左半球の管轄下に入るのです。

脳はどこから「もうひとつの世界」を創るのか―創造的な作家たちの内なる他者を探る
創造的な作家たちが思いつくアイデアは、「内なる声」の聴覚イメージや、「内なる別世界」の視覚イメージに支えられている、という点を脳科学の観点から考えてみました。

このことからすると、トラウマの治療で見られる、右半球優位から左半球優位への脳活動の変化は、言語を使う必要性を示唆しているわけではなさそうです。

そうではなく、素人がプロに成長するときに起こるスキルの熟達化のように、これまで他人のように無秩序に振る舞っていたトラウマの体験を、しっかり組織し統合することで「自分のものにする」必要があることを示しているのです。

身体で覚え「体得」する

トラウマ治療のプロセスと、素人からプロへのスキルの熟達化とが、同じようなものなのだとすれば、トラウマを治療するのに本当に必要なセラピーとはどういうものなのかがわかってきます。

芸術にしても外国語にしても職人技にしても、素人がプロへと熟達化するときに必要なのは、単なる知識でも対面形式の会話でもないことは、言うまでもありません。

絵の先生と会話するだけで、絵が上達する人がいるでしょうか。音楽の教科書を読んで、その内容を暗記するだけで、音楽のプロになれる人がいるでしょうか。

学校の教室で外国語を教えてもらうだけで、外国語を流暢に話せるようになる人がいるでしょうか。

本当に外国語を「自分のものにする」には、実際に現地に行って、ネイティブの人たちとやりとりする経験が不可欠なのではないでしょうか。

トラウマの治療もこれと同じなのです。

トラウマの治療とは、スキルの学習と同じものだと考えれば、従来の言葉を用いたセラピーに なぜ限界があるのかを、はっきり理解できます。

それは学校で英会話を倣ったときに、ある程度は話せるようになるものの、実用には程遠いのと同じ現象です。

あるいは、たくさんの絵を鑑賞し、絵の技術についての本をたくさん読み、いっぱしの評論ができるようになったにもかかわらず、自分では絵を描けない人のようなものです。

もしくは、ハワイに関する本をたくさん読んで、ハワイの地理や文化についてたくさん語れるのに、実際にハワイに行ったことのない人のようなものと言ってもいいでしょう。

いずれの場合も、決定的に欠けているのは、身体を使った実地訓練、つまり「経験」なのです。

言葉によるセラピーは、過去を語れるようにしてくれるかもしれませんが、「経験」を得させることはほとんどできません。

何せ、言葉によるカウンセリングは、「記憶の自己」を対象にしたものであって、「経験の自己」は蚊帳の外なのです。

外国語を習得するには丸暗記をするだけでなく、実際にネイティブのただ中で話すという経験を積まねばならないように、また絵を上達させるには描き方の本を読むだけでなく、自分の手を使って何度も何度も描かねばならないように、トラウマの治療にも経験が不可欠です。

アマチュアは身体を使った経験を積むうちに新しい技能を「体得」して、脳活動が右半球から左半球に移行し、やがてプロになります。

では、トラウマを負った人に欠けている経験とは何でしょうか。トラウマをヨーガで克服する の中でヴァン・デア・コークは次のように述べています。

ゆるぎない安心感のうちに抱かれたことのない人びとは、穏やかに〈中心〉にとどまるという、心底からの経験を欠いている。

それは、“絶対に大丈夫、絶対に安全”という深い感覚なのである。(P30)

トラウマを負った人に欠けている経験、それは「“絶対に大丈夫、絶対に安全”という深い感覚」なのです。

言葉によるセラピーはこの「心底からの経験」を得させることはできません。単なる言葉のやりとりではなく、身体そのもので安全だと「体得」して初めて、脳活動が右半球から左半球に移行し、トラウマから回復していくことができます。

結局のところ、「経験の自己」に訴えかけるには、「経験」しかないのです。

「経験の自己」が負ったトラウマを治療するには、新しいスキルを体で覚えるかのように、もう安全だということを身体で覚えるしかありません。

ひとたび身体で安全を体得し、自分のものにできれば、本当の意味でトラウマを過去の物語として語れるようになります。

ハワイに行ったことのない人がいくらハワイの生活について語っても、言葉がむなしく上滑りするだけですが、実際にハワイに行ったことのある人が語る物語は本物です。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 に書かれているように、まず身体的な経験が先です。過去の出来事を、すでに終わった物語として語れるようになるのはその後です。

Levineが述べたように、「潜在的な(手続き型)記憶が活性化し、身体的に完了されるとき、顕在的な物語を構築することができます。その逆ではありません」(p349)

何か新しいスキルを身につけるときには、必ず知識と経験が一致する瞬間が訪れます。ああそうだったのか!、と気づく瞬間、いわゆるAha!体験です。

トラウマから回復していくときもそうです。身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 に書かれているとおり、「腑に落ちる瞬間」が訪れ、「人に聞かせる物語と内部経験とが、ようやく一致」します 。(p381,390)

それこそが、「記憶の自己」と「経験の自己」のあいだの溝がなくなり、二人の小人がひとつに統合される瞬間なのです。

知識と経験が一致してはじめて、わたしたちは本当の意味で、安全であるとはどういうことかがわかります。単に知識として、頭で「知る」のではなく、身体で「味わい知る」ということです。

近年の研究によれば、単なる知識とは異なり、経験は遺伝子の発現のオンオフという形で身体に記録されることがわかっています。

ニューロンは遺伝子の発現によって「経験を記憶」している:研究結果|WIRED.jp

わたしたちの身体は、新しい経験をすると、遺伝子の発現のオンオフを調整することで異なる環境に適応しようと試みます。これはエピジェネティクスとして知られている機能です。

同じリスク遺伝子を持っていても、病気になる人とならない人がいたり、同じ才能の遺伝子を持っていても、開花する人としない人がいたりするのは、遺伝子はただ持っているだけでは読み取られず、環境によってオンオフが左右されるからです。

トラウマという衝撃的な経験が心身の健康を広範囲に損なうのは、このエピジェネティクスによって、眠っていたリスク遺伝子がことごとく目覚めるからだということがわかっています。

ACE研究が明らかにした「小児期逆境後症候群」ーなぜ子ども時代の体験が脳の炎症や慢性疾患を引き起こすのか
17000人以上のデータから子ども時代の逆境体験と成人後の体調不良の関連性を導き出した画期的なACE研究の取り組みをもとに、幼少期の経験がわたしたちの一生にわたり、心身の健康にどん

ということは、そこから回復するにも、やはり強力な経験が必要だという理屈は道理にかなっているでしょう。トラウマの治療には、身体で安全を体得できる身体志向のセラピーがどうしても必要なのです。

こうして、この記事の冒頭で引用した、ヴァン・デア・コークの言葉の正しさが裏づけられることになります。

私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。

1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。

私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321)

「言語が行動の代わりに」はならないのです。

「回復こそ出来事にみちているというのに」

この記事では、従来の会話を主体としたセラピーでは、トラウマを十分に治療できない理由を、脳科学的な研究に照らして考えてきました。まとめると以下のようになります。

■「なぜそう感じるのかを理解しても、どのように感じるのかは変わらない」
認知行動療法などによって考え方を変えても、依然として無力感や破壊的な衝動、侵入的な思考、不快な身体症状などに悩まされ続ける。

■「脳が無意識的に行動の準備を整えた後、ようやく行動を決意する」
リベットの有名な実験によれば、意識的な判断の前に身体が無意識のうちに反応している。トラウマは無意識の身体の条件反射であり、考え方を変えるだけでは間に合わない。

■物語を語ってもトラウマを葬ることはできない
わたしたちの記憶は二種類のシステムからなる。トラウマ記憶は言葉による物語とは記憶の形式が違うので、どれほどの言葉を弄しても、トラウマを語ることはできず、上滑りするだけ。

■「記憶の自己」と「経験の自己」
わたしたちの脳には二種類の自己認識があり、その二つはまったく別々のもの。従来のカウンセリングは「記憶の自己」を対象としているが、トラウマ記憶を抱えているのは「経験の自己」なので、治療すべき相手を間違えている。

■会話によるセラピーは解離を強化する
トラウマ経験を言葉にすればするほど、「経験の自己」から距離を置くことになる。トラウマの迫真性は薄れて過敏症状は減るが、同時に生きる喜びも麻痺してしまう解離状態になる。

■スキルを「自分のものにする」こととの類似性
必要なのは、トラウマ経験を麻痺させて距離を置くことではなく、自分の経験の一部に統合すること。そのときの脳の変化は、スキルに熟達して「自分のものにする」ときとよく似ている。それには身体で覚え「体得」することが不可欠。

この記事で考えたように、従来の会話を中心としたセラピーだけではトラウマを治療するには不十分です。トラウマを治療するには、身体で経験することが不可欠です。

とはいえ、これまで親身にトラウマサバイバーの話を傾聴し、ときに励まし、慰めを与えてきたセラピストたちの努力が無駄だったわけでは決してありません。そうしたセラピーを通してトラウマから回復し、癒やされた人たちがいるのは事実です。

誠実なセラピストたちは、少しでもトラウマを抱える人たちの力になりたいと願って、温かな癒やしの場を提供してきました。

そのような場で自分を認めてもらうことができ、関心を払ってもらえるのは、それ自体が安心感を体得する「経験」となるので、まぎれもなくトラウマの治療に役立ってきたはずです。

また、芸術療法などの手法も、それと知らずして、身体的な経験をトラウマ治療に組み込むことによって成果を挙げてきました。

芸術的表現は、言葉によらず身体の動きを通して、無意識の「経験の自己」にアプローチする手段のひとつだからです。

なぜ芸術療法(アートセラピー)は認知症や不登校の脳機能を回復させるのか
彫刻家、金子健二さんによる「芸術がなぜ認知症を改善するのか」という本の脳科学の研究を通して、なぜ芸術療法(アートセラピー)に効果があるのか、3つのポイントをまとめました。

ですから、この記事の主旨は、これまでのセラピーがまったく無駄だったとか、会話によるセラピーをすべて身体志向のセラピーに置き換えるべきだ、というものではありません。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 に書かれているように、従来のセラピーに、この記事で考えたような視点をプラスすれば、もっと治療が効果的になるはずです。

フロイトの時代から、たいていのセラピーのアプローチは、感覚運動よりも、認知と情動のプロセスに焦点づけてきました。そして、こういったアプローチはトラウマ症状の解消に成功してきました。

しかしながら、身体表現性(somaform)の症状が特にトラウマを抱えた人に顕著にみられるので、感覚運動プロセスを促進するような介入が付け加わることで治療はいっそう効果的になるのです。(p425)

特に、身体志向のセラピーという選択肢が増えれば、解離症状が強いクライエントに対して、より臨機応変に対応できるようになるはずです。

感覚運動的な技法は、トラウマ記憶の想起時に主として解離性反応をおこすクライエントに効果的です。

低覚醒をともなう解離性反応を扱う場合、セラピーの目標は身体感覚への気づきを増やすことにより、低覚醒状態を耐性領域におさめることになります。(p215)

今はまだ会話によるセラピーが主流ですが、今後、柔軟な考えを持つセラピストを中心に、もっと身体志向の技法が導入されるようになれば治療の幅が広がるでしょう。

そしてもちろん、今まさにトラウマの影響と戦っているサバイバーの当事者たちにとっても、従来の心理療法以外のトラウマ治療の選択肢が増えつつあることは助けになります。

トラウマ記憶についての正しい理解がもっと普及すれば、うまくいかないセラピーによって、不必要な劣等感を上乗せされることはなくなるでしょう。

理性的な考え方を強化したり、認知を変えたりする従来の心理療法でうまくいかなかったとしても、それは決してあなたの意志の弱さのせいではないのです。

確かに、トラウマから回復する過程は決して楽な道のりではありません。新しいスキルの習得や、アマチュアからプロになるような熟達化が楽な道のりではないのと同じです。

しかし、新しいスキルを身につけることが大きな達成感を伴う素晴らしい経験であるように、トラウマから回復するというのも、単なる回復を超えた達成感をもたらすはずです。

この記事で何度も書いてきたように、実際にトラウマを負った当事者と、トラウマを経験したことのない知識だけの専門家とのあいだには、大きな認識のギャップがあります。

数あるギャップの中でも、最も大きな認識の食い違いは、もしかすると、回復についての認識かもしれません。

トラウマを経験したことのない専門家たちは、回復とは、単に普通の状態に戻ることだと考えます。しかしこの記事で考えたことからすると、それはまったくの間違いです。

トラウマからの回復とは、脳科学的にいえば、素人がプロフェッショナルになるのと同じくらい素晴らしい成長なのです。

ですから、きっと、トラウマから回復する人は、オリヴァー・サックスが、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)で書いたのと同じように感じることでしょう。

だから、こっそりのぞいたカルテに「特記すべき事なし。順調な回復」と書いてあるのをみて、私は思った。

「医者たちは頭がおかしくなったにちがいない。回復するということは、立派な出来事ではないか。思いがけない出来事の連続だ。

出来事というより〈出現〉、新しい、想像もできないような力の出現である。出来事、出現。それは誕生であり、復活なのである」(p188)

「順調な回復。特記すべきことなし」なんとナンセンスな表現だろう。

…それは、急激な、実存にかかわる変化である。まったく新しい、思いがけない、予測のつかない、計算不能な、驚くべき変化なのである。

「特記すべき事なし。順調な回復」だって?

回復こそ出来事にみちているというのに。(p196)

補足1 : フロイトは自分のトラウマを克服できなかった

本文中で書いたように、現代のトークセラピーは、ジークムント・フロイトの談話療法に源を発しています。理性を強化することに重きを置く、認知行動療法のような手法も、元をたどればフロイトの影響を受けています。

こうした治療法は、トラウマ経験から距離を置き、解離を強化することでトラウマの迫真性を和らげていました。同時に、人生の喜びをも感じにくくさせてしまいますが、それを「治療」とみなしていました。

この思い違いは、そもそもフロイト自身が、それと知らずして解離状態に陥っていたことから来ているようです。

オリヴァー・サックスは、音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々の中でこう書いていました。

フロイトのこととなると、問題ははるかに複雑だ。

彼は音楽の都ウィーンに住んでいたにもかかわらず、(話から判断するかぎりでは)自主的に、あるいは楽しみのために音楽を聴いたことはなく、音楽について書いたこともなかった。(p395)

サックスによると、フロイトは音楽に対して複雑な思いを抱いていました。彼は「ミケランジェロのモーセ」の序文でこう述べていたそうです。

私は芸術通ではない……にもかかわらず、芸術作品は私に強大な影響をおよぼす。とくに文学と彫刻にそれが言えるが、絵画はそれほどでもない。

……それを前にして長い時間、自分なりに理解しようとする。つまり、どんな影響があるはずかを自分に説明しようと試みる。

たとえば音楽のように、その試みがうまくいかないものには、喜びをまったく感じることができない。

私の合理主義的な性質か、ひょっとすると分析的な性質が、なぜ自分が感動するのか、そして何に感動しているのか、わからないままに感動することを嫌うのだ。(p396)

このフロイトの言葉から、フロイトは解離症状の一種であるアレキシサイミア(失感情症)に陥っていたのではないか、ということが読み取れます。

感動を誘うものに触れても「喜びをまったく感じることができない」のは、失感情症の特徴です。失感情症は、感情を切り離すことによって、自分を守ろうとする防衛の一種です。

以前の記事で書いたように、失感情症は、子供のころに回避型(拒絶型)と呼ばれる不安定な愛着を抱えた人に多い症状です。

このタイプの人は、痛みや動揺を切り離して、表面的には何も感じていないかのように振る舞うので、ヴァン・デア・コークはこれを「感じることのない対処」と呼んでいました。

きっと乗り越えられる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

フロイトの研究に詳しい岡野憲一郎先生が、こちらの記事で指摘しているように、フロイトは「母親からかけられた強烈な期待に見合うことができない、劣った恥ずべき存在になるという恐れ」を生涯抱えていたようです。

このトラウマ的な感情に対する防衛として、彼が選んだのは、ひたすら理性的に、また合理的に思考することで、トラウマ的な過去から距離を置くという対処法でした。

サックスは、フロイトのことをよく知っていたセオドア・レイクが、『忘れられないメロディー(The Haunting Melody)』の冒頭で書いていた次のような観察を引用しています。

[フロイトの音楽に対する無関心は実際には] 拒否であり……自己防衛のための意志による行為であり……音楽が感情におよぼす影響が自分に望ましくないように思えれば思えるほど、強く激しくなった。

彼は理性を研ぎ澄まし、感情を停止させておかなくてはならないと、ますます確信するようになっていた。

そして音楽の闇の力に身を任せることを嫌がるようになっていった。このようにメロディーが感情に及ぼす影響を避ける態度は、自分の感情の激しさに危険を感じる人に見られることがある。(p397)

フロイトは、過去のトラウマ的な感情に圧倒されそうだったので、「理性を研ぎ澄まし、感情を停止させておかなくてはならないと、ますます確信するようになっていた」のです。

フロイトが言葉に偏ったトークセラピーを生み出したのは、自分自身が未解決のトラウマを抱えていて、感情を停止させなければやっていけなかったことから来ていた、ということになります。

フロイトにとっては、過去のトラウマ的な体験に動揺するのを防ぐ最善の方法は、人生の当たり前の喜びや満足感を麻痺させてでも、過去から距離を置くことでした。

フロイトが、同時代の精神科医ピエール・ジャネが作り出した「解離」という概念を認めなかったのは当然の成り行きだったのかもしれません。

もし理性を強化して感情を切り離す自分の治療が、実際には解離を強化して自己防衛しているだけだと認めてしまうなら、自分自身の生き方そのものを否定するようなものだったでしょう。

フロイトが「理性を研ぎ澄まし、感情を停止させ」た結果、「喜びをまった感じることができな」くなったことは、フロイト流の治療法によってトラウマに対処する人たちがどのような状態になるかを、疑問の余地なく物語っています。

フロイトはその絶大なカリスマ性をもって、医学の主流派の地位を獲得しましたが、彼の理論や治療法にバイアスがかかっていることに気づいた人は当時から存在していました。

フロイトの弟子だったヴィルヘルム・ライヒは意見を翻して身体志向のセラピーの礎を築きましたし、カール・グスタフ・ユングはフロイトと意見を違え、トラウマ治療における解離の重要性を訴えました。

以前の記事で触れたように、神経学者アントニオ・ダマシオらによる、自己意識の生成についての近年の研究は、ライヒやユングの観点が正しかったことを裏付けています。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちには、ダマシオの研究の意義がこう書かれています。

ダマシオの研究は、肉体的な情動がいかに必要かを明らかにした。…ダマシオの驚くべき発見の一つは、身体から発生する感情は、理性的な思考の最も重要な要素だということである。

ふつう、感情は理性の邪魔をすると考えられているが、ダマシオが研究した感情を持てない患者たちは理性的な決断ができなかった。…多くの患者は何時間も、的外れの些細な事柄をあれこれ考えていた。(p40)

ダマシオはさまざまな研究を通して、わたしたちの理性的な自己意識は感情から、そして感情は身体の感覚から生まれていることを明らかにしました。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

例えるなら、身体→感覚→感情→理性は一本につながった川のようなものです。感覚や感情を無視して理性だけを扱うアプローチや、身体を無視して感情だけを扱うアプローチは、あたかも川の下流だけ見て、上流を無視しているようなものです。

もし川の汚染が上流で起こっているなら、下流だけを浄化しようとするアプローチでは役に立ちません。フロイトのように感情をせき止めるなら、それより下流にある理性もまたせき止められてしまうことになります。

感情を抑えて理性的な判断を重視しようとすれば、より冷静に判断できるようになるどころか、まったく懸命でない判断をするようになってしまいます。(これは感情をさしはさまずに、ただ理性的に患者と接しようとする医者の対応が的外れになりやすい理由でもあります)

本文中で引用したトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のこの言葉は、フロイトの生涯を思うとき、よりいっそう現実味を帯びます。

現代の心理療法は、フロイトとその弟子たちの精神分析的アプローチか、認知行動療法的アプローチが主流となっている。

しかし、人間の苦痛を緩和するこれらの手段は、トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ。

これら従来の治療法は両方とも、トラウマに関連する一部の機能不全には確かに対処しているが、原因の根本には到達していない。(p5)

フロイトは理性的に思考することで、自分のトラウマから距離を置くことはできましたが、95歳の母親が死んだときもなお、母親の呪縛に囚われたままでした。

感情を麻痺させることでかりそめの安定は得ましたが、感情を揺さぶる芸術を危険な「闇の力」とみなして拒絶するしかなくなりました。

結局、フロイトは最期まで自分のトラウマを克服できませんでした。フロイトが編み出した方法でトラウマに対処する人たちは、川の上流、すなわち「原因の根本には到達」できないので、当然フロイトと同じ問題に陥ります。

言葉に重きを置いて理性を強化する治療法が、「トラウマとその潜在的な記憶の刷り込みへの対処に関しては限界を持つ」ことは、フロイト自身が、その生涯をもってすでに実証してしまっているのです。

補足2 : セラピストは「避難所」になるべきなのか

従来の言葉を用いたカウンセリングは、フロイトがそうだったように、クライエントとの間に壁を作って分析するか(認知的共感)、あるいは思いやりのある傾聴を通してクライエントに親身に共感するか(情動的共感)、のどちらかのスタイルをとります。

理論的で分析的なセラピストほど前者のスタイルになり、感受性豊かで共感的なセラピストほど後者のスタイルを選ぶかもしれません。

前者のやり方の場合、クライエントは、セラピストとの間に壁を感じ取ってしまい、先述の岡野憲一郎先生のフロイトについての記事の中でブルーチェックが指摘しているとおり、「患者の側に余計恥の感情を生むことに」なってしまいがちです。

つまり、あまりにセラピストがあまりに理性的な態度で距離を取って接するせいで、クライエントは心のうちを理解してもらったと感じられず、的外れな解釈に戸惑ったり落胆したりするだけになってしまいます。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケア には、そのような医師たちは、前述のフロイトのように、「自らを切り離したまま防衛し」患者との間に壁を作っていると書かれています。

自分自身の感覚を切り離しているこうした医師たちは、苦悩を抱える人と心を通わせることはできないだろう。

患者が持つ恐ろしいイメージ、情動を包容し、処理し、統合していくうえで極めて重要な共同作業が欠けているからだ。

このような分離的態度で行われる一般的なセラピーでは、PTSD犠牲者に対して感情をコントロールするよう強く求め、常軌を逸した行動を何とかするよう、そして機能不全的な思考を変化させるよう、セラピストが指示をする。(p43)

このようなセラピーがほとんど役に立たないことは本文中で考えたとおりです。

では、後者のやり方(情動的共感)がいいのかというと、確かにクライエントは癒やされるかもしれませんが、セラピストはクライエントを支えるために強い共感疲労にさらされて、弱り果ててしまうでしょう。

トラウマ当事者の凄惨な経験を傾聴するというのは、第一人者であるヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 で書いているように、感受性豊かなセラピスト側にとっても相当な負担だからです。

私は、帰還兵がヴェトナムで子供を殺したことについて語るのを、初めて聞いたときのことを覚えている。

そのとき私は、鮮明なフラッシュバックを経験した。…帰還兵の告白に対する自分の反応に耐えられなかったので、私はそのセッションを中止せざるをえなかった。(p401)

ヴァン・デア・コークは「トラウマは、それについて話す人だけでなく聴く人をも打ちのめす」と述べています。(p399)

実際、感受性豊かで共感的なセラピストは、ヴァン・デア・コークが続けて述べるように、自分自身も定期的にセラピーを受けることによって安定性を保たなければやっていけません。

だからこそセラピストは、自分自身のセラピーを徹底的に済ませておかなければならない。

そうすれば、患者の話によって憤激や嫌悪の感情が生じたときにも、自らその感情を処理して、情動的に患者の側に立ち続けることができる。(p401)

共感性豊かなセラピストの中には、クライエントの「避難所」になること、愛着理論における言葉を借りれば「安全基地」になることをモットーにしている人もいます。

安全基地は飛行場や港に例えられます。苦難のときに戻ってきて心身を休めることのできる場所、すなわち必ず親身に助けになってくれる存在があれば、人は自信をもって外界に出ていくことができます。

しかし、ヴァン・デア・コークがトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 のはしがきで書いているように、セラピストがクライエントの「安全基地」になるという方法には限界があります。

既存の言葉によるセラピーでは、体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響を解決する手段をもたないままで、トラウマに関する潜在的な記憶を呼び覚まそうとします。

そうするとトラウマを受けた人は安全でないと感じて、目の前の関係性に助けを求める傾向が生じます。

そしてセラピストは何もできないと感じて無力になっている命の避難所になってしまいます。(p xxvii)

以前の記事でも書いたように、本来、安全基地は共依存とは別のものです。

「共依存」の悪友、「安全基地」の親友、あなたの友情はどちらですか
友情関係には「共依存」として互いに足を引っ張り合う悪友と、「安全基地」として互いの成長を助ける親友の二種類があります。どうすれば本当の友情を育めるかを、いくつかの本を参考に考えまし

しかし、自分をコントロールできない不安定なクライエントは、セラピストに依存してしまいがちです。

単に言葉によって悩みを聞くというやり方では、クライエントは何か問題が生じるたびにセラピストのもとに助けを求めに来て、苦しい感情を吐露する、ということを繰り返すサイクルに、延々とはまりこみます。

セラピストは「何もできないと感じて無力になっている命の避難所に」なりますが、セラピストも一個の人間です。大勢のトラウマ当事者たちの命の避難所として、ただひたすら自分を献身的に差し出すのは現実的とは思えません。

どこかでセラピスト自身が疲れ果てて限界を迎えてしまうか、あるいはフロイトのように、知らず知らずのうちに失感情症に陥ってしまい、患者から「距離を置く」ようになるかもしれません。

トラウマの話をひたすら聴くというのは、感受性豊かな人にとっては悲惨な物事を何度も何度も体験するも同じなので、代理トラウマを負ってしまい、自分自身がいつの間にか解離して、共感性が麻痺してしまう危険をはらんでいます。

フロイトが、初期のころの性的虐待の被害者に共感的に接していたセラピーのやり方を捨てて、極端に分析的・理性的なセラピーへと方針転換したのも、おそらく、トラウマの凄惨な話を聞かされることに対する防衛だったのでしょう。

もともと感受性豊かな人だったと思われるフロイトには、カウンセリングによって恐ろしい凄惨な話を聴くことは耐え難く、自身が抱える過去のトラウマを刺激するものだったので、クライエントから距離を置いて、分析するやり方にならざるを得なかったのかもしれません。

最初はトラウマ当事者に親身に寄り添いたいと思ってセラピストになった人でも、繰り返し繰り返し恐ろしいトラウマの話を聞かされていると、次第に共感性が麻痺し、機械的になって、いつしか遠くから分析や解釈するだけになってしまう可能性があります。

これを避けるには、セラピストがクライエントの「安全基地」になるというやり方の限界を認める必要があります。セラピストは人間にすぎず、大勢の人たちの命の避難所になどなれないことを認めなければなりません。

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 で書いているこのことをわきまえる必要があります。

ジョーンが自分の窮状や苦痛に対処できるようになるためには、彼女自身の強さと自己愛の力を借りて、自ら立ち直っていけるよう仕向けなくてはならなかった。

これはすなわち、彼女のなかに眠る多くの資源に意識を集中することを意味した。

そして私は、子供のころに彼女が受けられなかった愛情や優しさを自分が与えることはできないのだと肝に命じておく必要があった。

セラピスト、教師、あるいは助言者として、幼いころの窮乏の穴を埋めてやろうとしても、自分が不適切なときに不適切な場所に現れた不適切な人物であるという事実を思い知らされるだけだ。(p473)

セラピストの役割は、クライエントの「安全基地」になることではなく、クライエントが「自ら立ち直っていけるよう」に助けること、言い換えれば、クライエントが自ら「安全基地」を獲得できるようにすることです。

愛着理論における安全基地という概念はもともと、だれか外部の人を「避難所」にして依存することを意味していません。

安全基地という概念を作ったメアリ・エインスワースは、安全基地とは外部の他人ではなく、内在化された安心できる感覚だと考えていました。

子どもは最初は他者である親に依存しているかもしれませんが、いずれ親の温かなイメージを内在化して、自分ひとりで外の世界に出ていけるようになります。

それゆえ、ヴァン・デア・コークは続けてこう書きます。

セラピーの重点は、ジョーンと私との関係ではなく、彼女と内部のさまざまな部分との関係に置かれることになった。(p473)

クライエントがセラピストを避難所としているようでは、問題は解決しないのです。クライエントが自分の内部に眠る資源を、自分で活用できる能力を育まないかぎり、独りで外の世界に出ていけるようにはなりません。

もう一度、ヴァン・デア・コークがトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 で説明していたこの言葉に注目してください。

既存の言葉によるセラピーでは、体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響を解決する手段をもたないままで、トラウマに関する潜在的な記憶を呼び覚まそうとします。

そうするとトラウマを受けた人は安全でないと感じて、目の前の関係性に助けを求める傾向が生じます。

そしてセラピストは何もできないと感じて無力になっている命の避難所になってしまいます。(p xxvii)

セラピストが、クライエントの「命の避難所」になってしまうのは、言葉によるセラピーでは、生理的な感覚を自己調節する手段を身につけさせることができないからです。

自己調節の手段を身につけさせるとはつまり、問題が生じたときに、外部の他人であるセラピストのところに繰り返しやってこなくても、自分で「体の感覚や生理的な調節不全、自発的でない体の動き、無力感、恐れ、恥、激しい怒り、などの過去からの非言語的な影響」をコントロールできるスキルを身につけさせることです。

クライエントが自己調節できるスキルを身につけ、いわば自分の身体をコントロールする素人から、自分の身体を我が物として扱えるプロフェッショナルへと成長する必要があるからこそ、単なる言葉だけのやりとりではなく、身体を使ったトレーニングが必要なのです。

その意味で、セラピストは、迷える魂の「命の避難所」のようなものではなく、温かく励まし、スキルを体得させ、やがて一人でやっていける自信を持たせるスポーツ選手のコーチのようなものだといえるかもしれません。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンスによる最新のトラウマ・ケア にもこう書かれています。

安全感のみを提供するセラピストは(それがいかに効果的であっても)クライアントをますます依存的にするだけであり、セラピストとクライアントの間の力の不均衡を増加させる。

このような妨害を避けるために、次のステップは、クライアント自身が自己を落ち着かせ、自信と自己調整感を獲得するための主体性と能力を確立していけるよう援助することである。(p94)

セラピストはただ避難所になるのではなく、「クライアント自身が自己を落ち着かせ、自信と自己調整感を獲得するための主体性と能力確立していけるよう援助する」必要があるのです。

具体的な事例として、ヴァン・デア・コークが、トークセラピーの限界を感じて開発したトラウマ治療用のヨーガ・プログラムについての本、トラウマをヨーガで克服する に出ている次のエピソードについて考えてみてください。

その教師は、トラウマ・センシティブ・ヨーガのクラスをしているとき、前の方にいる女性がある時から泣き始めたことに気づいていた。

…クラスが終わってから、教師はその女性のところに行き、「あなたが泣いているのにだいぶ前から気づいており、大丈夫かどうか確かめたかったのだが」と声をかけた。

その生徒は…本当にその時、自分のトラウマのことを教師に話したいという気持ちになった。なぜならそれは自分にとってどうしようもなく圧倒的なことで、「話せばその激しさが少しはましになるかもしれないと思ったからだ」と彼女は言った。

この時、教師は大きく決断した。トラウマの話をするのもいいが、とりあえず立ち上がって、一緒に〈山のポーズ〉をしてみないかと言ったのだ。「よさそうですね」と彼女は答えた。

…10分ほどしてから、二人は「おやすみ」と言って別れ、それでおしまいになった。

教師は、その女性のエネルギーが感情に浸されて、トラウマについて話したくなるような重い状態から、一緒にヨーガをして軽やかで安らかな感じへと大きく移り変わっていくことに注目していた。(p208-209)

このエピソードの場合、トラウマ・サバイバーの生徒は、調節不全に陥り、感情に圧倒されて、その気持ちを処理するには誰かに聞いてもらうしかない、という切羽詰まった心理状態になっていました。

もちろんセラピストは、その話に耳を傾けて傾聴することもできました。そうするほうがいい場合もあるでしょう。

しかしこのときは、別の方法を提案することにしました。トラウマについての話を聞く代わりに、生徒が自分自身で調節不全をコントロールするためのスキルを身につけられるようサポートしたのです。

彼女がヨーガ教師にトラウマ経験を話すことで話が終わったのではないことに注目してもらいたい。

多分彼女は、トラウマ・センターで治療を受けていたので、誘発反応のエネルギーを解放するには自分のトラウマについて話すのが一番良いと、最初は思ったのだろう。

そうでなければ、こういうことになったかもしれない―つまり、トラウマ性の事柄が一杯にあふれ出して、次回のセラピーのアポイントメントの時まで、そのような悪化した心的外傷後の反応を、とにかくひとりで何とかしなければならないという、困難極まりない状況に追い込まれていたかもしれないのである。

しかし、実際には明らかにヨーガのプラクティスが、彼女がその場で、まさに体の中に〈安らぎ〉を見出す助けをした。そしてそれは、彼女がトラウマについて言葉で語るというプロセスを経ることなしに達成された。(p210)

もし、セラピストが、ただ生徒の話を聞いてあげるだけだったら、どうなっていたでしょうか。

確かにその場の興奮は収まったでしょうが、生徒は、調節不全になったら誰かに聞いてもらわないといけないと学習して、今後も調節不全になるたびに、避難所になってくれる誰かを求め続けたでしょう。

けれども、セラピストはそうする代わりに、自己調節のスキルを一緒に練習しました。そうすることで生徒は、その後また調節不全に陥ったとしても、自分でコントロールしていけるという自信を深めることができました。

ここでは、たまたまトラウマ治療用のヨーガが用いられた例を挙げましたが、自己調節のスキルには、他にもさまざまなものがあります。

クライエントの話をただ聴くだけでなく、自己調節の仕方を教える方法について、より専門的な説明については、このトラウマをヨーガで克服する や、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 などがおすすめです。

ヨーガで身体の声を聞く―トラウマや慢性疼痛に身体セラピーが役立つ理由
ベッセル・ヴァン・デア・コークらのトラウマ・センターで実践されている、トラウマの身体症状に対するヨーガ・プログラムを参考にして、身体的な気づきを促すボディワークがなぜ原因不明の身体

補足3 : トラウマ治療とはバイリンガルになること

この記事では、言語の習得は、チェスや芸術、他のあらゆるプロフェッショナルな技能の習得と同じメカニズムで起こっていて、素人がプロになるにつれ、右半球の断片的なスキルから、左半球の組織化されたスキルへと移行する、と書きました。

行動経済学者のダニエル・カーネマンは、ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか?の中で、チェスの達人的技能が、実質的に言語と同じように発達することを認めて、こう説明しています。

高度なチェスの学習は、読み方の学習に似ていると言えるだろう。

小学校の一年生は文字を識別し、単語を組み立てるだけで手一杯だが、大人になれば一つの文章をぱっと認識することができる。

すぐれた読み手は、初めて見るパターンの中に慣れ親しんだ要素を発見し、これまで見たことのない単語もちゃんと「認識」して正しく発音することができる。

チェスで言えば、文字は駒の動きに、長い単語や文章は駒の配置に相当する。(p20-21)

また、自身もチェスが得意なアスペルガー症候群当事者のダニエル・タメットは、ぼくと数字のふしぎな世界 の中で、チェスのグランドマスターが、チェス技能を言語のように用いて思考していると述べています。

もちろん、グランドマスターは試合に集中する。果てしのない複雑な思考の海の中で、溺れたり沈んだりする人も中にはいる。しかしたいていは、駒の動きの連携の中から、これしかないというもっともすばらしい手を見出す。

そういったプレイヤーはチェスについてはあまり考えない。ぼくたちが言語で考えるように、チェスで考えるのだ。

あるグランドマスターは、日々の出来事を盤上の動きのように思い出すそうだ。泳ぎに行ったことを、いわばキング側のナイトがf6に移動するように思い出し、妻と食事をしたことをクイーン側のルークが四マス下に移動するように思い出すという。こうしたことが、意識せずとも自然に出てくるらしい。(p245)

彼の説明からわかるように、チェスのグランドマスターは、いわば日常使いの母国語と、チェスという特殊な言語を場面に応じて使いこなすバイリンガルなのです。

逆の言い方をすれば、わたしたちはみな、母国語のプロです。チェスの達人が子どものころからチェスを練習して意のままに操れるようになるのと同じく、わたしたちは子どものころから母国語に慣れ親しみ、意のままに操れるようになっています。

素人がプロフェッショナルに移行するときの右脳優位から左脳優位への変化は、ある技能が言語のように組織化されて、「ぼくたちが言語で考えるように、チェスで考える」ようになることを意味しています。

わたしたちが母国語を使うとき左脳を使うのは、母国語が自在に扱える思考ツールになっているからです。チェスでも数学でもスポーツでも、それを思考ツールとして使えるほどに熟達すれば、それらは左脳の技能になります。

プロになるとは、「チェスの言語」「数学の言語」「野球の言語」「絵の言語」のようなものを習得し、言語を使うことなく、その技能だけで直感的に思考できるようになる、ということです。

興味深いことに、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 では、トラウマ当事者がみせる奇妙な振る舞いもまた、ひとつの「言語」にたとえられていました。

境界性パーソナリティ障害者たちの問題(解離や、助けてもらえそうな人ならば誰にでもすがること)はおそらく、圧倒的な情動と逃れようのない残虐行為に対処する手立てとして始まったのであろうことに、ハーマンと私は気づいた。

…四月のある土曜の朝ペリーから、自分のオフィスに来てほしいというメッセージが届いた。行ってみると、プリントアウトした紙が山積みになり、その上にはペリーが載せた、ゲイリー・ラーソンの漫画があった。

イルカを研究している科学者たちが、イルカの発する奇妙な音に首を傾げている絵だった。

データを見たペリーは、トラウマと虐待の言語を理解しないかぎり、境界性パーソナリティ障害を本当に理解することはできないと確信したのだった。(p232-233)

以前の記事で説明したように、トラウマ当事者は、あたかも別の言語、「トラウマと虐待の言語」を話す、異邦人のようなものです。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

トラウマ当事者は、あまりに異質な言語を話すので、まわりの人たちからほとんど理解してもらえません。

しかし本当の問題は、当事者たち自身が、自分が話している「トラウマの言語」をしっかり理解できておらず、未熟なままで止まっている、というところにあります。

オリヴァー・サックスは、手話の世界へ (サックス・コレクション) のなかで、習得段階がまだ未熟な言語は、右脳の管理下に置かれていると述べていました。

たとえ母語であっても、事情によりうまく習得できなければ、「孤立した右半球言語」のままになってしまい、断片的な単語でしか会話できないコミュニケーション障害が生じる場合があります。

この右半球で話すという症状は、通常、晩年に受けた左半球の損傷と関係しているが、場合によっては、未熟な右半球の語彙機能から、成熟した左半球の統語論的に発達した言語機能へと転移できなかったという、発達途上の不幸に起因することもある。(p153)

トラウマを負った人が、断片的な知覚のフラッシュバックに悩まされ、混乱して考えをまとめられらず、自分の壮絶な体験をどうやっても説明できないと感じるのもそれと同様です。

トラウマの当事者は確かに別の言語を話してはいますが、その体験がまだ組織化されていないために、うまくコントロールできません。言ってみれば「トラウマの言語」をしっかり習得して、バイリンガルになることが必要なのです。

別の記事で詳しく説明していますが、トラウマを負った人が抱える制御できない気分変動や理不尽な思考パターン、克服できない中毒や依存症の裏には、「スイッチング」と呼ばれる問題があります。

これは、自分でも意識しないままに、別の生理的モードへと条件反射的に切り替わってしまう現象です。このせいで、トラウマを負った人は、周囲に振り回され、どうやっても自分をコントロールできないと感じるようになります。

興味深いのは、このスイッチングのメカニズムには、言語のバイリンガル機能を切り替える脳の部位が関わっているらしいことです。

制御できないスイッチングは、脳科学的にいえば、言語の習得がまだ未熟なせいで、複数の言語をまだうまく使い分けられない状態に似ているのです。

無意識に人格が切り替わってしまう「スイッチング」とは?―多重人格をスペクトラムとして考える
複数の人格を抱え持つ多重人格(解離性同一性障害)は奇病のようにみなされがちです、しかし実際にはスイッチングというグレーゾーンの現象を通して、普通の人たちの感覚と連続性をもってつなが

ということは、言語の習得と同じように、しっかりと熟達して、自分の意思で生理的状態を切り替えられるようになれば、スイッチングに振り回されることはなくなるのではないか、と推測できます。

チェスの達人が、母国語とチェスの言語とを自在に使い分けられるバイリンガルだったように、「トラウマの言語」をしっかり習得して、自分の意思で使い分けられるバイリンガルになる必要があります。

卓越したバイリンガルのように同時通訳できるようになれば、今までどうやっても語ることができなかった混乱したトラウマの経験を、筋道だった物語に翻訳して、確信をもって語れるようにもなるでしょう。

つまり、トラウマを物語にできるときが来るとすれば、それは単なる会話セラピーの結果ではなく、トラウマの言語をしっかり習得してバイリンガルへと成長し、通訳できるようになった結果なのです。

そのためには、実際に現地で言葉を学ぶかのように、身体経験を通して新しい言語に習熟する必要があります。

たとえば身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 には、演劇やロールプレイの要素を取り入れたPBSP療法(ペッソ・ボイデン・システム精神運動療法)の様子が書かれています。

この療法では、他の参加者たちと協力して、実際に経験したトラウマ的な過去とは異なる理想的な過去を、迫真の劇形式で演じることによって、過去の経験を新しい経験で上書きします。

精神運動療法がもたらす高度に構造化されたストラクチャー[※人物を配役して劇場のように構成する場面のこと]における経験が非常に貴重である一因も、そこにある。

参加者たちは生身の人間がたくさんいる空間に自分の心の中の現実を安心して投影でき、そこで過去の不協和音と混乱を探ることができる。これが具体的に腑に落ちる瞬間につながる。

「そうだ、こんなふうだったのだ。私が対処しなくてはならなかったのは、これだ。そして、もし私が大事に優しく育てられていたら、あのころ、こんなふうな感じだったのだろう」。

人は、ストラクチャーによるトランス状態のような器の中で、三歳児として大切にされ保護されていると感じるという感覚的経験を得ることによって、「私は拒絶されたり傷つけられたりすることを恐れる必要なく他の人々と自然に交流することができる」というように、自らの内部経験を書き直すことができる。(p508)

こうした治療では、限りなくリアルに近い劇の中で、理想の過去を演じるという体験によって、子どものころに学び損ねた基本的な安心感を大人になってから学ぶことができます。

それはあたかも幼いころに学びそこねた言語を、大人になってから経験を通して習得することに似ているのでしょう。

子どものころは何も努力しなくても言語を学べますが、大人になるとそうはいきません。言語だけでなく、基本的安心感もまた、生後すぐの「経験する自己」が最も活発な期間に最も強く学習されるようです。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

子どものころに基本的安心感を学び損ねた人も、大人になってしまった今、新しい言語を習得するのは一筋縄ではいきません。英会話スクールに通うようにしてカウンセリングに通うだけでは、おそらく習熟することはできないでしょう。

でも現地で実体験を積むなどの集中的なトレーニングを積めば、大人になってからでも、新しい言語を習得することは可能です。

いみじくも、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復の中で、神経生理学者ピーター・ラヴィーンは、感覚運動を使ってトラウマを治療するセッションで得られる気づきを、まさに外国語の習得になぞらえて、こう書いていました。

セッションを始めたが、ペドロが大勢の前で落ち着きがないことは明らかだった。そわそわし、まわりの様子をちらちらとうかがっていた。

ペドロがときどき拳を握りしめ、そこに注意を向けていることに私は気がついた、拳をギュッと握る感覚を感じてもらうために、「拳のなかにいるつもりで感覚を感じてみる」ように言った。

この言い方は、ペドロが自分の手について「考える」ことと、実際に「身体的な感覚として味わう」ことの違いを識別するのに役立ったようだ。

このように視点を変えてみる体験は、最初は雲をつかむようだが、突然「わかった」と思うものだ。

まるで外国語を習って、初めて現地の人たちと言葉が通じたようなワクワクした感覚である。この場合の外国語とは、体の内面の内受容的感覚であり、現地人とは、核となる原初的な真の「自己」である。(p82)

感覚運動を用いたトラウマセラピーは、あたかも現地に行って、外国人とコミュニケーションするようなものです。今まで解離させて麻痺させていた体の声に、ひたすら感覚を研ぎ澄まして耳を傾け、意思疎通することを目指す訓練だからです。

現地で実体験を積むことに相当する具体的な体験を通して、「自らの内部経験を書き直す」ことができれば、たとえ何歳になろうと、基本的安心感を身体で学ぶのに決して遅いということはないはずです。