離人症の人の目には、周りの世界は、異様で、奇妙で、なじみがなく、夢のように映る。
物はときおり不思議なほど小さく見え、平たくなることもある。音は遠くから聞こえるように思える。
…情動もやはり、著しく変化する。患者たちは、苦痛も快感も経験できないと苦情を言う。…彼らは自分自身に不案内になってしまったのだ。(p168)
これは身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法という本に載せられている、ベルリンの医師ポール・シルダーが1928年に書いた「離人症」「離人感」(depersonalization)の特徴です。
100年近く前に書かれたこの同じ離人症を経験する人は、今の時代にも大勢います。現実感のない感覚。それはとても気持ちが悪く、不安を誘うものです。
生きている実感がなく、自分が空っぽに感じられ、世界が遠くに薄っぺらく色あせて見え、自分の体が抜け殻のように、また自分ではない人形のように思えるとしたら、生きることに喜びや幸せを感じられなくなるでしょう。
この記事では、いくつかの本をもとに、離人症にはどのような症状が含まれるのか、なぜ現実感がなくなるのか、どうすれば治療できるのか、という点を紹介したいと思います。
もくじ
これはどんな本?
今回、おもに参考にしたのは以下の三冊です。
「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相は、さまざまな精神病理学者の2010年の発表原稿をまとめたものです。この記事では、解離に詳しい柴山雅俊先生による「解離における離隔の諸相―離脱・融合・拡散」という章を参考にしています。(p176-208)
冒頭で引用した、トラウマ研究の専門家、ボストン大学のベッセル・ヴァン・デア・コーク先生による身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法も離人症の脳科学的なメカニズムや治療法を知るにあたり参考にしました。
ジャーナリストアニル・アナン・サスワーミーによる私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳では、離人症をはじめ、自己のアイデンティティが侵食される様々な病気が取り上げられていて、自己を生みだす脳のメカニズムが解説されています。
離人症の二つのタイプ
まず、知っておく必要があるのは、「現実感がない」という離人症状にも、少なくとも2つのタイプがあるということです。最初に自分がどちらのタイプなのかを知らなければ、原因や治療法を選択することができません。
まず1つ目は、うつ病などの精神疾患、脳神経疾患、身体疾患などに合併して見られる離人症です。
こちらの離人症は、頭が働かない、思考がまとまらない、霧がかかっているといった感覚を伴います。うつ病や慢性疲労症候群などのため、純粋に思考力が低下した結果として現れる「脳の霧」(ブレイン・フォグ)と呼ばれる症状です。
「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相では、このタイプの離人症では、次のように感じると書かれています。
いまの自分がかつての自分とは違って、まったく異質な状態になってしまった。それがずっと持続している。
このような状態が改善されないと日常生活をまっとうに送ることができない。(p178)
続解離性障害の中で解離や摂食障害に詳しい野間俊一先生は、この種の離人症について、こう述べています。
20世紀半ばに内因性精神病との関連で議論された離人症は慢性的に実感を失っている状態で、解離性の離人症のような不安定さはありません。(p218)
このような離人感の場合は、おそらく脳機能の低下に伴う二次的なものなので、原因となっている精神・身体疾患を治療すれば、おのずと現実感も戻ってくるでしょう。
以前の記事で書いたように、うつ病の治療で改善するケースもあれば、栄養指導などで良くなるケースもあるようです。
これに対して、2つ目のタイプは、「解離」という脳のメカニズムが深く関わっています。こちらがこの記事で扱う、本来の意味での離人症です。
「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相によると、解離性の離人症では、次のような具体的な訴えが見られるそうです。
ビデオカメラを覗くように、限定された枠の中に世界が現われ、視野全体が狭くなる。
世界の奥行き感がなく、対象との距離が遠くなったり近くなったりして、はっきりと定まらない。
どこか地に足が着いていないようで、自分が浮き上がっているようで、自分が「いま・ここ」にいるという実感がなくなる。
まるで夢の中のようで、夢か現実かわからない感じがする。(p178)
この記事で取り上げるのは、こちらの「解離が関係している離人症」についてです。こうした離人症が起こる病気は「解離性障害」と呼ばれています。
解離性障害というと、多重人格(解離性同一性障害)や記憶喪失(解離性健忘)などが有名ですが、実際には、そうした典型的ともいえる症状は少ないそうです。むしろこう書かれています。
そういった解離性障害の八割から九割に離人症がみられる。
従来、「実感がない」「現実感がない」と訴える離人症は統合失調症との関係で取り上げられることが多かったが、今日では解離性の離人症が目立って増加している。(p176)
離人症とは何か?
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、離人症という概念は、19世紀末フランスの心理学者ルドウィック・デュガによって生み出されました。
離人症という用語は1890年代、フランスの心理学者ルドウィック・デュガが「精神活動に付随するはずの感情や感覚が不在の状態」を表すのに初めて使った。
デュガがこの言葉を知ったのは、スイスの哲学者アンリ=フレデリック・アミエルの没後に出版された『日記(Journal Intime)』だった。
「存在は墓の向こう側、もうひとつの世界にあるようなものだと思っている。あらゆるものが私には異質だ。
言ってみれば、私は自分の身体と個性の外側にいる。切りはなされ、分離した離人状態だ。これは狂気なのだろうか?」(p164)
この離人症についての最初の洞察、哲学者アンリ=フレデリック・アミエルの言葉には、離人症とは何かという概念が見事に言い表されています。
離人症とは、自分の肉体から「切りはなされ」「分離し」たような感覚、あたかも「もうひとつの世界」に存在しているかのような奇妙な違和感、不快感のことです。
彼が述べている「これは狂気なのだろうか?」という一言もまた、離人症の本質を物語っています。
離人症に陥った人は、世界の奇妙な変容を感じますが、たとえば統合失調症のように妄想的になるようなことはありません。冷静に違和感を自覚し、自分はおかしくなってしまったのだろうか、と思い悩みます。
何度も離人症を体験してきた当事者であるジェフ・エイブゲルは、自分の身体の違和感を強烈に自覚し、ひたすら何が起こっているのか考えつづけることが、離人症の特徴のひとつだと述べました。
離人症性障害に関する著作を二冊出版しているジェフ・エイブゲルは、私にニコラスを紹介してくれた人でもあり、自己反芻のこともよく知っている。
10代後半から一過的な離人症を何度も経験してきたエイブゲルは、「自分の人生を構成する精神的な要素が、ほぼすべて消えたように感じる」と言った。
「あとに残るのは、自分の何がおかしいのか答えを見つけようとするノンストップの衝動だけです。いったいどうした? なんでこんな感覚なのか? 何が起こっている? そんなことを全身全霊で考えているんです」(p180-181)
離人症の当事者は、当たり前の感覚が当たり前でないせいで、他の人は気にも留めないようなこと、たとえば自己の存在や意識といった哲学的な事象(今日では科学的にも解明されつつある)について徹底的に悩み考え続ける傾向があります。
おそらく古今東西の哲学者には、ウィトゲンシュタインやショーペンハウアーなど、離人症ぎみだったために複雑な哲学を生み出した人が多いように思われます。離人症という言葉を最初に使ったのもスイスの哲学者アンリ=フレデリック・アミエルでした。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちによると、子ども時代の度重なる逆境体験によって、生涯にわたって苦悩を抱えることになった作家ヴァージニア・ウルフもまた、解離による離人症と思しき症状に苦しめられ、同じように自己観察を繰り返しました。
医師たちに無理やりベッドに寝かされた彼女は、天井をじっと見つめ、自分の脳を仔細に観察して時間を過ごした。
彼女は自分が「1つの状態でない」ことを発見した。「病気であることが、人を別々の人に分裂させるなんて、じつに妙だ」と彼女は述べている。
どの瞬間にも、彼女は狂人状態であると動じに意識清明でもあり、また頭が冴えていると同時に精神異常でもあった。(p254)
離人症を抱える人たちは、自分の状態が明らかにおかしいことを感じ取っていて、客観的に自覚しています。自己が「分裂」し「切り離され」ているからこそ、客観的な目と思考で自分を観察しつづけます。
作家アルベール・カミュもまた、離人症を伴ううつ状態に悩まされた一人かもしれません。彼は小説「異邦人」の中で、自身を投影したと思われる主人公ムルソーの宇宙的な孤独を描きました。
カミュは、シーシュポスの神話 (新潮文庫)に自分自身について、こう書き残しています。
みずから確信しているこの自我をぼくが捉えようと試みると、この自我を限定し要約しようと試みると、それはもはや、指のあいだをこぼれ落ちていく水でしかない。
…自分がたしかに存在しているということについての確実さと、この確信にぼくが与えようと試みる内容、そのあいだの溝は、いつまでたってもけっして埋められることはないだろう。
永久に、ぼくはぼく自身にとって異邦人であるだろう。(p38-39)
離人症の人たちは、世界からも身体からも切り離された自分を、何も馴染みのない永遠の異邦人であるかのように、当事者ではなく傍観者として外側から眺めているのです。
解離性の離人感の7つの特徴
解離性の離人症を抱える人は、自分の体験に対して敏感なので、さまざまな具体的な違和感を感じ取ります。ここでは離人症によくある訴えを7つ調べてみましょう。
以下の症状は、離人症状としては、かなり程度が進んだ重いものも含まれるので、離人症だからといって、必ずしもすべてを経験するわけではありません。
1.時間や空間がゆがむ
離人症の大きな特徴は、時間感覚や空間感覚が歪むことです。解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、感覚の歪みの例としては、以下のようなものがあります。
■いったい今がいつなのかわからない
■過去と現在が重なっている感じ
空間感覚の歪み
■実際に起きていることなのか夢で見たことなのかわからない
■生きている感じがしない
■自分の体に実感がない
■宙に浮いているような感覚がある
■ものが遠のいていったり映画のセットみたいに見えたりする
■自分や他人が操り人形のように感じられる
■人や物が大きくなったり小さくなったりする
このような知覚の歪みは、「不思議の国のアリス症候群」としても知られています。
これは偏頭痛発作の前兆として起こることもありますが、離人症の症状のひとつとして生じることもあります。どちらの場合も、神経の信号伝達の乱れが関係しているようです。
「不思議の国のアリス症候群」という通称は、あの有名な童話のアリスがそうした感覚を体験したから、という理由だけでなく、そもそも作者のルイス・キャロル自身が偏頭痛もちで、この種の知覚変容を経験していたらしいことからきています。
偏頭痛の当事者また専門医だったオリヴァー・サックスは、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) の中で、この感覚について次のように書いています。
リリパット(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する小人間)・ヴィジョン(小視症)は対象が明らかに小さく見えることで、プロプディンナグ(同上の巨人国)・ヴィジョン(大視症)は大きく見えることである。
またこれらの言葉は対象が明らかに近づいたり遠ざかって見える症状、つまり距離は一定であるのに対象、幻覚、あるいは混乱した対象の大きさが交互に現れる症状の説明ともなっている。
このような変化が急激にではなくゆっくりと起これば、患者はズーム・ヴィジョンを経験することになる。その場合には、あたかもズームレンズの距離を変えるように、対象の大きさが拡大したり縮小したりするのである。
こうした知覚変化を描写した最も有名な人物は当然ながらルイス・キャロルで、彼自身がこの種の劇的な片頭痛を患っていた。(p157)
詳しい説明は以下の別記事に譲りますが、サックスはこの本の中で、偏頭痛という現象そのものが、生物学的には解離と性質が近い(どちらも副交感神経系の凍りつき反応による)ことを示唆しています。(p377-385)
そのようなわけで、偏頭痛の前兆として離人症が多いと書かれているのも不思議ではありません。
前兆でもっとよくみられるのは、一時的な離人症の状態である。
…「自己」という感覚は、安定した身体的イメージ、安定して外へ向かう感覚、安定した時間の感覚が継続することで保たれているように思える。
したがって、身体的イメージ、外部への感覚、時間の感覚に深刻な混乱あるいは不安定さが生じるやいなや、自己が崩壊するような感覚が起こる。
そしてこうした混乱はみな、片頭痛の前兆の最中にみられるものである。(p168)
偏頭痛の前兆には、不思議の国のアリス症候群のような視覚的な変容の他にも、音・におい・触感などの幻覚や、他のさまざまな知覚変容も含まれます。
もちろんこれらは、偏頭痛の前兆に伴う離人症だけでなく、恐ろしいトラウマによって引き起こされる離人症においても生じます。
たとえば私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびての中で、父親から性的虐待を受けたときに解離状態になり、離人症を発症したオルガ・トゥルヒーヨは、次のように書いていました。
私は精神がしだいにぼんやりしてきて、部屋のものすべてが遠くに見えた。抵抗をやめ、静かになった。
父やほかのものもよく見えなかった。父のことばもはっきり聞こえなかった。私の中の深層で、まるで甲羅の中の亀のように、私はどんどん小さくなり、陥ったパニックもどうにかおさまった。
息もおだやかになり、私は自分の体を離した。押しつけられていた床から起き上がるのを感じた。
二人の幼い女の子に分離したかのような不思議な感覚だった。両手に違和感があり、指が多いのに気づいた。手が二つに割れて別々の手になった。(p33)
このとき、オルガは、ひどい虐待を受けて、身体の苦痛を解離によって切り離しました。感覚を遮断したことで、自分の身体が他人のように思えただけでなく、まわりの空間や大きさ、時間の感覚が変容し、二人の自分に分離したかのように感じられました。
2.意識が二重になったような感覚
二番目の点は、意識が二重化して感じられることです。「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相にはこう書かれています。
世界が、奥行きがなく平面で、質感も重さもなく、物が空間にばらばらに浮かんでいる状態になることがある。
…そうした時に後ろにずれると、世界がまとまって見えるようになる。
…後ろの離れたところから自分を操る感じです。そういったときは視野が狭くなる。(p189)
この例では、自分が後ろにずれるという感覚を伴っています。解離性障害の離人症では、自分が二重化して、後ろから傍観している冷めた自分と、空っぽになって魂が抜け出たような自分を両方感じていることがあります。
後ろにずれる、という感覚は、別の記事で書いたように、脳が作り出している身体地図の位置が実際の場所からずれることで起こる現象です。
実際の手足がなくなった後に、まだ手足があるかのように感じる「幻肢」と呼ばれる現象があります。このことからわかるのは、脳は幻の身体、つまり仮想の身体地図を作って身体の空間的位置を認識しているということです。
わたしたちの身体には、よく知られている五感以外の感覚も備わっています。そのひとつが、植物はそこまで知っている (河出文庫) で説明されているような「固有感覚」、すなわち、手足や身体の内部から発せられる、位置情報の感覚です。
いわゆる「五感」以外の六番目の感覚が、世間で話題になっているような超感覚的知覚(テレパシーや透視など)ではないことを、私たちはそれこそ第六感で知っている。
六番目の感覚、それは「固有感覚」と呼ばれるものだ。固有感覚とは、私たちが体を動かしたときに体の各部位が互いにどんな位置関係にあるのかをいちいち見て確かめなくてもわかるという感覚だ。(p110)
脳は、ちょうどGPS信号で位置情報を絶えず補正するかのように、固有感覚を通して自分の位置情報を取得して、自分の身体がどこにあるか認識しています。
おいおい説明していきますが、解離を起こす人は、何らかの耐えがたい苦痛を切り抜けるために、固有感覚をはじめ、こうした身体の内的な感覚を切り離して麻痺させてしまいます。
その結果、身体の正確な位置情報を取得できなくなってしまい、仮想の身体地図の位置情報が、本来の肉体のあるべき位置からずれることで、身体の位置がずれて感じられます。
この身体の位置情報のずれが極端になったものが、体外離脱や幽体離脱と呼ばれている現象です。つまり、離人症を科学的に解き明かすということは、幽体離脱のようなオカルトと思われている現象を科学的に説明することと同じです。
興味深いことに、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) によれば、このような自己感覚の二重化は、偏頭痛の前兆としての離人症でもやはり生じます。
前兆で見られる最も奇妙かつ強烈な症状であり、描写や分析がとても難しいものに、あるとき突然、現在と同じ状況が以前にもあったと思ったり確信する(既視感)、あるいは反対に、突然その状況が奇妙で見知らぬもののように感じる(未視感)症状がある。
…たとえば、時間が止まってしまったという感覚、あるいは同じ時間がどういうわけか何度も繰り返すという感覚。そして自分が夢を見ているか、一瞬の間だけ別世界に連れ去られたという感覚などである。
既視感の強い郷愁とともに、長い間忘れていた記憶がよみがえることもある。既視感の中で自分には千里眼があると感じたり、未視感の中で世界そのものが新しく生まれ変わったように感じたりする。
そして、患者は常に、自分の意識が二重になったように感じるのである。(p162)
「自分の意識が二重になったように感じる」ときには、それに伴って、自分が複数の次元にいるかのような奇妙な感覚が起こります。今ここにいるはずなのに、別の場所、別の時間軸にいるかのような「既視感」や「未視感」です。
この自己意識が二重になることからくる既視感や未視感は、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にも書かれているとおり、慢性的に離人症を患っている解離の当事者によく見られます。
デジャヴュとは目の前の光景はかつて自分が見たことがあるようだとか、こうして人と喋っているのは以前にも経験したことがあるとか、あるいは以前に夢で見たと感じる既視感のことである。
つぎにどんな展開になるかわかるし、実際そのとおりになるという予知感を伴うことも多い。
…解離の患者はこのデジャヴュを幼少時から頻繁に体験していることが多い。(p63)
既視感や未視感は、「なじみ深さ」に関わる脳の神経回路が一時的に解離している状態です。そのため、初めてのことなのに前にもあったような感覚が伴ったり、いつものことなのに初めての経験のように感じられたりします。
こうした体験を繰り返していると、自分には千里眼があるとか、前世の記憶が残っているというオカルト的解釈をしてしまいやすいですが、脳神経科学的に説明できる現象です。
通常なら認識の処理と親しみ(なじみ深さ)の処理は同時に行われますが、それらが解離して(切り離されて)しまっているせいで、知っているはずなのに馴染み深くない(未視感)、知らないはずなのになじみ深い(既視感)という二重性が生まれるのです。(詳しくは記事末の補足も参照)
3.離隔―現実から隔てられた感じ
三番目は、世界が遠のき、現実から隔てられたように感じる「離隔」です。
いま考えた自己感覚の二重性には、自分の一部はここにいるのに、別の部分はここにいないかのような感覚が伴っていました。離隔とは、そのような現実から切り離されているように感じる体験のことを言います。
「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相にはこう書かれています。
自分が置かれた状況をドラマや他人事のように見ている。ただ見ているだけというか、映画を見ている感じがする。
見え方が違う。立体を直に見ているのではなく、平面に立体が映っている。(p180)
離隔とは、漢字のとおり、「離れて隔てられている」ように感じることです。周囲の世界と自分との間に膜があるように感じ、現実感がありません。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、19世紀のフランスの精神科医ジャン=エフィエンヌ・ドミニク・エスキロールは、離人症という概念が生まれるより前から、こうした離隔を訴える人たちの感覚に注目していました。
エスキロールはこうした患者をほかにも見たことがあった。
「外の世界のこと、つまり自分が聞いたり、見たり、触れたりすることが、深淵で隔てられているようだと彼らは言う……昔の自分とは別の人間だと。
物が実在するものとして感じられず、自分が現実の自分と重ならない。ぶあつい雲やベールがあいだにはさまって、物事の特徴や状態がちがって見えてしまう」
これが「離人症」と呼ばれるものだ。(p164)
「深淵で隔てられているようだ」「ぶあつい雲やベールがあいだにはさまって」いる。こうした感覚こそが離人症の離隔です。
トラウマをヨーガで克服する という本にも、分厚いガラス越しに世界を見ているような離隔の感覚に苦しむトラウマ・サバイバーの女性の言葉が載せられています。
〈解離〉には、自分の体や周囲の世界との断絶感がある。ある生徒は解離を、「煙でいぶしたガラスで隔てられて生きているような感じ」と表現した。
時にはそのガラスが非常に暗く、向こう側にあるものは、形が辛うじて分かるだけだ、と彼女は言った。
時どき、彼女の声に答える声が聞こえてくることもあり、ガラス越しに何かが動いているようには見えるが、人の顔の表情は分からず、彼らに触れることもできない。
彼女は世界と切り離されていたのだ。(p82-83)
「煙でいぶしたガラスで隔てられて生きているような感じ」というこの言葉も、離隔に伴う覆いかぶさるようなうっとうしさや不快感を的確に表現しています。それは「世界と切り離されて」いる感覚です。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)では、あたかも着ぐるみの内側から世界を見ているように感じる場合もあると書かれています。
以上のように「眼差す私」は「存在者としての私」の外部に、そこから離れた位置から世界と「存在者としての私」を眼差している。
そのとき世界は間接的に、なにかヴェールがかかったように、膜をとおして感じられることが多い。
…実は「眼差す私」は、身体の外部だけではなく、身体の内部にも位置しうる。そのとき「眼差す私」は身体の中から、着ぐるみを被って眼の部分に空いたふたつの穴か外の世界を覗き込むようにして世界を眼差している。
これを私は「体外型離隔」に対して、「体内型離隔」ないしは「着ぐるみ型離隔」と呼んでいる。(p93)
あたかも着ぐるみをかぶって、その内側から覗き穴をとおして周りの世界を感じているようだ、という表現もまた、離隔による「世界と切り離されて」いる感じを的確に言い表しています。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、離人症に苦しめられたと思われるヴァージニア・ウルフもまた、次のような言葉を残しているそうです。
私たちは深い地下のどこから感情の色を取ってくるのか。つまり感情の迫真性とは何なのか。(p158)
離隔に陥ると、世界から色が失われ、感情の迫真性を感じられず、身の回りのものがハリボテや作り物、模造品に思えたりします。
離人状態にある彼女にとって、感情の迫真性や現実のリアルさは、あたかも深い地下に隔てられているほど遠いものに思えたのかもしれません。
このような、現実感が薄れる感覚は、脳の「島皮質」と呼ばれる場所の活動低下と関係しているようです。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれている神経科学者バド・クレイグの研究によると、島皮質は、前述の固有感覚などの内的感覚と、五感に代表される外的感覚を統合し、「いまこの瞬間に存在している自己」という感覚を作り出しています。
怒りから性欲、飢え、渇きに至るすべての感覚で、前部島皮質と前帯状皮質の活動が高まることは、すでに多くの研究が示している。
クレイグはこうした研究も踏まえて、説得力にあふれる仮説を立てたー人間の全感覚の責任は前部島皮質にある。
前部島皮質は、身体の生理学的状態を主観的に自覚するための神経基質であり、外部刺激、内部刺激、活動動機の表象が起きている状態を、前部島皮質が統合しているのだと。
…クレイグは電話インタビューでこう話した。「いまこの瞬間に存在している自己は、前部島皮質に根ざしているのです」(p286)
島皮質が過剰に活性化すると「今ここに存在している感覚」が強まり、逆に島皮質が活動低下すると「今ここに存在している感覚」が弱まります。
解離とは真逆のトラウマ反応だと言われているPTSDでは、島皮質が過剰に活性化していることがわかっていて、「怒りから性欲、飢え、渇きに至るすべての感覚」が強すぎ、過去のトラウマ体験が今まさに起こっているかのように真に迫って感じられます。
他方、解離の離人症では、島皮質の活動が低下していることが確かめられています。感覚が薄れて、いま生きて存在しているという自覚が弱まった状態です。
メドフォードらの実験では、嫌悪感をかきたてる写真を見たとき、離人症性障害の患者は左前島皮質の活動が明らかに落ちていた。
「何らかの理由で情動回路、情動反応のスイッチが切られているようです」とメドフォードは私に話してくれた。
…左前島皮質は、身体の内側(内受容性)と外側(外受容性)から入ってくる刺激を統合する。(p182)
離人症性障害では島皮質の活動が低下して、患者は「世界から感覚的、知覚的な現実感が抜けおちたと感じる」というが、こうした知見とも一致している。(p289)
この島皮質の活動低下のせいで、離人症の人は、「今ここに存在している」という現実感を感じられなくなり、「世界から感覚的、知覚的な現実感が抜けおちたと感じ」ます。
4.過敏―ささいなことに動揺する
四番目は、ささいなことに動揺する感覚の「過敏さ」です。
自己感覚の二重化では、自分の一部は今ここにいるのに、別の部分はここにいないという感覚が生じました。離隔が「今ここにいない」側の体験だとすると、過敏は「今ここにいる」側の体験であり、二つは同時に起こります。
「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相にはこう書かれています。
自分のすぐ後ろに誰かがいる感じがする。私が手紙を書いているときに、それをじっと見ている人を感じる。右肩のところに誰かがいる感じがする。(p180)
解離によって過敏になった人は、他者の気配に過敏なため、閉じ込められることが怖く、トイレやお風呂のドアを少し開けておくこともあります。(p190)
また人混みに行くと、周りに圧倒され「人混みが怖い」「周囲が迫ってくる」と感じることもあります。(p179)
離人症は現実感がなくなる「離隔」を伴うので、「過敏」になるというのは真逆のように思えます。
しかし、解離性の離人症は、後で書くように、何らかの強い感覚刺激(トラウマを含む)に対する防衛として生じています。わたしたちは、あまりに強い感覚刺激にさらされると、あたかもブレーカーを落とすかのように遮断することで身を守ろうとします。これが「解離」です。
前項では、離人症の人たちは、感覚を統合して「今ここにいる自分」という現実感を作り出す島皮質の活動が低下している、と書きました。
その島皮質の活動低下も、もともと生まれつきのものではなく、身を守るための防衛反応だと考えられます。
引用した文中で、メドフォードがこう述べていたのを思い出してください。
離人症性障害の患者は左前島皮質の活動が明らかに落ちていた。
「何らかの理由で情動回路、情動反応のスイッチが切られているようです」とメドフォードは私に話してくれた。(p182)
あまりに強い感覚刺激にさらされて耐えられないがために、ちょうど感覚のスイッチを切るかのようにして、現実感を薄れさせることで自分を守ろうとしているのです。
前述のように、離人症では、世界が大きく感じたり小さく感じたり、時間が長く感じたり短く感じたりといった空間や時間の変容(いわゆる不思議の国のアリス症候群)がみられます。
このような感覚の変容は、認識の処理と親しみ深さの処理が切り離されている、という話にあったように、本来一緒に処理されるべき感覚が解離され、物事の実際のありようがつかめなくなることから生じています。
先ほど触れたように、わたしたちは、全身から入ってくる感覚の情報を通して、自分がいまどこにいるのか、安全か危険か、といったことを判別しています。
しかし、その情報が十分でなければ、安全か危険かを判断できなくなります。ちょうどそれは、飛行機で飛んでいるとき、電波状態が悪くなって管制塔からのナビゲーションを受け取りにくくなるのに似ています。
分厚い雲の中を飛んでいるとき、管制塔からの通信が途切れてしまったら、自分の位置情報がわからなくなる「離隔」が生じるだけでなく、位置情報がわからないことからくる不安から「過敏」にもなるでしょう。
トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際 によれば、解離を起こした人たちは、ささいな刺激に対しては敏感になる一方、大きな刺激に対しては鈍感になりやすいと言われています。
すぐ近くにある通常以上の大きな音にほとんど反応しない人がいる一方で、遠くの車の音にもおびえ圧倒される人がいるかもしれません。(p46)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア によると、これは動物実験レベルでも確認されている傾向です。
逆説段階、または長引くストレスに対するパブロフの第二の反応において、…イヌたちは強い刺激に対するよりも、弱い刺激に対して活発に応答するようになる。これはトラウマを受けない限り、普通には起こらないようなことである。
ベトナム帰還兵が、最前線にいるわけでもないのに、遠くの車が放つバックファイヤーの音で身をかがめるのは、この段階の障害を示している。
もう一つの例は、通り過ぎる影一つ一つに激しくおびえながらも、場末の飲み屋に集まってくるレイプ被害者である。(p291-292)
こうした大きな脅威への鈍感さと、小さな刺激への敏感さは、どちらも、身の回りの情報の感覚を適切に読み取れないことから来ています。
あたかも目隠しされた人が、目の前にそびえる巨大なビルに気づかず、足元の小さなでっぱりを警戒して歩くようなものともいえます。
5.リアルな夢―内側に注意が向きすぎる
5番目は、夢のリアルさです。解離の当事者は、日常生活で現実感がなくなっているのとは対象的に、夢の中ではリアルすぎる世界を体験することが多いと言われています。
たとえば空をとぶ夢、飛び降りる夢、追いかけられる夢などが多く、感覚もとてもリアルで、夢のなかでもはっきりと意識を保っている、いわゆる「明晰夢」を見ることも多いようです。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によると、ある当事者は、現実のリアルさと夢のリアルさを対比して、次のように述べていました。
「夢は現実よりもその画素が多い。あまりに鮮やかで綺麗で印象的。
それに対して現実はあまりにぼんやりとしている。夢の方がずっと現実的なのです」(p61)
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 に書かれているように、リエージュ大学の神経学者スティーヴン・ローレイズによれば、外部への注意と、内部への注意は、互いにシーソーのような競合関係にあって、どちらかが増加するとどちらかが低下します。
意識的な自覚には二つの次元があるとローレイズは説明してくれた。
ひとつは外の世界に対する自覚で、視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚を通じて知覚されるものすべてだ。
もうひとつは内的な自覚で、自分の身体への知覚や、外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など、自己参照的な知覚だ。
…健康な人で調べると、二つの次元の自覚は逆相関になっていることがわかる。外部に注意が向いているときは、外的自覚のネットワークが活発になり、内的自覚のネットワークはおとなしくなるのだ。もちろんその逆もある。(p27-28)
外部への注意と内部への注意は互いに逆相関にありますが、ここで書いてあったように、内的な自覚には「外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など」が含まれています。
睡眠中の夢もまた、外部の感覚が遮断されたレム睡眠中に起こるものであり、やはり主に内的な感覚から生み出されています。
そして、離人症の人たちは、外部に対する注意が減るとともに、内部に対して敏感になっていると考えられています。
離人症性障害になると、情動が抑え込まれ、身体感覚や現実感覚が変質する。これはまちがいない。脳が身体の状態を感じとる仕組みがどこかでおかしくなっているのだ。
また自己反芻(self-rumination)にも陥りやすいー変質した状態にばかり思考が向かい、外界への注意が極端に減るのだ
(外的自覚と内的自覚にはそれぞれネットワークがあって、逆相関になっているというスティーヴン・ローレイズの説を思いだしてほしい)。(p180)
離人症では、外的感覚への注意が減少してぼーっとする一方で、内的感覚への注意が優勢になり、体の内側の「変質した状態」を過剰に感じている状態にあります。
そのため、四番目に書いたように、外部の世界に対しては鈍感になる「離隔」が生じると同時に、自分の内側に対しては「過敏」になって、ささいなことに動揺する、という逆相関が生まれます。
前述のとおり、「外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など」は、この過剰になった内部への注意から生み出されるので、離人症に陥った人は空想世界が豊かになったり、非常にリアルな夢を見たりします。
解離の当事者がリアルな幻覚を経験しやすいのも外部への注意が減少した分を、内部への注意が補おうとするせいでしょう。あたかも起きながら半分夢を見ているようなものだということです。
外部への注意と内部への注意が逆相関になっているということは、言い換えれば、外の世界のリアルさと、内なる世界のリアルさが逆相関になっているという意味でもあるのです。
今の引用文では、離人症の人たちは、「変質した状態にばかり思考が向かい」「自己反芻(self-rumination)にも陥りやすい」とも書かれていました。
離人症では、島皮質の活動が低下しているだけでなく、理性的な思考をつかさどる前頭前皮質の活動が上昇していることも確かめられています。
離人症性障害との関わりがよく指摘される領域に、背外側前頭前皮質(VLPFC)があるー情動をトップダウンで制御するところだ。
メドフォードらの研究(離人症性障害の患者14人を対象とした大規模なものだ)では、患者は健康な人とくらべてこのVLFPCが過活動になっていた。どうやらそれが情動反応を抑制しているらしい。(p182)
つまり、脳科学的に言えば、島皮質の活動が低下して現実感が薄れるだけでなく、理性的思考をつかさどる前頭前皮質の活動が増加して、その奇妙な内的経験をひたすら考えつづけてしまうのが、離人症の脳だということになります。
離人状態という言葉を最初に用いた哲学者アンリ=フレデリック・アミエルをはじめ、作家のヴァージニア・ウルフなど、離人症の当事者は、自分の感覚の奇妙さについて全身全霊で考え続けてしまう人が多いことはすでに見たとおりです。
しかしながら、それはあくまで、目が覚めて起きている時の話です。
腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するか に書かれているように、睡眠中はだれでも、理性的に内省する前頭前皮質の活動は低下し、代わりに情動を処理する島皮質などの領域が活発になります。
睡眠中の被験者を対象に行なわれた脳画像研究では、レム睡眠中に活性化する脳領域には、島皮質や帯状皮質などのサリエンス・ネットワークを構成する領域、ならびに扁桃体などの情動を生成する領域、海馬や眼窩前頭皮質などの記憶を司る領域、イメージの形成に必須の視覚皮質が含まれることが示されている。
それに対し、前頭前皮質や頭頂皮質などの、認知や気づきに関与する領域や、随意運動をコントロールする領域は、非活性化する。つまり麻痺状態になるのだ。(p194)
離人症の当事者において現実より夢がリアルなのは、起きている時は前頭前皮質によって情動が抑制されているのに対し、睡眠中は情動が解き放たれ、夢の中でだけ「今ここに生きている自分」の感覚が強まるせいでしょう。
昼間も夜も自分の内側に過度に注意が向いているのは同じですが、昼間は前頭前皮質の過活動によって奇妙な内的体験を考え続けてしまうのに対し、夜はそうした理性的な判断をさしはさまずに、豊かな内的世界を体験するのです。
起きている時は、内的感覚について理性的に考えますが、寝ているときは理性も休んでいるので、内的感覚をただ感じます。
その結果、「夢は現実よりもその画素が多い。あまりに鮮やかで綺麗で印象的」という感覚が生まれるのだと思われます。
ある意味、夢を見ているときは、日中ずっと働いている解離が解除されて、本来の自分が持つ感受性が回復されているといえます。
ところで、主観的に体験する世界の鮮やかさについては、神経伝達物質ドーパミンの濃度が関係しているらしいという研究があります。
世界が色褪せて見えるのは脳のせい―離人感・現実感消失症の病態解明への第一歩― | 国立研究開発法人日本医療研究開発機構
この事実は解離についての研究とも一致していて、解離状態とは、ドーパミンやノルアドレナリンのような、意欲や動機、行動に関わる神経伝達物質が抑制されている状態だと思われます。
おそらく、離人症の人たちは、起きているときにはそうした神経伝達物質が強く抑制されているのに対し、夢を見ているときは抑制が解除されることがあるのでしょう。
6.同化―他人や物に入り込む
六番目の点は、世界が遠のくのとは対照的に、他人や物に対して引き寄せられ、同化してしまうことです。「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相にはこう書かれています。
相手が話していても、自分の中からその言葉が出ている感じがする。そういう時はフワッと浮いている感じ。夢みたいで現実感がない。
…相手がこういうことを言うという感じがわかるので、あらかじめこちらから相手が希望する言葉を発することがある。(p192)
解離が進むと、自分自身の実感がない代わりに、目の前の対象に同調したり、同化したりする現象が生じるようになります。
対人関係において、相手の感情を汲み取りすぎるあまり、自分と他者の区別が難しくなったり、目の前の動物や植物、ものに没入して一体化してしまったりします。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 によると、先ほど見た脳の島皮質は、さまざまな感覚を「自己」か「非自己」かに分類する役割も担っているようです。
脳が予測したモデルが正確で、実際の内受容信号と一致していれば、身体化ができている。つまり自分の身体と情動がちゃんと自分に属していると感じられる。
予測と実際の一致が、身体とそれに関連する情動に「自己」のタグをつけ、不一致が「非自己」のタグをつけるのだ。
…予測コーディングや内受容推定モデルの鍵となる島皮質は、離人症性障害に関わる脳の領域のひとつでもある。(p193)
脳の島皮質は、身体の感覚や感情に「自己」か「非自己」かのタグをつける役割を担っています。
ここの活動がしっかりしていれば、自分の身体は自分のものだと実感でき、他人の感覚は他人のものだと線引きできます。その結果、前述したような「いまこの瞬間に存在している自己」という感覚が生み出されます。
しかし、離人症のように島皮質の活動が低下していると、自分の身体が「自己」のものだと思えないだけでなく、他人に属する「非自己」だと感じられることもあります。
要するに、自分の身体がしっかり「自己」と識別されていれば、「今ここに生きている」という感覚が生まれるのに対し、自分の身体のほとんどが「非自己」と識別されていれば、半分死んでいたり、希薄になったり、今ここにいないかのような感覚が生じるというわけです。
サセックス大学サックラー意識科学センターのアニル・セスによると、この「自己」が「非自己」に置き換わって、自分の身体や感覚の所有感がなくなり、他人のものであるかのように感じられてしまうのが、離人症や解離の本質なのかもしれません。
あくまで推測だと前置きしたうえで、セスはこうしたエラーが、解離を引き起こすのではないかと言う。
自分の身体と情動に現実感が失われ、身体が分離したり、自分自身が他人みたいな感覚に襲われるのだ。
エラーに見舞われている脳が、それでもがんばって予測を行なった結果、内受容信号の発信源は自己ではなく非自己だと仮定するのだろうか。(p193)
解離、そして離人症とは、つきつめれば、自己の感覚が「非自己」になってしまう障害であり、それゆえに自己感覚が希薄になって、現実感がなくなってしまうのです。
自己感覚の希薄さは、いま考えている相手に過剰に同化、同調してしまう傾向とも関連しています。同化してしまうというのは、自分が透明になってあたかも相手の一部であるかのようになってしまうということだからです。
解離の当事者は、過去の苛酷な体験のせいで、自分自身を透明にして相手に同調することで自分の居場所を確保し、傷つけられないように振る舞うという過剰同調性を身に着けていることがよくあります。
また、虐待された子どもなどは、ひどい目に遭わされているのは「自分」ではなく「他の誰か」なのだ、と錯覚することで、かろうじて生き延びます。
言い換えれば、自分の身体の固有感覚などを切り離し、あえて自分の身体を自分のものだと認識しないことによって、圧倒的な刺激から脳を保護しているといえます。
いずれの場合も、あえて「自己」を放棄し、「非自己」になることで自分を守る、という生存戦略の結果が、自己所有感や現実感が薄れる離人症だということです。
先ほども触れたように、解離や離人症の当事者が同調・同化に陥りがちなのとは対照的に、解離とは正反対の脳の反応とも言われるPTSDでは、島皮質が過剰に活性化していることがわかっています。
一種のPTSDとみなせる境界性パーソナリティ障害(BPD)の人たちは、相手の意図を独断的に決めつけてしまい、相手に同調や同化するのではなく敵対的に応じてしまう傾向がありますが、これは他人の考えまで「自己」の一部とみなし、すべてわかっているかのように思ってしまうせいかもしれません。
7.拡散―大気に溶け込んで自分がなくなってしまう
七番目の点は、生きている実感がなくなって、大気中に溶け出して拡散しているように感じられることです。「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相にはこう説明されています。
意識や肉体が感情から分離して、別の次元にあるような気がする。自分が意識だけになっている。意識は虚無と一体化して、拡散する。
空気になっている感じがする。実感はない。記憶としては憶えているが、ただ映像として流れている。
テレビや映画を眺めているようで、その場にいない感じがする。(p202)
現実感が薄れて希薄になっていくと、まるで空気中に自分が溶け込んで拡散してしまっているようだ、と感じる人さえいます。現実感がなくなった状態の最たるものといえるでしょう。
この拡散現象は、いわば脳が作り出す「自己」という感覚が根元までなくなってしまい、ほとんど無になって「非自己」に溶け込んでしまったものとみなせます。
そこまで自己意識が希薄になってしまう症状は、単なる解離や離人症だけでは説明がつかず、自己というアイデンティティを作り出す脳機能の基盤の弱さを考慮する必要があるかもしれません。
解離性同一性障害の研究の草分け的存在であるラルフ・アリソンは、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの中で、幼い時期に重大なトラウマを受けた場合、まだ自己の核が確立されていないがために、アイデンティティの空白が生じると述べていました。
わたしにとって明らかなのは、最初に分裂した時の“年齢”の違いだ。患者の最初の大きな〈心の傷〉(トラウマ)が七歳以前だったのと、七歳以降だったのとではまったく異なる結果となる。
七歳以前だと、〈産まれた時の人格〉はまだ完全には形成されておらず、たいていは弱すぎて〈外に留まる〉ことができなくなる。
…あらゆる感情を表現したり学校に行くといったあらゆる義務を遂行するためにいくらでも交代人格を作り出せる。(p259)
かなり幼少期に離人症の発症の原因となったトラウマを経験していた場合、自己の基盤が確立する前に解離が起こってしまい、アイデンティティの拡散が起こりやすくなるかもしれません。
また、「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相では、この拡散現象は、アスペルガー症候群を抱える離人症の当事者に多いとも述べられています。
自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Diorder:ASD)の患者では自分が分子や粒子のようになって分散することが多い。(p203)
後述しますが、アスペルガー症候群を含む自閉スペクトラム症(特に女性)では、生まれつきの強烈な感覚過敏のせいで、ただ日常生活を送るというだけで、解離や離人症が起こる可能性があります。
生まれつきの感覚過敏が原因で離人症になる場合、それは幼少期から慢性的なトラウマにさらされて成長してきたに等しいので、やはり自己の核が十分に発達せず、拡散体験のような極端な離人症状が起こりやすくなるのかもしれません。
現実と夢が反転する3つの段階
ここまで離人症の7つの特徴を考えてきました。一言で言えば、これらの離人症状とは、島皮質の活動低下などによる、外的世界と内的世界のリアルさの反転とみなすことができます。
柴山先生は「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相でこう述べていました。
解離性の意識変容では現実の世界が想像の世界のように、そして想像の世界が現実の世界の如く体験される。(p185)
わたしたちは普通、奥行きがあり、どこまでも広がる「現実の世界」に生きており、テレビや映画、夢の中などのような「想像の世界」はあくまで作り物だと区別しています。
しかし 離人感を伴う解離性障害の人は、この境目があいまいになり、「現実の世界」にあるべき奥行きや厚みがなくなって、あたかも枠で区切られた「想像の世界」に生きているかのように感じ、さまざまな離人症状が生じるのです。
この「外的世界」(現実の世界)と「内的世界」(想像の世界)という観点からすると、離人症は、自覚症状によって、次のような3つの段階に分けることができます。
以下の説明は解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)などを参考にしています。(p39)
「現実の世界」に「想像の世界」が割り込んできている状態。
自分が今ここにいる実感がないように思ったり、遠くから自分を見ているように感じたりするが、自分が今ここにいることはわかっている。
現実の世界を見ているのに、まるで映画やテレビのスクリーンを見ているかのように、奥行きがなく平面的に感じる。
2.中程度の離人症
「現実の世界」と「想像の世界」があいまいになっている状態。
「私の二重化」が生じ、自分の後ろからヴェールのような膜を通して世界を見ている。世界から遠ざかって現実感がない「眼差しとしての自分」と、世界に異常接近して、過敏症状に悩まされる「存在者としての私」に分かれてしまう。
周りの状況があたかもスクリーンの中の映像のように見えるので、疎外感があり、現実感がない。ちょうどテレビを見ていても、その場面の中に自分がいるとは考えないのと同じ。
3.重度の離人症
「現実の世界」より「想像の世界」のほうがリアルになっている状態。
体外離脱体験が生じたり、空想世界に没頭したりして、現実よりも想像の世界のほうがリアルに感じるようになる。常に夢の中で生きているかのような、あやふやで幻想的な状態になる。
自分が思い描いた世界に没入でき、そこに降り立って、ありありと眺め、聞き、触れることができる。夢がとてもリアルになる。
詳細な設定を伴う空想の世界に浸り、空想の友人(イマジナリーコンパニオン)がいることもある。
離人症に関係するさまざまな症状は、この3つの段階に沿って生じる「現実の世界」に「想像の世界」が反転していく現象だと解釈することができます。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に出てくるニコラスは、一時期もっとも重度の離人症に陥りましたが、そのときの感覚をこう語っていました。
「…そのときすべてが変わった。目が覚めている状態から、とつぜん夢を見ているようになったんだ。すべてにもやがかかって、場違いというか見慣れない感じがした」
それから四年間は霧のなかだった。自分自身はもちろん、自分の身体や、まわりのものまで、すべてが現実でない感じがする。悪い夢がずっと続いているようだった。(p1162-163)
現実がまるで夢の世界のように感じられるのは、すでに見た島皮質の活動低下以外にも、脳の側頭頭頂接合部の機能異常が関わっているようです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう説明されています。
私はジュネーヴ大学の神経科学者たちのグループが、脳の特定の箇所(側頭頭頂接合部)に微弱電流を流して、離人症に似た体外離脱体験を引き起こしたことを知って、おおいに興味をそそられた。(p168)
脳の側頭頭頂接合部は、さまざまな感覚情報を統合するところで、その機能がおかしくなると、だれもいないのに気配を感じたり、体外離脱のような体の実際の位置と身体イメージのズレが生じたりするようです。
なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学によると、1994年、パリのサンタンヌ病院で、てんかん患者を対象に脳に電気刺激を与え、てんかん発作前に起こる「夢幻状態」の原因を探る研究がなされました。
てんかん患者の「夢幻状態」は、発作の直前に起こる意識の変容ですが、現在起きていることが夢のように感じられ、既視感(デジャヴ)や幻覚が生じるなど、解離性障害の離人症とよく似た症状を伴います。
実験の結果、「夢幻状態」は、脳の大脳辺縁系に位置する3つの部分、すなわち小脳側頭、海馬、側頭葉と関連していることがわかったそうです。(p219)
これらは脳の深いところに位置し、脳幹に近く、覚醒や感情をコントロールする部分に直接つながっています。小脳側頭は不安感、海馬は記憶、そして側頭葉は先ほども触れた島皮質などの感覚統合に関わっています。
このあたりの活動が乱れ、バランスが変わることで、現実が夢のように感じられたり、感覚の統合がおかしくなったり、過去の記憶との照合がうまくいかず なじみ感が薄れたり、不安に包まれたりする離人症の症状が生じるのでしょう。
離人症が起こる原因
では、解離による離人症を発症する原因は何なのでしょうか。それには、さまざまな理由が考えられます。
まず、前述のように、解離による離人症でない場合は、うつ病など別の病気がもたらす脳機能の低下によって起こると思われます。もちろん、他の疾患と解離とが混在している場合もあります。
しかし解離が直接の原因となっている場合には、解離を引き起こすきっかけとして、次のような要素が関係しているようです。
(1)回避型・無秩序型の愛着スタイル
離人症を含め、さまざまな解離症状の根底にあるのは、幼少期に培われた愛着パターンだと考えられています。
愛着とは、生後数年間の時期に経験する養育環境によって育まれる脳の反応パターンのことで、その後の人生の対人関係や、ストレス反応の土台となると言われています。
愛着には4種類のタイプがあって、パランスのとれた養育を受けると「安定型」に、過干渉されると「抵抗型」(不安型)に、あまり関心を示されないと「回避型」に、劣悪な混乱した環境だと「無秩序型」と呼ばれるタイプに発展していきます。
そのうち、離人症などの解離症状と関係しているのは、「回避型」や「無秩序型」と呼ばれるタイプです。
回避型の愛着を持つ人たちは、幼いころからネグレクトされたり、十分な関心を示されなかったり、ストレスの多い家庭環境、親の不仲など、「安心できる居場所の喪失」を経験したりしていることが多いようです。
その結果、回避型の愛着スタイルの人は、だれかに愛情を求めて頼ることをあきらめ、感情に無頓着で、クールでさばさばした性格になりがちです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、回避型の愛着タイプを持つ人は、表面的にはストレスを気にしていないように見えながら、身体的には強い反応が生じていることがわかっています。
「回避型愛着」と呼ばれるパターンでは、赤ん坊は何もたいして気にしていないように見える。母親が去っても泣かないし、戻ってきても無視する。
とはいえ、これは彼らが何の影響も受けていないということではない。じつは、彼らは心拍数が慢性的に高く、常に過覚醒状態にあることがわかる。
私と研究仲間は、このパターンを「感じることのない対処」と呼んでいる。(p191)
回避型の子どもまた大人は、本当は体が強く反応し、悲しさや苦しさを感じているときでさえ、何も感じていないかのようにクールに振る舞って乗り切る生き方を身に着けていきます。
無秩序型の愛着の場合は、もっと混乱した振る舞いを見せ、人と親密になりたいのに恐れて遠ざかるという悩ましい振る舞いを見せます。
無秩序型の愛着は、離人症のみならず、解離性同一性障害(多重人格)などを含む、より重い解離症状と深い関連があることがわかっています。
(2)強すぎる情動を切り離す失感情症
回避型の愛着スタイルを持つ人たちは、成長するにつれ、過酷な状況で心を守るために、失感情症(アレキシサイミア)という状態に陥りがちです。
これは、感情を感じないように切り離している状態で、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう説明されています。
精神科医はこの現象を「アレキシサイミア(失感情症)」と呼ぶ。感情を表す言葉を持たないことを意味するギリシア語だ。
トラウマを負った子供や大人の多くは、感じていることをまったく表現できない。自分の身体的感覚が何を意味するか、突き止められないからだ。
彼らは激怒しているように見えても、腹を立てていることを否定する。恐れおののいているように見えても、大丈夫だと言う。
彼らは体の内部で起こっていることを認識できないので、自分の欲求を把握できず、適切な時間に適切な量を食べたり、必要とする睡眠をとったりするなど、自分の面倒を見るのに苦労する。(p165)
失感情症の状態にある人は、自分の感情を適切に感じ取ることができません。回避型の愛着タイプの人は、いつもクールでさばさばしていますが、それがさらに強くなって、必要な感情さえ感じ取れなくなったのが失感情症です。
アントニオ・ダマシオの理論によれば、わたしたちが「感情」や「心」と認識しているものは、身体の内的な感覚から生じています。
幼少時のからのストレスや、家庭の混乱、いじめ、虐待、病気などのトラウマに直面したとき、人は強い感情を、まず身体の内部で感じます。
たとえば、断腸の悲しみ、内臓が煮えくり返る怒り、などと表現されるように、わたしたちの感情の源は、もとはといえば「はらわた」から生まれています。このような身体で表現される感情の一歩手前の段階は、情動と呼ばれます。
慢性的なストレスのもとでは、そうした身体の内部で生じる激烈な情動はあまりにも耐え難いものなので、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、人は自分の内的感覚を麻痺させてしまいます。
トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。
彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう場合が多い。
彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。(p162)
自分の内部の煮えくり返る情動を切り離して麻痺させれば、当然それらから生まれてくるはずの感情も感じられなくなります。これが失感情症です。
失感情症の人は、本当は悲しさ、辛さ、憂うつ、怒りなどの感情を感じているのに、慢性疲労や痛み、胃腸の不調など原因不明の身体症状として認識しがちです。
彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてではなく、身体的問題として認識する傾向にある。
腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)
本来ならば、身体に生じる強い情動は、感情へと変換されます。しかし、失感情症の人たちは、激しすぎる情動を感情に変換しないことで自己防衛しているので、感情に変換されない情動が、原因不明の身体の症状だと認知されてしまうのです。
腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するか に書かれているように、こうした感情生成のメカニズムを知らない医者は、失感情症の人が訴える原因不明の内臓の情動を、過敏性腸症候群などの原因不明の胃腸疾患だとみなしがちです。
驚くべきことに胃腸に障害を抱える患者の多くは、その問題が情動状態の反映であることをまったく知らない。それどころか、その事実を知らない医師も多い。(p39)
さらに、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、失感情症から「自己忘却への階段をもう一段下がったところにあるのが離人症で、自己感覚の喪失」だとされています。(p167)
つまり、回避型の愛着→失感情症→離人症という順番で、より解離が強くなっていくということです。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 に書かれているように、解離と離人症は、そもそもは強すぎる感覚刺激から脳を守ろうとする防衛反応として生じているものです。
1970年代半ば、アイオワ大学医学部のラッセル・ノイエス・ジュニアとロイ・クレッティは、学生新聞に「生命の危機に直面した体験談募集」の広告を出し、集まった61人にインタビューを行なった。
…こうしたインタビューから、ノイエスとクレッティは次のように結論づけた。
「離人症は極度の危険とそれにともなう不安からの防衛作用という解釈は避けられないと思われる……生命が脅かされたとき、人間は起きている状況を観察して、確実に危険を取りのぞこうとする。
解離は重要な適応機制だが、そのことを際立たせるのが離人症なのだ」(p165)
さまざまな慢性ストレスにさらされたり、ショッキングな体験をしたりしたとき、脳は現実の世界からの刺激を危険なものとみなし、身の危険を守るための「適応」として、解離を用いて感覚を遮断するのです。
神経科学者アントニオ・ダマシオの理論によれば、わたしたちの心や感情というものは、身体の内的感覚から生まれていました。
ダマシオはそれだけでなく、わたしたちの「今ここに存在している」という感覚もまた、やはり内臓などから発せられる感覚から生まれているといいます。
ダマシオによれば、わたしたちは内臓から発せられる内受容(interoceptive)と呼ばれる感覚から「自分がいまここに存在している」という意識を持ち、また筋骨格から発せられる自己受容(proprioceptive)と呼ばれる感覚によって、「身体がここにある」という意識を持ちます。
つまり簡単に言えば、わたしたちがトラウマ経験などのため、自分の内部の情動に耐えられなくなり、それを切り離してしまうなら、まず心や感情を感じられない失感情症になるだけでなく、さらには「自分がいまここに存在している」「身体がここにある」といった感覚さえもが薄れてしまう離人症にもなるのです。
このような失感情症や離人症を引き起こす「極度の危険とそれにともなう不安」は、子ども時代の虐待や家庭の問題などだけではありません。
たとえば、レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) には、何十年も脳炎後遺症のために入院していた患者たちの幾人かが、失感情症になって、「内側が死んで」しまった様子が書かれています。
病気が発症して間もない頃は、無力な怒りや憂鬱な気持ちを募らせたが、その後、あらゆる感情や興味がなくなっていったのだという。
「気分というものがなくなってね。周りのことはなに一つ気にならなくなったのよ。なにに対しても感情が働かなくなって、両親が死んだときだってそうだったわ。
幸せや不幸せがどんなものか忘れていたのね。それが良かったか悪かったか? どっちでもなかったわ。なにもなかったんですもの」(p161)
気分はどうかと尋ねると、無表情のまま決まって「まあまあ」とか「こんなもんさ」と答える。
周囲に積極的な注意はまったく払わなかったが、何が起こっているかは機械的に認識していた。私は彼からなんらかの感情を引き出そうと躍起になったが、いつも失敗した。
とうとう彼自身がこう言った。「私には感情はなにもないよ。内側が死んでしまったんだから」
この数ヶ月間、アーロンはどこか死んだように見え、幽霊かゾンビのようだった。生きた存在としてのいかなる感情も表さなくなり、車椅子に座った空虚な存在になってしまったのだ。(p347)
また、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ) に出てくる13歳のミシェルの例のように、身体疾患による激痛や、医療上のトラウマが原因で、離人症になってしまう人たちもいます。
ミシェルの容態は火傷に似ていたため、火事から救出された患者と同じ処置が行われた。
「体じゅうの皮膚が剥がされるようでした」自分が体から分離するような感覚だったという。
「あのとき、私と体は完全に分かれました。意思の疎通をやめたんです。あまりの痛みに耐えられなくて」。
…ミシェルが子ども時代に経験した逆境は、家庭とは無関係だった。それでもストレスは計り知れず、そのストレスが発達段階の免疫システムや細胞に与えた影響も深刻なものだった。(p61-62)
また、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション) の中でオリヴァー・サックスは、左足に大怪我を負ったとき、足が自分のものではない模造品のように思えるという局所的な離人症、さらには足の大きさが様々に変わるかのような不思議の国のアリス症候群を経験したと書いています。
それは足だった。というより、例の「物体」、左足の役目をしている、のっぺりしたチョークのような円柱だったのである。チョークのように白い足の模造品。
それは300メートルもあったかと思うと、つぎの瞬間、わずか2ミリになったり、太くなったり、細くなったりした。
こちらに傾いているかと思えば、向こうに傾く。大きさや形、位置や角度がたえず変わった。一秒間に四、五回も変化した。その変わりようは想像を絶するものだった。(p169)
彼の場合は、事故が原因で大怪我を負った足にだけ離人症が出ましたが、原因や程度は異なるとはいえ、症状は似ていました。客観的に冷静に他人事のように観察しているところも同じでした。
解離が起こる原因はさまざまです。本人の神経系が耐えられなくなってしまうような体験であれば、家庭であれ、医療や事故やそのほかの何かであれ、原因が何であるかは関係ありません。
ほかにも、薬物を使うことで、感覚遮断が起こり、解離性の幻覚が生じることも知られています。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳には、海外でADHDの治療に用いられているアンフェタミンの副作用で、一時的に離人症に陥った女性のエピソードがありました。(p166)
(3)解離しやすい生まれつきの性質
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、重大なトラウマに関わらず、生まれつき解離しやすい傾向を持っている人もいます。
離人症が進化による適応であり、神経生物学的な仕組みとして存在するのだとすれば、そうなる可能性はすべての人に潜んでいることになる。
また離人症にかかりやすい人、そうでない人がいるのも納得できる。その傾向のことを素因と呼ぼう。「生まれか育ちか」の生まれのほうだ。
もちろん環境(育ち)が果たす役割も大きい。ニコラスのように、虐待によるトラウマが離人症を引き起こすこともあるし、薬物が関わることもある。(p166)]
ここで注目したいのは「素因」です。
虐待のような重大なトラウマが関わらずとも、生まれつきの素因があれば、他の大多数の人にとっては耐えやすいレベルのストレス、つまり日常にありふれているような原因でも、解離や離人症が生じえます。
たとえば、ひといちばい敏感な性質を持つ子どもは、人より強く刺激を感じやすいため、前項で説明したような、内臓の激しい情動を感じやすいかもしれません。
前述のように、解離や離人症という現象は、脳の島皮質とよばれる場所と関係していますが、神経科学者アントニオ・ダマシオやバド・クレイグなどの研究によれば、身体の内的感覚を認知して処理しているのが、まさしくこの島皮質です。
人いちばい敏感な気質をもつ人たち(HSP)の研究によれば、そのような人は生まれつき島皮質の活動が活発で、自分の内側の情動に敏感な人たちであることがわかっています。
HSPの人たちは、子どものころから強い情動を感じやすいので、ほかの人たちなら気にもとめないような刺激に圧倒されてしまい、解離を起こしやすいかもしれません。
自分の内部に敏感だからこそ、ストレスがかかったときに内側から沸き起こる強い情動に耐えられなくなって、内的感覚を切り離し、失感情症や離人症という敏感とは正反対の麻痺状態に陥ってしまうのです。
敏感な性質を持つ子どもたちは、たとえ常に解離しているわけではなくても、神経系が過負荷になって圧倒されそうになると、解離を起こしてぼーっとして、安全な場所を求めて、空想の世界に避難することがよくあります。
また、 「自己」と「他者」―臨床哲学の諸相によると、アスペルガー症候群をはじめとする自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害の人も、生まれつき解離症状が生じやすいと言われています。
たとえば、「人と違う(anders sein)」という感覚について、解離性障害だけでなく発達障害や重度対人恐怖でも見られると書かれています。(p183)
近年、自閉スペクトラム症の本質は、感覚統合の問題にあるのではないかと言われていて、HSPとはまた違うかたちの、おそらくはより根本的な感覚処理のプロセスにおける強い感覚過敏を抱えているようです。
前述のように、自閉スペクトラム症では、離人症の中でも、特に、途中で取り上げた拡散体験が比較的見られやすいと言われています。
自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Diorder:ASD)の患者もまたこの世での生きにくさを感じている。
臨床経験からすると、彼ら/彼女らは解離症状を呈することが多いように思われる。
離脱はASD者でも定型発達者でも共通してみられるが、ASD者では同化と拡散が比較的多い印象がある。
ASD者は幼少時から特有の「感覚対象との一体化」に馴染んでいる。(p208)
おそらく自閉スペクトラム症で拡散体験が多いのは、より強烈な感覚過敏のせいで、より重度の離人症が生じてし自己存在の感覚までシャットダウンされてしまうためでしょう。
もちろん人口割合からすると、解離症状を示す人の大部分は定型発達者ですが、中には、アスペルガー症候群の独特な脳機能によって、解離が生じている人もいるのです。
離人症の治療法
離人症の治療法については、離人症単独というより、解離性障害としての治療が必要となるでしょう。
解離に詳しい医師やセラピストを受診する
解離が関係している離人症の場合は、解離性障害に詳しい医師やセラピストの診察を受けることが不可欠です。
詳しくない専門家を受診すると、統合失調症などと混同されて不適切な薬物療法を受けて悪化したり、そもそも症状の訴えを理解してもらえず傷つけられたり、ひどい場合は自演や詐病のようにみなされたりすることもあるようです。
特に、現在トラウマの治療と称して一般的な医療機関で広く行なわれている曝露療法や認知行動療法は、近年の研究では かえって解離症状を悪化させる危険が指摘されているため注意が必要です。
トラウマをヨーガで克服する には、トラウマや解離の研究の第一人者であるヴァン・デア・コークによる次のような言葉が載せられていました。
近年、新たに提出された研究文献は、患者をトラウマに曝露させる(従来のトークセラピー)よりも、現行の問題(すなわち解離および感情の調整、自分自身や他者との関係の変化)にかかわるマネージメントを援助することのほうが大切だということを証明し始めた。―ベッセル・A・ヴァン・デア・コーク(p54)
リスクのあるトラウマ治療法がいまだに効果的だと誤解され、医療機関で普通に行なわれているのは、トラウマ治療の研究において、重度の解離のような複雑な症状を抱える人たちが度外視されてきたからです。
残念ながら、トラウマ関連の課題についての治療効果研究のほとんどが、複雑性トラウマ[※幼少期から慢性的なトラウマにさらされ強い解離症状を伴う人たちのこと]に苦しむ人びとが特に必要とするものを反映していない。
多くの標準的治療の効果研究が、病状が激しく複雑な症例を多数除外しており、さらに、これらの研究の多くで、脱落者が大きな割合を占めている。
そういうわけで、これらの研究から引き出された結論を、複雑性トラウマを持つ人びとに適用することはできないと思われる。(p24)
フロー体験で「今、ここ」を感じる
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、離人症の当事者たちは、我を忘れるほどに何かに没頭しているときは、その場限定で離人症の症状が薄れ、現実感を取り戻すことができます。
私はニック・メドフォードから聞いたある男性患者の話を思い出した。彼はロンドン在住で、アマチュアながらテニスの腕は相当なものだったが、離人症性障害のせいで競技から離れていた。
「私はもう一度テニスをやるよう説得しました。それは、病気への対応策で唯一効果があるものでした」とメドフォードは振りかえる。
「コートを走りまわり、ゲームの流れに没頭しているあいだは[離人症が]出ないんです。テニスをやめれば元どおりなんですが、それでも本人には大発見でした。病気が絶対普遍ではなく変えられるものだとわかったからです」
ニコラスもドラムを叩いているあいだは症状が和らぐが、それも一時的でしかないという。気分がいいと思った瞬間、病気が戻ってくるのだ。
「矛盾してるよ。気分がよくなったと気づいたら症状が出てくるんだ」(p188-189)
このように、一時的ではあるにせよ、とりわけ身体感覚に注意を向ける活動に没頭している間は、離人症は感じられなくなり、現実感や生きた心地が戻ります。
慢性的な解離を抱える人の中には、この効果を切望するあまり、仕事や趣味、ゲーム、さらにはスリルのあるスポーツやセックスなどの依存症になる人がいます。そうした活動に没頭しているときだけ、生きている実感が得られるので病みつきになってしまうのです。
この我を忘れるほど没頭し集中しきった状態は、心理学者ミハイ・チクセントミハイによって、「フロー体験」と名づけられています。
フロー状態のときに離人症が和らぐのは気のせいではありません。私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、フロー体験では、脳の島皮質が強く活性化し「今ここ」の感覚が強められているようです。
島皮質が活性化するということは、内的感覚と外的感覚がしっかり統合されているということです。完全に没頭しているため、変質した内的感覚がもたらす離人症の違和感を感じないでいられるのかもしれません。
好きなことに没頭して集中するフロー状態や、スポーツ選手がプレーに没頭したときに経験するゾーンと呼ばれる状態では、島皮質の活動が活発になり、「今ここにいる自己」の感覚が強まるようです。
そのため、フローやゾーンに入った人たちは、流れのままに、自分の思考や身体の動きなどを自在にコントロールしている気分になります。これは自分の体がロボットやゾンビのように感じられる離人症とは正反対です。
しかしながら、ニコラスが述べていたようにフロー状態は一時的なものです。フロー状態で一時的に感覚を統合できても、内部の体験が変化したり、トラウマ記憶が変化したりはしません。
フロー状態によって「今、ここ」を感じとるというのは、ある意味、興味のあることに没頭することで、変質した内的刺激から一時的に注意をそらしているにすぎないのです。
必要なのは、そうした過剰な外的刺激に頼らなくても、「今、ここ」に生きているという現実感を感じられるようになることです。
そうした感覚を少しずつ強化していく地道な訓練が、マインドフルネスをはじめとした様々なボディワークです。
さまざまなボディワーク
離人症や失感情症には、言葉のやりとりで心を整理しようとする、通常のカウンセリングはあまり役に立たないことが少なくありません。
カウンセリングは、解離性障害の人が見失っている信頼関係や安心できる居場所をもたらすことで、「孤立の解消」には役立つかもしれません。また、過去の体験などを吐き出して、あいまいな世界を整理してけじめをつけることにも寄与します。
しかし、すでに見たように、離人症の当事者の多くは、ふつう以上に内省的で、すでに自分で考えを整理していることもあります。
多くは失感情症にも陥っているため、困っているのは感情の整理がつかないことではなく、奇妙な感覚のほうでしょう。
このような場合に効果があるのは、通常の心理カウンセリングではなく、ボディワークと呼ばれる分野のセラピーです。
たとえば、トラウマをヨーガで克服する は、トラウマに対するボディワークとして特別に構成されたトラウマ・センシティブ・ヨーガのプログラムについての本ですが、ボディワークが必要な理由がこう説明されています。
従来のセラピーの多くは、“認識によって”つまり〈トップダウン〉で治療にアプローチしてきたが、ヨーガ・ベースの医療は〈ボトム・アップ〉の方法を用い、肉体的な経験を足がかりとしてその人の内面生活へ向かうのである。
身体指向のセラピーは、“心とはつかみどころのないものだ”という前提に立つ。
現に、何年もの間トーク・セラピーを続けているのに、これといった内的経験の局面を得ることができない、という人びとがいる。
“知性でとらえようとすること”は一般的に防衛として使われる方法であるが、とらえようとしているものが何であれ、解決のために相当な時間を費やしても「その精髄には決して到達し得ない」と言うことができる。
ヨーガ・ベースの医療のような身体指向のセラピーは、肉体レベルにつなげることを優先し、それを入り口として情緒・認識へと進むのである。(p36)
「知性でとらえようとする」アプローチが、『解決のために相当な時間を費やしても「その精髄には決して到達し得ない」』というのは、ここまで読んでくださったような方はみな承知しておられると思います。
離人症を抱える人ならだれでも、いくら徹底的に思考したところで、また言葉に整理したところで、離人症の問題が解決しないことを身をもって体験しているからです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、失感情症や離人症の状態にある人たちは、情動の土台となる身体的感覚も希薄なため、マインドフルネスやヨーガなどを通して、まずは自分のありのままの感覚を感じとる訓練が必要だとされています。
人は体の芯から安全だと感じなければ、完全に回復することはできない。
したがって私は、治療的(セラピューティック)マッサージ、フェルデンクライス・メソッド、頭蓋仙骨療法といった、何らかのボディワーク(手技や体操、運動などを通して体から意識に働きかける手法)を受けるように、すべての患者に勧めている。(p352)
こうしたボディーワークは、離人症で活動低下していた、あの島皮質の活動を活性化させる効果が確かめられています。
幼少期に深刻なトラウマ体験をした六人の女性を対象とする、私たちの最新のヨーガ研究でも、ヨーガを20週間実習すると、基本的な自己システムである島と内側前頭前皮質の活動が増すことを、初めて示す結果が出た。(p452)
トラウマをヨーガで克服する によると、トラウマ・センシティブ・ヨーガのプログラムを受講した生徒は、こう述べました。
ヨーガ・クラスの後の何日間かは、「私には本当に体がある」という自覚がある。―トラウマ・センターのヨーガの生徒(p147)
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているとおり、こうしたプログラムでは、もはや麻痺して感じ取れなくなっている情動や感情に気づき、注意を向けるよう練習します。
失感情症の人は、身体的な不快感を抱きがちだが、何が問題なのかをはっきりと説明できない。その結果、曖昧な身体的苦痛をあれこれ訴えるのだが、医師は診断名をつけられない。
さらに彼らは、どのような状況に置かれても、自分が本当はどう感じているのかや、なぜ気分が良くなったり悪くなったりするのかがわからない。
これは、体の通常の要求を、穏やかに、注意深く予期したり、それに応えたりできなくさせる、麻痺の結果だ。
同時にこの麻痺のせいで、日々の感覚的な喜びが鈍る。人生に価値を与えてくれる音楽や触感や明るさなどを経験しても、前ほど喜びが得られないのだ。
内部の世界との関係を(再度)築き、それとともに、自己との思いやりにあふれた、身体的感覚を伴う関係を復活させるには、ヨーガは素晴らしい方法であることがわかった。(p449-450)
ヨーガやマインドフルネスをはじめ、ソマティック・エクスペリエンス(SE)、ハコミセラピー、フェルデンクライス・メソッドなどは、いずれも、身体の感覚を取り戻すことで心も整えていく、というアプローチをとります。
こうしたボディワークでは、自分の内部の感覚を観察し、少しずつ徐々に体験していきます。
この「少しずつ」という点は極めて大事です。そもそも解離は適応として起こっているのであり、自分の内部の変質した強烈な感覚に耐えられないからこそ「今、ここ」という感覚を感じないよう脳が防衛しているからです。
それでもやはり、内受容感覚を取り戻すと気が動転しないともかぎらない。新たにアクセスできた胸の中の感覚が、憤激や恐れや不安として経験されると、どうなるだろう。
私たちが最初に行なったヨーガの研究では、半数の人が脱落した。これまでの研究のなかでも、最も高い割合だった。脱落した患者に尋ねたところ、彼らにとってプログラムがつら過ぎたことがわかった。
骨盤がかかわるポーズはどれも、強烈なパニックや、性的暴行のフラッシュバックさえ突然に引き起こしかねなかった。
感覚を麻痺させて注意を向けないようにし、苦心して抑え込んできた過去の悪魔たちを、強烈な身体感覚が解き放ってしまったのだ。
私たちはここから、多くの場合カタツムリのようなペースで進むことを学んだ。
この取り組み方はうまくいった。最新の研究では、最後まで続けられなかったのは、34人の参加者中1人だけだった。(p452)
ボディワークのセラピーは、いずれも時間がかかります。魔法の治療法など存在しません。
一時的なフロー体験のように内部の刺激から注意をそらして外的刺激に集中するのではなく、少しずつ無理のない範囲で内部の変質した刺激に身を委ね、「自分の体に安心して収まっていられるように」なることを目指します。(p454)
特にトラウマ治療のために組織されたボディワークでは、細心の注意を払って、少しずつ前進することが定められています。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア では、その過程は「タイトレーション」と表現されています。
タイトレーションとは、混ぜ合わせると爆発するような反応性の高い薬物を、交互に一滴ずつ混ぜていって中和させるという科学実験の用語です。(p102)
体を使った注意深い活動を通して、少しずつ、圧倒されない範囲で内的感覚に注意を向ける訓練を繰り返すうちに、大きな外的刺激に頼らなくても「今・ここ」に存在して生きている、という感覚を抱けるように変化していくのです。
大自然のただ中で感じる畏敬の念
興味深いことに、こうした「今、ここ」にいるという感覚は、「畏怖の念」を感じることで強化されるという研究があります。
「畏怖の念」とは、雄大な自然を全身で感じ取ったり、言葉では言い表せないような、鳥肌が立つほどの体験をしたときに感じる崇敬や恐れの気持ちのことです。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、近年、畏怖の念の科学的な研究が進められており、抗PTSD効果があることがわかってきています。
畏敬の念に打たれると人が変わる経緯を観察するために、ポール・ピフはカリフォルニア大学バークレー校のダッチャー・ケルトナーと、ほかのふたりの研究者と協力し、一風変わった実験を行なった。
…数あるポジティブな感情のなかで、畏怖の念は唯一、IL-6の値を大幅に下げる感情と考えられている。
それはなぜだろう? ケルトナーによれば、畏怖の念は人との絆を強め、それによって炎症がおさまり、ストレスが和らぐという。(p164)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア によると、畏怖の念のような感情は、おそらく人間を含むさまざまな動物に備わっている、生物学的な神経のリセット機構の一種なのではないか、と考えられています。
野生動物は、ストレス状態に曝されたり拘束されたりするとき震えることがよく見られる。からだの震えやおののきは東洋の伝統的なヒーリングやスピリチュアルな系譜の実践においてよく報告されている。
例えば気功やクンダリーニ・ヨガでは、微細な動きや呼吸および瞑想の技法を用いる達人は、からだの震えやおののきを伴う恍惚の至福状態を経験することがあるという。
さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。
…こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すためのメカニズムである。(p20-21)
自然界の野生動物が、捕食されそうになっても、人間のようにトラウマの後遺症を抱えたりしないのは、このような「平衡状態を取り戻すためのメカニズム」によって神経系をリセットできるためではないか、と言われています。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に出てくるニコラスは、幼少期の虐待やネグレクトのため、ひどい離人症や失感情症に悩まされていましたが、自分の子どもが生まれたときだけは、はっきりと感情を実感したそうです。
ニコラスは出産に立ちあって、わが子がこの世界にやってくるのを見守っていた。
「このときを心待ちにしていた。人生の大事件だ。娘が生まれたとき、そのことを心から感じてぼくは泣いた。気持ちが湧きおこってきたんだ。一回きりでも、そういう経験ができてうれしかった。
それから娘を育てるなかでいろんなことが起きたし、友人の死もあったけど、どれも気持ちが高まらないままだった。だけど娘の誕生だけは、なぜか例外だった」(p179)
我が子の誕生は、わたしたち人間が経験する出来事のうちでも、とりわけ畏敬の念を感じやすい体験のひとつでしょう。
トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によれば、畏敬の念を感じる体験は、離人症で活動が低下している島皮質や前中帯状皮質(aMCC)といった脳領域を活性化させます。(p107)
離人症の人は、強すぎる刺激から身を守るために無意識のうちに感覚を遮断しますが、畏敬の念を引き起こすような圧倒される体験は、凍りついた感覚に揺さぶりをかけ、意識を「今、ここ」へと引き戻すといえます。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、大自然のただ中で行われたフィールドワークに参加したある学生は、次のような実感を語っていました。
ある日、朝の三時にトレイルを歩きはじめると、アメリカワシミミズクに遭遇した。トレイル沿いの岩礁にとまったまま、彫像のように身じろぎもしない。
金髪で、いかにも派手な女子学生のグループに交じっていそうなアメリアが、「生まれて初めて見た!」と歓声をあげた。
その前に、アメリアは同じテントに寝泊まりしている仲間に、携帯電話が欲しいと愚痴をこぼしていた。気になっている男の子からメールがくるかもしれないからだ。でもいまは、目の前の光景に夢中になっている。
「なんだか生まれ変わった気分! あたし、いままで半分死んでたのかも」(p255)
感情をなくして凍りついていたり、呆然として生きる気力を失っていた人が、はっと息を呑むようなすばらしい体験を通して生気を取り戻す、というのは映画などでもしばしば描かれる場面です。
そうした生気の回復は、単に気分転換ができた結果ではなく、畏敬の念を覚えるような体験を通して、生物学的に神経系がリセットされた作用によるのではないか、ということです。
詳しくは以下の記事で触れましたが、アメリカでは、極度のトラウマで無感覚になった退役軍人を対象に、こうした大自然の中で感じる畏敬の念の効果を利用した激流下りセラピーなどが実施されているそうです。
しかしながら、短期間だけ大自然を味わったとしても、前述のフロー体験と同じように一時的に「生きている」感じを味わうにとどまってしまうでしょう。ボディワークのセラピーのように、体の経験を変えるには時間がかかります。
たとえばスウェーデン政府が助成金を出しているセラピー・プログラムでは、参加者は12週間にわたって、一回につき3時間、週に4回、自然の中で過ごすことになっているそうです。
自然の中でじっくりと感覚を感じとることは、ヨーガなどのボディワークで自分の感覚をじっくり観察し、なじませていくのと同じ働きをしているものと思われます。
とりわけ、HSPや自閉スペクトラム症などの感覚過敏のため、都会の過剰な刺激のせいで解離が強くなってしまう人の場合は、トラウマ治療以前に、生活環境そのものを変えたほうがいいかもしれません。
少量の薬物療法
離人症は、感覚過敏に対する防衛反応として生じているので、神経が緊張状態にある場合には薬物療法もある程度有効だとされています。
しかしすでに見た通り、解離の当事者は過敏性を持っていることが多く、統合失調症などの場合と異なり、少量、短期間の処方が大切なので注意が必要です。
解離について詳しくない医師にかかると薬漬けになって悪化することもあるかもしれません。睡眠薬も長期間使用すると症状が悪化することがあるそうです。
精神科の薬は、量を増やせばよく効くわけではなく、少量処方と大量処方では異なる効果が出る、という点については解離の薬物療法についても書かれている 発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方という本を参考にしてください。
いずれにしても、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴァン・デア・コークが述べているように、薬物療法は何ら根本的な解決策にはならず、あくまで一時しのぎにすぎません。
薬はトラウマを「治す」ことはできない。乱れた生理機能の表れを抑えることができるだけだ。
また、自己調節を可能にするような教訓を与えてはくれない。
感情と行動を制御するのを助けることはできるが、それには代償が伴う―なぜなら薬は、関与、モチベーション、痛み、喜びを調節する化学システムを抑え込むことによって作用するからだ。(p69)
この記事で見たとおり、離人症は、単なる脳の誤作動のようなものではなく、何かしらの過剰な刺激という明確な理由があって、脳が防衛している状態です。
薬物療法のみに頼りすぎるなら、脳が感じている何らかの強烈なストレスを見過ごし、原因の解決から目を逸らすことになってしまいます。
たとえばドーパミンやノルアドレナリンを増加させるような薬物療法によって現実感を一時的に取り戻せる可能性はあります。
しかし現実感が戻るということは、自己防衛のために脳が遮断していた強烈な刺激に再暴露してしまうということです。自己調節できないまま、薬物によって解離を解除してしまうのは、燃え盛る火のなかで防護服を脱ぐのと似ています。
必要なのは、薬物療法を補助的に活用しつつも、脳と体が「今、ここ」にとどまっても安全だと感じられるよう、自分の感覚をうまくコントロールできる能力を身に着けていくことです。
たとえ時間がかかるとしても、安全な環境を整えたり、現実に圧倒されないだけの自己コントロール能力を身につけたりしていくなら、いずれ脳は解離を解除しても大丈夫だと感じるはずなので、おのずと離人感はなくなっていくでしょう。
現実感のある世界を取り戻す
「現実感がない」という訴えを中核とする離人症は、さまざまな原因が関係している複雑なものです。
特に解離が関係している場合には、薬物療法だけで治るようなものではなく、長期間にわたるセラピーや、安心できる信頼関係の構築など、いろいろな対応が求められます。
とはいえ、現実感を取り戻し、地に足をつけた生活を再び送るのは、確かに可能です。
現実感のない虚構の世界は、まるで手探りで進むしかない霧の立ち込めた森のようなところかもしれません。しかし歩き続けるなら、いつか霧が晴れて、出口へとつながる道が見えてくるのです。
どんな悪夢でも、醒めない夢はありません。たとえ目が覚めたまま夢の世界に迷い込んだのだとしても、やはりいつかは必ず夢から覚めるものです。
▼より詳しく離人症を知るために
離人症について扱った、このブログの他の記事には、以下のようなものがあります。
■離人症について扱われている別の本についての感想です。
■離人症がいわゆる「心の問題」ではなく、この記事で書いたような身体的な基盤をもつ現象である、という近年の理解は、神経学者アントニオ・ダマシオの理論に基づいています。
■離人症には脳の島皮質という領域が関係していることを説明しましたが、こちらはダマシオの研究に加え、島皮質を専門とする神経学者バド・クレイグの研究に多くを負っています。
■離人症をはじめ、島皮質の活動が低下し、自己のアイデンティティが侵食される障害のメカニズムについては以下の記事で詳しく扱っています。
■解離について詳しくはこちらの記事で解説しています。
補足 : 既視感(デジャヴュ)はオカルトではなく科学的現象
この補足は、本文中で触れた、「既視感」(デジャヴュ)についての解説です。
「既視感」(デジャヴュ)とは、いま初めて経験しているはずの状況が、昔もあったように感じられることです。これとは逆に、何度も経験していはずの状況なのに、初めての経験であるかのように感じられる現象は「未視感」と呼ばれていました。
既視感は、しばしば、前世の記憶などの裏付けとして、オカルト的な解釈がされがちですが、他のさまざまな解離現象と同じく、神経科学的に説明がつく現象です。
既視感(デジャヴュ)の例としては、例えば、森と大地の言い伝えの著者がこんなエピソードを書いていました。
あのときも母と一緒に武佐の山に三つ葉を採りに行った。
みんなであちこちを動き回っているうちに、なんとなく懐かしいにおいと懐かしい気持ちに包まれて、何かスーと地の底へ吸い込まれるようだった。15歳のころのことである。
なんだかいつか自分がこの辺に住んでいたような気がしてきた。とにかく懐かしいにおいを感じたので、辺りを歩いてみた。懐かしいと心から思った。
…このときと同じようなことは、18歳のときにもあった。
私は十勝の池田町の農家に奉公に行ったことがある。池田から馬車に荷物を積んで歩いているときに、不思議なものが込み上げてきて、私は言った。
「私、昔ここを通って歩いたことあるよ」と。そのときは農家の主人の妹も一緒だったのだが、目を丸くして私に言った。
「あんた、何言ってるの。釧路にいた人が、なぜこんなところを歩くの」。そのとおりである。(p271-272)
どちらの場合も、はじめて来た場所なのに、なぜか馴染み深いように感じられたという経験です。
また、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) にも似たようなエピソードが紹介されていました。
それは夏の午後も終わろうとするころで、私は曲がりくねった田舎道をオートバイで走っていた。
と、突然おそろしいほど静かな感覚を覚えた。自分がかつてこの瞬間を、この同じ場所で生きていた、という感覚だ。
その道を走るのはそのときが初めてだったにも関わらずである。
この夏の午後が永遠に存在していて、自分がこの終わりのない瞬間に囚われてしまったように感じた。
数分後にオートバイから下りると、両手、鼻、唇、舌に異常なほど強い疼きを覚えた。(p178)
この場合の既視感は、偏頭痛発作の前兆としての生じたものでした。頭痛はその後20分ほどで収まったそうです。
いずれの場合も、ともすれば前世の記憶などのオカルト的な現象だと解釈されてしまいそうですが、この記事で考えたような解離体験の一種だとみなすことができます。
軽い解離症状は、だれにでも起こりうるものですし、感受性が強い思春期の少女や、感覚過敏がある偏頭痛持ちの人なら、なおさらこのような一過性の離人症を経験したとしても不思議ではありません。
既視感や未視感という奇妙な現象を理解するときに参考になるのは、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界に載せられている次の例です。
認識は知識に基づくものであり、親しみは感情にもとづくものであって、どちらも互いを必要としない。
両者は異なる神経基盤をもっていて、切り離すことができる。
…私の父はとても社交的で、何百人どころか何千人もの顔を見分けることができたが、90歳を過ぎると、人々を「知っている」感覚が過剰になった。
よくロンドンのウィグモアホールのコンサートに行って、休憩時間には見かける人みんなに「どこかでお会いしませんでしたか?」と声をかけていた。
カプグラ症候群の場合、逆のことが起こる。
彼らは人の顔を見わけられるが、感情的な親しみを覚えることはなくなる。
夫や妻や子どもから、そういう特別な温かい親しみの気持ちが伝わってこないので、本物のはずがない、巧妙な偽物か替え玉に違いない、とカプグラ患者は主張する。(p123)
ここでは、他人の顔を見分けるときに、既視感と未視感に似た両極端な現象が起こりうることが書かれています。
一方は、『見かける人みんなに「どこかでお会いしませんでしたか?」』と言ってしまうような、知らない人の顔でも「知っている」ような気がしてしまう現象。
もう片方は、よく知っているはず相手である「夫や妻や子どもから、そういう特別な温かい親しみの気持ちが伝わってこない」現象です。
後者の場合は、カプグラ症候群という病名で知られており、馴染み深いはずの家族や友達の顔を見ても、「偽物だ」とか「替え玉だ」といった妄想的な主張をします。
認知の上では、「この顔はよく知っている家族や友人だ」と判別できるのに、脳の機能障害のせいで、その顔になじみ深さや親しみを覚えることができないため、「よく似ている偽物ではないか」という判断になってしまうようです。
この顔認識の両極端な例からわかるのは、わたしたちは、ふつう、認知と感情をセットで処理しているということです。
友人の顔を認知すると同時に親しみの感情が活性化され、知らない人の顔を認知すると同時に初対面だ感じ取ります。
ところが、いま書かれていたように、認知と感情は「両者は異なる神経基盤をもっていて、切り離すことができ」ます。「切り離す」つまり「解離」してしまうことがあるのです。
本来はセットで機能するはずの顔の認知と、親しみの感情とが切り離され、別々に活性化してしまうと、知らない人のはずなのに長年の友人のような気がしたり(既視感)、家族なのに知らない誰かのような気がしたり(未視感)します。
これと同様の原理が、日常生活の身の回りの出来事に対して生じているのが、離人症に伴いやすい既視感や未視感だということになります。オカルト的体験ではなく、解離症状の一種なのです。