「私は怠けているだけなんだろうか」と感じてしまう不登校やCCFSの子に伝えたいこと

の病気は見た目に元気そうに見えちゃうので、周りからは努力すれば動けるんじゃない? と言われているような気がして、辛い時もありますよね

猫とれはわたしが不登校になって慢性疲労外来を訪れたその日に知り合った、同じ境遇の先輩からもらった手紙の一文です。

不登校や慢性疲労症候群の子ども(CCFS)にとって、「努力しようとしていない」「怠けている」と言われること、あるいはそう言われているように感じることは、病気の最も辛い面のひとつです。

そのような批判的な言葉を投げかけられると、自分でも、心のなかで、「もしかしたらわたしは怠けているだけなんじゃないだろうか、頑張ればもっとできるのではないだろうか」という気持ちがわきあがってくることがあるかもしれません。

そう感じてしまうのはなぜでしょうか。不幸にも自分を責めてしまうとき、どのような考えが助けになるでしょうか。

不登校の子どもが、「自分は怠けているのだろうか」と考えてしまう3つの理由と、わたしが主治医から教えてもらったアドバイスについてを取り上げたいと思います。

「怠けているのだろうか」と思ってしまうのはなぜ?

「もしかしたらわたしは怠けているのだろうか…」。そう思い悩んでしまうのは、不登校や慢性疲労症候群の子ども患者特有の現象だそうです。

不登校外来―眠育から不登校病態を理解するにはこう書かれています。

彼ら自身全く理解できない自己矛盾状態にある。「なぜ学校に行かないの?」という周囲の素朴な質問に自分自身でどうしても答えることができない。

したがって、一般の人々の「怠け、勉強嫌い、学校不適応」などという非難・中傷にも、「そのとおりかもしれない」とうなずいてしまうのである。

…小児慢性疲労症候群(CCFS)としての“不登校”は自らのコントロールタワー(脳機能)が混乱する病的状態を中心としているため、何が起こっているのか本人自身にも皆目わからないという“自己矛盾状態”を主訴とするのであるからややこしい。(p22)

慢性疲労症候群は脳のコントロールタワーの病気です。自分自身の状態についてさえ正しく判断できなくなり、「もしかしたら怠けているのかもしれない」と思ってしまうというわけです。

価値観に責められていませんか?

自分を責めてしまう理由はほかにもあるでしょうか。 

学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)という本によれば、わたしたちが持ち合わせている価値観も関わっているかもしれません。こんなエピソードがあります。

T君が、外来を受診したのは彼が高校に入学してまもなくの15歳のときである。T君が全寮制のその高校に入学したのは、進学率の高い有名校であるからだという。

「いい高校に入って、いい大学を卒業し、いい会社に入って給料を多くもらう生活を目指している」と得意げに告げた彼は「それができないやつは負け犬だ」と切り捨てた。

T君は、思い通りに高校には入学できたが、まもなく、眠れず朝起きできない状態となり登校できなくなって、彼が軽蔑しているその負け犬になりつつあった。

彼の戦いは今振り返ると彼自身との戦いであったように思われる。これまでにつちかった学校社会を中心に据えた彼の価値観に基づいた生活が壊れようとしているとき、果たして彼は彼自身を許すことができるであろうか。 (p73)

わたしたちは、「わたしはこうあるべきだ」という価値観を持っていないでしょうか? 良い子でいなければならない、いい成績を取らなければならない、仕事をしていなければ居場所がない…etc。

自分の立場や成績、できたことの量で、自分の価値を推し量っていないでしょうか。自分の価値をそれらのもので測るとしたら、いつか必ず破綻します。

人の価値は、そうした狭量なもので決まるのではないはずです。わたしたちは10センチしかない物差しで川の長さを測るでしょうか。できたことや社会的立場で自分の価値を測ろうとするのは、それと同じほど愚かなことです。

英国の詩人ジョン・ミルトンは、優れた才能ある人物でした。しかし40代という若さで失明し、何もできない自分には価値がない、という思いに苦しめられました。

しかし、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界 に書かれているように、彼はその絶望のなかで、自分のアイデンティティを見つけ、以前よりさらに素晴らしい作品を創り出すようになりました、

視力を失ったことに最初はどうしようもない絶望感を覚えるが、ハル [光と闇を越えて―失明についての一つの体験の著者ジョン・M・ハルのこと] のように、失明の裏側に充実した創造力とアイデンティティーを見つける人もいる。

とくにジョン・ミルトンのことが思い出される。彼は30歳くらいから(おそらく緑内障で)視力を失い始めたが、最高傑作となる詩を生み出したのは12年後に完全に失明したあとのことだ。

彼は目が見えないことについて、内面の視力がいかに外的な視力の代わりになるかについて、『失楽園』で、『闘士サムソン』で、さらに―もっとも直接的には―友人への手紙やごく個人的なソネット「失明について」で、回想している。(p269)

ここに出ている「失明について」は、ソネット第19番(On His Blindness)のことです。その感動的な詩の結びで、彼は、ただじっと立って待っているだけの人も、辛抱強く役割を果たしているのだ、と語っています。たとえ何かができなくても、あなたはそこにいるだけで価値があるのです。

なかなかそう思えないかもしれませんが、わたしたちは、たとえ自分ひとりだけでも、自分自身の価値を認めてあげられるよう、自分を説得する必要があります。

人への思いやり自分にも向けていますか?

不登校になってしばらく過ぎた子の多くは、もはや、さきほど出てきたT君のように、尖った考え方はしていないかもしれません。

病気になって自分の限界を知った人は、他の人には優しくできるようになっていることでしょう。仲間の患者に対しては、上に書いたように、「あなたはそこにいるだけで価値があるよ」と言ってあげられるかもしれません。

しかし自分に対してはそうは思えない、ということはないでしょぅか。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価という本には、長年 線維筋痛症やその他の病気を患ってきたコリーンという患者が登場します。

彼女は、他の人には優しい人でしたが、自分のことは“大きくぶよぶよしたもの”と考えて卑下していました。それで著者は彼女にこうアドバイスしています。

あなた自身に関してそういう考え方ができないのは、人には無条件に与えている思いやりを自分にだけは与えていないということですよ。

…あなたにいちばん大切なのは、自分に思いやりを持つことだと思いますよ。がんばってやってみてください (p384-385)

わたしたちは、人に向けている思いやりを自分にも向けているでしょぅか。

世の中では、自分に厳しく他の人には優しい、という人格が美徳とされることがあります。しかし本当にそうでしょうか。

最もバランスがとれた見方は、自分にも、他の人にも同じ規準を当てはめることではないでしょうか。他の人に優しく、自分にも優しくできてはじめて、本当の意味で道理のわかった人になれるとわたしは思うようになりました。

わたしが主治医に教えてもらったこと

この記事を書いているのは、わたし自身、自分の心に責められて、「本当は自分は怠けているだけなのだろうか」と感じたことがあるからです。

他の人から「慢性疲労だって? みんな疲れているのに何を甘えてるんだ。怠けているだけだ」というような扱いを受けているうちに、自分でもそう思うようになってしまうことがあります。

「もしかしたらわたしは怠けているだけなんじゃないだろうか、頑張ればもっとできるのではないだろうか」。自分の心にそうした疑念が芽生えると本当につらくなります。

不登校児の概日リズム睡眠障害や慢性疲労症候群について啓発活動をしている荒西友里さんも、TED「おはようから始まる創造性」の中で、そうした経験を吐露しておられました。

わたしは、そのような気持ちを主治医に打ち明けたことがありました。そのとき いただいたアドバイスは、とても元気づけられるものでした。

主治医はまず、慢性疲労症候群になるような人はみな本質的にまじめなので、怠けているということは考えられない、と言いました。本当に怠けている人は、自分が「怠けているかもしれない」とは思わない、というわけです。

慢性疲労症候群の患者は現実から逃げている、というような心理分析をする人もいますが、そのような考えに納得できたことはないと話していました。

慢性疲労症候群の人は、一般に、うつ病患者と比べて意欲があると言われています。疲労の医学 (からだの科学primary選書2)という本には、こう書かれています。

慢性疲労には「疲労する自分を何とかしたい」などのやる気が認められ、欲求の低下や思考停止が見られるうつ病とは異なります。(p208)

それでも、楽しいことはやりたいと思えるのに、仕事や責任については、気が進まずおっくうになってしまうことがあるかもしれません。わたし自身、この状態は矛盾しているように感じ、病気を言い訳に怠けてしまっているではないかと自分を責めていました。

その気持ちを先生に打ち明けたところ、先生は意欲と報酬との関係について話してくださいました。意欲は報酬を期待できて初めて生じるということ、それゆえに報酬が確かでない状況では意欲も生まれ得ないということでした。

意欲と報酬の関係は、以前に渡辺先生が統括したCCFSの研究で注目されています。(非侵襲的脳機能計測を用いた意欲の脳内機序と学習効率に関するコホート研究 – 社会技術研究開発センターを参照)

小児慢性疲労症候群(CCFS)は報酬系の感受性が低下している―ドーパミン系の治療法が有効?
理化学研究所によると、小児慢性疲労症候群(CCFS)では脳の報酬系のドーパミン機能が低下していることがわかりました。

意欲と疲労は表裏一体の関係にあるので、学習する意欲が十分でなく「もっと寝ていたい」「何もしたくない」と思うのは、まだ脳が疲れきっている証拠なのです。

慢性疲労症候群を発症した当初、一番苦しいころは、まさに何もできません。しかし少しよくなってくると、だらだらと過ごす状態に陥ります。一番「怠け者」と非難されやすい時期です。

不登校外来―眠育から不登校病態を理解するには、こう書かれています。

1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、半年が過ぎる頃になるとさすがに少しずつではあるが、脳機能の混乱が回復しはじめる。

しかし、回復速度は極めて緩やかで睡眠パターンはほとんど改善されないため、起床は昼近くであることがほとんどで、日常生活は全うできず、できることは(1)テレビを見る、(2)ゲームをする、(3)音楽を聴く、(4)マンガを見る、の四つのみである。

時には読書機能が残っている、あるいは回復することもあるので(1)~(4)+1となる。(p122)

わたしもご多分に漏れず、ゲーム三昧の毎日を過ごしました。学校に行っているころは、ゲームをする暇は微塵もなかったのですが、不登校になってからは、ゲームばかりしていました。

頭はぼーっとしながらもゲームはそれなりにやれるのに、学校や仕事に行こうとしないのは怠けているからなのでしょうか。最新機器によって脳を調べた研究によると、そうではありません。こう書かれています。

不登校状態では、人とのかかわりに障害が起こり、人と会うことに異常な疲労を覚える状態になっている。

相手の表情や意図を感じ取り、相手の言葉を理解・解釈して自分の考えを伝える作業が困難となっている。

fMRIなどの研究でわかってきたことであるが、会話相手の話に集中し理解するため、正常では一部の脳機能で対応できるものが、不登校状態では脳機能のバランスを欠くために脳全体の細胞群を総動員して興奮させなければならず、エネルギー消費が高度となり脳神経細胞に対する負担が大きくなる。(p85)

ゲームはできるのに、学校・仕事など社会的な活動には行けない。活動によってやれることとやれないことがある、というのは一見矛盾しているように思えますが、脳の状態を見ると、いたしかたないことなのです。

本当に体調が悪いときには、だれかから「怠けているのか」と責められることはあっても、自分でそう思うことはありません。「自分は怠けているのではないか」と思いやすいのは、多少元気になってきたころだと思います。

わたしも、「もうここまで治ったのだ。できることはとても多くなったはずだ。もう病気を言い訳にすることなどできない」、と感じる一方で、人と話すことも疲れる自分にもどかしく感じ、「自分は、ただ怠けていたいがために、病気であるふりをしているのだろうか」と考えました。

しかし、主治医によると、慢性疲労症候群には、認知機能の症状と、身体機能の症状がありますが、身体機能が先に回復する人もいれば、認知機能が先に回復する人もいるようです。

わたしの場合、確かに身体機能は回復してきたのでしょうが、認知機能は十分回復していなかったのでしょう。体調が回復してきて社会と関わりを持つころになれば、むしろ認知機能のほうが問題になるだろう、とのことでした。

それに、わたしの体調程度では、まだまだ回復とは言わないと念を押されました。この時期に、社会と関わろうとして、新しい環境に出ることに恐れを感じるのは普通のことで、数年をかけて対処していく必要があるようです。

そういえば、わたしのブログのCCFSの典型的なパターンのところでも、少し良くなってきたころは、「過眠型睡眠障害が回復していないため、再発し逆戻りすることが多く過信は禁物です」などと書かれてありますが、あれはだれが書いたんでしたっけ。

ブログには書いていても、いざ自分の身体のこととなると、戸惑ってすっかり忘れてしまうのです。不思議な話です。

「怠けてなんかいません!」

ここまで、「もしかしたら自分は怠けているのかもしれない」、と自分を責めてしまう3つの理由、そしてわたしが主治医からもらったアドバイスについて考えました。

まずCFSでは脳のコントロールタワーがダメージを受けているので、自分自身について正しく判断することができません。

次に、それまで育んだ価値観のため、できたことの量で自分を判断しているなら、自分は怠けていると思ってしまうかもしれません。

最後に、他の人には無条件に与えている思いやりを自分には与えることができていないなら、やはり自分を責めてしまうことでしょう。

いずれにせよ、どうやら、怠けているわけではなく、誤って不当に厳しく考えているらしいことがわかります。

慢性疲労症候群はなかなか他の人からは理解してもらえず、ひどいことを言われる場合もあります。しかし少なくともわたしたち自身が、病気のもとでもめげない自分を信じ続けてあげることはとても大切だと思うのです。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の著者、ガボール・マテ医師は、先ほど言及した線維筋痛症やその他の病気を患っているコリーンに、さらに こうアドバイスしています。

あなたはエネルギーのほとんどを、人の面倒をみることに使いきっているんです。そして残った少しばかりのエネルギーも、大部分は自分を責めることに使っている。

それだけ自分に厳しくしていれば、そっちにずいぶんエネルギーをとられていますよ。

あなたが医学的に深刻な問題をいくつも抱えているのは客観的な事実です。あなたのからだは危険な状態だ―これは間違いありません。この先どうなるかはわからない。

でも全体的な状況から見て、あなたがご自分に想いやりをもって接するほど、回復の可能性を高めることになります (p385)

「自分は本当は怠けているんだろうか」と考えて自分を責めてしまうのは、少ないエネルギーの浪費になります。

慢性疲労症候群のような病態は、検査に異常が出ませんし、自己矛盾状態にあるので、懐疑的になってしまうことは確かにあります。

ときには、検査結果や資料をよくみて、自分は確かに病気で、これ以上無理をしなくてもいいんだ、と自分を納得させなければならないかもしれません。

わたしの主治医も、キセノンCTの画像を見せながら、良くなってきて焦る気持ちはわかるが、今は回復に専念する必要がある、ということを諭してくれました。

結局のところ、「怠け」や「サボり」のせいで不登校になる子どもなど存在するのでしょうか。不登校外来―眠育から不登校病態を理解するにはこう書かれています。

“不登校”は医学的に問題のない健康体であり、こころに問題がある」という間違った解釈を成り立たせたのは医療サイドであると考えられる。(p12)

たとえ怠けているように見える子どもでも、その根底には、意欲にかかわる脳の報酬系のトラブルがあるのかもしれませんし、本人も周りも気づいていない未知の原因が関わっているかもしれません。

だからこそ三池先生はこう言います。

いつまでもあいまいにしたままで、責任を受診者のこころの脆さにあるかのように説明するのは小児科医として納得できない。

少なくとも、

「今、私たちの知識や力ではあなたの訴えや問題を科学的に十分解説することはできないが、そのうちに私たちがもっと勉強すれば明確に説明できる日が来ると考えています。

医学の力不足であって、あなたの気の持ち様などではないと考えています」

と伝えるべきだと思う。(p24)

心身ともに健康なのに、わざわざ不登校になって自分を追い詰めるような子どもはどこにもいないでしょう。周りから見えないとしても、何か普通でない重い荷物を背負っているからこそ、みんなと足並みそろえて歩いていくことができないのです。

ですから、「怠けているのではないか」と自分を責めるより、もう少し肩の力を抜いて、自分のしたいことをやってみる、というくらいがちょうどいいのではないでしょうか。

そして、もっと胸を張ってこう言えば良いのだと思います。

「怠けてなんかいません!」