アインシュテルング効果の真の危うさは、まさにここにある。
自分が偏見なしに考えていると信じていても、新しいアイデアを刺激する可能性のある事柄から自分の脳が選択的に注意をそらしていることにまるで気づいていない可能性があるのだ。
自分がすでに抱いている結論や仮説と一致しないデータは、無視されるか捨てられてしまう。(p47)
わたしたちの大半は、自分は人の意見をよく聞き、柔軟な考え方をしているほうだ、と思っているかもしれません。
ところが実際には、だれもが自分の考えに固執し、新しいアイデアや価値観を退ける、という根深い傾向を持っています。
無意識のうちにわたしたちの見方を左右しているその傾向は、「アインシュテルング効果」と呼ばれていて、医療・裁判・科学など、さまざまな分野で、いえ、それどころか、わたしたちの日常生活でも、頻繁に偏った見方を生んでいます。
アインシュテルング効果とは何でしょうか。わたしたちは知らず知らずのうちにどんな偏った見方をしているのでしょうか。ダーウィンはどのようにしてそれに対処していたのでしょうか。
日経 サイエンス 2014年 05月号 [雑誌] やファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) などから考えてみたいと思います。
もくじ
アインシュテルング効果とは?
「アインシュテルング」とは「心構え」を意味するドイツ語です。
「アインシュテルング効果」、あるいは「構え効果」は、1942年、米国の心理学者アブラハム・S・ルーチンスの「水がめ問題」を通して広く知られるようになりました。
「水がめ問題」は、異なる容量の水さし3つを使って、さまざまな量を量りとる、頭の体操のような問題です。
この種の問題には色々と解法があるものですが、ある解き方を教えられた人たちは、異なる最適解があるときでも、馴染み深い解き方のほうに固執してしまう、ということが明らかになりました。
このような、自分なりの結論をすでに得ていると、ほかの可能性が目に入らなくなってしまう、 というのがアインシュテルング効果の本質です。
たとえば、科学者は自分の理論と一致しないデータは無視してしまう傾向があります。
医者は自分の専門外の病気の可能性を度外視して誤診を下してしまいます。
陪審員は、すべての証拠が提示される前から有罪か無罪かにアタリをつけていて、他の証拠を都合よく解釈しがちです。
ピロリ菌と「アインシュテルング効果」のストーリー
アインシュテルング効果の根深い影響を考えるのにうってつけなのは、ピロリ菌のストーリーです。
0ベース思考—どんな難問もシンプルに解決できる には、胃潰瘍の原因をめぐる、オーストラリアの若い医者、バリー・マーシャルの革新的な発見について書かれています。
当時、胃潰瘍は精神的なストレスで引き起こされると考えられていました。確かな科学的裏付けはないのに、だれもがそう信じていたのです。
ところがバリー・マーシャルは、その原因は細菌にあるのではないかと考えました。胃は強酸性で細菌など住めない、というのが定説でしたが、マーシャルは胃にヘリコバクターピロリ菌が住んでいることを発見しました。
バリー・マーシャルは、ピロリ菌こそが胃潰瘍の原因だと主張しましたが、アインシュテルング効果に陥っていた医師たちは、彼の主張を鼻で笑いました。
バリー・マーシャルは、ピロリ菌が胃潰瘍を引き起こすことを示すために、自分の体を使って、人体実験をも試みました。その結果どうなったでしょうか。
マーシャルは冷笑され、糾弾され、無視された。―どこかの気がふれたオーストラリア人医師が、自分で発見したとかいう菌を呑み込んで潰瘍の原因をつきとめたと言っているが本気かい?
…潰瘍発症のしくみが完全に受け入れられるには何年もかかった。一般通念ってやつはなかなかしぶといのだ。いまも潰瘍はストレスや辛いものが原因だと信じている人がたくさんいる。(p113)
時は流れ、ピロリ菌が胃潰瘍を引き起こす原因であることが正式に認められ、マーシャルがノーベル賞を受賞し、ピロリ菌は悪者だとすっかり浸透したころになって、またもう一つの騒動が起こります。
ピロリ菌は今や胃潰瘍の原因として積極的に除去されるようになりましたが、なんとピロリ菌がいなければ胃食道逆流症の発症率が何倍にもなる、というデータが出てきました。さらに、ピロリ菌の不在は食道がんの発症率も押し上げていました。
ピロリ菌は悪者で除去しなければならない、という定説にすっかり凝り固まっていた医師たちは、またしてもアインシュテルング効果によって、このデータを無視しました。
しかし一部の先進的な研究者たちは、偏見にとらわれず、ピロリ菌だけでなく、さまざまな腸内細菌が、病気の発症や予防に深く関わっていることを明らかにしました。
「そう、バリー・マーシャルのときとそっくりな反響だ」とポロディは言う。
「最初は村八分に遭ったよ。いまでも同僚はこの話題を出そうとしないし、会議で一緒になっても目も合わせてくれない。徐々に変わってきてはいるがね」(p117)
このピロリ菌をめぐるアインシュテルング効果のストーリーは、決して遠い世界の話ではありません。
わたしたちの毎日の生活で繰り返されている、自分の考えへの固執と、他人の新しい意見への偏見が、たまたま大きくクローズアップされた例のひとつにすぎません。
「アインシュテルング効果」はなぜ生じるか
それにしても「アインシュテルング効果」はなぜ生じるのでしょうか。
日経 サイエンス 2014年 05月号 [雑誌] に載せられているチェスのプレイヤーの研究によると、問題の本質は、「何を見ているか」ということにあるようです。
赤外線カメラで目の動きを追跡すると、すでに特定の解法を知っているチェスプレイヤーは、その解法に関係する場所しか見ないで、判断を下してしまっていることがわかりました。
それでアインシュテルング効果が起こってしまうのは、次の二つの傾向、つまり(1)自分の考えを裏づけるものだけを見て、(2)自分の見たもの以外の可能性を考えないこと、が関係しているといえるでしょう。
これらの傾向は、それぞれ、心理学で「確証バイアス」や「WISIATI」として知られています。
確証バイアス―自分の考えを裏づけるものだけを探す
一つ目の、自分の考えを裏づけるものばかり探してしまう傾向、それは「確証バイアス」です。
認知心理学者ダニエル・カーネマンによる、ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) という本では、確証バイアスについて、次のように説明されています。
連想記憶の働きは、一般的な「確証バイアス(confirmation bias)」を助長する。
サムが親切だと思っている人は、「サムって親切?」と訊かれればサムに親切にしてもらった例をあれこれと思い出すが、「サムっていじわるだよね?」と訊かれたときはあまり思い浮かばない。
…「仮説は反証により検証せよ」と科学哲学者が教えているにもかかわらず、多くの人は、自分の信念と一致しそうなデータばかり探す―いや、科学者だってひんぱんにそうしている。(p122)
わたしたちは、自分がどれほど偏見なく公平な見方をしていると思い込んでいようとも、必ず「確証バイアス」の影響を受けています。
さまざまな情報を取捨選択するとき、自分にとって都合の良いものばかりを見つけ、そうでないものは見過ごしてしまうか、たとえ気づいてもすぐ忘れてしまいます。
特にさまざまな情報が玉石混交しているインターネットでは、わたしたちは確証バイアスにより、自分の好むような情報を見つけ出しやすいといえます。
たとえばある映画の評判を調べようと思う場合、その映画がきっと面白いだろうと考えている人は、それを裏づけるポジティブな意見ばかり目に止まり、逆にその映画を見ないよう家族を説得したいと思っている人は、ネガティブな意見ばかり見つけるでしょう。
ちょうど、赤外線カメラで目の動きを測定されたチェスプレイヤーと同じく、自分の考えを裏づける証拠ばかりを見つけ、それ以外のものは目に入らないのです。
ある学説に心酔している科学者、特定の宗教やブランド、有名人を信奉している人たちなどは、「確証バイアス」によって、それが正しい、すばらしいという裏付け証拠ばかり見つけ、反論や疑問は気に留めず、結果的に盲信してしまいます。
(※権威や有名人の言葉を鵜呑みにする傾向は「ハロー効果」、自分の好きなもののメリットばかり探す傾向は「感情ヒューリスティック」とも言われます)
WYSIATI―自分の見たものがすべて
裏付け証拠ばかり集める「確証バイアス」の後に続いて起こるのは、自分の目に入らなかったものは存在しないと言わんばかりに切り捨ててしまうことでした。こちらの傾向は「WYSIATI」と呼ばれています。
限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は、直感思考を理解するうえで非常に重要であり、これから本書に何度も登場する。
この傾向は、自分の見たものがすべてだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する。
…この「自分の見たものがすべて(what you see id all there is)」は、英語の頭文字をとってWYSIATIという長たらしい略語が作られている。(p129)
わたしたちは誰でも、自分の知っているものがすべてだ、と考えて、自分の常識の枠外にあるものはあたかも存在しないかのように無視してしまう傾向を持っています。
地球が丸いという概念、地動説、宇宙に始まりがあったこと、女性の権利、人間はどの人種も平等だということ、人間の脳には可塑性があるということなど、挙げ始めるときりがありませんが、新しい概念は必ず最初は無視されてきました。
いずれの場合も、そうした新しい概念は、当時の人たちの「見たことがないもの」でした。無視したのは、決して悪意のある人たちばかりではありませんでした。
知識人も含め、WYASITIにとらわれていた普通の人たちが、新しい概念に取り合おうともしなかったのです。
見たことがない人種の文化、触れたこともない宗教の信条、聞いたことのないアイデア。いずれの場合も、ほとんどの人は、情報を得ようともせず、あたかも存在さえしないものであるかのように度外視しています。
自分の気づいていない可能性があるのではないか、自分の狭い知識の範囲内では想像だにできないような観点が存在しているのではないか、自分とまったく違う考え方をする人の意見こそ実はとても重要なのではないか。
そう考えて、謙虚に耳を傾けるのは誰にとっても難しいのです。
もっともらしい説明が正しいとは限らない
わたしたちの身近なところに存在するアインシュテルング効果にはどのようなものがあるでしょうか。
近年、さまざまな分野の研究が進歩する中、これまで常識とされていたことが、覆されるような研究結果が数多く出ています。
たとえば、あなたは、だれがが、「男性と女性は脳のつくりが違うから、夫婦の意見が合わないときもある」、「日本人に創造性が欠けているのは、日本特有の集団主義的な教育のせいだ」といったことをもっともらしく言うのを聞いたことがありますか?
正直に言えば、わたし自身、このブログの過去の記事で、そうした意見(特に後者)を書いた覚えがありますが、どうもそれはアインシュテルング効果に捕らわれているかもしれません。
男性と女性は脳のつくりが違う?
一般に男性は一度に一つのことしか考えられず競争を好むとか、女性は同時思考に優れていて、繊細で感情的だとか言われています。
ところが近年の研究によると、男性脳と女性脳という違いはほとんど存在しないそうです。
「男性脳」「女性脳」は存在しない?:英国の研究結果 ≪ WIRED.jp
脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼 (B&Tブックス) の中で「男性脳、女性脳」という概念は、脳科学の都市伝説の一つとされています。
男女の脳でまったく差がないということはなく、明らかに一部の差はあるでしょう。でも、それが男脳、女脳というほど決定的なものではない可能性があるのです。(p164)
その問題、経済学で解決できますによると、世界で最も女性の立場が強いカーシ族の村に行くと、まるで、女性たちはわたしたちの社会の男性のようにふるまっていました。
WORK DESIGN:行動経済学でジェンダー格差を克服するでもこの調査について取り上げられていて、次のように要約されています。
ある研究では、状況や環境が及ぼす影響を明らかにするために、男女の関係が両極端な2つの社会に着目した。
1つは、タンザニアのマサイ族の社会。「女は牛より下」と言われるような旧態依然の社会だ。もう1つは、インド北東部のカーシ族の社会。こちらは女性が一家の長の座にある母系社会である。
…マサイ族の人たちの選択は、アメリカ人と同様だった。競争を選んだ人は、男性では約半分に上ったのに対し、女性ではおよそ4分の1にとどまった。
それに対し、カーシ族の場合は、半分以上の女性が競争を選んだ。一方、競争することを選んだ男性は、女性より約15%少なかった。
マサイ族とカーシ族は男女の関係以外の違いも多いが、この実験結果は、競争に対する姿勢が後天的に構成されるという主張の1つの根拠になるだろう。(p234)
もう一つ興味深い研究によれば、男女のジェンダー平等ランキングで上位に入るスウェーデンの社会では、かけっこでもダンスでも、男の子と女の子の積極性の違いはみられなかったそうです。(p235)
それで、この本では男女の性差についての意見の多くは思い込みであると結論されています。
その障害とは、男女には性差があるという思い込みだ。その種の議論は、たいてい誇張されていて、エビデンスを欠いている。
恋愛カウンセラーのジョン・グレイによる1992年のベストセラー『ベスト・パートナーになるために』(邦訳・知的生きかた文庫)が説いたように、男は火星からやって来て、女は金星からやって来たというくらい、男女は根本的に違うものなのか?
…男女の価値観や行動パターンの違いを生む原因がなんであれ、国によって状況が異なることを考えると、その違いは先天的な要因によるものではなさそうだ。少なくとも、先天的な要因だけでは説明がつかない。(p237)
夫婦や恋人の意見が合わないとき、「男と女では脳のつくりが違うから」という、もっともらしい理由づけには終止符を打つ必要がありそうです。
別の記事で考察しているように、男女のからだの作りや、脳の反応の性差があるのは事実です。しかし、それらはあくまで傾向であり、男性らしさ、女性らしさを決めているのはほとんどが環境要因です。
わたしたちの社会で育つ子どもは、わずか六歳のときから、男性のほうが優秀という、無意識の思考のバイアスがかかっている、という研究もありました。
おそらく文化的ストレスの結果として女性のほうが抑制機能が早期に育つためだと思われますが、統計をとれば女の子のほうが学校の成績がいいというのは皮肉な話です。
日本人は集団主義的で創造性が欠けている?
日本人は創造性が欠けていて、集団主義を強いる学校社会が創造性を殺しているという意見も、そこかしこで言われています。だれもが自分の子ども時代を思い出して納得してしまいます。
個人主義的なアメリカの教育だと、いじめが少なく、才能のある人が伸びやすい、という意見もよく聞きます。
ところが、近年の研究によると、日本人がアメリカ人に比べて集団主義的だという証拠は見つからなかったそうです。
この調査では、日本人が集団主義的だというのは、データに基づくものではなく、文化ステレオタイプというバイアスの一種ではないか、とされています。
また、世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方 という本によると、こんな調査がありました。
アドビ社は最近、世界各国の成人の5000人にインタビューし、クリエイティビティの世界的動向に関する調査をおこなった。
その結果、クリエイティブな国の第一位に日本が、クリエイティブな都市の第一位に東京が選ばれた。
だがここで興味深いのは、この調査でクリエイティブな国として挙げられた国の中で、唯一日本人だけが、自分たちの国や都市―日本や東京―をクリエイティブな場所だと考えていない点だ。
その代わりに日本人は、アメリカ、ドイツ、フランスといった国を挙げている。(p9)
どうやら、日本特有の教育が創造性を殺しているという考えは、何か重要な視点が欠けているのではないでしょうか。
ちなみに最近読んだ「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86 の著者はこう書いていました。
大学以前の教育を振り返ると、創造性の芽は摘まれるべきものとみなされていた。
教師や権力側の人間にとって、創造性は脅威だった。手懐けることができない、危険なものだった。
ドラッグや万引きや賭け事から生徒を遠ざけるのと同じように、教師は創造性という危険物から生徒を隔離した。(p10)
興味深いことに、この本の著者は日本人ではなく、イギリス人です。
また、日本は自己抑制が強いられる集団主義の教育環境であり、もっと自由な海外の教育環境のほうが、のびのび子どもを育てられる、という人もいます。
確かに、日本で不登校になった子どもが、海外に行けばもっと自分らしく生きられるようになった、という話はよく聞きます。
例えば、精神科医の岡野憲一郎先生は、気弱な精神科医のアメリカ奮闘記の中で、日本では気を使いすぎて不適応を起こしていましたが、アメリカではとても楽に振る舞えたという、自身の体験談を綴っています。
そして、ひとたび海外の自由さを味わってしまうと、日本に戻るのは難しいとも書いています。
ところが一度外国生活等を通して「わがまま」の味を知った日本人はおそらく本当の意味で日本の文化に逆戻りはできないのではないか?
少なくとも数年間のアメリカ留学で「わがまま」を身に着けたまま日本の職場に戻り、不適応を起こした人を私は何人か見てきている。(p232)
確かに、日本社会で不適応を起こした人たちが、「自由の国」に行くとはつらつとし始め、日本に帰ってくるとやはり不適応に戻る、というのはよくあることです。
しかし興味深いのは、これが日本よりアメリカのほうが楽だ、という短絡的な意味合いではないことです。それは、岡野先生が同じ本の中で書いている、息子さんのエピソードから明らかです。
また私の家族の話になって恐縮だが、息子を見ていると、日本に里帰りしている時とアメリカに帰って来た時とでは表情がまったく違うことに気がつく。
彼はアメリカで生まれ育っているから、日本は彼にとっては外国のはずである。しかし日本の祖父母のもとに滞在する時は、彼はリラックスして買い物などにも一人でズンズン行ってしまう。
…ところがアメリカに戻ってくると途端に声のトーンが低くなり、大人びて張り詰めたような表情になる。
アメリカに彼親しんで、幼い頃からの友達がたくさんいるのに、どういうことなのだろうか? そして言うのである。「アメリカはやっぱり怖い所だよ」。(p65)
アメリカで生まれ育った岡野先生の息子さんの場合、日本に来ると元気になり、アメリカに戻ると「張り詰めたような表情」になりました。
この場合、日本は拘束的で、アメリカは自由だという考えとは、まったく逆ではないでしょうか。日本のほうが「自由の国」になっています。
ということは、日本の学校社会でストレスを感じた子どもが、海外に行くと良くなるケースがあるのは、日本より海外の教育のほうが優れているからではなく、他の理由によるのではないでしょうか。
個人的な推測ですが、この問題は、文化の優劣ではなく、PTSDの研究から解釈すれば、筋の通った説明ができるのではないか、と思っています。
PTSDとは、特定の状況や場所と結びついた恐怖条件付けであり、トラウマを経験した時と似た状況に直面したり、被害を受けた場所に行ったりすると、症状が誘発されます。
繊細な子どもは、どんな文化で育つとしても、幼少期から学童期にかけて、さまざまなショックにさらされやすいものです。すると、自分が生まれ育った環境が、苦しく辛いものとして恐怖条件付けされます。
そうすると、自分が生まれ育った自国の文化の中にいる限り、心身の不調に見舞われ不適応を起こしますが、まったく異なる文化、つまり恐怖条件付けを誘発させない目新しい環境に行けば、またのびのび生活できるようになります。
つまり、日本と海外どちらがよい、というわけではなく、単に幼少期に辛い経験をした文化と異なる世界に行くことで、生き生き過ごせるようになるのではないでしょうか。
自由とは、理想郷のような特定の国家に存在するものではなく、自分の足で踏み出す人たちが見出すものなのです。
アインシュテルング効果を打ち消すには?
ここまでの色々な例を通して、「アインシュテルング効果」が、いかに、わたしたちの日常に深く入り込んでいるか、 その一端が感じられたかもしれません。
わたしたちは、ついもっともらしい説明をされると、それが実際には正しいものではなくても、いつの間にか信じこんでしまっていることがあります。
そして、すでに心に抱いた信念に基づいてさまざまな情報を解釈して、その信念に合わないものは無視するか間違っているとみなします。
わたしたちはだれもバイアスの影響から逃れられませんし、アインシュテルング効果をまったくオフにするのは不可能です。
そもそもアインシュテルング効果のすべてが悪いわけではありません。アインシュテルング効果や確証バイアスがなければ、人は何も信じられず、類推することさえできない不確かな世界に生きることになります。
少数の事例から結論を見出す能力は、わたしたちが時間を節約し、効果的に生きるのに役立っています。そうした思考の近道は、少なくとも日々の生活を送る上では、直感的に正しく、役立つことも多いからです。
問題なのは、直感的な近道が必ず正しい、とは限らないことです。見知らぬ土地をドライブしているとき、この方向に行けば近道できそうだ、と行ってみたら、袋小路にはまって出られなくなることがあるのと同じです。
しかし、アインシュテルング効果に首尾よく対処して、慎重で柔軟な思考をするよう努力することは可能です。既存の伝統を打ち崩したことで知られる二人の著名人の言葉を考えてみましょう。
ダーウィンは自分とは異なる意見をメモした
アインシュテルング効果を打ち消す点で、よい手本を示している一人目の人はチャールズ・ダーウィンです。
彼は、当時の常識とは異なる理論を打ち立てたことで有名ですが、日経 サイエンス 2014年 05月号 [雑誌] によると、このような習慣を持っていたといいます。
私は長年、ある黄金律に従ってきた。何かの事実や観察結果、新しい考え方が発表され、それが自分の出した結果に反している場合、必ずすぐにメモしておくのだ。
私自身の経験からいえることだが、そうした事実や考えは、好ましいものよりもはるかに記憶から抜け落ちやすい。(p49)
これは、もともとは、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫) からの引用であり、原著のほうの翻訳ではこうなっていました。
私はまた、多年にわたって、つぎの法則を遵守してきた。それは、公表された事実であれ、新しい観察や考えであれ、なんでも私の一般的な結論に反するものに気がついたときには、それを漏れなく、すぐに覚え書きにしておくということである。
というのは、このような事実や考えは、都合のよい事実や考えよりもずっと記憶から逃げてしまいやすいということを、私は経験で知っていたからである。
この習慣のおかげで、私がすでに気づいてそれに答えようとしたのでない異論が私の見解に向けて提起されるということは、ほとんど起こらなかった。(p154)
ダーウィンは、自分の考えとは異なる意見に対して、単に柔軟だったというのではなく、むしろ積極的に注目していました。偏見なく耳を傾けようとするだけでなく、わざわざメモを取っていたのです。
ダーウィンは、明らかに、バイアスがいかに強い影響を自分に及ぼすものであるかをよく知っていました。それは単なる心構えでどうにかなるレベルではなく、積極的に対策を講じないと克服できないものなのです。
どうして、ダーウィンは、自分とは相異なる意見の存在を、それほど重要視したのでしょうか。
脳のなかの天使 に引用されているダーウィンの次の信念は、その理由を示しています。
誤って事実とされたことは、長くそのままになりがちなので、科学の進歩にとってきわめて有害である。
しかし誤った見解は、たとえなんらかの証拠によって支持されていようと、ほとんど害をなさない。誤りを立証するという有益な楽しみをだれもが実行したがるからだ。
そして誤りが立証されれば、まちがいに向かう一つの道が閉ざされて、真実に至る道がしばしば同時に開かれる。(p344)
この言葉は、このブログのプロフィールページにも載せているものです。
ダーウィンは、自分の考えとは異なる意見を、敵対するものとは見なしていませんでした。むしろ、自分の考えもまた間違っている可能性があり、異なる意見と照らしあわせたときに初めて真実に至る道が開かれる、と考えていたのです。
一見、相反する複数の意見が、じつは互いに補い合うものだったという例は少なくありません。
有名なインドの説話に「群盲象を評す」というものがあります。数人の目の見えない人が、ある動物を触ったとき、ある人は「うちわのようだ」と言い、別の人は「柱のようだ」「ロープのようだ」などと言いました。
一見すべて矛盾しているようですが、実は、どれも正しい結論でした。うちわは耳、柱は足、ロープはしっぽで、その動物はゾウだったのです。
相異なる複数の意見を冷静に比較検討できる人がいれば、それら様々な意見は真実を覆い隠すどころか、むしろより正しい結論を導き出すヒントになります。そのような人はいわば心の目が見える人だといえるでしょう。
ダーウィンは、自分の意見に固執して盲信したり、目の前の意見の食い違いにとらわれたりするのではなく、相異なる意見の先にあるかすかな真実を見ようとしたのです。
むろん、ダーウィン自身は、アインシュテルング効果という言葉も、確証バイアスという概念もない時代の人でした。
それでも、ダーウィンは、自らの思考をつぶさに観察して、落とし穴を避けるための工夫を自分で見出しました。
確かにバイアスやヒューリスティックといった心理学の概念について学ぶことは、思考の近道の危険を意識するのに役立ちます。
しかし、もっと重要なのは、たとえそうした概念を知らなくとも、注意深く内省し、多面的に思考する習慣であると、ダーウィンの手本は教えてくれます。
新しい見解は世界観を広げる助けになる
アインシュテルング効果を抜け出すときに手本にしたいと感じる別の人は、神経科医のオリヴァー・サックスです。
彼は、当時の医学の常識を疑い、患者ひとりひとりの内面を鋭く観察しました。
当時、病気を抱える人たちの特異な行動は、その人個人の脳の疾患によるものとみなされていました。これは今日でも主流の見方です。
しかしサックスは、同じ一人の人間として彼らと接するうちに、彼らは異なる神経系によって異なる仕方で社会に適応した文化を持つ人たちなのだ、と考えるようになりました。
サックスの洞察は、今日広まりつつある障害の個人モデル論(障害者とは個人の脳や体に問題を抱える人たちであるという考え)から社会モデル論(障害者は異なる文化を持っているだけであり、社会の仕組みが障害となっているという考え)への転換のさきがけをなしました。
そんなサックスは、死後に出版されたエッセイ集意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源 の中で、自分の考え方についてこう書き残していました。
最初の障壁は、新しい考えに遭遇したら、心にスペースというか、入る可能性のあるカテゴリーをつくれるかどうかであり、それからその考えをしっかりした意識にもち込み、概念の形を与えて、たとえそれが既存の概念、信念、カテゴリーと矛盾しても、心のなかに保つことである。
この収容のプロセス、心にスペースをつくるプロセスは、考えや発見が根づいて結実するか、それとも忘れられ、衰え、跡形もなく消えてしまうか、そこを分けるうえできわめて重要である。(p207)
サックスが、社会の通説にとらわれない斬新な観点からの発見を成し遂げられたのは、新しい考え、とくに「既存の概念、信念、カテゴリーと矛盾」するような、いわば都合の悪い考えに直面しても、それを「心のなかに保つ」ことができたからです。
サックスは、ダーウィンを尊敬していたので、この本のなかで、さきほどのダーウィンの手本にも目ざとく言及して、こう記しています。
ダーウィンは「負の事例」や「例外」の重要性と、それらをただちに記録に残すことがいかに大切かを認めている。そうしないと「必ず忘れられる」からだ。(p220)
サックスは、ダーウィンのこのエピソードを知っていたからこそ、自分もまた異なる信念や概念を持つ人たちに対して寛容であることができ、それを別の文化として描き出すことに成功しました。
また、わたしが見習いたいと思った他の人は、パーキンソン病の俳優、マイケル・J・フォックスです。
彼は、まだ病気が恥ずかしいこととされていた時代に、勇気をもってパーキンソン病をカミングアウトしました。今日、当事者による情報発信はかなり一般的になりつつありますが、そのさきがけをなしたのが彼でした。
彼は、いつも上を向いて―超楽観主義者の冒険 という本の中でこう書いています。
自分のものとは違う信念を信奉している人の話を聞くことは、脅威ではなく知識を増やすことだ。
なぜなら自分の世界観を変えることができる唯一のものは、新しく否定しがたい真実なのだから。(p187)
マイケル・J・フォックスがこう述べるのは、政治や宗教において、自分とは違う信条を持つ人たちの意見に進んで耳を傾けるため、時間を割いてきたからです。
チャールズ・ダーウィンと同じく、彼の場合も、違う信念を持つ人の意見に進んで耳を傾けました。そうすることが、「自分の世界観を変える唯一の方法」だと知っていたからです。
ある建物について、二人の人がまったく違う描写をしていたとしましょう。あまりにも意見が食い違って、別々のものを説明しているように聞こえます。
かたや建物は角ばっていて、かたや建物は丸いと言います。どちらが正しいのでしょうか。
実は、片方の人は建物の中にいて、もう一方の人は、建物の外にいたのです。まったく違う意見でも、視点の違いを反映しているだけだということはないでしょうか。
建物の中にいる人は普通、外から見る視点は持てません。しかし外にいる人と互いに意見を交換できれば、より正確な事実が浮かび上がります。そのとき初めて世界観が広がります。
その昔、地球の形は平坦なものだと思われていました。地球という「建物」の中から観察すれば、そう見えるのは当然です。
しかし月に映る影などを観察し、数学の助けを借りて、別の視点を持ったとき、地球は丸いかもしれないと考えられるようになりました。そして宇宙時代に、初めて地球という「建物」の外、宇宙から地球を見ることに成功し、わたしたちの世界観は広がりました。
わたしたちは、自分が生まれ育った以外の文化や宗教の価値観は変なもの、おかしなものと考えがちです。しかし異文化に生きる人たちの中に入って一緒に生活してみると、新たな視点が得られ、世界観が変化します。
チャールズ・ダーウィンも、オリヴァー・サックスやマイケル・J・フォックスも、自分とは異なる意見は、自分に対する脅威ではなく、むしろ自分を成長させてくれるものだと考えていたのです。
考え方は変化していくべきもの
わたし自身、すでに書いたように、既存の考えや信念に縛られてしまうことが多く、「確証バイアス」や「WYSIATI」の根深い影響を受けていることは否めません。
このブログの内容は、限られた情報をもとに構成している点で、「WYSIATI」の影響を色濃く反映しています。
つい自分の考えの裏付けばかり探してしまったり、反証を頭ごなしに退けてしまったりすることはよくあることです。
けれどもわたしは、自分の書いている内容が、完璧でもなければ、不確かなことばかりであるのを自覚しています。
ダーウィンもそうでした。彼は、しばしば生命の謎を解いた人であるかのように英雄視されますが、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫)のなかで、自分は何もかもわかっているとは考えていないことを綴っています。
私は、このような深淵な問題に少しでも光を投じえたかのようによそおうことはできない。
あらゆる事物のはじめという神秘は、われわれには解きえない。
私個人としては不可知論者にとどまらざるをえない。(p111)
ダーウィンは、自分の手持ちの知識が非常に限られていて、自分には知り得ないさまざまな可能性がありうることを認めていました。
わたしは子どものころから、他人の相反する意見に対して、防衛機制で言うところの「投影」ではなく「取り入れ」で対処する生存戦略を用いてきました。
敵対するのではなく、同化させることで、落とし所を探っていくようなやり方です。
わたしは本を読むとき、じっくり研究されたものであれば、ほとんど どんな意見でも感心してしまい、新しい発見にわくわくします。
おもしろいことに、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫) ダーウィンもまたそのような傾向を持っていたようです。
私は貧しい批評家であって、論文や書物を最初読んだときにはたいてい嘆賞するばかりで、それの弱点に感づくのは、相当よく考えた後になってのことである。(p173)
わたしも、ダーウィン同様、まずどんな意見でも興味深く受け容れ、自分の中に「取り入れ」てしまいます。そして、多種多様な意見を混ぜ合わせた後で初めて、特定の意見の浅はかさに気づきます。
もちろん、さまざまな本を読む中で、相反する意見を目にすると、納得できないことは多々あります。しかし、わたしは、納得できないことにこそ興味を惹かれます。
わたしは個人的な経験から、何か納得のいかないこと、理解しにくいこと、矛盾しているようなことがあった場合、それは何か楽しい発見が眠っているサインだと考えています。
知ってるつもり――無知の科学という本によれば、ブリッジウォーター・アソシエイツの創業者であるレイ・ダリオは次のように語ったそうです。
私が成功した理由は、知らないことへの対処法にある。私は自分の考えのどこか誤っているかを考える。
反論してくれる人間に会うと、嬉しくなる。物事を彼らの視点から見て、これは正しいのか、間違っているのかと考えることができるからだ。
このような学習経験によって知識が深まり、より良い意思決定につながる。このように、知っているひとより、知らないことに対処することのほうが大切なのだ。(p274)
自分の意見にそぐわないこと、疑問に思うこと、これはおかしいと感じることほど、よく考えたり調べたりすれば、思いがけない発見が眠っていて、深い洞察が得られるものです。
強固に対立した相異なる意見が、白黒競って争っている場所ほど、もっと多面的で奥深い第三の答えが眠っています。
そして、そうした発見は、疑問を感じた当時は、まだ自分が知らなかった情報に基づいていることが少なくありません。
このブログでは、過去の記事と現在の記事とで、意見が食い違っている部分が少なからずあると思います。それは、情報が増えたことで考え方を変えたためです。
世の中では、意見を帰るのは弱さや自信のなさの表れだとみなされることがあります。でも、ピクサーのエド・キャットムルが、ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法をに書いているように、考えを改めるのは決して愚かなことではありません。
方向転換を意志の弱さの表れ、自分を見失ったと認めるのと同じだと考える人は多い。私にはそれが信じられない。
個人的に、自分の考えを改められない人は危険だと思う。スティーブ・ジョブズは、新事実が明るみになるたびにコロコロ変わることで有名だったが、彼のことを弱い人間だと言う人を見たことがない。(p208)
ダーウィンもまた、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫) にこう書いています。
私が判断できるかぎりでは、私は他人のあとを盲目的についていくには向いていない。
私はどんな仮説でも、たとえそれがとても気にいったものでも(しかも私はどんな問題についても仮説を作らずにはいられないのである)、事実がそれに反するということが証明されればすぐにそれを放棄するために、いつでも変わらず自分の心を自由にしておくようにつとめてきた。(p175)
わたし自身、そうしたことが度々あるため、何か記事を書くときに、たとえ断定的な口調を用いていたとしても、それが100%真実だと思って書いていることはありません。
プロフィールページに書いているとおり、読む人にも半信半疑で受け取ってほしいと思っています。
人間の脳が可塑性に飛んでいて、成人後もどんどん形を変えていくように、わたしの考え方や信念も、新しい発見に応じて、いつまでも変化を続けていくべきだと思っています。
教科書や辞書は古くなれば価値が無くなり捨てられていきます。アップデートされないソフトウェアはいずれ取り替えられます。同じ考えに固執している人間も、それらと同様の運命をたどるでしょう。
そう考えているからこそ、「アインシュテルング効果」や「確証バイアス」、そして「WYSIATI」には注意が必要です。
それらの利点をある面では活用しつつも、注意を怠らず、ほどよい距離感で付き合っていきたいものです。