だがわたしは、このような [花をつける種子植物の] 適応のすばらしさは認めるものの、緑色で匂いのないシダの世界、花が出現するまえからずっと変わらない、緑色だけの太古の世界のほうが好きだ。
それは、生殖器―おしべとめしべ―をこれ見よがしに突き出すのではなく、ある種の慎み深さで葉の裏に隠しているような、可憐で上品な世界である。(p60)
わたしが敬愛する脳神経科学者オリヴァー・サックスは、医者であると同時に、自然科学者でした。
二冊の著書、オアハカ日誌 と色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記では、専門家顔負けの知識を発揮して、シダ植物の魅力を熱っぽく語っています。
追って書きますが、わたしの最も古い自然観察の記憶も、シダに関するものでした。その後、シダとは無縁の日々を送ってきましたが、近年、熱心に自然観察をするようになって、サックスのシダ好きに共感できるようになりました。
森の中を歩いていると様々な風景に出会います。わたしは自分の体をモニタリングし、いつどこで、体が最も安心し、リラックスしているか、感じ取るよう努めます。
すると、わたしが最も心地よいのは、どうやらシダが密生する風景らしい、ということがわかってきました。森の中には様々なフラクタル構造がありますが、シダが織り成すレースのようなフラクタルこそ、見ていて最も安らぎを覚えます。
サックスのシダ観察旅行記であるオアハカ日誌は、過去に一度、記事にまとめたことがあります。そのときは、単に旅行記として読んだにすぎません。
しかし、いざ自分がシダ観察を経験してから改めて読んでみると、新しい発見が幾つもありました。この本でサックス自身が述べているように、どんな本でも、じかに体験した後に再読すれば「自分の目で見るまえとは、ちがう読み方ができる」のです。(p195)
この記事では、サックスのオアハカ日誌の魅力を概観します。そして、駆け出しのシダ観察者として、わたしがシダに感じた魅力や、初心者ならではの見分けの苦労やコツについて書いてみたいと思います。
もくじ
これはどんな本?
オアハカ日誌は、脳神経科学者オリヴァー・サックスが、医師の仕事とは何の関係もない純粋な趣味として、メキシコのオアハカ州へ、シダ観察のために出かけた旅行記です。
サックスは、子どものころから自然科学の幅広い分野に興味を持っていました。こと植物においては、シダをこよなく愛していました。
というのも、彼の家の庭には、物心ついた時から、色とりどりの花の代わりに世界中のシダが植えられていたからです。
わたしは1930年代に、庭中にシダがある家で少年期を過ごした。母は顕花植物よりシダが好きで、壁にバラを這わせたりはしていたものの、花壇のほとんどはシダが占めていた。
ガラス張りの温室もあり、いつも暖かく湿気があって、見事なヨウラクヒバが垂れさがり、繊細なコケシノブや熱帯シダも育てることができた。(p22)
サックスの母親がシダ好きだったのは、かつてヴィクトリア朝時代に起こったシダブームに由来していたようです。その時代のロンドンは、テリドマニア(シダ熱)と呼ばれるブームで、多くの家庭で珍しいシダが収集されていました。
色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記では、子ども時代の最古の記憶がシダと結びついているとも書いています。
母と叔母は二人とも庭いじりと植物が大好きだった。私の一番古い記憶は、二人が並んで庭を歩き、立ち止まってはシダの新芽や渦の巻いた若葉を優しく見つめているというものだ。
シダ、そしてのんびりと静かにそれを観察することは、幼少時代、無邪気、戦前の時代といった思い出とつながっているのである。(p237)
一般的にシダというと、ヤシの葉や鳥の羽のような葉っぱが密生している植物を思い浮かべるかもしれません。わたしも、恐竜時代の再現絵の背景に描かれているような植物がシダだと思っていました。
でも、自然観察を始めると、シダにはもっと多様な植物が含まれていることを知りました。
たとえば、ヘゴやマルハチのように、巨大な「木」そのもののような木生シダがあります。一方で、コケシノブのような、コケと見分けがつかないような微細なシダもあります。
そしてさらには、あたかもスギ、ヒノキ、マツなどの葉っぱが、地面から直接生えているように見える奇妙なシダ(スギカズラ、イワヒバ、マツバラン)もあります。まっすぐな棒きれが地面から突き出ているようなシダ(トクサ)さえあります。
ある意味、シダ植物はレトロな自動車や家電製品のようです。現行モデルより原始的ですが、さまざまな種類や形態が作り出されました。そのデザインは、一周回って最新型モデルにはない魅力を感じさせます。
サックスは、そうした「生きた化石」のようなシダが大好きでした。特にトクサとヒカゲノカズラがお気に入りだったそうです。
生きているトクサを私に初めて見せてくれたのがこの叔母である。叔母は私を節目のある硬い茎に触らせ、それが植物の中で最も古いものの一つであることを教えてくれたのだ。
そしてこのトクサの祖先は巨大な大きさに成長し、うっそうとしたロボクの茂みをつくっていたことも。
…叔母は他にも、小さいヒカゲノカズラ科のいろいろなシダやタッセルシダなどを見つけては教えてくれた。鱗片のある葉を持つこれらのシダもやはり、かつては100フィート以上に成長し、巨大な鱗片のある茎からは房のある群葉が生え、球果を頂いていた。
夜になると、私は3億5000万年前のもの言わない巨大なトクサやシダ、平和な沼地に覆われた景色を夢に見た。(p238)
参考までに、わたしが今年撮ったトクサとヒカゲノカズラの写真を載せておきます。


今でこそ、これらのシダは普通の草花と同サイズですが、はるか古代の石炭紀やペルム紀には違いました。
なんと15mのトクサ(ロボク)と40mのヒカゲノカズラ(リンボクやフウインボク)が立ち並び、その原始の森を、巨大トンボ(メガネウラ)が飛び回り、巨大ムカデ(アースロプレウラ)が這い回ってたことがわかっています。
詳しくは、サックスが推薦の辞を寄せている本、植物が出現し、気候を変えたの第二章『酸素と巨大生物の「失われた世界」』に、ロマンたっぷりに書かれているので、興味がある人はどうぞ。
オアハカ日誌によると、サックスはシダがもつ太古のロマンに惹かれました。シダ植物は、度重なる大量絶滅を乗り越え、現代に至るまで、何億年もの間、ほとんど姿を変えずに生き延びてきたのです。
趣味が高じてアメリカシダ協会に入会し、その集まりで、「ひたむきで、純粋で、競争心がなく、シダへの愛情で結ばれている」「わたしと同じ人種」の変わり者たちと出会います。(p18,29)
その中には物理学者も数学者もいて、「本業とはべつの趣味」としてシダに熱中しています。そして「メンバーの多くがプロ以上の知識や深い教養を持って」いました。(p18,31)
彼らはアマチュアでありながら、いえアマチュアであるがゆえに、プロの仕事の世界に浸透しているような、利己的な職業意識や、殺伐とした競争心とは無縁でした。(p8)
そんな仲間たちと出かけたオアハカ州シダ観察ツアーだからでしょうか、このオアハカ日誌は終始リラックスした筆致で書かれています。
シダが目的だからといって自然観察にこだわることもなく、旅行中に出会った文化、人々、食べ物など、話題があちこちに飛びながら、臨場感のある感想が紡がれます。
ときには意表をつく高度なユーモアも飛び出したりして、サックスの素の人柄がかいま見えます。
「どのゲートから出発するんだろう?」みんなが口々にいう。「十番ゲートだよ」だれかが答える。「十番ゲートだっていわれたんだから」。
「いや、三番ゲートだろう」ほかのだれかがいう。「あそこのボードに書いてある、三番ゲートだって」
だが、五番ゲートだと聞いたひともいる。いまになってもまだゲートナンバーがはっきりしないとは、なんとも不可解だ。どのゲートナンバーもただの“噂”にすぎず、ぎりぎりになってくじ引きでもして決まるのだろうか。
あるいはハイゼンベルクの不確定性原理(粒子の位置と速度を同時に測定しようとしても、その瞬間に粒子は動きを変えてしまうので不可能である)によってゲートを確定することができず、最後の最後になって、やっと決まるのだろうか
(たしかこういうのを“波動関数の収縮”〔本来は空間全体に広がっている電子の位置が観測した瞬間に定まること〕というのだろう)。
あるいは、飛行機または飛行機とおぼしきものが複数のゲートから同時に飛び立ち、あらゆるゲートを通ってオアハカに向かうのかもしれない。(p23-24)
この本を読んでいると、サックスと愉快な仲間たちと、一緒にオアハカを旅行して、熱帯のシダを見て大喜びしている気分になれます。
みんなとても洗練された知識をもった常識的な大人ですが、ひとたびシダのことになると目の色が変わります。終始こんなテンションで会話しているのだから、楽しくならないはずがないでしょう。
ポリュスティクム・スペキオシッシムムを見れば 「この鱗片や湾曲した葉縁を見てくれ!」
そして、森で見つけたばかりのドリオプテリス(オシダ属)の胞子嚢を眺めては 「ヘラジカみたいな繁殖力だ!」
ロビンがおかしそうにわたしに耳打ちする。“シダのオーガズム状態”ですね。
こういう光景は、土曜日の会合でもよく目にする。いまに声が高くなり、両手をふりまわして、突拍子もないことをいいだすだろう。(時々胞子をキャビアにたとえている)。“ああ、胸がときめくよ” (p63)
シダなんて全部同じに見える
さて、シダが好きだ、という記事を書き始めておいて、いきなりこう言っては身も蓋もないかもしれませんが…、
シダなんて、どれも同じに見えませんか?
正直なところ、シダ観察を始める前は、全然見分けがつきませんでした。さらに正直に言えば、今でさえ、ほとんどのシダがどれも同じように見えます。
たまに友だちと一緒に近所の山を歩く時、ちょっとした自然観察ガイドをしますが、シダの魅力をどう説明したものか考えあぐねます。
鮮やかな花や、たわわに実った美味しそうな(でも食べれるとは限らない)果実、はたまた奇妙な色と姿をしたキノコの解説をするのは、わたしにとっても、聞く側にとっても楽しいものです。
でもシダといったら!
ワラビ、ゼンマイ、コゴミなどの山菜として有名なシダならきっと関心を持ってもらえるでしょう。「食べれるかどうか」は重要です。
また、ジュウモンジシダやクジャクシダのような、見た目がちょっと特徴的なシダも、関心を持ってもらえるチャンスがあるかもしれません。
しかし、その他大勢のシダは、どうすれば魅力的に紹介できるのか、見当もつきません。
どうあがいても、マニアックで細々とした説明になるのは避けられません。解説している間に友人は森の先へ消えてしまうでしょう。
冒頭で引用したサックスの言葉のとおり、シダは「緑色だけの太古の世界」の植物です。種子植物の花のような、派手でキャッチーな特徴はありません。良く言えば慎み深く上品、悪く言えば果てしなく地味です。
シダ好きを自認するサックスでさえ、ラウェア(llavea)という珍しいシダの群生地に連れて行ってもらったとき、ありふれたシダに見えたと白状しています。
ラウェアを見る。どこにでもありそうなただのシダの見える (だが、このメンバーのまえでそんなことをいう勇気はない!) (p188)
多くのシダは、似通った外見をしているので、仔細な特徴を観察して、探偵のように手がかりを集め、名前を推理しなければなりません。そうしてやっと、何という名前のシダなのか明らかになります。
このプロセスは、きっと推理小説好きには楽しめるでしょう。かくいうわたしも探偵小説が大好きです。しかし、シダ植物を見るたび手がかりを集めて推理モードに入るとなると、面倒くさくなってしまうのも確かです。
こんなに頑張っているのに、目の前のシダの名前が全然わからない。そんなとき、サックスでさえ、シダの同定に混乱して疲れる、と率直に書いているのを思い出すとホッとします。
さまざまなシダの名前で、わたしは頭が混乱してくる。その場を離れ、蘚類や地衣類がびっしりついている立派な木に向かってひとりでぶらぶら歩く。
シダに疲れたときは、もっと下等で単純な気軽に楽しめる植物を見たくなる。(p70)
結局のところ、シダとはそういうものです。ぜんぶ同じに見えたり、名前を同定しようとして途方に暮れたりするとしても、別に普通です。よくあることです。
わたしが住んでいる北海道には、シダが130種もあります。サックスが旅行したオアハカは、なんと600ないし700種だそうです。ぜんぶを知り尽くすなんて無理です。太古の世界の住人めいたシダ仙人のような人でない限り。
それでもシダに惹かれるのは、美しい葉っぱが作り出す、異世界のような雰囲気を宿した空間のせいかもしれません。シダの群生地を歩いていると、さながら恐竜時代に迷いこんだような気持ちになれます。
たとえ正確な名前を言い当てられなくても、シダの醸し出す雰囲気を心地よいと感じられるなら、立派なシダ好きでしょう。
必ずしもプロのような知識がなくても、シダを楽しむことはできます。楽しんでいれば、知識は自然と後からついてきます。オアハカ日誌 に出てくるアメリカシダ協会の面々はそんな人ばかりです。サックスもこう書いているように。
どの分野でもいちばん大切なのは、かならずしもプロとしての訓練ではなく、もって生まれた資質や、すべての生命に対する愛や、経験や情熱によって研ぎ澄まされた博物学者の目だ。
すぐれたアマチュアは、まさにそれを持っている―対象への情熱、愛、そして、ときには生涯にわたるひたむきな観察でつちかったその分野での経験。(p33)
わたしは今でこそ、身近な自然の中を歩き回って、夢中で写真を撮っています。でも数年前まで何の関心もありませんでした。わたしの興味はすべて、自分の内側の世界や、空想の世界に向けられていました。
でも、よくよく思い返してみれば、わたしの最も古い自然観察の経験はシダだったような気がします。
それは小学校の遠足の時だったのでしょうか。前後の記憶はまったくなく、その瞬間だけ覚えているのでわかりません。
わたしは山肌のコンクリート壁の上に生えるシダが気になって、近くまで行って葉をめくってみました。誰に教わったか、あるいは学校の授業で習ったのか、シダの葉裏には胞子嚢群(ソーラス)があるのを知っていたのです。
今思えば、オシダの仲間、たとえばベニシダあたりだったのでしょうか。期待通り、シダの葉裏に赤いつぶつぶのソーラスを見つけ、嬉しかったのを覚えています。(わたしは集合体恐怖症ではなかったようです)
その後は、長らくシダなんて見向きもしない人生を送っていました。でも、尊敬するオリヴァー・サックスが、シダについてやたらと熱く語っているものだから、もしかしてシダって面白い?と思うようになりました。
折しも今年は、コロナ禍のせいで、森に足しげく通うチャンスが生まれました。わたしは童心に帰ったように、シダの葉っぱをめくってみました。そこには、懐かしいあのソーラスがたくさんありました。
きっかけなんてこれだけです。ただ、葉っぱをめくったら面白いから、シダ観察を始めただけ。そのうち、ちょっとばかり図鑑を調べて、名前を知ろうと務めるようになったにすぎません。
でも、オアハカ日誌 に出てくるシダの愛好家たちも、根はそんなに変わらないようです。こんなシーンが出てきて、まるで自分のことのようで微笑ましい気持ちになりました。
そして胞子嚢群そのものも、いろいろな形状をしている。包膜があるもの、円形のもの、コップ状のもの、シマオオタニワタリなどのように葉脈に沿って細長くきれいについているもの。
シダ観察の楽しみのひとつは、胞子葉をひっくり返して胞子嚢を見ることである。ジョン・ミッケルは、シダの生殖や胞子嚢が大好きだ。「おおっ!」エラフォグロッスム(アツイタ属)を見ていう。
「葉の裏にびっしりついている胞子嚢、なんてすばらしいんだ」。(p62-63)
ほとんどのシダが同じように見えるとしても、そして図鑑の説明に混乱してしまうとしても。ただ、葉っぱをめくってみたら面白い、そんな子どものような気持ちがあれば、シダ観察の動機としては十分なのかもしれません。
シダに限らず、自然を観察するとき、正確な名前がわかるかどうかは、さほど重要ではないと、わたしは思っています。もちろん、名前を知れば、それを手がかりにして、さらなる知識を調べることもできます。
でも、レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダーで書いているように、名前を知るよりもっと大切なことがあります。
いろいろなものの名前を覚えていくことの価値は、どれほど楽しみながら覚えるかによって、まったくちがってくるとわたしは考えています。
もし、名前を覚えることで終わりになってしまうのだとしたら、それはあまり意味のあることとは思えません。
生命の不思議さに打たれてハッとするような経験をしたことがなくても、それまでに見たことがある生きものの名前を書きだしたりっぱなリストをつくることはできます。(p47)
ひとつひとつのシダの正式な名前を知らなくても、シダの醸し出す太古の雰囲気にうっとりすることはできます。プロのような知識がなくても、シダのユニークな形や、葉っぱの裏のソーラスに驚いて、楽しむことはできます。
オアハカ日誌を読むたびに感じるのは、そんな自然との付き合い方です。
確かにこの本に登場する面々は、専門家としての深い知識も持っています。でもそれ以前に、大自然の中で遊ぶ純粋な子どものように、次から次に面白いものを発見して楽しんでいる姿のほうが印象的です。
シダ観察ツアーに参加した一人が、エデンの園のアダムに例えられているのはいかにもぴったりです。
J・Dは、すこし離れたワラビの茂みで鳥に夢中になっている。新しい種や変種を見つけるたびに、髭をはやした大男がちょこまか動く。ひっきりなしに歓声をあげている。
「おおっ! おおっ! あそこにいる……なんて美しいんだ……」J・Dの興奮、ロマンチックな情熱、鳥の美しさと快活さへの賛美はしずまることがない。まるでエデンの園のアダムだ。(p82)
前に読んだ植物と叡智の守り人 の植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、時々、学者脳のスイッチを切って、『「最初の人」がしたように、初めてのそれらを眺めながら歩く』と書いていました。(p266)
この世界に生まれた最初の人間であるかのように、ひとつひとつの生き物をじっくり観察し、自分なりに名前をつけてみる、と。
探検家トリスタン グーリーは、ナチュラル・ナビゲーション: 道具を使わずに旅をする方法で、『星の名や星座名はそう「呼び習わされてきた」というだけのことで、不都合なら無視して自分なりの名前をつけてやればいい』とも書いていました。
正式な名前を知れば、確かに役に立ちます。でもそれ以上に大切なのは、身の回りにいる生き物の存在を知るすることです。
興味をもって観察しはじめてみれば、これまで全部同じような見えていたシダが、実は何十種類もあったことに気づきます。葉っぱをめくるだけでも、さっきと違うソーラスが現れるたびに、別の種類だとわかります。
たとえ名前はわからなくても、新しい種類に出会うたびに、この世界には人間以外の隣人がこんなに大勢いたんだ、ということがわかってきます。
存在に気づくことができれば、もっと知りたい、もっと調べたい、そして破壊から守りたい、という気持ちも芽生えてきます。
単に学校の授業で、小難しい生き物の名前や仕組みを教わっただけでは、大人になってから、地球環境を守ろうとする動機づけにはならないでしょう。
でも、自分の足で歩き回り、シダの葉っぱをめくって感動し、正式な名前がわからなくても、両の手の指では数え切れないほどの隣人を発見した人は違います。ひとつひとつが愛おしくなり、守りたくなるに違いありません。
シダにしろ、他のどんな自然観察にしろ、本質はそこだと思います。
シダ観察は、どれも同じように見える地味な緑色の葉っぱを、分類し名前を調べる退屈な作業ではありません。
自然界に散りばめられた面白いものを見つけ、これまで気づいていなかった隣人の存在を認識し、エデンの園のアダムのように、驚きと感嘆の入り混じった叫びを上げる。
そんなワクワクする楽しいものなのだ、ということを、オアハカ日誌に登場する個性豊かな人物たちが、身を持って教えてくれています。
サックスが旅の終わりに書いている感想に、その充実感が表れています。
沈みかけた太陽の長い光が、サポテカの村と十六世紀の教会を金色に染める―ゆるやかに起伏したのどかで温かみのある村、すばらしい旅になった。こんなに旅を楽しんだことは、何年もなかった。
なぜすべてがこれほど―これほど満ち足りているのか、いまは言葉で説明することができない。(p202)
シダの美しさ―フィボナッチ数とフラクタル
どうしてシダに囲まれていると、こんなに落ち着いた心地よさを感じるのでしょうか。もちろん個人差はあるでしょうが、少なくともサックスやわたしのような一部の人たちを惹きつけてやまない魅力があるのはなぜか。
ひとつには、シダのすばらしいデザインが関係しているのかもしれません。
色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記でサックスが引用しているところによれば、17世紀後半に植物学者ネへミア・グルーは、「植物について熟考すれば、数学の問題に到達する」と述べました。(p343)
先日、森を歩いていたわたしは、地元のコケ好きな人とたまたま出くわしました。いろいろ情報を交換するうちにシダの話になって、そのデザインがすばらしい、ということで意気投合しました。
自然界には数学的に美しいデザインが数多く組み込まれていますが、シダはそれをダイレクトに感じるのにうってつけです。
まず、芽出しのころには、有名なフィボナッチ数列に起因する、渦巻状の形(フィドルヘッド)をしています。春になると、まるでカメレオンのしっぽのような、可愛い色とりどりの芽が地面からにょきにょきと伸びてきます。
オアハカ日誌でも、シダの芽や松かさのデザインが話題にのぼるシーンがありました。
「フィボナッチ数列を知らなかったら、松かさのほんとうのすばらしさはわからないでしょうね」(ロビンは以前、シダの渦巻き状若葉の対数螺旋についても、同じようなコメントをしたことがあった)。
「すごい」ナンシー・プリストウが、松かさを見ながらいう。ナンシーは数学者で、本業は数学教師だが、趣味で植物学とバードウォッチングをやっている。
わたしは、「すごい」とはどういう意味かと尋ねる。
「エレガント……完璧な配列……均整がとれていて……なにも欠けていない……芸術と数学のコンビネーション」(p177)
サックスは色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記でも、ソテツの球果の螺旋状の配列がフィボナッチのパターンになっていると説明しています。
ソテツの球果のらせん状の渦巻きは、松ぼっくりと同様に常に五列か八列であり、斜列の端数は2/1、3/2、5/3、8/5、13/8、21/13、34/21などとなる。
この級数は13世紀の数学者フィボナッチの名を採って名付けられ、黄金分割に相等する1.618に収束する連続級数である。(p342)
フィボナッチ数列は、(1、2、3、5、8、13、21、34…)という数字の並びになる有名な数列です。それぞれの数字は、その前の2つの数字を足した合計です。足し算ができれば理解できる、とても易しい数列です。
この数列の、隣り合う2つ数字(たとえば8と13、13と21など)の比率を計算すると、数が大きくなればなるほど、有名な黄金比(1:1618…)に近づいていきます。また、この比率を角度に直せば、黄金角(約137.5度)になります。
この黄金比や黄金角を用いて、幾何学的に作図すると、自然界にみられる渦巻状の螺旋が現れます。
カタツムリ、オウムガイ、タコブネ、台風の目、松かさ、パイナップル、銀河……。自然界のそこかしこに、この数列の比率が作り出す螺旋が組み込まれています。
素人目にはわかりにくい応用例も数多くあります。たとえば、ヒマワリの種は、黄金角にしたがって配置されるので、隙間なくぎっしり並びます。
多くの植物も、黄金角にしたがって葉を出すので、葉が互いに重ならず、太陽光を最大限の効率で受け取れます。サックスによると「これらのパターンは、おそらく葉や芽鱗を重ね合わせずにまとめる最高の方法なの」です。(p342)
また先ほど引用したオアハカ日誌 の続きで、ナンシーがサックスに語るように、フィボナッチ数列にそったデザインは、「神の御業のように無駄がなくて、いちばんシンプルな数学の法則を体現している」のです。(p177-178)
細かく調べれば、あちこちに見つかるフィボナッチ数ですが、それを最も身近に観察できる、ごくありふれたものの一つが、「シダの渦巻き状若葉」(フィドルヘッド)だといえます。
シダのデザインのもうひとつの美しさは、フラクタルによって作り出されています。フラクタルとは、自己相似的な構造、つまり同じ形が大きさを変えて繰り返それるデザインのことです。
フラクタルもまた、自然界のあちこちに見られます。木々の枝の分岐、空から見た川の流れの分岐、雪の結晶など……。

そういえば、事故で軽度外傷性脳損傷を負って、自然界のあちこちに組み込まれたフラクタルが神経科学的に見えるようになってしまった男性もいました。
シダの芽に現れるフィボナッチ数列の渦巻き状の螺旋も、黄金比の長方形を延々とフラクタルとして組み合わせていけば作図することができるので、一種のフラクタルです。
しかし、シダのもっとよく目立つフラクタルは、なんといってもその葉の構造でしょう。多くのシダの葉は鳥の羽のような切れ込みが入っていて、羽状複葉と呼ばれます。
鳥の羽よろしく一回だけ切れ込みが入った単純な羽状複葉は、シダ以外のさまざまな植物でもよく見られます。オニグルミ、エンジュ、ナナカマドなど、実にさまざまな葉っぱがそうです。
しかしシダでは羽状複葉の葉っぱの切れこみが、さらに小さな羽のようになり、そのまた切れ込みがさらにまた小さな羽のようになっている、という繰り返し構造がみられる場合が少なくありません。
シダ以外の植物でも、こうした数回繰り返す羽状複葉がみられる場合はありますが、シダほど見事で典型的なフラクタルになるものはまれです。
わたしは、森の中で、フラクタルな景色を見るのが大好きです。高々とそびえる木々の葉を下から木漏れ日に透かして見ると、くっきりフラクタルな図形が浮かび上がります。
わたしの場合、フラクタルを見てまず感じるのは、「美しい」ではなく「気持ちいい」のほうです。もともと目が弱く、疲れやすいこともあってか、フラクタルな風景を見ていると、とてもリラックスして、目の緊張が緩みます。
そんな安らぎをもたらすフラクタルな風景の中でも、シダのフラクタルはまさに格別です。自然界の風景はどれも好きですが、最も目が安らぐのはどれかと問われれば、真っ先にシダの葉のフラクタルだと答えます。
過去の記事で暑かったように、自然界に組み込まれた中程度のフラクタル指数は、都市の構造物に組み込まれた極端なフラクタル指数よりも、自律神経系をリラックスさせるという研究がありました。
シダのフラクタル指数がどの程度なのかはわかりませんが、少なくともわたしの身体にとても適しているように感じます。
森の中でシダを眺めていると、時間を忘れて夢中になれます。もし野生動物や虫の心配がなければ、ずっとここにとどまって、シダをうっとり眺めていたいと感じるほどに。
オアハカのシダツアーに出かけた、シダに取り憑かれた人々もそうだったのでしょうか?
干あがってしおれて縮こまっているシダを、茶色い土と見分けて摘みとるには、熟練した目が必要だが、メンバーのほとんどは慣れていて、虫眼鏡を片手に、服の汚れも気にせずそこらじゅうを這いまわったり、斜面をよじのぼったりして、次々と新しいシダを見つける。
「ノトラエナ・ガシオッティー!」だれかが叫ぶ。「アストロレピス・シヌアータ!」べつのだれかがいう。(p99-100)
どうやら、わたしなどより、はるかにアグレッシヴなようです。自律神経がリラックスするどころか、目まぐるしくエンジンが回転し、興奮の絶頂にあるに違いありません。
シダを食べる―ワラビ、ゼンマイ、クサソテツなど
シダの良い点をさらに挙げると、食べてもおいしいところです。サックスも書いているように「渦巻き状若葉(フィドルヘッド)を食べる習慣があちこちにあ」ります。(p31)
日本で有名なのは、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ(クサソテツ)あたりでしょう。どれも渦巻き状の新芽を摘んで食べます。
ワラビとゼンマイは、子どものころ一度だけ山菜採りに連れて行ってもらったことがあります。
ワラビは、いま住んでいる付近にも自生していますが、ゼンマイはめったに見かけません。この地域は、ゼンマイの分布域の境界線上らしく、森のあちこちにぽつんぽつんと生えているだけでした。
山菜に適した若芽の時期のゼンマイは見たことがなく、下の写真のように、成長したあとのゼンマイしか見つけられません。でも、山菜採りでゼンマイを採る人でも、成長した後の姿なんて、知らないかもしれません。
ゼンマイの仲間の山菜であるヤマドリゼンマイは、もっとまとまって自生していますが、湿原や谷地に生えるので、気軽に取りにいくのは難しそうです。
ゼンマイとヤマドリゼンマイは、同じゼンマイ科で、芽生えの時点ではよく似ています。それなのに、成長すると、全然違う姿になります。
ゼンマイは、上の写真のように、普通の植物と見まがうような太い葉っぱをしていますが、ヤマドリゼンマイは、下の写真のように、いかにもシダ植物らしい細かい羽状複葉になり、美しい金色の胞子葉の穂を立ち上げます。
3つ目に挙げた食べれるシダ植物のクサソテツ(コゴミ)は、こちらに引っ越してきてから教えてもらった山菜です。
深い濃緑の渦巻きがとても美しく、食感もなかなかの絶品。相当量が自生しているので、今年の春には、自分でたくさん採って食べました。
こちらも成長して大人になると、フィボナッチ数の渦巻きから、巨大なフラクタルの葉へと大変身します。葉っぱの長さは1mを超える巨大サイズで、存在感たっぷりです。
ほかにも、地域によっては、イッポンコゴミ(キヨタキシダ)や、オニヒカゲワラビも食用にされるそうですが、近隣にないので食べたことはありません。
さらに、サックスの本によると、ハナヤスリ(Ophioglossum )属のシダ(日本にも自生している)がお茶になるとか、乾燥したトクサが血液の病気の治療薬や利尿薬にされるといった話も出てきました。(p31,50)
日本ではスギナ茶が有名ですが、スギナとはトクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属の植物なので、本家本元のトクサが飲用されていようが何の不思議もありません。
インターネットで調べると、トクサ茶を飲んでみた方もいました。わたしも試してみようと思って、乾燥させている最中です。
さて、食べられるシダの中で、日本で最も有名なのはワラビでしょう。わたしの知り合いの中にも、山菜採りなんてほとんどしないのに、ワラビだけは採りに行く習慣がある、という人も珍しくありません。
わたしは今年の春の時点では、シダを調べ始めて間もなく、ワラビの見分けができなかったので、山菜としては食べませんでした。
その後、シダを勉強してワラビの見分けがつくようになって、自生地も特定できました。これなら来年採りに行けるだろうと思っていた矢先。
サックスの説明を読んで震え上がりました。
ワラビには断熱と吸収の効果があるので、キャンプをするときは、藁の上に寝るよりワラビのほうが快適だ。
だが、眺めたり寝たりするのにはいいが、食べるとなると話はべつである。
春にやわらかい若芽が出ると牛や馬が時々やっているが、ワラビには、神経系を正常に機能させるのに不可欠なチアミンを分解するチアミナーゼという酵素が含まれているので、ワラビを食べた動物は“ワラビ腰ふら病”になることがある。
…ワラビの若葉は、昆虫の大顎で刺されると、すぐにシアン化水素を出す。もしそれでも昆虫が死んだりあきらめたりしなければ、もっと残酷な毒を用意している。
ワラビはどの植物より多くエクジソンというホルモンを持っていて、昆虫がこれを摂取すると制御不能な脱皮が起きる。
…しかもワラビは―これでもまだ気が済まないらしく―強力な発がん性物質も持っている。
渋みのあるタンニンやアミナ―ゼのほとんどは調理によって破壊されるが、渦巻き状の若芽を長いあいだ大量に食べつづけると、胃がんになりやすくなる。(p83)
このように、ワラビは「恐るべき化学兵器庫」を持っているので、「シダ界のルクレツィア・ボルジア」(ロシアの歴史上の人物で毒婦と評されることがある)と呼ばれているのだとか。
シダ植物は一般に、命に関わるような危険な毒はめったに含んでいません。それなのに、他の穏やかなシダより危険な「毒婦」が、日本で伝統的に食されてきたのは、とても不思議です。
思えば、ワラビはアク抜きなどの下処理が特に面倒な山菜のひとつです。毒性を除去するために、昔からあの手この手で工夫されてきたのでしょう。それでも、有毒物質は完全には除去されないことが研究でわかっているそうです。
よく似ている気がするのは、フィンランドで、シャグマアミガサタケという猛毒キノコを、徹底した下処理で無毒化して食べる習慣があるという話です。また、もともと強い毒性があるという意味ではコンニャクを食べるのも同じような例かもしれません。
そこまでして食べるべきなのか? そう言いたくもなりますが、人間とはそういう生き物なのです。知恵と工夫を凝らして、食べれるものは何でも食べてみたくなる雑食動物です。
せっかくの春の味覚ですから、ワラビ好きな人は、ぜひとも食べればいいと思います。先人の知恵に感謝して、しっかり下処理して、昔ながらの伝統の味わいを楽しめばいいでしょう。
多少の毒素なんて、自然界のさまざまな食品に含まれているものです。それに、農薬や殺虫剤が大量散布された原料で作られた、添加物まみれのファストフードや冷凍食品を食べるよりかは、ずっと良いのかもしれません。
ただわたしの場合は、同じシダなら、クサソテツ(コゴミ)のほうが好きです。灰汁もなく、下処理も簡単なので、わざわざワラビを食べなくてもいいかな、と思ってしまいます。歯ざわりもシャキシャキして絶品です。
何を食べるかの選択は人それぞれ。
大事なのは、自分が食べているものの内訳をよく知ること。自然界のものだから安全、スーバーで売られているものだから安全、なんて思考停止せずに、自分でよく調べて、体によい材料や調理法を考えることだと思います。
ワラビを食べないとしても、わたしはワラビというシダが大好きです。地面から三つ股の拳のような芽を伸ばし、くるくると開いて伸びていく様子は実に優雅です。
サックスが書いていた、“ワラ”よりも“ワラビ”のベッドのほうが寝心地がいいという話も、ぜひいつか試してみたいものです。なんと防虫効果もあるのですから、きっと快適なはずです。
秋には、数あるシダ植物の中でもひときわ美しい紅葉をみせてくれます。ヤマドリゼンマイの黄葉と並んで、シダの世界でも葉が色づくことを教えてくれます。
確かに観光地を彩るモミジやイチョウのような派手さはありません。でもサックスが述べていたように、シダの魅力は慎み深さなのです。
これ見よがしに主張するビビッドな色合いではなく、少しくすんだ落ち着いた色合いの、味わい深い紅葉と黄葉をみせてくれます。
経験によって、読書がよりいっそう楽しくなる
オアハカ日誌を初めて読んだのは、もう数年前ですが、いま改めて読むと、面白い発見がたくさんありました。挿入した数々の写真が物語るように、実地での経験が、読書を豊かにしてくれたと感じます。
ぼくと数字のふしぎな世界によると、かの有名なロシアの作家ウラジミール・ナボコフは、「よい読み手、一流の読み手、積極的で創造的な読み手とは、再読する読み手である」と述べたそうです。(p197)
確かに以前読んだ本を、月日が経ってから再読してみると、新たな気づきがたくさんあります。新しい経験が新しい知識を引っ掛けるフックになります。
たとえば、オアハカ日誌を読んでいるさなか、カカオと並んでコーラとガラナの名が登場し、北海道の住民として微笑ましい気持ちになります。ガラナ飲料は道内ではあちこちで売られています。(p47)
パッションフルーツの中身が、カエルかサンショウウオの卵のようだ、と書かれています。パッションフルーツを食べた経験はありませんが、サンショウウオの卵は家の近所の池で何度も見たので、なんとなくイメージがわいてきます。
ヒシの実や食用ホオズキ(トマティーヨ)がオアハカの市場で売られていたという記述にも目を引かれます。今年、初めて池でヒシという植物(“ひし形”の由来になった葉をもつ水草)を識別でき、栽培された食用ホオズキも味見しました。(p49)
ややこしい黄色いキク科植物が、DYC(damned yellow composite :どうでもいい黄色いキク科植物 )と総称されている、と読んで思わず笑ってしまいます。このあたりだとタンポポ、ブタナ、ニガナ、ハナニガナ、ジシバリ、オニタビラコなどでしょうか。確かにややこしい花たちです。
鳥の場合も、雑多な灰色の小さな鳥が、LGB(little gray birds)と呼ばれているとか。このあたりだとカラ類やヒワ類になるのでしょうか。
わたしもそうした花や鳥に面倒臭くなったら、この言葉を使ってみたくなります。でも、コケやシダのほうがよほど地味で区別しにくいと思うのは気のせいでしょうか。 (p68)
乾燥してカラカラになった葉っぱが、水を含むと美しく広がるという、“復活シダ”(テマリカタヒバ selaginella lepidophylla)なるものは未知の植物です。
でも、身近で目にする樹木にくっついた地衣類が、雨が降ると色鮮やかさを取り戻して、にこやかに葉を広げるさまを思い浮かべます。(p99,117)
カシューナッツがウルシ科だと読んで驚きます。そして画像検索してみてさらにびっくりしました。「カシューアップル」なんて初めて見ました。世の中には未知なる面白いものが多すぎる。(p118)
書いていくときりがありません。ここ数年の新しい経験がフックになって、前回読んだときは気づかなかった記述を引っかけて、興味を広げてくれます。
冒頭でも引用したように、サックス自身、この本の中で、そのようなことを書いていました。
オアハカ・ツアーは、まったくべつの場所と文化への旅、もっと深い意味ではべつの時間への旅となった。
…ベルナール・ディーアスの本や、1843年に出版されたブレスコットの『メキシコ征服』を、もう一度読んでみよう。自分の目で見るまえとは、ちがう読み方ができるはずだ。
ここで経験したことを深く静かに考え、もっと本を読み、そしてかならずまた来ようと思う。(p195)
サックスがオアハカ旅行を通して、「メキシコ征服」などの本をより深く味わえるようになったのと同様、わたしも、シダ観察を通して、オアハカ日誌をより生き生きと読めるようになりました。
本を読むこと、言い換えれば知識を取り入れることは、実際に身をもって経験してこそ、より深く染み渡ることがわかります。知識と経験は互いに補い合う両翼であり、どちらが欠けても自由に羽ばたくことはできません。
わたしたちの現代社会では、知識ばかりが優先されます。学校教育の場は、ほとんど経験の伴わない、知識の詰め込みから成り立っています。
サックスは、実体験で学ばねばならないメキシコの社会と違って、アメリカ合衆国では「すべてが活字になり、お膳立てされ、提供される」と書いています。(p74)
これは、日本の社会にももちろん当てはまります。今や、インターネットで調べれば、「すべてが活字になり、お膳立てされ、提供され」ています。だから何でも知っている気になります。でも、本当にそうなのか。
オアハカのある村では、人々が昔ながらの伝統的な暮らしをしています。そこには、(少なくとも当時は)インターネットはありませんが、人々の生活に根づいた、確かな知識が存在していました。
テオティトゥラン・デル・バジェのほぼ全員が、織物や染色やそれに関するすべてのことについて、深く詳しい知識を持っている―
羊毛を梳く、糸を紡ぐ、虫が好むサボテンで虫を飼育する、インジゴをとるのにふさわしい木を選ぶ。
すべての知識は、この村のひとりひとりや家族のなかにあり、彼らの身体にしみついている。
…もっと“進んだ”わたしたちの文化、自分のちからだけではなにもつくれない文化とは大違いだ。たとえばペンや鉛筆―どうやってつくればいい? 必要に迫られたらひとりでつくれるだろうか? (p150)
本当に「知っている」といえるのは、身体にしみついた知識、経験の伴う知識です。いくら本を読んだところで、あるいはネットで調べ物をして、画像だけ見たところで、経験の伴わない薄っぺらい知識には、相応の価値しかありません。
わたしたちの社会では、自分で何かを一から組み立て、作り出す代わりに、すでに完成した製品が提供されます。それが豊かさの証だと思われています。
しかし、人は本来、自分で作り出すことに満足感を感じる生き物なのではないでしょうか。たとえ拙い出来上がりでも、何かを作り出す喜びは、与えられたものを消費する喜びに勝る、とわたしは考えます。
料理をつくること、編み細工をすること、絵を描くこと、作曲すること。これほど大量消費の時代でも、自分で何かを作り出したい、という欲求が、ネット上にはあふれています。
自然観察も同様です。実際に自然の中に足を踏み入れ、写真を撮ったり調べたりしたところで、インターネット上にひしめきあっているプロの知識や写真にはまったく及びもつきません。
それでも、自分で新しい発見をして、自分の手でカメラを向けて写真を撮ることには満足感が伴います。ただ完成品としての知識をネットや教科書で提供されるより、自分で経験し、作り出すほうが、はるかに喜びが深いのです。
わたしは多分、学生時代にシダやコケについて学んだことがあるようです。多分、と書くのは、何も覚えていないからです。
調べてみたところ、中学校の理科のカリキュラムでは、シダやコケに造りについて、図入りで学ぶとされていました。
テストではトップクラスだったので、一度は暗記したはずです。しかし暗記したことすら記憶にありません。なお悪いことに、それが面白いとか楽しいと感じたことは、一度たりともありません。
教室で座って頭に詰め込む知識なんてそんなものです。
でも、自分の足で森の中を歩き回り、見たことのないシダを見つけ、葉裏の胞子嚢群(ソーラス)を観察した記憶は絶対に忘れません。
何かを作ること、何かを観察すること。それらに共通しているのは、人は経験に喜びを見いだすということです。結果ではなく過程に充実感を覚えると言ってもいいでしょう。
過程を排して、結果だけ詰め込み教育されても、何の面白みもありません。そこには自分が主体的に関わって作り上げたという経験が伴っていないからです。
人間は、知らない誰かによって作り出されたものよりも、自分で作り、発見したもののほうに喜びを感じます。よその子とうちの子が同等ということはありません。手塩にかけて育てたうちの子こそ、最も大事で尊いのです。
それなのに、これほど自己の経験が軽んじられ、ひたすら他人の知識を詰め込むような社会になってしまったのはどうしてなのでしょう。
おそらく、人間にとって時間は限られているからだと思います。
もし永遠に健康に生きられたら、あらゆることを自分で経験して楽しめるはずですが、現実はそうではありません。より多くのものを得たいと思えば、分業するしかありません。
こうして寿命の短さを補うために効率化した結果、今の形骸化した社会が出来上がってしまいました。豊かでなんでも手に入り、なんでも知ることができるのに、本当に肝要な経験は伴わない世界が。
「動物としての純粋な生きる喜び」
わたしは、オリヴァー・サックスの本の中で、オアハカ日誌がとりわけ好きです。それは、読んでいて楽しさが伝わってくるかもしれません。
以前の記事で書いたとおり、オリヴァー・サックスは、複雑な生い立ちの人でした。子どものころの疎開体験で、恐らく愛着障害のような状態になり、人生のある時期には薬物に溺れて、破滅寸前まで転落しました。
自分自身がそこまで落ちぶれたからでしょう、彼のどの著書にも、病気の人に対する思いやりや洞察があふれています。でも、それは、「楽しさ」とは違います。むしろ、常にアイデンティティの問題という重い命題と向き合っています。
だから、サックスが一人の人間として、幸福感に満ちあふれた旅を満喫している様子を記録したこの本は、彼の著書の中でも異質です。いち読者として、楽しそうなサックスを見ていると、なんだか心温まる思いに包まれます。
この本の冒頭で、旅に出かける前に、サックスはふとこう自問します。
よく考えてみると、近ごろは楽しむということがほとんど、“許されて”いない―だが、人生とは本来楽しむべきものではないのだろうか? (p15-16)
子どものころから愛着障害やトラウマと向き合ってきた人は、同じような自問に陥りやすいのではないでしょうか。本来、人生とは「楽しむ」ことが当たり前なはずなのに、意識して自覚しなければ「楽しむ」ことができない自分がいる。
純粋にリラックスして遊ぶことができない。いつもどこかで気が張っている。常に頑張っていなければいけない気がしてしまう。そのような人が、本当の意味で、純粋な子どもに返って楽しめる瞬間というのはめったにないものです。
でも、サックスは、オアハカで間違いなく、そんな経験ができました。
ジャングルの中で童心に返りました。愉快な気のおけない仲間に囲まれて肩肘張ることなく、過ごせました。
「プロ化していく世界にまもなく蔓延してくる殺伐とした競争意識とは無縁の、混乱もトラブルもないエデンの園のようなのどかな世界」を満喫しています。(p8)
旅のさなか、サックスは、不思議な感覚に気づきます。はじめは何かの病気の「症状」かもしれないと錯覚します。でも違いました。
独身者はわたしひとりかもしれない。わたしはいままでずっと独身で、ひとりものだ。だがここでは、それもまったく問題ではない。
自分がグループの一員であることや、コミュニティーの仲間に対する親しみを強く感じる―こんな気持ちになるのはこれまでほとんどなかったことで、このところ感じていた奇妙な“症状”の原因のひとつなのかもしれない。
この不可解な感情は、病名を診断するのがむずかしかったので、はじめは標高のせいだと思っていた。
だが、それは幸福感だったのだと、あとで気がついた。
めったにないことなので、なかなかわからなかったのだ。(p131)
それは、めったに感じることのない「幸福感」だったのです。
「楽しむ」とはどういうことなのかわからない。「幸せ」とはどういう状態なのかわからない。経験していないから理解できない。子ども時代からトラウマの連続だった人にはよくあることです。
でも、そんな苦労を背負って生きてきた人が、人並みの幸福感を感じられる瞬間を描いた物語、それがオアハカ日誌だということもできます。
サックスはその幸福感を表現するために、別の印象深い言葉も使っています。
わたしたちはきょうまで九日間いっしょに過ごし、たがいのことがよくわかってきた。峡谷をのぼったり小川を飛び越えたりして熱心に動きまわり、オアハカにある六百種あまりのシダの4分の1を見た。
あしたは全員がこの地を離れ、ロサンゼルスやシアトルやアトランタやニューヨークでの仕事に戻らなくてはならない。
だがさしあたっては、川のほとりの大きなヌマスギの下に腰をおろし、動物としての純粋な生きる喜びを味わっていればいい
(植物としての喜びも味わえるかもしれない。何世代ものあいだ悠然と生きて、千歳になってもまだ若いと感じている植物の気持ちになってみよう)。(p202)
「動物としての純粋な生きる喜び」。あるいは「何世代ものあいだ悠然と生きて、千歳になってもまだ若いと感じている植物の気持ち」。
この生き物としての、地に足のついたマインドフルな充実感こそ、このブログの数多くの考察に末に、わたしがたどり着いた結論、自分に必要だと気づいた処方箋ではなかったでしょうか。
人々が一個の動物として生きることをやめ、架空の世界やバーチャル空間に思考を飛ばし、軽度の解離が蔓延している現代社会。
その中で、生きる喜びを噛みしめ、現実感とはつらつとしたエネルギーを取り戻すためには、生き物としてごく当たり前の身体的な経験が不可欠でした。
サックスは、大自然の中で、自分の足でジャングルを歩き回り、知らなかった文化の料理を味わい、全身で新しい経験を吸収するうち、めったにない幸福感、地に足のついた生きる喜びがわいてきました。
わたしも今、森の中を歩くたびにそれを実感しています。森の中で目くるめくシダのフラクタルに魅了され、地面にかがみこんでじっくり観察し、葉っぱをめくってソーラスを見つけるたびに、純粋な子どものような喜びを感じます。
それは、大自然の中で生きる一個の動物としての喜びであり、大地に根を這ってどっしりと構える大樹のような、地に足のついた充実感です。
わたしがこの喜びを感じられるのは、森にいるとき限定です。今こうしてタイピングしているさなかには、また心もとない解離のヴェールに包まれてしまいます。
でも、再び生きる喜びに満たされるために、どこに行けばいいか、何をすればいいかを知っています。
森に行って、シダの隣人たちに会えばいい。太古の昔から生きつづける、フィボナッチ数とフラクタルをまとった友人たちのもとに行けば、いつでも自分の居場所があることを知っているのです。
補足1 : シダ観察に役立つポイント
最後にわたしが今年ゼロからシダ観察を始めてみて、役に立ったと感じたポイントをまとめてみます。何年も経験を積んだ詳しい人たちにとっては物足りないかもしれませんが、あくまで駆け出しの初心者としての目線で書きます。
(1)花や樹木のほうが見分けやすい
シダ植物だけが著しく好きだ、というのでもなければ、まずはよく目立つ花とか、樹木から覚えるほうがお勧めです。
花であれば、きれいに写真を撮りさえすれば、今やGoogle Lensでほとんど名前がわかります。
観察のポイントがわからなくても、小難しい図鑑を調べずとも、簡単に名前を知ることができるので、自然観察の初歩の初歩としてはありがたい限りです。
次に覚えるといいのは樹木です。住んでいる地域にもよりますが、自然豊かな場所では風景の大部分を樹木が占めるので、木を識別できるようになれば、一気に顔見知りの植物が増えます。
樹木の場合、見分ける主な手がかりは葉っぱです。一見、樹皮の質感で見分けられるように思うかもしれませんが、樹皮は木の年齢でかなり変化するので、葉っぱのほうが確実です。
・葉っぱの付き方(向かい合ってつく、互い違いにつく、輪のようにつく、など)
・葉っぱの形(丸い、細長い、手のひら状、ふちにギザギザがある、など)
・一枚ずつ出ているか、羽状複葉か
・葉がない季節の場合、冬芽の色や形
こうした点を観察して、図鑑と比較すれば、木の種類は特定できます。季節を変えて何度も観察すれば、花や実など、より多くの手がかりが集まるので、より確実に同定できます。

樹木の見分けを練習すれば、葉っぱを観察する経験値が貯まるので、より難しいシダの見分けにとても役立ちます。
サックスも書いているように、自然界はすべてつながっています。シダだけを掘り下げるより、もっと幅広く植物や自然界の生き物全体に目を向けたほうが、きっと何倍も楽しめるでしょう。
ジョンの専門は、シダを同定して分類し、進化の経路をたどって類縁関係や類似性を探る分類学だが、シダがその場所に生息している理由や、ほかの動植物との関係や、生息場所に関する知識なしに野生のシダを研究することはできないので、すべてのシダ学者がそうであるように、彼もオールラウンドの植物学者であり生態学者である。(p28)
(2)地元の図鑑を手に入れる
花であれ、樹木であれ、シダであれ、キノコであれ、鳥であれ、何を観察するにしても、日本の〇〇といった図鑑より、もっとローカルな図鑑のほうが便利です。わたしの住んでいるところでも、北海道専用の図鑑でなければ、ほとんど役に立ちません。
たいていは、地元の図書館に行けば、ローカルな図鑑が見つかります。地元の行政機関や博物館が、お手頃なポケットサイズの図鑑を作っていることもあります。
(3)ユニークなシダから覚える
ややこしいシダを覚える前に、特徴的なシダから覚えるほうがいいでしょう。たとえばジュウモンジシダやクジャクシダは、シダの中では特にユニークな見た目です。


本文中で書いた、ワラビ、ゼンマイ、コゴミなど、山菜として食べれるシダも、見分け方を覚えておくと便利です。ネット上でも見分け方を解説しているサイトがたくさんあります。
ほかにも、本文中で出てきた、ヒカゲノカズラ、トクサ、ハナワラビなど、特殊のシダ植物のタイプを先に覚えるといいかもしれません。細かく分けると色々種類がありますが、大まかにカテゴリとして覚えているだけでも十分だと思います。



(4)葉っぱ全体の形とサイズを調べる
わかりにくいシダの場合、注目したいポイントは幾つかあります。まず葉っぱ全体の形を記録しておきます。





(4)葉身の長さを測る
それぞれの葉全体のサイズも、おおまかに記録しておきます。
・小型…手尺で測れるくらい(10~20cm)
・中型…肘から手の先くらい(30~50cm)
・大型…明らかに大きい(60cmから1m以上)
図鑑の写真では同じような形に見えるシダでも、サイズ表記を見ると、大きさが全然違うことがよくあります。
ほとんどのシダは種類ごとにサイズ感がほぼ決まっているので、おおまかなサイズから、ある程度は候補を絞れます。
ただし、地域によって平均的なサイズが変わることがあるので、地元のローカルな図鑑のサイズ表記を見るのが良さそうです。
たとえば、サックスの本では、イノデ、オニヤブソテツ、メシダ、ナヨシダ、ワラビと聞き覚えのある名前が並ぶところで、オアハカでは高さ4.5mにもなるという記述が出てきて仰天しました。日本だとどれも大きくても1m程度です。(p81)
日本国内でも、小笠原諸島では木のようになる木生シダのヘゴが、紀伊半島では普通のシダサイズだといった例があるそうです。
(5)羽状複葉の回数を調べる
羽状複葉のフラクタルが何回繰り返されているか確かめるのも大事な手がかりです。




(7)軸の色や鱗片を調べる
中央の軸に毛や鱗片(かつお節みたいな剛毛)がついているかどうか調べます。軸全体に鱗片がついているものもあれば、地面付近にだけついているものもあります。色もさまざまです。
また、軸の色も、個体差があるとはいえ、判別に役立つことがあります。
たとえば、ヤマイヌワラビやミヤマヘビノネゴザの軸は紫色のことが多いようです。トラノオシダは、軸の表側は緑色なのに、裏側は紫色という面白い特徴があります。



(8)胞子嚢群(ソーラス)や胞子葉を見つける
葉っぱをめくってソーラスを胞子嚢群を調べます。シダの種類によってはかなり特徴的なので、ソーラスがあれば見分けの決め手になりますが、いつでもあるとは限りません。また、見る時期によって膜が裂けて中身が露出しているなど、色や質感が変わります。




ソーラスがない場合は、もしかすると胞子葉を出すタイプのシダかもしれません。葉っぱの裏にソーラスをつける代わりに、胞子葉という繁殖専用の別の葉っぱを出します。


(9)裂片のふちを調べる
羽状複葉の葉っぱはフラクタル構造をしていますが、羽全体は「葉身」、小さな羽にあたる部分は「羽片」、さらに枝分かれした小さな羽は「小羽片」、そしてそれ以上分裂しない最も小さな葉は「裂片」と呼ばれます。
この一番小さな単位である、裂片の形を観察すれば、種類の判別に役立ちます。



(10)その他の手がかり
そのほかにも、手がかりになるポイントは色々あります。
・葉は漏斗状に、つまり丸い円陣を組むかのように集まって生えているか
・生えている場所。地面から生えているか、岩や木に付着しているか。
・葉身(葉の部分)と、葉柄(茎の部分)の長さの比率。葉身と同じくらい茎が長いか、もっと短いか。
・羽片に柄があるかどうか
・一番下の羽片や小羽片が下を向いて「ハの字」形になっているか
・羽片と羽片の間隔は広くてスカスカか、狭くて詰まっているか
・ソーラスを虫眼鏡で拡大して、包膜の色やふちを確認する
・鱗片を虫眼鏡で拡大して、どんな形か確認する
挙げるとどんどん細かくなっていってきりがないのでほどほどに。
シダはよく雑種を作ることが知られているので、あまり厳密になりすぎると、サックスが言っていたようにシダに疲れてしまいます。よほどマニアでなければ、おおよその見分けで十分ではないでしょうか。
一番大事なのは楽しむことです。「人生とは本来楽しむべきものではないのだろうか?」。自然観察も、自分にとって、楽しい、心地よいと感じられるレベルで続けていれば、いずれおのずと上達していくでしょう。
この記事は、まだシダ観察を始めて、1年も経っていない時点で書いたので、正確でないところや、的を射ていないところもあるかもしれません。あくまで、初心者がどう腐心してシダを観察したかの記録として、残しておきたいと思います。
補足2 : 色覚異常の人はシダを見分けやすいかもしれない
わたしは色覚異常ではありませんが、もしかすると、色覚異常を持った人たちは、よりシダの見分けに詳しくなる素質があるかもしれません。
以前の記事でも引用しましたが、生物学者であるデヴィッド・ジョージ・ハスケルは、ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球 で、赤緑色覚異常の二色型色覚を持つ人たちについて、次のように書いています。
第二次世界大戦中の戦略家たちは、色覚異常の兵士は視力が正常な者よりもカモフラージュを見破るのがうまいことに気がついた。
もっと最近の実験の結果は、二色覚者(二種類の錐体細胞をもつ、いわゆる赤緑色覚異常の人)は、三色覚者(三種類の錐体細胞をもつ、人間の一般的な状態)よりカモフラージュを見破るのに優れていることを裏づけた。
ニ色覚者は、色の違いに固執して判断が狂ってしまう三色覚者には見えない、質感の境界線を識別するのである。
…現在ヒトの中に二色型色覚者がいるのが、過去に起こった自然淘汰の結果である可能性はある。
ひょっとしたら、二色覚者のいる集団のほうが、全員が三色覚である集団よりも生き残りがうまくて、その結果、二色覚者が生まれる遺伝的傾向が後続世代に受けつがれたのかもしれない。(p259-260)
研究によると、二色型色覚と、三色型色覚には、それぞれ得手不得手があります。二色型を単なる病的な欠陥とみなすことはできません。それは環境に対する適応の名残りであると思われます。
同じ本によると、サルの場合、三色型と二色型の個体が一緒に暮らします。その内訳は、なんと二色型の個体が半数以上を占めているといいます。
シロガオマーモセットというサルを使った実験では、薄暗いところでは、二色型のサルのほうが物の認識に優れていました。逆に明るいところでは、三色型のサルのほうが熟した果実をより簡単に見つけました。
つまりサルたちの視覚に多様性があるのは、森の光の状態が多様であることを反映しているのかもしれない。
南北米大陸のサルたちは基本的に共同体として生活しているから、同じ集団の中に両方のタイプの視覚があれば全員にとって益になる。どんな状況下でも食べ物が見つかるということだからだ。(p259)
人間の場合、二色型色覚のメリットはそこまで明確ではありません。しかし、色認識に劣る代わりに、薄暗いところでの視覚認知や、質感やパターンの認識に優れている、という長所は、特定の分野の仕事には役立つでしょう。
その長所はまた、シダの見分けに役立つ可能性があります。シダは、派手な色の果実や花をつけず、ほぼ緑色一色で、色よりも繊細なフラクタルなどの形状に特化している植物だからです。
オリヴァー・サックスは別の本、色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記で、二色型色覚よりもっと色の見分けが困難な、全色盲の人たちが大勢住む太平洋の島について、興味深いエピソードを書いています。
クヌートは豚だけでなく植生の豊かさにも心を奪われていた。彼は植物をはっきり見ることができ、むしろ私たちよりも明確に見ていたに違いない。
というのは、私たち通常の視覚の人間にとっては、目が慣れるまでは単にいろいろな緑が入り混じっているように見えるものでも、クヌートにとってはその明るさ、像、形、質感などの重なり合いを、しごく簡単に見分けることができるからだ。
クヌートはそのことをジェイムズにに伝えた。するとジェイムズは自分も、島の全色盲の人もそれはみな同じだと答えた。
「全色盲の誰もがこの島の植物を見分けることができますよ。島の風景はほとんど単色なので、それに助けられてもいるのでしょう」。
たしかに島には赤い花や果物もあるが、これらはある光のもとでは見えなかったりすることも事実で、その他は何もかもが緑色だった。(p60-61)
この島では、遺伝的に全色盲の人が大勢生まれます。その人たちは、赤やオレンジの派手な実を見分けることはできませんが、二色型色覚の人と同じく明るさやパターンの形状の見分けに優れています。むしろ色がないぶん、より繊細な見分けができます。
そのせいか、この島ではある程度、植生が自然淘汰されているようです。全色盲の人でも見分けやすい植物がより珍重され、利用されたせいで、色のついた植物より、緑色の(しかし形状で見分けやすい)植物が多くなっていました。
私にはピンゲラップ島のすべてが驚くほど緑色に見えた。森ばかりでなく、果物も緑色なのだ。
パンの実やバンダナスの実はどちらも緑色をしているし、島に生えている様々な種類のバナナの実もそうだ。(p273)
植物は、それを利用する動物と共生関係を結んで繁栄します。よってどんな色の植物が繁栄するかは、それを利用する生き物の視覚特性に左右されます。
今では、三色型色覚をもつ霊長類の幾つかの種(ヒトも含む)が世界で多数派を占めているため、鮮やかな色の花や果物が、世界中で多く栽培され、人間による淘汰の恩恵を受けています。
しかし、三色型色覚をもつ生き物が登場する前は、植物はこれほど色とりどりである必要はありませんでした。シダがほぼ緑色なのは、「動物が古生代に発達させた最も原始的な二色型色覚」の名残りです。(p274)
当時の動物たちは、限られた色彩感覚しか持っていなかったでしょう。しかしその反面、色に惑わされないので、微妙な明るさの違いや、質感、パターンの形状の見分けについては、より優れていたことでしょう。
シダ植物の見分けに必要なのは、そうした能力なのです。
シダの葉の色は、色相(色み)という観点からすれば、ほとんどが黄緑から青緑の狭い範囲内に属しています。通常の三色型色覚の人は、一面緑一色という「物の持つ色に圧倒されて、その他の性質を認識できなく」なりがちです。(p274-275)
しかし明度(明るさ)の観点からすれば、暗い深緑から、明るい淡緑までさまざまです。パッと目立つ鮮やかな花はつけませんが、複雑で奇妙な形状によって自己紹介しています。
先ほどの全色盲の人のように、「単にいろいろな緑が入り混じっているように見える」シダが群生しているとしても、「明るさ、像、形、質感などの重なり合いを、しごく簡単に見分けることができる」なら、さまざまな異なるシダにすぐ気づけるでしょう。
このような能力はかなり個人差があり、三色型色覚の人であっても、色認知に向いている人もいれば、線や形状といったパターンの認知に向いている人もいます。わたしは自分が後者だと考えているので、それがシダを好む要因の一つなのかもしれません。
二色型色覚あるいは全色盲の人の場合は、より極端に線やパターンの認知に特化しているため、もしかするとある種の色覚異常を持っていることが、シダ観察では有利に働くのかもしれません。