この記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の3つ目の補足です。
記事でみたように解離という考え方は、さまざまな現象を説明するのに役立ちます。
統合されているものが「切り離される」ことで生じる病理は、医学的な概念を越えて世の中に広く当てはまるフラクタル的な現象です。
つまり、解離は狭い意味では精神医学的な概念ですが、世の中のさまざまなスケールに当てはまる汎用的な概念でもあります。
もくじ
統合されながら差異化されたシステム
以前の記事で考察したように、心理学者ミハイ・チクセントミハイによれば、創造的な人とは、一人でありながら多面的な自己を有する人物でした。これは、統合されながら差異化されたシステムと言い換えられます。
ひとつのものとして統合されているのに、多様な役割に差異化されている、というのは、創造的に活動する自然界のありとあらゆるシステムに共通している普遍的なシステムです。
たとえば、人体はひとつのからだとしてまとまっていますが、それを構成している内臓などの各部分は異なる多様な役割に差異化されています。
近年の脳科学が示すように、脳は統合されたネットワークとして機能していますが、同時に各部分にモジュール化された局在的な性質も有しています。
創造的な会社は、ひとつの組織としてまとまっていますが、個々の社員としては才能と個性にみちあふれた多様な人が集まり協力することで成り立っています。
動植物はひとつにまとまった生態系に属していますが、個々の生き物は多様性を有しています。
微生物のマイクロバイオームも、ひとつの生態系をなしていますが、おびただしい種類の異なる性質を持つ多様な微生物が共生して成り立っています。
こうした仕組みは、一種のフラクタルであり、自然界のあらゆるレベルでみられます。自然が創造的に機能するには、必ず、統合されていると同時に差異化されていなければなりません。
裏を返せば、差異化されているのに統合されていなかったり、統合されているのに差異化されていなかったりすると、物事はうまく組織されなくなります。
差異化されているのに統合されていないシステム
差異化されているのに統合されていないシステムとは、多様性がありながら、ひとつにまとまっていない状態です。
なんでもかんでも興味を持ち、とりあえずやってみるものの、目的や価値観を持たない人は、多様性を持ってはいますがまとまりを欠いているため創造性を発揮できません。
同様に、大通りを歩く雑多な人を無秩序に集めて創造的な会社を作ろうとしてもうまくいきません。多様な個性や才能はありますが、組織として統合されていないからです。
交通ルールのない車社会は事故だらけになります。おのおのが無秩序に動き、自由で差異化されているのに、それらを統合しまとめあげるルールがないからです。
道徳の倫理のない人間社会もうまくいきません。多様で差異化されてはいますが、だれもかれもが法律もルールもなく振る舞ったとしたら無政府状態になります。
世界中から多種多様な動植物を集めてきて、ひとつの部屋に集めて飼育したとしてもやがて死滅していきます。多様ではありますが、本来ひとつにまとまっていた生態系から切り離されているからです。
統合されているのに差異化されていないシステム
他方、統合されているのに差異化されていないシステムとは、ひとつにまとまっていながら、多様性のない状態を指します。
同じ行動を繰り返し、融通が利かず、柔軟さのない人は、一貫性がありますが、多様性がないので創造性を発揮できません。
人体の臓器がすべて目だったりすべて手だったりしたら、人間として成り立ちません。
同じような個性を持ち、同じような考えしか持たない人たちを集めた会社は創造的にはなれません。
ある生態系の生き物がすべて同じ種類だと、統一はされていますが、やがて死に絶えます。
伝統的な学校教育のように、子どもの多様性を無視して同じ型に一律に当てはめようとする教育がうまくいかず、創造性を殺してしまうのもそのせいです。
ですから、あらゆる創造的なシステムは、ひとつに統合され統一されていることと、役割が差異化され多様性が維持されていることの両方を満たしている場合のみ、うまく機能するようになっています。
フラクタルとしての解離
自然界の構造は、統一されたシステムから、一部だけを切り離して(つまり解離させて)運用するようにはできていません。あくまで他の多様な要素とつながり、ひとつのシステムの枠組みの中で機能した場合にのみ、創造的に生き生きと働くようになっています。
本来ひとまとまりになって機能するはずのこころから、一部の人格だけ切り離されると、解離性同一性障害になります。人格が差異化されているものの、統合が失われた状態です。
家族の成員のだれかが無視されたり、クラスのだれかがいじめられてのけ者にされたりすると切り離された人は事実上、ひとつの統合されたシステムから解離されます。
切り離されたまま鬱憤や怒りを溜め込んでしまう別人格も、家族から無視されてネガティブな感情を募らせる人も、のけ者にされて傷つけられる子どもも、本来ひとつにまとまって機能するはずのシステムから切り離されることによって苦痛を味わいます。結果として、システム全体に害が及び、創造性が妨げられます。
本文中で、こころから解離した身体を、敗残兵として戦地に取り残され、本国から切り離された人に例えましたが、これは比喩であると同時に、異なるスケールで生じている類似した現象です。
戦争のさなかに兵士が本隊から解離し、切り離された兵士が戦場に置き去りにされたまま忘れられてしまうのが残留兵です。
トラウマのさなかに、切り離された人格の一部がトラウマの最中に置き去りにされたまま凍結されてしまう状態が解離性同一性障害(DID)です。
交通事故や外傷のさなかに、こころとからだが解離し、切り離されたからだが、外傷体験の瞬間に取り残されたまま凍結してしまうのが外傷後に傷が治っても続く慢性疼痛です。
もうトラウマが終わっていることを知ってもらうには、敗残兵を見つけ出して戦争が終わったことを平和な本国で体験してもらう必要があり、別人格の存在に気づいて安心感で包んであげる必要があり、からだの声に耳を傾けて内臓に安全を感じてもらう必要があります。
人体の内部における解離と、人類社会をひとつの人体のように見なした場合の解離は、同様のフラクタル的な構造をしています。
以前の記事で比較した、民族レベルでみられる過去の歴史の解離と、個人レベルでみられるトラウマ記憶の解離も、異なるスケールで生じる同種の解離というフラクタル構造です。
たとえばレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) で神経科学者オリヴァー・サックスは、次のような、一種の国民的な解離性健忘の例を挙げています。
嗜眠性脳炎の大流行と時を同じくして「インフルエンザ」が世界的に流行した。…1918年10月から1919年1月までの間、世界の人口の半分がインフルエンザとその後遺症に罹患し、2100万人以上が死亡した時期に、脳炎が猛威を奮ったのである。
眠り病のことが不思議にも「忘れられた」のと同じように、インフルエンザの大流行のこともまた忘れられた(このインフルエンザによる死者の数は中世の黒死病以来最も多かった)。
H・L・メンケンは1956年に次のように書いている。
「インフルエンザの大流行についてはほとんど言及されることもなく、多くのアメリカ人は忘れているようだ。だが、これは驚くべきことではない。
なぜなら、人は現在の耐えがたいことを隠したがるのと同じように、過去の耐えがたい記憶も消したがるのだから」(p77)
これと似たような国民レベルのトラウマ反応は、当然二回にわたる世界大戦をくぐり抜けたここ日本でも生じているはずでしょう。
しばしば日本人は自己抑制的だと言われますが、サイコロジカル・トラウマ に書かれているヴァン・デア・コークの所感を読むと、これは国民レベルで生じている失感情症的な解離現象ではないか、とも思えます。
日本の関係者が聞きたがったのは、地震がどのように人々に影響するかということだけであった。私が家庭内暴力や戦争の問題に触れようとすると、まるで耳を塞ぐかのように、私には感じられた。
その訪日の折には、靖国神社で長い時間を過ごし、日本で戦争がどのように記憶されているかを感じ取ろうとした。そして、日本人がトラウマを否認するのは、過去一世紀にヨーロッパや米国でも見られた否認と極めて共通したことであるのがだんだんとわかってきた。(p3)
戦争で荒廃した国々は、慢性的なトラウマを受けた人になぞらえられるでしょう。
トラウマ体験を思い出さず、ただ未来を見つめようと復興に尽力するうち、過去の記憶を抑圧した自己抑制的な人たちが増えていきます。自己抑制的な親に育てられた子はやはり解離傾向が強くなります。
ヴァン・デア・コークはまたトラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべてにおいても日本という国レベルのトラウマについて書いています。
第二次世界大戦の戦慄の影響は、情緒的なひきこもりや攻撃性の爆発、あるいは親密さの欠如という形で現れているのであろうか?
…日本人の臨床家や研究者のなかには、戦争を無視することで、その後の経済復興のために必要なエネルギーを動員できたのだろうと―おそらくは正しく―指摘する者もいる。(p vi)
その視点からすれば、戦後の高度経済成長は国民レベルの「逃走・闘争」反応からなるPTSD現象であり、その後に続いた若者の引きこもりは、国民レベルの「凍りつき・麻痺」反応からなる解離現象だといえます。
浮かばれない霊を供養する
解離の専門家の柴山雅俊先生は、しばしば解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論などの本で、交代人格を浮かばれない霊、それを受け入れて治療することを供養になぞらえていますが、これは単なる比喩ではないとわたしは思います。
「この世」を現実世界、「あの世」を背後世界、死霊を交代人格と読み換えれば、これらは解離の体験世界にきわめて類似していることがわかる。
交代人格とはこの現実の世界にはまれにしか出現せず、背後の世界に「浮かばれない」状態で漂っている死霊にも似た存在である。
日本人は、怨みをもって浮かばれずもがき苦しんでいる霊と交流し、供養によってそれを救済することをよしとしてきた。(p228)
解離やPTSDとは、トラウマの記憶を処理できず、自分の過去の経験に統合できていないときに生じる反応です。恐怖が過去のものとなっておらず、今もそのただ中に取り残されているから恐怖反応が持続してしまうわけです。
それで、トラウマを治療するには、もう危険は過去のものになって終わったのだということを、言葉ではなく「からだ」で実感せねばなりません。それが、いまだにトラウマのただ中に取り残されている交代人格の供養です。
これと同様の知恵は、人類の文化のさまざまなレベルで見られます。
たとえば、だれかが亡くなったとき、取り残された人たちは必ずどんな文化でも喪の儀式を行います。これは、だれかが死んだ、というトラウマ記憶を処理し、その人がもういない過去の人だということをからだに納得させる手段です。
戦争が終わったとき、人々は戦没慰霊碑を立てて黙祷します。これも、戦争はもう終わったのだとからだに言い聞かせ、戦争というトラウマ経験を、もう終わった過去の歴史に統合するための手段です。
個人における解離、文化における解離は、いずれも、トラウマ記憶の供養、喪の儀式、慰霊などができていない状況で生じます。
終わったはずのトラウマを、過去のものとして区切ることができず、けじめをつけられず、ずっと引きずっている状態なのです。
トラウマ記憶は手続き記憶であるがゆえに、たとえ個人レベルであろうと、民族レベルであろうと、「トラウマはもう終わったのだ」とからだが実感できる手順をはさまなければ、こころはトラウマ後を生きていても、からだはトラウマのただ中に取り残されてしまう解離が生じます。
トラウマ治療では、トラウマ記憶を物語に変えることが重要だとされています。これはつまり、亡くなった人をもう亡くなった過去の人として受け入れ、戦争体験をもう終わった過去の物語として受け入れるのと同じです。
もっと言えば、嫌なことがあった日に、日記にして書き出せばすっきりして眠れるのとも同じです。書き出すことによって、言葉にならない手続き記憶を言語化した陳述記憶、そしてエピソード記憶に変換できるからです。
わたしを含め、心身の苦痛を経験してきた人たちがしばしば創作に励むのは、創作によって言葉にならない記憶を整理し、エピソード(物語)に変換できるからです。からだの記憶を自分の外にある作品に変えることで、けじめをつけることができます。
記憶というものは、過去に統合されていない状態では、現在起こっている現実の問題のままです。終わったものとして区切りをつけて、過去のアーカイブにおさめてはじめて、冷静に振り返れる過去の物語になります。
このように、個人レベルの解離は、民族レベル、文化レベルなど、さまざまなところで生じている解離ととてもよく似たフラクタル構造を成しています。
おそらくは、さまざまな宗教で浮かばれない霊や魂、供養といった概念が共通しているのは、人類が古くから、さまざまなレベルで解離現象を経験し、それを何とかして言語化しようと試みてきたからではないでしょうか。
フラクタルそのものも1つとして同じものはない
もちろん、異なるスケールのものに常に同じ法則が当てはまるという単純な考え方は便利であると同時に危険です。
分離脳研究を通して、人間の心は異なる複数の人格から成り立つ社会のようなものであるというフラクタルな発見に至ったマイケル・S・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 – 認知神経科学の父、脳と人生を語る –の中でこう警告しています。
極端な還元主義者は、機構には複数のレベルがある、すなわち、物事が実際に起こる理由を理解するための因果の連鎖に異なる複数の層が寄与しうるという考え方を受け入れるのに苦労する。(p386)
ガザニガは、ミクロの世界とマクロの世界のように、スケールのレベルが異なれば、まったく違った法則や理論が必要となる場合があると述べています。
たとえば物理学における量子力学がそれにあたり、ミクロの世界ではマクロの世界の常識が通用しません。
結局のところ、フラクタルもまた統合されながら差異化されています。
マクロの世界とミクロの世界は、互いに協働しあってひとつの世界を作り上げていますが、それぞれは差異化されています。雪の結晶はフラクタルの代表例ですが、やはりひとつとして同じものはなく多種多様です。
つまり、精神疾患における解離、からだとこころの解離、その他の分野におけるさまざまな切り離し、たとえば国から切り離された敗残兵、生態系から切り離された動物、自然界のリズムから切り離された睡眠障害、マイクロバイオームから切り離された人体に生じる自己免疫疾患などは、いずれも、統合されたシステムから一部が切り離されるという点で似ていますが異なる性質を持ってもいます。
それは、もし解離(切り離し)をひとつの統合された概念として見た場合、その中に含まれる、これらさまざまな異なるスケールで起こるさまざまな解離もまた、それぞれが多様で差異化されており、類似しつつも別々の性質を持っていることを意味しています。
本文中で述べたとおり、解離は文化によってさまざまな形をとります。時代や文化の期待を反映してさまざまな形をとるのが創造性であり、時代や文化のストレスを反映してさまざまな形をとるのが解離です。
統合されながらも差異化されている、ということは、その概念そのものにも当てはまるので、たとえ似た部分があるにしても、異なるスケールの創造性、異なるスケールの解離を一様なものとして扱うことはできません。
「同類の、しかし性質の異なる病理」
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によれば、こころに現れる解離(解離性障害や解離性同一性障害など)と、からだに現れる解離(転換性障害や慢性疲労、慢性疼痛など)は、「同類の、しかし性質の異なる病理」だとされています。
これらの研究が示していることは、解離性障害と転換性障害は同一の疾患の別の表現形態というよりは、同類の、しかし性質の異なる病理である可能性が高いということだ。
これらの両方を含めて解離と呼ぶか、あるいは一方を解離、もう一方を転換性障害と呼び続けるべきかについてはさまざまな議論があろう。
しかし最近の「構造的解離理論」(van der Hart,et al.,2006)に基づいた分類、すなわち解離を精神表現性解離と、身体表現性解離とに分けて理解するという方針が適切と考える識者も多い。
ストレスが解離を生んだ場合、それを精神面の症状として表現されたもの(狭義の解離)と身体面の症状として表現されたもの(転換症状)に分けるという考え方はより自然で、臨床家にとっても受け入れやすいものと思われる。(p120)
こころの解離とからだの解離は別のものではなく、マクロのレベルからみれば、同じ解離という「同類の」共通項を持っています。しかし、ミクロの観点からすれば、「性質の異なる病理」であり、統合されながらも差異化されています。
これはつまり、成人型の慢性疲労症候群と、小児型の慢性疲労症候群に、解離という共通のメカニズムが関わっているとしても、「同類の、しかし性質の異なる病理」である、つまり統合されながらも差異化されている概念であるという可能性を考えなければならないことを示唆しているともいえるでしょう。
それで、解離について考えるときに、常にガザニガが右脳と左脳を見つけた男 – 認知神経科学の父、脳と人生を語る –で述べるこの言葉を念頭に置いておくのは大切に思えます。
私たちはみな、こうした情報のダイエットに弱い。携帯メールや携帯電話で得られる即席の満足感に屈してしまったように、誰もが情報の簡略化に依存するようになった。
それでも、うわべだけの知識人と真の教養人を区別するものは、あらゆるものは単純ではないとわかっているかどうかである。
その秘訣は、どのような話題であっても、その根本にある複雑さを十分に認識しながらも明瞭に語ることができるかどうかにあるようだ。(p404-405)