「頭が勝手にざわざわする」
「空想はどんどん出てくる。…勝手に湧いてくる」
「時計とかを見ているとそれにまつわる話がばーっと出てくる」
「物を見ていると昔のこととかを全部連想してばーっと想い出して、頭の中がパニックになる」(p29,49,91)
考え、音楽、感情、映像などが連想的に次々と湧き上がってきて、それをコントロールできない状態は、解離の研究では、「思考促迫」(Gedankendrangen)と呼ばれています。
さらに、ADHDや自閉スペクトラム症などの発達障害でも、やはり同じような暴走する連想や、頭のさわがしさが生じることがあるようです。
この記事では、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 という本から、解離という脳のメカニズムが関係している「思考促迫」とは、どのようなプロセスで起こる現象なのかを調べてみました。
また、天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで という本から、「思考促迫」を創作に活かしたと思われる夏目漱石から学べる創造性との関連について扱います。
もくじ
これはどんな本?
今回おもに参考にしている、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 は、このブログで何度も紹介してきた、柴山雅俊先生による、解離性障害のとても詳しい本です。患者目線で書かれた具体的な症例の数々と、思いやりのある解説が魅力です。
もう一冊の、熊谷高幸先生による天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで は夏目漱石の創造性に関するところで参照しています。
創造的な人は、自閉スペクトラム症(ASD)などの傾向を持ち、孤独な少年期を過ごしていることが多いとして、エジソン、ニュートン、ジョブズなどが取り上げられています。
「思考促迫」とは何か
まず、思考促迫とは何か、その特徴を知るために、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 から、いくつか引用してみましょう。
(1)思考促迫は解離に関係している
まず1つ目は、思考促迫は「解離」に関係した症状だということです。
解離性障害によくみられる症状として思考促迫(Gedankendrangen)がある。
これは想念や表象像が次から次へと湧き出ては消えていき、意識的に制御することができない体験である。
…内容は一定の主題を持たず、断片的で多様であることが特徴である。(p182)
この説明からわかるのは、「思考促迫」は解離性障害に多い症状だということです。
解離性障害とは、世界が遠のいて感じられる離人症や、気配過敏、幻覚などを特徴とする心身の異常です。
さまざまな程度があり、転換症状という形で、多様な身体症状が見られることもあります。さらに重くなると記憶喪失や多重人格に発展する場合もあります。
しかしながら、後で説明するように、わたしたちは誰でも多かれ少なかれ、この解離という機能を使って生きています。それゆえ、解離傾向の強い人は、解離性障害ほどひどくなくても、軽度の思考促迫は経験するはずです。
「思考促迫」の中には、言葉が湧き上がるものもあれば、映像が次々湧き出るものもあります。また、音楽が流れて鳴り止まない人もいるそうです。(特定の音楽が耳について鳴り止まない現象はイヤーワーム(耳の虫)と呼ばれる)
重い解離性障害の場合はこうした思考促迫は自分でコントロールできず、ひどくなるとパニックにつながるとも言われます。
(2)過敏な人に多い
2つ目は、思考促迫は過敏な人に多いということです。
また思考、感情、表象など広く思考が内的に湧き上がることもある。これは従来、思考促迫などと呼ばれてきた症状であり、過敏状態にみられることが多い。(p137)
思考促迫は「過敏状態にみられることが多い」症状です。もともと敏感さを持っている人が、さまざまな感覚に圧倒されたときに起こるのが、思考の洪水だということが読み取れます。
(3)発達障害などでも起こる
3つ目は、しばしば思考促迫は発達障害に伴うということです。
以上の症状は解離性障害をはじめとして境界例、アスペルガー症候群、初期統合失調症などにしばしば出現するが、詳細に検討すればそれぞれの病態によって症候学的に若干の差異が認められるかもしれない。(p92)
この説明では、思考促迫のような解離症状は、解離性障害だけでなく、境界性パーソナリティ障害や、アスペルガー症候群などでも起こる、と言われています。
近年、境界性パーソナリティ障害の原因としてADHDが関係している場合があるとされているため、ADHDも素因のひとつとして含めることができるかもしれません。
別の記事で書きましたが、女性のADHDに多いとされる「思考の多動」症状は、解離の思考促迫の軽度なものとみなすことできます。
それで、思考促迫は、アスペルガー症候群やADHDのような発達障害ぎみな人にみられやすいといえます。
またあとで少し触れますが、統合失調症にもしばしば生じると言われています。
(4)体感異常が併発しやすい
最後の4つ目は、思考促迫の症状を感じる人は、自分の身体の不快感にとらわれやすい、ということです。
気配過敏症状では周囲に対する知覚過敏を伴うことが多いが、動悸、過呼吸、咽頭狭窄感、四肢の感覚異常、吐き気など、多彩な身体症状もみられる。(p137)
より症状が強い場合、思考が次々と湧いてくる、という症状と同時に、頭の中に異物感や不快感などを感じやすいともされています。
これは解離性の体感異常(セネストパチー)と呼ばれています。「体感異常」と「思考促迫」は互いに関連していることもあり、たとえば、次のような例が報告されています。
「頭の中に熱い固まりがいっぱいあって、それが膨らんだり縮んだりする。
…頭の中にいろんなことがガーッといっぱい入ってきたり、頭がぐちゃぐちゃになったりして、自分で何をしているのかわからなくなってしまう」
…「卵くらいの固まりが頭の中にあって、そこからシュワーッと炭酸水みたいなものが出てくる。頭が冷たくなる感じ」(p114)
頭の中がさわがしいなどの症状と連動して、頭や体の中に、さまざまな異物感を感じることがあるようです。どんな感覚が生じるかは、人によって千差万別です。
特に頭の中に異物を感じるタイプは若い男性に多いとされています。(p111)
これら4つの特徴、思考促迫は(1)解離と関係していて、(2)過敏な人に多く、(3)発達障害に起こることがあり、(4)体感異常を伴いやすい、というのは一見すると別々の要因のようですが、ぜんぶ互いに関連しています。
思考促迫の原因になる「解離」とは何か
この4つの関連性を知るには、そもそも「解離」とは何かを知る必要があります。
「解離」という現象は、病気特有のものではありません。別の記事で詳しく説明していますが、わたしたちは誰でも、多かれ少なかれ「解離」という機能を使って生きています。
解離性障害や解離性同一性障害といった症状は、わたしたちが誰でも用いているこの解離という機能が、極端になりすぎた例にすぎません。
解離とは、簡単に言えば、脳に備わるセーフティー回路、ブレーカーのようなものであり、外部からの刺激が過剰すぎて耐えられないときに遮断してくれる保護機能です。
たとえば、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ) にあるように、虐待された子どもや、犯罪被害者などは、ひどい痛みを感じないように解離が働き、感覚が遮断されることがあります。
その結果、感覚が麻痺してしまい、殴られているのは他人の身体であるかのように感じたりします。
子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。
そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)
しかしながら、意識や感覚を切り離して遮断することで、脳が圧倒されないように保護する、というのは、わたしたちが日常の中でも経験しうることです。
たとえば、ひといちばい感覚が敏感なHSPの人や、感覚過敏が強いADHDや自閉スペクトラム症といった発達障害の人たちは、外部から入ってくる刺激が強すぎるせいで、日常的に感覚遮断して対処していることがあります。
「意識がぼーっとして我を忘れる」「時間の感覚が麻痺する」「気づくと白昼夢に没頭していた」
こうした体験はみな、軽度の解離です。いずれも、外部からの感覚を切り離して、自分の内的世界に逃避している現象だからです。
そして、こうした意識を切り離してぼーっとしているときにこそ、この記事で考えているような「思考促迫」が生じます。
ここまでのところで、(1)解離という脳の機能と、(2)過敏性と、(3)発達障害とか互いに関連している理由がおわかりいただけたと思います。
発達障害などのために生まれつき過敏性が強い人は、外部からの刺激に圧倒されやすいため、たとえトラウマに遭っていなくても、日常的に軽度の解離を用いて対処していることが多いのです。
それゆえ、こうした感覚過敏を抱える人たちには、トラウマによって解離してしまった人に比べると軽度であるとはいえ、解離性障害と同じ思考促迫の症状が現れやすいといえます。
外部刺激と内部刺激のバランスが偏る
しかし、なぜ、解離が起こると思考促迫が生じるのか、そして(4)体感異常が伴いやすいのはなぜか、という点はまだ説明できていません。それを知るためには、解離状態にあるとき、脳で何が起こっているかを知らねばなりません。
ここでポイントとなるのは、わたしたちの脳が外部の刺激と内部の刺激をどのように処理しているか、という点です。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳 に書かれているリエージュ大学の神経学者スティーヴン・ローレイズの説明を見てみましょう。
意識的な自覚には二つの次元があるとローレイズは説明してくれた。
ひとつは外の世界に対する自覚で、視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚を通じて知覚されるものすべてだ。
もうひとつは内的な自覚で、自分の身体への知覚や、外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など、自己参照的な知覚だ。
…健康な人で調べると、二つの次元の自覚は逆相関になっていることがわかる。外部に注意が向いているときは、外的自覚のネットワークが活発になり、内的自覚のネットワークはおとなしくなるのだ。もちろんその逆もある。(p27-28)
少し難しく思えるかもしれませんが、とても単純なことを言っています。
外部からの感覚と、内部からの感覚は、互いにシーソーのような逆相関の関係にあって、どちらかに対する注意が増加すると、もう片方への注意が低下する、ということです。
脳が解離を起こす、ということは、つまり外的な刺激「視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚を通じて知覚されるものすべて」を遮断するという意味です。敏感な人は、こうした外的刺激に圧倒されやすいので、解離によってシャットアウトしてしまいます。
このとき、今の説明によれば、単に外的刺激がシャットアウトされるだけでなく、シーソーのような反作用が起こり、相対的に内部からの刺激に対する気づきが増加します。
これは、わたしたちの脳が持つ、刺激のない状態には耐えられない、という特性によります。外部の感覚がなくなってしまうと、感覚上の空白ができるため、脳は内部からの感覚を増やすことによって埋め合わせるのです。
そのようなわけで、敏感な人が解離を起こして外部からの刺激をシャットアウトすると、相対的に内部からの刺激「自分の身体への知覚や、外的刺激とは無関係に生まれる思考、心象、白昼夢など、自己参照的な知覚」が増加します。
この中に、「自分の身体への知覚」や「外的刺激とは無関係に生まれる思考」というのが含まれていることにお気づきでしょうか。
それがつまり、「体感異常」や「思考促迫」という現象の正体なのです。
外部からの刺激をシャットアウトすることで、相対的に内部の刺激に敏感になり、内部から勝手に湧き上がってくる思考が過剰になり、身体の不快感にも敏感になってしまう、ということです。
内部からの刺激には他にも「心象、白昼夢など」が含まれていることにも注目できます。心象とは、馴染み深い言葉で言い換えると「イメージ」です。
思考促迫状態の人は、思考だけでなくイメージも次々に浮かび上がってくると書きましたが、それもまた、内部から湧き上がってくる感覚の一種なのです。
外部の感覚が減ると、この種の内部のイメージ(心象)が増加する、という現象は、思考促迫以外の例でもよく見られます。
たとえば、視覚が衰えた高齢者は「シャルル・ボネ症候群」と呼ばれる幻視を経験することが知られています。
これは、視野の一部が欠けて文字どおり視覚が遮断されてしまったせいで、脳がその埋め合わせとして、内部からイメージを生成して幻覚が見えてしまう現象だとされています。
同様に、聴覚が衰えた人も、空耳としての幻聴が聞こえがちです。これもまた、脳が中途半端に足りなくなった聴覚的刺激を、内部からのイメージ生成によって補うために起こります。
そして、そもそもわたしたちが毎晩見る「夢」という現象もまたこの一例です。レム睡眠のときには、外部からの感覚が遮断されるので、代わりに内部からの刺激が優勢になり、わたしたちは夢という幻覚や思考の過剰を経験するわけです。
続解離性障害に書かれているように、健康な人でも、寝入りばなには思考促迫や自生思考のような、考えやイメージがふつふつとわいてくる現象を経験することがよくあります。
自生思考というのは睡眠に関係していて、寝入りばなと、起きたときの自生思考というのは健全な場合に起きるわけですから。
歴史上偉大な発見の中には、寝入りばなに次々とわいてくる取り留めない思考や、夢の中でのとっぴな連想からアイデアを得たという逸話が残っているものもあります。
ふだんから思考促迫に悩まされる人は、本来は睡眠中に起こるような過剰な連想が、昼夜の別なく生じていることになります。
解離という感覚遮断が起こっているせいで、起きながらにして軽くレム睡眠の状態に入っているようなものです。だから、意識はぼーっとして、夢の中のような白昼夢や思考促迫を経験するわけです。
軽度の解離を抱える人は、ほんのちょっと夢に足をつっこんだような感覚でぼーっとしたり夢見心地になったりして、思考促迫に陥ったり、身体の不快感に過敏になってりしているといえます。
別の記事で詳しく書きましたが、重い解離を抱える人はもっと深刻な状態にあり、起きていながら、ずっと覚めない悪夢を見ているような状態にあります。
身体の不快感を感じる体感異常も、自分の身体が自分のものとは思えないくらい異質で奇妙なものになります。
統合失調症の「自生思考」との類似点・違い
ここまでは主に解離が関係している思考促迫を扱ってきました。
しかし実際には、軽度の思考の多動性くらいならともかく、解離の重篤な思考促迫ともなれば、医師から統合失調症との診断をくだされることが非常に多いのではないでしょうか。
そのような症状は、統合失調症では「自生思考」(Autochthones Denken)と呼ばれていて、特に発症初期にありふれた症状であると考えられています。
しかし解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 にはこう書かれています。
自生思考の報告の多くは雑念や想像がまとまりなく頭の中に浮かぶ体験として記載されているが、臨床的にはこれのみで統合失調症と診断することは危険であり、その他の症状を考慮してはじめて診断すべきである。(p183)
なぜ自生思考によって統合失調症と診断することは「危険」なのでしょうか。なぜなら、もし解離性障害だった場合、統合失調症の薬物療法ではかえって悪化することがあるからです。
統合失調症と解離性障害の思考が湧き上がる体験はよく似ていますが、よく耳を傾け、違いを読み取り、適切な診断と治療をすることが大切だといいます。
一例として、解離性障害ではない、統合失調症の自生思考の例がこう書かれています。
映像や言葉が浮かぶ。まったく関係のない人の名前がポンポン出てくる。
会った人の名前がその後に観たテレビドラマの中の名前と同じだったりして、どういうわけが偶然が重なる。(p183)
これがなぜ統合失調症の自生思考だとわかるのでしょうか。ひとつには、「偶然が重なる」という驚きや不意打ちが見られるからだそうです。
統合失調症では、「自分が考えるよりも先にだれかが考えを読み取っていた、先回りしていた」という妄想的思考があり、不意打ちのような驚きを感じます。
それに対し、解離性障害では自分と相手が同調・同化しているので、むしろ意外性はなく「思った通りだった」と感じるそうです。一種のデジャビュのような体験だということです。解離では妄想はみられません。
統合失調症と解離性障害の違いについては以下の記事をご覧ください。
作家の創造性に関係していることも
最後に、思考促迫がもたらす、意外な一面について考えたいと思います。
思考促迫は、重い解離性障害に伴う場合などは、病気の辛い一症状と思えるかもしれません。
しかし、ここまで見てきたように、思考促迫には程度の差があり、病気と健康の境目のレベルであれば、かえって創造性としてプラスに働くことがあります。
それを証明しているのが、偉大な小説家、夏目漱石のエピソードです。
夏目漱石は、いわゆる「神経衰弱」という体調不良を患っていたそうで、その「神経衰弱」の正体がなんであったのか、という点については、さまざまに議論されています。
しかし注目に値するのは、夏目漱石の「神経衰弱」は、単なる体の不調ではなかったという点です。
天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで という本では、夏目漱石の「文学論」から、次のような言葉が引用されています。
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。……(中略)。
ただ神経衰弱にして狂人なるがため、『猫』を草し、『漾虚集』を出し、また『鶉籠』を公にするを得たりと思へば、余はこの神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず。(p126)
夏目漱石は、自分が「神経衰弱」で「狂人」だと自覚していました。しかし、そのような体調不良に関して恨みつらみを述べるどころか、ここでは、感謝の言葉さえ綴っています。
夏目漱石の言うところによると、 彼のさまざまな小説が生まれたのは、その「神経衰弱」と「狂気」のおかげだったのです。
どうして、そのような病気が、小説を書く手助けになったりするのでしょうか。
さらに興味深いのは、同じ本で引用されている、鏡子夫人が夫を観察して述べたコメントです。
どういうわけかもちろん自分の頭の中でいろいろなことを創作して、私などが言わない言葉が聞こえて、それが古いこと新しいことといろいろに連絡して、幻となって眼の前に現われるものらしく、それにどう備えていいのかこっちは見当がつきません。(p126)
この言葉からすると、どうやら夏目漱石は、「思考促迫」に近い現象を経験していたものと思われます。しかも、それは勝手に幻視として映像が見えるタイプでした。
この本では、妄想らしき言動があったことを根拠に、夏目漱石の病気は統合失調症と関係していたのではないか、と推測されています。
しかし、解離性障害の専門家たちの意見によると、統合失調症では幻視は比較的少なく、むしろ解離性障害に多いものだとされています。
妄想については、確信して聞く耳を持たないレベルでなければ、解離性障害でも見られる場合があります。その場合は妄想というより、豊かな空想がたくましくなりすぎたのだと考えられます。
何より、夏目漱石の文学的創造性が解離性障害と関連していた可能性を示す最も大きな証拠は、その不幸な生い立ちにあります。
愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書) という本では、夏目漱石が生まれてすぐに実の母親から引き離されて里子に出され、養父母のもとで育ったことが書かれています。(p70)
そのように安定した愛着を育む間もなく養育者が変化する環境に置かれたことで、漱石は親との間の愛着形成がうまくいかず、医学でいうところの、愛着障害ともいえる状態になっていたと考えられます。(p238)
子どものころに愛着に傷を負うことは、解離性障害や境界性パーソナリティ障害を発症する大きなリスク要因です。
そのような不安定な愛着をベースとした解離傾向が、夏目漱石の類まれな文学的創造性の源となっていた可能性があります。
子どものころのトラウマのせいで過敏になり、その過敏さから逃れるために解離傾向が発達し、外部の刺激を遮断する代わりに、内部の思考が過剰になり、思考が次々と湧き上がる状態になっていた、ということです。
非常に多くの作品を書きまくる作家たちはしばしば「ハイパーグラフィア」と呼ばれることがあります。
「ハイパーグラフィア」の作家たちは、次々に連想が湧き上がってくるため、書かずにはいられない衝動に突き動かされます。
「ハイパーグラフィア」の原因にはさまざまな説がありますが、一説によると、感覚をとりまとめる側頭葉や頭頂葉の機能が関係しているようで、解離に見られる脳機能異常との類似性があります。
おそらく、そうした作家たちは、程度の差こそあれ、「思考促迫」の解離傾向を持っているのではないかと思われます。
現に、日本文学史をみると、幼少期に辛い体験をした人が異様に多く、何かしらのトラウマのせいで身につけた慢性的な軽度から中程度の解離のせいで、思考促迫状態になって創作がはかどっていたのではないか、と考えることができます。
愛着障害についてのケースをたどっていくと、すぐに気づかされるのは、作家や文学者に、愛着障害を抱えた人が異様なほどに多いということである。
夏目漱石、谷崎潤一郎、川端康成、太宰治、三島由紀夫という日本文学を代表する面々が、一様に愛着の問題を抱えていたというのは、驚くべきことである。
ある意味、日本の近代文学は見捨てられた子どもたちの悲しみを原動力にして生み出されたとも言えるほどである。(p182)
解離傾向が軽いうちは創造性として利用することもできますが、解離傾向が制御できないほど強く、日常生活にさまざまな支障をきたすようになってしまうと、解離性障害とみなされるのでしょう。
うまくコントロールできれば才能になるかも
愛着障害や解離性障害が、文学的創造性と関係していたとする考えは、極端な見方でしょうか。近年のさまざまな研究によると、そうとは思えません。
今回おもに引用した解離についての本である解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 には、こう書かれています。
また患者は言語化を含め、自らの心を表現することに困難があるため、絵画や詩などさまざまな手段で自己を表現できるようにすることも効果的である。
解離の患者は文学や美術など芸術的センスに恵まれていることが多い。(p198)
ここでは文学だけでなく、美術のセンスについても書かれていますが、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書) にも、夏目漱石が小説だけでなく絵もたしなんで心の安定に努めていたことが書かれています。(p277)
子ども時代に、辛い環境で育った人たちは、つらい現実から少しでも逃れよう、気を紛らわそうとして、現実逃避に似た形で、空想にふける時間が多くなります。
あるいは、今回少し取り上げた、天才を生んだ孤独な少年期 ―― ダ・ヴィンチからジョブズまで という本で書かれているように、主に自閉スペクトラム症などの発達障害のため、孤独な子ども時代を過ごす人もいます。
すると、安定した環境で育った人とは比べ物にならないくらい、たくましい想像力が育ちます。耐え難い現実に置かれることで、代償的に、たぐいまれな非現実を創りだす想像力が発達します。
それは、生物に普遍的に見られる、ある種の適応進化と同じです。そのままでは生き延びられないような環境に置かれると、生き延びるための新しい能力が発達し、時には強みになることさえあります。
創造とは、今あるものに満足できないがために、別のものを創りだす能力のことです。文学や絵画といった芸術的世界を創造することの背後には、癒やされない傷と新しいものを創造することで満たされたい思いとが混在している場合があるのです。
とはいえ、そうした困難な経験の中で発達した想像力は、生産的な活動に向けることができれば、もはや代償ではなく才能とみなせるかもしれません。
雨の自然誌 という本によると、「歴史上最も偉大な100人のシンガー」に名を連ねたこともあるイギリスのミュージシャン、スティーヴン・パトリック・モリッシーは、子ども時代の苦労によって生まれたと思われる、渦を巻くような不安定な思考を、自分の才能だとみなしていました。
有名になればなるほど、モリッシーは「ヴィクトリア時代の、ナイフを突き刺すマンチェスター」で過ごした青春を嘆いた。しかし、創作活動という意味では、この町は彼を落ちぶれさせたどころではない。
「十代のころ鬱になったのは、これまで俺の身に起きたことで最高の出来事だった」と、彼はかつてインタビューに答えて言った。そのせいで、歌が「頭のなかで渦を巻くようになったからだ」(p224)
この本によれば、あのピアニストのフレデリック・ショパンもまた、猛烈な嵐の晩に思考が過剰になって、湖で溺れる自分の幻覚が見えてしまい、むせび泣きながら「雨だれのプレリュード」を作ったという逸話があるそうです。(p225)
また有名な小説家のヴァージニア・ウルフも、おそらく子ども時代の性的虐待などによる解離や躁うつ傾向を抱えていたと思われますが、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たち によれば、「脳の中でぶんぶん回る羽」が創造性に寄与していたようです。
彼女はE・M・フォースターやその他の人びとに、医者のことや、処方されるシロップ薬のことや、無理やりベッドに寝かされることについて不満を洩らしながらも、自分の病気が妙に役立つことにも気づいていた。
彼女の治癒不能な精神錯乱(この「脳の中でぶんぶん回る羽」)は、いくつかの点で奇妙なほどに超越的だった。…鬱病を発症した後にはかならず創造力の爆発を経験し、自分自身の「厄介な神経組織」の働きに対する新鮮な洞察で日記を埋めた。(p253-254)
いずれにしても、「思考促迫」の中には、生活に支障を来たすものただけではなく、創造性として活用できるケースもあることを考えると、一人ひとりが自分の症状についてよく認知し、それをコントロールしていけるよう、適切な治療を受けたり、表現の場を設けたりすることが必要だといえるでしょう。
また、この記事で考えたように、解離のメカニズムを理解することで、うまくコントロールしやすくもなるでしょう。たとえば、発達障害に多い軽度の解離は、感覚過敏のせいだということを理解すれば、外的刺激を制限することで負担を減らせます。
思考が多動であるということは、それだけ人いちばい多くのことを考え、創造できるということです。ときにはそれは、平凡な人が望んでも決して手にできない才能になりえます。
創造性の暴走としての「思考促迫」は、しっかり原因を見極め、うまく手綱を握ることができれば、芸術的創造性として開花させることができる可能性を秘めているともいえるのです。