将来は予測不可能である―情報に惑わされないために肝に銘じたい行動経済学の教訓

過去は容易に説明できると感じられるため、大方の人は未来が予測不能だとは考えようとしない。

…あらゆることが、後知恵で見れば意味を持つ。…そして私たちは、今日後知恵で説明がつくなら昨日予測できたはずだ、という直感をどうしても拭い去ることができない。

過去をわかっているという錯覚が、未来を予測できるという過剰な自信を生む。(p381-382)

候変動、新型コロナウイルス、食糧危機、政治的な内部分裂。近年、わたしたちを取り巻く世界は、不安定さを増しています。いつまでこの状況が続くのか、という思いから、少しでも将来の見通しを知りたいと思うのは自然なことです。

テレビでも、インターネットでも、他のメディア媒体でも、将来を予測する評論家たちが日夜しのぎを削っています。過去に予測が当たった人もいれば、専門的な知識を駆使して、もっともらしい予測をする人もいます。

インターネットで情報をたくさん集めれば、予測の精度が上がるに違いないと考え、素人探偵のように推理する人もいるでしょう。恥ずかしながら、わたしも去年、新型コロナウイルスが流行しはじめたとき、予想を試みて大失敗したことがありました。

自分は人より多くのことを知っている。いろんな専門家の意見を見たし、ニュースにも精通している。だからこの未来予測も妥当であるに違いない。的中とまではいかなくとも、かなりいい線を行っているはずだ。

それこそが、「妥当性の錯覚」(illusion of validity)です。

行動経済学の研究から分かっているのは、未来は予測不能である、という事実です。どんな専門家、どんな知識人の意見であれ、当てずっぽうやサイコロ投げと変わらない精度にすぎない、ということが統計からはっきり分かっています。

不安定で先の見えない時代だからこそ、大胆にも将来を予測しようとする人々に注意する必要があります。

どれほど自信たっぷりでも、どれほど信憑性があるように思えても、未来を予測しようとする試みは、すべて眉唾であることを意識しておかなければなりません。無益で、無意味な争論に時間もエネルギーも奪われることになりかねません。

この記事では、冒頭に引用したファスト&スロー (上)から、未来は予測不能なものであり、かかわり合いになるだけ無駄である、という教訓をひもときたいと思います。

妥当性の錯覚―「今回の予想は当たるはずだ」

ファスト&スロー (上)は過去のブログで何度も引用している行動経済学者ダニエル・カーネマンの本です。彼は人間の思考が、無意識のうちに様々なヒューリスティックやバイアスに影響され、不合理な判断を下してしまうことを発見しました。

たとえば、わたしたちは統計的な事実よりも、自分の見聞きしたニュースに基づいて、物事の重大さを判断しがちです。ニュースで頻繁に報道される事件は、統計的には稀なものであっても、ひどく恐怖をかきたてます。これは利用可能性ヒューリスティックです。

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最近、テロのニュースが頻繁に報道されています。ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンの本「ファスト&スロー」によると、こうした報道は利用可能性という落とし穴につながるかもしれません

自分が好きな人物や企業をえこひいきして、愛は盲目を体現してしまうのは、感情ヒューリスティックです。

あの人種はこうだとか、男だから、女だからなどと、ステレオタイプ化して決めつけてしまう代表性ヒューリスティックもあります。

先に結論ありきだと、自分の説を補強する証拠ばかり集めてしまい、反証が見えなくなってしまう現象は、確証バイアスと呼ばれます。

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自分の意見に固執して、他の人の新しい意見を無視してしまう傾向は「アインシュテルング効果」と呼ばれています。わたしたちが無意識のうちに自分の考えの裏付け証拠ばかり探していることや、ダ

ほかにも様々なヒューリスティックやバイアスがありますが、いずれも無意識のうちに、わたしたちの思考を導いています。そのおかげで楽に、直感的に判断を下せますが、本当に統計的に見て正しい判断とは限りません。ただの錯覚や思いこみかもしれません。

未来の予測に関しても、これらと同じ錯覚が働きます。冒頭に引用したように、「過去をわかっているという錯覚が、未来を予測できるという過剰な自信を生」みます。しっかり情報を集めて判断すれば、ある程度は将来を見通せるはずだ、と勘違いしている人は少なくありません。

カーネマン自身、自分がそんな錯覚に陥っていたことに気づいて、「妥当性の錯覚」という現象を発見しました。

彼は心理学者として、いくつかのテストを実施して、軍の幹部養成学校に送り込む人材を選ぶ仕事を任されました。テストの結果に応じて、一人ひとりの気質や適性が数値化されました。

ところが、どれほど入念に予測したとしても、その予測は外れました。「私たちの予測がまったく不正確であるという揺るぎない証拠」が確認できたと彼は書いています。(p369)

ここで彼は不思議なことに気づきます。統計的な事実は、自分の予測が当てにならないことを、疑問の余地なく明らかにしています。それなのに、再度テストを施す段になると、今回こそは予測が当たるかもしれない、という謎めいた自信を感じてしまうのです。

これはまったく驚くべきことである。

前回の失敗の証拠をあれだけはっきりと示されたからには、多少は自信が揺らいでいてもよさそうなものだが、全然そうはならなかった。

また、いくらか評価を控えめにしようと考えても当然だと思えるが、それもしなかった。

私たちは一般的な事実として、自分たちの予測が当てずっぽうより少しましという程度であることを知っていた。それでもなお、自分たちの評価は妥当だと感じていたし、そのようにふるまっていた。

私はミュラー・リヤー錯視を思い出す。二本の線の長さが同じであることを確認した後でさえ、やっぱり長さは違って見えた。候補生の評価もまったく同じである。

どちらも錯覚であることから、私はこれを「妥当性の錯覚(illusion of validity)」と名付けることにした。(p370)

こうして「妥当性の錯覚」という言葉が作られました。何度予想を外しても、人は情報をしっかり集めれば未来を予測できると勘違いしてしまう、という現象です。

未来は予測できないと知っている人でさえ、専門家のもっともらしい意見を聞いたり、自信たっぷりに書かれた記事を読んだりしたら、これは信頼できそうだ、と思ってしまいます。

たとえそれが錯覚だと知っていても、ミュラー・リヤー錯視のような錯視効果を見るたびに騙されてしまうのと同じように。

これを読みながら、自分はそうではない、当てはまらない、と感じている人がいるかもしれません。でも錯覚は、自分では影響されていることに気づけないから錯覚なのです。

ミュラー・リヤー錯視の図を見て、「ああこれは錯覚だ、だまされないぞ」と考えることができるのは、それが錯覚を意識させるために特別に作成された図だからです。本物の錯視は日常生活の普通の景色に紛れ込んでいて、よほどのことがなければ気づかないまま終わります。

妥当性の錯覚も同じです。この記事のような、錯覚について問題提起する文章を読んでいるときは、騙されないかもしれません。でもそれよりはるかに多くの根深い錯覚が日常生活に知らず知らず紛れ込んでいるので、錯覚に騙されずに生きている人なんて存在しません。

錯覚や、ヒューリスティック、バイアスは、いずれも自分は大丈夫という自信過剰の上に成り立っている現象ともいえます。真剣な態度で自分の正しさを疑おうとしない人ほど、ころりと騙されていて気づけないものです。

スキルの錯覚―「専門家だから素人よりわかっている」

でも、本当に未来は予測できないものなのでしょうか。世界情勢に詳しく、専門知識があって、日々SNSに貼り付いて情報収集しているような人は? 将来をうかがい知る特別な分析技術を持っているとしたら?

人より多くのことに通じていたら、精度の高い予測ができるはずだ。世の中の予測を専門とする仕事の多くは、この前提の上に成り立っています。

投資信託ファンドや政治評論家は、自分は一般人より多くの情報を得ているので、より正しい予測ができると信じています。だから彼らはネットでもテレビでも自信満々に自説を発信します。

占い師や宗教指導者は、自分は未来を知るための特別な手段に通じている、と自負しています。神のお告げを聞いたり、吉凶の兆しを判断したりするスキルがあるので、一般人より多くの情報を知ることができ、将来を見通せると考えます。

しかし、それは統計によって裏付けられているのでしょうか。本当に、何も知らない一般人よりも精度の高い予測ができているのでしょうか。

このような職種の人たちは、妄信ともいえる自負を持っているので、自身の聖域に科学的な調査が立ち入ることを好みません。それでも、カーネマンは過去に行なわれた統計的調査の結果について、はっきりこう記しています。

投資信託ファンドは、経験豊富なうえに猛烈に働くプロフェッショナルが運用しており、彼らは巧みな売り買いを通じて、顧客のために望みうる最高の結果を達成できると考えられている。

にもかかわらず、50年間にわたる調査の結果には議論の余地がない ― 彼らの運用成績は、ポーカーよりもサイコロ投げに近いのである。(p376)

未来予測には確かなスキルなどというものは存在しないのです。予測している当人たちは、自分たちのスキルに自信を持っていることでしょうが、統計的に見れば、何の役にも立っていないことが明らかになります。それはスキルではなく、ただの儀式に等しいものです。

カーネマンはあるとき、投資アドバイザーたちの8年分の成績を分析するというまたとない機会に恵まれました。

アドバイザーたち当人は、自分の成績の分析方法を知りません。外れる時ばかりではなく、見事に的中する時もあるので、そこそこの自信は持っています。

では、統計的な分析にかけてみたらどうなるでしょうか? 彼は28組のペアを作成し、アドバイザー同士のスキルの優劣を比較してみることにしました。

統計的に考えればスキルの存在を示す相関関係は低いだろうと予測してはいた。それでも結果が出たときには驚愕したものである。

28個の相関関数の平均は0.01だった。つまりゼロである。

アドバイザーの間にスキルの差があることを示す相関性はどこにも見当たらなかった。私の計算結果は、アドバイザーの仕事が高度なスキルを要するゲームよりも、サイコロ投げに似ていることを示していた。(p378)

そこにスキルの差などなかったのです。長年経験を積んでいる者も、情報収集に長けている者もいたことでしょう。しかし未来を予測するのに、何の役にも立っていませんでした。

彼らは、自分たちは専門的スキルを持っている、日々の訓練によって、未来を予測する精度を上げることができる、そう思って仕事に取り組んでいたはずです。でも、実は蜃気楼に向かって進んでいたようなものでした。

このような人たちは、自分たちの間違いを統計的に指摘されたからといって、考えを改めることなどしません。未来の予測ができないのを認める、ということは、廃業するも同然だからです。たとえ砂の楼閣だとしても、錯覚が存在する限り、その仕事は存在します。

そして私は、この発見はあっという間に「なかったこと」にされ、この会社は何事もなくやっていくだろうと確信した。

スキルの錯覚は単に個人の問題ではなく、業界の文化に深く根を下ろしている。業界の大前提に疑義を呈し、ひいてはそこで働く人たちの生計の手段や自尊心を脅かすような事実は、けっして受け入れられない。(p378-379)

では未来を予測するという、ほかの業種はどうなのでしょうか。政治や経済の評論家についても、詳しい統計的な調査が実施されています。

ペンシルバニア大学の心理学教授フィリップ・テトロックは、20年にわたって284人の評論家の予測を統計的に分析し、2005年に、次のような結果をまとめました。

調査の結果は惨憺たるものだった。評論家の予測に比べれば、現状維持・プラスの変化・マイナスの変化に単純に同じ確率を割り当てるほうがまだましだったのである。

言い換えれば、特定の分野を日頃から多大な時間を使って研究し、それで食べている評論家たちは、ダーツを投げるサルよりもお粗末だった。得意分野とするものについてさえ、専門外の人を大幅に上回る成績は上げられなかった。(p383-384)

評論家もまた、一般人と大差なかったのです。彼らは専門知識を持っていると自負しますが、威勢がよいのは自信たっぷりな口調だけで、肝心の未来予測のほうはさっぱりです。古くから存在する偽予言者の系譜が、現代社会にも存在するという、ただそれだけのことです。

テトロックはこのデータに基づき、こう結論したそうです。

学問が高度に細分化されている現代では、一流新聞への寄稿者、たとえば高名な学者、現地事情に通じた評論家、エコノミストといった人たちが、これまでにない状況を解読するスキルに関して、ニューヨーク・タイムズ紙の記者や読者を上回ると考えるべき理由は何もない。(p384)

この結論が出されたのは15年以上前ですが、今日の評論家たちにも同じ結論が当てはまるのは間違いないでしょう。新型コロナウイルスなどの「これまでにない状況」に関して、一家言ある識者たちが日夜議論を繰り広げていますが、耳を傾けるだけ時間の無駄です。

たとえ予測しているのが有名人や、高名な科学者であってもです。尊敬される著名人が語る言葉は正しく思える、というハロー効果(後光効果 halo effect)は非常に強力なので、ついうなずきそうになるかもしれません。しかし、たとえ専門家でも未来予測の精度は当てにならないことを思い出すべきです。

未来予測を仕事にしている人たちは、「妥当性の錯覚」と「スキルの錯覚」により、自分は世の中の他の人々より優れているという自信過剰に陥っています。

たとえ予測が外れても、「時期を読み違えただけ」「ほぼ的中に近かった」などと都合よく解釈します。事が終わってから、自分は最初からこうなることがわかっていた、と主張することもあります。これは後知恵バイアス(hindsight bias)と呼ばれます。(p355)

なぜ未来は予測不可能なのか

未来が予測できないのは、まず第一に、人間は誰も、世界中で起こっているあらゆる事態を考慮に入れることができないからです。自分の手持ちの知識だけがすべてだと考え、限られた情報に基づいて結論を下してしまいます。

以前書いたように、この傾向は「自分が見たものがすべて」(WYSIATI : what you see is all there is)と呼ばれています。(p157)

どれほど賢い人でも、2019年に新型コロナウイルスが発生して世界が大混乱になることは予測できませんでした。見えないところで異常な事態が進展しているなんてことは、知るよしもないからです。

専門家は、誰かか病気になることさえ予測できません。しかし世界のリーダーのうち誰かが突然死したら、突然、地政学的バランスが変わることさえありえます。そのような不確実な要素は、いつでもどこにでも生じうるので、予測は当たりません。

ではもし、世界中のあらゆる情報を考慮に入れることのできるスーパーマシンがあれば、予測精度は上がるのでしょうか。人を超えた人造の神のようなコンピュータです。

ずっと昔、数学者ピエール=シモン・ラプラスは、この世界のすべての情報を知る者がいれば、未来まで確実に予測できるはすだ、と考えました。これは「ラプラスの悪魔」として知られています。未来はすでに数学的に決定されているが、わたしたち人間の能力ではそこまでわからないだけだ、というわけです。

現代でも、個々の人の運命は決定されている、と信じている人たちがいます。すでに未来は決まっているので、それをのぞき見る方法があれば、将来どうなるか予言できると考えます。

しかし、こうした考えは、確率論が登場する以前の数学に基づく考え方です。数学者たちは、たとえあらゆる情報がわかっていても、いざ起こってみるまで、どちらに転ぶかわからない事象があることに気づき、確率という手段で表現するようになりました。

その後も、量子力学などの分野が登場するにつれ、ラプラスの悪魔という概念は明確に否定されました。神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)に書いてあるとおりです。

20世紀に入って量子力学ー原子内部の世界に関する理論ーが発展すると、決定論的な宇宙観は楽観的すぎることがわかってきた。

現代物理学によって、あらゆる実験の結果を予言することは原理的にさえ不可能であることが明らかになった。

むしろ、理論で予言できるのはそれぞれの結果が起こる確率でしかない。(p178)

たとえこの世界のすべての情報を知れたとしても、次にどうなるかは、確率でしか予想できません。定められた運命などという脚本は存在しないのです。

このように、わたしたち人間はすべての情報を知りえないこと、そしてこの世界は決定論的ではなく、確率でしか表現できない偶発的な事態が常に起こりうること、この2点からして、未来は予測できないものだ、と結論できます。

未来を予測する人たちは精神安定剤のようなもの

だとしたら、未来を予測する評論家、投資信託ファンド、占い師、宗教家などは、わかりもしないことをもっともらしく語る、ただの詐欺師なのでしょうか。

そうとも言えません。彼らの仕事のおもな目的が、将来の正確な予測ではなく、ある種の「カウンセリング」にあるとみなせば、話は別でしょう。

人は先行きの見えない状況に、大きな不安をかきたてられます。自分の目の前の道がまったくの暗闇で、落とし穴があるのか、障害物があるのか、何ひとつわからないという状況を想像してみてください。足がすくみ、硬直し、一歩を踏み出すことができません。

そんなとき、自信たっぷりに暗闇の先の状況を教えてくれる人がいれば、多少の安心感が得られます。たとえ事実に基づかなくても、また根拠が正しくなくても、その時に湧き上がる安心感という感覚は本物です。

その安心感にしたがって行動した結果、落とし穴に落ちるかもしれず、障害物に蹴つまづくかもしれません。自信たっぷりだった道先案内人は責任は負いません。次なる誰かのところに行って、まことしやかに将来を予測し、言葉巧みに偽りの安心感を抱かせていることでしょう。

ひどい詐欺だと思うでしょうか。受け止め方次第でしょう。

道先案内人は、将来を予測する力は何ひとつ持っていませんでした。その点では詐欺師であり、偽予言者でした。

しかし自信たっぷりに語ることによって、立ちすくんでいる人の不安や心配を、ある程度解消し、その人はつかの間の安心感を得られました。その点ではきっちり仕事を果たしています。

将来を予測する仕事に関わっている人たちの本質はそこなのでしょう。投資信託家であれ、テレビの評論家であれ、占い師であれ、宗教の聖職者であれ、みなそうです。

彼らは未来を予測できると主張しますが、統計はそれを否定しています。

もちろん全ての予測が外れるわけではありません。サイコロ投げと同じだ、ということは当てずっぽうと同じ程度には当たるということです。当たったことは誇張して宣伝し、外れたことは言葉巧みに言い訳して取り繕います。

信じやすい人たちは、その人たちの絶対的な自信にほだされて、信頼を寄せます。様々なバイアスやヒューリスティックによって、その人たちは本当に未来を知っているのだ、という錯覚に陥ります。

この不確実な世の中にあって、暗闇の先にあるものを、自信たっぷりに言い当ててくれる人がいる、そう考えるようになり、安心感を抱きます。たとえ詐欺師にだまされているのだとしても、その時感じる安心感は本物です。

現に今は、先の見えない不確実な時代です。誰もが、いつまでこの状況が続くのか、いつになったら元の生活に戻れるのか知りたがっています。

テレビやネットで未来予測をする識者たちは、その不安をなだめる精神安定剤のような役割を果たしています。

知識ある人々が、自信をこめて将来こうなる、と語るだけで、人々は息のつまりそうな現実からつかの間にせよ解放され、明日も生きようという気になれるのです。その仕事は社会の秩序の維持にいくばくか貢献しているともいえます。

評論家たちが、これから将来もっと悪くなる、と予言する時でさえそうです。見通しが不確実な状態に置かれるのは、悪いことが起こると確実にわかっている状況よりストレスが強い、という研究があります

要するに人は、これから何が起きるのかはっきり言ってほしい、良い将来でも悪い将来でもいいから明確にしてほしい、と感じる傾向があるのです。不確実で先の見えない状況が一番辛いので、何かを自信たっぷりに予言してくれる人を求めます。

もとより、偶発性の影響が少ない「近い将来に関する限り、評論家の知見には価値がある」ともカーネマンは書いています。人間は向こう一週間の天気くらいなら、そこそこの確率で当てられるので、あらゆる予測が無駄というわけではありません。(p386)

とはいえ、テレビやネットを賑わわせている予測の大半は、短期間なものではなく、もっと長期的な見通しに関するものです。視聴者や読者が知りたいと思ってやまないのも、そうした長期的な予測です。

精神安定剤に副作用や依存性があるように、人々を一時的に安心させる未来予測にも、多くの害があります。だからこそ、見聞きするものには注意を払う必要があります。

今この瞬間を充実させるほうが、時間は早く経つ

わたしは、新型コロナウイルスが流行り始めた初期のころ、これから先どうなるのか、少しでも知りたいと思って、色々なニュースを調べていました。調べた情報に基づいて、自分なりに予測を試みることもしました。

かつてファスト&スロー (上)を読んで、未来は予測不能だという行動経済学の知見を知っていたにも関わらず、です。まさに妥当性の錯覚です。確かにそういう研究はあるけれど、今回はしっかり情報を集めているから当たるかもしれない、などと根拠のない錯覚に陥りました。

結果、それから半年、一年と経ってみて、行動経済学の研究のとおりだと納得しました。サイコロ投げと同じくらいの確率でしか当たりませんでした。自分の予測はもちろん、第一線の専門家とされる人々の予測もです。

そうした人たちが、懲りずに予測を続けている様子も、横目で見てきました。過去の研究で明らかにされたとおりです。

テトロックはまた、評論家たちは自分の誤りを認めようとしないこと、認めざるを得なくなったときでもどっさり言い訳を用意することを発見した。

曰く、時期をまちがえただけだ、予想外の出来事が途中で起きた、たしかに予想は外れたが、それにはもっともな理由がある、云々。

専門家も所詮は人間であるから、自分は優秀だと思い込み、誤りを犯したと認めることをひどく嫌う。(p384)

わたしはきちんと知識に基づいて行動すべきだと自覚しました。

せっかくダニエル・カーネマンの本を読んで、未来は予測できないこと、そして予測できると思っている人々も「スキルの錯覚」の上にあぐらをかいていることを知っているのですから、そういった無意味なことには関わらないのが賢明です。

知りえない将来を知ろうとして、不必要で混乱した情報に身をさらすのは危険であり、かえってストレスの原因になりかねません。評論家などの予測は、つかの間の安心はもたらすかもしれませんが、依存性のあるドラッグと同じです。

そんな害のある方法で安心感を得るより、身近な自然を満喫して気持ちをリフレッシュしたり、今だからこそできる趣味や勉強に打ち込んだりするほうが、よほど価値ある時間を過ごせます。この機会に疎遠になっていた友人と親交を深めるのもいいかもしれません。

もちろん、将来に備えることは大切です。しかし特定の事態に備えるより、不測の事態に備えるほうが良いでしょう。たとえば、メディアが恐怖をあおりたてるような災害より、まったく予期されていなかった災害のほうが、日々わたしたちを悩ませているのできないでしょうか。新型コロナウイルスもその一つです。

将来に備える最善の方法は、予期せぬ出来事を予期して、現実的な範囲で用心することです。ある程度のお金を取り分けておいたり、非常用持ち出し袋を準備しておいたりすることはできます。いずれにせよ、将来はわからない、という前提のもとに対策すべきです。

これから将来どうなるのだろう、と思い悩んで、混乱する情報ばかり追っていたら、全然時間が進まなく思えてもどかしくなるかもしれません。評論家たちが言っていることがなかなか実現しないので、時間が経つのが遅く思えてくるのです。

一方、世の中の混乱を忘れて、自然を楽しんだり、別の活動に専念したりしていれば、いつの間にか日にちが経っているものです。

未来を予測しようとしていると、なかなか時間が進みませんが、今この瞬間を大切に過ごしていれば、おのずと向こうから未来がやってきます。

どのみち今しばらく不自由な生活は続きます。その間、どちらの方法で日々を過ごすべきか。せっかく知っている行動経済学の知識を活かさない手はありません。