リティコ-ボディグー苦しみと死を運命づけられた人々は尊厳を失わず生き抜いた

私は、ジョンがどのようにして自分の感情と向き合っているのだろうかと考えた。彼は進行したリティコ-ボディグの患者を40人かそれ以上も抱えているのだ。

患者と一緒のときのジョンは、大きな声ではきはきと話し、楽観的であり、患者を元気づけ、陽気に見える。しかしそれは彼の表面にしかすぎず、その奥には非常に繊細で脆いジョンがいるのだ。

一人になったり周りに誰もいないと思うときには、ジョンは患者の苦しみを考えると、彼らを助けるために何もできない自分と医学の無力さに涙を流すことがあるのだと、後でフィルが私に打ち明けた。(p195-196)

の世界には、想像もつかないほど過酷な病気や運命と闘って、懸命に生きている人たちがいます。

わたしは自分が楽な人生を送っているとは思いませんが、それでも、色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記で脳神経科学者オリヴァー・サックスが記述している「リティコとボディグ」と呼ばれる難病を抱えて生きてきた人たちのことを思うと、耐えがたい気持ちに襲われます。

「リティコとボディグ」は、グアム島のチャモロ人に一時期現れた難病で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)パーキンソン病(PD)の複合的な症状を呈します。

これらの過酷な病気を抱える人は、わたしたちの社会にもいます。しかし、かつてのチャモロ人のあいだでは、発症率が100倍から400倍にも上りました。まるで時限爆弾のように、親も子も兄弟も姉妹も、遅かれ早かれ、この病気の犠牲になって死んでいったのです。

この過酷で不可解な病気は、世界中の神経科医の注目を集め、あらゆる角度から広範な研究が行われました。それなのに、何十年経っても原因も治療法もわかりませんでした。やがて医学の無力さをあざ笑うかのように、この病気は時の流れとともに消えていきました。

その間、チャモロ人の当事者たちはどのように尊厳を保って生き抜いていたのか、それを支える医師はどれほど犠牲を払って寄り添い続けたか、オリヴァー・サックスは生き生きとした温かみのある文章で記録しています。

この記事では、リティコ-ボディグとはどんなな病気だったのか、過酷な運命の中でも、チャモロ人が尊厳を保って生を全うできたのはなぜか考えます。

また、補足部分では、このサイトで扱っているトラウマ障害との類似性に注目し、日常生活で参考にできる点をまとめました。

これはどんな本?

色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記は、2つの異なった旅行記を収録した2部構成の本です。

前半部分では、ピンゲラップ島とポーンベイ島を訪れ、先天的全色盲の人々の生活が描写されます。その内容は先日の記事で概観しました。

「色のない島」の人々から障害のもとでも喜びを見つける生き方を考える
オリヴァー・サックスの著書「色のない島へ」を再読して、病気や障害のもとでも喜びを保っている人々について考えてみました。

今回扱う後半では、グアム島を訪れ、リティコ-ボディグを患う人々と向き合います。

物語は1993年、グアム島の医師ジョン・スティールからサックスに電話がかかってきたところから始まります。

ジョンはもともとトロントの前途有望な神経医学者でしたが、実験室での研究より、患者たちと触れ合う仕事を望んでいました。また島での暮らしに憧れてもいました。

それで、彼は安定した生活を後にしてグアム島に移住することを決めました。神経医学者たちを長年悩ませていた「リティコとボディグ」を患う人々の力になりたいと思ったのです。

彼の覚悟がいかほどかは、グアム島の中でもウマタックという地区に住むことにした決定からわかります。ウマタックはひときわ患者が多い病気の中心地でした。

「チャモロ人や彼らの病気に関する仕事をするには、彼らに囲まれ、土地の食べ物や習慣の中で暮らすべきだと考えた」のです。このような気概をもつ医師は心から尊敬できます。(p148)

やがて彼はリティコ・ボディグの患者を数百人も診療するようになり、その病態が嗜眠性脳炎の後遺症に似ている、と感じました。それは、オリヴァー・サックスがかつてレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)で詳しく報告し、一躍世間の注目を集めた病態です。(p140,198-200)

それでジョンは、第一人者であるサックスに連絡をとり、グアム島に調査に来てくれないか頼むことにしました。オリヴァー・サックスはどう反応するでしょうか。

サックスは、神経科学者として、もちろんリティコ-ボディグに関心は持っていました。しかし特に興味があったのは、原始的な裸子植物の一種であるソテツがその原因ではないかと取り沙汰されていたことでした。

サックスは先日の記事でも書いたように太古の植物マニアです。「生きた化石」と呼ばれ、ジュラ紀から脈々と生きているソテツにはひときわ強い思い入れがありました。それで、病気とソテツ両方を調べるためにグアムに旅立つことにしました。(p141)

グアム島の自然をこよなく愛しているジョンは、そんなサックスを歓迎してこう言います。

「絶対に気に入るよ、オリヴァー。何の仕事をするにしても、二人で島をぐるっと回ってソテツと患者の両方を見ようじゃないか。

君は神経学に造詣の深いソテツ学者だと名乗ってもいいし、ソテツ学に造詣の深い神経学者だと名乗ってもいいよ。どちらにしても、グアムは最高だよ」(p142)

このグアム島のリティコとボディグに関する章は、非常に重苦しい内容で、読んでいて時々息が詰まりそうになります。少なくとも先日感想を記事にしたオアハカ日誌のような陽気な明るさは微塵もありません。

チャモロ人を襲った苦難は、リティコとボディグだけではありません。彼らはもともと平和に暮らしていましたが、1521年に大航海時代の冒険家マゼランが上陸し、住民たちと衝突しました。

次いで1668年から、スペインの宣教師が訪れ、強制的な洗礼を施し始めました。歯向かうチャモロ人は残忍に殺戮され、数々の伝染病も持ち込まれました。

1710年までにチャモロ人の男性は皆殺しにされ、わずか1000人ほど残された女性や子どもは、虐待や性的暴行の犠牲になりました。現在のチャモロ人はすべてその子孫で、純粋なチャモロ人は存在しません。

1898年にはスペインと敵対していたアメリカの統治下になり、1941年には日本軍に占領されました。大勢のチャモロ人が虐殺され、拷問を受け、生き残った人々はジャングルに身を隠し、有毒物質を含むソテツの実が唯一の食糧となりました。その後は再びアメリカの統治下になり、基地建設によって故郷の美しい自然が破壊されました。

時を同じくして1904年にはすでに筋萎縮性側索硬化症(ALS)、つまりリティコが報告されていてました。リティコとボディグはチャモロ人の間で増え続け、やがて世界中の医者や研究者たちから注目されるようになりました。しかし、患者たちは手厚い世話を受けるどころか、モルモットのような調査対象として扱われました。(p179,184-185,191)

これらすべてのことが、淡路島よりも小さなこの島で起こったのです。

そのような民族の苦しみが真正面から描かれる章において、サックスが合間合間に、ソテツをはじめとしたグアム島の美しい自然を観察して楽しむ様子は、つかの間の平穏をもたらしてくれます。

しかし、そのソテツも、病気の根本原因かもしれないと思いながら読むと、どこか薄気味悪いきな臭さを感じてしまいます。

恐ろしい難病の原因がどうしてもわからない、という記述の直後に、意味深長なタイミングで「見てごらん、ほら、ソテツだよ!」という植物パートが挟まれることもあります。

現実の話だとわかって読んでいるのに、猟奇的な島を舞台にした推理小説を読んでいるような錯覚に陥ります。表向きは明るいのに、根底には恐ろしい呪いがかけられている島です。むしろこれがフィクションであれば、どんなにかよかったことだろうと感じるほどです。

「これはヘルマン、病気で死んだ。……あれは従兄弟。……ここにあるのがもう一人の従兄弟のもの。この夫婦の墓では、奥さんが病気で死んだ。……そうだ、みんなリティコ-ボディグで死んだんだ。

ここの、妹の義理の父親もこの病気だった。……従姉妹とその両親も同じことさ。……村長の妹さんもそう。……これはやっぱり病気で死んだ従兄弟。もう一人の従姉妹、ファニータとその父親、二人ともそう。…」。

…私も眠るんだ、家族やウマタックの人々に囲まれ、リティコ-ボディグで死んだ人々共に、海の見えるこの墓地に。(p235)

それでも、この章のテーマは、そのような状況のもとでも、尊厳を失わずに互いに支え合って生き抜いてきた人々の並々ならぬ強さでしょう。

これほどの苦しみの中でも、人が生きることを選べるのはなぜか、命にはどんな意味や価値があるのか。そんなことを深く考えさせられます。

「リティコとボディグ」とは

「リティコとボディグ」は、この奇妙な病態を意味する現地語です。リティコはALSに似た症状、ボディグはパーキンソン病に似た症状を指しています。

まず、リティコ(ALS様症状)は、すでに書いたように1900年ごろには存在していたようです。その後、1945年になって、海軍の軍医ハリー・ジマーマンによって初めて詳しい報告がなされ、多くの科学者の知るところとなりました。

そのころの研究によると、チャモロ人の成人の1割がこの病気を抱えており、発症率は米国のALSの100倍です。ウマタック周辺では400倍と異常に多く、家族のほとんどが発症してしまう家系もありました。(p149-151,157,182)

一方、ボディグ(パーキンソン病様症状)は当初見逃されていました。しかし通常のパーキンソン病にしては発生率が異常に高く、むしろ脳炎後遺症のような複雑な症状があることに医師たちは気づきました。

やがてジマーマンの弟子の平野朝雄が脳を解剖し、リティコとボディグは別個の病気ではなく、「単一疾患でありながら異なる臨床症状が顕れたにすぎない可能性」を突き止めました。(p152,162,185,215,304)

リティコとボディグは、片方だけ発症する人もいれば、両方の症状を抱える人もいます。しかし単に2つの病気の混合というより、はるかに複雑です。

ジョンは「標準的な症状というものはないんだ。10人以上の患者を診察すると、同じ症状を示す人は二人といないことが分かる」と述べます。(p153)

サックスはこの話を聞いて、確かにかつての嗜眠性脳炎の後遺症に似ている、と感じました。

嗜眠性脳炎も、かつてヨーロッパで流行した当初、あまりに症状が多彩なので、異なる複数の病気が同時発生したかのように思われました。しかし脳の解剖によって病変が特定され、同じひとつの病気だと明らかにされました。

奇妙なのは、チャモロ人の世代によって、この病気の症状が変化していったことでした。もともとリティコのほうが多かったのに、1940年代と50年代以降に発症した年下の世代ではボディグが増え始め、病気の特徴が変わってしまったのです。(p203)

また、交通事故死したチャモロ人の脳を解剖した結果、なんと1940年以前生まれの人々の70%に、病変が発見されました。つまり発症していない人たちも、リティコ-ボディグの予備軍だったということです。その原因はかつての時代にはありふれたもので、民族のほとんどが曝露していたことになります。(p215)

また、他の地域に移住したチャモロ人や、他の地域から移住してきた外国人も発症したため、この病気の原因は、かつての環境や習慣にあるのだろうと思われました。(p156-158,187)

ではその原因とは何だったのか。

サックスがリティコとボディグに似ていると感じた嗜眠性脳炎の場合、原因は脳炎ウイルスでした。しかし、それと類似した重篤な症状が、遺伝的な原因、重金属中毒、薬物など、多彩な原因で起こりうることもまた知られていました。

さまざまな異なる原因によって、脳神経の類似した領域に影響が破壊されるのです。(p141,202)

リティコ-ボディグの原因も様々な説が唱えられてきました。

アルミニウムの蓄積説(p216-219,224)、ソテツに含まれる毒素説(p220–227)、スローウイルス説(p227,231)、遺伝説(p228)、寄生生物説(p322)、さらには一種の世代間トラウマが関係している説(p325)。

しかし「それぞれが支持を集めていはいるが、どれもが決定的な証拠を欠いている」状況で、「多くの病気と同様に、さまざまな遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合って作用しているに違いない」と考えられるようになりました。(p230-231)

明らかにひとつの症候群であることはわかる。しかし症状があまりにも多彩で複雑であり、原因の候補も無数にある。そんな病気の研究が一筋縄ではいかないのは想像に難くないでしょう。

このブログで取り上げてきた、現代のわたしたちを取り巻く幾つかの病気もそれとよく似ています。

たとえば慢性疲労症候群(ME/CFS)は、いまだに原因も治療法も明らかになっていません。その症状は複雑で、線維筋痛症(慢性疼痛)や、化学物質過敏症などともオーバーラップし、同じ病気の異なる姿ではないか、とも言われています。

原因の候補も実にさまざまで、患者によって発症のきっかけが違うようです。おそらくは多種多様な原因で、似通った脳神経の障害が引き起こされているのでしょう。

また、やはりこのブログで扱ってきた発達性トラウマ障害とも類似しています。

人によってトラウマとなった体験の種類や期間はさまざまですが、同じ深刻な脳神経の異常が引き起こされ、一群の多彩な症状が現れます。同じ症状の人は二人といませんが、同じ症候群であることはわかります。

発達性トラウマ障害とリティコ-ボディグの症状に、部分的な類似性が見られるのは、おそらく原因は違えど、関係している神経やメカニズムが一部共通しているからでしょう。(この記事の補足部分を参照)

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

リティコとボディグについて知ることは、単に奇妙な風土病について調べる、という以上の意味があります。その症状や対処法からは、異なる難病を抱えている当事者にとっても参考になる点がたくさんあります。

そして何より、リティコとボディグの当事者たちが、過酷な運命のもとでも尊厳をもって生き抜く姿には、恭敬の念を覚えます。それは、いずれ等しく病気や死を迎えるだろうわたしたちすべてに関係があります。

過酷な運命のもとでも尊厳を失わない

「僕は筋萎縮性側索硬化症に何か、耐えられないものを感じるんだ。君も同じだろうと思うけれど。神経学者は皆そう感じているんじゃないかな」(p186)

リティコの患者を診察に出かけるとき、ジョンはサックスにそう打ち明けました。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)について、少しでも知っている人なら、みんな同意するでしょう。実際に家族や友人にALSの人がいるなら、ジョンの気持ちが痛いほどわかるでしょう。

力を入れられなくなり、筋肉が働かなくなる。口を動かして話すことができなくなる人もいれば、ものを飲み込めなくて窒息死してしまう人もいる……。

そんな人を大勢目にしながら、自分は何もしてあげられない。彼らを助けるために、何一つできないんだよ。

特に耐えられないのは、彼らの知能は最後まで研ぎ澄まされたままで、自分に何が起きつつあるかを知っているということなんだ。(p186)

筋萎縮性側索硬化症について考えると、この世界がいかに残酷か思い知らされます。「神様は乗り越えられる試練しか与えない」などと言う人もいますが、この病気の前にすると、そんな綺麗事は何の意味も持たないように思えます。

チャモロ人の家族の場合、一家の成員のほとんどすべてが、筋萎縮性側索硬化症の運命から逃れられないこともありました。自分の祖父母、両親が麻痺して亡くなるのを見届けた後には、やがて自分も同じように苦しみながら死んでいく呪いが待っていました。

いちばん苦しいのは間違いなく当人ですが、そばで見守る家族や医療関係者もやるせない気持ちになります。感受性の強い医師はそのような患者をたった一人診るだけでもどっと疲れるものです。それなのに、ジョンは何十人もの患者を常に訪問し、その人生に寄り添ってきました。(p194)

ジョンは、大勢のチャモロ人の患者たちと過ごすうちに、あることに気づきました。

「病気に対するこの島の人たちの反応は、僕たちのものとは違うんだよ。

病気、特にリティコ-ボディグに対して、チャモロ人はある種の冷静さと運命論的なところがあるんだ。

彼らの反応を表現するのに、それ以外の言葉は思いつかないよ」(p154)

その心境は、文字で表現しようとしても、わたしたちには理解できないでしょう。親が、兄弟が、親戚が、順番にこの病気を発症し、次第に弱っていくのを間近で見て、自分もその運命の檻の中にいて、決して逃れられないのだと思い知った人でなければわからない心境です。

このある種の諦観と覚悟によって、チャモロ人は恐ろしい病気の中でも尊厳を保ってきました。家族は、不平を言わずに病気の人を支え介護します。必死になって治療方法を求めるわけでもなく、残された命を静かに生き、運命を受け入れます。(p154,157,161,163,186-188)

たとえば、サックスが出会ったトマサは、すでに25年もリティコを患い、ずっと同じ部屋に閉じ込められて身動きも取れないまま生きてきました。彼女の父親も、8人のきょうだいのうち5人もリティコ-ボディグでした。

「意識を完全に保」ったまま「胃瘻管の煩わしさ、頻発する窒息症状、他人に完全に依存した生活にも、それが運命であると信じて恐れず静かに耐えて」いました。

それほどの苦痛の中でも、彼女はとても穏やかで、初めて訪問したサックスにお茶を差し出すよう、世話をしている娘に意思を伝えました。「こんな状態になっても、トマサは客をもてなす心を失っていないのだった」とサックスは書いています。(p186-187)

彼女が尊厳を保っていられるのは、家族や友人、近所の人たちの協力のおかげでした。いつも誰かしら枕元にやってきて何かを話し、イベントのときには皆が彼女の部屋に集まります。

トマサ自身はわずかしか動いたり話したりできないが、周囲の人々は彼女の人格を尊重しているし、彼らにとって彼女は家族やコミュニティの一員なのだ。

彼女は自分の家で家族やコミュニティの懐に抱かれ、もう遠くはないであろう最期の日まで、完全な意識を保ち、誇りと人格を失わずに生きていくの違いない。(p188)

その様子は、サックスがよく知っているニューヨークの病院や介護施設にいるALS患者とは対照的に見えました。

私はニューヨークにいる筋萎縮性側索硬化症が進行した患者のことを考えてみた。皆、病院や介護施設に入居していて、…あらゆる医療技術でサポートされている。

とはいえ、彼らは孤独で、その家族は意識してかせずにか、彼らを避けている。

進行した病状に耐えられず、患者が人格を保った人間であると考えるよりは、医療の対象として現代医療による最高の「延命処置」を受けているのだと考えたがるのだ。

こうした患者の多くは、医師からも敬遠され、救命患者リストから除外されてしまうこともある。

しかし、ここグアムのジョンとトマサの間には緊密な関係がある。そして彼女の最期のときには、家族と共にジョンも彼女の傍らで見守っていることだろう。(p188-189)

わたしたちの現代社会の文化では、難病や死という人生のネガティブな側面は、普通の暮らしをしている人から見えないよう、巧妙に覆い隠されているように感じます。

恐ろしい苦痛を伴う病気、残酷な虐待、性暴力の被害、亡くなった人の遺体。否が応でも人生の苦しみを意識させるそうした現実は、まるで存在しないかのように遠ざけられ、隔離され、医療関係者や介護福祉士などの一部の専門家の手に押し付けられているかのようです。

家族ぐるみで、地域のコミュニティぐるみで、当事者と専門家が手を取り合って、苦しみと闘う人を支え、サポートしようという空気はどこにもありません。当事者は厄介者、存在してはいけないもの、目に触れては気まずくなるものとして、タブー扱いされています。

一方、チャモロ人のあいだでは、子どもたちは必然的に幼いころから家族や親族のリティコとボディグを目にし、その世話を手伝います。恐ろしい運命を見えないところに遠ざけるのではなく、自分たちの共通の問題として受け入れ、助け合う文化と価値観があります。

表面だけ華やかに塗り繕い、いざ問題に直面するまで、死や苦しみを存在しないかのように扱うわたしたちの文化と違って、チャモロ人は、人が生き物である以上避けられない死と苦しみの運命を、目をそらさず直視しているのです。

それがきっと、「ある種の冷静さと運命論的なところ」につながるのでしょう。家族も友人も地域の人も、自分たちは同じ残酷な運命に立ち向かう共同体だとみなしているので、支えと世話を惜しみません。

トマサ以外の当事者たちもそうでした。

かつて村長を努めた「長官」は、とてもエネルギッシュな人でしたが、ボディグを発症して、家族の介助なしでは立ち上がることもままならなくなりました。

それでも彼は、家族に助けられる生活を屈辱的だと感じてはいませんでした。彼自身、若いころからリティコ-ボディグを抱えた親族を助けてきて、支える人、支えられる人双方の気持ちがわかっていたからです。

長官の子どもたちも、嫌々ながらではなく自発的に父親を介護していました。それで長官は、自分が家族の重荷になっているという後ろめたさや心配もなく、穏やかに運命に立ち向かうことができました。(p160-161)

年老いたヘススという人も、ボディグのため、体をほとんど動かすことができなくなっていました。しかし、家族や幼い孫たちに囲まれ、穏やかに過ごしていました。

ヘススは、自宅のポーチに座り、道ばたで遊んでいる子どもたちを眺めるのが好きでした。彼はずっと「もはや自分がその一部になることのできない人生を夢中になって見つめて」いました。

サックスはその様子から、劇作家ヘンリック・イプセンを思い出します。彼は脳卒中で失語症と半身麻痺になりましたが、窓際で生き生きした街の様子を見ていたいと願いました。「すべてを失ってもなお、世の中を観察する情熱は衰えなかった」のです。(p211-212)

こうした人々の生きた暮らしぶりを読むと、呪われた恐怖の島に生きる悲惨な運命の人々という印象が変わってきます。そこに住む人々は確かに過酷な運命を課せられています。それでも、その中でも人間らしい喜びや小さな幸せを感じています。

聖ドミニク病院には、最も悪性のリティコの患者が2人いて、50代なのに、もう自分で呼吸することさえできません。すでに辛い手術を乗り越えて人工呼吸器をつけており、常に苦しそうに喉をならしています。

サックスは二人を見て、「このような病状になっても果たして生命には価値があるのだろうか」と考えずにはいられませんでした。ところが、当人たちの考え方は異なっていました。

二人とも知的活動はまだ活発で、「たとえ筋肉が活動を止めても、生きていられるだけ生きていたい、機械につながれても生きていたい」という意思を表明していたのです。

尊厳が認められていること。家族や地域の人たちから大切にされ、敬われていること。

それによって、人はこれほどの苦しみの中でも生命に意味を見いだせるようになるのか、と考えさせられます。

わたしがこのグアム島の物語に対して感じたファーストインプレッション、すなわち「呪われた島」というイメージは、現代社会の価値観にほだされた偏見だったのかもしれません。

死や苦しみが巧妙に隠されている社会に住んでいると忘れがちですが、わたしたちも遅かれ早かれ病気になって死んでいく、という点ではグアム島のチャモロ人と何ら違いはありません。

病気の種類は違うかもしれませんが、誰もがいずれはひどく体の自由を奪われ、医療機器につながれて、刻一刻と襲いかかる苦しみの波に耐えながら死んでいくことになります。

そのとき、現代社会のわたしたちは最先端機器のそろった病院にいることでしょう。しかし、仕事に疲れ果てた医師や看護師からモノのような扱いを受け、家族から尊厳も認められず、孤独に放り出されているかもしれません。

他方のチャモロ人は、リティコとボディグに冒されながらも、住み慣れた自室で手厚く世話されています。前途有望な将来を投げうってまで移住してきた献身的な医師の往診を受けながら、愛する家族と地域の人々に囲まれながら死んでいくのです。

いったいどちらが、人として、納得できる人生の終わりなのでしょう。わたしたちが人間である以上、どこに住んでいても、それがグアムのウマタックでも、日本の東京でも、苦しみと死から逃れられないのであれば、いったい何が人生の充足感を左右するのでしょうか。

その原因はソテツにあるのか?

もちろん、どのような死に方をするにしても、リティコとボディグがひどく過酷な病気であることに違いはありません。グアム島のチャモロ人だけが、このような難病を抱えることになった原因はどこにあるのでしょうか。

リティコとボディグの原因と考えられたものは様々で、どの説にも一定のもっともらしい根拠があります。日本の水俣病のように、特定の地域で生じた明白な風土病であるにもかかわらず、原因探しがこれほど難航するとは、誰も思いませんでした。

数ある原因説の中でも、何度も研究が繰り返され、一度否定されてもニ度、三度と浮上を繰り返したのがソテツ説です。

ソテツは外見こそ種子植物のヤシに似ていますが、まったく別の原始的な裸子植物です。中生代には地上一面に広がり、恐竜の絶滅を経てなお生き残ってきた「生きた化石」の一つです。(p159,241,242,254)

サックスはソテツの強い思い入れがあり、悲劇的かつ英雄的な植物とみなしていました。悠久の時を生き、太古の世界という楽園を失いながらも、あらゆる環境に適応し、辛抱強くしたたかに生き延びてきたからです。(p243)

日本にも固有種であるソテツが九州以南に自生していますが、グアム島に生えているのはナンヨウソテツという、少し異なる種類です。

ソテツの実はいずれも猛毒ですが、日本の南西諸島を含め、世界各地で毒抜きして食糧にされてきた歴史があります。

ナンヨウソテツの実も、独特の味がする「ファダン」というでんぷん粉に加工され、救荒食糧、伝統食品、民間療法薬、「神の恵み」として活用されてきました。 (p162-167,170,253)

毒抜きしたソテツの実には炒ったクリのような風味と歯ごたえがあり、ファダンを使った料理には独特の粘り気が出るので、グアムの人々に人気がありました。(p142,162,165-167)

やがて、ソテツの研究が進むと、2つの有毒物質が含まれていることが明らかになりました。

1つ目の毒はサイカシン(ソテツの学名はサイカスCycas)で、肝機能障害を起こす発がん性物質です。2つ目はBMAA(ベータNメチルアミノレボアラニン)という神経毒でした。

ソテツの毒性が疑われたことには傍証もありました。八瀬善郎が調査した日本の紀伊半島など、世界の他の場所でもリティコ-ボディグに似た風土病が見つかり、それらの地域ではソテツを食用にはしていないものの、薬用にしていることが確かめられたのです。(p205,216,222)

また、BMAAの動物実験では、量が多ければリティコ、少なければボディグのような症状が現れることがわかって、研究者たちは色めき立ちました。しかし実験に用いられた量があまりに多すぎること、ソテツを毒抜きすればBMAAが大幅に減ることがわかり、研究は再び行き詰まりました。(p204-205,220-227)

しかし、ソテツ説は決め手を欠いていました。どうしても説明がつかなかったのは、ファダンを食べてから、発症するまでに長いブランクがあったことです。

あたかも「導火線」があり「ごく健康そうに見える人の身体の中で突然何かが爆発する」かに見えました。このような遅発性の毒物は前例がなく、むしろスローウイルスなどの感染症を疑う研究者もいました。(p158,172,196-197,225-231)

また、リティコとボディグを発症する世代のチャモロ人には、決まって網膜にかすかな病変があることも不可解でした。それは寄生生物であるウマバエの幼虫がつける跡に似ているといいます。(p322)

ほかにも、さまざまな奇妙な手がかりが見つかり、どの原因説にも、それを支持するような一定の根拠があるように思われました。この本を読めば、原因不明の複雑な病気を正体を探るのがいかに難しいかがよくわかります。

サックスの博物学的知識がたどりついた答え

サックスのグアム島の旅行記は、リティコ-ボディグの記述だけで占められているわけではありません。もともと彼は、「神経学に造詣の深いソテツ学者」ないしは「ソテツ学に造詣の深い神経学者」としてグアム島にやってきました。

彼はジョンに伴って患者を診察する傍ら、美しいビーチに潜ってサメが回遊するトンネルを泳いだり、植物学者と一緒にジャングルに分け入って珍しいシダを観察したり、自然のことを何でも知っているまじない師の親子の案内で隣りのロタ島のソテツを見に行ったりもします。

導管システムを備えた最初の植物である原始のマツバランを見つけて興奮し、ソテツの受精を観察しようと虫眼鏡を取り出し、あやうくソテツの球果を抱きしめて花粉まみれになりそうになるサックスの様子を読むと、思わず笑みがこぼれます。

その楽しそうな様子を読んでいると、窒息しそうなほど重苦しい生死の物語からしばし解放されます。サックス自身、そうやって心の安定を保っていたことが書かれています。(p195)

しかし、そのような寄り道、医学の本筋を外れた余談は、まったく無駄ではなかったことがやがて明らかになりました。

リティコとボディグの重い話の途中で、まるで幕間の小話のように、こんな話が挟まれていました。

ジョンに日本料理店に連れて行ってもらったときのこと。フグ毒についての話が盛り上がって、グアムで最も多い中毒はシガテラ中毒だとジョンが語ります。藻に含まれるシガトキシンが、食物連鎖で魚に濃縮され、その魚を食べることで起こる中毒です。

そのとき、突然店が停電します。なぜでしょうか。サックスはびっくりするような理由を知らされます。なんとグアムでは、木登りヘビが電柱に登ったり、変電機に入り込んだりして、日に二、三度停電するのが当たり前だというのです。

この木登りヘビ(ミナミオオガシラ)は、外来種として持ち込まれたもので、在来種を食い荒らし、この小さな島に何百万と増え広がっているそうです。多くの鳥がすでに絶滅し、オオコウモリも危機に瀕しているとのことでした。(p206-208)

何のことはない、脇道にそれた与太話のように思えます。しかし、もし推理小説を読んでいて、不意にこんな話が挟まれたら、何かの伏線だろうか、といぶかしむかもしれません。

事実は小説より奇なり。この本が出版されたのは1997年ですが、2000年代になって、サックスは環境生態学者ポール・コックスと共に、驚きの新説を発表します。

本書の文庫版の監訳者あとがきにも追記されていますが、リティコとボディグの原因は、島に生息するオオコウモリやフルーツコウモリにあった、というのです。(p363)

前述のとおり、ソテツの毒素の一つであるBMAAは、動物実験でリティコ-ボディグのような症状を引き起こすことが確認されたことがありました。しかし、実験に用いられた量が桁外れに多すぎること、加工されたファダンにBMAAは含まれていないことから一度は否定されました。

しかし、新たな説によれば、コウモリがソテツの実を食べ、その体内でBMAAが1万倍に濃縮されます。そしてチャモロ人はコウモリが大好物で、子どものときからそれを食べ続けていました。シガテラ毒の場合と同様、濃縮された毒素が人体に入り込んでいたのです。

一方、食用とされたオオコウモリは、乱獲によって激減し、食用とされなくなりました。この時期は、リティコ-ボディグが現れなくなった時期と一致しているといいます。

英語のLytico-bodig disease – Wikipedia を見る限り、それ以降に目新しい説は発表されていないようです。サックスの死後の2016年に動物実験の研究が発表されましたが、その内容は、このBMAA原因説を支持する結果でした。

わたしはよく、難解な問題を解き明かせるのは、ひとつの分野に特化した専門家ではなく、幅広い知識を持つ博物学者だと思っています。

サックスはグアムにただの医者として出かけたわけではありませんでした。「神経学に造詣の深いソテツ学者」であり、人々、文化、植物、動物すべてに等しく興味と関心を持って記録しました。そのすべてが、この驚くべき学説に結実したのです。

ではこれで、謎はすべて解けたのでしょうか。

それはわかりません。コウモリ説はかなり正しそうですが、ほかにも複雑な要素が絡んでいた可能性もあります。でも、今となっては確かめられません。

リティコ-ボディグは、歴史上のある時期に現れ、その後発生しなくなった病気でした。この本に出てくる患者たちも、みんなもう亡くなったか、生きている人がいるとしてもわずかでしょう。著者のサックスでさえ亡くなったのですから。

ジョンは、病気の解明が時間との戦いであることを承知していました。

「今僕たちが目にしているのは、ずっと以前に発生した原因による結果が遅れて出てきたにすぎないんだよ」。(p215)

「これは時間との競争でもあるんだ。僕たちが原因を見つける前に、病気の方が消滅してしまうかもしれないのだから……」。(p231)

コウモリ説が正しかったのだとしたら、時間との競争にはギリギリ間に合ったのでしょう。サックスをグアムに呼び寄せ、患者を紹介し、風土について解説したのはジョンなので、彼の執念が実を結んだといえます。

しかし、患者たちを治療し、その苦しみを和らげる、という意味では間に合いませんでした。病気の原因が明らかになったとき、もうすでにほとんどの患者は悲痛な人生を終えた後でした。しかも、原因が見つかっても、治療法まで見つかったわけではありませんでした。

「時について、その無限の苦しみについて考えさせられる」

サックスは、リティコ-ボディグのような特定の島で起こる風土病について、こう書いています。

孤立した環境でのこのような遺伝病は六世代から八世代、およそ200年ほど続いて消滅し、その記憶や痕跡も、未来へ向かって進む時間の流れの中にやがて消えていくのである。(p236)

この言葉は、もちろん、隔離された島の文化を背景にして起こる特殊な病気にこそ、最も当てはまります。しかし、広い意味では、わたしたちの時代に起こっている謎の病気もまた、同じなのではないのでしょうか。

リティコとボディグの歴史は悲劇的ですが、わたしたちもまた同じ運命の下に生きています。

チャモロ人は家族のほとんどがリティコとボディグで死んでいくのを見なければなりませんでしたが、現代のわたしたちは2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死んでいくのを見届けます。

さらに、リティコボディグが消えていくとともに、新たな無数の原因不明の病気が現れました。

アレルギーや自己免疫疾患、慢性疲労症候群、線維筋痛症、発達障害など、かつてはほとんどなかった問題を抱える人も急増しました。この異常事態の背景には、現代特有の病的な習慣や文化の蓄積があるはずです。

たとえば、数世代前から、抗生物質を乱用したり、過度な消毒が行われたり、子どもが自然と触れ合わなくなったりしたことが原因のひとつかもしれません。人体と共生してきた内なる細菌が失われたことが、数々の現代病に関係していると考えられています。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ
2015年の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたマーティン・ブレイザー教授の「失われていく、我々の内なる細菌」から、抗生物質や帝王切開などによってもたらされている腸内細菌(

ほかにも様々な多様な要因が含まれていると思います。しかし同時代の人々が共有する独特な環境と習慣が、特定の遺伝子をもつ人に異変を引き起こすという点で、現代病はリティコ-ボディグと大差ありません。

「今僕たちが目にしているのは、ずっと以前に発生した原因による結果が遅れて出てきたにすぎない」。ジョンのこの言葉は、現代病を抱えるわたしたちにも、そっくりそのまま当てはまります。

現代は多様な文化が見られると思われています。しかし、大量生産によって、世界各地の驚くほど多くの人が、遠く離れているのに同じ習慣を共有している時代でもあります。

たとえば、FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣には「4つの所得レベルごとの暮らし」という図が載せられています。所得レベルが同じなら、世界のどこに住んでいようが、所有している物や生活は大いに似通っています。

都市部での暮らし、農薬や抗生物質の乱用、加工食品やファストフードの蔓延、デジタル機器への依存、自動車の公害や、24時間明るい光害に満ちた社会は、わたしたちの時代特有の環境と文化です。

世界のまったく違う場所に住んでいても、同時期にこの時代特有の文化や習慣を共有する人々がいて、あちこちで謎の疾患が引き起こされているかもしれません。

その人たちは、いわば、同じ習慣や文化をもつ島に住む、同じ民族のようなものです。同じ習慣と文化によって新時代の「リティコ-ボディグ」を抱えるようになりますが、その原因を究明するのは簡単ではありません。

リティコ-ボディグは、オオコウモリを食べるなんていう奇妙な習慣を持った僻地の人たちに発症してしまった可哀想な病気、などとみなすことは到底できません。現代のわたしたちにとって、ファストフードや食品添加物が「オオコウモリ」でないと誰がいえるでしょうか。

100年後の人類が21世紀の生活を振り返ったとき、どうして過去の人々は、あんなにひどい奇妙な食習慣や生活習慣を続けていたのだろう?と思う日が来るかもしれません。それが今のわたしたちにとっては、どれほど当たり前で、普遍的な習慣であったとしても。

いったい何が異常な習慣で、何が現代特有の病気の主原因になっているのか。さまざまな学説はあるものの、時が経過してみないと事実はわかりません。リティコ-ボディグと同様、わたしたちの死後にようやく、何が原因だったのか突き止められるかもしれません。

作家ハーマン・メルヴィルはガラパゴス諸島の生き物を見たとき、「時について、その無限の苦しみについて考えさせられる」と述べたそうです。(p260)

わたしたちは、自己という主観を通してしか世界を見渡せないので、悠久の時の流れについて忘れがちです。自分が生きている時代を特別視し、過去のあまたの時代とは異なり、より進歩した優れた文明に生きていると思い上がるかもしれません。

しかし、今も昔も、わたしたちは果てしなく続く時の流れの中のちっぽけな旅人にすぎません。人類社会では、過去と同じことが、形を変えて繰り返されているだけです。

とれほど科学や医学が進歩したように見えても、わたしたちは依然として、死と苦しみという滝壺が待ち受けていることを知りながら、急流を下るしかない生き物なのです。「その記憶や痕跡も、未来へ向かって進む時間の流れの中にやがて消えていく」にすぎません。

リティコとボディグの物語を読むと、とても考えさせられます。複雑な気持ちになり、動転します。言いようのない恐怖に襲われ、落ち着かない気分になります。普段の自分が、いかに苦しみと死の問題から目をそらしているかを思い知らされます。

誰もがいずれ、苦しみと死に向き合う時が来ます。そのとき、尊厳を保って立派に生き抜いたリティコとボディグの当事者たちの足跡はどんな意味をもつのでしょうか。

どんな状況になっても、人はもてなす心や、愛する心を忘れずに生きられる、という希望を与えてくれるのでしょうか。それとも、そんなことを考える余裕もないほど苦しむだけでしょうか。

今は何もわかりません。きっと、いよいよ滝壺に落ちようとするときにならないとわからないのでしょう。

人を取り巻く運命の残酷さ、人の尊厳の奥深さ、悠久の時の流れにおける人の小ささ、そのすべてを、読む人すべてに突きつけてくるのが、リティコとボディグの物語です。

補足 :トラウマ障害の人がリティコ-ボディグから学べること

本文中で触れたように、リティコとボディグには、部分的にトラウマ障害と似通った特徴があります。

この補足では2つの点を取り上げます。(1)ドーパミン異常に伴うオン-オフ切り替えの障害に対処する、(2)世代間トラウマによって過敏性や脆弱性が受け継がれる。

(1)ドーパミン異常に伴うオン-オフ切り替えの障害に対処する

グアム島のボディグや、サックスが報告した嗜眠性脳炎の後遺症の患者は、Lドーパに劇的に反応します。Lドーパは、ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンなどの前駆体を供給する薬です。

この薬を投与されると、それまで無動状態だった患者が、突然飛び跳ねるように目覚めて、激しく多動になります。そして、薬の効果が切れるとまた死んだような無動状態に戻ります。(p140,200)

この極端なオン-オフの切り替わりは、神経が「病的に過敏な状態」にあることとも関係しています。あたかもハンドルを少し傾けただけで、右か左に最大限タイヤが回ってしまうようなものです。容易に神経が興奮し、中間状態というものがありません。(p226)

時に正反対の症状が現れるものの、根本にあるのは同じ異常であるという点も、発達性トラウマ障害に似ている部分です。

たとえばボディグの当事者には、筋肉が引きつってガチガチにひきつる症状が出る人もいれば、完全に虚脱してしまう人もいます。サックスが書いているように「一方が激しい筋肉の抵抗なら、一方は完全に無抵抗と、完全に正反対の病状」が現れます。(p155)

トラウマ障害の人も、神経がひどく過敏になり、過度に興奮する状態(逃走/闘争反応によるPTSD)と、限界を越えてしまいシャットダウンして虚脱する状態(凍りつき/擬死反応による解離)をジェットコースターのように行き来するようになります。

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原因は違えど、両者の極端な変動は、自分の意思でオン-オフをコントロールするのが難しいという共通性があります。

健康な人は、自分の意思でオン-オフをコントロールできます。たとえ疲れていて虚脱状態にあっても、自分の意思で「さあやろう」「立ち上がろう」と決めて、行動を始めることができます。

スイッチをオフからオンに切り替える、つまり行動を開始したり、意欲を起こしたり、といった機能は、実態のない「心の持ちよう」などではなく、ドーパミンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質による能力です。

何らかの理由で、この能力が破壊された人や抑制されてしまった人の場合、オン-オフの切り替えがうまくできなくなります。自分で行動を開始することや、意欲をもって何かを始めることが困難になり、怠けていると誤解されるかもしれません。

以前の記事で考えたように、不登校の子どもでも、似たことが起こっていると思われます。むろん嗜眠性脳炎の後遺症ほど重篤ではないものの、学校で経験した慢性的なトラウマにより、行動や意欲を起こす機能が抑制されてしまっているので、身動きがとれず、やる気も出なくなります。

しかし、この機能障害は、あくまでも「自分から」「能動的に」行動を起こすことができなくなる、というものです。「他人から」「受動的に」働きかけられたときは話が別です。たとえばこんな例がありました。

エステラは腕を伸ばしたままで頭を後ろにのけぞらせ、顔には恍惚とした表情を浮かべて銅像のように突っ立っていた。

放って置けば、エステラは微動だにせずいつまでも立ち続けているだろう。そして、その目はぼんやりと宙に向けられ、口からはよだれを垂らし続けるのだ。

ところが、私が話しかけたとたん、彼女は適切に、気転の利いた言葉さえ交えて返事をしたのである。誰かがきっかけを与えてくれさえすれば、彼女は明瞭に思考することができ、完璧な会話ができるのだ。(p153)

彼女は自分から思考することができませんでした。しかし思考のきっかけを与えてもらえると、次々に新しいことを考えて話すことができました。

わたしは、自分がこれの軽い症状を抱えていると思っています。わたしは「連想」は得意ですが「発想」は実に苦手です。

何かのきっかけがあれば、次々にアイデアがわき、話は弾み、文章も流れ出てきますが、一度思考が立ち止まってしまうと、自分からは動けなくなってしまいます。

軽度から中程度レベルのドーパミンの調節障害を抱える人にとって、こうした傾向は決して珍しいものではないと思っています。

また、本文中にも出てきたヘススに関する、こんなエピソードがあります。

私はノートのページを破って丸め、それをヘススに向かって投げた。すると、それまで座ったきりでまったく動けないように見えていた彼は、腕を跳ね上げると丸めた紙を正確に受け止めた。

傍らにいた幼い孫の一人は、ヘススのこの様子を見て、びっくり仰天したように目を見開いた。

私は丸めた紙を投げ続け、孫に向かって投げるよう、ヘススに言った。それからもう一人の子どもに、さらに別の子どもに。…筋肉が固縮状態のヘススはもはや無動ではなく、ボールを絶やさずに投げ続けた。(p213)

ヘススは、自分から能動的にボールを投げることはできませんが、誰かが投げてくれればキャッチできます。

ドーパミン不足状態の人も、自分から何かを始めようとすると動き出すことができず、何時間も無駄にしがちです。しかし、誰かが上手にきっかけを与えてくれさえすれば、逆に何時間も作業に没頭できることがあります。

これはつまり、自分ではオン-オフのスイッチが切り替えられないものの、誰かがスイッチを切り替えてくれたり、後押ししたりしてくれれば、オフからオンになれる、ということです。しかし今度はオフに切り替えられないので何時間も没頭しがちです。

次のエピソードはやはりヘススについてですが、非常に面白い示唆を含んでいます。

週に一度、ヘススは老人センターに出かける。そのためには迎えの車に乗せてもらわなければならない(「死体のようにね」と彼は言う)。

しかしセンターに着いてトランプゲームのテーブルに座らせてもらえば、ヘススは素早く複雑に展開するジンラミーというゲームをすることができる。

…最初のカードがテーブルに置かれた瞬間、彼は突然生気を取り戻して自分もカードを切り、新しいカードを引き、ゲームを続けることができるのだ。(p213-214)

不登校の子どもや引きこもりの人が、何もやる気や意欲が出ないのに、ゲームを始めたら何時間も熱中できる様子を思い起こさせます。ゲームは次から次に外発的な刺激を与えてくれるからです。

サックスによると、必要なのは、外発的なリズムです。ドーパミンが働かず、自分からは動き出せなくなっている人は、一種のリズム切り替え障害と呼べる状態にあります。

自分から動き出すことはできませんが、外部から特定のリズムを与えてやると、テンポよく動作がつながり、次から次に連続して行動を繰り返すことができます。

凍り付いたような不動の患者を動かすには、誰かが患者と一緒に歩くか、リズミカルで音楽的な拍子が必要である。

…そして押し黙って動かないパーキンソン病の患者が話したり動いたりはできないだろうと思われた場合でも、音楽、歌、踊りにはとてもよく反応することも。(p214)

以前の記事で詳しく書いたように、性犯罪被害のトラウマを抱え、「凍りついた」解離状態にある人たちでも、まったく同じ現象が観察されています。死んだような虚脱状態にある人が、メロディによって生気を吹き返し、メロディがやむと元に戻ってしまうのです。

このことは、嗜眠性脳炎やボディグの「凍りつき」と、トラウマ障害の「凍りつき」が、原因は違えど、同じメカニズムを共有していることを示す証拠の一つです。

本書の中で、オン-オフの切り替え障害が、ある種「爬虫類」的だとされているのも興味深い点です。トラウマ障害において凍りつきを引き起こす不動系はいわゆる爬虫類脳のシステムだとされているからです。(p320)

凍りつきを溶かすメロディやリズムは、必ずしも聴覚的なものでなくても構いません。目に見える視覚的なリズムや、身体で感じられる触覚的なリズムでも構いません。

パーキンソン病の患者が歩くのに床や地面の模様が役に立つこともわかっている。

平らな地面の上はほとんど歩けない患者が、複雑な障害物があったり、凹凸のある地面は簡単に歩けることもよく知られている。(p214)

この現象は、グアム島のボディグでも再現されました。サックスは、まったく打ち合わせもなく、ユーフラシアという患者にロックガーデンを歩かせることができました。

私は彼女のねじ曲がった両腕をとって、声をかけながら小幅に後退しつつ部屋から出て庭まで彼女を導いて行った。

庭には石を小さな丘のように積み上げたロックガーデンがあり、さまざまな出っ張りや傾斜がある。私はこのロックガーデンを指差した。

「さあ、これに登って。一人でだよ、さあ!」

ジョンや修道女たちが驚愕の表情を浮かべる中、私はユーフラシアの手を離した。

すると、それまでデイ・ルームのバリアフリーの平らな床の上ですらほとんど歩くことのできなかったユーフラシアは、脚を高く上げて岩の上に踏み出すと、もう一歩、もう一歩、と苦もなく頂上まで登った。

そして微笑むと、登ったときと同じように楽々と降りてきた。ところが地面に降り立ったとたん、彼女はまったく動けなくなってしまったのだ。(p199)

嗜眠性脳炎の患者の一人は「世界が階段でできてさえいればねえ!」と言ったそうです。視覚的、感覚的なリズムは、凍りついた人が運動のリズムを取り戻す助けになるのです。(p199)

もしかすると、わたしが町中のありふれた平らな道を歩いてもすぐ疲れてしまうのに、森の中の凹凸ある地面は全然疲れることなく、何時間も歩き回ったりできることとも関係しているのかもしれません。

これらの例から、凍りついて虚脱状態になった人が、生活の質を上げるためのヒントがたくさん見つかります。

L-ドーパをはじめ、リタリンやドーパミン再取り込み阻害薬などの薬物は、最初は効くかもしれませんが、良い解決策とは言い難いでしょう。極端なオン-オフのような不自然な変化をもたらし、負担も大きくなるかもしれません。

一方、以下のよう方法は、より自然で負担も少ないでしょう。

・家族や友人に協力してもらったり、アプリを使ったりして、外部から刺激を与えられて行動を開始できる仕組みを作る。
・一度始めれば熱中して続けられるような生産的な活動を見つける。
・音楽やリズムの力を借りる。(作業用BGMで仕事が捗るのは、この応用のひとつといえる)
・平坦な場所ではなく、階段や自然のアスレチックフィールドを歩くようにする。

トラウマ障害の当事者の場合、オン・オフを切り替えたり、行動を開始したり能力は、単に抑制されているだけで、回復不能なほど損なわれてしまったわけではないはずです。工夫によって改善する余地が大いにあります。

この能力は脳の尾状核や前帯状皮質が関係しているのかもしれません。詳しくは以下の記事も参考にしてください。

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(2)世代間トラウマによって過敏性や脆弱性が受け継がれる

リティコ-ボディグの原因は、実にさまざまな可能性が検討されましたが、その中でも興味深く感じたのは、何らかのトラウマによる脆弱性が、遺伝子のエピジェネティクスによって受け継がれていたのかもしれない、という説です。次のような説明があります。

家族に現れる遺伝病の中には、通常のメンデルの遺伝法則には従わないものがある。この場合はミトコンドリアのDNAの突然変異によって起きる可能性がある。

…ミトコンドリアDNAはもっぱら母から子へ伝えられ、父から子へ伝えられることはない。

そこでウィーダーホルトたちは、1670年から1710年の間にチャモロ人が経験した危機的な状況下でミトコンドリアDNAの突然変異が起こり、その後の世代、特に特定の家族に広まったのではないかと考えた。

この期間、チャモロ人の男性は実質的に絶滅し、グアム島の人口はわずか数百人の女性にまで減少したのである。

こうしたミトコンドリアの突然変異を起こした人の神経は、過敏になった結果として、通常の人にとっては良性の環境的な要素であってもリティコ-ボディグのような致命的な神経疾患を起こすのではないだろうか。(p324-325)

簡単にいえば、これは環境と遺伝の複合的原因説です。

過去にチャモロ人が遭遇した民族的トラウマについては本文中でも触れました。すべての男性が虐殺され、わずかに残された女性や子どもも虐待された出来事がありました。その後の歴史でも拷問や飢餓が繰り返されました。

このような悲惨な体験によって、遺伝子に突然変異が起こり、エピジェネティクスによって後に世代に受け継がれたかもしれません。特に島での閉鎖的な婚姻関係による濃縮も合わさって、変異が受け継がれやすかった可能性もあります。

このような現象は、世代間トラウマの研究によって裏付けられています。トラウマというより、生物が危機的な状況を乗り切るために起こす脅威への適応に近いものです。親が経験した危機は遺伝子の修飾情報として保存され、再び同じ危機が起こる可能性に備えて、子どもにも受け継がれるのです。

植物もトラウマを記録する―逃げられない環境ゆえに発達する受動的な生き残り戦略
ダニエル・チャモヴィッツの「植物はそこまで知っている」から、植物もまた感覚を感じ、トラウマを記録するということ、そのメカニズムは人間とよく似ていること、トラウマとは生物学的にいえば

そうして受け継がれた特有の脆弱性や過敏性が、サイカシンやBMAAのような毒素に過剰に反応して、リティコとボディグのような常軌を逸した病気が誘発されたのでしょうか。

本当のところはわかりません。リティコとボディグの原因は、サックスのコウモリ説だけでも十分に説明できるようにも思えます。それ以外に、遺伝的な背景要因が関係していたのかどうかは、もはや患者も消えつつある今となっては確認しようがないでしょう。

しかしながら、幼少期のトラウマや、親から受け継がれた世代間トラウマが、深刻な生物学的症状を引き起こしうることは、近年の研究から裏付けられています。

リティコとボディグは、まるで隠された時限爆弾の「導火線」があるかのように、症状が突然現れる、という特徴がありました。

小児期の逆境が引き起こす症候群についても、まったく同じように「何十年ものあいだ静かな時限爆弾のごとく」水面下で進行するという表現が使われていました。

また小児期逆境の影響があると「病気を引き起こす他の要因が通常よりも危険度を増す」、言い換えれば、普通の人なら許容できる量の化学物質、環境毒素、ウイルス、感染、ストレスでも、病気になりやすくなってしまう、とのことでした。

こうした説明からすると、過去の世代から受け継がれた体質のせいで、通常よりもソテツの毒素の破壊的な影響が強まった可能性もないとは言い切れません。

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トラウマの生理学的な研究が進めば、過去に経験した逆境が、当人や子どもにどのような脆弱性や過敏性をもたらし、成長とともにどんな影響が及ぶのか、もっと具体的な点が明らかになることでしょう。