この記事は、以下の記事の補足です。
本文では、解離は回避型寄りの愛着スタイルに伴う反応であり、PTSDは不安型寄りの愛着スタイルに伴う反応だと考えました。そして、たとえば境界性パーソナリティ障害は後者にあたると書きました。この分類に従えば、他のさまざまな病態も説明することができます。
たとえば、回避型の愛着スタイルに多い強迫性パーソナリティ障害(批判的な完璧主義者)、反社会性パーソナリティ障害(犯罪者)、自己愛性パーソナリティ障害(尊大で横柄な人)、ジゾイドパーソナリティ障害(極めて孤独を好む人)などは、人間味のある感情や記憶を解離しているために、冷徹で批判的、尊大な性格になります。
これらは、解離傾向が強いため、本文中の分類では解離性障害と似たような場所に位置するとみなせます。
しかし、上記の各種パーソナリティ障害と解離性障害では、ずいぶんと症状の現れ方が違っているように見えます。これら各種パーソナリティ障害は解離傾向の強い男性に多く、解離性障害は解離傾向の強い女性に多いという違いがあります。
男性と女性とで解離症状の現れ方が違うのはどうしてでしょうか。
男性の解離性障害は少ないのか?
一般に、解離性障害は女性に多いとされていますが、男性の解離性障害は、症状の表れ方が異なり、家庭内暴力や刑事事件の加害者となって、病院ではなく刑務所などに存在していることが多いのではないか、と言われています。
女性の場合に解離性障害や解離性同一性障害が多いのは、意外にも、女性では解離傾向が強いためではなく、PTSD傾向が強いせいかもしれません。
そもそも、女性のほうがPTSDになりやすいことはよく知られていますが、PTSD傾向と強く関係している境界性パーソナリティ障害になりやすいのも女性です。
女性は、不安型の愛着スタイルに起因するPTSD、境界性パーソナリティ障害などになりやすいため、解離傾向が強い場合でも完全にフラッシュバックを抑えられず、幻聴・幻視などの形で軽微なフラッシュバックが起こる解離性障害や、人格がまるごとフラッシュバックする解離性同一性障害になりやすいのでしょう。
女性の場合の解離は、もともとPTSD傾向による脳の興奮があり、その上でそれを押さえ込むかのようにして解離が生じるので、より強力な全身を巻き込む解離に発展するのかもしれません。
小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ) によれば、女性のほうがPTSDになりやすいことには生物学的な理由があります。
女性はおそらく胎児を守る働きのために、普段から男性よりも免疫反応が強い傾向があります。しかしこれは、ストレスに対して男性より強く反応しやすいことを意味しています。
女性はエストロゲンの働きで最初から糖質コルチコイドの値が高い。
「通常、健康でストレスのない女性はコルチゾールが多く分泌されます」とフェアウェザーは説明する。
ところが、女性ーとくに少女ーがストレスとなる出来事に出くわして炎症反応がコントロールできなくなると、男性には起こらないことが起きる。
糖質コルチコイドの分泌量が減るのだ。つまり、女性の体は炎症を抑制できなくなる。(p146-147)
このコルチゾールというのは、身体のストレス反応に終止符を打つホルモンです。PTSDではコルチコイド値が高く、解離では低いことが知られています。
女性はもともと、エストロゲンの影響でコルチゾール値が高く、ストレスに敏感に対処しやすいつくりになっています。つまり男性よりPTSDになりやすいといえます。
しかし敏感であるがゆえに、慢性的なストレスにさらされると過負荷がかかってしまい、反転して「分泌量が減」ってしまいます。重い解離に移行するということです。
コルチゾールの分泌量が減ると、危機が去ってもストレス反応が永遠に終わらなくないので、慢性的なトラウマ障害が引き起こされてしまいます。
いっぽう男性は、テストステロンの分泌量が多く、免疫システムが抑制されやすいので、ストレスに過敏に反応しにくいようです。よって女性のように神経系が過負荷になってシャットダウンしてしまう可能性が低くなります。
ですからこの研究は、男性より女性のほうが、より重いPTSDや解離になりやすい生物学的理由を示唆しているといえます。
また、CRHR1というホルモン調節遺伝子を持つ男性は、女性よりうつ病や不安障害にかかりにくいといった研究もあります。(p148,159)
こうした研究からすれば、男性は生物学的なつくりの違いからくる複数の要因によって、女性よりもPTSDになりにくく、トラウマに遭遇しても部分的なこころの解離だけが生じやすいのかもしれません。
そのため、しばしば過度に理性的だったり、人間味のある感情が乏しかったりする、強迫性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、ジゾイドパーソナリティ障害などになりやすいのだと思われます。
生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、解離傾向と関係している回避型の愛着スタイルについて、こう書かれています。
回避型の子どもは将来、暴力や非行、いじめ、反社会的行動など、破壊的な行動上の問題を起こしやすいことが長年の研究で裏付けられている。優しさや甘えを求めない代わりに、力で相手を支配し、ねじ伏せようとするところがある。
…幼い頃に認められる回避型は、成長して…むしろ自己愛性パーソナリティ障害や反社会性パーソナリティ障害、ジゾイドパーソナリティ障害に発展するほうが典型的である。
この三つのパーソナリティには、大きな共通項がある。それは、共感性が乏しく、クールで、相手の気持ちや痛みに鈍感だということだ。(p100)
そうした人たちは、普段はほぼ完全に感情を抑制していますが、ときどき突発的に激しい自己愛的な怒りの爆発を起こしたり、意識が飛んで暴力を振るったりする際に、フラッシュバックや人格交代のような現象が生じ、家庭内暴力や犯罪事件につながるのでしょう。
ふだんは厳格で、ときどきカッとなって激怒するような、年配の頑固な男性のステレオタイプは、解離傾向による感情の解離が強く、PTSD傾向によるフラッシュバックをかなりの程度押さえ込めている状態だといえます。
文化のストレスの男女差
このような症状の性差は、生物学的なホルモン分泌の違いというよりも、「周囲の文化的行動の取り入れ」に依存し、むしろ文化的ストレスの男女差が反映されているのではないかと思われます。
というのも、ウリ・ニーズィのその問題、経済学で解決できます。に載せられている調査によると、わたしたちの社会で男性と女性の生物学的な性格の性差と思われているものは、ほとんどすべて文化的な影響だからです。
世界のほぼあらゆる地域が男性優位の社会であるため、男性は「男らしく」て外向的、女性は「女々しく」て内向的だと思われがちです。
しかし、この本によると極めて男性優位で女性は男性の所有物とみなされるタンザニアのマサイ族の文化における男性は、極めて女性優位の社会であるインドのカーシ族の女性と極めてよく似ていました。
マサイ族の男性とカーシ族の女性はどちらも極めて「男らしく」、マサイ族の女性とカーシ族の男性はどちらも「女らしい」性格でした。むしろ、マサイ族の男性よりカーシ族の女性のほうがより競争的で「男らしかった」ほどです!
この調査は以下の記事でも触れられています。
私が、大嫌いな「女性活用」にこだわるワケ | 育休世代 VS. 日本のカイシャ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
こういった現象に対して、「オスは本能的に狩りをするものだ」と生物学的説明をしたい人もいるでしょう。
でも、有名な論文で、男性と女性のどちらが競争に積極的に参加するかを、父系社会であるタンザニアのマサイ族と母系社会であるインドのカーシ族で比べると、逆の結果になるというものがあります(Uri Gneezy & Kenneth L. Leonard & John A. List, 2009.)。
人間の脳は極めて可塑性に富んでいるので、男女に生物学的男女な違いや適性があるとしても、現実の人間はもっと多様であり、環境によって様々な役割に適応できます。男性脳、女性脳という考え方のほとんどは文化的なパイアスです。
この調査では父系社会と母系社会の違いもわかり、母系社会のほうが協調的かつ共感的であることもわかりました。
つまり、生物学的な影響があるのも事実です。文化における性の役割が正反対の社会であろうと、男性が子どもを産み育てられるわけではありません。
子育てのときに分泌されるホルモンは女性では主にオキシトシン、男性ではパソプレシンで、これが母親らしさと父親らしさの違いをわけています。男女それぞれに多いホルモンも異なります。確かに生物学的な役割の違いが存在しています。
しかし、内向性と外向性などの性格形成により強い影響を持っていたのは、明らかに文化のほうでした。
WORK DESIGN:行動経済学でジェンダー格差を克服するという本もまた男女の性差についてのさまざまな研究を調査し、このマサイ族とカーシ族についての研究にも触れていますが、結論として次のように要約しています。
その障害とは、男女には性差があるという思い込みだ。その種の議論は、たいてい誇張されていて、エビデンスを欠いている。
…男女の価値観や行動パターンの違いを生む原因がなんであれ、国によって状況が異なることを考えると、その違いは先天的な要因だけでは説明がつかない。
なるほど、さまざまなホルモンとある種の行動の間に関連が見いだされていることは事実だ。
第8章では、テストステロン(男性ホルモン)とリスクへの積極性の関連を指摘した。スウェーデンの大学生を対象にした研究によると、子どもがリスクに対して積極的かどうかは、母親の胎内で浴びたテストステロンの量の影響されるという。女性のリスクに対する積極性が月経周期に影響されることもわかっている。
しかし、男女の行動の違いがどのくらい先天的な要因で決まり、どのくらい後天的な要因で決まるのかを科学によって明らかにするのは難しそうだ。(p237-238)
とすると、解離の症状の性差も、先天的な生物学的な影響だけでなく、後天的な文化の影響が色濃く出ている可能性を考えなければなりません。
解離は、生物にもともと備わる防衛機制であると同時に、文化や環境によってさまざまな現れ方をします。防衛機制であるということはつまり、ストレスに対応して生じるということなので、ストレスのかたちが違えば、それに対応して生じる解離のかたちも変わります。
わたしたちの社会では、女性の場合は生き方や尊厳そのものを抑圧されやすいので、こころとからだ全体を巻き込んだ解離になりやすいのに対し、男性の場合は行動は自由である反面、感情や本音を抑圧するよう強いられるので、限定された解離に陥りやすいのではないか、という仮説を立てられます。
これはちょうど、定型発達者の解離と自閉スペクトラム症の解離が異なるのと同じです。感じるストレスの質が違っている集団では、それに対応して生じる解離の症状も変わります。
「性対象」たる女性
前述のジェームズ・ギリガンは、男が暴力をふるうのはなぜか―そのメカニズムと予防の中で、男女のジェンダー役割の非対称性、つまり、わたしたちの社会において、男性と女性では求められる役割が異なっていることが暴力行為の性差につながっていると考察しています。
男性が女性よりも暴力的な理由を理解するためには、家父長制の文化において男女が生まれたときから割り当てられる、しかも文字通りあらゆる社会制度によって、自分たちの生涯を通じて、それに従うことを強力に訓練される、きわめて非対称的なジェンダー役割を理解することが必要となる。(p97)
ギリガンは、多くの文化に見られる、男女の典型的なジェンダー役割を、次のように簡潔に要約しています。
こういうこと全体から中心的に見えてくることは、家父長制社会においては、男性は「暴力対象」の役割を与えられており、女性は「性対象」の役割を与えられているということだ。
つまり、男性のみが戦争で戦う役割を割り当てられ、それについて選択の余地は与えられない。
…女性は自分自身の選択によって、性的な欲望や活動を持つことを許されておらず、それは結婚以前にも、結婚していても、(文化によっては)結婚以降でさえも許されず、その代わり夫の性対象にならなければならない。(p101-103)
男性は有無を言わさず「兵士」であることを求められ、女性は有無を言わさず「性対象」であることを求められる、というこの見方は、わたしたちの時代には極端に思えるかもしれません。
しかしよくよく考えてみると、いくらか形を変えているにせよ、人類史の長きにわたって保持されてきたこのジェンダーイメージは、わたしたちの社会でもほとんど変化していないことに気づきます。
ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、現代社会で、男性と女性とでは、「恥」という概念が異なっている可能性が示唆されています。
私は現代の公開羞恥刑において、一つ大きな謎とされていることについても尋ねてみた。それは、「あまりに女性に厳しすぎるのではないか」ということだ。なぜ、異常なまでに女性に厳しいのか、それが知りたいと思っていた。
ジョナ・レーラーが攻撃されている時には、性暴力に関わる言葉は使われていなかった。ところが、ジャスティス・サッコやアドリア・リチャーズの場合には、即、「レイプするぞ」という類の脅迫の言葉を浴びせる者が現れた。(p227)
21歳の女性ハッカー、メルセデス・ヘイファーはそれに応えてこう語っています。
「4chanユーザーは、標的にした人を貶めたいのです。わかりますか。我々の文化では女性を貶めるとすれば、おそらくレイプを上回るものはありません。
男性が標的の時に、レイプという言葉を使わないのは、レイプが男性を貶める手段となることはあまりないからです。
男性の場合なら、失職がその代わりになるでしょう。我々の社会では、男性は働いているものという通念があるからです。
失職をすると、男性は存在価値が大きく下がったように感じてしまいます」(p227-228)
女性にとって最も不名誉な辱めは性被害であり、男性にとって最も不名誉な辱めは失業である、という認識があるとされています。(現にハーバード大の研究によれば離婚の最大の原因は夫の雇用ステータスなのだそうです)
先ほどのジェームズ・ギリガンのジェンダー役割の考察と照らし合わせてみると、昔も今も女性はからだを捧げて献身する「性対象」であることが求められていて、男性は感情だけを殺して仕事に就く「兵士」であることが求められているということになります。
そして男性は、仕事という任務につく「兵士」でなくなる失業が最も不名誉な恥であり、女性は辱められて「性対象」としての価値を失うことが最も不名誉な恥だということになります。
女性が社会で「性対象」としての役割を負わされているというと気分が悪くなりますが、あふれるセックス産業やポルノを見れば、現代社会ではむしろ、その傾向が加速しているのは一目瞭然です。
アニメや映画、マンガ、ゲームなどの娯楽に登場する女性は、必ず性的に魅力的であるよう描かれます。太った女性、美人でない女性、適齢期を過ぎた女性などのキャラクターがいったいどれだけいるでしょうか。
ゲームに登場する女性キャラはいかにして性の対象として描かれているか? – GIGAZINE
小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ) は、おもに生物学的な理由から女性がトラウマの影響を受けやすい理由を考察していますが、文化的なストレスの影響も無視できないと述べています。
女の子のほうが「魅力的ではない」「セクシーではない」あるいは「はしたない」「太っている」「胸がない」といった批判を受けやすい。
そればかりか、女性は一生を通じて病気にかかりやすく、男性と同じだけ働いても給与は低く、子育てや介護に時間を取られてキャリアを築くことが難しい。
そして成功した女性は、積極的というよりも強引、強いというよりも目障りだと見なされることが多い。
女の子はそうした差別が蔓延しているのを見て育つ。それだけでも免疫システムにダメージを与える慢性的なストレス要因となり、エピジェネティック変異や疾患の引き金となる。(p149)
社会全体が、無意識のうちに、さも当たり前のように、女性を「性対象」として扱っているので、ただ女性に生まれただけで、自分でも気づかないまま、男性にはない無言の慢性的なストレスにさらされることになります。
女性はまた性被害に遭わないよう、ふだんから意識的であれ無意識的であれ、不用意に夜道を一人で歩いたりしないように、電車内で男性に近づいたりしないよう、生活全般において、振る舞いを抑制する必要に迫られます。
そこではきわめて明らかなことに、女性は性対象として見られている。というのもレイプの被害者の圧倒的多数は女性だからである(ジェンダーの不均衡は、近親姦にも当てはまる)。
実際、レイプの被害者であることは、性対象であるということのみを示すもっとも極端な例である。定義からしても、レイプの被害者の主観的な意志や願いは、加害者によって無視される。
…家父長制と呼ばれる暴力の文化においては、性対象であるとは女であることを意味し、その逆に女であるとは性対象であることを意味する。(p105)
文字通りの傷なら取り合ってくれる人や同情してくれる人がいても、性被害の場合はそもそも誰かに打ち明けること自体が二次的な心の傷になります。裁判に訴えても、大抵の場合、ただでさえ傷ついているのにさらに公衆の面前で精神的に辱められるだけです。
セクハラ被害や性被害に遭っても、だれにも言えない、言っても取り合ってもらえないか、逆に悪者にされる、言ったところでどうにもならない、自分の心の中だけに封じておかなければならない、そんな悩みはほぼ女性特有のものです。
だれにも言えない、自分の心だけに秘めて置かなければならない、という抑制が、そもそもの解離の原因です。
女性であるというだけで、成長期にそうした状況を男性よりはるかに経験しやすくなります。
男子学生は満員電車に乗ることに何の抵抗もありませんが、女子学生はそうではありません。本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか の中で、アリゾナ州立大学のティファニー・プレル教授はこう言っていました。
「女は常に用心しているし、安全でいられるよう心がけているから」。
…「夜中に一人で駐車場にいるときは、鍵束を手に握って、使う鍵を人差し指と中指のあいだから出しておくの。それがきっと身を守る唯一のチャンスだから。男の人はそんなこと考えもしないんでしょうけど」(p111)
これは、はっきりとした文化的ストレスの性差のほんの一つにすぎません。
文字通りセクハラや性暴力の被害に遭わないとしても、社会から「性対象」として見られていること自体が、無言のうちに慢性的に加えられる侵襲体験になります。
同じ本の中で、「旅への情熱」という本を書いたレベッカ・ソルニットの言葉が引用されていました。
「私がたどってきたウォーキングの歴史を通じて、主な登場人物は……男性だった。そろそろ、女性がなぜ人で歩くことをしなかったのか、考えてみるときが来たようだ」
これを合図にするかのように、ここから、この本のなかで最も心揺さぶられる場面かが展開していく。
19歳を過ぎて初めて、女性であることが引き起こす「自由がないことの重圧感をおぼえた」彼女は、「夜には家に閉じこもるよう忠告されていた」。
そこから得た教訓は、暗くなってから歩く「自由を主張するためには、社会のあり方を変えようとする前に、自分自身や男たちの行動をコントロール」する必要があるということだった。(p389)
人類社会において、ただ女性である、ということだけで、「自由がないことの重圧感」にさらされていることがはっきり読み取れます。
他の人の気持ちや場の空気に敏感なHSP(Highly Sensitive Person)の女性にとっては特にそうでしょう。HSPを提唱したエレイン・アーロンは、敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。 の中でこう述べています。
おそらく性差別の影響をいちばん受けているのはHSP女性ではないだろうか。
というのは、性差別的な言葉、商品広告に女性の体を使うこと、学校や職場での扱われ方の違い、レイプされないように、あるいはレイプされたいと思われないように注意することなど、女性であることにまつわるネガティブなメッセージをよの深くとらえてしまうのは彼女たちだからだ。(p172)
レイプ、近親姦、セクシャル・ハラスメント……。もううんざりするほど聞かされてきたことだが、これらはいまだにあなたの心や男性観に影響しつづけている。
ここでもHSP女性は潜在的な危険にとても慎重になるので(一度危険を経験したのならなおさら)、社会に出る自信がもてなくなる。(p174)
現代社会において、敏感な感性を持つ女性たちは、いわば、常に、自分という存在全体が辱められる危険にさらされているようなものです。事実、性被害に遭うと、こころとからだ全体が解離されます。
解離性障害の女性は、こころだけでなく身体的にも無活動に近いうつ状態に追い込まれます。その結果、病院を受診します。
「兵士」たる男性
他方の男性は、性被害を恐れて夜道で気をつけたりはしませんが、今も昔も、恐れや不安という感情を殺して、勇敢に戦う「兵士」であることを生まれたときから社会によって強いられています。
現代社会における戦いとは仕事であり、失業しないよう職場で自制を働かせ、感情を抑制して振る舞う必要に迫られます。
会社で自己抑制を働かせ、不平や不満を言わず、疲れても休まず出勤し、上司に従うことが求められるでしょう。その場合、男性が抑制する必要に迫られるのは、からだの行動ではなく、こころの本音です。
これは現代社会の男性に対する根深いジェンダー教育の反映でもあります。「男は泣き言を言ってはいけない」「男の子は泣いちゃだめ」という、いわゆる「男の子の掟」の反映です。
興味深いことに、敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。 にはこう書かれていました。
“Real Boys(真の男の子)”の著者である、ハーバード大学の心理学者ウィリアム・ポラックは、私たちの社会のり男の子を20年にわたり研究している。
彼は、出生時においては女児より男児のほうが感情表現が豊かだと指摘している。しかし小学校に上がるころには、ボラックがいうところの「男の子の掟(Boy Code)」によって強化された性的拘束衣によって、この表現力は失われてしまう。
この掟によれば、男の子がいちばんやってはいけないことは、感情をありのままに表現することだ。(p76)
本来、男性は生物学的に女性より感情表現が豊かなのだとしたら、男性が感情を見せなくなるのは、男性優位の社会を維持するため、男性は女性より強くなくてはならない、という文化的な抑圧がかかるからではないでしょうか。
つまり、男性優位の社会で理想とされる男性像は、身体的には女性より活動的に振る舞い、感情的には女性より打たれ強く、弱音を吐かず、涙を見せない男性であり、男の子たちは見えない文化的圧力により、知らず知らずのうちに生物学的な性差を超えて適応していきます。
そうすると、男の子たちは身体的には抑制されず、ただ感情的に抑制されて育ちます。そのストレスに対応して解離が生じたとき、からだの行動は抑制されません。しかし、こころの本音や、身体が疲れているという感覚は抑制されます。
からだは抑制されず、こころだけが抑制されると、失感情症や失体感症といった、感情や感覚の麻痺が生じます。
すると、からだは元気なので病院に行くことはありませんが、人間味のある感情が失われて批判的になった自己愛性パーソナリティ障害、感覚が麻痺して平気で犯罪を行なう反社会性パーソナリティ障害などのかたちで解離症状が現れるということになります。
失感情症や失体感症といった感覚の麻痺のために過労になりやすく、そのせいで強い身体症状を抱えることもありますが、女性に多いからだとこころ全体を巻き込んだ複雑な解離症状にまで発展することはまれかもしれません。
敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。 は生まれつきの感受性の強さであるHSPについての本ですが、HSPの性差についてこう書いています。
敏感さをもって生まれる男性は女性と同じくらいいるのだが、HSPの自己テストでは、質問からどれほど性的な偏見を取り除いても成人女性のほうが高得点を出してしまう。
敏感さを評価する自己テストに答える男性はどうしても男らしくないと思われることを避けてしまうようだ。(p75)
以前の記事で書いたように、感受性の強さは解離性障害のリスクのひとつと思われますが、もし「敏感さをもって生まれる男性は女性と同じくらいいる」のなら、生物学的には解離性障害を発症する男性が女性と同数程度いても不思議ではありません。
しかし、文化的影響のせいで、男性と女性とでは解離させるストレスの内容が異なっていて、症状に性差が出てしまうせいで、見かけ上、女性ばかりが解離性障害になっているような結果が出てしまうのでしょう。
交感神経系優位の男性、不動系優位の女性
全体の傾向としてみれば、わたしたちの社会では、「魂の殺害」である性被害のようなストレスにさらされやすいのは女性であり、感情を押し殺してあくせく働くストレスにさらされやすいのは男性です。
本文で扱ったとおり、生物のストレス反応は、危機に直面するとまず「闘争か逃走か」という能動的な反応が生じ、それが不可能な場合に「凍りつきか麻痺か」という受動的な反応が生じます。
ここまで考えてきた文化ストレスの性差は、男性においては「闘争か逃走か」が引き起こされやすく、女性においては、その一歩先の「凍りつきか麻痺か」が引き起こされやすい文化的素地があることを物語っています。
男性はこころだけを抑制した「兵士」になるよう強いられるのにたいし、女性はからだを含めた存在全体を抑制された「性対象」となるよう強いられます。
こころだけを抑制される場合、からだの動きは拘束されないので、「闘争か逃走か」というストレス反応をつかさどる交感神経系が働くことになります。ストレスに対して闘って撃退するか、一目散に逃げるかするわけです。
他方、存在全体を抑制されるというのは、以下の記事で扱ったように、身動きを取れないよう押さえつけられることに等しく、完全に逃げ場を奪われるということです。ストレス反応のうち、全身の凍りつきや麻痺を特色とする不動系が働きやすくなります。
まず、「闘争か逃走か」のうち、「闘争」にあたるのは、言うまでもなく、突発的に我を忘れて暴力行為に及ぶことでしょう。我を忘れるのは軽度の解離ともいえます。つまり、暴力は、男性に多い解離の一形態です。
男が暴力をふるうのはなぜか―そのメカニズムと予防 でジェームズ・ギリガンが述べるとおり理性が解離されて突発的に引き起こされる暴力行為は、ほとんどが男性によるものです。
つまり、大人の体つきや腕力を得る青年期から、なんらかの地位のしるしをついに自分で築き始める年齢―たいていは中年のはじめの頃(40歳前後)―に達するまでの間、男性は暴力をふるいやすい。
この年齢層―14歳から39歳まで―が世界の殺人、暴行、レイプの90パーセント以上をおこなっており、軍事的暴力や政治的暴力のほとんどすべてもまたそうなのである。(p86)
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論 によると、解離性障害に伴う症状のうち、脳がかきまわされているとか固まっているといった頭部セネストパチー(体感異常)は、若い男性に多いという性差が見られるそうです。
頭部セネストパチー(cenesthopathie ceohalique)は概して若い男性に多いとされている。(p111)
「掻き混ぜられている」とか「グチャグチャになっている」などと訴える時には、思考促迫などの症状がみられやすい。
また脳が痺れた感じがしたり、緩んだ感じがしたりするなどの場合には、思考不全感や離人症状を伴いやすい。(p113)
頭部の体感異常は、頭が働かない、という訴えと同時に現れやすいようですが、思考力や判断力が失われて、衝動的な行為に及んでしまう男性の解離の特徴と一致しています。
では「闘争か逃走か」のうち「逃走」はどうでしょうか。これもまた解離の一症状として「解離性遁走」というものが知られています。これは我を忘れて暴力を振るう行為の「逃走」バージョンで、我を忘れてどこかに逃げることを意味しています。
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によれば、解離性障害の分類のうち、人格交代の伴わない解離性遁走は、圧倒的に男性に多い症状とされています。(p110)
男性は、こころ(頭部)が解離された状態でも、からだは自由なままで、不動系ではなく交感神経系が優位だからこそ、無活動な解離性障害ではなく、どこかへ走って逃げられる解離性遁走になりやすい、ということができます。
しかし女性の場合、社会的な意味でも逃げ場が完全に奪われているせいで、どこかに逃げるのではなく、「凍りつきか麻痺か」で反応するしかなくなります。
そのひとつの形は、人格そのものをシャットダウンして多重化させる解離性障害や解離性同一性障害です。逃げ場がどこにもないので、自分そのものを消し去るということです。
あるいは生物的な「凍りつきか麻痺か」反応として、原因不明の心身症、慢性疲労症候群や線維筋痛症といった病気が現れる場合もあるでしょう。
こうした心身症状が女性に多いのは、おそらく女性は不動系の反応が優位になりやすく、全身を巻き込んだ解離症状(身体性解離)が生じやすいからではないかと思います。
とすると、男性の場合、攻撃性が外向きに出やすく、女性の場合は内向きに出やすいのは、男女のストレスの違いによって、男性は交感神経系のストレス反応で止まりやすく、女性はその一歩先の不動系のストレス反応に至りやすいからではないか、ともみなせます。
言い換えれば、男性は断続的なストレスにさらされるので「闘争・逃走」反応優位になりやすく、女性は慢性的で休みないストレスにされされるので、もう一歩先の「凍りつき・麻痺」反応優位になりやすいということです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア でこう書かれているとおりです。
女性は(心拍数を下げる)迷走神経と関連のある「凍りつき」のストレス反応をより多く示しがちである―反対に男性は交感神経―副腎系反応が優性であることが多い。(p17)
これはまた、世界の多くの文化において、男性は職場(ストレスを受ける場所)と家庭(休む場所)が分かれているのに対し、女性は自宅に抑圧されて一日中家事に勤しむという、慢性的な拘束に似たストレスを感じやすい、という構造とも関係しているかもしれません。
男性は生活のなかで部分的にしか抑圧を求められないために、解離が生じるとしても部分的なのに対し、女性は生活のなかで四六時中抑圧を求められて心理的逃げ場がないせいで、完全な解離という不動状態が引き起こされやすいのではないでしょうか。
つまり、解離性障害が女性に多いのは、女性のほうが慢性的で強いPTSDを経験しやすく、PTSDの先にある解離性障害にまで進行しやすいからかもしれません。
推測にすぎませんが、もし男性がわたしたちの社会における女性の立場に置かれる文化を調査すれば、たとえば先述のカーシ族の文化のようなところでは、解離性障害になりやすいのは男性ではないかと考えます。
これは、現代社会における男性が感じているストレスが女性より軽い、という意味ではありません。それはPTSDが解離の一歩手前の反応だからといって、PTSDのほうが解離より苦痛が少ないわけでないのと同じです。
異なる質のストレスをどっちが苦しいか比べるのは、糖尿病とがんのどちらが苦しいかを議論するほどナンセンスなことです。はっきり言ってどちらも苦しいのです。
とはいえ、恥という観点から見れば「異常なまでに女性に厳しい」のは事実であり、それが女性の場合、PTSDと解離が絡み合ったより重い全身の解離症状、つまり不動系の反応につながっているのでしょう。
むろん、何度も言うように、男性でも全身を巻き込む解離症状に陥る人はいますし、女性でも感情だけが解離される人がいます。
ここで見たのは文化全体のストレスの性差です。個人レベルで見れば、幼少期から大半の女性たちよりも逃げ場のないような異例な状況に追い込まれて育つ男性もいるでしょうし、その反対もありえます。
しかし統計的には解離の症状の分布には男女差があるのは事実であり、もともとの生物学的違いだけでなく、現代社会における男性と女性の感じるストレスの違いが色濃く反映されている可能性があります。
補足 : 発達障害や学校の成績の男女差にも関連?
この記事で取り上げた解離症状の男女差は、他のさまざまなところで見られる男女の統計上の性差も説明できるかもしれません。
たとえば、発達障害において、ADHDもアスペルガー症候群も症状に男女差が見られるとされています。
ADHDの場合は、男性は多動・衝動性が強く、女性は不注意が強いようです。
アスペルガー症候群の場合は、男性は積極奇異型が多く、女性は受け身型が多いようです。
発達障害における男女の性差は、解離性障害において男性は解離性遁走が多く、女性は全身の解離症状が多いことと一致しており、同じ理由によるものでしょう。
いずれの場合も、男性は交感神経系の「闘争・逃走反応」が優位なので活動的になり、女性は不動系の「凍りつき・麻痺反応」が優位だから不注意が目立ち受動的だとみなせます。
また、医学的な問題以外の、男女の性差も この概念から説明できます。
たとえば、書きたがる脳 言語と創造性の科学 におけるこの記述です。
テレサ・アマビルが明らかにしたとおり、内的な動機に動かされた作品のほうが外的な要因をきっかけに書かれたものより創造性が高いという傾向があるからだ。
二人の人間にプロジェクトを与え、一人には金銭を支払い、もう一人には払わないとすると、前者の創造性は報酬によって損なわれるらしい。
驚いたことに、少なくとも児童を対象にした実験では、この外部的な報酬がもつ抑制効果は男の子より女の子のほうが大きいという。
もしこれが事実なら、気の毒なことながら、多くの女流作家が生存中は基本的に無視され、この抑制効果が働かなくてすんだことを喜ぶべきなのかもしれない。
また男性作家は相対的に名声にも悪評にも悪影響を受けにくいことを喜ぶべきなのだろう。(p42)
この説明は、男女の作家の違いについてのものです。男性の作家は、外的報酬(お金や名声)などによって創造性が変わることはあまりありませんが、女性の作家は、外的報酬によって創造性が抑制されてしまう傾向があるようです。
一見すると解離とは何の関係もありませんが、別の記事で扱ったように、作家の陥るスランプ(ライターズ・ブロック)は、前頭前野の抑制機能の過剰活動だと考えられます。これは、解離で起こっているものと同じです。
解離は、現実感のない離人症や、死んだように生気がなくなり生きた心地のしないうつ状態を伴いますが、それは作家がスランプのときに感じる状況と似ています。
作家の場合、思考がフリーズしてしまい、いつものように自然に考えることができなくなってしまった状態がスランプです。
ここまで考えた社会でのジェンダーの違いのために、男性と女性とでは、人から「見られる」「注目される」ということの持つ意味が違います。
男性にとって、人から「見られる」とは、兵士として挑発されたり、働き手として期待されたりすることを意味するので、それが、闘うか逃げるか、といった能動的な行動につながるのは当然でしょう。
しかし、女性の場合、「見られる」というのは、おそらく若いときから、そして若いときほど、性対象として容姿に注目されるようなことが多いため、「見られる」ことで身の危険やストレスを感じやすいはずです。
男性の場合は、人から注目されると、交感神経系が高ぶって「闘争・逃走」状態になるのに対し、女性の場合は、人から注目されると、不動系の「凍りつき・麻痺」状態になり、思考がフリーズしやすいと考えられます。
解離傾向の強い女性は、人から注目されてしまうと、それがお金や名声という良い意味での注目であれ、批判やパッシングという悪い意味の注目であれ、思考のフリーズが起きやすく、創造性が妨げられやすいのではないか、ということになります。
また、マシュマロ・テスト:成功する子・しない子 では、男子生徒より、女子生徒のほうが学校での成績がよく、自己コントロールのためのスキルが高いと書かれています。
女の子のほうが長く待つ意欲も能力も高いというのは、少なくともアメリカでは学校時代を通じて、たいてい女の子のほうが男の子よりも、教師や親や本人による自律心の評価が高いという研究結果と一致している。
誕生後の四年間でさえ、女の子は一般に男の子よりも従順だ。子ども時代の後期には、平均すると、女の子のほうがたいてい学業で自律的と見なされ、男の子よりも良い成績をとることが多い。
だが、子どもたち自身を含め、評価する人間は、性差に関する文化的な固定観念を共有している。
まじめで、細かいところまで注意を払うのが「良い女の子」、もっと衝動的で、コントロールしづらく、乱暴でさえあり、掛け算よりもフットボールのタックルの練習に余念がないのが「本物の男の子」という思い込みがある。(p58)
ここで書かれている点は、この記事で扱ってきた内容と同じことを別の観点から説明しているだけです。
前述のように、解離傾向の強さは、前頭前野の抑制機能の強さと関係しています。解離傾向が強いということは、じっと我慢して耐え忍ぶ「凍りつき・麻痺」傾向が強く、闘ったり逃げ出したりする「闘争・逃走」傾向より勝っているということです。
「誕生後の四年間でさえ」女の子のほうが抑制機能が強いようですが、やはり必ずしも生物学的な違いではなく、「子どもたち自身を含め、評価する人間は、性差に関する文化的な固定観念を共有している」ことが指摘されています。
男の子も女の子も、生まれた瞬間から、子育てを通して、文化的なジェンダーの影響を受けるので、たとえ生後4年間といえども、環境によって形作られる部分が多いのです。
女の子は生まれた瞬間から、女の子であるように育てられます。女性らしく、従順であるように、与えられるおもちゃも、親の世話の仕方も、声かけも、すべてが「女の子用」なのです。その結果、人生の早期に抑制機能が強くなります。
医学的に見れば、この抑制機能の強さは解離を引き起こす危険因子ですが、心理学的に見れば、抑制機能の強さは、自制心の強さをもたらす優れた能力とみることができます。どんな物事にもメリットとデメリットがあるものです。
女の子が一般に、学校で男の子より良い成績を修められるのは、この前頭前野の抑制機能の強さがゆえに、じっと座って我慢強く勉強する能力を発揮できるからです。
しかし、じっと我慢する能力が高いということは、限界まで我慢して壊れてしまいやすい、という意味でもあります。おそらく、不登校の慢性疲労症候群が女の子に多いのはそのためでしょう。男の子の多くは耐えきれなくなる前に反抗するでしょう。
よく言われる、男性のほうが痛みに弱い、女性のほうが痛みに強い、という性差も、男性は痛みに対して闘争/逃走という能動的な反応で反射的に対処しやすく、女性は解離という受動的な反応で我慢しやすいから、とみなせば簡単に説明がつきます。
不登校の慢性疲労症候群は、「学校過労死」と呼ばれたりもしますが、大人が経験する仕事での過労死と、不登校の比喩的な過労死の違いも、性差が関係しているかもしれりません。
大人が経験する過労死は、文字通り奴隷のように死ぬまで働き続けますが、不登校の「学校過労死」は、死ぬまではいたらず、身体が先に動けなくなります。
仕事で過労死する人たちは主に男性であり、すでに見たように、過剰なストレスがかかると、「闘争・逃走」反応が引き起こされます。この状態になると、理性的に考えられなくなり、戦場の兵士のように暴力的・衝動的になります。
他方、学校で慢性疲労症候群になる子どもたちは主に女の子であり、過剰なストレスがかかると「凍りつき・麻痺」反応が引き起こされます。身体そのものが動けなくなってしまうので、死ぬまで動き続けることはありませんが、代わりに無活動の引きこもり状態になります。
大人の場合でも、慢性疲労症候群や、線維筋痛症のような全身のストレス性疾患が女性に多いのは、同じくらいのストレスがかかった男性は、怒りっぽく暴力的になったり、過労死したりしやすいという、ストレス反応の性差があるからだと思われます。
現代社会に、疲れている女性がとても多いという風潮は、基本的にどこの文化でも、女性は見えない抑圧による慢性ストレスにさらされやすいこと、そして、それに伴う受動的なストレス反応が引き起こされやすいことを意味しているのでしょう。
すべての、女性は、誰もが、みな、疲れている、そう、思う | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
そのほか、女の子のほうが学校で成績がいいにもかかわらず、六歳以上の子どもが男性のほうが優秀だと思い込んでいるという研究もまた、女性のほうが幼少期から抑圧を感じやすいという文化バイアスの強さを物語っているといえます。
「男性は優秀」幼児期から思い込み 社会環境が影響か:朝日新聞デジタル
(「女の子」は学校でつくられる という本も参照)
退屈すれば脳はひらめく―7つのステップでスマホを手放す に書かれているような、男性はポジティブな空想をし、女性はネガティブな空想をするという傾向は、この男性は優秀で女性は劣っているという無意識のバイアスによって育まれてしまうのでしょう。
ミネソタ大学心理学教授のエリック・クリンガーの分類によれば、白昼夢のテーマは、「征服する英雄」と、「苦悩する受難者」のふたつに大きく分けることができます。
征服する英雄の白昼夢には、成功や権力が関わっています。…一方で苦悩する受難者の白昼夢では、はじめはひどい扱いを受け、やがて功績や価値が認められるような物語が繰り広げられます。
一般的には、男性は征服する英雄、女性は苦悩する受難者の白昼夢にふけることが多いようです。(p40)
女性のほうがネガティブな思考パターンを習慣としやすい点は、心身症の発症しやすさと結びついている可能性があります。
何度も言うようですが、これは、あくまで傾向にすぎません。解離傾向の強い弾性は大勢いますし、その逆もしかりです。
男女のさまざまな症状がはっきり二分されておらず、ただ傾向があるにすぎないことは、この性差が生物学的な要因よりも、文化ストレスの違いによって形成される後天的なものだ、ということを証拠づけているように思います。
生まれつきの身体のつくりという決定的な違いではなく、生まれた後の経験によって形作られる違いだからこそ、男性と女性それぞれが文化の中で経験しやすいストレスの傾向が、そのまま症状の傾向として現れているのではないでしょうか。