自然観察でマインドフルネスを身につける方法―ミクロの森の生物学者の教え

今、「マインドフルネス」と呼ばれるスキルが注目されています。マサチューセッツ大学の教授ジョン・カバットジンが禅の思想から着想を得て、医療に転用した技法です。

マインドフルネスは、「今ここ」の感覚に注意を向けるスキルです。

これまで一般的だった、認知や理性の力を強化する認知行動療法のような心理療法が効かない、様々な症状に効果があるともいわれます。

慢性疼痛・線維筋痛症にマインドフルネスが効果的
線維筋痛症などの痛みにマインドフルネスが効果的だという話が日経サイエンス2015年01月号 に書かれていました。注意力散漫と痛みや疲労との関係、注意力を鍛える方法などについても書い

マインドフルネスの技法は、さまざまなセラピーに導入されています。このブログで過去に扱った色々なボディワークもそうです。

でも、マインドフルネスはそんなに特別なものなのでしょうか。医者やセラピスト、さらには宗教家に教えてもらわなければ身につかないものなのでしょうか?

わたしはそうは思いません。ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球の中の、サウス大学の生物学者デヴィッド・ジョージ・ハスケルの授業風景を見てください。

チベット僧が二人、真鍮製のじょうごのようなものを手に持ち、テーブルの上にかがみこんでいる。…学生たちは、生態学で最初の実習授業の始まりに曼荼羅を見学に来ている。

このあと授業は近くの森に移り、そこで学生たちは地面に輪を投げて自分の曼荼羅を作る。午後の残りの時間を、森のコミュニティの仕組みの観察と、自分の輪の内側の土地の調査にあてるのだ。

サンスクリット語であるmandalaという言葉には「コミュニティ」という意味がある。つまり、チベット層と学生たちは同じ作業をしているのだ―曼荼羅について沈思し、精神を磨く。(p7-8)

ハスケルの生徒たちは、原生林に輪で囲った小さな領域をつくり、一年間定期的に観察します。その体験は、チベット僧の曼荼羅(マンダラ)とよく似ているといいます。

チベット僧がマンダラ作りの中で、今この瞬間に意識を集中させる力を磨くように、自然を観察する人は、五感を研ぎ澄ませて、今この瞬間の自然の営みに注意を向けることを学ぶのです。

もともとマインドフルネスとは、医学的なものでも宗教的なものでもなく、自然とともに生きる中で身につくスキルだったのではないでしょうか。

この記事では、ハスケルの本やわたしの体験から、どうやって自然観察の中でマインドフルネスのスキルを身につけていくか書きたいと思います。


これはどんな本?

ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球は、生物学者デヴィッド・ジョージ・ハスケルが、テネシー州の原生林の一角を一年間観察して記録した、いわば自然観察日記のようなものです。

1/1から12/31まで、ほとんど毎週、その原生林の一角に足を運んで、見つけた生き物、感じた感覚、そして考察したことを集めたエッセイ集になっています。

この本のすばらしいところは、芸術的な感性と、科学者としての知識が融合していることでしょう。

ニューヨーク・タイムズ紙はハスケルのことをこう評しています。

生物学者のように思考し、詩人のように書き、自然界に対する彼の偏見のない見方は、仮説主導型の科学者と言うよりもむしろ禅僧に近い。(p333)

ハスケルは常に、詩人のような感性を研ぎ澄ませて自然を観察しています。だから、彼のエッセイはもったいぶった学者調ではなく、とても親しみやすく美しく感じます。

一方で、彼は第一線の生物学者です。決してただの感想文ではなく、自分が観察した自然界の奥深い仕組みを、だれでも理解できる言葉で詳しく説明してくれます。

なぜ植物は水が凍る厳寒を越冬できるのか? どうしてシカはわたしたちが食べられない葉っぱを消化できるのか? キリギリスとコオロギの奏でる音が違うのはどうして?

そんなちょっとした疑問の答えを、読んでいるうちに学べます。季節ごとの体験を交えて説明してくれるので、すんなり頭に入ってきます。

でも、何よりすばらしいのは、ハスケルの自然に寄り添う姿勢を学べることです。

彼は「禅僧」のように、自然と接します。冒頭で書いたように、現代医学のマインドフルネスは、禅の思想から体系化されました。

ハスケルは、五感を研ぎ澄ませて、ひたすら目の前の「今この瞬間」に思いを向け、自然を観察します。

原生林の一角で起こっていることすべてに心を開き、足元の小さな虫から、頭上の鳥の歌、そして木々や葉の語るストーリーを感じ取り、それをエッセイにまとめているのです。

ハスケルの本は、最近、木々は歌う-植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学も邦訳が出ました。世界各地の樹木を観察した本で、日本の五葉松も出てきます。

彼の自然観察のスタイルから、マインドフルネスを身につける方法について多くのことを学べます。

マインドフルネス―「いまこの瞬間」に気づく技術

ハスケルの自然観察の方法について考える前に、まず「マインドフルネス」とは何か、改めて考えておきましょう。

このブログでは、主にトラウマの治療に関連してマインドフルネスを紹介してきました。

マインドフルネスはそれ以外の状況でも役立ちますが、トラウマ専門医であるベッセル・ヴァン・デア・コークの説明は、マインドフルネスについて、わかりやすく教えてくれています。

彼が著書、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いている説明を読んでみましょう。

自分が何を感じているのかを知るのが、なぜそう感じるのかを知るための第一歩だ。

自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚していれば、その変化を管理する態勢に入れる。

だが、それが可能なのは、私たちの監視塔である内側前頭前皮質が、私たちの内部で何が起こっているかを観察することを学んだ場合に限られる。

だから、内側前頭前皮質の働きを高めるマインドフルネスの練習は、トラウマからの回復に非常に重要な一要素なのだ。(p160)

マインドフルネスは、「自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚」することです。

言い換えれば、ごくささいな変化にも「気づく」ということです。

このとき、脳の中で「気づき」を担当する部位である、内側前頭前皮質という場所が活性化することが確認されています。

禅僧は、じっくり意識を集中させて瞑想することで、この「気づき」を鍛錬します。しかし医療のセラピーや、自然の中での観察によっても「気づき」を鍛えることができます。

自分の内外のさまざまなことに「気づく」、すなわち、「自分が何を感じているのかを知る」というのは、簡単にみえて、本当に難しい技術です。

というのも、わたしたちはみな、一日のほとんどを、半自動運転で過ごしているからです。

ちょうど、バスに乗って移動しているようなものです。道中、どこを通っているのか、どんな景色なのか、たまには意識するかもしれませんが、ほとんど何も気づかず、通り過ぎてしまいます。

トラウマ当事者のように、感覚がダメージを負っている人はなおのこと「自分が何を感じているのかを知る」のに苦労します。

トラウマ当事者たちは、あたかも、自分ではどうやってもコントロールできないジェットコースターに乗っているかのようです。

あるいは、大嵐の中で翻弄される船のようです。制御できない感覚に振り回されて、ひどく混乱した毎日が続きます。

自分でどうしようもない感覚に翻弄されているうちは、それに振り回されるしかありません。

でもマインドフルネスを身につければ、意識を「今ここ」につなぎとめ、立ち止まって観察できるようになります。海にいかりを投じて船を安定させるように。

自分に何が起こっているかを冷静に自覚できるできるようになれば、荒波を乗りこなせるようになっていきます。それが、ヴァン・デア・コークが言っていることです。

自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚していれば、その変化を管理する態勢に入れる。(p160)

人は自分の体の欲求を自覚していなければ、体の面倒を見ることはできない。

空腹を感じなければ、自分に栄養を与えることはできない。不安と空腹を取り違えたら、食べすぎてしまうかもしれない。満腹のときに、それがわからなれば、食べすぎてしまうことになる。

だからこそ、感覚を自覚する力を養うことが、トラウマからの回復にとって重要なのだ。

従来のセラピーの大半は、内部の感覚世界における一瞬一瞬の変化を軽視、あるいは無視している。(p450)

ヴァン・デア・コークが述べているように、嵐のような変化に振り回されてしまう人は、自分の体の状態を正しく認識できなくなっています。

詳しい説明は別の記事に譲りますが、このとき体では失体感症や失感情症のような解離が起こっています。

解離とは「今この瞬間」から切り離されて、遠く隔てられているかのように、感覚が麻痺してしまうことです。

つまり、「今ここ」に意識を集中するマインドフルネスとは真逆の状態です。

慢性的なストレスや、生命を脅かされるような危機的な体験をした人は、自分の身を守るために感覚を麻痺させ、切り離し、できるだけ遠ざけようとします。

すると、自分がどんな状態にあるのか、何を感じているのかを、うまく把握できなくなります。

渦巻く嵐の分厚い雲に閉ざされて、太陽も星も見えず、方角がわからなくなった船のようになります。

トラウマを負った人は、地に足をつけて「今この瞬間」を味わいながら充実した人生を生きることができません。

怒りや悲しみといった感情がわからない失感情症、暑さや寒さ、空腹などを感じにくくなる失体感症、生きている実感そのものが薄れる離人症。

これらはすべて、解離の一種です。過去にひどく脅かされる体験をしたせいで、無意識のうちに、感覚を感じないように遠ざけることで、身を守っているのです。

「今この瞬間」をできるだけ感じないよう、自分をこの世界や肉体から切り離したまま、あてどなくさまよい続けます。アルコール中毒など依存症から抜け出せなくなることもあるでしょう。

そのような人たちに必要なのは「感覚を自覚する力を養うこと」です。「内部の感覚世界における一瞬一瞬の変化」を自覚するよう努めることで、混乱を抜け出すのです。

ヴァン・デア・コークは、この本の中で、マインドフルネスを身につける、さまざまな方法を紹介しています。

たとえば、トラウマ当事者のために用意されたヨーガのプログラム、体に意識を向けるさまざまなボディワーク、また体の反応を見える化して意識できるようにするニューロフィードバックなど。

このブログでも、過去にたくさん紹介しました。

ヨーガで身体の声を聞く―トラウマや慢性疼痛に身体セラピーが役立つ理由
ベッセル・ヴァン・デア・コークらのトラウマ・センターで実践されている、トラウマの身体症状に対するヨーガ・プログラムを参考にして、身体的な気づきを促すボディワークがなぜ原因不明の身体
ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。
「からだの記憶」の治療法―解離や慢性トラウマのための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる、「からだ」を土台とした生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。

わたしも一人の当事者として、そうした医療的なセラピーを幾つか体験してきました。真剣に取り組むなら、間違いなく効果があると思います。

でも、最終的にわたしが行き着いたのは、医療の枠組みではなく、自然の中でマインドフルネスを身につける方法でした。

医学的セラピー以外の選択肢を考える

ヴァン・デア・コークによれば、マインドフルネスとは「自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚」することでした。

トラウマを治療するセラピーでは、セラピールームの中でそれを訓練します。たいていセラピストと1対1で、自分の内外の感覚に注意を集中するように練習します。

そのトレーニングの様子を、ヴァン・デア・コークはこう書いています。

回復の核となるのは、自己認識だ。トラウマのセラピーで最も重要な言葉は、「それに意識を向けてください」と「次にどうなりますか」だ。

トラウマを負った人々は、我慢できそうにない感覚とともに生きている。胸が張り裂けるように感じ、みぞおちの耐え難い感覚や、胸が締めつけられる思いに苦しんでいる。

だが、体内のこうした感覚を感じるのを避けると、その感覚にますます圧倒されやすくなる。

…マインドフルネスによって、私たちは感情も知覚も一時的なものであることを悟る。(p340)

わたしが受けたセラピーでもそうでした。セラピストはカウンセラーのように話を聞いたり慰めたりするわけではありません。

そうではなく、わたしがひたすら、自分の内側にある感覚を自覚するのを助けてくれます。

「それに意識を向けてください」。「次にどうなりますか」。

自分の体が何を語ろうとしているのか、今まで注意を背けてきた感覚に意識を向けるようにサポートしてくれます。

それら自分の体の内側の感覚は、「我慢できそうにない感覚」です。あまりに耐え難く、気持ち悪く、不快で、感じるに耐えないからこそ、解離(切り離し)によって遠ざけていたのです。

だから、内部の感覚に意識を向けると、しばしば、圧倒されそうになります。セラピストはそれを見て取ると注意の方向性を変えます。

「目を開けて部屋の中を見回してください」「何か気づいた色を3つ教えてください」

わたしはカーテンのベージュ色、観葉植物の深緑色、そして窓から見える空色に意識を向けます。

内側の感覚に圧倒されそうになったら、外側に感覚に集中する。危険な感覚に圧倒されそうになったら、安全な感覚に意識を向ける。それを「振り子のように行ったり来たりさせる」のです。(p402)

このようにして、「自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚」します。

でも、ここでちょっと考えてみてください。

もし、「目を開けて部屋の中を見回してください」と言われたとき、わたしがセラピールームの中ではなく、爽やかな風がそよぐ森の木陰にいたら?

わたしは布のカーテンではなく咲き乱れる花のカーテンに、鉢植えの観葉植物ではなく数百年生きた巨樹に、窓枠に切り取られた空ではなく、木漏れ日の差し込む大空に意識を向けていたでしょう。

最近の記事で考えたように、そうした自然界の風景には、自律神経をリラックスさせたり、免疫系を調節したりする効果があることが知られています。

慢性的な疲労に悩む人に伝えたい、日本の自然セラピー研究の7つの発見
「過労死」(karoushi)と「森林浴」(shinrinyoku)は、どちらも日本発祥の国際語として知られています。日本では疲労についての研究が進むと同時に、疲労を回復させる自然

また、わたしは生い立ちゆえに人に対する恐れがあります。信頼関係のあるセラピストが相手でも、どうしても緊張してしまいます。それは珍しいことではありません。

たとえ安全だとわかっていても、狭い部屋の中では落ち着かない人もいます。現代社会のトラウマ体験の多くは、家庭内の密室や学校の教室で経験されるからです。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

そんな場合、閉ざされた部屋よりも、開放的な屋外のほうがリラックスできるのではないでしょうか。

前に書いたように「自然環境のうちでも眺望が開けていて隠れるような場所があまりない環境」のほうが、心理的な不安が少なく、認知機能が高まるという研究もあります。

何が向いているかは人それぞれです。一人ひとりが自分に適した方法を見つけるのが大切です。

医学的に管理されたセラピーが、マインドフルネスを身につけ、トラウマを癒すのに役立つのは確かです。でも、それがすべてではないはずです。

ジョン・カバッドジンが禅に着想を得てマインドフルネス瞑想法を思いついたことは、宗教的技法が心の平安に役立つ場合があることを意味しています。

また、ハスケルのように、自然界の「マンダラ」の中で五感を研ぎ澄ませてマインドフルネスを実践している人がいるのも事実です。

これは不思議なことではありません。

もともと、まだ体系的な医学がないころ、トラウマを負った人は、伝統的なシャーマニズムの中で首尾よく治療されていたからです。シャーマンとは自然と宗教を結び付けた呪術医たちです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、トラウマを専門とするピーター・ラヴィーンがこう指摘しているとおりです。

本書で私が説明する特別な方法論で、クライアントは自らの身体感覚についての気づきとその体得ができるように援助される。

先住民の文化をいくつか訪れた中での観察から、このアプローチはさまざまな伝統的シャーマン的な癒しの儀式とある種似たところがあるのではないかと私は考えている。(p13)

中南米の原住民は、恐怖の性質とトラウマの本質を昔からよく理解していた。

さらにはシャーマニックな癒しの儀式でトラウマをいかに変容させるかということもよく知っているように思われる。(p40)

ですから、現代の洗練された医学や科学が役立つのは確かですが、その源流である自然界や宗教にも価値があります。

医学によらず宗教を通して、トラウマからの癒しや、マインドフルネスによる気づきを会得する人もいるでしょう。

もっとも、この記事では宗教的側面については扱いません。

今回考えるのは、自然観察によって身につくマインドフルネスです。宗教に抵抗のある人でも、マインドフルネスを訓練できます。

大自然の中で「今この瞬間」を感じる

では、いよいよ、自然観察の中で身につくマインドフルネスについて考えることにしましょう。

現代社会では、半数以上の人が都市に住んでいるため、自然は縁遠いものになりつつあります。

しかし、自然のそばに住んでいれば、自然界の小さな変化に気づけるのか、というとそうでもありません。

大自然のなかでマインドフルネス的な生き方を実践した、あの有名なレイチェル・カーソンは、センス・オブ・ワンダーの中でこう書いています。

かつてある人がわたしに、モリツグミの声を一度もきいたことがないといったことがあります。

けれども、その人の庭では、春がくるといつも、モリツグミが鈴をふるような声で歌っているのをわたしは知っています。(p38)

わたしはかつて、その夜ほど美しい星空を見たことがありませんでした。

…けれども、実際には、同じような光景は毎年何十回も見ることができます。

そして、そこに住む人々は頭上の美しさを気にもとめません。

見ようと思えばほとんど毎晩見ることもできるために、おそらくは一度も見ることがないのです。(p30-31)

自然の乏しい都市に住んでいようが、自然豊かな山岳地帯に住んでいようが、レイチェル・カーソンのこの言葉は真実です。

たとえツグミやコマドリが歌っていようが、コオロギやキリギリスがオーケストラを演奏していようが、天の川がかかる星降る夜空の下に住んでいようが、それに意識を向けない人は多いのです。

物と情報にあふれ、どこでもインターネットがつながり、簡単にスマホでゲームが遊べる現代では、人間は「今この瞬間」に意識を研ぎ澄ますことを忘れています。

ピーター・ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、そのことを指摘しています。

彼によると、「今ここ」から切り離された状態はトラウマ当事者特有のものではなく、「軽度のからだとこころの分離は現代文化に浸透」しているのです。(p419)

わたしたちは、「今ここ」の自分の内外の感覚に注意を研ぎ澄ます代わりに、自分の頭の中の考えや、テレビやスマホやインターネットの世界に熱中し、意識を「今ここ」から完全に切り離しています。

今回紹介している本、ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球の著者である生物学者、デヴィッド・ジョージ・ハスケルも、そのことに気づいていました。

曼荼羅の鳥や哺乳動物たちは、音のネットワークに組みこまれて生きている。それぞれが、ほかの生き物たちと音でつながっているのだ。

…私たちのような都会型人間が、こうして伝わっていく信号に気がつくようになるにはなかなか苦労する。

私たちは「背景音」を無視するのが習慣になっていて、かわりに自分の頭の中の雑音の言うことを聞く。

森の中で座ったり、歩いたりしている時間のほとんどを、私は自分の頭の中の波に乗り、過去か未来のことを考えて過ごすのだ。それはごく普通のことだろうと思う。

何度も何度も、意識してそうしなければ、私たちは今この時に、そして自分自身の五感に立ち戻ることができない。(p233)

わたしたちは、「今この時」の感覚に集中する代わりに、自分の頭の中の考えに没頭しがちです。周囲の世界に気づけなくなっています。

そんな「都市型人間」であるわたしたちが、自然界の鳥や動物たちの声を意識して、聞き分けるにはどうすればいいか。

ハスケルは要点をはっきり述べています。

「何度も何度も、意識してそうしなければ、私たちは今この時に、そして自分自身の五感に立ち戻ることができない」

これが自然界を観察する中で、マインドフルネスを身につける唯一の方法です。

ヴァン・デア・コークが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、セラピーで最も重要な言葉は何だと言っていたか、覚えてますか? 

こう言っていました。

トラウマのセラピーで最も重要な言葉は、「それに意識を向けてください」と「次にどうなりますか」だ。(p340)

原生林のマンダラの中で自然観察をしているハスケルと、セラピールームでトラウマ治療をしているヴァン・デア・コークの意見は一致しています。

厳密にいえば、ハスケルは外向きの感覚(つまり「五感」)に意識を向けることを述べているのに対し、ヴァン・デア・コークは、内受容など内側の感覚(「第六感」とも言われる)に意識を向けることを重視しています。

しかしながら、わたしたちの内外の感覚ははっきり区別できるようなものではなく混じり合っています。外向きの感覚に集中することは、内側の感覚を意識するときにも役立ちます。

何度も何度も、さまよう意識を「今ここ」に引き戻し、自分自身の内外の感覚に集中することがマインドフルネスを身につける鍵なのです。

自然観察でマインドフルネスを鍛える4つのポイント

情報や物にあふれた現代に生きるわたしたちにとって、「今この瞬間」の感覚に意識を向ける能力は、そう簡単に身につくものではありません。

だからこそ、トラウマから回復しようとする人、マインドフルネスを身に着けようとする人たちは、医師や専門家に師事しようとします。

でも、ハスケルのように自然観察をはじめてみたら、「今この瞬間」に意識を向ける力が、おのずと鍛えられることがわかります。

なぜなら、自然は刻一刻と変化しているからです。じっくり意識を集中しないと、そこにあるものを知ることができません。

あなたは立ち止まって地面を歩くアリの群れを観察したことがありますか。

アリの形、からだの造り、歩き方、隊列、その勤勉さを観察しようとすると、意識を今ここに集中しないとできません。

家の近くに生えている見慣れた樹木が、何という名前の木か判別しようとしたことがありますか。

風にそよぐ樹上の葉の形を見極め、ざらざらした幹に手を触れ、そのひび割れのパターンを認識するには、意識が今ここに研ぎ澄まされていることが求められます。

ハスケルは、ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球の中で、自然観察を始める人に、こうアドバイスしています。

まず、期待は持たずに出かけること。興奮したいとか、美、自然の猛威、悟り、奇跡などを期待して行けば、明晰な観察をじゃまし、思考は落ち着きを失って曇ってしまう。

五感を積極的に開放しておくことだけを望むことだ。

2つ目の忠告は、瞑想のやり方を真似て、繰り返し繰り返し、意識を今この瞬間に向けること。

私たちの意識はひっきりなしに彷徨ってばかりいる。そうしたらそっと連れ戻そう。

そして繰り返し繰り返し、自分が何を感じているかを詳細に追究する―音の特徴、その場所に触れた感じや匂い、視覚的な複雑性。(p307)

まさにマインドフルネスのアドバイスです。ただ「五感を積極的に開放し」、ありのままの様子を観察することが大事です。

意識は何度もそれていってしまい、テレビ番組やSNSの反応や買い物リストのことを考えてしまいそうになるかもしれません。

それでも意識を「今ここ」に引き戻し、「自分が何を感じているかを詳細に追究する」。これが自然観察の極意なのです。

意識を今ここに集中させるのに役立つアドバイスは、ほかにもあります。ここでは4つの役立つ点を考えてみましょう。

1.スケッチする

1つ目の点はスケッチすることです。ただ目で見て観察しようとするだけでなく、スケッチしてみるのは役立ちます。

絵が上手かどうかは関係ありません。目的は意識を「今ここ」に向けることだからです。

失われた、自然を読む力によると、探検家トリスタン・グーリーは、他の人が気づかないような自然の特徴に目ざといタイプの人たちがいることに注目しました。

実は、目立たないランドマークの特徴に注意を向ける時間を割くのは、身につけるのに努力を要する習慣だ。

それが当たり前になっているのは、いっしょに歩いたことのある人たちの中では、3つのグループだけだった。それは芸術家と経験豊かな軍人、先住民だ。(p17)

意識を「今ここ」に集中し、他の人が気づかないようなことに気づく能力が高かったのは、芸術家、経験豊かな軍人、先住民だけでした。

先住民たちは意識を「今ここ」に向けることが生死を左右する生活を送ってきました。経験豊かな軍人もそうでしょう。

芸術家もまた、意識を「今ここ」に向けることが、文字通りの生死ではないものの、職業としての生死に直結しています。

芸術家が仕事を続け、生活していけるのは、マインドフルに自分の内外を観察し、普通の人たちが気づかないような感覚をとらえるスキルに熟達しているからです。

一流の芸術家になるためには、「今ここ」に意識を向けるマインドフルネスを身につけることが不可欠でしょう。

興味深いことに、解離の舞台―症状構造と治療によると、トラウマを負って解離状態にある患者たちは、芸術に親しむ中で回復していくことがあるようです。(p39)

では、どうすれば、先住民や、経験豊かな軍人や、芸術家のような「今ここ」の意識を培うことができますか。トリスタン・グーリーは失われた、自然を読む力で続けてこう書いています。

風景の複雑な特徴をよく見ることは、現代人の心にとって難しく、自然なことではないようだ。

それに苦労しているなら、この技術を磨くためのふたつの方法がある。

ハイテク機器も地図もコンパスもなしに長期間へんぴな場所で生活するか、風景をスケッチするかだ。

実際的な解決策は後者だ。スケッチの質は重要ではなく、大事なのは見て、気づく技術をみがくことだ。(p17)

マインドフルネスは、物や情報にあふれた社会で生きる現代の都市型人間には「難しく、自然なことではない」かもしれません。

しかし、そんな豊かな都市を出て、へんぴな場所で長期間生活すると身につきます。要するに「今ここ」に集中することが生死をわける生活をすれば、誰でもマインドフルになります。

でもさすがにそれは現実的ではないので、もうひとつの手段は「スケッチする」ことです。

マインドフルネスが目的なら、芸術家のように上手に描く必要はありません。「大事なのは見て、気づく技術をみがくこと」です。

やってみるとわかりますが、いざスケッチし始めると、今まで自分が何も見ていなかったことを痛感するでしょう。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート)を翻訳した作家 塩野米松さんが書いているように感じるはずです。

一時期、私は観察の道具としてカメラを使っていたことがある。そのままの事象をありのまま写し撮るカメラはすぐれた道具であるが、欠点がある。

写し撮ったのは自分ではなく、写真機という機械なのだ。

観察のための最良の道具は、私は絵を描くことだと思っている。絵を描くためには、よくよく観察しなければならない。

…知っているつもりでも、いざ描こうとするとすべてがわかっていなかったことに気づく。(p196-197)

描くためには形を観察しなければなりません。葉っぱ1枚をとってみても、想像では正しく描けません。

いざペンを持って自然を観察してみると、自然界にはありとあらゆる不思議な形があり、今まで全然意識していなかったことに気づくでしょう。

どこにでもあるペンとメモ用紙で構いません。それらを手にして、今すぐ家の外に出るだけです。

目に留まったものを描いてみましょう。マインドフルネスとはどういうことなのか、その片鱗を体感できるでしょう。

2.ひとつの場所を継続的に観察してみる

自然界を観察するには、雄大な大自然がなければ楽しめないと思いますか。スマホの壁紙になるような、心奪われるような風景でなければやる気が起こりませんか。

ハスケルのミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球はその答えです。

ハスケルが一年間観察しつづけたのは、森の一角の「マンダラ」、タイトルにあるように、たった1平方メートルの範囲にすぎません。それでもありとあらゆる発見ができたのです。

1年間もずっとそこを観察したら、もう目新しいものは何もなくなってしまったのでしょうか。いいえ、彼は観察の終わりにこう書いています。

観察するうちに、自分が知らないことの大きさに気づき、私はそのことに圧倒された。

単に曼荼羅に潜むものの目録を作り、それぞれの名前を羅列する、ということですら、私の力には遠くおよばないのだ。

彼らの生命や関係性を、ごく断片的に理解する以上のことはとても不可能である。

観察を続ければ続けるほど、曼荼羅を理解する、あるいはそのもっとも根本的な性質を把握する、という望みは私から遠のいていった。(p303-304)

わたしはゲーム世代なので、どんなゲームでも、やり込めば終わりが見えることを知っています。人が作ったものはみなそうです。

しかし、自然界の複雑さは、比べようもありません。何しろ、世界中の人類の叡智の科学者や芸術家たちが、何千年も調べ続けても、まだまだ謎と発見と感動だらけのコンテンツなのです。

ニュートンは、自分の人生は、真理という果てしない大海原から流れ着く小さな貝殻を、砂浜でひろって遊んでいる子どものようなものだった、と回想しましたが、それは今でも同じです。

自然界の不思議はあまりに多すぎて、たった1平方メートルでも十分すぎるくらいです。むしろ、ある程度自分で範囲を区切ってしまわないと、わからないことが多すぎて溺れそうになります。

ハスケルは広大な原生林の一角に輪を投げて、そこを自分の「マンダラ」と名づけ、じっくり観察することにしました。

おもしろいことに、ここ日本でも同じような方法で、感動と発見を味わった人がいます。

調べて楽しむ葉っぱ博物館 (森の休日)という本の著者である植物生態学者の多田多恵子さんが、こんなことを書いています。

山で植生調査をするので、私は四角い木枠を持っていきました。地面に置いて一定の面積を囲うためです。その木枠を、ふと額縁のように掲げて中を覗き込んだとき…。

目の前のやぶが、突然きらきらと輝いて見えて、私はびっくりしたのでした。まるで近眼の人が眼鏡を初めてかけた時のように、はっきり「見える」ということに驚いたのです。

木枠でなくても、4本の指で四角を作っても、カメラのファインダーを覗いても構いません。

とにかく、ふだんとは違う意識の窓を通して眺めると、何気ない景色も、まるで魔法にかかったかのように、特別な絵か芸術写真のように見えてきたのです。

枠を覗き込むことで、逆に概念の枠を取り外すことができるなんて、なんか不思議。本当はちっとも見ていないもの、聞こえていないことの何と多いことか。(p26)

だから、自然観察をするときは、あえて、範囲を区切ってみるのもいいかもしれません。

輪で囲ったマンダラであれ、木枠で囲った植生調査地であれ、ある程度、区切られた範囲のほうが意識を集中しやすいかもしれません。

家の近くのお気に入りの公園の一角や、子どものころから大好きな川床でもいいでしょう。

近くにそうした場所がなければ、ハスケルが毎週マンダラの場所に通ったように、一週間に一回、決めた場所に足を運ぶこともできます。

定期的に同じ場所に訪れて、マインドフルネスを訓練するというのは、考えてみれば、医療としてのセラピーと同じです。

トラウマを治療しようとする人は、一大決心してセラピールームに毎週通うかもしれません。

同じ心構えで自然界の“セラピールーム”に通うのはいかがですか?

嬉しいことにそこでは無料でマインドフルネスを鍛錬できますし、同時に自然セラピーも受けられます。

3.学者ではなく芸術家になったつもりで

三番目に考えるのはとても大事なポイントです。

自然観察をするとき、学者のように、知性に偏った仕方で観察しないよう気をつけてください。あくまで、芸術家のように、感覚をオープンにするように努めましょう。

知性に偏った学者は、自然界を観察するとき、体で「感じる」のではなく、頭で「考える」ことで観察します。

これは危険な落とし穴です。植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、植物と叡智の守り人で学者の観察手法についてこう書いています。

森の中で暮らした子ども時代から大学に移ったとき、知らず知らず私は二つの世界観の間を移動した。

…科学者たちが問うのは「あなたは誰?」ということではなくて「それは何なのか」だった。

植物に向かって「あなたは何を教えてくれるの?」と訊く者などいない。一番重要な問いは「それはどのように機能するか」ということなのだ。

私が学んだ植物学は、還元主義的で、機械的で、そして厳密に客観主義的だった。(p62)

科学の知性一辺倒な考え方は、確かに多くのことを明らかにしてくれます。でも、それはまったくマインドフルではありません。

この記事で考えている自然観察とは、学者になるための訓練ではなく、「今この瞬間」の感覚に気づくための訓練です。

頭の中でぐるぐる考えることと、今この瞬間に意識を集中させることは正反対です。ハスケルがミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球で書いていた指摘を改めて引用してみましょう。

私たちのような都会型人間が、こうして伝わっていく信号に気がつくようになるにはなかなか苦労する。

私たちは「背景音」を無視するのが習慣になっていて、かわりに自分の頭の中の雑音の言うことを聞く。

森の中で座ったり、歩いたりしている時間のほとんどを、私は自分の頭の中の波に乗り、過去か未来のことを考えて過ごすのだ。(p233)

科学という学問の特徴は、「座ったり、歩いたりしている時間のほとんどを、…自分の頭の中の波に乗」ることです。それでは、今起こっている感覚に集中できません。

冒頭で、心理療法としてのマインドフルネスは認知行動療法とは正反対だと触れました。マインドフルネスが注目されているのは、認知行動療法が効かないタイプの人に効くからです。

認知行動療法とは、科学のように客観主義的に「考える」ことで問題を解きほぐそうとする治療法です。時に便利ですが、ありのままの感覚に気づく助けにはなりません。

マインドフルネスは逆に、「考える」のではなく「感じる」方法です。今この瞬間の感覚に注意を向けます。そうすることで、体の声に耳を傾け、適切な対処法が見えてきます。

この記事でいう自然観察は、認知を鍛えるためのものではなく、「今この瞬間」に起こっていることに気づき、感じる能力を鍛えるためのものです。

だからハスケルは、第一線をいく生物学者でありながら、自然観察するときには、「考える」態度をオフにし、ありのままを「感じる」ことに意識を傾けます。

リスたちが見せるこのおだやかな光景に、私はえも言われぬ喜びを感じる。

…知識をつめこみすぎた私の頭が抱える重荷から解放されたような気がするのである。

…適切になされた科学は、私たちと私たちの世界の親密度を増してくれる。

だが、科学的なだけの考え方には危険がともなう。森は図形に、動物は単なるメカニズムに、そして自然の仕組みは巧妙なグラフになってしまうのだ。

今日のように陽気なリスたちは、そうした偏狭さに対する抗議のように思える。

自然は機械ではない。動物には感情がある。彼らは生きているのだ―私たちの親戚で、つながりもあればこその共通の体験もある。(p297)

科学は「還元主義的で、機械的で、そして厳密に客観主義的」な学問でした。生き物のありのままを感じる代わりに、その名称や機能を分析しようとします。

科学はわたしたちの生活に役立ちますが、あまりに学者然とした態度に偏ってしまうのは危険です。ハスケルが書いているように、科学はそれで問題を生んできたからです。

科学の客観性が払拭してくれる思いこみもあるが、それは同時に、学術的な厳密さという隠れ蓑な隠れて、世界に対する尊大で無神経な態度を生む、別の思い込みを作り出す。(p287-298)

不幸なことに、科学者が正式に受ける教育の中では、一般的に、耳を傾ける、という行為が顧みられない。

それが不在であるために、科学は不必要な失敗を生み、私たちはその分貧しく、そしてもしかするとその分他者を傷つけている。(p298)

学者のような視点で自然界を分析しようとすると、今この瞬間をありのままに感じたり、鳥たちの演奏会に耳を傾けたり、一輪の花の美しさに心を奪われたりしなくなります。

それではマインドフルネスも芸術的な発想も生まれません。科学の目は大切ですが、自然観察するときにはあえてオフにする必要があります。

植物学者であるロビン・ウォール・キマラーも、やはり植物と叡智の守り人の中で、自然を味わうときには「自分の科学者脳のスイッチを切」ると述べています。(p266)

そして、大切なのは、科学的に考えることでも、知識を詰め込むことでもなく、ただありのままの自然界に「気づく」ことだという、同じ意見を述べています。

科学の傲慢さに心を侵されたやる気満々の若き博士だった私は、そこにいる教師は私だけだと勘違いしていた。

自然こそが真の教師なのだ。学ぶ者である私たちに必要なのはただ、しっかりと気付けるようにしていることだけだ。

注意を向ける、というのは、生きた世界とお互い様の関係を持つひとつの形だ―与えられた贈り物を、しっかりと目を開け、心を開いて受けとるということである。

私はただ、学生たちがしっかりとそこに存在し、耳を傾けることができるようにしてやりさえすればよかったのだ。(p285)

このアドバイスをそっくりそのまま受け入れましょう。

自然観察するときには、学者のような態度で客観主義的に分析するのではなく、「ただ、しっかりと気付けるようにしている」「注意を向ける」「しっかりとそこに存在し、耳を傾ける」ことに集中するのです。

4.現代ならではのツールを活用する

自然観察をしていると、樹木や花、鳥、虫など、あまりに名前を知らない生き物だらけだとに気づくでしょう。名前を調べたいと思うかもしれません。

極論を言えば、自然観察の中でマインドフルネスを育む場合、それぞれの正式な名称を知る必要はありません。名前を知って分類するのは、学者的な考え方です。

海洋生物学者レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダーで書いているように、たとえ名前を知らなくても、感受性に磨きをかけることはできます。

多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生き物たちが住む複雑な自然界について自分が何も知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいかわからなくなります。

そして、「自分の子どもに自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。わたしは、そこにいる鳥の名前すら知らないのに!」と嘆きの声をあげるのです。

わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。(p24)

レイチェル・カーソンが言うように、大事なのは、頭で知識を「知る」ことより、体で今この時の感覚を「感じる」ことです。

また植物学者ロビン・ウォール・キマラーも、植物と叡智の守り人で、名前を知るより感じることのほうが大切だと述べています。

私は理解したのだ―大切なのは、驚嘆すべきものの源に名前をつけることではなくて、驚嘆し、畏怖する気持ちそのものなのだと。

…もしも私が、これまで覚えた植物の属や種の名前を全部忘れてしまったとしても、この瞬間のことは決して忘れない。

世界最悪の教師の言葉も、最高の教師の言葉も、シルバーベルやチャイロコツグミの声には掻き消されてしまう。

一番最後に耳に残るのは、滝が流れ落ちる音であり、苔の静寂なのだ。(p284)

「植物の属や種の名前を全部」知らなくても、「滝が流れ落ちる音」や「苔の静寂」に感動することはできます。それがマインドフルネスです。

わざわざ学問的な名称を知らなくても、自分で名前をつけることもできます。最初に見つけた人が、特徴をよく観察して名前をつけたように。

いったん学名をつけた生き物に対しては、それが何者なのかをそれ以上知ろうとしなくなる人がいることに私は気付いている。

でも、新しく自分で作った名前で相手を呼ぶと、私はますますその相手をよく見るようになる。名前が当たったかどうかが知りたいからだ。(p266-267)

聖書の最初の人アダムや、ネイティブアメリカンの神話の最初の人ナナブジョのような気持ちになって、自分で名前をつけてみるのも楽しいものです。

とはいっても、せっかく自然観察するなら他の人と感動を共有するためにも、一般名くらい知りたいと思うのは普通のことです。

それに、科学的な知識すべてが邪魔なわけではありません。ある程度は科学について知ったほうが、より深く観察できるかもしれません。

レイチェル・カーソンも、『「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない』と言ったのであって、「知る」ことがまったく無意味だと否定したわけではありません。

自然観察をしながら、知的な欲求を満たしたいと思うようになるのはごく当たり前です。新しく何かを知ることは、自然観察を継続する意欲にもつながります。

たとえば、目の前に咲く花の名前がわからなければ観察するしかできませんが、もしニリンソウだとわかれば、食べて味わうという選択肢が増えます。

逆にトリカブトだとわかれば、鳥肌が立つでしょうか。ニリンソウとトリカブトは葉だけの時点では見かけが似ています。

自然界には毒草も多いので、なんでもかんでも手で触れたり口に入れたりすることはできませんが、ネットや本の知識のデータベースのおかげでもっと自然に親しめるようになります。

ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球の中でハスケルは、せっかく現代社会に生きているのだから、自然観察にもさまざまなツールを活用すればいい、と言っています。

現代社会は、さまざまな方法で博物学者の気を散らし、障壁を作るが、同時に目を見張らんばかりにさまざまな、有用なツールを提供する。

…ここで言いたいのは、自然史に興味のある人にとって、かつてのどんな時代よりも今のほうが、助けてくれるものがたくさんあるということなのだ。(p306-307)

スマホアプリの中には、Google Lensを筆頭に、花や葉や虫を見分けるヒントをくれるものがたくさんあります。夜空の星座を教えてくれるアプリもあります。

図書館にいけば、とても優れた実践的な図鑑がたくさんあるでしょう。途中で紹介した調べて楽しむ葉っぱ博物館 (森の休日)もそんな本のひとつでした。

近年、そうした図鑑の質は進歩して、とても読みやすくなっています。にも関わらず、人気のある一般書と違ってほとんど誰も借りないのでじっくり読めます。

科学的な思考ではマインドフルネスは身につかないと書きました。でもこの記事で科学の問題点を語っているハスケルもキマラーもカーソンも本職は科学者なのです。

これらの人たちは、科学についてしっかり勉強し、その知識も活用しています。その上で、より優れた自然の味わい方は、「今ここ」の感覚を意識してマインドフルになることだ、と言っているにすぎません。

せっかく科学の時代に生きているのですから、その恩恵として使えるツールはすべて使いましょう。ただし、比重としては、いつも「感じること」に重きを置くよう注意しましょう。

この本を自然観察のお供に

この記事では、セラピールームの中ではなく、自然の中でマインドフルネスを訓練する方法について考えてきました。

ぜひ読むだけでなく、実践してみてください。

都会の中の公園でもきっとたくさんの発見があるでしょう。わたしたちが普段、自動運転で暮らし、見逃してしまっている自然の驚異はあまりに多いからです。

しかしながら、もし重いトラウマや慢性疼痛など、病気の治療としてマインドフルネスを身に着けたいと思っている人の場合は、できればもっと自然豊かな場所で取り組むことをお勧めします。

最初のほうに書いたように、危機的状態に陥った人は、身を守るために、あえて感覚をシャットアウトしてしまっています。これを解離といいました。

解離は不快な感覚に圧倒されないための自己防衛です。マインドフルネスによって自分の内外の「今ここ」の感覚に注意を向けることは、その防衛を一部解除するということを意味します。

わたしがそうでしたが、都会の真ん中でそれをすると、ふだん意識していなかった自動車の騒音や大気汚染のにおいなどに気づいてしまい、圧倒されるかもしれません。

そうした過度の刺激がなく、自然のすがすがしい音やリズムに満たされた場所でマインドフルネスに取り組むなら、圧倒される危険を避けられるでしょう。

レイチェル・カーソンは、センス・オブ・ワンダーの中で、自然の美しさに驚嘆することは、満足のいく人生を送り、永久に飽きない秘訣だと述べています。

地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。(p50)

カーソンはこの本を書いているとき、末期がんと闘っていました。

その苦痛の中でも、充実した人生を最期まで送れたのは、「地球の美しさと神秘を感じ取れる」マインドフルな生き方のおかげでした。

今回の記事で出てきた幾つかの本は、どれも自然観察のお供にぴったりです。

カーソンのセンス・オブ・ワンダーは、とても短くまとめられているので、自然観察をはじめる前に読むと期待が高まります。

キマラーの植物と叡智の守り人は、先日ブログで紹介文を書きましたが、とても美しい本で心が癒やされ、感性が磨かれます。

自然が身体にいいのはわかっている。必要なこともわかっている。でもどう自然と関わっていいのかがわからない。そんな人に、ぜひ読んでほしい本、ネイティブアメリカンの血を引く植物学者ロビン

そして、今回、主に参考にした、ハスケルのミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球は、一年間ずっと枕もとに置いて、読み進めてほしい本です。

著者は専門的な科学者なので、多少難しい話題も多いです。けれども、それぞれの話題は短く区切られていて、訳者さんの努力もあって読みやすい文体になっています。

この本の自然観察は、一週間ごとに短いエッセイ形式で綴られています。ですから、四季というより七十二候に近い形で、季節の移り変わりを観察しています。

読み始めたころは、日本とアメリカでは、だいぶ自然環境が違うだろうと思っていました。

ところが読んでいくうちに、わたし自身の自然観察日記の体験とよく似ている話題が多いことがわかりました。

自然が身近な地方に住んでいる人なら、自分の体験と著者の観察がオーバーラップしていることに気づけるでしょう。

1月には雪の中で鮮やかな地衣類が目立ち、鳥の鳴き声が響きます。雪の結晶や野生動物の足跡を観察し、3月には雪解けの野草(スプリング・エフェメラル)が咲き誇ります。

6月には生い茂るシダ植物を、7月には雨の翌日のキノコやホタルを愛で、夏の終りにはキリギリスなど虫の音に耳を澄ませます。

確かにそれぞれの動植物の名前は馴染みないものが多いです。でも、種が少し違うだけで、同じ時期に同じような自然の営みを観察していることがわかりました。

著者は生物学者として知識をフル活用し、そうした自然の動植物の仕組みをわかりやすく解説してくれています。

だから、この本を読みながら自然観察すると、身近な生き物や自然界について、より理解が深まるのです。

読み終わるころには、友だちに地元の自然を案内し、たくさん豆知識を披露できるくらいにはなっているでしょう。

そうして楽しく自然観察しているうちに、おのずとマインドフルな生き方が身についているはずです。

先住民、経験豊かな軍人、芸術家が自然観察に目ざとかったように、周りの人が気づかないような変化に気づけるようになっているかもしれません。

自然界を「感じる」ことを意識していれば、自分の外側の世界だけでなく、内側の感情や感覚の変化にも気づけるようになっているでしょう。

自分の内外のささいな感覚に気づける力は、自分を変えていくきっかけになります。

最初のほうで身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法から引用した、マインドフルネスの説明を最後にもう一回読んでみましょう。

自分が何を感じているのかを知るのが、なぜそう感じるのかを知るための第一歩だ。

自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚していれば、その変化を管理する態勢に入れる。

だが、それが可能なのは、私たちの監視塔である内側前頭前皮質が、私たちの内部で何が起こっているかを観察することを学んだ場合に限られる。

だから、内側前頭前皮質の働きを高めるマインドフルネスの練習は、トラウマからの回復に非常に重要な一要素なのだ。(p160)

「自分の内外の環境における絶え間ない変化を自覚」する力、今この瞬間に意識を向ける内側前頭前野の力。

自然界をつぶさに観察するなら、現代社会に生きるわたしたちが失いかけている、今この瞬間をマインドフルに生きるための力を呼び覚ましてくれるのです。