定型発達は本当に“ふつう”なのか―コケの生態学からふと考えた発達障害やHSPのこと

「定型発達」と呼ばれている人たち、つまり現代社会において多数派を占めている人たちは本当に“ふつう”なのでしょうか?

このブログではかねてより、定型発達が「正常」で、発達障害(神経発達症)が「病気」や「障害」だとする考え方に異を唱えてきました。

自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)、限局性学習症(SLD)などを抱える人たちの生きづらさは、自分個人が病気や障害を持っているせいではなく、多数派が作った社会で、少数派として生きなければならないことからきているのではないか、という見方があります。

少数派を「障害者」と見なすと気づけないユニークな世界―全色盲,アスペルガー,トゥレットの豊かな文化
わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

発達障害の研究とオーバーラップしているHSP(敏感な人)の研究も同じです。敏感な人はずっと主流医学から、神経質、精神的にもろい、メンタルヘルスの問題を抱えやすいなどというレッテルを貼られてきました。しかし、実際にはより敏感で深い感性を持っているだけです。

多数派と少数派の対立は、しばしば正常と異常の対立に置き換わります。歴史を通じて、多数派を占める民族や宗教は、少数派を異端とみなして迫害や抑圧を繰り返してきました。

それと同じように、現代社会でも、多数派を占める定型発達者がデザインした社会のなかで、少数民族のような神経特性をもつ人たちが不適応を起こしてしまい、異常や病気とみなされてきたのではないか、そのような考え方をこれまで紹介してきました。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群
定型発達症候群(Neurotypical syndrome)は神経学的な障害である。「アスペルガー流人間関係 14人それぞれの経験と工夫」という本では、定型発達の人は、とても奇妙に

しかしながら、この見方では、あくまで定型発達者が“ふつう”、つまり人類の多数派であり、発達障害者は“異端”、つまり少数民族である、という前提はそのままでした。

ところが、最近、コケの自然誌という本を読んでいて、そこに疑問を持ちました。本当に定型発達はむかしからずっと人類社会において多数派、スタンダードだったのか?

もし過去の時代において、定型発達が少数派で、もっと多様な神経特性を持つ人たちが多数派を占める時代があったのだとすれば、「定型」つまり“ふつう”を意味するこの呼び名からして正しくない、定型発達などというのは幻想だ、ということになります。

タイトルにあるように、「ふと考えたこと」にすぎず、あまり細部の正確性には自信はありませんが、ご興味のある方はお付き合いください。

これはどんな本?

今回、とくに着想をもらったコケの自然誌は、ネイティブアメリカン出身の植物学者、ロビン・ウォール・キマラーによる、コケづくしの本です。

身の回りにありふれているコケ、けれどもどんな種類があるのか、どんな特徴を持っているのか、ほとんど知らないコケの世界が、詩的な感性と科学的な知識を織り交ぜて、生き生きと描き出されます。

この本は、あくまで自然科学の本にすぎず、定型発達や発達障害について書かれているわけではありませんが、読んでいてふと面白い連想が湧いてきました。

また、この記事の論議を補強する資料として、レスブリッジ大学の心理学者ルイーズ・バレットによる野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへを何度か参照しています。

これまでの科学や心理学は、個人の脳が行動を制御しているとする「脳至上主義」が主体でした。

しかし、近年の研究によって、実際には脳以外の身体や外部環境が、わたしたちの行動を大きく左右している、ということが、さまざまな動物たちの研究を通して解説されています。

おいおい説明しますが、「発達障害」の概念は、この脳至上主義の科学に乗っかって構築されたものなので、この土台が覆れば、概念そのものががらりと転換されるように思います。

人類の居住環境はこんなに変化した

定型発達は本当に昔から定型発達だったのか。

それを考える前にまず、逆のことを考えてみたいと思います。

つまり、発達障害は昔から発達障害だったのか、という点です。

科学や医学が発展する前から、人々は、さまざまな病気と向き合ってきました。感染症やトラウマについての記述は何千年も前の古い文献までさかのぼることができます。

しかし、発達障害やHSPのような概念は、人類の長き歴史の中で、何千年にもわたり存在していませんでした。こうした概念は、ほんの数十年前(その母体となる概念を含めても100年ほど前)にようやく現れたにすぎません。しかも、今になって爆発的に普及しています。

なぜかつては存在せず、今になって注目されているのか。

おそらくそれは、人類の歴史において、何千年ものあいだ、こうした概念は社会から必要とされていなかったからでしょう。

人類の歴史を通じてずっと、ADHDやアスペルガー、さらにはHSPのような神経的な特性をもった人々は存在していたはずです。

しかし、以前の社会ではそれらの人たちは生きづらさを感じていなかったので、それらは個性にすぎず、わざわざ病気や障害とみなす概念が必要とされなかったのです。

ところが、20世紀の終盤から、この21世紀にかけて、まったく事情が変わりました。

学校で不適応を起こす子どもが大勢現れたために、また社会で不適応を起こす大人が急増したために、発達障害やHSPのような概念が必要とされるようになり、これほど注目されるようになりました。

では、このわずかな期間に、いったい何が変わったのか。

わたしは、これまで見てきた発達障害についてのさまざまな研究から、変わったのは人類の居住環境だと思います。

従来の発達障害の研究は、あくまで個人の脳の側に「障害」があるとする理論です。

しかし、野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへに引用されている哲学者ジョン・デューイの言葉が示すとおり、わたしたちもまたヒトという生物種だとするなら、環境要素は度外視できません。

生物という観念について語るには環境という観念が不可欠であり、環境がいかなるものか考えてみれば、精神的生命体は真空状態で発達する孤立した個体とみなすことは不可能になる。(p138)

生物はみな、環境に適応して「発達する」のですから、発達障害をめぐる論議においても、環境はまず考慮されてしかるべき要素であるはずです。

産業革命以来、人類の居住環境は激変してきました。どれくらい変わったかというと、たとえば、以下にGoogle Mapのとある航空写真を載せてみます。

片方は日本の山村部の写真、片方は都心部の写真です。まったく環境が異なっていることは一目瞭然です。

わたしもそうでしたが、現代人のほとんどは、都会で生まれ育つので、ビルだらけの風景、通りを行き交う自動車の大群、絶え間ない騒音、星がひとつかふたつしか見えないような夜空、さらには一日の大半を学校や会社などの建物の中で過ごすことを当たり前だと感じて育ちます。

しかし、個人としてはその環境が“ふつう”に思えるとしても、ヒトという生物種にとっては“ふつう”ではありません。

最近、ナショナルジオグラフィックで、生物学者の中村桂子さんが次のように述べていました。

第4回 中村桂子(生命誌):人間は生きものの中にいる(提言編) | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

ところで人間がつくる現代社会は、38億年も続いた生きものが持つ知恵を忘れて機械の世界をつくり、それこそが人間らしい生き方だと勝手にきめています。これでは続いていけそうもありません。

人間は、自分もまた動物のひとつであることを忘れ、生き物らしい、ごく当たり前の居住環境を捨ててしまいました。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、いまはヒトの生物史上、空前の大移動の真っ最中なのです。

なにしろホモサピエンス全体で見れば、人類が正式に都会に生息する種になったのは、2008年のことだ。

この年、世界保健機関(WHO)が、都会に住む人の数が田舎に住む人の数を初めて上回ったと報告した。

アメリカ合衆国では昨年、この100年間で初めて郊外より都市部が速く成長した。

その変化を別の観点から見れば、現代は人類史上最大の集団移動のさなかにあるといえる。(p24)

人類は産業革命以降、とりわけ、ここ数十年のあいだに、もともとヒトという生物種が何千年もかけて適応してきた環境を捨てて、まったく新しい、馴染みのない環境に移住してきました。

これほど短期間のうちに、生育環境が激変したのに、ヒトという生物種に異変が起こらないということがありうるでしょうか。

発達障害の人たちは何に不適応を起こしているのか

ここで少し考えてみましょう。いわゆる「発達障害」と呼ばれる人たちが苦痛を感じ、不適応を起こすのは、どんな場面でしょうか。

たとえば、ADHDの子は学校でじっと座っていられません。授業に集中できず、動き回るからといって、「障害」だとみなされます。

でも、もともと人間は何千年もの歴史において、閉鎖された部屋の中で来る日も来る日も、子供時代の大半をじっと座っているという奇妙な風習をもっていませんでした。むしろ野外で狩猟や採集に勤しんでいました。

それゆえ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、かつてADHDという概念は必要ではなく、義務教育が普及して以降、必要とされるようになりました。

過激なスポーツを楽しむ選手のように、さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。

ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。

「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。

「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」(p305)

近年の社会の変化によって、いかにしてADHDという概念が作り出され、本来は障害ではないものが病気のようにみなされるようになってしまったのか、詳しくは以前の記事で書きました。

ADHD研究の混乱に埋もれてしまった、知られざる敏感な子どもたちの歴史
わたしたちが普段見かけるADHDの理解は、医学や教育にとって都合よく編集されたものであり、実際にはもっと複雑で多面的な性質がある、ということを歴史をひもといて考えます。

ADHDの人は遅刻の常習犯と言われますが、人間社会が厳密に時間を守るようになったのは近代化以降です。今でも、30分や1時間の遅刻は、ごく普通のことだという文化もあります。

自然界の動物はみな、それぞれ日照時間などを読み取って時間を測っています。それによって、おおよその時間は厳守します。しかし、近代社会ほど時間に厳密であるのは、生き物らしい営みではありません。

興味深いことに、ADHDの症状は、刺激の多すぎる都会では悪化するのに対し、自然豊かな環境のもとでは緩和されることが明らかになっています。

医者はADHDの症状を抑えるためにリタリン(コンサータ)を投与しようとしますが、自然豊かな環境に身を置くと、薬なしで薬と同様の効果が得られるという研究がありました。

ADHDは「自然欠乏障害」なのだろうか?ー自然不足が脳,自律神経,愛着,腸内微生物にもたらす影響
リチャード・ルーブが提唱した「自然欠乏障害」という概念とADHDのつながりについて、豊かな自然が脳機能や自律神経にもちらす効果、母なる自然に対する愛着障害、微生物生態系(マイクロバ

次に自閉スペクトラム症(ASD)についても考えてみましょう。

ASDの子は、人混みや雑踏、自動車や工事現場、電車などの低周波の騒音や、蛍光灯の照明に耐えられないかもしれません。だから「感覚過敏」だと言われます。

でもそんな刺激は、いずれも過去何千年もにわたる人類の歴史には存在していませんでした。すべてここ数十年、ヒトが人工的な都市に密集して住むようになったときに生み出されたものです。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ASDの人たちは、感覚過敏による苦痛を避けるために、もっと穏やかな自然の中に逃げ場所を求めるとされています。

こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。

また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。…現実の人間関係から距離を取ることで自分の安定をかろうじて保とうとする。(p101)

これは取り立てて特別なことなのでしょうか。

いまが人類の大移動の真っ最中だということを思い出してください。ASDの人たちは、ここほんの数十年のうちにヒトが新しく移住した刺激が多すぎる環境が肌に合わず、それまで何千年も暮らしていたような穏やかな環境を求めているだけではないでしょうか。

自閉症の当事者である東田直樹さんも、自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心の中で次のように書いていました。

自然は、いつでも僕たちを優しく包んでくれます。

…自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の心を落ちつかせてくれるし、僕が嬉しい時には僕と一緒に笑ってくれます。

自然は友達にはなれない、とみんなは思うかもしれません。しかし、人間だって動物なのです。

僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかもしれません。(p115)

現代人は生まれたときから都市にいるせいで、自分たちが動物と同じつくりをしているということはめったに考えません。でも、ヒトは動物ですし、身体のつくりや遺伝子は、わずか数世代で急激に変わったりしません。

ASDの人たちは、より強く「原始の時代の感覚が残っている」ために、人が密集して住む騒音だらけ、集団行動が当たり前の都市では不適応を起こしているのではないでしょうか。

現代社会にあふれる刺激に耐えられないのは、やはり感覚が敏感で、騒音などを苦痛に感じやすいHSPの人たちにも同様に当てはまるでしょう。

ひといちばい敏感な子によると、HSPの人たちは、神経系を落ち着かせる「ダウンタイム」を必要とします。

ローダというHSPの女性には、22歳、20歳、16歳の、3人の子どもがいます。3人ともHSCで、幼い頃から刺激に敏感なため、周りの子よりも多くの休憩時間、いわゆる「ダウンタイム」を必要としていました。

事あるごとに、「敏感すぎる」と言われてきましたが、それぞれ芸術に取り組み、自分の強い感受性を生かすすべを見つけ、実に個性豊かになりました。(p48)

ASDやHSPの人は、感覚が過敏なために、神経を休める時間や場所を必要とします。喧騒に満ちた刺激が多すぎる環境に長時間とどまることができません。

そのような環境は、昔からあったものではありません。ホモ・サピエンスが都市に移住したせいで、ここ数十年に急速に増加し、当たり前になってしまっただけです。

とすれば、過去何千年ものあいだ、すなわちホモ・サピエンスが自然と調和して暮らしていたころは、こうした人たちは不適応を起こしていなかったのではないか、と考えられます。

「外部環境にも同じだけ注目すべき」

限局性学習症(SLD)の子についても考えてみましょう。

学校のカリキュラムについていけない子どもたちは、落ちこぼれとみなされ、学習ができない障害があるとみなされてきました。

しかし、現代の学校の教育方針、つまりじっと座って知識だけを詰め込み、ペーパーテストで成績を判断するというやり方は、ヒトという種、そして生物一般にとって、ふつうの教育方法ではありませんでした。

植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、大学で植物学を学び、自らも教鞭をとっていますが、コケの自然誌の中で、現代の学校の教育方法は、伝統的な教育方法とはまったく異なる、と述べています。

伝統的なネイティブアメリカンの社会では、アメリカの公教育制度のやり方とはとても違った形で人は物事を学ぶ。

子どもたちは、見て、聞いて、体験して学ぶのである。彼らは、人間もそうでないものも、社会を構成するすべてのものから学ぶことを期待される。

直接何かを質問することは失礼なこととされる場合が多い。知識は奪い取るものではなく、与えられるものでなければならないのだ。

生徒にそれを受け取る準備が整って初めて教師は知識を授ける。辛抱強く観察すること、経験によってパターンとその意味を理解することの中から、たくさんの学びが得られるのだ。

1つの真実にもいろいろな姿があり、そのそれぞれが、それを口にする者にとっての真実であると彼らは考える。

それぞれの知識の出所の視点を理解することが重要なのだ。

私が学校で教えられた科学的方法は、直接質問を投げ、知識がその姿を現すのを待たずに、無理矢理に知識を要求するようなものだ。(p123)

ロビン・ウォール・キマラーは別著、植物と叡智の守り人のp286-309の中で、そのような教育が今でも可能だということを、自分が受け持つ民族植物学の実例を通して生き生きと描写しています。

このような「見て、聞いて、体験して学ぶ」方法が、いわゆる学習障害や発達障害の子どもたちに役立つ、ということは、かねてからさまざまな専門家たちたちが口にしています。

北欧スウェーデン発 科学する心を育てるアウトドア活動事例集:五感を通して創造性を伸ばすには、アウトドア教育の利点として、スウェーデンのカリーナ・ブレイジ博士の次のような指摘が載せられており、この記事の趣旨と一致しています。

知的障害・発達障害の子どもにとって、アウトドアで活動し始めるとインドアで見せなかった新しい役割が生まれる。(p122)

こうした意見に基づいて、発達障害や学習障害の子どもたちには特別な教育が必要だ、と言われてることがありますが、わたしはそれは間違っていると思います。「特別」な教育ではなく、「本来」の教育が必要なだけです。

そのような子どもたちは、確かに、産業革命以降、義務教育が普及するとともに一般的になった、ただ座って知識だけを詰め込むという奇怪な学習方法は肌に合いません。

でも、人類がそれまで何千年もやってきた方法、というより自然界のあらゆる生物が何千万年もずっとやってきた、ごくふつうの教育方法には順応できます。

わたしは中学校のとき、とても仲のいい友人がいました。その子はLDとは診断されていませんでしたが、明らかに勉強ができませんでした。でも家事や弟たちの世話のような家の手伝いは大得意でした。

一方のわたしは、学校ではトップクラスの成績でした。でもその子がやっていたような、実生活に役立つ知恵はほとんど何も知りませんでした。

もしいきなり文明社会から放り出され、人類が何千年も生きてきた環境に住むことになったら、そこにうまく適応できたのは、間違いなくその子のほうだと思います。

ただ座って知識を詰め込むだけの教育が役立つのは、受験のときだけです。しかし経験から学んで、実際的な知恵を身につける人類本来の教育は、あらゆる場面で、生きるために役立ちます。

わたしのようなテスト勉強しかできないような人間が「正常」で、友人のような実生活から知恵を学ぶことに秀でた人間が「学習障害」とみなされる社会は、どう考えても変です。

現代社会では、このようなADHD、自閉スペクトラム症、HSP、限局性学習症などの特徴を持つ子どもたちは、学校で起立性調節障害や概日リズム睡眠障害のような体調不良を発症し、不登校になることがよくあります。

現代の医学では、不登校の原因は、おもに個人の体質や心、さらには脳の問題にある、とみなされ、薬物療法や心理療法によって治療を試みられます。

けれども、生物学的に見れば、おかしいのは明らかに個人ではなく環境のほうです。

子どもの慢性疲労症候群の研究者である三池輝久先生が、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)などの著書で学校の環境を痛烈に批判しているとおりです。

子どものCFS研究の原点「学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているか」
不登校は、「生き方の選択」「学校嫌い」「心の未熟さ」「能力の欠如」「根性が足りない」「親の育て方のせい」なのでしょうか。医学の進歩は、子どもや親に原因を求める伝統的な考え方について

毎日毎日、何時間も発育途上の子どもを教室に詰め込んで座らせる、あるいは絶え間ない騒音が鳴り響いて、24時間明るい都市で成長する、といった、自然界の動物にとってはありえない環境のほうではなく、そこに適応できない子どものほうが病気や障害だとみなされるのはナンセンスだと思います。

医学は、異質な環境に対して生物学的に正常な拒絶反応を示しているごく普通の子どもに、「治療」と称して薬を投与し、異質な環境に無理やり適応させようとしているように思います。

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへで説明されているように、わたしたちは、特定の行動の原因をなんでもかんでも個人の脳に求めるバイアスがかかった社会に住んでいます。

何しろ、現代の西洋文化には、「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方を煽るものが蔓延しているのだから。

…ここで言いたいのは、多くの人々が幼い頃から、脳至上主義にどっぷりと浸かっているため、それを振り払うのは容易ではないということだ

(1990年からの「脳の10年」を経て、脳が極彩色で輝いているfMRIやPETの息をのむような画像を見られるようになった今はなおさらだ)。

…しかし…脳は、身体や環境の物理的特性と同様、動物がその目的を達成するために利用できる数々の資源のひとつに過ぎない。(p246)

発達障害という概念は、この『「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方』の上になりたっています。子どもが問題行動を起こすのは、その子個人の脳の発達に障害があるとみなす理論だからです。

しかし、それは誤りです。たとえば、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンは、従来の個人に重点を置く心理学を転換させ、環境との相互作用を重視した「生態学的心理学」を作りました。

今は亡き知覚心理学者ジェームズ・ギブソンが確立した、心理学への生態学的アプローチ、「生態学的心理学」として知られる理論だ。

この理論によると、心理現象は動物の「頭の中」で起こるものではなく、動物とその環境との相互関係にある。故に「生態学的」である。(p139)

ギブソンは、脳内活動がまったく行われていないとは、一言も言っていない。

動物の認知能力を研究するなら、動物の頭の中だけでなく、外部環境にも同じだけ注目すべきと主張しているのだ。(p162)

わたしたちもまた動物の一種なのですから、生態学的心理学に基づけば、個人が何か問題を抱えている場合、従来の発達障害の理論のように ただその人の「頭の中」に問題があるとみなすのではなく、「外部環境にも同じだけ注目すべき」です。

自然の中での暮らしに適応した「感じる」能力に秀でた子どもたち

このように、「発達障害」というレッテルを貼られている人たちは、高度に都市化された社会や学校に適応できないだけで、人類が何千年も暮らしていた環境ならば不適応を起こさないのではないか、という見方ができます。

ADHDやアスペルガーの概念が登場したのは、現代の都市型社会が発展したり、学校教育が普及したりした時期と一致しています。

この環境の大規模な変化により、文化の価値観の変化や、体内微生物(マイクロバイオータ)の生態系の変化などが生じました。

また、今日においても、都市に人口が集中する先進国では発達障害の診断が急増していますが、自然と調和した生き方をしている国や地域では、(紛争や貧困によるトラウマが問題となっている地域を除けば) 発達障害はそれほど注目されていません。

自然の多いところに住んでいる人は、精神疾患の発生率が下がるというさまざまな研究があります。いま都市で適応不良を起こしている人たちは、もし自然の中で育っていれば、そうならなかったかもしれないのです。

Being Surrounded by Green Space in Childhood May Improve Mental Health of Adults ? Neuroscience News (幼少期に緑に囲まれて育つことは成人になってからのメンタルヘルスを改善するかもしれない)

Greening Vacant Lots Reduce Feelings of Depression in City Dwellers ? Neuroscience News (緑化された空き地は都市に住む人のうつ症状を減らす)

国立公園近隣の子どもは健康で豊か、途上国で確認 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

なぜ精神疾患は進化の過程で取り除かれなかったのか? – GIGAZINE

こうした研究からすると、人類を取り巻く環境の劇的な変化によって、以前なら問題ではなかったものが、病気や障害とみなされているのが今の社会ではないでしょうか。

これはちょうど、もともとアマゾンの奥地で生きていた動物を、都会の動物園に連れてきたり、ヒマラヤの高地に咲いている花を植物園に持ってきたり、大洋を自由に泳いでいる魚を水族館に持ってきたりするのとよく似ています。

一部のストレスに強い動植物は適応するでしょう。しかし繊細な動植物は生きられないでしょう。ちょうど、深海生物が水揚げされて水槽に入れられても、短期間で弱って死んでしまうように。

ヒトという種のなかにも、もちろんストレスに強い個体と繊細な個体がいるはずです。

そのような繊細な個体、ここ数世代のうちに起こっているホモ・サピエンスの大移動による環境の激変についていけない個体が、現代社会で不適応を起こし、発達障害や神経症などと診断されているのではないでしょうか。

以前の記事でも引用しましたが、あなたの子どもには自然が足りないには次のような見解が載せられていました。

「私たちの脳は、5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできているのですよ」と、家族向けセラピストであり、ベストセラーとなった『よい息子』と『少年の不思議』の著者であるマイケル・グリアンは言う。

「神経学的には、人類は今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれていません。ただし脳は強くて融通が利くため、70から80パーセントの子供はかなりうまく順応しています。

でも、残りの子供たちにはそれができません。

彼らを自然の中へ連れ出すと、状況を変えることができます。ただ、私たちはそのことを事例として知ってはいますが、証明できるまでには至っていません」。(p113)

このような子どもたち、つまり「今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれ」ず、「5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできている」子どもたちは、病気や障害ではありません。

さっきのわたしの友人のように、ひとむかし前なら、適応障害を起こすどころか、かえって より生き生きと、「見て、聞いて、体験して」学び、親の仕事を手伝い、社会において成功できていたかもしれません。

このような子どもたちは、本当のところは発達障害ではなく、もっと自然と密接に暮らしていたころの世界に適応した遺伝子の名残を持つ人たちなのではないでしょうか。

彼らが過敏なのは、知識の詰め込みを重視する教育ではなく、「感じること」によって学んでいた時代に適応した神経系を持っているからなのではないでしょうか。

「感じること」に秀でた子どもは、産業革命前の社会、とりわけ、人類が何千年も暮らしていた社会においては、自然界のちょっとした機微を目ざとくキャッチして、より多くのことを、的確に学べたに違いありません。

たとえば、コケの自然誌に書かれている次のような状況では、“感覚過敏”な子どものほうが、よりうまく学べたはずではないでしょうか。

昔ながらの考え方によれば、ある植物に与えられている特有の賜を知る方法の1つは、その現れ方と消え方に敏感になることだ。

すべての植物を、意志を持った生きものと見なすネイティブアメリカンの世界観にしたがって、植物は、それが必要とされているときと場所にやってくる、とされている。

自分の役割を果たすことができる場所を探し出すのだ。(p162)

ある植物の存在理由は、それが生える場所から読み取ることができる。

森の中を歩き回っていて、険しい傾斜面を登ろうとして誤ってツタウルシをつかんでしまったときには、私はこのことを思い出し、すぐにもう一つの植物を探す。

ツタウルシが生えている付近の湿った土壌には、驚くほどの忠実さでツリフネソウが生えている。

手のひらで水気の多い茎を潰すと、気持ちの良い音ともに分泌液がほとばしり出て、私はその解毒薬を手のひらに塗りたくる。

するとツタウルシの毒が中和されて、かぶれなくて済むのだ。(p166)

こうした考え方は、迷信的なものではありません。生態学の観点からすると、生きものはみな、自分が生息する場所に適応して、特有の能力を発達させます。

ツタウルシの近くに生息する植物は、ツタウルシの毒に対処しなければなりませんでした。だから、近くに住む植物が解毒薬を持っているとしても驚くにはあたりません。

植物と叡智の守り人に書かれているように、先住民族のハーバリストたちは「薬は病気の原因のそばに生える」と考えます。「まず植物が適応し、それを人々が借用」するからです。(p292-293)

しかし、感覚を鋭敏に働かせて、周囲の状況を読み取る、というこのような学び方は、現代の教育に適応した子ども、たとえば学生時代のわたしのような子どもにはできません。

衛生的な都市型の生活は、私は、私たちを支えている植物から私たちを切り離してしまった。

…ほとんどの人は、薬用植物の役割を自然の中から読み取る力を失い、そのかわりに、不正開封防止装置つきのエキナセアの瓶に表記された「使用法」を読む。(p159)

かつての自然豊かな世界を生き延びるには「感じる」能力が敏感でなければなりませんでした。しかし、現代社会の教育では、ただ知識を教科書から読み取る能力だけが求められます。そこに感性は必要ありません。

「感じること」に秀でていた子どもは、かつての社会では活躍できましたが、現代社会では逆に不適応を起こします

その優れた「感じる」能力は、自然界の繊細な機微をキャッチする代わりに車や自動車の騒音や、人混みの雑踏や、24時間社会の明るすぎる照明や、大気汚染の化学物質に敏感に反応します。

たとえば「超人的な嗅覚」を持つ女性がパーキンソン病の判別に協力しているというニュースがありましたが、匂いに敏感なことは本来、異常をいち早く察知できる炭鉱のカナリア的な能力です。しかし、現代社会では匂いに敏感だと化学物質過敏症のような問題を抱えがちです。

また新しい刺激に敏感な新奇性探求の強い子どもは、野外ではより多くの動植物について実体験から学び、博物学者のようになっていけるでしょう。しかし現代社会では、身の回りの刺激に翻弄されてパニックを起こすので、ADHDなどの障害だと診断されます。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」には的確にも、次のように書かれていました。

私たちの社会では、少しでも違う刺激が加わると、行動面で、あるいは内臓面で敏感に反応してしまうことは、「悪い」ことであり、欠陥があるとして扱われます。

こうした道徳観は、発達的に「障碍がある」、精神的に「遅滞がある」、または注意力に「欠如がある」というレッテルをつけることでさらに強化されています。(p226)

「敏感に反応してしまうこと」は、かつて自然界のただ中では優れた能力でした。しかし、この刺激過多の都市型社会では あだとなってしまい、発達障害だとか心の病だとかみなされてしまっているのです。

かつては優れた能力であったものが、あまりに環境が激変した現代社会においては あだとなってしまうというパラドックスは、以前の記事で考えた、概日リズム睡眠障害の歴史において、とりわけ顕著です。

社会が24時間化する前は、概日リズム睡眠障害(つまり宵っ張りの朝寝坊)に悩む人はいませんでした。概日リズム睡眠障害は、発達障害と同じく、ごく最近になって急増した病気のひとつです。

しかし、なぜ概日リズム睡眠障害になりやすい人とそうでない人がいるのか。特に発達障害を抱える人が概日リズム睡眠障害になりやすいのはなぜか。

一般的な医学の見解では、発達障害をもつ人は、生体リズムが脆弱で、乱れやすいからだとされます。

なぜADHDの人は寝つきが悪いのか―夜疲れていても眠れない概日リズム睡眠障害になるわけ
ADHD(注意欠如多動症)の人は、疲れているのに夜寝つけない、ついつい夜更かししてしまうなどの睡眠リズム異常を抱えやすいといわれています。その原因が意志の弱さではなく、脳の前頭葉な

でもわたしは、概日リズム睡眠障害の歴史を調べたときに、どうやら問題はそれだけではない、と考えるようになりました。

概日リズム睡眠障害になりやすい人たちは、産業革命以前の、夜がもっと暗かったころの世界に適応した人間の生き残りなのです。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに書かれているように、おかしいのは明らかに環境側のほうです。

長時間にわたって光を浴びること、言い換えれば、夜に電灯をともす、また時には一晩中その光の中にいる状況は、すでに現代の生活では当たり前の光景になっている。

…1980年頃までは、人体は電灯の影響を一切受けないというのが医学の常識だった。しかし新たな研究は、人間は夜間照明に影響されないどころか、極めて敏感だということを示唆している。

…「夜に光を浴びるというのは、まったく不自然で異質な行為です」という [ハーバード大学医学大学院の睡眠の専門家スティーヴン・] ロックリーの言葉を、僕たちは次第に理解しつつある。(p124-125)

概日リズム睡眠障害を発症しているのは、この異常な環境に対して、真っ先に敏感に反応してしまう「炭鉱のカナリア」のような人たちです。

産業革命前、まだ光害が夜空を汚染しておらず、人々が小さなランタンや、夜空を覆う無数の星や月の明かりに従って生活していたころ、光に敏感であることは、メリットだったに違いありません。

光に敏感で、外部の光源の影響を受けやすい人たちは、朝は明るく、夜は真っ暗闇になる自然界においては、よりメリハリの利いた概日リズムを獲得できたでしょう。

僕たちの体に刻み込まれているサーカディアンリズムは、明るい昼と暗い夜が織りなす自然のリズムを通じて発達していった。

…何千万年ものあいだ、光の情報はもっぱら太陽が出ているか沈んでいるか、もしくはいまの季節は何かということを伝えるだけのものだった。

つまり、光は人間の体を目覚めさせる一方で、いずれ訪れる闇の時間(寝る時間)を体内時計に予測させる。(p131)

しかし産業革命後、電灯が普及して、24時間社会が到来しました。すると、外部の光源の影響がめちゃくちゃなので、光に敏感な人は容易に体内時計が乱れるようになりました。その結果、概日リズム睡眠障害と診断されます。

この考え方を裏付けているのが、以前に非24時間型睡眠覚醒症候群の記事に引用した、自閉スペクトラム症の女性ジョーンズのエピソードです。

睡眠リズムがどんどんずれていく非24時間型睡眠覚醒症候群(non-24)の原因と治療法まとめ
同じ時刻に眠ることができず、睡眠時間帯が毎日遅れてゆく。時差ぼけ症状に苦しみ、社会生活に大きな支障が生じる。そしてときには慢性疲労症候群(CFS)と診断される。数ある睡眠障害の中で

彼女は体内時計が刻々とずれていく重度の概日リズム睡眠障害(非24時間型)を患っていました。医学的な治療ではどうやっても治りませんでしたが、先史時代の人たちがやっていたようなアウトドア生活を送ると治りました。

24時間ずっと明るい、生物としては異質すぎる環境では体内時計がめちゃくちゃになりましたが、昼夜のメリハリがはっきりしていて、人工的な照明がないごく自然な環境に身を置くと体内時計は正常になったのです。

わたしも彼女と同様の非24時間型の概日リズム睡眠障害でしたが、彼女に倣って都会での生活をやめて、もっと自然豊かなところに行ってみると(アウトドアとまではいかなかったものの)、確かに治ってしまいました。

概日リズム睡眠障害以外の不眠症などの睡眠問題についても、たとえばこちらの記事で書かれているように、大都市の環境が原因になっているものが多いようです。

ロシアで不眠症が多いタイプは 専門家が明かす – Sputnik 日本

「ロシアに住むおよそ4200万人が定期的な睡眠問題を抱えている。統計によると、人口の30%に不眠症と診断できる。主にこれは大都市の住人で、産業的な環境が睡眠の質に痕跡を残している」

つまり、「巨大なメガロポリスに引っ越した人」の3分の1は将来的に睡眠問題を抱える可能性があるという。

ADHDにしろ、アスペルガーにしろ、HSPにしろ、今の社会で不適応を起こす人たちの問題の多くは、ここに集約するとわたしは考えています。

すなわち、かつて、もっと自然豊かな世界で暮らしていた時代にはメリットだった「感じる」能力の敏感さ、過敏さが、産業革命後に大きく様変わりし、刺激過多になった現代の都市型社会や教育制度のもとではデメリットを生んでしまっている、ということ。

かつての時代に適応した敏感な神経系を持つせいで、この刺激過多な社会では不適応を起こしてしまう子どもが、誤って、発達障害だとか、心の病気だとか、脆弱性があるとか、不登校だとかみなされている、ということです。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で神経科学者スティーブン・ポージェスがこう述べているとおりです。

行動病理学的に不適応であると解釈されたある行動は、ある環境においては適応的だったかもしれないのです。

それが別の文脈においては、不適応であり病的だったと解釈されるのです。(p252)

かつて何千年ものあいだ自然の中で生きていた時代には「適応的」だったはずの神経系が、ここ数世代のうちににわかに登場した刺激過多な社会では「不適応であり病的」だと解釈されているのです。

では、定型発達は本当に“ふつう”なのか

ここまで「発達障害は、昔から発達障害だったのか」ということを考えてきました。いよいよこの記事のテーマである、その逆のことを考えてみたいと思います。

わたしたちの世の中で、「発達障害」とみなされているものは、実はもっと自然と調和して暮らしていたころの世界に適応した敏感な神経系を持つ人たちの生き残りなのかもしれない。

かつてヒトが生息していた自然豊かな環境においては、多大なメリットを生んでいた敏感に「感じる」能力が、今日大きく様変わりした刺激過多すぎる都会の環境では、適応不全を起こしているのではないか。

この仮説をそっくりそのまま裏返すと、次のような意外な考えが思い浮かびます。

かつてヒトが生息してした自然豊かな環境においては、不利だったはずの「感じない」能力、言いかえれば鈍感さのような能力は、今日の刺激過多な時代においては打たれ強さやストレス耐性の強さとして役立つのではないか。

先ほど神経科学者スティーブン・ポージェスが述べていたこの言葉をもう一度考えてみてください。

行動病理学的に不適応であると解釈されたある行動は、ある環境においては適応的だったかもしれない。

この逆もまた言えるのではないでしょうか。

つまり、今の社会で適応的だと解釈されている行動、すなわち定型発達者たちの振る舞いは、別の環境においては不適応だったのではないだろうか?

わたしたちは、それを示唆する、とても有名な事例を学校で学びました。

それは、有名な進化論を考え出したチャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島で観察した、ダーウィンフィンチの自然淘汰です。

興味深いことに、グラント夫妻の追跡研究によれば、1977年のひどい乾期のあと、ガラパゴス諸島のダーウィンフィンチは、自然環境の変化に応じて、多数派と少数派が入れ替わることがわかりました。

生物の進化をその目で見届けた伝説の生物学者、グラント夫妻、40年の成果を語る|WIRED.jp

もともとガラパゴス諸島には多様なフィンチがいました。

しかし、 ガラパゴス諸島のひとつであるダフネ島の干ばつの際、大きいくちばしを持つフィンチが「小さなクチバシをもつ鳥たちよりも大きな種子を食べることができるため」生き残りやすくなるという自然淘汰が起こりました。

その結果、かつては多様な種のひとつにすぎなかったくちばしの大きなフィンチが多数派になりました。そのほかのさまざまな種は、干ばつの時代に適応するのが困難だったため、不適応を起こし、数を減らしました。

さて、今はわたしたちホモ・サピエンスにとって、環境が激変している時代です。少し前まで住んでいた自然豊かな環境から大移動した結果、あたかも生物学的な干ばつのような都市環境でヒトは生まれ育つようになりました。

ということは、今、この時代に多数派を占めている“定型発達者”なるものは、「くちばしの大きなフィンチ」と同じものなのではないのでしょうか。

つまり、かつては多様な形態のうちのひとつに過ぎなかったものが、環境の激変に合わせて大量発生し、社会において多数派を占めるようになったのではないでしょうか。

ずっと昔から多数派だったわけではなく、たまたま刺激過多すぎる都市で密集生活をするという異常な環境にすんなり適応できる性質を持っていたので、ここ数十年のうちに、あたかもヒトという種のスタンダードに思えるほどに増加したのが“定型発達”ではないのでしょうか。

そして、もともとあった自然な環境のほうに適応して発達していたがために、突然現れた異常な都市環境に対して不適応を起こしているのが、いわゆる発達障害やHSPと呼ばれている人なのではないでしょうか。

多数派だからといって“定型発達ゴケ”ではない

わたしがこの突飛に思える考えを思いついたのは、冒頭で書いたように、植物学者ロビン・ウォール・キマラーのコケの自然誌を読んだからでした。

この本の中には、生物にとって異質な都会という環境が一般的になるなかで、コケの生態系が変化したことが書かれています。

もともとコケは自然界のいたるところに見られ、さまざまな環境に適応している多様な生きものです。コケにはさまざまな種類、色合い、形があります。日本人はかつて、そんなさまざまなコケを見分け、愛でる感性を持っていました。

コケは、確かにわたしたちの住む都会にも分布しています。ちょっと道端の側溝をのぞき込めばコケの群生を見つけることができます。

しかし自然界のコケと、都会のコケは、その種類の分布が大きく異なっているとキマラーは言います。

コケの有無には意味がある。それは炭鉱のカナリアの役目を果たしているのだ。

…工業化が始まって間もなく都会からはコケが消え始め、現在も空気の汚染が激しいところではコケは減り続けている。

空気の汚染がひどくなるにつれて、かつて都会に繁殖していた30種類にのぼるコケが姿を消してしまった。(p154-155)

かつては30種にものぼる、多様なコケがわたしたちの身の回りに生息していました。だからコケにはさまざまな趣があり、日本人もネイティブアメリカンも、コケの美しさや機能性を愛してきました。

ところが、現代のわたしたちが住む、高度に都市化され、自然界の生態系と切り離された社会には、多様なコケのうち、ごくわずかな種しか生息していないといいます。

そのひとつはヤノウエノアカゴケです。

都会のコケは森のコケのようにフワフワとやわらかなかたまりにはならない。

都会という厳しい生育環境のせいで、コケのかたまりは小さく、住んでいる環境と同じように、ぎっしりと密集した硬いものになる。

…ヤノウエノアカゴケが最もよく見られるのは、駐車場の縁や屋根の上など、砂利まじりのところだ。古い車や打ち捨てられた貨車の錆びた金属部分に生えているのを見たことさえある。(p146)

また、やはり都会に多くみられる別のコケは、ギンゴケです。

野生のギンゴケの生息地はかなり特殊で、それに似た環境が都市に多く見られる。

都市の発達とともに、農業主体だった時代よりもギンゴケがずっと増えたことは間違いない。(p148)

本来なら30種はあろう身の回りのコケのうち、これらヤノウエノアカゴケやギンゴケなど一部の種類だけが、現代社会では多数を占めているといいます。

ではなぜ、ほかの多様なコケは生き残れないのに、これらの特別なコケだけは生き残り、都会という生物的には不自然な環境で大いに繁茂しているのか。

簡単にいえば、これらの種は、コケの中でも「汚染に強い」からです。

空気汚染に対する敏感さのおかげで、コケは汚染を測る生物測定器として役に立つ。

コケの種類によって、耐えられる汚染のレベルが異なり、その反応の仕方は非常に一貫しているのだ。

…都会のコケを研究している苔植物学者の観察によれば、コケの植物相は、都市の中心から外に向かって同心円状に変化する。

都市中央部にはコケがないことが多いが、その隣の区画には汚染に強い数種のコケが生えており、都市から周辺部に向かうほどその種類が増えていく。(p154-156)

コケは基本的に、汚染に対して敏感です。だから、「都市中央部にはコケがないことが多い」とされています。

しかし、コケの種の中には、汚染にひどく敏感な「炭鉱のカナリア」のような種もいれば、比較的鈍感で気に病まない種もいます。

そのため、コケのそれぞれの種の敏感さにしたがって、都市の中心部に近いほど生息するコケの種類は少なくなり、都会から離れるほど種類が増えていきます。

「炭鉱のカナリア」のような敏感な種は、都会の中心付近には住めません。自然淘汰によって少数派になり、やがて消え去ってしまいます。

他方、比較的鈍感で、汚染にも強いタイプのコケは、汚染がひどい地域に残って、そこで繁栄し、いつの間にか多数派を占めるようになっていきます。

これを読んでわたしは思いました。これって、発達障害やHSPの研究で言われていることとそっくりなのでは?

ヒトという種の中にも、さまざまな刺激、たとえば騒音や光害や大気汚染に対して、敏感な個体もいれば、比較的鈍感な個体もいます。

発達障害やHSPの人たちは、刺激に対して敏感に反応しやすいところは共通しています。とりわけHSPは生物学的に「炭鉱のカナリア」の役割を果たしていると言われています。

ということは、発達障害やHSPの当事者は、汚染に敏感なコケのようなものです。これらの種は、都市の中心に近づくほど不適応を起こします。

近年、「なぜ発達障害が増えているのか」という疑問が提起されていますが、彼らが炭鉱のカナリア的な役割を果たしている敏感な個体だとすれば説明がつきます。

これほど加速度的に、社会のありさまが自然のありようからかけ離れている時代であれば、年々、不適応を起こす子どもが増えたとしても意外ではありません。

たとえば睡眠衛生の専門家たちは、発達障害増加の一因は、光害の蔓延と24時間社会の普及による、睡眠時間の短縮にあると考えています。

実際、世界でもトップレベルのスピードで平均睡眠時間が減っている日本や韓国では発達障害の増加が大きなトレンドになっています。

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また微生物学の専門家は、抗生物質の乱用や衛生改革による微生物の生態系の破壊が、発達障害の増加の一因だと指摘しています。

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ほかにもさまざまな分野の専門家が、発達障害の増加の原因を指摘していますが、それらはいずれも、人類が自然界の生き物として自然なもともとの生活様式から外れている、ということに集約されます。

今や、年々人類は自然から遠ざかり、都市は明るくなり、昼夜のメリハリはなくなり、一日中絶え間ない騒音が鳴り響き、過剰に殺菌された環境が作られ、化学物質や食品添加物が増加しています。

数十年前はまだ、ひときわ敏感な「炭鉱のカナリア」のような子どもが不適応を起こしていただけだったかもしれません。

しかし、今やちょっと敏感な「準炭鉱のカナリア」的な子どもたちも不適応を起こしてしまう環境になったので、発達障害が増えているように見えるのかもしれません。

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では定型発達者は?  彼らは都会でも繁栄できる、ギンゴケやヤノウエノアカゴケのような「汚染に強い」数種のコケに相当します。

定型発達者は、生物学的には刺激過多すぎる「都会という厳しい生育環境」で繁栄しており、多数派を占めています。満員電車や、地下街の雑踏に、そして会社や学校の集団行動に適応しています。

それはあたかも、「住んでいる環境と同じように、ぎっしりと密集した硬いものに」なっているヤノウエノアカゴケのようではないでしょうか。

定型発達者たちは、現代社会において多数派を占めているがゆえに、自分たちは人類のスタンダード、つまり“定型”だと考えています。

しかし都会で多数派を占めるギンゴケやヤノウエノアカゴケが、コケのスタンダード、“定型発達ゴケ”なのでしょうか。

そんなことはありません。それらの種は単にあまり敏感でないおかげで、汚染の強い地域でも繁栄できるというだけであり、本当は、もっと多様性に富むコケのうち、たった二種にすぎないのです。

これは以前の記事で扱った「生存者バイアス」と呼ばれる錯覚です。

たとえば男性のほうが女性より能力が高いという古い考え方は、男性中心の社会環境では、男性のほうが社会的に「生存者」になりやすく、高い地位に昇進しやすいせいで生まれたものです。

ただ単に環境に恵まれていたために生存し、繁栄した種を、他の個体より優れているとか正常であると解釈してしまうなら、この生存者バイアスに陥っています。

現代社会で成功し、多数派を占めている集団を、より勝った「定型発達」とみなす考え方も同じではないでしょうか。

環境に対してあまり敏感ではない一部のコケが、刺激の多すぎる都市でたまたま多数派になったのと同じく、人類のうち「感じる」能力があまり強くないタイプの人たちが、都市環境において多数派の地位を獲得し、「定型発達」と呼ばれるようになっただけなのではないでしょうか。

現代社会では「感じる」能力が弱いほうが有利

定型発達者はいつの間に人類の多数派にすり替わったのか。

改めて、近年進行してきたホモ・サピエンスの大移動について考えてみましょう。ヒトの居住環境の激変がもたらした大きな変化は、社会の価値観の逆転です。

端的に言えば、それは、神経科学者スティーブン・ポージェスがポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で述べたように、「感じる」能力が強い個体が有利な社会から、「感じない」個体が有利な社会への変化です。

現代社会では、身体感覚についての重要性は無視され、軽視されてきました。

自分の行動を管理する戦略として、私たちは身体が伝えてくるフィードバックを無視するように教えられてきました。

高度に構造化され、社会化された環境内で成長する場合、私たちは自分の肉体的欲求に反応しないように、つねに自分自身に言い聞かせています。(p136)

すでに見たとおり、かつての自然豊かな居住環境のもとでは、「感じる」能力に秀でているタイプの人々が活躍していたはずです。

自閉スペクトラム症の人たちは、今でこそ“感覚過敏”だと言われます。

でも、自然の中で暮らしていたころは、動物や自然界の必要を敏感に察知できる人、東田直樹さんの言う「原始の時代の感覚」を宿していた人たちだったのかもしれません。

たとえば火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中で、よく知られたアスペルガー女性であり、家畜に優しい飼育施設の設計者でもあるテンプル・グランディンが述べている次の言葉に注目してください。

「家畜は自閉症のひとたちと同じ種類の物音に怯えます。振動数の高い音、しゅうっという音、それに突然の大きな音、そういうものには慣れることができないのです」とテンプルは語った。

「でも、振動数の低い音、ごろごろという音には平気です。それから、視覚的コントラストが強いもの、影、急な動きに怯えます。軽く触れると逃げますが、しっかりと触ってやると落ち着きます。

わたしが触られて身を引くのと、野生の雌牛が逃げるのとは同じなのです。わたしが触られるのに慣れることは、野生の雌牛がならされるのと同じです」

動物と人間は(基本的な知覚と感覚が)共通であるという認識があるからこそ、彼女は動物にあれほどの思いやりを示し、人道的な扱いを強く主張するのだろう。(p333)

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このような動物の感覚によりそう感性は、まさしく「原始の時代の感覚」であり、かつての数千年にわたる自然と調和した社会では大いに役立ったと考えられます。

とすると、それらの時代においては、感覚過敏な人のほうが社会で成功し、子孫を残しやすかったかもしれません。自然淘汰によって、感覚過敏な人が今よりも多く存在し、場合によっては多数派だったかもしれません。

(自閉症の人たちは、感覚が敏感なのではなく、鈍感で麻痺しているように見えることもあります。しかしそれは、あまりに過敏性が強いため、刺激過多な状況のもとでは耐えられず、逆にシャットダウンしてしまう反応、つまり解離が引き起こされているからだと思われます)

ADHDの遺伝子もそうです。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、ADHDの多動性や衝動性、また刺激に敏感なこと(不注意という特性は、敏感で気がそらされやすいことを意味する)は、狩猟や採集の時代には大いに役立ったはずです。

落ち着きのなさはかつて、環境への「適応性にすぐれている」という特長ととらえられていたが、いまは障害と見なされるようになった。

最近のADHDの治療薬の広告には、留意が必要な「症状」のリストが挙げられている。

「高いところに登りたがる、たえず走り回る、じっと座っていられない」(p300)

もしかすると、遊牧民族や騎馬民族の中では、やはり自然淘汰のおかげで、ADHDのほうが多数派だったかもしれません。

また、学習障害については、さっき書いたとおりです。自然界の中で見て、聞いて、感じて学ぶ学習スタイルの社会なら、彼らのほうがよほど有利だったでしょう。

いずれにしても「感じること」が得意な人たち、自分の身体を動かして、実体験から学ぶのが得意な人たちは、自然と調和して生きる時代であれば、もっと社会に適応し、成功していたはずです。

そうであれば、古き時代においては、今よりももっと、ADHDやアスペルガー、HSPなどの特徴を持つ人たちが多く、人類は多様性に富んでいたはずです。そもそもそれらの遺伝子が脈々と受け継がれてきたのは、そこにメリットがあったからです。

ところが、産業革命以降になって、さらにはここわずか数十年のあいだに、急激に都市化が進み、人類の居住環境が激変し、学習スタイルも変わりました。

すると、これら「感じること」に秀でていたさまざまな多様な種、コケで言うところの環境に敏感に反応する能力を持っていた多様な種は大打撃を受けます。

その代わりに、今まであまり目立たなかった種、すなわち「感じる」能力が弱く、おそらくは少数派であった種が、にわかに自然淘汰のスポットライトを浴びます。

感じる能力が弱いということは、悪く言えば鈍感、よく言えばストレス耐性が強いということなので、「都会という厳しい生育環境」でこそ活躍できます。そうすると多数派と少数派が逆転します。

「感じる」能力に秀でた人たちの多くは、人類の居住環境の都市化とともに、早い段階で不登校になったり、概日リズム睡眠障害になったり、精神疾患になったりして脱落するので、子孫を残せなくなります。

逆に、「感じる」能力が鈍感な人たちは、打たれ強さのおかげで、知識の詰め込み教育や集団行動や人混みや騒音や公害を耐え抜くので、結果的に子孫を多く残し、自然淘汰によって、いつしか多数派になります

わたしたちはその、多数派と少数派の逆転が起こった後の世界に生まれ育ってきました。フィンチにおける自然淘汰があれほど速く進んだのであれば、人類の都市化による自然淘汰も迅速に進んだはずだからです。

そうだとすると、現代社会の抱える本当の問題は、「なぜ発達障害者が増えているのか」ではなく、「なぜこれほど定型発達者の割合が増加し、まるで人類のスタンダードであるかのように定型発達を名乗るようになったのか」ということなのではないでしょうか。

アーバンクリフ仮説―定型発達者はどこから来たか

では、これら都市において急増し、あたかも人類という種の「定型」であるかのように見える、多数派を占める人たちは、もともとどこから来たのでしょうか。

ここでもコケの生態学がヒントになるかもしれません。

多種多様なコケのうち都会で繁栄しているギンゴケについて、コケの自然誌の中で次のように書かれていたのを思い出してみましょう。

野生のギンゴケの生息地はかなり特殊で、それに似た環境が都市に多く見られる。

都市の発達とともに、農業主体だった時代よりもギンゴケがずっと増えたことは間違いない。(p148)

都会で繁栄しているコケ類は、もともとは「かなり特殊」な環境に生息していた種にすぎませんでした。

しかし都市環境が増えるにつれ、その「かなり特殊」な環境が一般的になったおかげで、一躍、多数派の地位に躍り出たのです。

はたして都会のコケがもともといた「かなり特殊」な環境とはどんなところだったのか。

生態学者のダグ・ラーソン、ジェレミー・ルンドホルム、そして彼らの同僚たちは、都会で人間と共生する、ストレスに強い雑草のようなコケ類は、人間の歴史のごくごく初期からあったのではないかと推測した。

彼らが提唱した「アーバンクリフ仮説」は、自然界の岸壁の生態系における動植物相と、都会に存在する壁面のそれとの間に、驚くほどの共通点があることを述べている。

雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなどの多くは、どれも断崖や崖錐の生態系に特有のものだから、それらが人間と都市を共有しようとするのも驚くにはあたらないかもしれない。(p145)

都会で繁栄しているコケ類をはじめ、ストレスに強い「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなどの多く」は、もともとは断崖のような特殊な環境に適応した生きものだったようです。

確かに都会では「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」はそこらじゅうにいます。

どうして、都会にはそれら一部の生きものだけが大量発生しているのでしょうか。なぜ森にいるようなもっと多様な生きものは、動物園や植物園に行かなければ見られないのか。

アーバンクリフ仮説が正しいなら、都会とは断崖のような特殊すぎる環境です。そのため、多様性に富む動植物の多くは全滅してしまい、ごく少数のストレスに強い種だけが生き残った結果、生態系が貧しくなったのです。

では、やはり都会という環境において大いに栄え、多数派を占めるまでに急増した定型発達者はどうなのか。

こんなことを書いてしまうと、ひんしゅくを買いそうなのですが、わたしはふと思ってしまいました。

ヒトもまた動物の一種にすぎません。ヒトだけが例外になるとは思えません。

もしかすると、都会で多数派を占める定型発達者というのは、いわば「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」と似たような性質を持つ種なのではないのか。

これらと定型発達者は、「ストレスに強い」、そう簡単には死なず、やたらと生命力が強いという意味で確かにそっくりな気がします。

何せ、大都会で多数派を占めている定型発達者たちは、呼吸できないような満員電車に毎日詰め込まれ、地下の人混みをかきわけて会社に向かいます。

一日中接客をして、飲み会につきあって、栄養不足の出来合い物で食事をし、夜遅くやっと眠りにつき、来る日も来る日も同じことを繰り返します。

そのあいだずっと、生物としてはまともに許容できないほどの騒音、公害、24時間明るい蛍光灯やLEDにさらされ、パーソナルスペースをほとんど確保できない住居で過ごしています。

もちろん、どこかで健康被害を被るかもしれません。それでも長年、その生活を続けられるというだけで打たれ強さは折り紙つきです。

敏感な子どもはそうはいきません。社会に出るまでもなく、子どものときに早くも破綻して、不登校になったり、発達障害と診断されたり、さまざまな病気にかかって引きこもりになったりします。

でも、生物学的な観点からすれば、それが普通なのではないでしょうか。身の回りの30種ものコケのうち、そのほとんどすべてが、都会での生活に耐えられず、全滅してしまうのです。人間だって同じでしょう。

しかし、コケのうちわずか数種の、やたらと打たれ強い種が都会で繁栄するように、また動植物のうち「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」が都会でも生きていられるように、ヒトのなかにも、鈍感さゆえにストレスに強い種がいたはずです。

コケや他の動植物の場合、自然淘汰が起こると、環境に適応できない種は死に絶えてしまい、姿を消します。そのため、都会の生態系にはストレスに強い一部の種だけが残ります。

自然界では適応できないことは死を意味します。だから都会では、敏感な動植物は自然淘汰によって一掃され、いなくなってしまいました。

しかしヒトの場合は、動植物と違って、適応できないからといって死に直結しません。都市のような刺激の多すぎる環境では、やはり敏感な個体が不適応を起こしますが、自然淘汰によって種が消え去るまでは至りません。

なぜなら、動植物と違って、福祉サービスや家族の支えによってかろうじて生き延びることができるからです。「不登校」「引きこもり」「精神障害者」などのレッテルを貼られながら

もちろん、社会的には死んでしまうので、そのような個体が、成功したり、結婚して子どもを設けたりする可能性は激減します。種として消えてしまうには至りませんが、子孫を残せる確率が低いために、明らかに少数派にはなっていくでしょう。

このようにして、わたしたちが今見ている現代社会の多数派と少数派の構造が作られたのではないでしょうか。

刺激過多の環境でもしぶとく生き延びられる「定型発達者」という種族が多数派を占め、敏感な感性を持つ少数派の子どもが早期に脱落して「不登校」「発達障害」「精神疾患」のような社会のお荷物だとみなされてしまうこの社会が。

「倫理観があべこべなのだ」ー医学は多数派を健康だとみなす

自分でも突拍子もないことを書いているなと思いますが、本当にこんなことが、多数派より少数派のほうがまともな感性を持っているのではないか、というようなことがありうるのでしょうか。

実はわたしは、前にもこうしたことを書いた記憶があります。睡眠の研究において、あるときから多数派と少数派が逆転してしまったせいで、本来は正常な人たちが異常とみなされ、新しく現れた異質な人たちが医学的に健康だとみなされてしまったという事例について。

歴史をひもといてみると、産業革命以前の人たちの睡眠は、「分割型の睡眠」という、夜中に何度か目覚める睡眠が普通だったようです。そのような睡眠スタイルは、精神的健康に寄与していた可能性があります。

ところが、産業革命以降、24時間社会が到来し、一部の人だけでなく、すべての人の睡眠がおかしくなりました。すると夜中に目が覚めない「圧縮型の睡眠」をとる人たちが多数派になってしまいます。

その結果、夜中に何度か目が覚めるという、生物学的には正常な眠りのパターンを示す人たちが、「中途覚醒」という異常だと扱われ、睡眠薬で治療されるようになってしまいました。正常と異常の定義が逆転したのです。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

また、「朝型」と「夜型」の遺伝的クロノタイプについてもそうです。もともと人類はいつの時代も夜警を必要としたはずなので、夜に適応したリズムを持つ人たちは昔からいたはずです。

しかし現代社会では「夜型」は学校での成績が悪く病気のリスクが高いと繰り返し報道され、いつしか夜型生活を送る人たちは病的で、早寝早起きが健康のスタンダードだとみなされるようになりました。

けれども、実際には「夜型」の遺伝子が病的なのではありません。そうではなく、多数派を占める「朝型」が作った社会に無理やり合わせるよう求められるせいで不適応を起こし、二次的な健康被害が起こっているだけです。

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「なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?」という本の書評です。若者の夜ふかしは、スマホなどの環境によるものではなく生物学的なものであり、学校の始業時間は遅くすべきだとい

こうしたエピソードから学べる教訓、それは、「医学は多数派を正常とみなし、少数派を異常や病気とみなす」ということです。

本当は生物学的にはおかしくても、99%の人が異常を抱えていて、1%の人が正常だった場合、医学的には99%のほうが正常だとみなされるでしょう。こんなに多いのならそちらが普通なのだ、という錯覚が起こるせいです。

でも、これまで見てきた、ダフネ島の干ばつのときに増加したくちばしの大きなフィンチや、都会でよく見られる汚染に強いコケの例からわかるように、多数派であることは、普通である、ということを意味しません

それらが多数派をしめるのは、普通でない環境に適応し、有害な影響をものともせずに繁殖できる種だからです。より正常な感覚をもつ「炭鉱のカナリア」のような種はとっくの昔にそこからいなくなってしまっています。

多数派と少数派が逆転してしまうことで、正常と異常の判断が逆転してしまう例は、医学のみならず、他のさまざまなところでも起こります。

たとえば、コケの自然誌に書かれているコケむした屋根のエピソードです。

著者の植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、屋根に生えたコケを除去するビジネスについて、こんなことを書いています。

コケ除去ビジネスが大繁盛だ。ホームセンターの棚には、Moss-OutとかMoss-B-Goneとか、X-Mossといった名前の製品が並び、ビルボードの広告は「小さくて緑でフワフワのそいつをやっつけろ!」と言う。

…屋根葺きを仕事にする人たちは、コケは屋根板を傷め、いずれ雨漏りがするようになる、と信じ込ませてしまった。(p150)

都会に住む人たちは、屋根にコケが生えているのはよくないことだと考え、コケ除去のビジネスが活況を呈するようになりました。

しかし、この考え方には科学的根拠がなく、どちらかというと、屋根にコケが生えているほうが好ましいと言える理由があるようです。

だが科学的には、この主張は肯定も否定もされていない。

…実際、屋根に生えたコケは、屋根板が強烈な日射しに晒されてヒビが入ったり反ったりするのを防いでくれる。

コケは夏には冷却層となり、雨が降れば雨水が流れ落ちるのをゆっくりにしてくれる。(p150)

コケ除去ビジネスは、本当は有用なはずのコケを異常だとみなして排除し、コケのない屋根という不自然で機能的でもないものを正常だとみなしています。

なぜそうなってしまったのか。キマラーはこう説明します。

きちんとした郊外の住宅地には暗黙の了解があって、コケの生えた屋根は、屋根板が腐っているばかりでなく、道徳的な退廃をも象徴しているとされるらしい。

倫理観があべこべなのだ。

コケが生えた屋根は、持ち主がメンテナンスの責任を果たしていないことを意味するようになってしまった。

自然界で起きることと喧嘩するのではなくて、それと共に生きる術を見つけた人こそ、倫理的に優れているとされるべきではないのだろうか。(p150-151)

「倫理感があべこべなのだ」。

この一言に尽きます。おそらく、昔は屋根にコケが生えているのが普通だったことでしょう。しかしある時点で、わざわざコケを除去する家が増えてきて、コケむした屋根より、コケのない屋根のほうが多くなってしまいました。

すると、住宅地の人々は、コケだらけな屋根は手入れが行き届いていない証拠だという誤った倫理観を抱き始め、そのような家の人を非難するようになります。

多数派と少数派が逆転したせいで、コケを除去するのが正常で、除去しないのは異常だという、本来の自然とは真逆の倫理観が生まれたのです。

以前の記事で書きましたが、これのもっと大規模なバージョンが「殺菌」「除菌」「抗菌」などを謳い文句にしたビジネスです。

微生物学によると、身の回りの細菌は、わたしたちの健康に大いに寄与し、かけがえのない役割を果たしています。

しかし抗生物質が普及し、細菌=悪いものという誤った認識が広まったせいで、現代人は、身の回りにいる細菌を、さらには自分の体内にいる有用な細菌までを除去してしまい、さまざまな体調不良を抱えるようになりました。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ
2015年の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたマーティン・ブレイザー教授の「失われていく、我々の内なる細菌」から、抗生物質や帝王切開などによってもたらされている腸内細菌(

こうした例と同じことが、現代の定型発達者と発達障害者の関係にも起こっているのではないでしょうか。

たとえば、子どもはふつう、走ったり遊んだりするものです。それなのに、そんな自然な感覚や衝動を抑制して、さらにはくしゃみやあくびやトイレに行きたいというような生理作用をさえ我慢して、緊張感のなか半日以上狭い教室の中に集団で詰め込まれ、ひたすら知識だけを詰め込む、それがはたしてふつうのことなのでしょうか。そうは思えません。

ところが、義務教育が制度化され、だれもが学校に通うことを義務づけられたとき、学校に通う人が突如として多数派になりました。

すると、倫理観があべこべになりました。学校でじっと座って勉強している子が正常だとみなされ、学校に行かずに野原で遊んだり、家事を手伝ったりしているような子は「登校拒否」「不登校」「引きこもり」というレッテルを貼られるようになりました。

わたしたちが生まれ育つ都市という環境にしてもそうです。生物の生きる環境としてはあまりに異質ですが、みんながそこで生活しているせいで、不適応を起こす子のほうがおかしい、とみなされるようになりました。

このトリックに気づけないのは、現代人のほとんどが、生まれたときから都市で生活し、学校に行くのが当たり前だという育てられ方をしてきたからです。

それが当たり前だから、何かがおかしいと気づくことができません。いくら本来の人間のありようとはずれている、生物学的には異常な環境であったとしても、生まれ育った文化の歪みに気づくのはとても難しいことです。

子どものときからそう育てられ、親の世代も祖父母の世代もそう育てられているがために、都市や学校の環境をおかしいと考えることができません。

以前の記事で書いたように、心理学者ピーター・カーンは、数世代にわたって異常な環境に住み続けると、もはや自分たちが何を失ったのかがわからなくなり、異常な環境をふつうだとみなす「環境性・世代間健忘」が起こると述べていました。

何よりも、わたしたちの社会で成功し、学問を主導している学者や医師、また学校の先生などは、そのような世の中に適応できてきた人たちの集まりなのです。

彼らにしてみれば、自分がそうだったように、都市や学校に適応できる子どものほうが正常で、適応できない子どもは病気や障害だとみなすことになんの疑問も持たないでしょう。

そもそも「定型」など存在するのか―多様性なき社会

このように、定型発達と発達障害を取り巻く議論は、実際には歴史のある時点で、多数派と少数派が逆転したことによって起こった、正常と異常の概念の逆転ではないか、とわたしは思います。

でもそれは、環境が激変したことで、単に多数派と少数派が入れ替わっただけなのでしょうか。

もともと自然豊かに環境に適応していた「感じる」能力に秀でた種と、都会生活に適応した「感じる」能力が弱くストレスに強い種がおり、人類が自然の中から都市へと大移動するにつれ、その割合が逆転しただけなのでしょうか。

もしそうなら、それはよくある自然淘汰の例にすぎないということになるでしょう。ある時代の環境ではAという種が栄え、その後、環境が変化すると、今度はBという種が栄えます。

AもBも、その時代特有の環境に適応した種にすぎず、そこに優劣はありません。その時々の環境に適応した種が繁栄し、適応しそこねた種が減少するのは普通のことです。

でも、わたしは、なんとなく発達障害と定型発達の問題は、単なる多数派と少数派の逆転ではないような気がしています。もう一度、コケの自然誌に書かれていた次の記述を見てください。

都会のコケを研究している苔植物学者の観察によれば、コケの植物相は、都市の中心から外に向かって同心円状に変化する。

都市中央部にはコケがないことが多いが、その隣の区画には汚染に強い数種のコケが生えており、都市から周辺部に向かうほどその種類が増えていく。(p154-156)

ここでは、都市という環境にはAというコケが多く、自然豊かな環境にはBというコケが多い、とは書かれていません。

そうではなく、都市という環境にはわずかな種のコケしか生息しておらず、自然豊かな環境に行くほど、コケの種が多くなり、多様性が増すと書かれています。

言いかえれば、都市という劣悪な環境では種の多様性が貧しくなり、単一性が強くなります。さっきの「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」に代表されるような、同じような生きものだらけになります。

他方、自然豊かな環境では、種の多様性が増し、さまざまなタイプの生きものが共存します。人間の手が入っていない森に少しでも入ってみればわかりますが、そこには数え切れないほど多様な種が共存しています。

自然豊かな環境より、都市のほうが生態系が貧しくなることは、微生物のレベルでも起こっています。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかに書かれているように、都市に住んでいる人と先史時代の生活環境に住んでいる民族の体内の微生物群集(マイクロバイオータ)を調べてみると、その違いは明らかです。

数年前、ターニャ・ヤツネンコとマリア・グロリア・ドミンゲス=ベロ、およびワシントン大学のジェフリー・ゴードンが率いる研究チームは、ヤマノミ族と同じアマゾン川流域に住む民族グアイーポ族、南アフリカのマラウイの農耕民族、そしてアメリカの都市住民の腸内微生物の構成を調査した。

…気になるのは、彼らの発見によれば、典型的なアメリカの食生活が身についている人は、先史時代の生活様式を保持する人々に比べて、腸内微生物の多様性が最大で三分の一ほど失われていることだ。(p209-210)

自然豊かな環境に住んでいる民族の腸内微生物は多様性豊かでしたが、都市部に住んでいる人たちの腸内微生物は多様性が減っていました。コケの分布とよく似ています。

自然豊かな環境に比べ、都市の生態系が貧しくなることは、コケの自然誌の中に出てくる、「中規模撹乱仮説」という概念によっても裏付けられるように思います。

ワシントン州の荒磯とキカプー川の岩壁は、中規模撹乱仮説として知られるようになった仮説が生まれる一助となった。

生物の種多様性は、撹乱が稀あるいは頻繁すぎる二極の中間であるときに最も高くなる、というものだ。

生態学者によれば、撹乱が皆無のときには、ジャゴケのような強者が徐々に他の種を侵害し、競争的優位によってそれらを駆逐してしまう。

撹乱が頻繁なところでは、それに耐えられる最も頑健な種しか生き残れない。

だがその両極の間の、撹乱の頻度が中庸なところでは、多様な種の繁茂を可能にするバランスが保たれているらしいのだ。(p108)

中規模撹乱仮説とは、環境からの撹乱が中程度のときに、最も種の多様性が豊かになり、健康的な生態系が生まれる、という考え方です。

他方、撹乱が少なすぎたり、多すぎたりする極端な環境だと、特定の頑健な種だけが生き残り、生物の多様性が貧しくなってしまいます。

都会はまさに、極端に撹乱が多すぎたり少なすぎたりする環境です。都会では生態系が貧しく、同じ生きものばかりになってしまっています。

さて、もちろんヒトもまた動物の一種なので、このことは例外なく人間にも当てはまります。

都会では多様性が減り、自然豊かな場所では多様性が増すということを、ヒトに当てはめるとどうなるか。

ここ数世代のうちに高度に発展した都市環境では、同じような種類の人間ばかりが増加して多様性が欠けるのに対し、それ以前にあった自然豊かな環境では、もっと個性豊かで多様な人間がいた、ということになるでしょう。

だとすると、これら都市で増えている多様性に欠けた種こそが「定型発達」であり、もともといたはずの多様性豊かな種こそが、「ADHD」「自閉スペクトラム症」「HSP」「限局性学習症」などと呼ばれている人たちではないでしょうか。

そもそも、「定型発達」という言葉自体が、みんな同じ、という意味合いを帯びています。人間の脳には、一定のスタンダード、標準規格があると言っているようなものだからです。

現代社会の多数派が定型発達である、ということは、すなわち都市に生きる人間の大半が、多様性に欠けている、という意味です。これは都会において生態系の多様性が減少するさまと一致しています。

一方で、発達障害者はみなひとりひとり違う、と言われます。同じ個性や特徴を持つ人は一人としていません。悩みごとも才能も色とりどりです。

そもそも、以前の記事で書いたように自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)によると、ローナ・ウィングが「自閉症スペクトラム」という用語を選んだのは、自閉症の当事者たちが虹色のような多様性を持っていると感じたからでした。

結局彼女は「自閉症スペクトラム」という用語を採択した。

美しい虹のイメージや自然の持つ非常に多様な創造性を証明する現象を連想させる、その言葉の響きを気に入ったのである。(p449)

自閉症研究の暗黒時代に埋もれてしまった、知られざるアスペルガーの歴史
あまり知られていない自閉症の発見者ハンス・アスペルガーの人となりや、時代を先取りした先見の明のある洞察について考え、自閉症研究の歴史を再考してみました。

でも、本当に定型発達の人たちは多様性が少なく、自閉スペクトラム症の人たちは多様性が豊かなのでしょうか。

自閉症という謎に迫る 研究最前線報告 (小学館新書)には自閉症児と定型発達児の脳のネットワークのつながりをMEG(脳磁図計)で測定した研究結果について、次のようなことが書かれていました。

黒丸が定型発達児26人の位置する場所で、ほぼ中央にかたまっています。

それに対して白丸が自閉症児の26人で、定型発達児の値よりも広い範囲で分布しています。

人の脳の特徴は、フルーツのようにシンプルではないので、この「脳の特徴1」と「脳の特徴2」にどのような意味があるのか、まだわかっていません。統計的に出ただけであり、明確な説明はできません。

しかし、1つ言えることは、自閉症は一方のみに広がっているとは言いがたく、これは自閉症児が定型発達児よりも脳の多様性が高いことを意味しているということです。(p134)

「自閉症児が定型発達児よりも脳の多様性が高い」。定型発達の脳は均一に近く、多様性が少ないのに対し、自閉症の脳はもっと多様で色とりどりのスペクトラムなのです。

もっと言えば、発達障害にはASDだけでなく、ADHDやSLDの子たちもいます。加えて、敏感なHSPの子どもたちなども含めれば、定型発達と非定型発達のどちらが多様なのかは言うまでもありません。

そして、生態学では、生物の生態系は多様性豊かなほうが健康だとみなされます。都会における種の多様性が貧しい生態系は不健康で、手つかずのジャングルのような多様性あふれる生態系こそ健康です。

ということは、現代社会では「定型発達者」が多数派を占めるという事実そのものが、都会に移住した人類が不健全な生態系に陥っていることの証拠ではないでしょうか。

人類の脳にはスタンダードな型が存在するという、「定型発達」という概念自体が不自然です。定型発達が正常だと述べる専門家は、多様性が貧しい生態系を正常だとみなしていることになります。

発達障害の専門家たちは、昔の人の中にも、発達障害の特徴を持った人がいた、とよく言います。

このブログでも過去に書きましたが、アインシュタインやダ・ヴィンチや、ベートーヴェン、モーツァルト、ゴッホ、ピカソ、エジソンなど、いつの時代にも発達障害のような人はいた、と説明されていました。

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ADHDだったとされる画家ピカソ、アスペルガーだったとされる画家ゴッホを比較して、ADHDとアスペルガーの違いや共通点を考えています。

でも、この考え方は、あくまで、いつの時代も人類の種の多数派は定型発達だったという前提に基づいています。昔からアウトサイダーの発達障害を持つ人はいたんだよ、と述べて、当事者たちを安心させようとしています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。この記事で考えてきたことからすれば、産業革命を契機に人類の居住環境が激変してきたので、自然淘汰が働いて、人類の多数派と少数派は複雑に変動しているはずです。

そうだとしたら、現代社会で多数派を占める定型発達なる者たちが、人類史のいつの時代においても多数派だったとは考えにくく思います。

もし人類の多様性がコケの生態系と同じようなものなのであれば、人類がもっと自然と調和して生活していた時代は、今よりも脳の多様性が豊かだったと考えられます。

定型発達という一種のみが大多数を占めているのではなく、それこそジャングルの生態系の多様性のように、人類は色とりどりの個性と多様性をもつ人たちの集まりだったのではないでしょうか。

発達障害の専門家たちは、発達障害者は昔からいたと述べますが、わざわざ探さなくても、古代においては、今日では発達障害とみなされているような色とりどりの個性が普通だったのかもしれません。

逆に、アーバンクリフ仮説において、「ストレスに強い雑草のようなコケ類は、人間の歴史のごくごく初期からあったのではないか」と言われていたように、現代社会で繁栄しているストレスに強い定型発達者のようなタイプが、はるか昔から、人類の多様性の一種として部分的に存在していたことに注目すべきなのかもしれません。

最初のほうで書いたように、人類史の何千年にもわたり、発達障害という概念は必要とされませんでした。その概念が作られたのは20世紀になってからであり、ここ数十年に急速に普及しました。

このような歴史をたどったのは、かつては人類が色とりどりだったので、神経発達的には極端な多数派と少数派が存在しなかったからではないでしょうか。

100人いればみんな個性が違っていて色とりどりだったので、定型発達、アスペルガー、ADHDなどという大枠なカテゴリ分けをする余地がなかったのです。

しかし、人類が都市環境に住み始めると、極端な撹乱のせいで生態系のバランスが崩れ、それまでは多様なタイプのひとつにすぎなかった「定型発達」というストレスに強い種が増加し、それまでにない一大勢力として台頭しました。

人類は単一の民族や宗教が強大になると、歴史を通じて、いつも同じことをしてきました。均一な多数派による、多様な少数派の抑圧です。

逆説的に思えますが、発達障害という概念が現れたのは、定型発達という多数派の集団が現れた結果なのかもしれません。

「定型発達」は科学のバイアスが生み出した?

定型発達という概念が生まれた背景には、もうひとつ、学問的なバイアスが絡んでいるようにも思えます。

ヒトの脳には「定型発達」という“スタンダード”が存在する、という考え方は、この記事で何度か書いてきた、人間の行動は脳によって決定されるという「脳至上主義」の科学の副産物かもしれません。

少し難しい説明になりますが、ルイーズ・バレットの野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへには、次のように説明されていました。

身体性認知というアプローチにはもうひとつ、自由な発想を可能にしてくれる目からウロコの側面がある。行動の個体差を新たな視点からとらえることができるのだ。

個体間の多様性はたいてい、処理対象とならない不要な情報である「ノイズ」、つまり、代表的な値である中心傾向を巡る無意味な変動(測定誤差)として片付けられている。

だが、力学的理論による身体性認知のアプローチでは、多様性は恵みでありこそすれ、災いではない。

各個体が示すパターンは、固有の環境において動作する固有の身体力学系に対応するからだ。

つまり、局所的な現状と動物の身体固有の特異性(idiosyncracy)との相互作用は必然なのだから、行動に多様性が生じるのは当然だということだ。(p247)

難しく思えるかもしれませんが、簡単に言うと、ヒトを含む生物はもともと多様性があって当然なのに、現代科学では、多様性があることが誤ってノイズだとみなされてきた、ということです。

ひとつ前のページの文脈を見ると、その原因は、くだんの『「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方』、つまり個人の脳だけを重視し、身体や環境といった要素を度外視した科学の観点にあります。(p246)

個人の脳を重視する科学では、大事なのは脳だけなので、画一化された実験室のなかでデータが収集され、脳の反応にばらつきが出ると、ノイズだとみなされます。

正常なのはノイズのない均一な脳であり、ノイズが出てしまう脳は異常だということになります。

しかし、環境や身体を考慮に入れる「身体性認知というアプローチ」では、脳は単独で発達するものではなく、身体や環境とセットである、とみなします。

脳は身体の一部であって、脳と身体があってこそ、動物は完全なる存在となる。

その完全なる存在の最大の目的は、状況に即した行動をとることだ。

脳は、身体や環境の物理的特性と同様、動物がその目的を達成するために利用できる数々の資源のひとつに過ぎない。(p246)

すると、どのような見方ができるでしょうか。

脳は環境とセットなので、実験室でノイズのある脳活動を示す子は、単に、その環境に適応的でない子どもなのかもしれません。

言い換えれば、実験室のような人工的な閉鎖空間とはセットにならない脳を持っているけれども、実験室の外、自然界という環境ではより適応的に働く、自然界とセットで機能する脳の持ち主かもしれません。

興味深いことに、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で、神経科学者スティーヴン・ポージェスは、fMRIなどを用いた自閉症の脳科学的な研究は、正確な実態を反映していないのではないか、と疑問をさしはさんでいます。

自閉症の人は、多くが聴覚過敏を持っており、当然拘束されることを嫌うので、MRIの中に入れるような自閉症患者がいるのか、ずっと疑問に思っていました。

MRIを我慢できる自閉症患者を選別して行った自閉症についてのfMRI研究は、果たしてどこまで全体の特徴を反映しているのでしょうか?(p217)

MRIで確認されたとされる自閉症の人の脳の異常は、本人の脳の異常ではなく、拘束や騒音という外的環境への反応かもしれません。

あるいは、その人たちの脳活動は、実験室だけでなく、ふだん過ごしている環境に対するストレスを反映しているのかもしれません。被験者はたいていみんな似たような都市環境で生活しているので、似たようなストレス症状を慢性的に抱えているはずです。

であれば、その脳活動の異常は、彼らの脳の異常そのものなのか。それとも彼らが皆等しく置かれている環境に不適応を起こしていることを示しているにすぎないのか。それが判別できません。

もし、自閉症の人たちが長い時間、自然の中で過ごしているときに、同じように脳を測定できる技術があったなら、病院のMRI室内での検査で見られたのと同じような異常が見られるでしょうか。わたしは疑問に思います。

自閉症のみならず、人間の子どもはそれぞれ、生まれ持った身体の特徴が異なり、遺伝的な向き不向きも異なります。生まれ育つ環境も違います。

さまざまな環境があるなら、さまざまな脳が発達するのは当たり前です。「行動に多様性が生じるのは当然」です。

環境や身体の個人差を度外視した脳だけに注目する科学では、脳の発達の違いはノイズ、つまり障害だとみなされます。

しかし脳は多様な身体や環境とセットで発達し、切り離せないものだとする身体性認知のアプローチからなる科学では、個々の発達の違いは、それぞれ異なる環境に適応した多様性だとみなされます。

ということは、定型発達や発達障害という概念は、脳だけに注目し、環境を度外視した近年の科学に見られるバイアスが生み出した、現代特有の文化的ミームのようなものなのではないでしょうか。

このような脳至上主義のバイアスがかかった科学が登場する以前の時代には、「定型」の脳、「発達障害」などの脳などというカテゴリ分けは存在せず、ただ環境に適応した多様な個人だけが認められていた可能性があります。

「都会には決して住めない人がいる」

今回、おもに参考にしてきたコケの自然誌を書いたロビン・ウォール・キマラーは、とても詩的で美しい感性をもつすばらしい植物学者です。

そんな彼女が、こう書いていたことに、わたしは親近感を覚えます。

私も含め、都会には決して住めない人がいる。私が街へ出かけるのはどうしても必要なときだけで、できるだけ早く街を後にする。

田舎の人間はコバノエゾシノブゴケに似ている。たっぷりのスペースと、木陰の湿気がなければ元気が出ず、忙しい都会の道路よりも静かな小川沿いの道に住むことを選ぶのだ。生活のペースはゆっくりとして、ストレスにはからきし弱い。(p156)

都会で生まれ、都会で育ったわたしが言うのはなんだか変ですが、わたしは最近になって、自分は「都会には決して住めない人」だったのだと気づきました。

わたしは「木陰の湿気がなければ元気が出ず、忙しい都会の道路よりも静かな小川沿いの道に住むことを選ぶ」種でした。

コケにも人間にも、自然の多いところを好む種もいれば、都会のほうが居心地がいい、という種もいます。

都会ではそんな生き方では障害をきたす。ニューヨークの街角では、ヤノウエノアカゴケのような、ペースが速く、常に変化し、集団の中にいることを最大限に利用する生き方が必要とされる。

都会という環境は、コケにとっても人間にとっても生来のものではなかった。

だが双方とも、その適応能力とストレス対応能力のおかげで都会の断崖を住処にした。(p156)

コケでもヒトでも、静かで穏やかな環境を必要とする種と、忙しい現代社会の集団生活に溶け込んで、「ペースが速く、常に変化し、集団の中にいることを最大限に利用する」種がいます。

生きものがもともと住んでいた自然豊かな環境に適応性を持つ敏感で「ストレスにはからきし弱い」種と、「コケにとっても人間にとっても生来のものではなかった」「都市という環境」に適応性をもつストレス耐性の強い種です。

わたしは都会で生まれ育ちましたが、今になってやっと、自分は前者のほうだと気づきました。

残念ながら、わたしも含め、都会で生まれ育った人の多くは、この現代社会の異常な環境をふつうだと思いこんで成長します。「自分は都会じゃないと暮らせない」、と思い込んでいる人もいます。

わたしの場合、もともと自然の中で過ごすのは嫌いでした。幼少期から自然に親しんでいないせいで、未知なる環境が怖かったり不潔に感じたりしたからです。(以前に書いた「自然に対する愛着障害」の概念を参照)

でも、自然豊かな環境に徐々に慣れていくと、次第に、自然の中にいるときのほうが、都市にいるときよりも、格段に体調が良いことに気づきました。知らず知らずのうちに都市環境の過剰な刺激がストレスになっていたようです。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、発達障害やHSPの当事者も含め、現代社会の大勢の人たちは、自分が都市環境から受けている過剰な刺激の害を過小評価しがちです。

オンタリオ州にあるトレント大学の心理学者エリザベス・ニスベットは、150人の学生に、運河沿いの小径か、大学構内の建物を結ぶ古ぼけた地下通路のいずれかを歩いてもらうことにした。

事前に学生たちには、歩いている最中にどの程度幸せな気分になるかを予測させた。歩きおえると、学生たちは幸福度を評価する質問紙に回答を記入した。

すると事前の予測では、どの学生も、地下通路を歩くときに感じる幸福度を過大評価し、屋外を歩くときのそれを過小評価していることがわかった。(p12)

なぜ屋外の自然の中にいるときの幸福度を過小評価したのか。それは、自然と親しんだ経験がほとんどないので、もし自然豊かな環境に身を置けば、どれほどリラックスできるかを知らないからです。

社会科学者はこうした予測の誤りを「予測誤差」と呼ぶ。どのように時間を過ごすかを決める際に、残念ながらこの予測誤差が大きな影響を及ぼす。

ニスベットは落胆した調子で、こう結論をだした。

「自然と隔絶した生活を続けるうちに、人々は自然から得られる快楽の恩恵を過小評価するようになり、自然のそばですごすのを避けるようになったのかもしれない」(p12-13)

人類は「自然と隔絶した生活を続けるうちに、人々は自然から得られる快楽の恩恵を過小評価するようになり」ました。

人類は、自然からあまりに遠ざかりすぎたせいで、都市や学校という、生物学的にみて異質な環境から受けるストレスを過小評価するようになり、何か体調不良が生じても、おかしいのは個人であり、環境ではないという考え方が主流になりました。

わたしも、脳至上主義の医学的な情報にばかり当たっているときは、このバイアスに目を曇らされていました。でも、環境との相互作用を重視する生物学や自然科学について学ぶようになって、別の見方ができるようになりました。

人類の生息環境が、これほど自然界のありさまとかけ離れていることを考えれば、この現代社会の中で何かしらの病気にならないほうが不思議です。

しかし、ヒトを含め、あらゆる種には、環境に適応するという能力があり、適応できた種が生き残って多数派になり、そうでない種は病気になって減少するという自然淘汰が起こります。

たとえ現代社会が、生物が生きる自然な環境からかけ離れているとしても、ヒトのうちストレスに強い種が多数派になるので、一見するとそれほど健康被害が出ず、柔軟に適応していくことができます。

けれども、少数ながら、もともと多数だった種も生き残っており、その人たちは異質な生息環境のあおりをもろに受けるので、さまざまな健康問題を抱えることになるのです。

わたしはこの頃、自分はここ21世紀の現代ではなく、もっと自然豊かだった時代の社会に向いている人間なのではないか、とよく思います。

たとえば、ロビン・ウォール・キマラーの母親が、植物と叡智の守り人の中で次のように言っていたように。

母は科学者という仕事が大好きだったが、生まれてくるのが遅すぎた、ともしょっちゅう言っていた。

本当は19世紀の農家の主婦というのが天職だったに違いないと言うのだ。

トマトを瓶詰めにしたり、桃を煮たり、パン生地のガス抜きをしたりしながら母は歌を歌い、そういうことを私にも是が非でも覚えさせようとした。(p101)

あるいは、わたしが尊敬してやまない脳神経科医のオリヴァー・サックスが、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中で、疑問が生じるたびに19世紀の過去の文献を引っ張り出してきたと書いているように。

直近の文献を探しても、そういう症状についての言及が見つからなかった。

当惑した私は、19世紀の報告を調べることにした。

そちらのほうが現代のものより説明がはるかに詳しく、はるかに鮮やかで、はるかに充実している傾向がある。(p191)

実際、私の患者が明らかにトゥレットのようになりつつあったため、1969年に私がそれについて考え始めたとき、最新の参考文献を見つけるのに苦労し、再び前世紀の文献にもどらなくてはならなかった―1885年と86年のジル・ド・ラ・トゥレットによる元の論文と、それに続く12本ほどの報告書だ。(p195)

サックスは、現代医学では解明できない疑問をたくさん抱きましたが、その答えは、いつも忘れ去られた100年も前の文献から見つかるのでした。どうもサックスの感性は、現代人のものではなく、もっと昔の人間と似ていたようです。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

ロビン・ウォール・キマラーも、オリヴァー・サックスも、都会の環境より、自然豊かな環境のほうが好きでした。キマラーは、「都会には決して住めない人」ですし、サックスはオアハカ日誌の中で、自然界へのあふれんばかりの愛を語っています。二人はきっと、わたしと同じ人種です。

ピーターラビットの野帳(フィールドノート)は、その時代に生きたアマチュア博物学者の女性たちについての本ですが、当時の様子がこんなふうに表現されていました。

この三姉妹の物語を理解するためには、私たち自身が、刺激的だがせわしないこの宇宙時代から離れ、情報伝達速度が遅く長時間の静寂に包まれた汚れの少ない時代に身を置いてみなくてはなりません。

そんなことはほとんど不可能なことなのですが、あの時代は、不便であったけれど、静かに物思いにひたり、創造的な思考をめぐらすには最適の時代だったのです。(p17)

わたしは、自分がその時代向きだったと思っています。

“ふつう”よりもっとすばらしいもの

わたしはこの記事に書いた推測が、どの程度正しいのか、それともまったく的外れなのか、実はよくわかっていません。

タイトルに書いたように、あくまで「ふと考えたこと」です。推測が多すぎるので、裏付けが十分だとは思いません。

今のところまだうまく説明できない矛盾点もあります。たとえば自閉スペクトラム症の人たちが自然界だけでなく、シリコンバレーのような文明社会の最たる環境に適応しているのはどうしてでしょうか。

数学やプログラミングの世界は、ある意味、人工的な社会よりもはるかに、原始の自然界に近い性質があるということでしょうか。

確かにガリレオはこの世界は数学という言語でしたためられていると述べましたし、ジャン・ルレーは川の渦を眺めることからトポロジーの理論を構築しました。

また、マイクロバイオームの研究によると、発達障害の人たちの腸内細菌の多様性が低い、と言われるのはどう解釈したらよいのでしょうか。

やっぱり発達障害は生物学的にみて病的なものなのでしょうか。いえむしろ、微生物学からすれば、定型発達も非定型発達もどちらも病的であるということでしょうか。

自然から切り離されて久しい現代の人類には、アマゾンの奥地の先住民族などわずかな例をのぞいて、もはや健康なマイクロバイオームを持つ人は存在していない、と微生物学者たちは言います。

もし、そのような先住民族がわずかながらにでも生き残っていなかったなら、科学は正常な人体のマイクロバイオームの生態系とはどういうものか、もはや知ることさえかなわなかっただろうと。

わたしたちは、ここ数世代の大移動によって、人類がもともと住んでいたであろう、いわゆる“エデンの園”のような環境から、あまりにも遠くまで迷いでてしまいました。

人間は地球を損ない、住む環境を不自然なものに組み換え、ひいては自分たちの身体の内部の生態系をさえ破壊してしまいました。もはや“ふつう”とは何なのか、知るすべさえなくなっているように思えてなりません。

わたしは、ロビン・ウォール・キマラーの植物と叡智の守り人を読んでいて、巻末の訳者あとがきで翻訳者の三木直子さんが書いておられたのと同じ気持ちになりました。

私が生活拠点とする日本とアメリカはどちらも、私には狂気としか思えない政治的・社会的な不正、暴力、モラル低下の嵐が吹き荒れ、貧富の差は広がる一方で、社会の先行きを思うと暗澹たる気持ちになることが実に多かった。

そういう中で、毎日少しずつ進める本書の翻訳は、一服の清涼剤のような気がしていた。

キマラーの詩的な言葉が描写する自然の美しさ。そして自然とともにに生きる人々の姿には「正気」が感じられたからだ。

が、同時にそれは辛いことでもあった。本書に描かれた、先住民族に伝わる世界観、人間と自然の関わり方がかつては「普通」のことであったこと、そういう世界のありようが、歴史のある時点では存在したこと。

そして、自然と人間が調和して暮らしていた世界から私たちがどれほど逸脱してしまったかを、痛感せざるを得なかったからだ。

…科学の発達が人間の生活に、ある意味での安寧と幸福をもたらしたのは事実かもしれない。

だがその代わりに私たちが失ったものはあまりに大きく、取り返しのつかないところに自分たちが向かおうとしていることに、多くの人が気づかない。あるいは気づこうとしない。

私たちは、耳を傾けることを忘れてしまったのだ。(p489-490)

わたしは科学が悪いものだとは思っていません。科学が登場する以前の迷信に支配された社会が良いものだったとは思いません。

科学はわたしたちの疑問を解き明かし、世界をより深く、正しく知れるよう助けてくれます。科学技術のおかげで、わたしたちは大昔の人たちよりも安定した快適な暮らしができます。

でも、今の人類は科学を正しく活用しているとも思いません。

この本の著者のロビン・ウォール・キマラーは現代科学の植物学者であると同時に、ネイティブ・アメリカン出身の詩人です。

彼女は、「科学によって明らかになったことをベースとし、先住民の世界観 [※人間の力で自然を征服するのではなく、自然に敬意を抱き、共存共栄することを目指す考え方] に従って構築された物語」が必要だと書いています。(p434)

言い換えれば、科学は、たとえばバイオミミクリー(生態模倣)がそうであるように、自然界の知恵から学び、より地球と人間を調和させ、持続可能な社会をつくるときにこそ役立つものです。

けれども、現実はそうなっていません。「還元主義的で物質主義的な経済、政治路線を強化するために科学技術を利用」することが重視され、目先の便利さのために自然は搾取され、人類はどんどん生き物としての自然な生活スタイルから遠ざかっています。(p434)

生物学者の中村桂子さんが述べていたように、わたしたち人間もまた動物のひとつなのだ、という当たり前の事実が忘れ去られてしまい、人類はもはや生き物としての「普通」の生き方を思い出せなくなりました。

第4回 中村桂子(生命誌):人間は生きものの中にいる(提言編) | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

人間は生きものだというのはあたりまえのことですが、なぜ今そういう風に考えられなくなっているのでしょうか。

それは、科学が「機械論的世界観」を作ってしまったからだと思います。

…こういう機械論的に世界を見る社会では、生命誌の中の生きものである「ヒト」としての私を忘れてしまっているようです。

わたしたちは、歴史のある時点では「普通」だったはずの人間と自然との関わりが、とっくの昔に失われてしまった時代に生きています。

少なくとも、いまの社会で多数派を占めている人たち、つまり、このような自然から逸脱した環境でも不適応を起こさない人たちが生き物として「普通」であるという見方には、わたしは同意しかねます。

わたしたちは、だれかが正常でだれかが異常だという狭量な枠組みを超えて、だれもがみな「普通」でなくなっている、という現実を認める必要があるのかもしれません。

ここ数世代の種の大移動の中で、わたしたち人類はいったい何を失ったのか、わたしたちはかつて何者だったのか、どんな生き方をしていたのか、どのような多様性を享受していたのか。

環境性・世代間健忘にとらわれているわたしたちにとって、もはや失われた何千年もの過去をたどるのは雲をつかむかのように難しいことです。

それでも、希望はあります。ダフネ島のフィンチは、厳しい干ばつが終わると、もともとの種が回復しました。コケの場合も、コケの自然誌によると、「空気のクオリティが改善されればコケは戻ってくる」そうです。環境が回復すれば、もともとの生態系と種の多様性が戻ってくるのです。(p156)

ですから、わたしは、「正常」な定型発達と「異常」な発達障害という、現代医学が作り出した安直すぎる枠組みを超えて、自分たちがいったい何者だったのかを探求することには、きっと計り知れない価値がある、と思います。

わたしたちは“ふつう”とは何かもう知りません。でもきっと、人類は本来、“ふつう”よりもっと素晴らしい、色とりどりの多様性をもつ生きものなのです。

▼大自然の中で育った個性的な子どもの実例
ピーター・ラビットの絵本で有名な作家ビアトリクス・ポターは、この記事で書いたことの稀有な実例かもしれません。以下の記事で、彼女の生涯を詳しく考察してみました。

発達障害にアウトドア教育はどう役立つか―大自然を教師にしたビアトリクス・ポターに学ぶ
ピーター・ラビットの作家ビアトリクス・ポターの生涯から、アウトドア教育のメリットについて考えました。とりわけ発達障害や学習障害の子どもにとって、自然のなかで学ぶことがどう役立つか考