わたしがこのブログを書き始めたわけ

のブログの読者の中には、わたしがなぜブログを始めたのか疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。

結論から言うと、わたしがブログを始めるに至った動機は、ただ一つ、「書くことはその日を生きた証」だから、という言葉に集約されると思います。

ありがちな言葉に思えるかもしれませんが、わたしの場合は少し意味合いが複雑です。どういうことでしょうか。

それを説明するには、わたしがブログを書き始めるずっと前、病気を発症する以前にまでさかのぼらなければなりません。

書かなければ失われるものがある

慢性疲労症候群(CFS)の患者は、病気を発症する前は、とても活動だった人が多いと言われています。わたしもその例に漏れず、非常に多趣味で、朝から晩まで手広く忙しく活動していました。

もともと驚くほどやりたいことが多い性格で、悪く言えば欲ばりなのでしょう。ひとつやりたいことを終わらせる頃には、2つのやりたいことを思いついている、といった具合です。

現在進行形の考え方なので、なにか嫌なことがあっても、一晩寝るとすっかり忘れ去ってしまいます。次のやりたいことで頭がいっぱいになるからです。くよくよ思い悩むことはほとんどありません。

このように書くと、それは羨ましい性格だ、と思われそうですが、良いことばかりではありません。嫌なことだけでなく、良かったこともすっかり忘れ去ってしまうのです。

関心が常に今現在に向いているため、昨日友人と交わした楽しい会話や、思いついたアイデアは忘却の彼方に流れてしまいます。ちょうど、次々に新しいことがつぶやかれて、ログがものすごいスピードで流れてしまうタイムラインを想像してもらえると良いかもしれません。

そのような性格ですから、あるとき、記録しておかなければ失われてしまうものが大量にあることに気がつきました。せっかくのひらめきや教訓を、生かせないまま忘却の滝壺へと葬ってしまうのは、あまりにもったいないことです。気づかないうちに大切な思い出が上書きされてしまうのは、損失でさえあります。

それで、当時から、個人的な日記をつけることを意識し始めました。今でも、そのときの日記はわたしの本棚にあり、電子化してEvernoteにも取り込んであります。

ときどき見返しては温かい気持ちになる、大切な宝物です。今や思い出の中にしかない健康なころの自分について教えてくれる、かけがえのない「生きた証」なのです

病気によって失われるものがある

やがて、忘れもしない学生時代のあの秋、11月16日、わたしは見知らぬ世界に放り込まれました。

朝目覚めると、恐ろしい違和感を感じました。

昨晩までとは、世界の枠組みそのものが違うような感覚です。まるで重力が何倍にも増幅されたかのようです。目に入る景色が色あせて、薄っぺらく感じられます。インフルエンザのときのようにフワーっと浮き足立ち、平衡感覚が乱れています。

慢性疲労症候群(CFS)の発症でした。慢性疲労症候群はたいていある日突然発症するので、患者の中には、わたしのように発症した日時をはっきり記憶している人が大勢います。

わたしの場合、特にうろたえたのが、文章を読めなくなっていたことです。文字が書いてあることは分かるのですが、何度読み返しても、どれだけ集中しようとしても意味がつかめないのです。

その症状が「後天性失読症」と呼ばれることを知ったのは。ずいぶん後になってからです。当時のわたしはひどく混乱し、狼狽し、数ヶ月経たないうちに、社会的な立場も、交友関係も、能力も、ほとんどすべてのものを失いました。

その失われたものの一つに「記憶」があります。書籍 慢性疲労症候群日記の中では、慢性疲労症候群(CFS)の症状の一つとして健忘症が挙げられていて、それは「記憶喪失に近いレベル」と形容されています。

慢性疲労症候群は脳の障害と考えられていますから、海馬とその周辺の血流が阻害されても不思議ではありません。わたしも、発症した当時の記憶はほとんどなく、そのころ行った場所にもう一度行っても、記憶の断片すら見つからないほどです。

それでも、わたしは今、当時のことをこうして語ることができます。どうしてでしょうか。

それは、たとえ記憶がなくとも記録があるからです。ペンを走らせるのもおぼつかない体調の中でさえ、わたしは簡単な記録を取り続けていました。また、そのころいただいた友人からの手紙やメールがしっかりと残されています。

決して十分な情報を記録できていたわけではなく、失われたものも数知れませんが、それらわずかな記録は、わたしにとって最も厳しい時期を「生きた証」いえ、生き抜いた証として息づいているのです。

失った自分を取り戻すために

ようやく混乱から開放され、慢性疲労症候群という受け入れがたい現実と向き合えるようになったのは、3年以上迷走した後のことでした。その間の記録を見ると、有名なキューブラ・ロスの5つの段階を見事に経ていて、我ながら苦笑してしまいます。

もっともわたしの場合は、文字通りの死を「受容」したわけではなく、健康だった以前のわたしに別れを告げ、慢性疲労症候群のわたしとしてやっていくことを心に決めた、ということです。自分を取り戻すにあたって、助けになったのは、ここでもやはり記録でした。

慢性疲労症候群になった人は、しばしば、健康なころの自分を思い出すことができないと言います。慢性疲労症候群の症状はあまりに多岐にわたり、患者はひと時たりとも病気から解放されないからです。わたしもそうでした。

この感覚は、シベリアの収容所で生活したある人の心境と似ているかもしれません。

その人は5年間,地下の炭鉱で働きましたが、北極圏では,冬季に太陽が昇りません。

勤務を終えて地上に出るころには,真っ暗になっていて,日の光を何か月も見ませんでした。そのせいで、記憶力や時間の感覚がおかしくなり、ただただ疲れ,普通の会話でも数分行なうのがやっとだったといいます。

わたしも寝ても覚めても、慢性疲労症候群の暗闇にいたため、感覚が麻痺してきました。

ほんとうに自分は病気なんだろうか、ずっと昔からこんな体調だったのではないだろうか。わたしはただ怠けているだけで、健康とはこの程度のものなんじゃないだろうか…、などと思い悩んだものです。

慢性疲労症候群は通常の検査に表れず、どの病院に行っても「異常がない、気のせいでしょう」と決まり文句のように繰り返されるので、そう感じるようになってしまうのです。

そんな自分に、わたしは本当に病気であり、健康とは程遠い、ということを教えてくれたのが過去の日記でした。

在りし日のはつらつとした自分が、どれほど活動的で、力に満ちていたかがよく分かり、今の自分がそれとはかけ離れてしまっていることが確認できました。そのおかげでわたしは、自分を責める悪循環には陥りませんでした。

新しい自分として歩み出すために

体調不良を抱えて生きることを「受容」したわたしは、ひときわ記録することを意識するようになりました。この経験から一つでも多くのことを学び取りたいと思いました。

病気は決して嬉しいものではなく、発症しないに越したことはありません。しかし発症してしまった以上、気持ちを切り替えて、苦しんでいる人への思いやりや、あきらめない辛抱強さを学ぼうと思ったのです。そうすれば、苦しんだ時期は無駄になりません。

ところが、わたしは、元来、次々に新しいことに取り組んで過去のことを忘れ去っていく性格です。病気によってその傾向はいっそう顕著になっています。

それで、病気から学んだことを忘れないために、リアルタイムの気持ちや、人との関わりを書き留めておこうと決めました。いろいろなツールを使って試行錯誤し、今のところ、感情を移し取りやすいマインドマップと、検索性に優れるEvenoteに落ち着いています。

わたしは、日記だけでなく、手紙やメール、さらには配布資料の形で、自分の気持ちや、病気の情報を積極的にアウトプットし、それらをすべてEvenoteに集約するようになりました。

今や「すべてを記録する」とのキャッチコピーに違わず、Evenoteのマイアカウントを開けばわたしの「生きた証」がすべて参照できるようになっています。

地道に記録することを続けているうちに、書く能力は徐々に回復し、はじめは疲労のため、とても読めない字で単語を書きなぐっていたのが、論理的な文章を書けるようになりました。また、立場上どうしても本や雑誌を読む必要があったので、しゃにむに格闘しているうちに、いつしか読む能力も帰ってきました。

脳は失われた機能を他の領域で補うことができるそうですが、わたしの場合、マインドマップ読書術を学んだことがかなり助けになりました。

良い先生と治療にめぐりあえたこともあって、発症当時からはかなり回復しました。

人生をバックアップする

このブログの設立は、これらすべての延長線上にあります。プライベートで多くの文章を書き、オフラインで多くの情報をアウトプットしていたので、せっかく書くならオンラインで公開してみようと思ったのです。

そのため、特に負担が増えることもなく、スムーズにブログを始めることができました。ブログの掲載記事もまた、Evernoteに送られ、わたしが「その日を生きた証」として保存されるようになっています。

このように、わたしが記録を取り、ブログを書き記すのは、もっぱら自分自身のためです。体調が良くなってきたならなおさら、そのときそのときの自分の感情や興味を持った点について残しておかねばなりません。

今のところ、記事に対する目立った反応や、オンライン特有の交友関係もないので、これがいかなる成果につながるかはまだわかりません。副次的に誰かの役に立てば良いと思って公開しているにすぎません。

ただ、新しい習慣を身につけるために役立つなど、すでに効果は現れています。わたしのブログは始まったばかりですし、場合によってはまたオフラインに戻るかもしれません。

しかしこれだけは断言することができます。

わたしが書きためた記録は、これまで、苦難を乗り越えるための腹心の友、険しい山道ですがり歩く杖、崖を這い上がる命綱となってきました。

それがなければ、今のわたしは決してありませんでした。

自分のアイデンティティが根底から揺らぐような経験をしたとき、日記やブログは、あなたの人生のバックアップになります。記録があれば、どんな動乱のもとでも再び自分を捜し出し、将来に向かって歩き出すことができます。

日記、そしてブログは、わたしだけの、またあなただけの、かけがえのない宝、「その日を生きた証」となるのです。