すばらしい道具があるため、人々はかえって真実を見失っている。
土着の、野蛮な、“文明化されていない”未開民族と貶められる人々は、実は現代人よりも細やかな感覚と高度に発達した観察力を持ち、
その力を使って地上で進路を見つけ、海で陸地を発見するという信じがたい離れ業をやってのけていたのだ。(p21)
これは、1931年に世界一周飛行時間の最短記録を更新し、空軍のナビゲーターや、極地探検のサポートも務めた探検家、ハロルド・ギャティの言葉です。
ハイテク機器が発達した21世紀に生きるわたしたちは、便利なアプリや、カーナビ、Google Mapなどを頼りに、初めて行く場所でも迷わず、目的地にたどり着けるようになりました。
しかし、そうした機器がなかった時代でも、人々は長距離を移動していました。しかも、現代人のほとんどが行ったこともない、荒野、密林、太平洋の島々を渡り歩きました。
古代の記録を調べてみると、そうした旅は「行き当たりばったり」の「でまかせの探検」ではなく、慎重さと確実さに導かれたものだったことがわかります。(p22)
その秘訣は、「現代人よりも細やかな感覚と高度に発達した観察力」にありました。
古代の人々は、自分の身の回りの自然をつぶさに観察し、鋭い五感で自然のしるしを読み取って、道を見つけ、食物を探し、行動にふさわしい時期を見極め、新天地へと旅したのです。
一方、「文明が発達していくなかで、未開の民族にとっては生死をわけるほど重要だった、高度に発達した観察力は失われてしまった」とギャティは言います。(p42)
それどころか、現代社会では、並外れた感覚の敏感さを持つ人たちは、生きづらさを抱えています。かつて生死をわけたその能力は、今では発達障害のようなレッテルを貼られがちです。
今回紹介するハロルド・ギャティの本、自然は導く――人と世界の関係を変えるナチュラル・ナビゲーションは、ひときわ敏感な感覚をもつ人たちにとって、とても興味深い内容です。
現代社会では疎まれがちな、そのような敏感さが、かつていかに長所とみなされていたか、また今でさえ、どのように活かすことができるかを教えてくれるからです。
もくじ
これはどんな本?
わたしがナチュラル・ナビゲーションについての本を読むのは、これが四冊目です。
これまで読んだのは、現代のナチュラル・ナビゲーター、トリスタン・グーリーが書いた三冊でした。
その彼が尊敬してやまない人物こそ、今回読んだ本の著者ハロルド・ギャティです。
現在、ナチュラル・ナビゲーターとして活躍し、著書のいくつかが日本でも紹介されているトリスタン・グーリーもまた、ギャティの影響を受けているという。
彼はこの本について、「時を経るにつれて重みを増す、不思議な本の一冊」だと書いている。(p278)
ハロルド・チャールズ・ギャティは、1903年に生まれ、飛行機のパイロット、空の冒険家として幅広く活躍したナビゲーターでした。
ギャティがこの本を書いたのは1957年、もう半世紀以上も前のことです。それほど昔の本が今になって、日本語に訳されました。
半世紀以上も前の本だと、内容が古くて読むに耐えないのではないか、と心配する人もいるかもしれません。
確かに、ギャティが裏付けとして引き合いに出している脳科学的な説明などは、情報が古いところもありました。けれども、この本の大部分はそうではありません。
なぜなら、これは、おもに科学の本ではなく、自然を読む実践的なスキルの本だからです。自然は今も昔も同じです。それを読みとる技術は古臭くなったりしません。
それに、訳者のすばらしい翻訳のおかげで、古臭さや読みにくさは感じませんでした。これまで読んだナチュラル・ナビゲーションの本で一番わかりやすいと思ったくらいです。
ギャティが述べるように、自然を読む技術は、社会の近代化とともに、退化するいっぽうです。
21世紀のわたしたちにとっては、ほとんど失われた技術、古代の知恵の髄といっても差し支えないでしょう。
しかし近年、環境保護が声高に叫ばれるなかで、現代人は、自然とのつながりを取り戻す知恵を切実に必要としています。
その意味で、この本は、半世紀以上前の本でありながら、時代の最先端なのです。今になってこの本が翻訳された理由はここにあります。
ナチュラル・ナビゲーションとは何か
この本のタイトルにもなっている、ナチュラル・ナビゲーションとは何でしょうか。
一言でいえば、五感を使って自然のしるしを読みとるスキルです。
冒頭で書いたように、かつて地上のいたるところに住んでいた先住民たちは、現代人のような便利な機器を何一つ持っていませんでした。しかし彼らはその土地にたどり着きました。
わたしたちは、歴史の授業では、クリストファー・コロンブスやフェルディナンド・マゼランなどの冒険家たちが、勇気と知恵を駆使して新世界を発見したと教えられがちです。
しかし、ギャティが指摘しているように、彼らがたどり着いた土地には先住民たちがいました。当然ながら、それらの「先住民」こそ、その土地を先に発見した人々です。
未開民族のナビゲーション能力について一般の人々が理解することを妨げている最大の要因は、世界にはかつて“先住民”が暮らしていたというイメージを与える従来の歴史書だ。
それらの先住民はさまざまな島や国々に住んでいたが、西洋の偉大な探検家によって“発見”されたとされている。
その“先住民”が、ほぼ例外なく、それ以前に自力で探検し、故郷を発見していたという事実が本に書かれることはない。
また西洋人たちが世界を発見しはじめたとき、地上のほとんどあらゆる場所が、人が生活しうる最も遠い海の島々にいたるまで、
すでに人間によって、たいていは白人以外の人種によって占められていたという驚くべき事実は顧みられない。
それらの人々もやはり、もともと住んでいた土地から地上を、あるいは海を渡って長い旅をすることで移住したのだ。(p21)
先住民たちは、文明の利器が何一つない時代に、壮大な荒野を、森林を、大海原を越えて移動しました。
ここで少し、想像を膨らませてみてください。今の文明社会に生きているわたしたちには、イメージしにくいことですが、かつての地球には交通網はありませんでした。
網の目のように張り巡らされた舗装された道路も、電車やバスの路線もなかった時代です。ほとんどの場所が富士山の樹海のようだった時代、といってもいいでしょう。
文明の利器があってなお、遭難の危険があるような自然の迷路が、地上を覆いつくしていました。
よく昔の人々は星を頼りに移動していた、と言われますが、そう単純でもありません。星は常に見えるわけではありませんし、自然の迷路ではまっすぐ進めるわけでもないからです。
先日、わたしは友達と一緒に、近所の雪山に氷爆(凍った滝)を見に行きました。
舗装された道路を通って、まっすぐ滝に到着したわけではありません。道や目印など何もない森の中を、スノーシューで歩いて、滝を目指しました。
目的地は滝ですから、川の流れに沿って歩けば、確実にたどり着けます。
けれども、冷たい川床を歩いて遡上することはできません。都会の河川敷のように、川岸が舗装されてるわけでもありません。
川岸は崖のようになっていて、雪庇が張り出しています。下手に崖沿いを歩いたら、雪が崩れて真っ逆さまに落ちそうです。
それで、川の位置を頭に入れながらも、森の中を歩いて迂回することに決めました。
冬の森は、急な斜面があちこちにあるので、スノーシューを履いているといえども、できるだけなだらかなルートを探して歩く必要があります。
ルートはもちろん、直線ではありません。決められた道があるわけでもありません。
ギャテイも書いているように「道のない場所を進む旅では(飛行機の旅や砂漠などを除いて)…出発点と目的地を結ぶ理想的な経路にはほとんどお目にかか」れません。(p60)
「その地方の“性質”を感じとり、まわり道を計画して目的地への経路を見つける」必要があります。(p61)
わたしたちも、周囲をよく観察し、川の蛇行から大きくそれないよう気をつけながら、どこを歩くか自分たちで決めました。
こうして、ついに氷爆という目的地に到達し、凍てついた神殿のごとき自然の芸術を目にした感動はひとしおでした。
こうやって書くとすごい冒険のようですが、実際には、地図上の直線距離にして、ほんの1kmほど歩いただけです。がっかりさせるようですが、素人のわたしに大それた冒険はできません。
今のわたしにとってはちょっとした冒険でしたが、古代の人々の命がけの生活と比べたら、ごくささいなものです。
それでも、この経験は、舗装された道路も文明の利器もない時代に、どんな能力が必要とされたのか、その一端を垣間見させてくれました。
いつも周囲に気を配る研ぎ澄まされた感覚、川の方向を把握する聴力、樹木の形を意識する記憶力、動物の足跡を参考に道を探す観察力。
たとえば、アイヌ民族は、ありとあらゆる川に実用的な名前をつけていました。どこへ向かう川か、大きな本流か小さな支流か、わたりやすい穏やかな川か。
例を挙げれば、札幌 (乾いた大きな川)や、幌加内 (Uターンする川)などがそうです。もっと小さな山奥の川にもそれぞれ名前がつけられています。
わたしが川を目印にして歩いたように、昔の人たちにとって、川が交通網の代わりだったことがわかります。
また、食べ物の群生地を示す名前もあります。例えばキトウシ(ギョウジャニンニクの群生地)、ハルウシナイ(食料が群生する沢)などです。
昔の人たちは、GPSもコンパスもありませんでしたが、鋭敏な感覚や観察力を使って、自然の手がかりを読むことで、自然の“スーパーマーケット”に買い出しに行けたのです。
森だけでなく、砂漠、極地、荒野、島々など、他のどこに住んでいた民族にしても同じです。彼らはみな、自然の手がかりを読むスキルに長けていました。
だからこそ、西洋の探検家よりも前に、世界各地のあらゆる土地にたどりついて、大自然の中で暮らすことができました。
自ら“発見”した土地に住む先住民から地理について教えられたヨーロッパの探検家はキャプテン・クックだけではない。
ほぼすべての西洋の探検家や航海者が、地図も海図もない(それゆえ彼らが「未踏の地」だと考えたがる)場所で、
ナチュラル・ナビゲーターや正確な海図または地図製作者の役割をする先住民と遭遇することで、実は自分より早くそこに到達して暮らしている探検家がすでにいることに気づいていた。(pp37)
ナチュラル・ナビゲーションとは、そうした古代の人々が持っていたスキルのことです。
文明の利器によらず、ただ自分の感覚と観察力をたよりに、自然のしるしを読む力なのです。
都市化とともに失われた技術
この本で書かれているナチュラル・ナビゲーションのスキルは、現代人には、ほとんど馴染みがありません。それは失われてしまっているとギャティは言います。
ますます都市化していく文明のなかで、自然のしるしを観察し、読みとる必要性は少しずつ消えつつあるように思われる。(p6)
注目に値するのは、この言葉が書かれたのは、今年でも10年前でもなく、1958年、なんと半世紀以上前だ、ということです。
そのころすでに、自然を読む能力が失われつつあったのであれば、この2020年の現代社会では、すっかり絶滅しかけているに違いありません。
現代のわたしたちはもう、自然をしっかり観察したり、自然から手がかりを読み取って推理したりすることがめったにありません。
たとえば、空を見上げ、雲の種類や風向きを観察して天候を推理する代わりに、天気予報のアプリを調べます。
海流やうねりの方向を読んだり、星の位置を確かめたり、渡り鳥の航路を追ったりする代わりに、GPSのような測位システムを使って大海原を移動します。
現代の安全な都市型生活や、交通手段網、便利な地図アプリなどは、とても便利ですばらしいものです。
でもそれらの進歩とともに、人々は、身の回りの自然のしるしを観察する動機づけを失ってしまいました。
自然をもとにしたナビゲーションのための手がかりや道しるべを、自然は数えきれないほど残してくれているわけだが、現代人はほとんどそれに気づかないし、そのための知識も持っていない。
クロノメーターやジャイロコンパス、電波探知機、自動操縦装置といった科学技術の産物がある いまでは忘れられているが、
大昔の未開民族はそうした道具をいっさい使わなくても、たやすく原野を抜け、広い砂漠や海を渡ることができたのだ。(p1-2)
自然の手がかりを読み取る必要がなくなったことで、生きるために必要な能力は変化してきました。
かつては五感の鋭さと観察力と経験こそが何よりも重要でした。しかし、今では、読解力や暗記力こそが重要とされています。
この本で引用されているA・T・マガレーが1897年に発表した論文によると、オーストラリアの先住民であるアボリジニの社会では、子どもたちは、次のような「勉強」をしなければなりませんでした。
植物もまばらな荒野に住むオーストラリアの子供たちは、母親が頭に乗せて運ぶゆりかごを出ると、すぐに生き物を追いかけ、捕まえはじめる。
少しずつ上達すると、甲虫、クモ、アリなどが地面に残した繊細な跡をたどるようになる。
こうした訓練は成人するまで続けられる。
そしてやがて、地を這うヘビや飛び跳ねるワラビー、あるいは巧みに潜んでいる危険な敵などがつけた跡を、
あらゆる地面のしるしを見て記憶にとどめ、解釈し、状況しだいでそれをたどったり、避けたりすることができるようになる。(p15)
一方、文明化が進んだわたしたちの社会では、若者にこのような能力が求められることは決してありません。
その代わりに求められるのは、学校の教室でじっと座って先生の話を聞く能力、観察するのではなく教科書の内容を覚える力、そして難解な筆記テストで正しい答えを書ける能力です。
かつての文明で求められていた能力と、わたしたちの文明で求められている能力は、ある意味では正反対です。
かたや、自分の五感を使って周囲の世界と関わりをもち、自分の経験から判断を下す、とても主体的な能力。
かたや、自分の五感ではなく、教科書や権威者の見解を絶対的な知識として受けいれ、自分で世界を歩き回った経験ではなく、ただ教室や塾で座って学んだことを回答する、受動的な能力。
これほど対照的な力が求められているのであれば、次のように結論するのは妥当ではないでしょうか。
もし現代社会に適応した若者たちが、かつての社会に飛び込んで生きようとしたら、不適応を起こすかもしれない。
反対に、かつての社会で活躍していた五感の鋭さや観察力を持つ若者たちは、この現代社会ではかえって不適応を起こすかもしれない。
感覚の鋭敏さは障害ではなく才能だった
ギャティは、ナチュラル・ナビゲーションの技術は必ずしも、生まれつきの感覚の敏感さのような才能に依存するものではない、と書いています。(p42)
わたしたちは誰でも、ナチュラル・ナビゲーションのスキルを習得することができます。
けれども、スポーツの素質に向き不向きがあるように、自然を読む能力にも向き不向きがあります。
現代の学校に成績が優秀な人とそうでない人がいるように、かつての社会の教育でも、能力や素質には個人差がありました。
オーストラリア大陸の広大で乾燥した地域に暮らすアボリジニはみな、一般のヨーロッパ人では気づきもしないような跡をたどることができる。
ただし、幼いときから訓練され、つねに技術を磨いているとはいえ、その能力には個人差がある。
見分けづらい跡をたどることができるのは、秀でた技能を持ったひと握りの者だけだ。(p16)
では、古代の教育の場合、どのような人が成績優秀だったのか。
おそらくは、さっき書いたように、現代の学校で優秀な成績を収めるようなタイプの人たちではないでしょう。
何かに秀でるということは、別の何かには劣るということです。
深海に適応した魚は浅瀬では生きられません。砂漠に適応したトカゲは密林で生きていくことはできません。
自然界のあらゆる生き物が示しているように、ある環境に適応するということは、別の環境には不適応になるということです。
過去の社会の「秀でた技能を持ったひと握りの者」たちの遺伝子は、当然、今の世代にも受け継がれているはずです。
しかし、せっかく受け継がれた能力は、現代の学校教育では足を引っ張るばかりです。過去と今では求められる能力が違うからです。
このブログで最近よく書いているように、このような社会の変化が、近年急増している不適応を起こす子どもたち、つまり「発達障害」や「学習障害」を生み出したと、わたしは思っています。
発達障害という概念が登場し、ブームになったのはごく最近です。社会が変化し、学校教育が普及し、若者に求められる能力が変化した時期と、時を同じくしています。
もちろん、発達障害には多種多様な病的な要因が関わっている場合もあります。その場合には治療が必要かもしれません。
しかし、大半の発達障害は遺伝的な特性だと言われています。生まれつき他の人とは違う神経特性をもっている、ということです。
たとえば、近年の発達障害の研究によれば、発達障害や学習障害とみなされている子供たちは、感覚が過敏だという証拠がたくさんあります。
そのような過敏さは、現代社会の集団教育では足かせになり、「障害」や「欠陥」扱いされます。けれども、自然の中では生存に有利になります。
自然のしるしを読む、というのは、言い換えると、自分自身の感覚を使って、身の回りの物事をよく観察し、推理し、判断を下す能力でした。
学校教育では、自分の感覚を使って観察して判断する能力は疎まれがちです。求められるのは、自分の感覚を抑制して、教科書や先生という権威に従順であることです。
しかし、ナチュラル・ナビゲーションでは、学校で求められるのとは、正反対の能力が必要です。誰かの見解を鵜呑みにするのではなく、自分で自然を読み、判断しないと生き残れません。
ギャティが書いているように、自然の中を集団で旅する場合、「リーダーに盲目的に従うことはないし、またどんな集団もそうすべきではない」からです。(p66)
現代社会の学校教育で成績のいい人は、本や論文を読んだり、計算したりするのは得意かもしれません。しかし、過去の社会の自然を読むテストでは、あまりいい成績を取れないでしょう。
他方、現代の学校教育に不適応を起こす人は、感覚の鋭敏さのせいで苦労しているかもしれません。しかし、過去の自然を読むテストには向いていたことでしょう。
かつての社会、たとえばアボリジニの社会で求められたような「勉強」では、かえって好成績を残すのではないでしょうか。
たとえば、現代社会でADHDとみなされているような多動な子どもたちは、目ざとく動物の足跡や痕跡を発見し、追跡(トラッキング)の技術を磨けたことでしょう。
トラッキングの技術を上達させるには、できるだけ多くのささいな手がかりに気づくこと、つまり、さまざまなことに注意が移り変わることが必要でした。
原始時代の偉大なナビゲーターたちは、ただ自然をガイドとしていた。
その発達した鋭い観察力について語るのにいちばんいい例は、古来の追跡の技術だろう。
…それは人間や動物による移動を、その経路に残された痕跡やしるしから再現することだ。
…アボリジニの優秀な追跡者はブッシュクラフト〔自然の中て生活する技〕や動物と人間の習慣について熟知している。
また断片的な観察をまとめ、そこから推論する能力が高い。最小の能力で、ほとんど間違うことなく獲物の居場所を突きとめられる。(p15)
トラッキングというのは非常に奥深い技術です。わたしはよく雪原で動物の足跡を観察しますが、その複雑さに驚きます。
同じ動物でも、急いでいる時、警戒している時など、状況に応じて足の運びが変化します。
複数の個体がいるのに、一匹だけしかいないかのように見える足跡もあります。前をいく個体の足跡を完璧に踏んで足跡を重ねる習性があるからです。
あえてミスリードを誘う「止め足」もよく知られています。自分の足跡を後ろ向きに踏んでバックし、脇道にジャンプすることで、追跡を逃れるのです。
ADHDの子どもやその親は「すぐ気が散る」傾向に頭を悩ませています。
しかし、かつての社会では、そのような子のほうが、きっと原野を探検して、興味あるものをたくさん見つけて、より多くの手がかりを集められたのではないでしょうか。
また、今日ではアスペルガーとみなされているような感覚過敏でこだわりの強い子どもたちどうでしょうか。
おそらく、風景を写真のように記憶したり、野草や樹木の細かい違いを見分ける力に秀でていたことでしょう。
グリーンランドへの初期の探検家の多くはエスキモーに出会い、非常に正確な海岸線や周囲の島々の地図を描いてもらった。
エスキモーは求められた地図を流木を彫って示し、三次元で実物そっくりに自然の特徴を描きだした。
…その地図制作の秘訣は、もちろん頭のなかで、自らの土地や目立つ目じるし、ほかの集団の土地と自分の村の位置関係を中心とした、輪郭とおおまかな形を表した地図を描く習慣にある。
その地図は多くの先住民の頭のなかに鮮明に描かれており、いつでも記憶から再現することができる。(p37)
アスペルガー症候群の子どもは、しばしば見たものを細部まで記憶できたり、絵として再現できたり、〇〇博士と呼ばれるほど特定の分野に詳しくなったりするものです。
視覚的思考力や幾何学に秀でた数学の天才たちは、アスペルガー症候群だったのではないか、と言われています。きっと自然の形を読むことにも秀でていたはずです。
ほかにも、聴覚過敏や、匂い過敏をもつ子どもはどうでしょうか。
現代の学校では、音や匂いへの過敏さは足かせでしかありません。
しかし、この本にもいくつか例が出ていますが、霧や雪で砂で視界が遮られる場所に生きている民族は、音や匂いにとても敏感でした。(p70,73,78)
敏感な感覚をもつ人たちがナビゲーターとなり、仲間たちを、遭難や餓えの危険から、幾度も救ってきたのです。
現代社会では、学校に適応できない子どもたちは、安易に、「障害」や「欠陥」とみなされています。
けれども、そうした子どもたちに欠けているのは、本人の能力や脳機能ではなく、ふさわしい環境のほうだと思います。
この数十年のあいだに社会のありさまは変化しました。かつては自然を読む才能だったものが、今では障害とみなされるようになったのです。
この話題に関する詳しい考察は以下の記事に書きました。
では、もはやどうしようもないのでしょうか。
時代が変わってしまった以上、かつての社会に有利だった感覚が鋭敏な人たちは、今の社会では生きづらさに嘆くしかないのでしょうか。
なぜ今、ナチュラル・ナビゲーションが必要か
ナチュラル・ナビゲーションが廃れたのは、時代が、また社会がそれを必要としなくなったからです。
便利な科学技術が次々に登場したおかげで、わたしたちがわざわざ五感をフル活用して、自然のしるしを読む必要がなくなったからです。
それとともに、ナチュラル・ナビゲーションに向いていた、感覚が鋭敏で、自然の手がかりに気づく能力に長けていた人たちも、社会に居場所をなくしていきました。
社会に適応できないのは、落ちこぼれだから、欠陥があるから、障害を持っているから、といったレッテルを貼られ、自尊心を削られてきました。
でも、もし適応できないのが、自分の欠陥ではなく環境のせいだとしたら、どうでしょうか。
生まれ持った五感の鋭さや、他とは違う神経特性を活かせる場所がどこかにあるはずではないでしょうか。
確かに、わたしたちの生活は、先住民たちの時代とは大きく様変わりしてしまいました。ほとんどの人は自然ではなく人工物に囲まれた文明生活を謳歌しています。
それでも、わたしたちは自然界からまったく切り離されてしまったわけではありません。人間が生物の一種である以上、この地球との関係性を断ち切ることはできません。
昨今は、気候変動の問題が身近になり、若者を中心として、地球環境に関心を持つ人が増えています。
時代は回帰しつつあります。
自然に無関心、無頓着な大人たちが形作った環境破壊の時代を越えて、自然とのつながりが再評価される時代へと。
昨年、一躍 時の人となった環境活動家のグレタ・トゥンベリが、アスペルガー症候群を公言しているのは、偶然ではないかもしれません。
「アスペルガーは私の誇り」 グレタ・トゥーンベリさんが投げかける「障がい」の意味 | ハフポスト
アスペルガーは病気ではなく、1つの才能。アスペルガーでなかったら、こうして立ち上がることはなかったでしょう
ADHD、アスペルガー、ディスレクシア、HSPなどの神経特性は、それぞれ何らかの感覚の敏感さを特徴としているようです。そのような人たちは、環境の変化に人一倍敏感です。
こうした、かつての社会に適応した感性を持つ人々、自然を読む能力の名残りを受け継いでいる人たちのほうが、地球の危機を敏感に感じ取り、行動する必要に駆られるのかもしれません。
自然への意識の高まりとともに、感覚が敏感な人たちが、再び時代の主役へと躍り出るときが来ようとしているのではないでしょうか。
わたしも、自分が自然に惹かれるのは、ADHDの特性と無縁ではないと思っています。
自然環境のもとではADHD症状が和らぎ、かえってメリットになるという研究もあります。
わたしは、気候デモに参加する気はありません。けれども、ナチュラル・ナビゲーションのようなスキルを学ぶ、という形で、もっと自然とのつながりを取り戻したいと思っています。
そうすることで、今まで、欠点だと思っていた部分が、長所になりうることを発見してきました。
今の時代にナチュラル・ナビゲーションを学ぶことには、どんな意義があるのでしょうか。3つの点を考えてみましょう。
1.生きている実感を取り戻せる
まず、ギャティが言うように、自然のしるしを読むスキルを身に着けたら、毎日が楽しくなります。
わたしの経験では、自然を頼りに道を見つけ、自分の位置を知るための知識があれば、
家の近くでも世界各地の遠く離れた場所でも、単調になりがちな田舎歩きや船旅の楽しみが大いに増すものだ。(pp3-4)
わたしたちはもはや、生き残るために自然のしるしを読む必要はないかもしれません。でも、自然のしるしを読むことができれば、生活は楽しくなり、生き生きとします。
先日の記事で書いたように、現代の若者の中には、ついこの前までのわたしも含めて、離人感(生きる実感がない感じ)や厭世観(生きていてもつまらないという気持ち)につきまとわれている人が大勢います。
生きていても楽しくない、何の喜びも感じられない、生きるのがめんどくさい、異世界に逃避したい、バーチャル空間に閉じこもりたい。そんな人が増えています。
その原因は、記事で考察したように、地に足をつけて生きる経験の不足でした。
自分の感覚を存分に用いて、この広い世界を、地球というフィールドを楽しむことを、わたしたちの世代はめったに経験できません。
けれども、どれだけ進歩した文明に住んでいても、わたしたちの体のつくりは動物です。動物は、動くこと、また感じることによって、生きている実感や充足感を味わいます。
その科学的なメカニズムは、ごく近年明らかにされてきた内受容という感覚によって説明することができました。
本物の経験が不足すれば、本物の充足感は得られなくなります。
全身の感覚を使って、この世界を味わわないなら、生きている実感が希薄になってしまい、不安定な精神状態に陥りかねません。
いくらバーチャルがリアルになったとしても、ゲームやインターネットの世界は、この地球上で全感覚を用いて生きる実体験の代わりにはならないのです。
人生を生き生きと楽しみたいなら、かつての時代の人たち、さらには動物たちがしているように、現実世界で五感を使う必要があります。
ナチュラル・ナビゲーションを学ぶなら、どうやって五感を使って、この世界を味わい尽くすかがわかります。
それは充実感に満たされたマインドフルな人生を取り戻す第一歩です。
2.名前を知れば、大切に扱うようになる
「愛」の対義語は何でしょうか。
「憎しみ」だと答える人もいます。宗教間、国家間、民族間の憎しみが引き起こしてきた無残な殺し合いを見れば、的確な答えです。
けれども、わたしたちが住む ここ日本のような現代社会では、もっと別の言葉のほうが、「愛」の対義語としてふさわしいように思えます。
それは「無関心」です。
孤独死、虐待、いじめ、難病など、現代社会を取り巻く問題はたくさんあります。でも多くの人たちは無関心です。関わり合いになりたいと思っていません。
地球環境の破壊についても同じことがいえます。
「憎しみ」に駆られて、地球を積極的に破壊する人はほとんどいないでしょう。しかし「無関心」によって、汚染や破壊を見過ごし、深く考えるのを避ける人は少なくありません。
では、その無関心はどこから来ているのでしょうか。
わたしは、教育だと思っています。学校教育では、基本的に、教室の中に引きこもって、本や黒板だけを見て学びます。
この世界の環境と肌身を触れ合って学ぶ機会はめったにありません。
あなたの子どもには自然が足りない に書かれているように、人は、自分が名前も存在も知らないものに対しては価値を認めません。
ブルックスは、何年も前にこの土地に入りこんだブルドーザーがつけた傷の痕を指差した。
開発者がいかに原状回復を唱えたとしても、一度手をつけられた土地では、生き物も土の中の構造も破壊されてしまう、と彼女は言う。
「簡単に元通りにする方法なんてだれも知りません。手で植えるには年月が足りないんです。
土地は放っておけば勝手に再生するわけではないのよ。昔からの固有種は外来種にやられてしまうし」
いたるところに、しみか汚れのようなブルドーザーの痕が残っている。保護されていると思われているところでさえも、同じだった。
「こういう生態系の破壊はたいがい、私利私欲と無知からなされるんです」
彼女によれば、人々は名前を知らないものには価値を認めない。
「植物の名前を知るたびに何か新しいものに出合ったような感じがする、と言った生徒がいたわ。
名前をつけるということは、その存在を知ることなのよ」(p60)
何かを大切にしたければ、まず存在を知ることが必要なのです。
それも、ただテレビのドキュメンタリーや、図鑑の写真や、論文を通して知るのではなく、自分で触れ合って存在を知る、ということが。
わたしはこんな場面を思い浮かべます。
もし、トップクラスの偏差値を誇っている有名大学の生徒たちを、山の中につれていって、こんな「テスト」をしてみたら、どうなるのだろう?と。
「この山をじかに歩き回って、生きている動植物や菌類を100種類見つけて、名前を同定してみてください。図鑑は自由に使っても構いません」
その生徒たちは、得意なペーパーテストと同じほど優れた成績を挙げられるでしょうか。
わたしは自分がペーパーテストが得意なタイプだったからこそわかりますが、とんでもなく難しく感じると思います。
このような「テスト」を課されたら、本当に好成績をとるのは、偏差値の高い有名大学の生徒ではないだろうと思います。
むしろ、現代社会では、落ちこぼれ、学習障害、発達障害などとみなされている、感覚が鋭敏な子どもたちこそ、優れた成績を残すのではないでしょうか。
3次元の世界で、空間の中に存在する生物を観察し、種類を同定するのは、2次元の文章や論文を理解するのとは全然違います。図鑑が手元にあっても、非常に難しく感じます。
動物や植物はどれも、見る角度や環境によって色も形も変わります。図鑑に載っている姿と同じ、というのは稀です。
樹木では、若木と成木ではまったく雰囲気も見た目も変わります。季節によって姿形が別物のようになります。キノコやコケはなおのこと変幻自在です。
ペーパーテストで好成績を取るのに必要な、暗記力や論理的思考力はあまり役に立ちません。それよりも、感覚の鋭敏さや、観察力、そして経験がものを言います。
きっと一日では終わらないでしょう。数日、数週間必要かもしれません。
けれども、この「テスト」をやりきったら、内なる変化を感じ取ると思います。
自分の足でひたすら歩き回った森に親しみを感じるでしょう。自分の目で観察し、匂いをかぎ、手で触れて、名前を頑張って調べた生き物ひとつひとつに愛着が湧くことでしょう。
自分の感覚を使って世界とつながるのは、絆をつむぐことなのです。赤ちゃんが親との身体的なふれあいを通して愛着の絆を育むのと同じように。
もし、このようにして単なる机上の知識ではなく、五感と経験を自然を知ったなら、決して「無関心」ではいられなくなるはずです。
ナチュラル・ナビゲーションを学び、実践する人は、このような変化を繰り返し経験します。
風を感じ、鳥の飛翔を見上げ、森の地形を読み、植物やコケや地衣類が示す手がかりを観察し、川のせせらぎに耳を傾け、樹木の芳香を嗅ぎ、自分の手足で道を切り開くとき。
かつての文化の人たちがそうだったように、自分が生きている場所そのものと、そこに息づく生命を愛するようになり、感謝や畏怖を覚えるようになります。
ひとたび名前と存在を知れば、ひとつひとつの生き物がいかに大切なものかを知るでしょう。
たとえ知的には優秀で、学問では良い成績をおさめても、地球の環境には無関心な大人たちのようにはならないはずです。
地球が数多くの生き物の生態系の網で形作られていることを、自分の経験をもって知ればなおのこと、それを無造作に破壊するような真似はしないでしょう。
母なる自然との間に結ばれる、このような愛着の絆は、環境破壊が深刻さを増していくこれからの時代にあって、貴重な財産になることでしょう。
3.創造性につながる
感覚をフル活用して自然のしるしを読むことの最大の恩恵は、わたしたちの創造性を養ってくれるということでしょう。
ギャティは自然は導く――人と世界の関係を変えるナチュラル・ナビゲーションでこう書いていました。
偉大な芸術家、作家、ナチュラリスト、科学者、航海者、探検家、詩人、開拓者たちには、ひとつの共通点がある。
外部世界に興味を持ち、世界をひとつひとつの部分へと分解してから組みたてなおすことによって、この世界で生きる人類に創造的なものをもたらす能力だ。
観察力やはじめは取るに足らないように思える小さなことに目を向ける能力は、のちに驚くほど重要になり、深い意味を持つ。
小さな観察から、大きな発想が育ってくる。
感覚の使いかたを訓練し、感受性を備えた精神は膨大な観察結果を蓄えていて、
やがて時が来れば、そうして集められたものすべてがまるで一編の傑作小説のように結びつき、魅力的な模様を織りなして新しいものをもたらしてくれる。(p7)
「観察力やはじめは取るに足らないように思える小さなことに目を向ける能力」は、今の学校ではほとんど役に立ちません。
すぐ気を散らされてADHDだと言われたり、こだわって考えすぎてアスペルガーだとみなされたりするだけです。
現代の学校教育は、感覚が敏感な子どもたちをうまく扱うことができず、落ちこぼれや障害とみなします。
しかし、自然の中では、そうした感覚の敏感さや、感受性こそが、才能になります。より多くのことに気づき、より深い知識を得る助けになります。
「偉大な芸術家、作家、ナチュラリスト、科学者、航海者、探検家、詩人、開拓者」などに、現代の基準からすれば、発達障害とみなされる人が多かったのも不思議ではありません。
実のところ、そうした人たちは、感覚が敏感で、観察力や感受性に秀でていただけであり、障害などではなかったのです。
生まれつき敏感な感覚を持つ人たちが、「感覚の使いかたを訓練し、感受性を備え」ることができれば、優れた創造性につながる、ということは、多くの実例が証明しています。
ギャテイがいうには、わたしが尊敬するダーウィンがそうでした。
ギルバート・ホワイト〔イギリスのナチュラリスト(1720-1793)〕やチャールズ・ダーウィン、あるいはほかにも多くの偉大なナチュラリストが、
若いころに自然のなかに分けいって長い時間を過ごしていたが、友人たちには、それはなんの目的もない活動だと思われていたにちがいない。
ダーウィンは両親や教師たちに怠惰なのではないかとひどく心配されていたが、
彼がいつも静かに蓄積していた観察は何年も経ってから花開き、すべてがつながって19世紀最大の科学的アイデアを生み出した。(p7)
最近読んだ別の本によると、やはりわたしが親近感を感じるレイチェル・カーソンもそうでした。
彼女は子ども時代からとても内気で、敏感な女性でした。現代の基準に照らせばHSPと呼ぶにふさわしいでしょう。
しかし、子どものころから、日々自然界を観察し、ささいな変化にも気づく感性を育て、作家、詩人、そして科学者として活躍しました。
カーソンの子ども時代の愛読書はピーター・ラビットの絵本でしたが、その作者であるビアトリクス・ポターもまたそうでした。
現代ならアスペルガー症候群など、何かしらの発達障害とみなされてもおかしくないほど独特な少女でしたが、大自然の中で過ごした経験によって、キノコ学者また絵本作家としての才能が育まれました。
このような人たちの実例は、敏感な感覚をもつ子どもたちを、学校の教室に押し込めるのではなく、自然の中の3次元のフィールドに連れ出す意義をはっきり示しています。
生まれ持った「感覚の使いかたを訓練」するチャンスがあれば、創造性を開花させるきっかけになるのです。
わたしがナチュラル・ナビゲーションを知ってよかった理由
わたしはというと、学校のテストは得意なほうでした。学生のころは、並外れた集中力で一夜漬けできたからです。
しかし、学校環境に対して過剰適応しすぎてしまいました。気づかないうちに無理を重ねて、結局は体調を壊してしまいました。
ブログを読んでくださっている方ならご存じのとおり、それから10年以上にわたる紆余曲折の果てに、やっと自分の特性を知って、自分に合った環境に身を置くことができました。
大自然のフィールドで活動するようになってからは、自分の感覚の鋭敏さがとても役立っていると感じています。
ギャティがこんなことを書いていました。
西洋文明では、道を見つけ、自然の跡をたどる能力は(軍隊やボーイスカウトでの経験がなければ)ほとんど発達していないため、
たとえ素質には差があっても、自然のしるしを読むやりかたの初歩を身につけただけで、知性は高いが経験がないという人を上回ることができる。
上回るどころか、頻繁にその相手を感嘆させることができるだろう。(p16)
わたしは、自分の経験からいって、これは事実だと思います。自然を読む能力を訓練しはじめて、まだほんの一年ほどなのに、周囲の人から物知りだと思われることがあるからです。
現代人のほとんどが、いかに周囲の自然を観察する力が衰えてしまっているかを実感します。多くの人たちは、風景を見ているようで、何も見えていません。かつてのわたしもそうでした。
でも、リチャード・I・ドッジはネイティブ・アメリカンについて「訓練されていない目には似たような変化のないものに見えるが、丘や谷、岩や茂みのそれぞれが…異なった特徴を持」つと書きました。(p10)
ナチュラル・ナビゲーションの本を読み始めてから、風景にはすべて理由があることがわかってきました。
たとえば、道端に立っている樹木の形に意味があることを知りました。木の枝ぶりは方角や風向きを知る手がかりなのです。(p106)
なぜここにこの花が咲いているのか、なぜここの雪だけ溶けているのか、なぜこの斜面には広葉樹が多いのか、なぜあの鳥はいつもあそこにいるのか。
すべてに理由があることに気づくと、目に入る風景や、耳にする音に、よりいっそう注意を払うようになります。
今のところ、わたしの浅い知識では答えが出せない難問も数多くあります。
それでも、かつては無意識のうちにスルーしていたことに注意が向き、この世界がいっそう奥深くなりました。
わたしは多分、もともとは、こういった自然の中の活動に向いているタイプだったのでしょう。
同じ環境に身を置いているだけなのに、わたしのほうが周囲の人よりはるかに多くのことに気づくからです。
ギャティは、ナチュラル・ナビゲーションとは、たったひとつのしるしではなく、複数の証拠に基づいて、推論する能力だと説明していました。
いくつかの異なった痕跡が一致して示していることこそが、それぞれの痕跡から個別に導き出される結論を強め、たしかなものにさせる。(p3)
原則として一度、あるいは数少ない観察に基づいて判断すべきではない、ということは強調しておかなければならない。
…ナチュラル・ナビゲーションの技術とは多くの場合、ひとつだけでは信頼できないが総合するとたしかなガイドとなる複数の情報を取りいれることなのだ。(p183)
周囲の環境を見渡して、たくさんのことに気づく。ひとつの情報ではなく、ちょうどマインドマップのように複数のバラバラの情報から、ひとつの全体像を描き出す。
まさにADHDにおあつらえ向きです! わたしが大得意なことです。
学校では、答えはひとつしかないと教えられます。あちこち気が散ると怒られてしまいます。
しかし、自然の中では、より多くのしるしに気づくほうが有利であり、複数の手がかりに注意を移り変わることが才能なのです。
今では、自分がADHDでよかったと心から思います。
この一年間、森の中で季節ごとの草花の名前を覚えました。葉の形や樹皮の模様、実、冬芽を通して身近な樹木を見分けられるようになってきました。
身近な動物の足跡をいくつか見分けられるようになり、木々に残された爪痕や巣穴に気づけるようになりました。
ウェダーで川床を遡上する方法を知り、スノーシューで雪の森を歩く方法を学び、4通りの方法を用いて夜空に北極星を見つけられるようになりました。
どれも、まだまだ初歩の初歩です。その道のエキスパートには鼻で笑われるレベルです。
残念なことに、わたしは、ずっと大都市で生まれ育ち、外の世界に目を向けるのではなく、内側に引きこもる生き方をしてきました。
感覚の鋭さは才能ではなく生きづらさとして足を引っ張るものでした。
感覚ではなく知性や理性に頼る教育を受け、偏った頭の使い方をしてきました。
まるで、本当は左利きだったのに、ずっと右利きになるよう無理やり矯正されてきたような感じです。
だから、いざ自分の感覚を使って、自然のしるしを読み取り、判断する、という新しい頭の使い方には、四苦八苦しています。
今になって、本来の利き腕、すなわち自分の鋭敏な感覚を役立てられるよう、いちから訓練しなおしているところです。
これまでのやり方が通用しません。あまり進歩がみられなくて、投げ出したくなることもあります。
「感覚の使いかたを訓練」するには、まだまだ時間がかかるでしょう。
もっと子どものころに自分の適性に気づいていれば、と悔やまれます。スタートが遅すぎた感は否めません。
でも、ギャティは「観察力やはじめは取るに足らないように思える小さなことに目を向ける能力は、のちに驚くほど重要になり、深い意味を持つ」、そして「小さな観察から、大きな発想が育ってくる」と書いていました。
遅々とした進歩でも、こうして自分の感覚を使って生活する積み重ねが、5年後、10年後に創造性として実を結ぶことを信じて取り組んでいきたいです。
感覚過敏を自然の中で役立てよう
自然は導く――人と世界の関係を変えるナチュラル・ナビゲーションは読み物としても面白い本です。
ギャティは、身近な自然から情報を読み取るテクニックを解説しながら、さまざまな民族や探検家のストーリーを生き生きと描写してくれています。
この本では、多くのテクニックが扱われていますが、「知識」として覚えるだけではトリビア以上の意味は持ちません。
自然を読むスキルは、実際に自然の中に身を置いて、この地球の大地を踏みしめて、自分の全感覚を使って実践したときに初めて意味を持ちます。
この本の内容のうち、砂漠や、極地や、海上で使うテクニックは、さすがに今のわたしには実践できません。
それでも、砂漠は冬の雪原とよく似ていますし、海を愛したレイチェル・カーソンは山と海には類似点が多くあると述べていました。何かしら適用のしようはあるものです。
たとえ都会に住んでいるとしても、その気があればナチュラル・ナビゲーションの技術は活用できます。ギャティはこう書いています。
自然のガイドを利用するためにはあらゆる自然のしるしを集めなければならない。
そのルールは都市でも同じで、何章にもわたって書いてきたナビゲーションのための補助や方法を互いに関連づけて使うことができる。(p160)
現実の世界の中で、三次元の空間の中で実践してみると、ナチュラル・ナビゲーションがいかにすばらしく、楽しいスキルであるか、味わい知ることができます。
今まで気に留めなかったことが意味をもつようになり、この世界が深みを増します。自分の頭の中の空想に引きこもる代わりに、見渡す限りの外の世界を楽しめるようになります。
進んで自然に分けいったり、眺め、観察し、生まれ持った感覚を磨き、思考をうながし、想像力を刺激し、創造的な能力を目覚めさせるためだけに散歩することは誰にでもできる。
時間を無駄にすることをあまり恐れずに目で見、耳で聴いていると、あらゆるものが深い意味を持つようになる。(p7-8)
生まれ持った体の感覚を通して、自分が生きている地球とのつながりを実感できるときほど、充実感を覚える瞬間はほかにありません。
あなたは現代社会で生きづらさを感じていますか?
感覚過敏に悩まされていますか?
いろいろな刺激に気持ちをかき乱されますか?
ならばぜひ、騒々しいショッピングモールや、作り物のバーチャル空間から離れて、その敏感な五感を活かせる場所に、何もない自然のただ中に出かけてみてください。
すばらしい繊細な感覚をたよりに、自然のしるしを読むスキルを伸ばしてみてください。
きっと、生きづらさではなく、自分の新しい居場所を見いだすことができるでしょう。