なにしろホモサピエンス全体で見れば、人類が正式に都会に生息する種になったのは、2008年のことだ。
この年、世界保健機関(WHO)が、都会に住む人の数が田舎に住む人の数を初めて上回ったと報告した。
アメリカ合衆国では昨年、この100年間で初めて郊外より都市部が速く成長した。その変化を別の観点から見れば、現代は人類史上最大の集団移動のさなかにあるといえる。(p24)
日本に住む大勢の人たち、特に、このブログを見てくださっている人たちの多くは、生まれたときから近代都市に住んでいるかもしれません。
わたしもそうですが、狭い教室で学ぶ学校、舗装された道路、立ち並ぶ電柱やビル、通勤時の人混み、そうした都市の習慣や風景が当たり前の環境で育ってきたことでしょう。
そうした光景は、わたしたち個人個人にとっては「当たり前」のものですが、人類(ホモ・サピエンス)という種にとってはそうではありません。
なにしろ、冒頭で引用した本、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 が述べているように、いまは人類史上最大の集団移動の時期だからです。
人類にとって、都市という環境は「当たり前」ではなく、ここ何世代かのうちに移り住んだ、未知なる新天地です。
わたしたち個人にとっては、生まれたときから慣れ親しんでいる当たり前の環境でも、人類という生物にとって異質なので、都市生活でさらされる多種多様な環境刺激は、無意識のうちに脳に慢性的な負荷をかけています。
その結果、例えば ひといちばい敏感な子(HSC)の本に書かれているように、知らず知らずのうちに過剰な負荷に翻弄され、発達障害のような問題行動に陥っている例が少なくないのではないか、と思われます。
HSCはたくさんのことに気がつくので、気が散りやすい傾向にあります。(p57)
過剰な刺激を受けて錯乱状態になり、ADD(Attention D Disorder=注意欠陥障害)のような症状を見せる子もいます
(でも、そのような刺激を受けていない時の注意力は良好で、大切なことには集中することができます。(p42)
この記事では、ADHDのような行動が、都市や学校という環境における過剰な、あるいは異質な刺激によって引き起こされている場合があることを示唆する研究を紹介します。
また、身のまわりにある、ごくありふれた都市の形、光、音、匂い、そして人混みなどが、気づかないうちにどれほど脳に負荷をかけているかを示す科学的研究を調べてみましょう。
そして、過剰すぎる刺激に圧倒されることで発症すると思われる解離症状が、荒々しい大自然のもとで癒されることがあるのはなぜか、考察したいと思います。
もくじ
これはどんな本?
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 は、ジョージワシントン大学の作家またジャーナリストのフローレンス・ウィリアムズが、自然が脳に及ぼす影響についての研究を取材して書いた本です。
日本の森林セラピーの第一人者、宮崎良文教授への取材を皮切りに、フィンランドやスウェーデンといった環境先進国、あるいは韓国やシンガポール、アメリカといった都市国家の専門家のもとを訪ね、さまざまな視点から自然と脳のつながりを探ります。
自然愛好家の本は往々にして主観的になりがちですが、この本では妄信的に自然を礼賛するのではなく、客観的な脳科学の研究に注目することで、自然とテクノロジーのバランス、自然と文明の共存を意識しています。
科学的なデータに基づく客観的を研究も取り上げ、巻末に参考資料を豊富に挙げつつ、主観的な感想も織り交ぜることで、共感しやすいバランスの取れたエッセイとなっています。
都市にいるときだけ「発達障害」になる人たち
近年、発達障害という概念が広く受け入れられるようになりました。特に、ADHDや自閉スペクトラム症(ASD)については、脳科学を駆使した研究が進んでおり、さまざまな脳の「異常」が特定されています。
メディアの情報に触れると、発達障害は生まれつきの脳の異常だと思いがちですが、すべての専門家がそうした見方に同意しているわけではありません。
このブログで何度か取り上げてきたように、心理学者や当事者たちの中には、発達障害の人たちがさまざまな症状や生きづらさを抱えるのは、多数派が作り上げた社会の環境で少数派として生きざるを得ないことからくる二次症状だと考える人たちがいます。
冒頭で引用したように、HSP(Highly Sensitive Person とても敏感な人)の研究者のエレイン・アーロンは、感覚が敏感な人は、過剰な刺激にさらされると一時的にADHDのような振る舞いをみせる、と述べています。
大多数の人がごく当たり前に受け流している刺激でも、敏感な人にとっては、過剰すぎることがあります。
情報量が多すぎて、頭がいっぱいになってしまうと、冷静に考えられなくなり、多動になったり不注意になったりすることは、認知科学からも証明されています。
では、「一時的に」ADHDのようになるのではなく、一日中多動で、一見何の刺激もないようなときにも問題行動を起こす子どもの場合はどうでしょうか。
騒音や明るさや緊張などの過剰な刺激のあるなしにかかわらず、いつも多動で不注意で衝動的なら、環境ではなく、その子の生まれつきの脳の障害だ、という見方が正しく思えるでしょう。
また、過敏で傷つきやすい人たち (幻冬舎新書) に書かれているように、子どものころからADHDが目立つ人の多くは、自分が感覚過敏だとは考えておらず、アンケートを取ると「無計画で衝動的な傾向は、過敏性とはごく弱い相関」しかみられません。(p121)
本人が過敏性を訴えないのであれば、環境のせいではなく、生まれつき多動で衝動的な性格なのだ、とみなすのは正しいように思えます。
しかし、ここで抜け落ちている観点があります。冒頭で書いたように、わたしたちがごく普通の環境だと思っているこの日常生活は、人類という種からしてみれば、異質な新天地の生活なのです。
わたしたちは、飛行機の騒音や、工事現場の化学物質のにおいなど、いつもと違う環境からくる刺激は、異質だと認識できます。
でも、生まれたときから慣れ親しみ、四六時中接している環境が、自分や子どもの脳に慢性的な負荷をかけて、問題行動を引き起こしているとは、まず考えません。
しかし、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に書かれているイリノイ大学の心理学者フランシス・クオの次の実験は、意外な事実を明るみに出しています。
クオと同僚のウィリアム・サリヴァンが145人の女性の住人(その団地の住人の大半がシングルマザーだった)に聞き取り調査を実施したところ、窓から木が見える部屋の住人より、アスファルトの風景しか見えない部屋の住人に、心理面での攻撃性、軽中等度の暴力性、あるいは重度の暴力性が見られることがわかった。
またべつの研究では、アスファルトの景色しか見えない部屋の住人には、やるべきことをぐずぐずと先延ばしにし、人生の苦難を長く深刻なものとして認識する傾向が見られることがわかった。(p151)
ほとんどの人はまさか、家の窓から木が見えるかどうか、といった些細なことが、自分の性格や行動に影響を及ぼしているなどとは考えません。
ところが、窓から木が見えないというたったそれだけのことで、そこに住んでいる住人たちは暴力的になったり、やるべきことを先延ばしにしたり、といったADHD予備軍のような行動特性を示すようになっていたのです。
「たかがそれだけのことで?」と思う人は少なくないでしょうが、わたしたち個人の視点ではなく、ホモ・サピエンスという種の視点から考えてみてください。本当に「たかがそれだけのこと」なのでしょうか。
なにしろ、人類の長い歴史の中で、一日中自然が見えないような環境に住む、ということは一度もなかったのです。わたしたちにとってはごく普通の環境でも、人類という種にとってはそうでない好例です。
ADHDー都市が生み出した発達障害
先ほどの実験は、窓から自然が見えないところに住んでいる人たちがADHD予備軍のような行動特性を示す、というものでしたが、この実験の主導したフランシス・クオは、ADHDの子どもを対象にした別の実験も行いました。
公営住宅の窓から見える景色の研究で有名なイリノイ大学のフランシス・クオは、ADHDと戸外での活動の関係も研究した。彼女の研究は小規模ではあったものの、じつに示唆に富んでいた。
ある実験で、ADHDの子どもが室内ですごした場合と自然のなかですごした場合を比較したところ、自然のなかですごすとADHDの症状が3分の1に減るとわかった。
べつの実験では、8歳から11歳のADHDの子ども17人に、ガイドと一緒に3つの異なる場所を20分間歩いてもらった。
住宅街、都会の繁華街、公園の三か所だ。公園を歩いたあとは、数字を逆の順番で記憶するテストの成績がいちじるしくよくなった。(p304)
ADHDの子どもたちを対象としたこの実験では、自然の中で過ごした場合、ADHDの子どもの症状が軽減され、記憶力も向上することがわかりました。
この研究は、ADHDが単なる脳の発達障害である、とする従来の見解に疑問を提起しています。もしも、ADHDの子どもたちが、先天的に衝動をコントロールできない障害を負っているのであれば、環境を変えたところで症状が和らいだりはしないでしょう。
しかし、自然の中に身を置くだけで症状が和らいだのであれば、問題は子どもたち自身ではなく、環境のほうにあるのではないか、ということになります。
ADHDとは、もしかすると、わたしたちがごく当たり前のものとみなしている都市の環境からくる刺激によって、脳の過負荷が引き起こされて生じている現象ではないでしょうか。
以前に扱ったようにADHDの遺伝子は、人類に脈々と受け継がれていることからすれば、「欠陥」遺伝子とは考えられません。狩猟採集生活や、変化の激しい社会では、多動性や衝動性はむしろプラスに働いたのでないか、とも言われています。
心理学者たちは、ADHDを引き起こしているのは、子どもたち自身の欠陥ではなく、子どもたちを取り巻く環境のほうではないか、と指摘しています。
さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。
ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。
「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。
「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」
ヒンショーによれば、ADHDの子どもは従来の学校の授業では退屈し、うまく順応できないと感じる場合が多く、さらに規則が厳しい環境のせいで症状が悪化するという。(p305)
心理学者たちは、ADHDの子どもには学校が必要ではない、と述べているわけではありません。そうではなく、現在の学校で採用されている教育方法、つまり閉鎖的な教室に閉じ込められ、ただ座って学ぶという環境に問題がある、と考えています。
例えば、博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトや、政治家また作家のウィンストン・チャーチルは、今ならADHDとみなされていたであろう多動な子ども時代を送りました。
彼らは学校には適応できませんでしたが、普通以上に博識な大人になりました。教室でじっと座って学ばずとも、探検と冒険を通して必要なことをみな学べたからです。
やはりADHDの傾向を持っていたと思われる、造園家・都市計画家のフレデリック・ロー・オルムステッドについて、こんなエピソードが書かれていました。
フレデリック・ロー・オルステッドは大の学校嫌いだったが、寛大な校長先生のおかげで野山を歩きまわるのを大目に見てもらった。
…オルムステッドはみずからの人生を振り返り、問題があるのは窒息しそうな教室のほうで、手に負えないと言われている子どもたちのほうではないと断罪し、
「いわゆるごく普通の環境ですごしていない少年、すなわち毎日10マイルから12マイル(約16~20キロ弱)歩くのではなく、家のなかで日がな一日じっと座ってすごしている少年は、いずれ病に苦しむか、勉強に身が入らなくなるだろう」と記した。(p302)
オルムステッドは、学校の環境の中では不適応を起こしましたが、野山で学ぶときは決して「発達障害」でも「学習障害」でもありませんでした。
「問題があるのは窒息しそうな教室のほうで、手に負えないと言われている子どもたちのほうではない」のです。
では、どうして、ADHDの子どもは、教室に座っているとき勉強に身が入らないのに、自然のなかを歩きまわっているときには、症状が軽減され、記憶力もよくなるのでしょうか?
これまでの発達障害の本であれば、ADHDの子は生まれつき活動的だから、じっと座っているより、自然の中で動き回って学ぶほうが向いているのだ、といった行動特性に基づいた説明がなされていたものです。
しかし、これでは辻褄があいません。先ほどの研究によると、ADHDの子は、都市を散歩したときには症状は改善されず、自然の中を散歩したときにのみ症状が和らいだからです。
同じように活発に身体を動かしていても、都市にいるときはADHDの症状に悩まされるのに、自然の中にいけば問題行動がなくなるのです。
つまるところ、フランシス・クオの実験結果が示しているのは、ADHDの子どもたちは、もともと衝動的なわけでも多動なわけでもなく、感受性の強い子どもたちなのではないか、ということです。
学校の教室だけでなく、おそらくは人類にとっては目新しい都市という環境からくるストレスに敏感で、たとえば、窓から緑が見えるかどうか、といった些細に感じられる違いにも過敏に反応するので、あたかもいつも落ち着きがないかのように見えるのです。
むろん、後で考えるように、ADHDの原因には、それ以外にも様々な環境要因が関わっていると考えられますが、少なくとも、ADHDが単なる遺伝的な脳の神経伝達物質の障害である、という見方が短絡的すぎることだけは確かです。
医学がADHD研究において偏った路線に進まざるを得なかった、複雑な歴史的事情についてはこちらにまとめました。
多動ではなく解離を起こす子どもたち
これまでの実験に出てきたADHDの子どもたちは、大半が男子でした。これは、ADHDの女の子が少ないからではなく、男女で症状に性差があるためです。
ADHDの男の子は、多動や衝動性が目立つ「多動性・衝動性優勢型ADHD」、いわゆるジャイアン型のことが多く、問題行動を起こして人目につきやすいので、ADHDと診断される率が高くなります。
しかしADHDの女の子は、不注意が目立つ「不注意優勢型ADHD」、通称 のび太型のことが多く、見逃されやすいと言われています。こちらはADHDから多動(H)を抜いてADDとも呼ばれます。
同じように、自閉スペクトラム症でも、男の子は周りに合わせない振る舞いが目立つ積極奇異型が多いのに対し、女の子は場の空気がわからないなりに周囲に合わせようとする受動型が多く、見逃されやすいとされています。
ひといちばい敏感な子に書かれているとおり、感受性の強い子どもは、過剰な刺激にさらされたとき、二通りの反応を見せます。
学校の環境が騒がし過ぎたり刺激が多過ぎたりすると、ADD/ADHDのような反応を見せることがあります。(p337)
HSCの中には、過剰な刺激を受けると、ひきこもる、気が散る、ぼんやりする、忘れっぽくなる、やる気がなくなるなどの症状を見せる子がいます。不安、抑うつ状態、臆病になる子もいます。泣いたりイライラしたりといった強い感情を見せる子もいます。
ADHDのように、落ち着きがなくなったり、注意散漫になったり、時には攻撃的になる子もいます。でも、いずれの場合も、刺激がなくなれば、元の状態に戻ります。(p413)
ここまで見てきた、主に男の子に多いADHDや積極奇異型のASDは、後者の、「落ち着きがなくなったり、注意散漫になったり、時には攻撃的になる子」のほうです。
しかし、やはり過剰な刺激を受けて圧倒されているのに、目立った問題行動を見せず、「ひきこもる、気が散る、ぼんやりする、忘れっぽくなる、やる気がなくなるなどの症状」を見せるADDや、受動型ASDの子どもたちがいます。
ぼんやりしているタイプの子どもは、目立った問題行動を起こさないので、多動なタイプの子どもより過敏性が軽いのかというとそうではなく、むしろその逆だと思われます。
わたしたちの脳は、刺激に対して、三段構えの反応を見せます。
軽い刺激を受けたときは、理性をつかさどる前頭前野が対応し、冷静に反応し、自分の行動をうまくコントロールできます。
強い刺激を受けると、扁桃体が危険を知らせるアラームを鳴り響かせ、交感神経系の「闘争・逃走」反応が引き起こされます。刺激に敏感なADHDの子たちは、日常的にこの「闘争・逃走」状態にあるため、多動になってしまいます。
もっと強い刺激を受けると、あたかもブレーカーが落ちるかのように刺激をシャットダウンする迷走神経系の「凍りつき・麻痺」反応、いわゆる解離反応が起こります。日時的にこの解離状態にあるのが、ぼんやりして忘れっぽいADDの子どもたちです。
これらの反応について、詳しくはこちらの記事で説明しました。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア に書かれているように、一般的な傾向として、過剰な刺激にさらされたとき、男性は交感神経系の「闘争・逃走」反応を起こしやすく、女性はその一歩先の迷走神経系の「凍りつき・麻痺」の解離反応を起こしやすいようです。
女性は(心拍数を下げる)迷走神経と関連のある「凍りつき」のストレス反応をより多く示しがちである―反対に男性は交感神経―副腎系反応が優性であることが多い。(p17)
ADHDや自閉スペクトラム症で見られる男女の症状の性差は、実際には、この「闘争・逃走」反応と、「凍りつき・麻痺」反応の性差のようです。
男性のADHDに多動性・衝動性優勢型が多く、また男性の自閉スペクトラム症に積極奇異型が多いのは、いずれも感覚刺激に対して「闘争・逃走」反応を起こしているからです。
一方、女性のADHDに不注意優勢型が多く、女性の自閉スペクトラム症に受動型が多いのは、感覚刺激に圧倒され、意識が飛んだり感覚が麻痺したりする「凍りつき・麻痺」の解離反応を起こしているためだとみなせます。
男の子が「逃走・闘争」反応を起こしやすく、女の子が「凍りつき・麻痺」反応を起こしやすいのは、以前に考察したように、生物学的な違いに加えて、社会で生じる文化的なストレスの性差が影響しているように思われます。
先ほどの研究で、男の子のADHDの例ばかりが取り上げられていたことからわかるように、女の子に多いADDは、問題が表面に現れにくいがために放置され、見逃されてしまうことが少なくありません。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 には、そのような解離反応を起こしている子どもたちについて、こう書かれていました。
行動に表す子供は他者の注意を惹くことが多いのに対して、頭が働かなくなっている子供は誰にも迷惑をかけないので放置され、自分の未来を少しずつ失ってしまうのだ。(p121)
多動や問題行動を起こす子どもたちが過敏性を持っているというのは比較的わかりやすいですが、「頭が働かなくなっている子供」が過敏性のゆえにそうなっている、というのは、解離反応についての知識がなければ気づきにくいものです。
すでに見たように、「闘争・逃走」状態にあるADHDの男の子たちは、自然の多い環境に置かれると多動や衝動性が和らぎました。都市の刺激から解放されたことで、本来の脳の働きを取り戻せたのです。
では、その逆に「凍りつき・麻痺」状態にある女の子たちはどうでしょうか。NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に興味深い研究が載せられていました。
都会の学校でよく見られるごく普通の校庭でも、男子は女子より活発に走りまわる。
ところがスウェーデンの研究によれば、自然の多い環境では男子と女子の運動量の差が縮まるという。
運動量の男女差を、自然が詰めると言ってもいい。(p315)
女の子たちは、都市環境では受動的に振る舞いますが、自然の多い環境では、より活動的になり、男女の性差が縮まりました。
不登校に陥る子どもたちについて研究でも、不注意優勢型ADHD、つまりADDが多いことが知られていますが、やはり、自然の多い環境で過ごすと、症状が和らぐと言われています。
「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース
生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。
また、感覚過敏が強すぎるせいで、ごく普通の日常生活でも解離を起こしてしまう、解離型自閉症スペクトラム(おもに女性のASDに多いとされる)について書かれた解離の舞台―症状構造と治療 でも、やはり自然の中に身を置くことで心身を休める傾向があると書かれていました。
こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。
また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。(p101)
過剰な刺激によって多動になっている子どもの研究でも、逆に解離反応を起こしている子どもの研究でも、共通しているのは、学校や都市の環境では症状が悪化するのに対し、自然に囲まれていると症状が和らぐ、ということです。
都市に住んでいるか、自然に近いところに住んでいるか、ただそれだけのことで、敏感な子の振る舞いが、個性のレベルから、障害として治療しなければならないレベルにまで変わったりするのはなぜでしょうか。
それを知るには、わたしたちが、常日頃、当たり前と思って接している都市の環境が、どれほど多くの異質な刺激を脳にもたらしているかを調べる必要があります。
敏感な人が無意識に受けている5つの都市ストレス
ここでは、特に、わたしたちの脳が無意識のうちに処理している5つの刺激について考えてみましょう。
1.形ー脳は無意識のフラクタルを処理している
わたしたちが子どものときから見慣れている都市部の風景は、ほんの数世代前までは存在しませんでした。都市のビル群は、人類という種にとって見慣れない異質なデザインです。
身のまわりの風景のデザインがちょっと違うからといって、わたしたちの脳は目ざとく反応したりするのでしょうか。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、10歳のときにジャクソン・ポロックの絵画に一目惚れしたナノ物理学者リチャード・テイラーはとても不思議な発見をしました。
ジャクソン・ポロックの絵は、ドリッピングという手法で描かれていて、素人の目にはただ絵の具を無造作にぶちまけただけに見えるかもしれません。
しかし、同じように絵の具を飛び散らせた絵でも、ポロックの絵は無意識のうちに人々を魅了するのに対し、素人の描いた絵はそうではありません。
テイラーは、ナノ物理学者としての視点からポロックの絵の秘密を探り、コンピュータで分析してみました。
人間の脳は自然界に似ているものを瞬時に見わけることができると、テイラーは考えている。ポロックが好んだフラクタルは、樹木、雪の結晶、鉱脈とよく似ている。
「ポロックが描いたパターンをコンピュータで分析し、森と比較したところ、瓜ふたつだった」とテイラーは言う。(p158)
テイラーは、ポロックの絵が自然界の「フラクタル」に酷似していることを発見しました。
フラクタルとは、1975年、数学者のブノワ・マンデルブロが発見した概念で、同じ形が大小さまざまに繰り返されるデザインのことです。たとえば樹木の枝や雪の結晶、さらにはオウムガイの殻や台風の目など、自然界のいたる所にみられます。
ジャクソン・ポロックの絵は、一見無造作に描かれたようでしたが、実際には精密なフラクタルであり、拡大するごとに同じ形が繰り返し現れる、という特徴を持っていました。
「たしかに自然界にフラクタルのパターンがあることを発見したのは科学者だが、その25年も前に、ポロックは自然界のフラクタルを描いていたのだ!」
1999年、テイラーはこの発見を『ネイチャー』誌に発表し、芸術と物理というふたつの世界で注目を集めた。(p155)
ポロックが自然界のフラクタルに酷似した絵画を描いた、というのはそれだけでも驚きですが、さらに興味深いのは、なぜテイラーを含め多くの人がポロックの絵画に魅了されるのか、という部分です。
言い換えれば、どうしてわたしたちは、自然の風景や、それと同様のフラクタルを含むポロックの絵を好むのでしょうか。
テイラーと科学者たちは、自然界のフラクタルについて研究し、さらに驚くべき発見に至りました。
テイラーとハイェルヘが視線測定器を利用し、被験者の瞳孔が画像―たとえばポロックの絵画など―のどのあたりに向けられているのかを詳細に調べたところ、瞳孔が動くパターンそのものがフラクタルであることがわかった。
…おもしろいことに、アホウドリが餌をさがして海面を飛翔した軌跡を線でたどると、やはりフラクタルのパターンとなる。
それはおそらく、なにかをさがす際にはフラクタルのパターンがもっとも効率がいいからだろう、とテイラーは語る。(p159-160)
自然界に見られるフラクタルな構造は、情報を読み取る効率がもっとも高い、言い換えれば、脳にかかる負担が最も軽い風景なのです。
対照的に、現代社会の都市のデザインは、情報過多で、脳に負担をかけることがわかっています。
目の前の光景が、たとえば都会の交差点のようにあまりにも複雑である場合、脳はそうした情報をすばやく処理することができず、無意識にであれ不快感を覚える。(p160)
それは、目―つまり脳―が景色の構造を読み解こうと懸命になっていることのあらわれだ。都会の風景は、わたしたちに注意を向けるよう強制するのだ。(p172)
効率的に情報を圧縮した自然界のフラクタルな風景に比べ、都会の風景は情報量が多すぎて、脳に無意識の負荷をかけているのです。
わたしたちは、ふだん都会の風景を見ても、情報量が多いかどうかあまり意識していないでしょうし、ましてやフラクタルが含まれているかどうかなど気にかけたこともないでしょう。
しかし、わたしたちが意識できるのは、受け取るさまざまな感覚刺激のほんの一部にすぎません。
わたしたちの脳は無意識のうちに、意識できるよりはるかに多くの情報を処理しており、風景のフラクタル情報はそのひとつです。
31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話 には、とても珍しい実例として、外傷性脳損傷の後遺症で、視界にフラクタル模様が見えるようになってしまったジェイソン・パジェットという男性のことが出てきます。
彼は、その奇妙なフラクタルを絵に描くようになりましたが、やがて神経科学者らの研究により、彼は後天性サヴァンで、本来なら意識されない脳の無意識下でのプロセスにアクセスしてしまっているためにフラクタルが見えていることがわかってきました。
彼女の説明によれば、脳は一日中、多くの計算をしているという―コンピュータのマウスに手を伸ばして動かすような、単純なことについて考えてほしい。
自分の動きは感じていても、ほとんどの人はその動きを可能にするために脳が行っている内部の計算にアクセスしていない。
…「けれども、数学が得意なサヴァンの人たちは、どうやら脳のこの部位にアクセスしているらしい」と彼女は説明した。
彼女は、サヴァンは、共感覚による視覚を通して、そのプロセスに意識的にアクセスしているという仮説を立てていた。
そして、脳の秘密の領域で行われる、その「ゾンビ計算」が姿を変えて、絵や色や形になる、と彼女は言った。(p257-258)
たとえわたしたちが意識では気づいていなくても、わたしたちの目は風景のかたちを読み取って処理しており、それが処理しにくい形状のものや情報が多すぎるものであれば、無意識のうちに処理が複雑になり、脳に負荷がかかっています。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によれば、興味深いことにウォータールー大学の認知神経科学者デルチョ・ヴァルチャノフは、都市の風景を眺めているときは、目の挙動に変化が起こることを見つけました。
自然の風景を眺めているときには時間をかけてゆっくり視線を這わせているのに対して、都会の風景を眺めているときには視線が頻繁に「固定」するうえ、まばたきの回数が増えることがわかった。(p172)
このとき生じているのはサッケードと呼ばれる、目の滑らかですばやい動きの異常です。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、精神科医ノーマン・ドイジは、現代社会に生きる人たちの多くが、このサッケードの異常を抱えていることに注目しています。
人類は、ハンターが遠くから獲物の様子を窺う、採集者が小さな種子を拾うなど、さまざまな距離で対象を見られるよう進化してきた。
今日人々は、コンピュータやスマートフォンで文字を読んだり、急いで読んだり、すぐ目の前にあるものばかりを見ることに一日のほとんどの時間を費やすようになりつつある。
急いで本や新聞を読む人は、「一目」で何行もの文章をとらえるために、すべての語をはっきりと見ているわけではない。
それを何千回も繰り返せば、このような目の使い方を脳に配線する結果になる。こうして、不適切な中心固視に、あるいは遠方や周辺視野の無視に至るのだ。(p328)
この説明からすると、現代人の多くが、目のなめらかな動き(サッケード)の障害を知らず知らずのうちに抱えているのは、情報量の多い環境に対する適応だということになります。
広い自然の中で、必要な情報を集めようとすれば、当然、目をなめらかに動かして見回す必要があります。
しかし、あまりに情報量の多い都市の景観やデジタルデバイスに対しては、多すぎる視覚情報を制限するために、あえてはっきり見ず、読み飛ばすことが必要になります。
これはつまり、都市部やデジタルデバイスの多すぎる視覚情報は、わたしたちの目と脳に、あえて注意散漫になる、という適応を強いるということです。
そして、考えさせられることに、以前の記事で取り上げたように、ADHDの子どもは、目のサッケード運動の異常がみられることがわかっています。
そうすると、ADHDの子たちが不注意を示すのは、環境に対する適応ではないか、という仮説がなりたちます。
ADHDの人たちは、「ハンターが遠くから獲物の様子を窺う、採集者が小さな種子を拾う」といった活動に適した新奇追求性の遺伝子を強く受け継いでいるので、本質的には不注意どころか、むしろ目ざといはずです。
自然界の中でわずかに動いた獲物に気づけるのは、環境の微細な変化に目ざといからこそできる芸当です。
しかし、現代社会や学校など、周囲からの情報が多すぎる環境では、敏感に周囲に気を配る注意力の高さが災いして、処理できなくなってしまうので、逆に注意を散漫にならせることで、脳が処理する情報量を制限しているのではないでしょうか。
そうであれば、ADHDの人の不注意は、生まれつきの症状ではなく、感覚が鋭敏すぎて、受け取る情報が多すぎることに対する一種の解離反応だということになります。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 に引用されているダニエル・レヴィティンの意見からすれば、ADHDの人が片付けられないのは、部屋の中の風景に含まれている情報量が多すぎて混乱するからかもしれません。
神経科学者のダニエル・レヴィティンは「平均的なアメリカ人は平均的な狩猟採集民と比べて、数千倍ものモノを所有している。
生物学的な観点から見れば、わたしたちは脳の処理能力を超える量のモノを所有しているのだ」と記した。(p69)
片付けるのが苦手なADHDの人が、一念発起してシンプルライフやミニマリストを志し、多すぎる情報量を断捨離しようとすることがあるのも不思議ではありません。
ADHDの子どもたちや、感覚過敏をもつ人たちが、都会では多動になったり、解離を起こしたりするのは、単に心理的な問題ではなく、刺激が多すぎるというもっともな理由によるものなのです。
2.光ーフルスペクトルの色からなる言語体系
都市部で生活する人たちが無意識のうちにさらされている過剰な刺激の二番目は「光」です。
昨年、概日リズムの研究者たちがノーベル賞を受賞したこともあり、現代社会の過剰な光がわたしたちの身体にもたらす害に注目する人が増えています。
都市で生まれ育った現代の若者たちにとって、夜で街灯やコンビニの光が明るいのは当たり前の光景ですし、夜空の星があまり見えないのも、何の変哲もないいつもの風景でしょう。
しかし、これもやはり、人類という種にとっては、かつて経験したことがない奇妙な環境です。
最近のニュースでも、世界各地で人工照明の明るさが増加しつづけていて、もはや「持続不可能」なレベルになっていると専門家が危惧していました。
米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に発表された今回の論文が根拠としている人工衛星観測データは、地球の夜の明るさがますます増しており、屋外の人工照明に照らされた範囲の表面積が2012年~2016年に年2・2%のペースで増加したことを示している。
専門家らは、この事態を問題視している。夜間の光は体内時計を混乱させ、がん、糖尿病、うつ病などの発症リスクを高めることが知られているからだ。
動物に関しては、夜間の光は昆虫を引き寄せたり、渡り鳥やウミガメの方向感覚を失わせたりなどで死に直結する可能性がある。
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか という本に書かれているとおり、いま地球上からは急速に「本当の夜」が失われており、星空を守るための保護運動が行われているほどです。
この本の中で、睡眠の専門家スティーヴン・ロックリーは、光害が動物、ひいては人間にもたらす影響について、2011年に次のように述べたとされています。
人間も動物です。ほかの動物よりも高度な存在だと考える理由はありません。
明暗のサイクルが、樹木の季節による変化や両生類の繁殖周期など、十分に確立されていたはずのリズムを狂わせたとしたら、自分たちにも同じことが起こると考えない理由はないのです。(p165)
夜間の過剰な光による体内時計の混乱は、さまざまな病気に関連していると考えられています。このブログでも、概日リズム睡眠障害の問題を取り上げてきました。
概日リズム睡眠障害には、さまざまな遺伝的な要素が絡んでいることが判明していますが、突き詰めて言えば、概日リズム睡眠障害のほとんどは現代社会の光害がもたらした睡眠障害です。
上の記事の中で、どれほど生活を改善しても非24時間型睡眠覚醒症候群が治らなかった自閉スペクトラム症の女性が、キャンプ生活をはじめたことで正常な睡眠リズムを取り戻せた、というエピソードを紹介しました。
おそらく、特定の遺伝子を持っていたとしても、現代社会のような過剰な光がなければ、概日リズム睡眠障害はそう簡単には発症しないのでしょう。
健康な人の場合でも、夜間のちょっとした明かりで、メラトニンの分泌が乱れたり、睡眠の質が悪くなったりすることを示す研究はたくさんあります。
そうであれば、普通以上に過敏性の強い人の場合、ちょっとした部屋の蛍光灯の明かりや、明るさをしぼったゲーム機やスマートフォンの明かりでさえ、概日リズムを乱すには十分すぎるほどなのです。
ADHDの人が概日リズム睡眠障害になりやすいのは、独特の脳機能が原因というより、現代社会の都市に蔓延している明るさに、過敏な脳が反応してしまうせいでしょう。
しかし、過敏な人に影響を与えているのは、光そのものだけではありません。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線に書かれているように、光に含まれている個々の色、つまり光の波長もまた、それぞれ生体に対して異なる影響を及ぼすことが知られています。
私たち人間には、驚くべき作用たる視覚だけを、光と結びつけて考える傾向がある。しかし、人間と光の関係はそれにとどまらず、もっと根源的である。
…たとえば塩性湿地に生息する好塩菌はオレンジ光を取り込み、感光性の分子がそれをエネルギーに変換する。
感光性分子がオレンジ光を吸収すると、好塩菌はさらなる光のエネルギーを求めて光源に向かって泳いでいく。また、紫外線や緑色光を嫌う。
好塩菌への影響が光の波長によって異なるという事実は、光の周波数がエネルギーのみならず、さまざまな種類の情報を伝達することを意味する。(p195)
光は単に朝か夜かを知らせ、概日リズムを整えるだけの信号(ツァイトゲーバー)ではありません。光に含まれる個々の色は、単に時刻のみならず「さまざまな種類の情報を伝達する」からです。
現代の都市の過剰な光がもたらす健康被害についての研究は、光に含まれる個々の色が健康に及ぼす影響についてはあまり注目してきませんでした。
これまで、色がわたしたちに及ぼす影響は、色彩心理学のような分野で研究され、あくまで、気分や好みによって変化する心理的なものだと考えられてきました。
しかし実際には、光に含まれる個々の色は、わたしたちの身体に散らばる生物学的な受容体に、それぞれまったく異なるメッセージを伝えています。
色に対する極端な敏感さは、私たちの身体を構成する個々の細胞やタンパク質の内部にも存在する。
1979年、モスクワ大学の科学者カレル・マルチネクとイリヤ・ベレズンは、ヒトの身体がおびただしい数の感光性の化学スイッチや増幅器に満ちていることを示した。
そのスイッチや増幅器は、色、すなわち波長によって受ける影響が異なる。(p195-196)
光に含まれる個々の色は、それぞれ異なる光感受性分子に影響を及ぼし、わたしたちの脳や身体に現実の変化をもたらします。
もっとも有名なのは、概日リズム睡眠障害にかかわるブルーライトです。光が青色か赤色か、というだけで、わたしたちの概日リズムが前進するか後退するかが変化します。
また、偏頭痛の痛みが、緑色の波長で改善し、青色の波長で悪化するという研究もありました。
片頭痛は「青色」の光で悪化し、「緑色」の光で苦痛から開放される!? |健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS
かつては暗いところで本を読んだり、ゲームしたりすると近視になる、と言われたものですが、近年の研究では、日光に含まれる紫色の波長の光(バイオレットライト)が近視を抑制していることもわかってきました。
蛍光灯やLEDにはバイオレットライトがほとんど含まれていいないため、太陽光の下で遊ぶ機会がない子どもたちは、近視が進行していくと言われています。
近視進行を抑制する光!?「バイオレットライト」とは?│こどもの近視情報サイト ME-MAMORU(メマモル)
この本によると、光は一つの言語体系のようなもので、個々の色は、それぞれ別々の単語のようなものだ、と書かれています。
光のエネルギーは一つの言語体系を構成し、特定の波長が、生きた細胞が反応する個々の単語に相当すると言えよう。(p225)
このブログで以前に取り上げたアーレンシンドロームという概念は、明るさ過敏を訴える子どもたちでも、よく調べてみると、それぞれ異なる色の波長に対して過敏性を持っている、ということを示唆しています。
光に過敏性を持っている人たちでも、どの波長の色に敏感かによって、表に出てくる症状が異なってくる可能性があります。
また、光を感知するのは目だけだと思われがちですが、先ほど引用した研究が示していたとおり、「ヒトの身体がおびただしい数の感光性の化学スイッチや増幅器に満ちている」ことが明らかになっています。
単なる視覚の明るさ過敏ではなく、全身が光過敏になってしまう例があることは、アンナ・リンジーの体験談まっくらやみで見えたものを読むとわかります。
わたしたちが何気なく浴びている光は、視覚のみならず全身の光受容体に多種多様なメッセージを送っていて、敏感な人の神経系に良くも悪くも強い影響をもたらしています。
光という言葉でくくってしまえば、日光も蛍光灯もLEDも、どれも同じであるかに思えますが、色の波長という成分から見れば、日光はあらゆる波長を含むフルスペクトルであるのに対し、人工照明は特定の波長が欠けていたり偏ったりしています。
現在使われている人工の光は、生命を保護する波長によって構成されていないケースが多い。
優雅な中庭や展示ロビーばかりでなく、日常生活が繰り広げられる場や仕事場にも、フルスペクトルの光が必要なのである。
貧弱な光のもとでの生活が引き起こすダメージは、目には見えない。
私たちは一時的になら陰うつな空間にも耐えられる。しかし、光に満ちた空間に入ったときに私たちが感じる喜びは、単なる美的な快にとどまるものではなく、健康な生活を送るためには光が必須であることを示唆する。(p248-249)
わたしたちが生まれたときからごく自然に接している人工照明や、驚くほど美麗なハイビジョン画質のモニタは、一見十分な光に思えますが、色の観点からすれば、わたしたちの生体にとって欠けた言語体系です。
これまで人類は、特定の「単語」が欠けた不自然な光に日常的にさらされることはありませんでした。
ごく普通の人たちでさえ「色に対する極端な敏感さ」を全身に有しているのであれば、感覚が鋭敏な人たちが、知らず知らずのうちに、不自然な色の影響を受けているとしても意外ではないでしょう。
別の記事で考えたように、現代社会の光害は、わたしたちが気づかないうちに、人類が脈々と受け継いできた睡眠の構造を、ここ150年ほどで組み替えてしまうほどの並々ならぬ影響を及ぼしてきた可能性があります。
3.音ー騒音性難聴と学習性難聴
ここまで考えてきた、都市の形や光がもたらす脳の負荷は、ほとんどの人にとって気づかないうちに生じているものが多いでしょう。
では、音はどうでしょうか。音の過敏性を自覚している人は比較的多く、工事やトラック、飛行機などの騒音が気になってストレスを抱えたり、不眠症になったりする人もいます。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によると、そうした騒音は、単に心理的な不快感をもたらしているだけでなく、現実の健康問題を引き起こしていることがわかっています。
いまでも現実に騒音性難聴に苦しむ人は多く、患者の若年化が進んでいる。
たとえその騒音がきわめて小さくても、その影響は外耳道の奥にまで及ぶ。
複数の興味深い研究によれば、航空機や列車や車の騒音が聞こえる場所で被験者に心電図をつけたまま眠ってもらったところ、睡眠時にも覚醒時にも交感神経系が騒音に大きく反応し、心拍数、血圧、呼吸数が上昇した。(p122)
眠っているあいだに聞こえる騒音で、心拍数や血圧が上昇することからすると、騒音による健康被害は、単なる「気にしすぎ」ではありません。
生物は音をたよりに危険を判別します。捕食者が近づいてきたら、たとえ寝ていても反応しなければなりません。わたしたちの耳は「潜在意識のうえでいわば寝ずの番をして」います。(p123)
敏感な人(HSP)についての研究では、人間や動物において敏感さの遺伝子が保存されてきたのは、そうした敏感な個体が、危険を知らせる見張り番の役目を果たしてきたからではないか、とされていました。
トラックや電車の騒音は、自然界でいえば明らかに危険を知らせるほどの物音です。潜在意識のうえで寝ずの番をしている敏感な人が、騒音に反応して交感神経を緊張させるのは、見張り番の役目を受け継いだ生物としては当然のことでしょう。
音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々 のなかで、脳神経科学者のオリヴァー・サックスは、現代人がごく日時的に出会う騒音が、聴力を損傷させていると警告しています。
しかしひどい傷害からは守られているとはいえ、繊細な有毛細胞をもつコルチ器は、ほかの意味で脆弱だ。
そもそも大きな音に弱い(飛行機、ロック・コンサート、がんがん鳴るiPodなどは言うまでもなく、救急車のサイレンが鳴ったり、ゴミ収集車が来たりするたびに損害を受ける)。(p186)
しかしながら、敏感な人が抱えている「音」のストレスは、本人が自覚できる騒音だけではありません。脳がわたしたちの知らないところで風景のフラクタルを処理していたように、無意識に処理されている音のほうがやっかいです。
今回読んだ本でも、日常的なイヤホンの使用による「学習性難聴」とでも言うべき問題が指摘されていました。(p141)
「学習性難聴」は「騒音性難聴」よりも深刻です。なぜなら、「騒音性難聴」に至る人は、自分が騒音に苦しめられていることを自覚していましたが、「学習性難聴」は無意識のうちに起こっているからです。
学習性難聴は、わたしたちが普段、まったく意識せずに聞いている音のボリュームが、人類という種がこれまで聞いてきた音を上回っているがために、脳がそれに適応する現象です。
日時的、慢性的に、脳の処理能力を超えるボリュームの音が聞こえるために、脳がみずから難聴になることで、つまり感覚の鋭敏さを麻痺させることで負荷を減らそうとしているわけです。
騒音によって交感神経が興奮するのは「逃走・闘争」反応ですが、慢性的な刺激のために感覚が麻痺してしまう学習性難聴は「凍りつき・麻痺」の解離反応です。
今回読んだNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 の著者は、騒音による健康被害について知ったとき、騒音計アプリを使って、家の中の騒音の度合いを調べてみました。
するとなんと、これまでごく普通だと思っていた自宅の音の大きさは、高血圧の発症や学習の遅れを引き起こすとされる騒音と同程度でした。(p127)
このエピソードからわかるように、現代社会の人たちは、身のまわりの騒音に対する感覚が麻痺しています。工事の音や、救急車の音のような、一時的な騒音には気づきますが、ずっと住んでいる場所の慢性的な騒音には気づかないよう「学習」されてしまっています。
無意識のうちに脳が騒音を処理していることを知ると、壁を防音構造にしたり、ノイズキャンセリングヘッドホンをつけたりすればいいのでは、と考えるかもしれません。
たしかに、騒音の大きさを減らし、耳を保護するのには役立ちますが、それでは不十分です。根本の問題は、音の大きさ、ではなく音の種類だからです。
これまで考えてきたことによれば、脳には処理しにくい形と処理しやすい形がありました。光や色も、時と場合によっては脳に過負荷をかけることがありますが、だからといって一切遮断すればよい、というわけではありませんでした。
音も同様です。自然界の中で、人類は無音の暮らしをしていたわけではありません。自然の中でも大きな音は生じます。
しかし、自然界の音は都会の音とは異なっています。たとえば、交通騒音を不快に感じる人は少なくありませんが、同じほど大きな川の音をうるさいと感じる人はいないそうです。鳥のさえずりのような、人類がずっと親しんできた環境音もそうです。(p141)
いずれの場合も、刺激そのものが悪いのではなく、刺激の種類や度合い、タイミングが、これまで人類が長い年月をかけて適応してきたものと異なっているために、脳に負担が生じていることがわかります。
4.匂いー脳に続く高速道路
騒音と同じく、匂いもまた、敏感な人が意識することの多い感覚のひとつです。
化学物質過敏症に代表されるように、ほかの人がほとんど気にも留めないような匂いにストレスを感じ、体調を崩す人は少なくありません。人間の嗅覚がとても鋭敏であることを考えれば、それも不思議ではありません。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 にはこうありました。
人間の鼻は一兆種類ものにおいを嗅ぎわけられるという。においを本人が自覚していない場合もある。
寮の同じ部屋で生活している女性たちの月経周期が同調することはよく知られている。
互いに相手のフェロモンを嗅ぎとっているのだ。女性は男性よりにおいに敏感で、妊娠中はちょっとした危険もすぐに察知しなければならないため、嗅覚がさらに鋭敏になる。(p104)
化学物質過敏症はよく心因性や詐病のようにみなされますが、匂いと脳の反応についての研究を調べれば、けっして心の問題ではないことがわかります。
おそらく、特定のにおいと身体反応とがパブロフの犬のように条件付けされてしまうことで起こるのでしょう。
この本によると、これまで、鼻から吸い込む物は主に肺に影響すると考えられていました。しかし、2003年になって、「脳に続くいわば高速道路である鼻の役割」が注目されるようになりました。(p106)
わたしたちの嗅覚は、意識の上であれ、無意識下であれ、多種多様な匂いを嗅ぎわけられますが、嗅覚から得た情報は、脳の危険を知らせるアラームである扁桃体に直結しています。
においは脳に古くからある部位に入り込み、そこでは逃走・闘争反応を生じさせる扁桃体が待ちかまえている。(p103)
扁桃体が過剰な刺激にさらされると、「闘争・逃走」反応が起こり、交感神経が興奮するなど、さまざまな自律神経症状が起こることはすでに見たとおりです。さらに刺激が強すぎると、感覚のブレーカーが落ち「凍りつき・麻痺」反応に至ります。
ゴミ捨て場の近くなど、慢性的なひどい異臭が漂う場所に住む人たちは、しばしば悪臭に対して麻痺状態に陥っています。
先ほど引用した、匂いによって月経周期が同調する女性たちについての文脈には、匂いが無意識のうちにわたしたちの脳や身体に影響を与え、「本人が自覚していない場合もある」と書かれていました。
わたしたちの嗅覚は、知らず知らずのうちに、環境の微細な匂いを嗅ぎ取り、情報を脳に伝達していることがわかっています。
たとえば、森を歩くと、わたしたちは土の匂い、木の香りを無意識のうちに感じ取っています。
2002年以降、複数の研究により、土壌には放線菌のように人間の健康に貢献する成分が含まれていることがわかってきた。
そうした土のにおいを、人間の鼻は1000億分の1の濃度でも嗅ぎとることができる。(p46)
研究によれば、わたしたちが森林浴でリラックスできる理由のひとつは、無意識のうちに、フィトンチッド(phytoncide)と呼ばれる樹木の香りを嗅ぎ取っているからだそうです。
このブログでも前に取り上げたように、日本の疲労研究者たちは、草木の香りに含まれている「青葉アルコール」や「青葉アルデヒド」という成分が、抗疲労効果を持っていることを実証しました。
みどりの香りとは?|疲労回復を科学的に立証した癒しの香り【みどりの香り】
たとえわたしたちが気づいていなくても、森林や草木の香りが、無意識のうちに脳をリラックスさせているのだとすれば、その逆も言えるのではないでしょうか。
つまり、都市生活の中で、不自然な匂いにさらされているなら、無意識のうちにストレスを抱えてしまうかもしれません。
次の実験は、ぞっとするような事実を明らかにしています。
ある研究者たちは、初めてスカイダイビングをした男性の肌着を集めた。その肌着と、怖い思いをしていない男性の肌着のにおいを、被験者に嗅いでもらった。
すると、スカイダイビングをした人の汗のにおいを嗅いだ被験者だけが、ストレスホルモンの値が高くなることがわかった。彼らは恐怖心のにおいを嗅ぎとり、自身も恐怖を覚えたのだ。(p104)
この実験の参加者たちは、恐怖を覚えた人たちの体臭をかいだだけで、ストレスホルモンの値が高くなりました。言い換えれば、扁桃体の「闘争・逃走」反応が引き起こされました。
わたしたちは普段の生活で、初めてスカイダイビングをした男性の体臭など匂う機会がないと思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。
都市の人混みの中、満員電車の中、締め切ったオフィスや学校の教室の中では、それこそ、さまざまなストレスを経験している人たちの体臭が混在しています。
森という環境の中で、わたしたちが無意識のうちにフィトンチッドやみどりの香りを感じ取ってリラックスするのであれば、都市という環境の中で、敏感な人が無意識のうちに周りの人たちのストレスを嗅ぎ分けていたとしても不思議ではないでしょう。
これは何も、都市に住む人々がみな体臭を消すスプレーを使うべきだ、という意味ではありません。わたしたちは、匂いを通して、良くも悪くも、互いが意識している以上の情報をやり取りしているという意味です。
まわりの人の体臭からストレスを感じとる、というと嫌な気持ちになりますが、わたしたちが無意識のうちに結婚相手にふさわしい人を嗅ぎ分けている、というと、体臭が必ずしも悪いものでないことがわかるでしょう。
心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会まで に載せられているように、スイスの動物学者クラウス・ウェデキンドは、わたしたちが好きな相手を選ぶ際、無意識の体臭を手がかりにしていることを明らかにしました。
わたしたちはそれぞれ主要組織適合遺伝子複合体、通称、MHC遺伝子と呼ばれるものを持っています。MHC遺伝子がよく似ている人同士では、免疫系の反応が似ているので、臓器移植が成功しやすくなります。
しかし、免疫系の反応が似ているということは、多様性に欠けるということなので、MHC遺伝子が似ている男女が結婚してしまうと、生まれる子どもが病弱になるリスクをはらみます。
わたしたち人間では、多くの文化で近親相姦がタブーとされていますが、近親相姦によって問題が生じるのは動物も同じです。倫理観を持たない動物は、どうやって近親相姦を避けることができるのか。
実は幼いときに一緒に育った家族の匂いを記憶し、その匂いと照らし合わせることで、無意識のうちにMHC遺伝子が似ていない相手を選んでいるそうです。
クラウス・ウェデキンドの実験、およびその後に続いた様々な研究によれば、わたしたち人間もまた、無意識のうちに互いの体臭によってMHC遺伝子の違いを嗅ぎ分け、結婚相手にふさわしい相手を判断していることがわかりました。
ウェデキンドの成果を裏付けるように、ブラン大学のにおいの心理学を専門とするレイチェル・S・ハーツの研究室で実施された研究では、女性は体臭を男性の唯一最大の魅惑的な(または不快な!)身体的特徴ととらえていることがわかった。
女性が、ある男性の自然な体臭を自分には「合わない」と感じると、他の側面がどんなに魅力的であってもその男性とは性交渉をもちたくないことをハーツの研究は示している。
ハーツは被験者のMHC遺伝子を調べなかったが、女性がある男性のにおいを別のにおいより好むのは、その男性の免疫系遺伝子が自分自身の免疫系を捕捉するかどうかを、体臭で判断しているせいではないかと考えている。(p182)
つまり、光や音と同じく、匂いもまた、必ずしも厄介者ではありません。都会では嫌われる体臭もまた、決してむやみやたらに消臭してよいものではなく、良くも悪くも多彩なメッセージを伝えています。
わたしたちが意識の上で自覚している匂いはほんのわずかですが、無意識下では大量の情報を処理していることがわかります。敏感な人は、無意識のうちに感じとる匂いからも、強い影響を受けているのです。
5.狭い住居と人混みー「人間の動物園」
都市環境からくる刺激のうち、最後に考えたいのは、狭い住居と人混みによるストレスです。
人類史の長きにわたって、人類という種は、これほど密集して生活をしたことはありませんでした。ウサギ小屋と揶揄される集合住宅も、満員電車も、学校の教室も、渋谷のスクランブル交差点も存在しませんでした。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 の中で、韓国の忠南大学の朴範鎭は、現代社会の極端に密集した異様な環境を動物園に例えています。
「都会は人類の動物園です。学校も、人類の動物園だと思いますよ」(p116)
野生動物は、動物園のような狭く密集した環境に閉じ込められるとどうなるのでしょうか。
1965年、動物行動学者のパウル・ライハウゼンが、異常に混雑した環境に何匹もの猫を押し込めたらどうなるかという実験を行なった。すると猫は横暴になり、「いじめっ子軍団」と化した。
ノルウェーの実験で同様の環境にラットを置いたところ、ラットは巣作りの方法を忘れ、自分の身体を食べはじめた。
霊長類が狭い場所に閉じ込められると、ホルモンのバランスが崩れ、生殖能力が急激に低下する。(p321)
狭い場所に閉じ込められた動物たちに生じた変化は、現代の子どもたちや、若者たちに起こっている問題とよく似ています。教室を支配するいじめっ子たち、体調不良で不登校になる子ども、自傷行為をはじめる若者、子育ての仕方を知らない親など。
現代の学校社会で不適応を起こしやすいADHDの子どもは、脳の前頭葉の血流が低下していると言われています。前頭葉が弱いと、計画したり行動をコントロールしたりする能力、「実行機能」が働きません。
医師たちは、ADHDの前頭葉の異常は、医学的な「発達障害」だと述べるかもしれません。しかし、動物を使った研究は、別の見方を示唆しています。?
ワシントン州立大学の神経科学者ヤーク・パンクセップが実施した実験では、若年ラットが移動と遊びを制限された場合、前頭葉(実行機能をつかさどる部位)が正常に成長しなくなる。
そのうえ、こうしたラットが成長すると、いわばラット版の反社会的行動をとるようになる。
「充分に遊べない、あるいは存分に動きまわれる場所がない環境で成長した動物は、遊びを渇望するようになる」とパンクセップは言う。
「衝動をうまく抑えることができなくなり、ついには仲間とのあいだでさまざまな問題を起こす」(p306)
もしも、このラットの実験が人間にも当てはまるとすれば、ADHDは生まれつきの「発達障害」ではない、ということになります。
ヴァーモント大学の生物行動心理学者ジョン・グリーンは、「思春期の子どもの前頭前野は、環境刺激を体験することになって形成される」と述べています。(p317)
ADHDは、都市また学校という「人類の動物園」で育てられ、自然の中で得られるはずの環境刺激を十分受けられなかったせいで起こる二次障害ではないでしょうか。
ADHDの子どもたちは、リタリン(日本ではコンサータ)をはじめとする薬を処方されますが、そうした薬がどんな役割を果たしているかについて、神経科学者ヤーク・パンクセップはこう言います。
パンクセップによると、ADHDの治療によく使われているリタリンやアデラルなどの精神刺激薬は、たしかに子どもの注意力や学業成績を改善するのかもしれないが、一時的とはいえ、探検したいという衝動を抑える副作用がともなう。
「こうした薬はいわば『抗遊び薬』なんだよ」と、彼は言う。「これはまぎれもない事実で、疑いの余地はない」(p306)
ADHDの「治療薬」は、遊びや冒険を渇望する衝動を抑え、都市や学校という、生物としては異質な環境、本来ADHDの子に合っていない環境に適応し、なんとかやっていくために必要な代償なのです。
自然界の中で育つ野生動物は、人間の助けなど必要としませんが、動物園で飼育しようとすると、とたんに人間の世話が必要になります。ときには、野生では生じない病気を発症し、抗生物質のような薬も投与されます。
心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会まで の中で、カリフォルニア大学の神経生物学者ベンジャミン・L・ハートはこう述べます。
「獣医学をやっていると、ペットや動物園の動物にどれだけ手がかかっているか、よくわかるんだ。
いつも清潔で保護された環境にいて、傷ができれば消毒してもらい、ワクチンや抗生物質と、いろいろな薬をもらえる。
それにひきかえ野生動物ときたら、ひっかき傷や打撲だらけで、やたらと噛み付つく昆虫の群れにさらされ、土の上を引きずった死骸を食べる。
それなのに、医療の点では何の世話をしてもらえないままで、たいていはそっちのほうが寄生生物の数が少ない。
介入なんかまったくなしに、自然界でうまくやっている。とてもよく育っている動物たちもいるしね」(p167)
野生から動物園に連れてこられた動物たちが、引っかき傷や打撲の痕のある健康な生活ひきかえに、不健康と薬漬けの生活を手に入れるのは、学校社会に連れてこられたADHDの子たちの問題とよく似ています。
狭く密集した環境に閉じ込められた動物たちが、健康を損ない、異常な行動をとるようになるのは、微生物を通してもたらされる刺激の欠如も関係しているでしょう。
寄生虫なき病 は、動物園の飼育下の動物たちが、自然界では決してかからないような病気、それも現代人に急増している自己免疫疾患やアレルギーを発症することを、さまざまな調査報告を引用しつつ明らかにしています。
飼育下の動物や家畜は、現代人と同じように駆虫され、抗生物質の投与を受けている。屋内で飼育されている動物が曝露している屋内特有の微生物も、本来「期待されている」ものとは異なっている。
彼らに与えられる飼料は、消毒済みの加工食品である場合が多い。このような状態で飼育されている動物は、人類と同じように自己免疫疾患やアレルギー疾患を起こす。(p456)
人工的で清潔な環境では、土壌に含まれる細菌との接触が減ります。幼少期に細菌や寄生虫と接触しないことが、免疫系の発達を妨げ、成長してからの過敏性や、アレルギー、自己免疫疾患の発症をもたらしているとも言われています。
ADHDの子どもたちの場合も、やはり、腸内細菌の乱れが報告されています。
大自然の中で遊ぶことからくる環境刺激がなければ前頭葉が発達しないように、大自然に生息する微生物との接触からくる刺激がなければ免疫機構が十分に発達しないのです。
ADHD症状をもたらす要因は、ほかにも多く指摘されていますが、その多くが、人工的に作り出された不自然な環境によって引き起こされていることは注目に値します。たとえば、慢性的な睡眠不足、食品添加物、デジタル機器依存、愛着障害など。
人間の子どもと野生動物を比較することに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、わたしたちはまぎれもなく、この地球上に生きる動物の種のひとつにすぎない、ということを忘れるわけにはいきません。
現代の心理学者やカウンセラー、精神分析学者たちは、子どもや若者が抱える多種多様な問題を、もっともらしい心の問題として説明しようとします。けれども本当にそれは、心というつかみどころのない何かが引き起こす問題なのでしょうか。
意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス) によると、イギリスの動物行動学者コンウィ・ロイド・モーガンは「モーガンの公準」として知られる次のような原則を提唱しました。
心理学者や動物行動学者は、人間らしい思考を動物に当てはめるときには慎重になるようにたびたび注意を促してきた。
イギリスの動物行動学者コンウィ・ロイド・モーガンはダーウィンの同僚で信奉者でもあるトーマス・ヘンリー・ハクスリーの下で研究した人物で、「モーガンの公準」として知られるようになった次のような有名な法則を確立した。
低次の心的能力によって説明可能なことを、高次の心的能力によって解釈してはならない。(p65)
モーガンの公準をわたしたちホモ・サピエンスに当てはめるならこうなります。すなわち、生物的な感覚刺激という、より低次の能力によって説明できることを、心という高次の機能によって解釈してはならない。
わたし自身、自分が陥った問題について、もっとも納得のいった説明は、医学的な説明でも、心理学的な説明でもなく、生物学や動物行動学からの説明でした。
前にも引用したことがありますが、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア の印象深い言葉を、ここで改めて引いておきます。
したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。
終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。
「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。
しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)
ここで考えた5つのタイプの刺激の研究が物語るのは、現代社会の環境に刺激が過剰だから、感受性の強い人たちは刺激から身を守らなければならない、という単純な話ではありません。
ちまたにあふれる感覚過敏の人へのアドバイスでは、静かな場所へ行くなど、刺激を減らすことが勧められます。しかし、本当の問題は刺激が多すぎることだけではありません。
都市や学校といった、「人類の動物園」には、本来、動物が生きるべき自然環境にある多種多様な刺激、ここでは取り上げきれないほど多くの刺激が欠如していて、敏感な子どもはそれをはっきりと感じ取っているのではないでしょうか。
同じ本の中で、医師であるマックス・ブロウマンの著書『Introduction to the Study Blake』(ウィリアム・ブレイク研究序説)から、次のような危惧が引用されていました。
私たちの教養において、思い出したり考慮にいれたりすることが最も難しい力は生まれつきの本能である。
長い間文明生活をおくってきたために、ヒトはその原始的な中心部分から隔たってしまった。それは樫の木の小枝の橋から、根の最深部までの距離ぐらい遠い。
排水口が臭うまでその存在に気づかないほど、生活が洗練されてしまっている。
私たちは知性を機械的に用いることにあまりにも自信を持つようになった。
そのため、本能が真実や自然な表現を見いだせるかどうかに関わらず、その機能をとるに足らないものだとまで思うようになってしまった。
早晩、私たちが本能に関心を向けていないことに対するしっぺ返しをくらうことになるだろう……そして大きくうろたえることだろう。(p269)
彼は、高度に文明化された人類にとって、自分たちが元はと言えば自然界の中で生きてきた動物のひとつにすぎないという部分は、「思い出したり考慮にいれたりすることが最も難しい」と書かれています。
わたしたちは、都市生活において、動物的な本能を「とるに足らないものだとまで思うようになって」しまいましたが、それは必ずしっぺ返しをもたらす、と警告されています。
そのしっぺ返しを最初に食らって、「大きくうろたえる」のが、ホモ・サピエンスという種の中で、とりわけ感受性の強い、環境に敏感な個体であるのは間違いありません。
人類という種の中の「炭鉱のカナリア」の役目を担ってきた敏感な個体が、現代における都市への集団移動において、新天地の刺激が過剰であることだけでなく、本来あるべき刺激がないことにも敏感に反応し、多様な症状が現れているのではないでしょうか。
自然とのつながりを取り戻すには
ここまで、わたしたちがごく当たり前だと感じている都市環境には、人類にとって、さまざまな異質な刺激が含まれているという研究を見てきました。
都市の景観は、自然のフラクタル構造に比べて情報が多すぎますし、人工照明には人体に必要なフルスペクトルの色が含まれていません。
都市の騒音は寝ている間も交感神経を活性化させ、慢性的な学習性難聴をもたらしてもいます。
わたしたちは都市で生じる匂いから、他人の感じるストレスを含む、さまざまなメッセージを受け取っています。密集した狭い空間で生活することは、脳の自然な発達を妨げてさえいます。
では、どうすればいいのでしょうか。敏感な人たちは、都市や文明を捨て、未開の地に移り住み、電気もガスも水道もない原始的な暮らしを営むべきなのでしょうか。
その結論は極端すぎるでしょう。今回読んだNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 は、本能のままに生きる動物に戻るように勧めているわけではありません。そうではなく、文明と自然の共存が必要だと述べています。
もちろん、究極の逆説(パラドックス)といえば、人間が手つかずの自然と文明の両方を必要としていることだ。
そして、いっぽうに傾けば、もういっぽうを切望する。(p258)
必要なのは、バランスを取ることです。テクノロジーがもたらしたさまざまな刺激がなければ、文化も芸術も、人間らしさも生まれません。
都市生活がもたらす多種多様な刺激は、わたしたちホモ・サピエンスにとって「異質」ですが、表現を変えれば、「新鮮」だともいえます。
敏感な人たちに必要なのは、現代社会の刺激をシャットアウトすることではなく、新鮮な刺激とほどよく付き合うこと、そして、異質な刺激に圧倒されそうになったら、馴染み深い自然の中で心身を休めることです。
この本では、現代社会の刺激で疲弊した人たちを対象に、どのくらい自然と接すれば、健康を回復できるか具体的に調査したフィンランドやスウェーデン、スコットランドなどの研究が載せられていました。
一ヶ月に五時間、自然のなかですごしましょうという提案を実行すれば、日々の雑事に追われ、一服の清涼剤を求めている人たちにはたしかに効果があるだろう。
でも、仕事でくたくたになっているわけではない人の場合は? それよりもっと深刻な問題を抱えている人はどうすればいいのだろう?
その答えが知りたいのなら、スコットランドやスウェーデンの人たちのアドバイスに従おう。
重度のうつ病を患う人を森や庭に送り込み、そのまましばらくすごしてもらうという研究をすでに実施しているからだ。
どうやら、効果をあげるには12週間、必要らしい。(p200)
現代社会に生きる大半の人たちにとって、刺激に圧倒されず、生産性を保つ最低ラインは、「一ヶ月に五時間」自然の中で過ごすことだそうです。毎日の散歩ルートに、大きな公園を含めるだけで、この目標は十分達成できます。
解離によって感覚が麻痺した人たちの場合
他方、すでに心身の健康を崩してしまった人たちの場合は、「効果をあげるには12週間」必要だとされています。
都会での生活を離れて、自然の中で暮らすといっても、数日から一週間くらいならともかく、2ヶ月や3ヶ月となると、とたんにハードルが高くなってしまうのは否めません。どうして、そんなにも長い期間を要するのでしょうか。
都市のストレスによって、大幅に健康を崩してしまった人たちの場合、自然の中に身をおいてもなかなか効果が得られないのは、「闘争・逃走」反応の一歩先の「凍りつき・麻痺」反応に至っているからではないかと思います。
最初のほうで考えたように、わたしたちの脳は、過剰な刺激に圧倒されると、まず「闘争・逃走」反応が引き起こされ、多動になったり衝動的になったりします。この状態にあるADHDの子たちは、自然にちょっと触れるだけでも症状が改善しました。
しかし、あまりに慢性的で強い刺激にさらされると、脳は刺激そのものをシャットアウトする「凍りつき・麻痺」反応を起こします。感覚が遮断されて麻痺してしまうので、意識がぼんやりしたり、何も考えられなくなったりします。
とりわけ過敏性の強い子どもや、幼児期の愛着障害、家庭環境のストレス、トラウマなど、複数の原因を抱えている人たちは、こちらのより強い解離反応を起こしやすいかもしれません。
そうした人たちは、そもそも、まわりの環境からくる刺激を遮断し、感覚を麻痺させることで対処しているので、自然の多い環境に逃れたところで、すぐに恩恵は得られません。自然がもたらす望ましい刺激さえ感じられなくなっているからです。
この本には、スウェーデンで実施されている12周間の「セラピーガーデン」の取り組みについて書かれていました。
重いうつ病のせいで「大半の参加者はなにも感じられなくなっています」とパウルスドゥッティルは言う。
「相手がちょっと会釈したぐらいでは、それに気づけないほど感覚が鈍っているのです。
治療の一環として、まず行なうのは、身体と脳の信号をうまくつなげること。
植物と触れ合ううちに、いまここにいるという感覚に慣れていきます。
そして徐々に、身のまわりのものに注意を向けられるようになります。」(p223)
この記述からわかるとおり、重い解離状態にある人たちの場合は、自然界の環境刺激に触れて癒やされる以前に、麻痺した感覚を取り戻し、ごく当たり前の刺激を感じとる、という訓練から始めなければなりません。
このセラピーを受ける人たちのほとんどは「生きているのが精いっぱい」の状態で、もはや動く気力や体力さえありません。それで、第一週目は、ひとりで庭の地面やハンモックにただ寝転がっていることから始めるそうです。
今の例に出てきたのは重いうつ病の人でしたが、解離性障害や、不登校の慢性疲労症候群の子どもたちも、「凍りつき・麻痺」の解離状態にある、という意味では同じです。
そうした人たちの場合、単に一日やそこら自然の中に出ていっただけでは、何も感じられないでしょうし、自然の多いところに旅行しても、逆に疲れ果ててしまうだけでしょう。
重い解離状態に陥る人は、たいてい何ヶ月も何年も、強い慢性的なストレスにさらされています。解離が起こるのは、脳や身体がこの世界は「安全ではない」ことを学習し、自らを保護するために感覚を遮断するからです。
感覚の鋭敏さを取り戻し、解離を解除するのに、長い時間を要するのも当然です。この世界は「安全ではない」とひとたび学習した脳や身体に、今はもう安全なのだ、ということを改めて納得してもらわなければなりませんから。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そうした人たちの置かれた状況について、こう書かれていました。
「怖くて体が硬直する」とか「恐怖で凍りつく」(虚脱状態や麻痺状態に陥る)といった表現は、恐怖やトラウマがどのように感じられるかをじつに正確に言い当てている。
トラウマは、内臓を土台とするそうした感覚から生じる。
恐れの体験は、何らかのかたちで逃避が妨げられて感じた脅威に対する原始的な反応に由来する。
内臓の経験が変わらないかぎり、その人の人生は恐れに人質に取られたままとなる。(p163)
「凍りつき・麻痺」は、あまりに慢性的で強い刺激にさらされたため、内臓に恐怖が染み付いてしまうことで起こる「虚脱状態や麻痺状態」です。
「内臓の経験が変わらないかぎり」つまり、理性や心ではなく、身体そのものが「ここにいても安全なのだ」と実感できないかぎり、「虚脱状態や麻痺状態」が解除されることはありません。
身体そのものに安心感を実感してもらう方法のひとつは、五感を研ぎ澄まし、いまこの瞬間の感覚を感じとる訓練をするマインドフルネスです。先ほどのスウェーデンのセラピーも、マインドフルネスをプログラムに組み込んでいました。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 の中で、ある女性は、このセラピーガーデンの取り組みで感じた自身の変化について、こう語っていました。
「生垣のそばにハンモックを見つけたの。自分の人生という殻から出て新しいものを発見するのが、とても嬉しかった。
そうしたらね、ああ、鳥がさえずっているとか、風が吹いているとか、脳が意識するようになった。
ただそれだけのことだけれど、なにより鮮明に記憶に残っているわ」(p223)
風景を見て認識する、鳥がさえずっているのを聞く、風が吹いているのを感じる、といった「ただそれだけのこと」が、解離状態にある人たちにとってはいかに難しいかがわかります。
ときどき、押しつぶされそうなストレス下にある人たちが、何を食べても砂利のようで味が感じられないと言いますが、重い解離状態にある人たちは、そうした感覚の欠如が五感すべてにおいて、慢性的・日常的になってしまっています。
時間をかけて自然の環境刺激を感じとれるようになって初めて、自然界のフラクタルや水のせせらぐ音、フィトンチッドなどの癒やし効果を実感できるようになります。
この12週間のセラピーガーデンのプログラムでは、参加者の60%が一年後に仕事に復帰でき、六年間の追跡調査でも、費用対効果が高いという成果が出ているそうです。
スウェーデン政府は助成金の交付を開始し、今では申請待ちの人たちが列をなしているといいます。
そのほかにも、最近のニュースで、以下のような研究もありました。
衛星写真を用いた解析研究によると、小児期に大量の緑地に囲まれた子供は、精神障害を発症するリスクが最大55%低い。
Being Surrounded by Green Space in Childhood May Improve Mental Health of Adults ? Neuroscience News?
緑化、ゴミの片付け、メンテナンスが行われた緑豊かな土地の近くに住んでいた住民のうつ病の感情が68パーセント以上も大幅に減少したなど。
Greening Vacant Lots Reduce Feelings of Depression in City Dwellers ? Neuroscience News?
荒々しい自然に「畏怖の念」を感じる効果
自然の中に身を置く、というと、穏やかな森や水のせせらぎ、小鳥のさえずりの中、のんびりと身を休める様子を想像しがちです。日本の疲労研究でも、そうした穏やかな自然環境が持つリズム(いわゆる「1/fの揺らぎ」)の癒やし効果が実証されています。
しかし、穏やかな自然の癒やし効果のみに注目した研究は、自然界の一面しか見ていない、片手落ちのものかもしれません。
自然界とは、本来、手入れされた公園や庭園のようなのどかな場所ではありません。鬱蒼とした樹海、荒々しく砕け散る急流、切り立った険しい崖など、危険と隣り合わせの厳しい環境こそが、野生の息吹が感じられる大自然です。
日本に住むわたしたちにとって、荒々しい自然の力というと、津波や震災や台風の被害が思い出されるかもしれません。自然界の脅威は、トラウマをもたらしかねない危険なもの、とみなされがちです。
しかし、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 によれば、大自然の圧倒的な力から感じる「畏怖の念」には、トラウマをもたらすどころか、「逆PTSD」効果があることがわかってきているそうです。
ジョンズ・ホプキンス大学の精神薬理学者ローランド・グリフィスは、幻覚作用のある薬を服用している終末期医療の患者が、ときに激しい畏怖の念を覚える体験をすることを研究している。
…グリフィスはジャーナリストのマイケル・ポーランに、そうした幻覚には「逆PTSD」効果があるかもしれないと話した。
…宇宙飛行士も宇宙から地球を眺めたときの「オーバービュー効果」(神のような超越者の視点から、地球の全体を一望のもとにおさめることによる意識の変容)により、同様の感銘を抱く。
また臨死体験をした人や、一般的な登山者、サーファー、日食や月食を見た人、イルカと泳いだ人なども、畏敬の念に打たれ、人生が一変するような衝撃を受ける。(p263)
圧倒されるような「畏怖の念」についての研究は、まだほとんど行われていませんが、少数の研究結果によれば、畏怖の念には、強力な健康促進効果があるそうです。
たとえば、多種多様なポジティブな感情の中で、畏怖の念は唯一、炎症の指標となるサイトカインIL-6を大幅に低下させたといいます。また、畏怖の念は時間感覚を引き伸ばしましたが、そうした効果は幸福感では見られませんでした。
最近発表された研究調査結果から、実際に畏敬の念を覚えるような体験をすると、健康状態は良くなり人間関係も改善されるなどさまざまな効用があることが分かった。
専門家によれば、「畏敬の念を感じる体験」をすると、人は寛容になり謙虚になり、向社会的行動が増える。
共感度が増して他人の感情表出を理解し、他人を信頼するようになる。
幸福感に満たされている人は、今の人生に満足し、穏やかな気持ちでいるかもしれません。しかし、畏怖の念を覚える体験をした人は、人生や価値観が根本から変化してしまうほどの衝撃を受けるものです。
トラウマを負ってPTSDや解離性障害になった人たちの場合、緑の多い公園や庭園のそばで過ごし、リラックスしようとしても、なかなか幸福感に満ち足りることではできないでしょう。
しかし、荒々しい大自然に触れて畏怖の念を覚えると、「逆PTSD」効果が働いて、トラウマに支配された人生が一変してしまうことがあります。
この本では、戦場で筆舌に尽くしがたい恐怖を味わい、重度のPTSDを抱えるようになった退役軍人女性たちを対象にした、アイダホ州の激流川下り合宿の様子が取材されていました。
自然の癒やし効果を謳う通常のセラピーでは考えられないほど荒々しい自然の中に飛び込むその「冒険セラピー」は、たった6日間の体験ですが、「認知行動療法や薬物療法などのごく標準的な治療法では効果がでない場合でも、自然によって心身ともに癒やされる」成果を挙げています。(p291)
なぜ大自然には「逆PTSD」効果があるのか
この「冒険セラピー」に参加した人たちのうち、15%はなんの効果も見られなかったそうですが、そうした女性の一人は、セラピーの方法ではなく、期間に不満をもっていました。
あんな短期間じゃ足りない、と不満を言ったのだ。あれっぽっちじゃ、悪夢の息の根をとめられない。
睡眠薬を飲んだあと車に乗り、夜中に刈り入れが終わったトウモロコシ畑を突っ走るのをやめられない。
あれっぽっちじゃ、また人を信じるようにはなれない。急流を泳ぎ切る自信もつかない。
たしかに問題を抱えたティーンエージャーを対象にした自然のなかでのセラピーは、たいていは数週間、ときには数ヶ月にわたって実施されている。(p295)
この女性の場合、あまりにトラウマが強力すぎて、たった6日間の荒々しい冒険程度では、心身の「凍りつき・麻痺」を解除するほど十分な「逆PTSD効果」が得られませんでした。
どうして、極度の感覚麻痺に陥っている人たちには、単に公園や庭園で穏やかな自然と触れ合うことではなく、荒々しい大自然の中に飛び込み、畏怖の念を感じることが必要なのでしょうか。
スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論によれば、解離の「凍りつき・麻痺」を引き起こすのは、全身の内臓を制御している迷走神経です。(一般に知られている副交感神経は、この迷走神経の一部です)
興味深いことに、大自然のただ中で感じる畏敬の念は、この「脊髄のてっぺんから始まり、顔面筋、心臓、肺、消化器などに触手のように伸びている」迷走神経に作用しているようです。(p265)
畏怖の念と、「凍りつき・麻痺」の解離反応とが、どちらも同じ迷走神経系と関係しているのは、一見、不思議に思えるかもしれません。しかし、畏怖の念という感情は、それ自体が、一種の解離現象だと思われます。
すでに引用したように、畏怖の念を引き起こす事例には、宇宙から地球を望むオーバービュー効果や、大自然との触れ合いだけでなく、終末期医療の患者が見る幻覚や、臨死体験が挙げられていました。これらは解離現象の一種です。
畏怖の念を感じたときに、時間の感覚が拡張するという研究もありましたが、それも解離現象の特徴の一つです。
たとえば、スポーツ選手が経験するゾーンや、発達障害の人たちの過集中といったタイプの解離現象では、意識が現実から切り離されることで時間感覚が歪みます。
そもそも解離とは、洪水のような感覚刺激に圧倒され、神経が耐えられなくなったときに自動的に起こる感覚のシャットダウンですが、引き金となるのは不快な刺激だけではありません。
耐え難い恐怖や痛みにさらされたときに解離が起こるのはもちろんですが、「狂喜のあまり我を忘れる」といった表現がみられるように、喜びのようなポジティブな感情でも、あまりに強すぎると解離を引き起こします。
感覚過敏が強い自閉スペクトラム症の人たちは、自然の美しさに圧倒されて解離状態になってしまうことがよくあります。当事者のドナ・ウィリアムズは「美そのものの一部となる」と表現していました。
今回読んだ本では、フィンランドに伝わるメトサンペイット(Metsanpeitto)という、それに類似した現象が紹介されています。
メトサンペイットは、深い森に迷い込んだ人が、妖精に呪いをかけられ、恍惚状態に陥ってしまうという伝承だそうですが、その実態は、森の深遠さや美に感覚が圧倒されてしまう解離現象だと思われます。
こうした、オーバービュー現象、臨死体験、狂喜のあまり我を忘れること、そしてメトサンペイットのような健全な解離と、解離性障害や重症うつ病のような病的な解離の違いは、一時的なものか、慢性的なものか、というところにあります。
「闘争・逃走」反応や、「凍りつき・麻痺」反応は、いずれも生物に備わる健全な生き残り反応であり、どちらも危機に直面したとき、命を守るために一時的に起動するようになっています。
ところが、危機が去っても「闘争・逃走」反応が解除されず、延々と続いてしまうのがPTSDや多動状態であり、「凍りつき・麻痺」が延々と続いてしまうのが、解離性障害や慢性的な虚脱状態です。
圧倒的な刺激が去ったにもかかわらず、脳や内蔵が、まだ自分は危険のさなかにあると感じているために、生き残り反応が解除されないのです。
対照的に、畏怖の念や臨死体験のような一時的な解離は、圧倒的な感覚の洪水から脳を保護するブレーカーとして働くので、決して病的なものではなく、むしろ脳を保護するポジティブな役割を持っています。
慢性的な重い解離状態にある人が、大自然の中で畏怖の念を感じることで回復のきっかけをつかめるのは、健全な解離体験が、延々と病的な解離を引き起こして凍りついたままになっている迷走神経を揺さぶってくれるからなのかもしれません。
興味深いことに、解離やトラウマの専門家のピーター・ラヴィーンは、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復の中で、病的な解離から回復する人たちが、ときに「スピリチュアルな恍惚状態」、おそらくはここで考えている畏怖の念と同じものを経験すると述べています。(p107)
スタンフォード大学や、スイスのジュネーブ大学病院の研究によると、そうした恍惚状態では、脳の意欲をつかさどる前中帯状皮質(aMCC)や、繊細なニュアンスや情緒をつかさどる前島という部分が活性化します。
これらの部分が活性化すると、背筋が伸びて、やる気に満たされ、勇気がふつふつと湧いてくるといった、非常なポジティブな変化が生じるそうです。まさしく「逆PTSD」効果です。
また、ピーター・ラヴィーンは別の著書身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア の中で、畏怖の念が人類特有のものではなく、類人猿にも見られることを指摘しています。
センス・オブ・ワンダー(訳注:自然に対する畏敬の念のような概念)のような特殊な感覚でさえ、最も近縁の類人猿にも見られるようだ。
著名な霊長類学者であるジェーン・グドールは、彼女が長年注意深く研究してきたチンパンジーに原始的な霊的感情があることを示唆している。(p272)
動物が畏敬の念に類する感覚を備えていることは、畏怖の念が、単なる宗教的感情でもスピリチュアルな概念でもなく、生物学的基盤を持つ生理現象の一つであり、動物にとって必要だからこそ備わっている機能の一つであることを示唆しています。
ラヴィーンは、畏怖の念の生理学的な特徴のひとつである「震え」には、神経の興奮をリセットする作用があるのではないか、とみています。
さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。
不安による恐ろしい震えはそれ自身だけでは状態をリセットして平衡状態に戻ることを確実にするものではないが、「正しいやり方で」誘導され体験された場合にはそれそのものが解決となりうる。
…このような旋回運動や波状運動は、直近の興奮経験を神経系が「振るい落とし」、危機や欲望、そして人生の次なる出会いの準備のために「地に足をつけさせる」方法である。
こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すたのメカニズムである。(p20-21)
おそらく、人類は昔から、ポジティブな解離現象が持つ逆PTSD効果によって、トラウマ的な悲劇を乗り越えてきたのでしょう。
医学が存在しない時代の人々は、現代の都市環境で手厚く保護されて成長してきたわたしたちに比べ、より恐ろしいトラウマを、より頻繁に経験したはずです、
しかし、身近な大自然から頻繁に感じられる畏怖の念や、大自然との一体感を抱かせてくれるシャーマニズムによる震えやおののき、さらには病気や怪我のときに引き起こされる臨死体験のような解離現象が持つ生理学的な「逆PTSD効果」によって、トラウマ的な体験を乗り越えていたのでしょう。
わたしたち人類は、大自然から隔絶された都市環境に住むようになったことで、表向き安全な環境を手に入れましたが、それと引き換えに畏怖の念をはじめとする健全な解離現象を体験する機会を失ってしまい、古代の人々よりも、トラウマに対して脆弱になってしまったのかもしれません。
本物の自然にしかないクロスモーダルな環境刺激
残念ながら、こうした大自然の癒やし効果を調べる研究は、まだほとんど行われていません。
日本の疲労研究でも、穏やかな自然がもたらす副交感神経系の癒やし効果は実証されていますが、大自然が引き起こす畏怖の念や、凍りつき・麻痺を引き起こす迷走神経の作用については未開拓です。
大自然の癒やし効果についての研究がほぼ手付かずなのは、科学的に効果を実証するのが極めて難しいことが関係しているようです。
穏やかな自然、たとえば鳥のさえずりや森の香りの癒やし効果は、実験室で、ひとつずつ効果を実証していくことができます。
しかし荒々しい自然の中に飛び込むセラピーは、研究室で再現できない上、あまりにも関係する要素が多すぎて、どの部分に癒やし効果があるのか証明することができません。
自然の風景や音や匂い、大自然の中で身体を動かしたこと、仲間との会話や連帯感、荒々しい自然を前に感じる畏敬の念、さらには癒やしを期待するプラセボ効果など、あまりに多くの要素が絡むので、精密なデータが取れないのです。
とはいえ、あまりに多くの要素が絡んでいることそのものが、心身の癒やしをもたらすための必須要素なのではないか、とも思えます。
人間を含め、生物はもともと、実験室のような閉鎖的な環境で、何かひとつの感覚だけを味わうことはありませんでした。
フラクタル図形だけを目にしたり、フィトンチッドだけをかいだり、鳥のさえずりだけを聞いたりするという断片的な感覚刺激は、どれも人工的に作り出されたものです。
自然界では、非常に多くの複合的な刺激(クロスモーダルな刺激)を同時に感じ取るのが当たり前なので、実験室で計測できないことほど複雑であること自体が、大自然の癒やし効果の中核をなしているのかもしれません。
以前の記事で考えたように、本来自然界で複合的に体験されるはずの多種多様な感覚刺激を、一部だけ切り離して体験させるという現代社会の仕組みが、解離を増加させている可能性があります。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア に書かれているように、この記事で考えた「凍りつき・麻痺」を特色とする解離は、トラウマを受けた人たちだけに起こるものではありません。
トラウマに苦しむ人は慢性的解離の世界で生きている。からだから切り離されたこの永久的な状態は、方向感覚を見失わせ、今ここ、とのつながりを奪う。
しかしながら先に述べたように、トラウマを生き延びた人だけがからだから切り離されているのではない。
軽度のからだとこころの分離は現代文化に浸透していて、私たちすべてに大なり小なり影響を及ぼしているのである。(p419)
解離は、多かれ少なかれ、現代社会に生きる人すべてに生じているものです。
耐えがたいトラウマを受けた人は、たいてい、全身のあらゆる感覚と感情を切り離した重い解離状態に陥ります。しかし、現代社会の過剰な刺激にさらされた人も学習性難聴のように、一部の感覚だけが解離してしまうことはよくあります。
人工的な環境がもたらす刺激は、自然界で得られる「フルスペクトル」の刺激に比べると、一部だけ過剰で、一部は欠落していることが多く、あたかも栄養素の欠けたジャンクフードに似ています。
フルスペクトルの太陽光に比べ、人工照明は特定の色の波長というメッセージが欠けていました。
わたしたちがメディアを通して触れる映像は、視覚や聴覚の情報は含んでいますが、本来あるべき触覚や嗅覚の情報が欠落しています。
前の記事で書いたように、ネット上のSNSなどの文字媒体に限定された交友関係は、本来コミュニケーションに含まれているはずの非言語的情報が欠落しているため、誤解を生みやすく、満足感を感じにくくなっています。
本当なら、五感すべてを連動させて味わうはずの刺激が、一部のみ切り出した不自然なものになってしまっていることが、現代社会に生きる人たちの心身のいびつさや、部分的な感覚の解離を生み出しているのかもしれません。
今回引用したさまざまな本で言及されている、リチャード・ルーブの「自然欠乏症」(Nature Deficit Disorder)という概念は、わたしたち人類が置かれたかつてない自然との疎遠さを見事に言い表しています。
(NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 のp16、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのか のp226など)
この記事で考えたように、感覚が敏感な人たちは、とりわけ不自然な環境刺激の影響を受けやすく、心身が過敏に反応しやすいと思われます。
脳にかかっている慢性的な負荷を取り除き、本来の生き生きとした五感を取り戻すためにも、少なくとも月に5時間、できればそれ以上、自然のただ中に身をおいて、リフレッシュする習慣を持つよう努力したいものです。
最後に、この記事で考えたことをまとめておきます。
■過剰な刺激にさらされると、「闘争・逃走」反応を示す子どもと、「凍りつき・麻痺」反応を示す子どもがいるが、いずれの場合も刺激の多い都市ではなく、自然の中に身を置くことで症状が和らぐ。
■都会で日常的に接する形、光(色)、音、匂い、そして人混みは、わたしたち個人にとっては当たり前のものでも、人類という種にとっては異質で目新しいものなので、無意識のうちにわたしたちの脳に過剰な負荷をかけている。
■都市生活からくる刺激で疲労している人は、一ヶ月に5時間以上、自然の中で過ごすことが必要。あまりに慢性的で過剰なストレスにさらされ、解離状態に陥っている人は、麻痺した感覚を取り戻す必要があるので、効果が出るまで12週間かかる。
■穏やかな自然には、副交感神経を活性化させる癒し効果がある。荒々しい大自然にも、畏怖の念を引き起こすことによって迷走神経に働きかける「逆PTSD効果」がある。
■都市環境における人工的な刺激は、特定の感覚が過剰だったり、欠落したりしている不自然な刺激だが、わたしたちは本来、五感すべてで味わえるフルスペクトルの自然な刺激を必要としている。
今回読んだ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 は、去年一年、解離や感覚過敏の問題について考えてきたわたしにとって、すべてのキーワードを見事に結びつけ、目指すべき方向性を示してくれたすばらしい本でした。
訳者あとがきでは「人生を変える本」「これからの生き方を変え、光が射すほうに連れて行ってくれるような本」「まさにわたしのために書かれた本!」などと絶賛されていますが、わたしも全くの同感です。
このブログの、「おすすめの本」リストは、かなり厳選しているつもりですが、この本は読むやいなや、リストに含めるにふさわしいと感じたほどでした。
HSP、ADHD、ASDといった、生まれつきの感覚過敏を抱えている人たち、さらには愛着障害やPTSD、解離性障害のような後天的な感覚過敏に悩まされている人たちには、ぜひとも一読をおすすめしたい珠玉の一冊です。