片足、偏頭痛、色がない
火星で、目覚めて、帽子通
オリヴァー・サックス
いまも全力で生きている
泳ぎはイルカを超えている (p407)
ミドルネームの「ウルフ」を名乗ってバイクで大陸横断し、ウェイトリフティングでカリフォルニア州の新記録を作り、ダイビングで荒波に飛び込み、シダやソテツ大好き人間で熱帯の島まで足を伸ばし、何より数々の感受性豊かな医療エッセイを書いた作家、そして脳神経科医。
わたしはそんなオリヴァー・サックスが大好きです。世の中の著名人の中で会ってみたい人を挙げるよう言われたら、必ず名前を挙げると思います。
だれよりも個性的で、だれとも比べようがない人生を送ったオリヴァー・サックスは、昨2015年8月30日、82歳で亡くなりました。
そのサックスが生前最後の本として出版したのが、道程:オリヴァー・サックス自伝 です。
これまでサックスの本は色々と読んできましたが、この本を読んで初めて知ったサックスの意外な素顔がたくさんありました。そして今まで以上に、今は亡きオリヴァー・サックスに親しみを感じるようになりました。
この記事では、自伝のさまざまなエピソードを参考に、サックスの人となりを振り返ります。サックス個人の人柄についてまとめたものではあるとはいえ、周囲から浮きがちな独特の個性を持つような人にとっては、大いに共感できるところが沢山あると思います。
もくじ
これはどんな本?
道程:オリヴァー・サックス自伝 は、これまで語られなかった脳神経科医オリヴァー・サックスの素顔が垣間見え、彼の深い感受性や共感力の源について触れることができるとても貴重な回想録です。
天才たちの日課 や知の逆転といった本を見ると、サックスは並み居る偉人たちと肩を並べて名前を挙げられていて、さぞかし子どものころからエリートコースを歩んできだ神童だったのだろうと思えます。
しかし意外なことに、サックスは華々しい青春時代を歩んできた人ではなく、たとえば見てしまう人びと:幻覚の脳科学 という本では、30代になっても薬物中毒で悶々と過ごしていたことが書かれています。
今回の自伝では、そうした若いころの失敗や挫折がありのままに述べられていて、オリヴァー・サックスの本当の素顔がかいま見えます。
医者の家庭に生まれたものの、周囲の人たちとあまりに違う個性を持っていたため、そりが合わず、うまくやっていけず、挫折を繰り返し、40歳を目前にして、やっとレナードの朝で自分の歩むべき道を見つけた波乱に富む人生こそが、サックスの豊かな感性の源なのです。
雑な造りの連想脳?
オリヴァー・サックスの人柄を知るにあたって、この本でひときわ興味深く感じたのは、サックスが、自分の頭の構造、つまり考え方の特徴について語っている部分でした。
オリヴァー・サックスの知性あふれる文章を読んでいると、さぞ論理的で頭の切れる人なのだろうと思えるのですが、サックス自身は、自分の頭脳についてこう述べています。
私は頭がいいと思われていたが、知力にはあまり自信がなかった。(p35)
私の頭脳は明らかに雑な造りで非論理的だったにもかかわらず、彼は私も頭がいいと思っているようだった。(p43)
サックスは、自分の頭は「雑な造りで非論理的」だと言ってはばかりません。
サックスが進んだ大学では、同級生たちの中に、ものすごく頭がよく、緻密な思考のできる人が大勢いました。サックスは、そうした生徒たちから、「頭がいい」と思われましたが、自分ではそうではないと考えていました。
一見、謙遜してそう言っているかに思えますが、実際に緻密な思考の持ち主であるサックスの友人ジェラルド・エーデルマンは、サックスに「きみは理論家ではないね」とはっきり言いました。(p442)
しかし、サックスは、自分の頭脳が「雑な造り」だから、どうしようもないと言っていたわけではありません。むしろ、自分には、他の人にはない独特な強みがあることを知っていました。
サックスによれば、彼の強みは「とっぴな連想力」です。(p42)
「私はだらしなくていい加減で、妙な連想や思考の回り道ばかりする」(p329)
と書いています。その優れた連想力は、時と場合によっては極めて優秀な強みになりました。
サックスはあるとき、学科の試験でビリを取りながら、同時に非常に難しい奨学金の資格を手にしたときのことをこう振り返っています。
私は事実についての試験や○×問題はひどく苦手だが、小論文では力を発揮できるのだ。(p41)
オリヴァー・サックスは、細かい物事を緻密に扱うのは苦手だったので、正誤テストのような正確な知識を問われる場面では、とても苦労しました。
しかしその反面、人並み外れた視野の広さを持っていたので、東の果てにある事柄を、西の果ての出来事と結びつけるかのような、とっぴな連想や飛躍した発想を生み出すことができたのです。
これは言わば、「木を見て森を見ず」の真反対の特徴といえます。
多くの人は、物事の細部に注目するあまり、全体が見えなくなって苦労するのですが、オリヴァー・サックスは、だれよりも遠くから森全体を眺め、さまざまな知識を結び合わせるのに長けていたのです。
サックスは、最初の著書サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF) にて、自分もまた当事者だった片頭痛(偏頭痛)について、従来の医学の枠組みにとらわれない画期的な考察を世に送り出しましたが、その秘訣は「全体的な理解」であると書いていました。
今世紀に入ってからの片頭痛へのアプローチは、進歩するとともに後退したといえよう。
技術や量的な評価方法が進歩した一方、知識の専門家によって、本来は区別することのできないものをむりやり区別して考えてしまうという点での後退である。
知識と技術の真の進歩が、全体的な理解の喪失という真の後退を伴うとは歴史の皮肉であろう。(p44)
世の中が細分化、専門家に向かうほど、サックスの全体を広く見渡す連想能力は輝きました。彼はひとつの分野のみに特化した専門家ではなく、ルネサンス的教養人また博物学者でした。
オリヴァー・サックスの死後に発行されたエッセイ集意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源 の序文にもこんなエピソードが書かれていました。
その最終話で、六人の科学者―物理学者フリーマン・ダイソン、生物学者ルバート・シェルドレイク、古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールド、科学史学者スティーヴン・トゥルーミン、哲学者ダニエル・デネット、そして医師のサックス―が一堂に会し、科学者が研究している最も重要な疑問、すなわち生命の起源、進化の意味、意識の本質について議論した。
その活発な議論のなかで、ひとつ明確なことがあった。サックスはあらゆる分野に柔軟に対応できたのだ。
彼の科学に対する理解は神経科学や医学に限らず、あらゆる科学の論点、アイデア、そして疑問への興味は尽きることがなかった。
その幅広い専門知識と熱意が本書全体の特徴であり、人間の体験だけでなく(植物も含めた)あらゆる生きものの本質が探究されている。(p10)
「サックスはあらゆる分野に柔軟に対応できた」のです。
サックスはチャールズ・ダーウィンを尊敬していましたが、 そのダーウィンもまた、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫) の中で、自身の頭の構造について、こんな表現をしていたのは、たぶん偶然ではないのでしょう。
私の記憶力はぼんやりしているけれども範囲は広い。
その記憶力は、私が引きだしつつある結論に反する、あるいは逆にそれと一致する何かを、私が観察したり読んだりしたことがあるということを漠然と私に告げることによって、私を用心深くさせるのには たりている。
そしていっときとして、私はふつう、どこに私の出典を探すべきかを思いだすことができるのである。
私の記憶力は、ある意味では非常に貧しく、一つり日付けや一行の詩さえも、数日以上覚えていられたことがなかった。(p173)
サックスと、彼が尊敬するダーウィンとは、似通った脳の構造の持ち主でした。正確な記憶力という意味では(少なくとも主観的には)「非常に貧しく」「雑な造り」でしたが、類似したものを広い範囲から検索して結びつけるという能力には秀でていました。
サックスのもう一冊の自伝ともいえる、タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) を見ると、サックスのこの性格は、どうやら、母方の祖父の家系から、一族に脈々と受け継がれていたものだったようです。
その祖父は、「肉体的なものにも精神的なものにも等しく関心をもった人」で、「ヘブライ語の学者で、神秘主義者で、アマチュアの数学者で、発明家」でもあり、あのライト兄弟とも親しい交流がありました。(p18)
18人もの息子と娘がいましたが、それぞれ数学や自然科学、人間科学、生物学や医学、教育など幅広い分野に関心を持つようになり、「一族みんなのなかにあの祖父の血が流れている、と私には思えてならなかった」と書かれています。(p20)
サックスの母も例外ではなく、サックスが尋ねるありとあらゆる質問に対して、いつもしっかりと答えてくれたそうです。
だから、子どものころの私がいくら質問をしても、母はせっかちに答えたり理由もなしに解答を押しつけたりはめったにせず、きちんと考え抜かれた答えで私をとりこにした(私の理解力を越えていたのも多かったが)。
このように私は、しつこく尋ねて物事を知ろうとするように促されながら、生まれ育ったのである。(p19)
わたしの個人的な意見としては、たとえばモーシェ・フェルデンクライスの家系がそうであったように、サックスもまた遺伝的に非常に強い感受性をもつ家系の出だったのではないかと思います。
あふれる連想で書きつづける人
オリヴァー・サックスといえば、滋味に富む感受性豊かな文章を思い浮かべる人は少なくないでしょう。
わたし自身も、脳神経科医としてのオリヴァー・サックスよりも、作家としてのオリヴァー・サックスに親しみを感じます。
サックスが、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) で書いているように、彼の多数の著書は、もちろん彼の脳神経科医としての観察に基づいていますが、それを味わい深い物語へと昇華させているのは類まれなる作家性なのです。
アイヴィ・マッケンジーのことばのなかでは、医者と自然科学者は対照的なものとされているが、私は自分が自然科学者と医者の両方であると感じている。
病気と人々の両方に、おなじように関心をもっている。また適当でない言い方かもしれないが、私は理論をあつかう人間であり劇作家でもある、と思っている。(p9)
サックス自身、自分の作家としての側面をよくわかっていて、道程:オリヴァー・サックス自伝 の中で、繰り返し、自分のアイデンティティとしての「書く」行為に触れています。
私は書くという行為によって、というか書くという行為のなかで、自分の考えはこうだと悟るようだ。
…話の途中で本題からそれた考えや連想に襲われ、それが挿入語句になり、従属節になり、ひと段落分の文章になる。
…私はあふれ出る考えに夢中になり、心がはやってそれを正しい順番に並べられないことがある。(p236-237)
オリヴァー・サックスにとって、「書く」ことは、何にも代えがたい喜びであり、旺盛な創造力の源でした。悩んでいるとき、苦しいときには書くことによって自分を見つめなおし、生気を取り戻しました。
サックスが文章を紡ぐことにひときわ深い思い入れを持っているのは、もちろん、彼の脳の「とっぴな連想力」が関係しているのでしょう。
サックスは次から次に、さまざまな連想が頭に浮かび、思考があちらこちらへと冒険するので、書くことによって、それらを結び合わせ、つなぎ留め、ひとつにまとめることが必要なのです。
サックスは、書くアイデアがどのように浮かんでくるかについて、こう述べています。
いちばんの楽しみは穏やかな湖での水泳だった。
…アイデアやイメージ、ときには段落がまるごと、泳いでいるときに頭をよぎってくるので、しょっちゅう陸に上って、湖畔のピクニックテーブルに置いてあるメモ用紙に書きださなくてはならない。
体を拭いている時間などないという切迫感があって、濡れたまま大急ぎでメモ用紙に水滴をたらしながら書いていた。(p286)
このときの濡れてボロボロになったメモ用紙は、そのまま新しい本左足をとりもどすまで の原稿として送られ、編集者が苦労して、何が書かれているのかを解読したそうです。そのときの編集者はやがてサックスの助手になりました。
サックスは、おそらく才能を兼ね備えた稀有なタイプのハイパーグラフィア(異常に書きまくる人)であったと言って差し支えないでしょう。
サックスがどれほど文章を書くことを愛しているかを示すエピソードは、この本のそこかしこに登場します。
サックスは14歳から日記をつけていて、自伝を書いたころには1000冊にもなりました。夜に思いついたことや夢を書き留めるためにいつも枕元にノートを置いてあるそうです。(p460)
あるときは、ニーチェさながら、コンサートで音楽を聞きながら書きました。(p416)
怪我や病気に見舞われたときには、自分の体験を綴って本にしたので、仲間の患者から、「きみはラッキーなやつだよ。私たちはただ耐えているだけだが、きみはそれで本を書いているんだから」と言われました。(p272)
左足の大怪我を負ったときの体験を記した 左足をとりもどすまで (サックス・コレクション) は、わたし個人としてはサックスの本の中で一番の名著だと思っています。
またサックスの旅の日記の一部が本になったオアハカ日誌も、堅苦しくない自由気ままな文体が、彼のふだんの人柄を醸し出しているので大好きです。
サックスは分厚い本を書くために苦労することはありませんでした。むしろ、彼の本はすべて、あまりに長過ぎたので、編集者がひたすら削って、なんとか本に収まるようにしているといいます。
あるときは、記事は一つでいいのに、サックスが様々なバージョンを書きすぎて、第七稿まできあがる始末でした。(p236)
本が完成した後で、400を超える脚注を編集者に送りつけ、結局12個だけに削られたこともありました。(p241)
サックスが患者を診察するときに書いているカルテは、同僚からまるで小説のようだと言われるほどでした。(p463)
(レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) のp46,394や意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源 のp219では、フロイトらの時代のカルテはみなそのように濃密なものだったが、今日の医師はそうした描写力が失ってしまったと嘆いている)
ひたすら書いて書いて書きまくり、書きすぎるオリヴァー・サックス。
彼は道程:オリヴァー・サックス自伝 を書き終えてなおこう述べています。
私は生涯にわたって無数の言葉を紡いできたが、書くという行為は、70年近く前に始めたときと同じくらい新鮮で、そして楽しい。(p463)
「独創的な孤独癖」
オリヴァー・サックスの自伝を読めば読むほど不思議に思うのは、彼が非常に特殊な人生を送ってきたということです。
あるときはバイクで大陸を疾走するウルフ、あるときはウェイトリフティングで新記録を出したマッチョな男、しかしそれでいて、繊細な文章を紡ぐ作家であり、患者たちに愛された脳神経科医なのです。
この不思議な経歴を持つサックスは、自分の性格の一番の特徴についてこう述べています。
「自分のいちばんいいところ、少なくともいちばん独創的なところは孤独癖だとあえて信じている」(p316, 458)
孤独癖?
サックスほど人々に取り囲まれ、さまざまな不思議な症状を呈する患者の人生に寄り添い、多くの著名人と親交を深めていた人に、どうすれば「孤独癖」という言葉が当てはまるのでしょうか。
しかし、わたしたちがこれまでのサックスの著書を通して知っているのは、オリヴァー・サックスという人間のほんの一面にすぎません。
むしろ、どのようにして、感受性豊かなユニークな医師、オリヴァー・サックスが現われたかについて、過去の著書はほとんど何も述べていません。
サックスは、子どものころの自分について、「内気で、自信がなくて、臆病で、従順だった」と述べています。そのため、自分を強く見せようと、体を鍛えてマッチョを目指すこともありました。(p158)
サックスは、子どものころからずっと「人から愛されていないという思い込み」があるとも述べています。(p289)
サックスの両親はとても温かく尊敬できる人でした。しかし、幼少時に家族から引き離されて疎開したことや、兄のマイケルが統合失調症で、家庭内が緊張に包まれていたことから、愛着形成が不安定だったのかもしれません。
私と同じように第二次世界大戦中に疎開し、幼少期に家族と引き離された経験のある人たちの思い出を取り上げたラジオ番組を聴いたことがある。
インタビュアーは、そういう人たちが子ども時代のつらい衝撃的な日々にとてもうまく適応してきたことについてコメントした。
するとひとりの男性が言った。「そうですね。でも私はいまだに三つのBで苦労しています。ボンディング(心のふれあい)、ビロンギング(帰属意識)、ビリービング(信じること)です」。
私もある程度はそうだと思う。(p289)
幼いころに、親との愛着を育む機会が損なわれた人や、緊張した家庭で育った人は、「自分が愛されている」という安心感を持つのが難しくなりがちです。
子どものころの疎開体験については、タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で詳しく語られています。
それによると、疎開によって逃れた先のブレイフィールドの学校は劣悪な環境で、体罰やいじめがはびこっていました。
まだ右も左もわからない子どもたちは「何かわからないけれども悪いことをした罰として、こんな恐ろしい場所に放り込まれてしまった」と感じました。サックス自身、「突然両親に見捨てられて(私にはそう思えた)」「希望もよすがもないという思い」だったと回想しています。(p35,37,39)
本当は自分が悪いわけではないのに、自分のせいでこんな目に遭っていると誤認してしまうのは、虐待児の心境とよく似ています。
サックスはもともと「喧嘩っ早いごく普通の少年で、堂々とした態度ではっきり物を言っていたのに…引きこもって人と距離を置いているみたい」な性格に変容しました。また時おり奇妙で手に負えない行動を取るようにもなりました。(p84)
サックスは、自分が疎開体験以降に見せたこの奇妙な変容を、トラウマ障害と結びつけています。
当時はまだ「行動化」(抑圧された葛藤などが行動として表にあらわれること)という用語が生まれていなかったが、その概念は、私の学校から一マイルと離れていない場所にあったアンナ・フロイト(精神分析で有名なジグムント・フロイトの末娘で児童精神分析の創始者)のハムステッド・クリニックでたびたび話題にのぼっていた。
アンナは自分の診療所で、疎開によりトラウマを負った子どもが見せるさまざまな神経症的態度や非行を目にしていたのだ。(p87)
サックスのような、トラウマを負った子どもが見せる多彩で奇妙な症状は、以前はここに書かれているような児童精神分析の畑の心理的な問題だと思われていましたが、近年、生化学的方面から研究が進み、「発達性トラウマ障害」という概念が提唱されています。
サックスが若い時期振り回された複雑な性格や衝動性、生死の境をさまようほどに追い詰められた無謀さなどは、発達性トラウマを抱える人たちの特徴と極めて一致しています。
サックスが若い時期に、身体を壊すほど強迫的にウェイトリフティングに打ち込んだのも、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の説明からすれば、幼少期のトラウマの影響だったように思えます。
児童期にカトリックの神父から受けた性的虐待に関して私が面接した男性の大半は、アナボリック(筋肉増強剤の一種)を使用し、ジムでのウェイトトレーニングに法外な時間を費やしていた。
たくましい肉体を追い求めずにいられないこうした男性たちは、汗とアメリカンフットボールとビールの男性文化に生きており、そこでは、弱さや恐れは慎重に隠されていた。(p465)
サックスは自伝 の中で、ウェイトリフティングに強迫的に打ち込んだころのことをこう振り返っています。
なぜ、あんなにひたむきにウェイトリフティングに打ち込んだのだろうと、考えることがある。その動機はありがちなことだったと思う。
私はボディービルの広告に出てくるやせぽっちの弱虫ではなかったが、内気で、自信がなくて、臆病で、従順だった。
…私たちはウェイトリフティングで壊れかけた互いの体を見あった。
「おれたち、なんてばかだったんだろう」とデイヴが言った。私はうなずいて同意した。(p158)
彼の「独創的な孤独癖」もまた、もともとの才能もあったのでしょうが、疎開体験のトラウマによって代償的に身についた後天的な能力だったように思われます。
彼がタングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) の中で話すところによると、疎開先の悪夢のようなブレイフィールドの学校が閉鎖された後、セント・ローレンス・カレッジに移籍しましたが、「そこで過ごした時期の記憶は、不思議なことにわずかしかな」く、抑圧されているのかもしれないと書いています。(p48)
そのころのサックスは、突拍子もない空想癖と虚言癖が出ていて、現実と空想の境目がわからないほどだったようです。
私はキブリングの『ジャングル・ブック』を読んでほとんど暗記してしまっていたので、その話をたっぷり拝借して自分の「思い出」をでっち上げた。
私を囲む九歳の少年たちは、あっけにとられた顔で、黒ヒョウのバギーラや、森の掟を教えてくれたおじいさんのバルー、一緒に川を泳いだヘビのカー、ジャングルの王で1000歳にもなるハーティの話を聞いていた。
このころの私を思い返すと、心のなかが白昼夢や作り話でいっぱいで、ときどき現実と空想の境目もよくわからなくなっていた気がする。(p49)
別の本、色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)では、自分の子ども時代について、次のようにも書いています。
私は感受性が強く、他の人の想像の産物を苦もなく自分のものにすることができた。(p24)
こうした感受性の強さは、ある程度は生まれつきの性格だったのでしょう。
しかし、記憶の欠落や、アイデンティティの混乱、空想傾向は、発達性トラウマの子どもによくみられる解離症状で、ときおり大人になってから多面的に思考するという作家の才能に寄与することもあります。
別の記事でエピソードをまとめていますが、サックスは明らかに、幼少期に辛い経験をした人特有の解離傾向を持っていました。
2度にわたり命の危機に直面したときは、感覚が麻痺したり傍観者の視点になったりするのを経験していますし、孤独だった子ども時代にはイマジナリーコンパニオンに似た幻想を経験しています。
さらにサックスは、おそらくは生まれ持ったユニークさと、後天的なトラウマの影響が重なり合って身についたと思われる、さまざまなマイノリティ傾向のために、よりいっそう孤独感を味わいました。
その中には例えば、はっきりした同性愛の傾向を持っていたことがあります。
道程:オリヴァー・サックス自伝 では、何度も他の男性に惹かれたエピソードが登場しますが、たいていは拒絶され、孤独と失意を味わいました。しかも家族もその気持ちを理解してくれませんでした。
またサックスは相貌失認、つまり人の顔がほとんど見分けられない人でした。(p157 291)
そのことは、別の著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界 にも書いてあり、このブログの過去の記事でも取り上げました。相貌失認の人は、知り合いの顔がわからないので、気後れし、失態を恐れ、内向的になってしまうことがあります。
相貌失認の原因はさまざまですが、サックスは自身の母親も相貌失認だったと述べていることから遺伝の影響が強かったのでしょう。
しかし幼少期のトラウマ経験が脳の顔認識領域(紡錘状回)を萎縮させることも知られているので、もともとの遺伝的な傾向に、幼少期の体験が加わることで、家族以外の顔が見分けられないほどの相貌失認になってしまったのかもしれません。
さらに、人と興味の対象が違うという問題もありました。
政治にしろ、社会にしろ、性的なことにしろ、時事的なことがらをほとんど知らないし、ほとんど興味がない。
…しかしパーティか何かで、火山とかクラゲとか重力波とか、同じ(たいていは科学的な)ことに興味をもつ人を見かけると、たちまち活発な会話に引き込まれる。(p291)
あるときなど、ゲイバーに行って、まわりの人が卑猥な話にふける中、一人 分光器でスペクトルを観察して興奮していたそうです。
サックスは、子ども時代から、数や化学に興味をひかれ、家に実験室を作ってこもっているような、独特な子どもでした。
タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) では、そのようになった理由について、親族に化学について熱く語ってくれるデイヴおじさん(通称「タングステンおじさん」)がいたこと、また疎開体験で人を信頼できなくなり、無機物に拠り所を見いだしたことを挙げています。(p16,43)
そして何より、サックスは、長所と短所が非常にはっきりした人でした。先ほど引用した部分では、正誤テストは苦手で、小論文なら得意だと述べていましたが、それどころではありません。
道程:オリヴァー・サックス自伝 のエピソードによると、医師として、病気の基礎研究をしているときは、9ヶ月分の研究資料をバイクから高速道路にぶちまけて回収できなくなったり、10ヶ月もかけて抽出した試料を間違ってゴミ箱に捨てたりしました。(p178)
そのときのことをサックスはこう振り返ります。
私の才能を否定する人はいなかったが、私の欠点を否定できる人もいなかった。やさしく、だがきっぱりと、上司は私に告げた。
「サックス、きみは研究室の脅威になる。患者を診療したらどうだろう。そのほうが害がないから」(p178)
サックスに飛び抜けた才能があるのは明らかでしたが、その分飛び抜けた欠点もあり、失敗を繰り返し、ほとんどまともな仕事ができなかったのです。
サックスは、自分が「やりすぎる」性格で、自制心がなく、用心深さが欠けていることも述べています。(p28,172,348)
そういえば、後年になってからも、火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者には、突然、山の中の水場で泳ごうとして、同行していた冷静なアスペルガー症候群のテンプル・グランディンに止められ、九死に一生を得た、なんてエピソードもありました。
公園を出たところで、誘いかけるような広い水面が見えた。わたしは車を停めてくれと頼み、衝動的にそちらへ向かった。湖では泳げなかったが、ここで泳いでやろう。
テンプルが「やめて!」と叫んで指さしたとき、ようやくわたしは闇雲に下りるのをやめて見渡した。
目の前には静かな水面、わたしの「湖」が広がっていたが、数メートル左手でいきなり流れが速くなり、四、五百メートル先の水力発電所のダムに向かって恐ろしい勢いで流れていた。
…彼女はあとで友人のロザリーに電話をして、わたしの命を救ったと言ったという。(p396)
「おまえこそ、その人物だ!」
こうした挫折から、サックスは30歳ごろの時期、薬物に現実逃避するようになり、一時は、かなり危険な薬物中毒者にまで身を落としました。
見てしまう人びと:幻覚の脳科学 によると、アサガオの種の幻覚物質LSA中毒になってカプグラ症候群のような症状を経験したり、抱水クロラールの離脱症状の振戦せん妄で96時間も幻覚を見続けたこともありました。
人の愛情を実感できない不安定な愛着、理解されない同性愛、知人の顔すらわからない相貌失認、人と違う興味、そして不注意傾向による度重なる失敗。
これだけさまざまな要素が積み重なれば、「孤独癖」になるのも当然です。
しかしサックスは、薬物中毒者として孤独な死を迎えることはありませんでした。
サックスが抱えたこれらの生きづらさは、サックスの中に、傷つきやすくも強い感受性や、人の痛みに共感する力を育みました。
そして周囲の人から受け入れてもらえない孤独さが、かえって物思いにふけり、じっくり考える機会をもたらし、独創性を生み出しました。
サックスは、若い時期に、人と違いすぎる自分の特性に振り回され、どん底まで落ちましたが、30代も半ばになって、ようやく、どうすれば自分の強みを発揮できるのかを理解しはじめます。
サックスがどん底から這い上がる契機になったのは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学 によると、アンフェタミン中毒のもうろうとした頭で、エドワード・リヴィングによる偏頭痛の本を読んだことでした。
サックスは、自分が偏頭痛持ちだったこともあってその本を読み始めましたが、あまたの医者の無味乾燥な医学論文とはまったく違う人間味あふれる書き方に深く感動しました。そして、こう考えました。
しかし、リヴィングがロンドンで研究し執筆してから、一世紀が過ぎていた。自分がリヴィングや彼と同年代の人の一人であるという夢から覚めると、私は正気に戻り、こう自分に言った。
いまは1860年代ではなくて1960年代だ。この時代のリヴィングになれるのは誰だ?
私の頭のなかで見かけだけは誠実そうな名前ががやがやと自己主張する。私はA博士、B博士、C博士、D博士を思いついた。みんな優秀だが、リヴィングのように科学と人間主義を併せ持ち、それゆえに大きな力を発揮した人はいない。
そのとき、轟きわたるような内なる声が言った。
「ばか野郎! おまえこそ、その人物だ!」(p144)
かくしてサックスは、薬物をきっぱりやめて、自分の本サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)を書き始めました。本を書く喜びは、アンフェタミンの躁状態よりはるかにリアルで満足感をもたらすことを知りました。
そして40歳の誕生日の少し前に、あのレナードの朝を出版し、ついに、わたしたちが良く知る、不世出のユニークな作家、オリヴァー・サックスとしての道を歩み始めたのです。
友を大切にした筆まめな人
苦労の末に自分の独特な才能を理解したオリヴァー・サックスは、やがて、友を大切にする筆まめな人としても知られるようになりました。
彼の本には、読者から大量の手紙がよせられました。(p315)
郵便局の職員はこんなことを言っていたそうです。
彼らが言うには、思い出せるかぎり、これほど多くの手紙を送ったり受け取ったりする人はいなかったそうで、『帽子』が出版されたときにはその数がさらに一桁増えた(p350)
サックスは単に手紙を受け取るだけでなく、非常に大勢の患者たちと定期的に文通していました。書いた手紙のコピーも、すべて取っていました。(p461)
サックスが知り合ったのは患者たちだけではありません。詩人トム・ガン、心理学者アレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤ、進化生物学者スティーブン・ジェイ・グールド、科学者フランシス・クリックなど、さまざまな友との出会いや交流についても書かれています。
サックスは、とても独特な人だったので、身近な場所には、友としてやっていけるような人がほとんどおらず、理解されず孤独に苛まれました。
しかし本を出版すると、サックスの人柄は、これまで関わったこともないような大勢の人たちの目に触れることになりました。
さまざまな場所に散在する、サックスと同じ感性を持つ独特な人たちがサックスのことを知り、ぜひ交流を深めたいと連絡してきました。
こうしてサックスは、日常生活を送る範囲では「独創的な孤独癖」を貫きつつも、同時に世界中にたくさんの友人を持つ不思議な人になりました。
サックスはそうして知り合った独特な友人たちが、いかに稀有な存在であるかよく知っていたので、筆まめに手紙を書いて連絡を取り合い、友をとても大切にしたのです。
患者一人ひとりに寄り添う感受性
作家オリヴァー・サックスについて考えるとき、彼が、とても魅力的な感受性にあふれる脳神経科医だった、という点を抜きにして語ることはできません。
多くの人たちがサックスの人柄に惹かれ、彼との友情を大切にしたのは、サックスの文章からにじみ出る深い共感力と、細やかな感受性に心を揺さぶられたからでした。
サックスは、幼少期の疎開体験のせいで傷つき、数学や化学の無機質な世界に逃避しましたが、それでもずっと、タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) によると、「人間的な」物語が大好きでした。
私は元素とその発見についての話を読むのが好きだった。化学的な面だけでなく、発見に挑んだ人間的な側面にも興味があり、そうしたすべてを、いやそれ以上のことを、戦争の直前に出版されたメアリー・エルヴァイラ・ウィークスの素晴らしい本『元素発見の歴史』で学んだ。
この本を読んで、多くの化学者の生きざまが―また実に多彩で、ときには奇異でさえあった彼らの性格が―手にとるようによくわかった。
昔の化学者たちの手紙も引用されており、その手紙には、手探りを続けながら発見にたどり着くまでの一喜一憂がありありと語られていた―ときに道を見失い、袋小路にはまりながらも、ついには目標に到達した過程が。(p94)
傷ついた心で家の実験室に引きこもっていたときでさえ、サックスは人間に対する興味を失っていませんでした。そのころ読んだ化学者たちの物語は、のちに医師として作家として人々の物語を描くときの支えになりました。
サックスはまた、エリートコースを歩んだ医師ではありませんでした。道程:オリヴァー・サックス自伝 で彼は、医者の家系に生まれ、医師としての資格は取ったものの、患者の心に寄り添わない医療の傲慢さを見て、何度も失望したことを述べています。
施設で患者がネグレクトされていたり、医療従事者のストライキで患者が必要な世話を受けられず衰弱したり、医師同士の反目で貴重な研究が潰されたり、患者に寄り添う医療より効率を求めたりすることが医療界のあちこちで行われていました。(p135、193,223,265,276,397)
しかし、サックスの信念は、医師は患者の表面に現われた症状だけでなく、患者の生活史全体を知る必要があるということでした。
ある医師が、自分の診た患者の数を自慢したとき、サックスはなんと言ったでしょうか。
「なんだよ、オリヴァー。私は300人だ」
「ええ、でも私は患者それぞれについて先生より100倍たくさんのことを知っています」(p257)
妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) の中でも、自閉症の双子の兄弟に関する研究について、次のような意見を語っています。
しかしこれはまちがっている、と私は思う。
二人のことが正しく理解されていないのは無理もない。研究者たちは紋切型の考えから抜けきれなかったし、お決まりの質問をあびせ、ひとつのことしか頭になかったのだから無理もない。
そうやって彼らは、この二人のことを―二人の心理を、方法を、生き方を―理解も評価もせず、つまらないものとして一蹴してしまったのである。
…双子をテストするなどという考えを捨て、彼らを研究の「対象」と見ることをやめないかぎり、深い奥底に何かあることに気がつくはずはないのである。
われわれは、彼らを枠にはめたり、テストしようとする気持を捨てなければならない。そして、ただひたすらこの双子を知ろうとつとめなければならない。(p349-350)
「私は患者それぞれについて先生より100倍たくさんのことを知っています」そして、「ただひたすらこの双子を知ろうとつとめなければならない」。
サックスがそのような価値観を持っていたのは、同じく医師だった父の手本を意識してのことでした。
自伝 によると、サックスの父は、「人間に対する強い関心」を持ち、「患者の体のなかだけでなく、患者の冷蔵庫のなかも熟知しているというのがもっぱらの評判」で、「患者にとっての医者であるだけではなく友人であることも多かった」 そうです(p381-382)
サックスは医師としての自分の信念について、こう述べています。
次々と連続して診ることは必要である―どんな一般化も複数の事例に取り組むことで可能になる―が、具体性、個別性、人間性も必要であり、どんな神経疾患も、患者一人ひとりの生活を理解して記述せずには、その本質と影響を伝えることはできない。(p257)
左足をとりもどすまで (サックス・コレクション) の中では、さらに自身が患者側になった経験を通して、貴重な教訓を得たことを記しています。
医者たち、すくなくとも急性の患者をあつかう病院の医者のなかには、患者は何もわかっていないと思っている者もいるらしい。
しかし、「何もわかっていない」人間などいるはずがない。自分でそう思う者は別として。
慢性病専門の病棟で働いていると、おなじように患者たちを診ていても、彼らをより尊敬するようになる。彼らは人間としての基本的な知恵のほかに特別な「心の知恵」をもっているからである。
「兄弟たち」ー同僚の患者たちではなく、仲間の患者たちーとの最初の朝食の席で、そしてホーム滞在をとおしてわかったことは、ほんとうに患者を理解するためには、自分自身で患者になり、しかも患者たちとすごしてみなくてはならないということだ。
患者の孤独を体験し、同時に患者という共同体の一員になってみなくてはならない。彼らの複雑で奥深い感情、悲しみ、怒り、勇気、そういったさまざまな心模様を理解するためには、患者になってみなくてはならないのだ、(p210)
だからこそ、サックスは、あれほどまでに、患者の考えを詳細に聞き取り、患者の気持ちに感情移入し、患者の観点に立ち、彼らを病人ではなく、一人の人間として書き綴ることができたのでしょう。
自伝を読んで思うのは、そうしたサックスの感性の大部分は天性の才能ではなく、むしろ、40歳までに経験したさまざまな苦労によって形作られた後天的な才能なのだろう、ということです。
サックスは自伝 の中で、「レナードの朝」を出版した40歳ごろ、親友でもあった詩人のトム・ガンからもらったメッセージを回想しています。
きみはとても有能だけれど、ひとつの資質に欠けていると思った。いちばん大切な資質で、思いやりというか、共感というか、そういうものだ。
そして率直に言って、そのような資質は教わることができないものだとわかっていたので、きみが優秀な作家になることはあきらめていた。
……共感の欠如がきみの観察力の限界になっていたのだ。
……私は知らなかったが、共感力の伸びは30代まで先延ばしになる場合も多い。以前の文章に欠けていたものが、この『レナードの朝』では最高のまとめ役になっていて、すばらしいす仕事をしている。(p339)
わたしたちがよく知っている、温かみのある、共感性に富んだ作家オリヴァー・サックスの姿は、明らかに生来のものではなかったのです。
確かにサックスは、共感力に富んだ父親の血を継いでいました。けれども、幼少期に親と引き離され、過酷すぎる疎開生活で心を閉ざし、愛着の傷つきを抱えました。言うまでもなく、そうした子どもは人に共感するのが難しくなります。
トム・ガンと出会ったときのサックスは、共感や思いやりという「いちばん大切な資質」が欠けていて、トム・ガンはサックスの観察力や才能に限界を感じざるをえませんでした。
事実、サックス自身も、のちに18歳のころに書いた論文を見つけたとき、「その雄弁さ、博識さ、仰々しさ、尊大さ」に驚き、自分が書いたとは思えないと述べています。若いころのサックスは、「とても有能だけれど、ひとつの資質に欠けている」青年だったのです。(p38)
ところがサックスはそれで終わりませんでした。彼は子ども時代に得られなかった共感力を30代になってから身に着けました。
それどころか、その「いちばん大切な資質」をぐんぐん成長させ、だれも比肩し得ないほど、こまやかで繊細な人柄へと成長しました。?
これは、ピクサーのエド・キャットムルが、 ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法の中で、親友のスティーブ・ジョブズについて語っていることともよく似ています。
やはりサックスと同じように幼少期に親と引き離され、愛着の傷つきを負ったと思われるスティーブ・ジョブズは、子どものころから多動で衝動的で、青年期には融通性が利かず共感性も乏しく、高圧的に他人をコントロールすることがありました。(p85)
ジョブズもサックスも、子ども時代に ごく普通の共感力を育めませんでした。しかし、トム・ガンが語ったとおり、「共感力の伸びは30代まで先延ばしになる場合」もあることを教えてくれる稀有な例です。
その時期に何があったかは、この記事で見てきたとおりです。
サックスは、自分自身が偏頭痛や相貌失認といった特殊な神経系の問題に悩んでいたので、患者一人ひとりが独特な経験のため苦しんでいることをよく理解し、感情移入するようになりました。
同性愛のために、セクシャルマイノリティの立場にあり、世間や家族から疎まれたので、周囲からさげすまれる少数者の苦悩も身を持って経験していました。
薬物中毒者に身を落とした経験から、何もかもうまくいかなくなって、危険な誘惑におぼれてしまう人たちの絶望も味わっていました。
そして、そうしたさまざまな経験の積み重ねがあったからこそ、今の医師としての自分が存在するようになったこともよく知っていました。
自分自身が過去のさまざまな独特の経験の上に存在しているのですから、診察室で患者を診るときも、やはり表面的な訴えを聞くだけでは不十分で、その人の生活史全体を知らなければならない、と感じたのかもしれません。
たとえ同じ病名がついているとしても、すべての人に、一人ひとり異なる多様性があると考えました。だからこそマニュアル的対応をしたりせず、一人ひとりの話をよく聞き、病気ではなく、その人自身を理解しようと努めました。
サックスは、人の心に深い関心を寄せていて、人間の脳は、コンピューターのような画一的なものではないと思っていました。
むしろ温かい血の通った生き生きとした個性的なもの、一つとして同じものがない多様なものとみなし、その豊かな世界を世の中に知らしめるべく筆を執ったのです。(p440)
オリヴァー・サックスの道程のように
道程:オリヴァー・サックス自伝 を読み終えたときに、わたしが感じたのは言いようがない寂しさでした。
夢中で読みふけり、サックスの人生をまるで自分の体験のように味わっていたところで、いつの間にか、そこが最後のページだと気づき、愕然としました。
まだまだもっと読んでいたかった。もっと、サックスの文章を味わいたかった。それぞれの出来事やエピソードについて、さらに詳しい話を聞きたかった。そう思いました。
おそらくは過去のさまざまな本と同様、この自伝も、本来オリヴァー・サックスが用意した原稿が長すぎて、ひたすら削られて圧縮された本なのかもしれません。
もしできるなら、たとえあと7倍の分量があるとしても、校訂前の原稿を読んで、サックスの豊かな連想に導かれた思考の軌跡を辿ってみたかったと感じるほどでした。
わたしは、サックスほどの才能に恵まれているわけではありませんが、ある程度は、サックスと似たところがあるとと思います。相手は天才的な著名人なので、そう言うのはとてもおこがましいのですが、それでも、やはり親しみを感じるからこそ、この本はとても励みになりました。
わたしも文章を書くのが大好きですし、細かい点に注目するのは苦手で、連想するのが得意です。相貌失認ですし、愛着が不安定ですし、普通の人とはかなり異なるアイデンティティを持っています。学生時代の文章は仰々しくて尊大なので、恥ずかしくて読めません。
だからこそ、サックスの自伝を読むと、とても元気づけられます。
サックスの人生の記録は、周囲の大半の人と異なる性質を持つ独特な人はとても苦労することを示しています。しかし、同時に、自分の道筋を探し求め、それをひとたび見つけたなら、長所を活かしていくことができるというということも物語っています。
サックスの生涯から勇気づけられてきたのは、きっとわたしだけではないでしょう。わたしがこれまで読んできた本の中で、さまざまな著者たちが、サックスの人柄に触れていました。
たとえば作家の陥るスランプ(ライターズ・ブロック)について書いたアリス・フラハティは書きたがる脳 言語と創造性の科学 でサックスのこんなエピソードに触れていたり。
ライターズ・ブロックが失書とはあまり関係がないというもう一つの根拠は、質は落ちるにしても以前より執筆量が増えるというライターズ・ブロックがあることだ。
オリヴァー・サックスは「タングステンおじさん」を書いているとき、10万語の本を書くのに200万語を書いては消したという苦しい体験を語っている。
この種の「執筆量の多いライターズ・ブロック」には、執筆量が減るライターズ・ブロックとはべつの対応が必要だろう。(p115)
自然の癒やし効果の脳科学的側面について書かれたNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方 の著者フローレンス・ウィリアムズもこんなことを書いていたり。
それにオリヴァー・サックスがノルウェーで牡牛に追いかけられ、切り立った崖から転落して足に重傷を負ったあと、療養中に綴ったエッセイも読んだ
(著述家というものが例外なくこれほど刺激的な人生を送っているわけではない)。(p147-148)
みんな普通とあまりに違うオリヴァー・サックスの人柄が大好きなのがひしひし伝わってきます。
ツッコミどころがありすぎるユニーク過ぎる人、でもそれこそが人間らしさの本質だということを、サックスは著書のみならず生き方すべてを通して教えてくれたのです。
オリヴァー・サックスが、自伝を書くにあたり、親友トム・ガンの詩のタイトルを借りて、「On the Move」 (邦題は「道程」)という題名を冠したのは、とても適切に思えます。
オリヴァー・サックスの道程、そして旅程は、めくるめく忙しく移り変わるユニークな旅路で、彼自身の、彼だけの、彼にしか歩めない道筋でした。
彼は苦悩の末に、自分だけの道程を見つけたからこそ、生来の大きな欠点よりも、あふれでる長所のほうを発揮できるようになりました。
死後に発売されたにサックス先生、最後の言葉によると、サックスは、末期がんで余命半年だと告げられたとき、自分の道程が終わりに近づいたことを知り、「我が人生」と名づけた短いエッセイの中でこう書きました。
怖くないふりをすることはできない。しかし、いちばん強く感じるのは、感謝だ。
私は愛し、愛され、たくさんもらい、少しお返しした。読み、旅し、考え、書いた。世人と交わり、とくに作家や読者と交わった。
何より、私はこの美しい惑星に住む、ものごとを感じ取ることのできる生きものであり、考える動物である。
そのこと自体が、とほうもない特権であり、冒険なのだ。(p32)
わたしも、サックスの道程を思いに留めて、―けれども彼の道筋をたどるのではなく、むしろ彼がそうしたように自分だけの道筋を見つけて、次から次へ風景が移り変わる魅力的な旅路を楽しんでいきたいと思いました。
サックス先生、これまで数々の味わい深い物語とエッセイをありがとうございました。