慢性疲労症候群(CFS)のような重い障害に面して、希望を失ってしまう人は多くいます。一生涯、この不自由な体で生きていくしかないのでしょうか。もはや喜びを取り戻すことはできないのでしょうか。
今回紹介するオリヴァー・サックス医師の著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界は、障害を持つ人が喜びを取り戻す二通りの未来をかいま見させてくれます。病気の種類は異なりますが、サックスが記す目の障害を持つ人たちのストーリーは、わたしたちCFS患者にも希望を与えてくれます。
もくじ
これはどんな本?
この本は、目と脳の不思議な関係をつづった医学エッセイです。
著者のオリヴァー・サックス医師は、パーキンソン病の認識を世の中に広めた映画の原作レナードの朝 (サックス・コレクション)やサヴァン症候群について明らかにした妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など、自分が診た患者についての生き生きとしたエッセイを書いています。
サックスのエッセイは基本的に患者への親しみや温かさが込められたものです。しかし、今挙げた両書籍は、それぞれの患者から批判されることも多く、彼が結局のところ患者の視点ではなく、医師の視点で書いていて、イメージを固定化させてしまっているとも言われます。
その点、この本は斬新です。サックス自身が癌による片目の失明を経験し、患者と同じ立場になった後に書いた本だからです。 彼はこう述べています。
『私はこの病院を訪問するとき、…「かわいそうに」と、そこを歩く人たちを見て思ったものだ。今や私自身がその道を通る』。彼の実体験を交えて書かれたこの本からは、臨場感と切実さが伝わってきます。(p177)
なぜこの本を手にとったか?
この本を手にとったのは、慢性疲労症候群(CFS)の患者として失読症や失語症について興味があったからです。それについては別のエントリでまとめています。
この本はまた、人体の可能性についての洞察を与え、病気のもとでも喜びを取り戻すという希望を持たせてくれます。序文にはこう書かれています。
そのような経験を知ることで、想像力が豊かになり、ふだん健康の中に隠れているもの、すなわち脳の複雑な働きと、障害に適応し打ち勝つ驚異的な脳の能力を理解できる―もちろん、他人には想像もつかないような神経学的難題に直面したとき、個々人が見せられる勇気と強さ、そして発揮できる力量も。(p9)
慢性疲労症候群(CFS)もまた、彼の言うところの「他人には想像もつかないような神経学的難題」といえるでしょう。この本に登場する人たちは、難題にどのように対処したのでしょうか。そしてどのようにして喜びを取り戻すことができたのでしょうか
1つ目の可能性ー医学の進歩によって治療される
難病の患者が喜びを取り戻す1つ目の可能性は、医学の進歩によって、病気が治るようになる、ということです。
わたしたち慢性疲労症候群(CFS)の患者も、病気が治る日を心待ちにしています。しかし、もはや健康なころのことを覚えていないので、治った時にどう感じるか、実感がわかないかもしれません。その喜びを想像するのに、スー・バリーの経験談を見てみましょう。
想像を超えた喜びを手にした人
スー・バリーは生まれたばかりころに斜視になり、立体視を失いました。立体感のない世界が当たり前、それが普通という人生を送っていました。サックスが「立体視覚で見たら世界はどんなふうに見えるか想像できるか」と尋ねたとき、彼女はこともなげに「できる」と答えました。
しかし9年後、医学が進歩して、立体視を取り戻したスーはびっくりしました。
車に戻って、ふとハンドルに目をやりました。するとそれがダッシュボードから「飛び出した」のです。…ものすごくうれしい。…自分には何が欠けているのか、私には分かっていなかったのです。…普通のものが普通でなく見えました。…少し混乱しました。…世界が本当に違うふうに見えるんです。(p151)
スーは、立体視覚がどんなものか想像できる、と述べていましたが、それは彼女の想像を超えていました。不自由な状態があまりにも日常化していたため、ごくごく当たり前の能力のすばらしさが、もはやわからなくなっていたのです。
スーは「ほぼ三年たってもなお、新たな視覚のおかげで、私は驚きと喜びを感じます」と感動を述べています。(p164)
わたしの体験から
慢性疲労症候群に長い間かかっていると、本来健康な自分とはどういうものか忘れてしまいます。CFSの日常が普通になって、健康な状態がどのようなものか、想像することさえかないません。だれにとってもこれくらいの体調は普通で、自分は特別怠けているのだろうかと思ってしまう時もあります。
ところが、わたしはかつてほんの数日だけCFSが治ったことがあります。発症から1年と少したったころ、ある朝、体が不思議なほど軽いのを感じました。まるで浮いているかのような違和感を感じます。頭はすっきりしてまとわりつく何かが剥がされたかのようです。
しばし混乱した後、わたしは自分が以前の健康な状態を取り戻したことに気づきました。そして、もはや当たり前になりつつあったCFSの“体の重さ”がどれだけ異常なものだったのかよく分かりました。
残念なことにわたしは、数日間おとぎ話のようなファンタジックな世界に迷い込んだ後、認めがたい現実へと帰ってくることになりました。
今となっては信じがたく思えますが、パーキンソン病のマイケル・J・フォックスも書籍贈る言葉――未来へ踏みだす君に、伝えたいことの中で似たような体験談を書いていますし、わたしが尊敬していた原爆症の方も、ほんの一日だけ元気になって小躍りしたという話をよく聞かせてくれました。
小児慢性疲労症候群(CCFS)の研究者の三池輝久先生も、不登校外来―眠育から不登校病態を理解するのp135で、CFSは病的な状態ゆえに、急に発病することもあれば、急に回復することもありえるというようなことを書いておられます。
CFSの体調は決して当たり前のものでもなければ、自分だけが怠けているわけでもありません。医学の進歩により治るときが来れば、わたしたちは思いを超える喜びを感じるはずです。すっかり忘れていた当たり前の健康に驚くに違いありません。
慢性疲労症候群(CFS)のもとでも、回復するという希望を決して失わず、やがて喜びを取り戻す日のことを生き生きと思い描いておくことは、とても大切なのです。
2つ目の可能性ー病のもとでも喜びを取り戻す
では、治療法が見つかるまでの間は、悲しみに打ちひしがれるしかないのでしょうか。そうではありません。本書の後半では、視力を失った人たちが、新たな生活にさまざまに適応して喜びを見出している姿が書かれています。
より大胆になり、自信を深めた人
イギリスの宗教学の教授ジョン・ハルは、48歳のとき失明して絶望しました。回想記「光と闇を超えて」の中で、彼は見るという概念そのものを失ったことを書いています。
しかし彼はやがて「全身で見る人」になり、目が見えていたときには経験したことがないほど、自然への親近感を覚えるようになりました。脳の視覚野の一部が音や触感に再割り当てされ、知的にも精神的にもより大胆になり、自信を深めたのです。(p233-236)
新しい考え方を身につけた人
ハルとは対照的に、心理学者ゾルターン・トレイは、21歳で失明したとき、視覚から別の感覚に切り替えることをかたくなに拒みました。そして、心のなかでイメージを描き、保持し、操る卓越した能力を身につけました。
彼は暗闇の中でひとりで家の屋根に登って、雨どいを変えることさえできました。新たに強化されたイメージ力のおかげで、前にはできなかった考え方ができるようになり、新しいモデルやデザインを思い描けるようになりました。(p238-24)
喜びを取り戻すことは可能
もちろん、失明にしても慢性疲労症候群(CFS)にしても、深刻な症状を伴うので、絶望するのは当然です。簡単に乗り越えられると主張することはわたしにはできません。
しかし慢性疲労症候群(CFS)になって、何年、あるいは何十年と苦悩した後に、より深く考える人になり、卓越した辛抱強さを身につけ、何事にも動じない強さを身につけた人を、わたしは知っています。また、身の回りの人や物への感謝の気持ちを深め、かえって笑顔が増えた人もいます。
どんな方法にせよ、絶望的な経験を乗り越えて、充実した想像力や新しいアイデンティティを培うことは可能だとサックスは述べています。「脳は感覚遮断に反応して劇的な変化を遂げる能力を失わない」のです。(p237)
人の適応力は未知数
この本は、オリヴァー・サックスの明確な結論をもって締められるわけではありません。むしろ、「ここには私の解明できない矛盾があるー実におもしろい矛盾だ」という驚嘆の言葉で終わります。
長年、脳神経科医として研究してきた医師でさえ理解しがたいほど、人間の脳にはさまざまな困難に適応し、希望と喜びを見出し、自分を取り戻すことができる可能性が秘められているのです。
地平線に向かって歩いて行くと、一見、そこが世界の端であるかのように錯覚するかもしれません。しかしなおも歩き続ければ、地の果てなどどこにもなく、どこまでも広がる新しい世界が待っています。
慢性疲労症候群(CFS)になって深い絶望に見舞われても、そこが人生の終着点とは限りません。勇気を奮い起こし、さらに歩き続けるなら、絶望の先に、新しい可能性を見つけることができるのではないでしょうか。心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界を読んでそう感じました。